──ああ、まただ…。  
そう思った時には遅かった。  
細められているのにも関わらず零れそうなくらい大きな瞳に、熱が宿り揺れるのを感じた。  
普段は透き通るような色白の肌がほんのり桜色に染まる。  
俄かに胸を締め付ける感覚に視線を反らしてしまいたくて仕方がないのに。  
なのに何故、僕はいつも彼女のこの表情に魅入ったように釘付けになってしまうのだろう…。  
────ニアさん…。  
いつも微笑みの絶えない彼女。だが、  
…あの笑顔は彼にしか向けられないモノ。  
潤んで輝いた瞳が、紅を差した頬が、表情豊かな唇が、その全てが彼を…──シモンさんを好きだと言っている。  
恋い焦がれるなどとおに通り越し、どこまでも広く澄んだ、深い愛情を告げている。  
少し距離がある場所に居るにも関わらず、狂おしいくらいに僕の方にまで届いてくる想い。  
今なら二人はまだ僕に気づいていたない。今すぐここを離れよう──そう思った時だった。  
 
 ふいにシモンさん達が僕に気付き、二人同時にこちらを顧みた。  
心臓が跳ね上がる。  
目が合い、そして…。シモンさんに対するのとは別の種類の微笑みをニアさんが僕に向けてきた。  
その笑顔に僕がどれだけ揺さ振られ、狂暴な気持ちになるのか彼女は知らない。  
何もなかった頃なら…彼女に仲間以外の感情が僕に何もなかった頃なら。  
その曇りない綺麗な笑顔にただ見惚れただけかもしれない。  
だけど今、僕の中に沸き起こり渦巻く感情はなんて醜く、おぞましい。  
どろっとした黒い影が僕の心臓を鷲掴み、今にも抉りとろうとしているかのようだった。  
僕の頭の中を警告音が鳴り響く。  
────ここにいては駄目だ。これ以上あの二人を…ニアさんお笑顔をこの目に焼き付けるな────  
シモンさんが僕に手を振り、ニアさんと共にこちらに足を進めようとする気配を感じ、  
僕はそれを制止するかのように一礼し、踵を返した。  
 
 僕はニアさんの作る料理がひどく苦手だった。  
それは僕だけではなく、グレン団の皆も同じだったと思う。  
口に出して拒絶する人はいないけれど、彼女の料理を見ただけで顔が青ざめる人達の姿を幾度と目にした。  
僕自身何をどう調理すれば出せるのか分からない独特の風味と強烈な香り、舌触りに、悶絶した記憶がある。  
…だけど、僕が彼女の料理が苦手なのはきっと、皆が苦手とする理由とは少し異なるだろう。  
誰もが味わう事はおろかその先食事を続ける事を断念してしまった料理を、一人だけ美味しそうに平らげた。  
そう、シモンさんただ一人だけに、ニアさんの料理は最高の御馳走となる。  
幸せそうに彼女の料理を口にするシモンさんと、そんな彼の姿に嬉しそうに微笑を深めるその姿。  
その光景に何度身を切り裂かれるような想いに駆られた事だろう…。  
僕は彼女の料理を食べれない。否、食べたくない。  
どんなに不味くても、この舌が拒否しようとも。  
本当なら骨の髄まで染み込むように味わいたい。全て食べつくし、そして一言、彼女に「美味しいよ」と告げたい。  
彼女はきっとうっとりするくらいに美しい笑顔を浮かべ、「ありがとう」と言ってくれる。  
そしてそれを見て僕はまた痛切に実感するんだ。  
それがシモンさんに向けられているものとは、別のものだという事を。  
最も、その笑顔を見なくても料理をほんの僅かでも口にれば嫌でも思い知る事ができる。  
ニアさんの、シモンさんへの想いがどれだけ大きく、溢れかえっているかを…。  
………もし彼女が僕を想い、僕のためだけに料理を作ってくれたとしても、  
その事が泣きたくなるくらいに僕を嬉しくさせても。僕は心の底から美味しいとは言えないんだ。  
シモンさんのようには言えないんだ…。  
 
 一瞬、時が止まったかのように感じた。  
総司令室の入り口で、書類を持ったまま棒のように立ちつくしてしまう。  
今度の会議に使う重要な書類を持ってこの部屋を訪れた僕の目に飛び込んできたのは、  
いつものやる気なさそうな総司令の顔ではなかった。  
窓から差し込む日の光が、柔らかそうな髪を縁取るようにして煌いている。  
机に伏せ寝入っているその姿は、言うならば──  
「天使…?」  
思わず口をついて出た言葉に、慌てて唇を書類を持ったままの手で塞ぐ。  
何馬鹿な事を言っているんだ、僕は…。  
誰が聞いていたわけでもないのに、恥ずかしさに頬に熱が宿るのを感じた。  
だけど、他に形容する言葉が思い浮かばないくらい、彼女の寝顔は清廉潔白で、美しいと思った。  
…それともそんな錯覚が起こるくらいに、僕は彼女の事を想っていたのか。  
普段なら総司令であるシモンさんが座っているはずの席に何故彼の姿がなく、  
そして何故彼女が寝ているのか…。そんな疑問を抱くまでに暫くの時間を要するくらいに、僕は平常心をなくしていた。  
 
 ふと、彼女の寝顔のすぐ横に包まれたままの弁当が視界に入り、彼女がここにいる理由を理解した。  
シモンさんがたまたま部屋を空けている時に弁当を届けにきて、待っているうちに眠ってしまったのだろう。  
…仕方ない、書類は後だ、出直そう。そう思うのに、何故僕の足は動かない。  
──早く、ここから立ち去るんだ。  
刹那、室内に向け足が一歩前に出た。  
僕の意志とは逆の行動を身体が取ろうとする。  
まるで何者かによって操られているかのような奇妙な感覚まで芽生え始めた。  
「──ニアさん」  
呟くように名前を呼ぶ声が、情けないほど震え掠れていた。  
手に汗がじわりと滲み、心なしか息苦しさまで覚え、身が千切れそうな程緊張している己を知る。  
どうしてこんなにも…。  
起きている彼女と話す時以上に酷いな…と、自嘲気味な笑みまで零れた。  
一歩、また一歩と足が進み、机までの──彼女までの距離を詰めていく。  
警告音がどんどんと大きくなり、けたたましい程となる。  
やめ…ろ…。それ以上近づいては駄目だ…。  
早く引き返せ、今なら間に合う────。  
 
 とっくに手遅れである事を、僕は本当は薄々気がついたのかもしれない。  
机の前に立つと、不思議と五月蝿い警告音は止んでいた。  
眼下で静かな寝息を立てるニアさんを無言で見つめ、覗き込むように屈む。  
「…ニア、さん…」  
あどけなさの残る、けれど整った寝顔にそっと呼びかける。  
「…頼みますから…」  
…起きてください、ニアさん。  
…こんな所で寝ていては、風邪をひいてしまいますよ。  
「ニアさん」  
今度は少しだけ強い口調で名を呼ぶが、起きる気配は全くしない。  
もう近づくな、離れろ…なんて声はしない。  
そんな意志はとっくに崩壊し、僕を縛るのをやめていた。  
薄き開いた形の良い口唇はあまりに魅惑的で、僕の鼓動を揺さぶる。  
溜め息を一つ尽き、身体をさらに屈め、顔を彼女のそれに寄せた。  
「……起きないあなたが悪いんですよ…」  
 
 そして僕はとうとう禁断の果実に触れてしまった。  
唇に広がる温かさ、そして包み込むような柔らさに眩暈までもが巻き起こる。  
彼女の感触に溺れ、深い海の底へと沈んでいく。  
切なさや痛みを覚えるよりも先に自分の中が満たされていく。  
……結局あの笑顔がなくても、僕はいつもニアさんに掻き乱され、捕らわれてしまう運命にあるのだ。  
僕はそれを抗えない。これは裏切り行為だ。  
シモンさんと、ニアさんに対する。…そして───…  
……だけど後悔などしない。  
───ニアさん、けして報われる事がなくても、僕はあなたへの想いを無にしてしまう事はできません。  
だからこれは、この身勝手な口付けは僕の決意。そして、最初で最後の誓い。  
ニアさんの料理を美味しく食べられる者はシモンさんしかいない。  
ニアさんが深く愛する相手もまた彼だけ…。…ならば。  
想いを消し去る事がけしてできなのならばせめて、今日僕自身に刻み付けた彼女をずっと想っていよう。  
この温もりだけが唯一、僕が手にできる彼女の欠片なんだとこの身に言い聞かせて──。  
 
 
 
 
 
 

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