「……暑い」  
 
照明の落ちた寝室は、熱帯夜の呼び名に相応しい熱気に支配されていた。  
日が落ちてから既に五、六時間は経っただろうか。そろそろ日中の陽の名残が消えてもよさそうなものなのに、未だ夜風の吹く気配すらない。  
 
「……暑い」  
ベッドの上で部屋の主――ニアは再度力なく呟き、じわりと汗ばんだ額に張り付いた前髪を払った。  
このときばかりは自分の髪質と毛量を疎ましく思う。  
七年前のようにいっそばっさり切ってしまおうかとすら考えてしまうくらいだ。  
普段はきちんとした寝巻を着ているのだが、今日ばかりはキャミソールに薄手のショートパンツという  
ニアとしては少々大胆な出で立ちでベッドに横たわっている。が、それでも到底凌げそうにない暑さだった。  
もそりと寝返りを打とうとして――ニアは小さくため息をついた。  
この暑さにも負けずにニアの背中にへばりついて腕を回す男が、それを許してくれない。  
 
「シモン」  
暑さでふらふらする頭を上げて力なく呼びかけると、シモンは半ば虚ろな目で応えた。  
鼻の頭の汗の粒を見る限り、人並みにこの暑さには参っているらしい。  
 
「シモン、腕をどけて」  
「ニア……クーラーつけよう」  
背後からニアの肩に顔を埋めるようにして、シモンはさすがに暑さに参ったのか弱々しく呟いた。  
吐息が当たってくすぐったい――と普段のニアなら言うところだが、今はただただ暑苦しい。愛しい男でも暑苦しい。  
ニアの身体に回された二本の腕も、むき出しの白い太ももとすねに妙に絡んでくる脚もただただ鬱陶しい。  
他の意図を感じ取る余裕などない。断じてない。  
 
「クーラー?」  
「うん」  
「……やだ」  
「何でー……」  
提案を却下され、シモンは絶望の声を上げた。  
「だって冷房の風、苦手なんだもの……」  
 
螺旋王によって管理された城で十余年を過ごしたニアが、意外にも空調の風が苦手であることを自覚したのは少し前のことだった。  
地上に身体が馴染んだから苦手になったのか、無自覚に苦手だったものを地上に降りたことで  
初めて自覚したのかはわからないが、それはどちらでもいい。  
あまり風に当たりすぎると体調を崩すこともあるため、自宅では極力空調のスイッチは入れないようにしているのだ。  
そのことはシモンも了解しているはずだが、今日はよほど耐えかねたのだろう。  
 
シモンは交渉の間もニアを背後から抱きしめ続け、汗ばむ髪に頬をすり寄せてすらいる。  
「シモン、そんなに私にくっつかなければ、少しは涼しくなるんじゃない……?」  
クーラーをつけるのを渋るのは、シモンが「暑い暑い」と言うにも関わらず、ニアにくっついて  
離れないのが少々癪に障るということもあった。  
そうでなければ、ニアも妙な意地を張らずに早々にリモコンに手を伸ばしていたかもしれない。  
 
(私もまだまだ子供っぽい……)  
心にちょっぴりシモンに対する反省の言葉を浮かべたニアであったが、返ってきたシモンの言葉はそれに輪をかけて子供っぽかった。  
「北風と太陽作戦遂行中なんだよ」  
「なあに、それ」  
「こうやって引っ付いてニアを蒸し焼きみたいにしたら、クーラー入れてくれるんじゃないかって」  
「……」  
がくり、とニアは脱力した。もともと脱力しきっているが。先ほどの反省は無論取り消しだ。  
北風と太陽作戦とやらを告白して開き直ったのか、はたまた自棄になったのか、シモンはぎゅうぎゅうと圧し掛かるようにニアの身体を押さえ込んだ。  
「シモン〜、暑い〜」  
「俺も暑い〜」  
ニアはシモンの拘束から逃れようとじたばたともがくが、男の腕力と体重に敵うはずも無い。  
結局お互い無駄に動いて、新たな汗をかくだけだった。  
 
 
暗闇の中、暑さに耐えかねた男女のうめき声が響く。  
ふとシモンの腕が、ニアの身体を解放した。汗ばんだ肌と肌の接触がなくなっただけで随分涼しくなった気がする。  
ようやく遊ぶのをやめてくれたのね……とニアが安堵の笑みを浮かべたのも一瞬だった。  
離れたはずのシモンの手はニアの肩をそろそろと這い、キャミソールの肩紐を捉えると一気に下ろした。  
「きゃっ!」  
ぽよん、と二つの乳房が布地から溢れて空気に晒された。無論ブラジャーなどつけているわけがない。  
「シモン?」  
「いや、北風と太陽の話ってさ、よくよく思い出したら旅人が一枚ずつ脱いでいく話なんだよな」  
「え?」  
「まだクーラーつけてくれる気にはならないみたいだし」  
「だ、だからって私を脱がさないで……あんっ」  
ニアが不満を言い終わる前に、シモンは汗ばんだ二つの膨らみをこね回すように揉み始めた。  
「やだもう、シモン、やめてっ」  
「ならクーラーつけて、ニア」  
視界が利かない中、シモンは勘だけでニアの胸を弄んだ。下から持ち上げるようにむにむにと揉んで、  
両の乳首を摘まむように引っ張っては離す。ぽよぽよと掌で感触を愉しみながら、調子はずれな歌すら歌い始めた。  
「♪ぽ〜にょぽにょぽにょ」  
「シモン、それは本当にやめて……」  
 
 
シモンの頼みをほとんど意地で無視して、何とか愛撫から逃れようと身をよじる。  
乳房を揉む動きは、セックスの前戯というよりはふざけてじゃれ合っているときのものに近かったが、  
それでも首筋に当たる吐息には別の熱が篭り始めたし、腰の辺りにはそろそろ硬くなり始めたものが当たっている。  
「シモン、わたし汗かいてるから……ね?」  
「ああ」  
控えめな拒絶の意が伝わったのかと思ったのもつかの間、シモンはニアの身体を横抱きから仰向きにひっくり返して、  
摘まんでいた乳首をぺろりと舐めた。  
「ひゃっ!」  
「大丈夫だよ、あんまりしょっぱくないから」  
「そ、そういう問題じゃない、のに……っ!」  
嬌声混じりの抗議の声をあげて、ニアは喉を仰け反らせた。両方の頂を戯れるように舌がつついたからだ。  
大きな手が飽きもせずに汗ばんだ胸をぐにぐにと攻め、舌は鎖骨を伝って喉を這い上がる。  
「さすがにこの辺はちょっと汗の味がする」  
熱の篭った息は笑ったような響きを含んでおり、ニアは恥ずかしさで耳まで染まった。  
シモンの汗の匂いは好きだ。だが、自分の汗の匂いを彼に嗅がれるのには抵抗があった。女としての品位に差し支える。  
「シモン、やめてぇ……」  
「やめないー」  
軟体動物のような動きで胸を揉む手を制そうと掴めば、舌が肌を這い回る。  
それを止めようと彼の頭を引き離しにかかれば、自由になった手が汗まみれの身体を撫で擦る。  
しばらく腰と小さな尻を撫でた手は戯れにショートパンツの中に潜り込み、指先に引っ掛けるとキャミソールと同じように  
脱がしにかかった。  
 
「もう、シモンっ! 私の負けだからっ」  
ぺちんとシモンの手を叩くと、根負けしたニアはベッドサイドのリモコンに手を伸ばしてスイッチをいれた。  
二十八度を示すリモコンをぱたんと枕元に落とし、自身もベッドに突っ伏す。  
程なくして、部屋の空気がひんやりと冷え始めた。設定温度はさほど低くはないが、先ほどの蒸し風呂に比べれば天国だ。  
ニアの隣に寝転んだシモンも喜びの呟きを漏らす。  
「涼しい……」  
「うん……」  
火照った身体が冷えるにつれ、煮立った思考も冷静になる。  
(なんだか私、バカみたい……)  
必ず体調を崩すというわけではないのだから、妙な意地を張らずにさっさとこうしていればよかったのだ。  
そうすれば今頃、ニアとシモンは快適な眠りの中にあったに違いない。  
「シモン、ごめんね。早くクーラーつければよかったね」  
傍らの男に素直に謝罪する。  
シモンはきょとんとし、笑う。  
「いや、俺としては思ったとおりになってよかったんだけどさ」  
「え?」  
寝巻代わりの黒のタンクトップを何故か脱ぎ始めたシモンに、ニアは怪訝な視線を向けた。  
「初めからエッチしようって誘っても、この暑さじゃ断られるに決まってるだろ? 俺もさすがにこの暑さじゃきついし。  
でもエッチのためにわざわざクーラーつけないだろ、ニアは」  
「え?」  
「俺が勝手に冷房入れるのも悪いしさ、どうしたら自主的につけてくれるかなって」  
「え?」  
「予想外に粘るからひょっとしたらダメかと思ったけど」  
「そ、そのためだけの北風と太陽作戦だったの?」  
「計画通り」  
親指を突き立てて憎らしいほどの笑顔でシモンがそう告げる頃には、いつの間にやらニアのショートパンツは脚をするすると  
伝い下ろされ部屋の隅にぽいと放られていた。  
 
呆れて言葉も出ない。そんな回りくどいことをしなくても、真正面から誘われればニアはきっと拒まなかった。  
身体に差し障りが無い限り、彼の誘いを断ったことなど殆どないのだから。  
「……シモン、本当はちょっと違うんでしょ」  
「ん?」  
「本当はああいう風に、暑い中いちゃいちゃしてみたかったんでしょ」  
「あはは。……まあ、それも少しあるかもな」  
若干バツが悪そうに笑いながら、シモンがゆっくりと圧し掛かる。  
その背に腕を回しながらニアはふと思い返した。子供の頃読んだ絵本では、確か旅人は服を脱いだ後水浴びを始めたのではなかったか。  
 
「……シモン、私やっぱりシャワー浴びてくる」  
「えー」  
 
バスルームに消えるニアを見送りながら、シモンはリモコンを手に取り室温を二十三度にまで下げた。  
二十八度では、たぶん足りなくなるだろう。今夜は熱帯夜とは別の意味で「熱く」なるから。  
思惑通りに事が運んだこともあり、シモンはにんまりと笑みを浮かべた。  
 
 
 
 
翌日。  
「へっくし」  
総司令室でくしゃみをしたのは、この部屋の主――シモンだった。ニアではない。  
「珍しいですね、総司令が風邪を召されるとは」  
傍らのロシウが、厳しいながらも心配そうな表情を見せる。  
「ああ、ニアのやつ酷いんだもんなあ」  
「ニアさんが?」  
「ああ」  
シモンは深々と腰掛けた椅子に仰け反り、愚痴をこぼした。  
「ニアがな、目が覚めたら俺の分のシーツまで剥ぎ取ってぐるぐるに包まって寝てたんだ。  
クーラーのタイマー入れ忘れて部屋も冷えてるのに、俺は素っ裸でベッドに転がされてたんだぞ?」  
「ニアさんは冷房にあまり強くないと聞いていますが」  
「う」  
「シモン総司令。そういうのは自業自得というんです。そして」  
「うわっ!」  
どすん、とシモンのデスクの上に新たな書類の束が置かれる。未決済の案件が文字通り山盛りだ。  
「これも自業自得の一つの姿です」  
「……」  
「がんばりましょう」  
「……はい」  
 
快適な温度に保たれた総司令室で、二つの自業自得のツケに苦しみながらシモン総司令の一日はすぎていく。  
 
 
完  
 

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