面白くない。
互いの体温ですっかり温まったベッドの中、恋人の胸に頭を預けながらニアが導き出した結論は、それだった。
(面白くないし、つまらないし、なんだかちょっと悔しい。それに……ちょっと寂しい)
すやすやと寝息をたてる彼――シモンの寝顔を見、更に続ける。
自分の中の感情を咀嚼し、分析する。が、どうにも鬱々とした気分は収まりそうになかった。
寝室の暗闇の中、もそもそと寝返りをうつ。あまり眠りの深くない、隣の男に気を使いながら。
今感じているこの気持ちは、たぶん敗北感だ。
しかも、ほかならぬシモンに対しての。
――――――――――――――――
日常の、ほんの些細な出来事だった。いつもなら気にもとめない――いや、むしろ嬉しいはずの彼の行為。
頭を撫でられた。
ただ、それだけのことだった。
頭を撫でられるのを嫌がる人もいると聞くが、ニアにはそれは当てはまらない。
幼い頃――仮に、それが戯れによる愛情表現の真似事だったのだとしても――父に頭を撫でられるのは嬉しかった。
今、シモンに頭を撫でられるのはもっと嬉しい。
いつもであれば。
少し照れくさそうに笑ったシモンが、温かい手で頭を撫でてくれる。
(シモンに髪を梳かれると、それだけで心が気持ちよくなって)
故郷の村で毎日ドリルを握っていた頃の名残のある彼の指が、柔らかく髪に絡まる。
(身体からふぅって力が抜けて、シモンが大好きっていう気持ちが溢れて……胸がきゅうってなるの)
――そう、いつもであればそうだ。
でも今日は違った。頭を撫でられた後、何かが心に引っかかったのだ。
(何故こんなにもやもやしてるんでしょう)
憂鬱な思いでシモンを見つめる。穏やかな寝顔を見ると、なんだか彼に申し訳ないような気さえしてくる。
彼は何も悪いことをしていないはずだ。
なのに、ニアは今よくわからない――だが、決して愉快とはいえない感情を抱えたまま、彼の傍らにいるのだ。
以前にも似たようなことがあった。
シモンが誰ともわからない女性から、ラブレターなるものを貰ったことを知ったとき。
そのときのニアは嫉妬という感情をよく理解しておらず、キヨウやキヤルらに少しばかり取り乱した様を見せてしまった。
(今思い返すと恥ずかしい……)
あのときと似ている。彼は悪くない、だが自分は気分が悪いというこの状態。
しかし、嫉妬という感情を知ったからこそ、ニアにはこの感情がそうではないということがわかる。
(きっと、頭を撫でられたことにこだわって考えてるからわからないのね。その前から、思い返さないと……)
シモンに頭を撫でられる前の出来事――とはいっても、格別変わったことをしたというわけではなかった。
目を閉じてゆっくりと思い返す。
(私のお部屋でお茶を飲んで、いろいろなことをお話して……とっても楽しかった)
その中で、しばらく前に二人で種をまいた花がきれいに咲いたのだという話題が出た。
(その後二人で庭に出て、花を見て……次の季節には何のお花を育てようかって言ったら、シモンは『ニアの好きな花でいいよ』って答えて)
ここまではとくに問題ないはずだ。
(私が『このお花の種をまいたときもシモンはそう言ってたわ』って少し文句を言ったら、シモンは『そうだったっけ』って笑って)
自分は花に詳しくないから、ニアの好きな花を育てればいいと言う彼に、ニアはこう返した。
「私は、シモンが好きなお花を育てたいのに」
少し見上げた先にある彼の目が、一瞬きょとんとし――次に優しく細められた。
彼の瞳に映ったニアの顔は、少し拗ねた顔をしている。
くすぐったそうに吹きだして、シモンは笑いながら言った。
「可愛いな、ニアは」
そして、優しくニアの頭を撫でたのだ。
……これだ。このやり取りだ。これがずっと引っかかっていたのだ。
(でも、なんで?)
シモンが好きな花を育てたいとニアが言った。シモンは笑ってニアを可愛いと言い、頭を撫でた。それだけだ。
花を選んでくれなかったことへの苛立ちではない。
そんなことは初めてではないし、第一そのあとシモンはきちんと好きな花を選んでくれたのだから。
それは多分、ニアの好みに合わせた選択だったのだろうけど。
(私、『シモンが好きな花を育てたい』って言った)
ふと、自分の言葉を思い返す。
シモンが好きな花。
シモンが好きな花。
シモンが好きな花……?
(私が好きな花は?)
唐突に出た答えだった。
あのときのニアの言葉には、自分の意思がなかったのだ。
純粋に「シモンの好きな花を育てたい」のであればいい。しかしそうではなかった。
あの瞬間のニアは、ただ「シモンの意思に合わせたい」だけだった。
もっと極端にいえば、ニアが好きでしているはずの土いじりにシモンを無理矢理つきあわせようとしたのだ。
彼に迎合しようとするくせに、その反面自分の世界に彼を引きずりこもうとした。
そしてシモンが、ニアの望むような反応を示さなかったことに拗ねたのだ。
同時に、盲目的に――しかし自分本位で彼に追従しようとした、自分自身に苛立っていたのだ。
(なんて恥ずかしいの、私……!)
寝室の暗闇の中、自分自身に呆れてニアは顔を真っ赤にした。枕に顔を埋めて背を丸める。
「うぅ〜……」
羞恥のあまり声すら漏れた。次の朝、まともにシモンの顔を見られるだろうか。
シモンにこのことを話したら「そんなことで」と、それこそ呆れて笑うだろう。
しかしニアにとっては一大事だった。アイデンティティの危機と言ってもよい。
(シモンはシモンで、私は私なのに)
それはシモンが言ってくれた、ニアにとっての宝物のような言葉。
『今ここにいるニアがニアなんだ。だからニアらしく生きればいい』
父の人形だったニアを、人間にしてくれたのはシモンだった。
シモンと出会い、シモンを見つめて、シモンと向き合って。
彼と出会えたからこそ、自分と彼の違いを知り、更に多くの人々との違いを知ることができた。
世界にはたくさんの人がいる。なのに、誰一人として同じ人はいない。
そして、そんな沢山の人々の中から、ニアはシモンに出会うことができたのだ。
世界に一人だけしかいないシモンが好き。
そして彼を大切に思うのと同じくらい、自分の存在も大切にしなければならない。
ニアがニアでいいと言ってくれた彼が、隣にいるのだから。
彼はニアのことを、好きだと言ってくれる人なのだから。
(ごめんなさい、シモン! ごめんなさい……!)
たまらず彼の身体をぎゅうっと抱きしめる。
ふにゃ、と一瞬目を覚ましたシモンは、抱きつくニアの背に腕を回し、ぽんぽんとあやすように叩くとそのまま再び寝息をたて始めた。
温かいベッドの中、温かい彼の腕の中。シモンの胸に頬を寄せ、鼓動の音を聞きながら思う。
自分はいつから、こんなにシモンのことばかりを考えるようになったのだろう、と。
昔はそうでもなかったはずだ。もちろんシモンのことは大好きだった。
だが、一日中彼のことばかりを考えて過ごしてはいなかったように思う。
何より毎日が新鮮な驚きの連続だったし、覚えなくてはならないことも山ほどあった。
ニアが些細なことで驚いたり、普通の人なら絶対しないような失敗をしたとき。日々の慌しさにふと一息ついたとき。
そんなときに隣を見ると、必ずシモンがいてくれた。ニアが笑うと、温かく笑い返してくれた。
今のニアは違う。
シモンに届ける弁当や夕飯のメニューを考えるとき。街中で面白いものを見つけたとき。
週末をどう過ごそうかと考えているとき。
意識するせざるを問わず、その中心にはシモンがいる。
彼は何が好きか、何を食べたいか。あれを見たらどんな反応をするのか。
最近疲れているようだから、そっとしておいてあげたほうがいいのではないか。
先の花の件とは違い「シモンが喜ぶこと、楽しいこと、彼のためになることをしたい」という理由で行動することが昔に比べて確実に多くなった。
勿論、突き詰めればそれは、最終的にはニア自身の喜びへも繋がっているのだが。
こうなってしまった理由はわかっている。
惚れているからだ。
どうしようもなく、彼のことが好きだからだ。
「恋は盲目」の言葉通りに、何も考えずに彼に合わせようとすることもあるくらいに。
(『好きになったほうが負け』って、こういうことをいうのかな)
シモンはどうなのだろうか。
彼がニアのことを好いてくれているのはわかる。
だが、ニアのように些細なことで拗ねたり、動揺したり、わけのわからない感情に翻弄されることがあるのかというと――驚いたことに、ニアには皆目わからなかった。
これだけ長い付き合いであるはずなのに、だ。
(シモン、昔みたいにころころ表情を変えなくなったし)
少年の頃の彼とて、決して感情表現が豊かなほうだったとはいえない。
だが、それでも驚いたり、あせったり、赤面したりと――今ではあまり見せてくれなくなった表情を面に出していた。
(大人になったから?)
そういえば、何気ない仕草にも余裕を感じるような気がする。
ニアの頭を撫でたり、先ほどのように優しく抱きしめたり。包容力がある、とでもいうべきか。
(シモンばっかり先に行っちゃったみたいで、なんだかずるい)
ニアは小さく唇を尖らせた。
自分はこんな些細なことで機嫌を損ねて、理由が分かれば一人赤面し、果ては彼のことを好きで好きでたまらない気持ちを再確認したりと大忙しなのに。
大人になったからだ、と一言で片付けることはできる。
今のシモンは出会った頃のシモンではない。ニアが手を握っただけで頬を赤くしていた純情な少年は、もういなくなってしまった。
しかし、大人になったのはニア自身とて同じだ。
テッペリンで無邪気に父だけを頼って生きていた姫ではない。
自分の身の回りのことなら一通り自分でこなせるし、世間の常識もわかっているつもりだ。
彼と多くの喜びを分かち合った。恋する喜び。愛する喜び。性愛の悦びすら、だ。
なのに、彼はひどく大人びて先へと進み、ニアは深夜ベッドの中で自問自答している。この差はどうだ。
(……面白くない)
互いの体温ですっかり温まったベッドの中、恋人の胸に頭を預けながらニアが導き出した結論は、それだった。
(面白くないし、つまらないし、なんだかちょっと悔しい。それに……ちょっと寂しい)
すやすやと寝息をたてる彼――シモンの寝顔を見、更に続ける。
自分の中の感情を咀嚼し、分析する。が、どうにも鬱々とした気分は収まりそうになかった。
寝室の暗闇の中、もそもそと寝返りをうつ。あまり眠りの深くない、隣の男に気を使いながら。
今感じているこの気持ちは、たぶん敗北感だ。
こんなことに敗北感を感じる必要はないのかもしれない。そもそも勝ち負けの問題ですらない。
それでも悔しいのだ。
大人びた彼の顔。とうにニアを追い越した背。愛撫する手。低くなった声。ニアを包み込む仕草そのもの。
全てが恋しく――今このときにおいては憎らしい。
(シモンのこと、びっくりさせたい)
ふと、思いつく。
彼を驚かせたい。昔のように驚いた顔や、赤面する様を見たい。
子供じみた思いつきだ。ひょっとしたら、八つ当たりに近い行為かもしれない。
(だけど、とっても楽しそう)
いたずらを思いついた子供のようにニアは目を輝かせた。
シモンのそんな表情を見ることができれば、それはニアにとってなかなか気持ちいいことのはずだ。
一度思いついてしまった考えの誘惑には勝てそうにない。
(でも、何をすればシモンはびっくりするの?)
はたと我に返る。それを考えなければ話は進まない。
過去の自分の行いを振り返ってみるが、あまり参考になりそうにない思い出ばかりが浮かんでくる。
ニアの失敗や無知で驚かせたことは多々あったが、それは二度は使えない。何より狙ってできるものでもない。
突然抱きついたりすれば彼は照れないでもないが、すぐにいつものように笑ってニアを受け入れてしまうだろう。
それでは面白くない。
(前に、エッチな下着を着たとき)
ふと思い出す。
(あのときはシモン、すごくびっくりしてたみたいだった)
これをどうにか応用できないだろうか。
あの時はエッチな下着を着ていた。
下着を着ていた。
下着を着て……いて……?
「思いついた!」
「ふぁ?」
寝室にニアの明るい声が響き、隣のシモンは何事かと目を覚ます。
「あ、ごめんなさい、シモン。なんでもないの」
「早く寝ろよ? ニアー……」
枕に彼が顔を埋めるのを確認し、ニアは思いついた考えに胸をどきどきさせる。
本当にこんなことをしてしまっていいのだろうか。
もの凄くはしたない行為だ。
父の戯れの一環とはいえ、淑女としての振る舞いを学んだ身としては、こんなことを思いついたこと自体に罪悪感を感じないではない。
しかし、ためしてみる価値はある思いつきだった。
きっとシモンはびっくりして、顔を真っ赤にして動揺する。それを思うと今からわくわくする。
とにかく、明日だ。
早速、実行に移そう。明日は休日。一日中シモンと一緒なのだから。
「おやすみなさい、シモン」
ニアはにっこりと微笑むと、シモンの唇に軽くキスをし、今度こそ眠りについた。
―――――――――――――――
(可愛いな、ニアは)
昨日口にした言葉を、シモンは再度こっそり胸の中で繰り返した。
ニアは朝からご機嫌だった。
シモンが目を覚ましたときにはすっかり朝食の準備ができており、ニア自身にいたっては外出の準備もすっかり完了していた。
とはいっても、今日は特に遠出をするでもなく、街に買い物に出るだけのデートなのだが。
「晴れてよかったね、シモン」
にこにこと無邪気に笑い、ショーウィンドウ越しに興味のあるものを見つけてはころころと表情を変える。
買ってやろうかと訊ねると、「ありがとう、でも今はいいの」というよくわからない返事が返ってきた。
まあ、ニアの言葉がよくわからないのもいつものことだ。彼女なりの考えでそう言っているのだろうから、あえて追求はしない。
(なんか『わかりあってる』って感じでいいよな、こういうのって)
新たに興味を引かれたらしい雑貨を見つめる彼女の後姿を眺めながら、シモンは満足感に浸る。
ニアとの付き合いも、そろそろ長いと言ってもいい年月になろうとしている。
ニアと出会い、少しずつ彼女のことがわかってきて、彼女も自分のことをわかってくれている。
こんなに心地よい関係が他にあるだろうか。
昔は毎日が緊張の連続だった。
とにかく目を離すと何をしているのかわからない。話をしても、何を言っているのか一度聞いただけではよくわからないことがある。
そして大抵後になって「ああ、そういうことを言ってたんだ」と納得のいく、筋の通ったニアなりの考えを伝えようとしていたのだということが分かる。
そのたびにシモンは自分にがっかりしたものだった。「なんで俺はもっとニアのことをわかってあげられないんだろう」と。
その上、今となってはくすぐったい思い出になりつつはあるが――昔はニアと二人でいるだけで、シモンは常に緊張していた。
まっすぐ見つめられるだけで胸の鼓動が早くなり、笑いかけられると茹で上がったように頬に血が集まった。
手を繋げば汗をかくし、彼女にキスをしたいと考えるだけで喉が干上がった。
そしてそんな、男としてあまり格好いいとはいえない自分を自覚するたびに、シモンは思ったのだ。
ニアに相応しい男になりたい。小さなことに動揺したりしないで、ニアのことを全部受け入れて、守ってやれる男になりたいと。
今の自分が、昔そうありたいと思った姿になれたのかはわからない。
けれど、昔よりはよほどニアと同じ目線でものを見れるはずだ。
少なくとも、ニアが何を考えているのか全く見当もつかない、ということはほとんどない。
(同じ目線、か)
いい響きだな、とシモンは思う。このままどんどんニアに近づいて、ニアと世界を共有して。
お互いの考えていることが手に取るようにわかる関係になったら、そのときは。
「あのね、シモン」
突然ニアがこちらを振り返り、笑顔で声をかける。
「ん? どうした?」
「ちょっとシモンに話したいことがあって」
頬を少し赤く染め、上目遣いにこちらを見るニアはなんとも可愛らしかったが、何を話そうというのだろうか。
雑貨店の店先を離れ、往来の中で爪先立ち、ニアはぽしょぽしょとシモンに耳打ちする。
「あのね? ……すごく恥ずかしいんだけど、実は私、今日」
「ああ」
一瞬の間の後、いたずらっぽくニアは囁いた。
「……はいてないの」
……。
…………。
……………………。
「……?」
言われた言葉が理解できず、固まったままニアを見つめる。
視線の先のニアは相変わらず無邪気な笑みを浮かべたままだ。追い討ちをかけるように告げる。
「あ、上もよ。つけてないの」
……。
…………。
……………………。
「はあああああ!!?」
往来のど真ん中であることも忘れて、シモンの口から素っ頓狂な叫びがあがった。
待ち往く人がなんだなんだと視線を投げかけてくるが、そんなことには構っていられな――
(いや、構うだろう!!)
今ニアに視線が集まるのはまずい! 非常にまずい!!
「ニア! と、とにかくちょっとこっち!!」
「きゃっ」
シモンはニアの腕を引っつかみ全速力でその場を走り去ると、少し離れた静かな通りのビルとビルの隙間にニアを押し込んだ。
「どういうつもりなんだよ、ニア!」
「えへ☆」
「可愛く笑って誤魔化してもダメだ!! い、一体何を考えて……その」
大声でまくしたてるシモンの声は、次第に尻すぼみになって消えていく。
それに代わるように、視線はニアの身体――『その場所』を、舐めるように見つめてしまう。
シモンも見慣れたピンク色のドレス。胸元にはアクセサリーが飾られ、スカートは丈こそ長いものの深いスリットが入っている。
胸はいつもと変わらないように見えるが――よくよく目を凝らせば、乳首の突起らしき膨らみが確認できはしないか?
スリットからのぞく白い太ももが妙になまめかしい。
(いや、待て。まだ本当にはいてないときまったわけじゃない。ニアがからかってる可能性だってあるんだぞ)
「確かめてみる?」
「っ!!?」
……本気で彼女が何を考えているのかわからない。
つい先ほどまでの満足感が嘘のように消し飛んでいった。
自分がニアのことを理解しているなどととんでもない話だった。この調子ではあと十年かかっても一向に行動パターンなど読めそうにない。
「た、た、確かめて――って……」
「興味ない?」
くすっとニアは笑った。……唇がなまめかしい。
(小悪魔だ。……小悪魔がここにいる)
脳が酸欠を起こしそうだ。くらくらする。だけど――興味は…………無論ある。
生唾を飲み込むと、シモンは目を細めて目の前のニアの胸の谷間を見つめた。
街の発展の影に埋もれた、日中であるはずなのに薄暗い空間。
念のためにシモンは通りの側に自分の背を向け、抱き寄せたニアの姿が万一にも他者の目に触れないように守る。
「み――見るぞ」
「どうぞ」
おかしなやりとりだ。
シモンは恐る恐るドレスの胸元に指をかけると、広げるように引っ張って覗き込む。
(なんだか、変態みたいだな)
白い首に、美しく染み一つ無いデコルテ。丸い乳房のふくらみが覗き、その先には――
「……ッ!!!」
ばっと顔をあげ、ニアを見つめる。
「ね?」
(……天使の笑顔だ。天使の笑顔で俺を翻弄する小悪魔がいる)
「じゃ……じゃあ、下も」
「はいてません」
「なんではいてないんだよ!?」
半分泣き声に近いような叫びを上げる。
が、頭の中が疑問符で埋め尽くされているシモンをからかうかのように、ニアは変わらぬ笑顔で答える。
「……なんででしょう?」
「あああああっ!! と――とにかく、こんなんじゃ買い物は続けられないぞ、ニア!!」
ニアの肩を掴んだまま、シモンはいかにニアを守りきって帰宅するかを考える。
(途中で下着屋に入って買えばいい。……いや、人通りの多い場所を歩かせるのは危険だ!
かといって俺だけじゃ買いにいけるわけもないし、いっそガンタクシーを拾って……)
「シモン、シモン」
「なんだよ!? 俺は今真剣に――」
「ここ、入りましょ?」
ニアが見上げ、指差すその上に掲げられていたのは――ラブホテルの看板だった。
(……あのビルがホテルでよかった)
不幸中の幸いとでも言うべきか。
部屋に入りベッドに腰掛けると、シモンはようやく安堵のため息をついた。
その隣にニアがちょこんと腰掛ける。
先ほどの小悪魔のようなニアはもういない。どちらかといえば――いたずらがみつかって、叱られるのを待っている幼女のように思えた。
「怒ってる?」
不安げに訊ねるニアに毒気を抜かれ、苦笑してシモンは答えた。
「いや……怒ってはいないよ。でも、なんでこんなことしたのか説明してくれるよな?」
「うん」
恥ずかしそうに頬を赤くして、ニアは俯く。
「あのね……シモンがびっくりする顔が見たかったの。それだけだったの」
「俺の……びっくりする顔?」
シモンは眉をひそめた。
(そんなもん見て、どうするっていうんだ?)
ニアのびっくりした顔なら可愛いが、自分の驚いた顔など間抜けなだけではないか、とシモンは思う。
俯いたままニアは続ける。
「昨日、シモンに何のお花を育てたいか聞いたでしょう?」
「ああ」
「あの時の私ね、ただシモンに合わせたいだけだった。
シモンの好きなお花を育てたいっていうより、ただシモンと一緒がいい、同じになりたいっていう気持ちのほうが強かったの。
それって、良くないことだと思うから」
「うん……」
良くないこと、だろうか。
(ニアが俺に合わせてくれようとしたら、俺は嬉しいけどな)
実際、何年も付き合うことでニアとの価値観を徐々に共有することができていると考えていたシモンにとっては、ニアの考えは意外なものだった。
だが今はそれに異を唱えるより、ニアの話を聞きたい。
「なんでそんなふうに考えるようになっちゃったのかな、って考えてみたわ。そうしたらね」
そしてニアは頬を紅く染め、小さな小さな声で言った。
「シモンのことが好き過ぎて、そうなっちゃったみたいで……。
私、いつもシモンのことばっかり考えてるから」
そして、シモンの瞳を不安げに見つめてニアは続けた。
「それがちょっと悔しくて、シモンばっかり大人になっちゃったような気がして。
だから少しからかってみたくなったの」
ぺこん、とシモンに向かって頭を下げる。
「ごめんなさい。もうしません」
その姿は、恋人というよりやはり幼女だ。
(……ちくしょう。そんな可愛いこと言われたら叱れもしないし、許さないわけにはいかないだろ)
こんなもの、謝罪という名の強烈な愛の告白ではないか。
惚れた女にそこまで言われて、嬉しくない男がどこにいる。
少なくともシモンは嬉しい。死ぬほど嬉しい。
ニアと同じように頬が紅くなっているのが自分でも分かるし、胸の鼓動もどんどん早くなっている。
――同時に、獣めいた衝動が身体の内から湧き上がってくる。
目の前にいる可愛い女。俺の女。どうしようもなく俺が惚れ、彼女もまた俺に惚れている。
可愛らしい上目遣いで俺の言葉を待っている。叱られるのだと不安がっている。
彼女がちょこんと座っているのはベッド。
――ここはどこだ? 考えてみろ、シモン。
「うりゃ」
「きゃっ!」
シモンはニアの胸元に指をかけると、先ほどとは違い少しの遠慮もなく、思い切り下にずらした。
柔らかな乳房と、可愛らしく尖った薄桃色の乳首がぷるりと晒される。
「シ、シモン?!」
「おしおき」
短くそれだけ言うと、シモンはニアの身体をぐいと引き寄せて胸元を更に剥く。
押し出されるように露になった両の乳房に指を這わせ、柔らかな先端を指の腹で擦るように愛撫した。
「ひぅん……っ!」
反った白い首筋にゆるゆると下を這わせ、耳朶を濡らし、囁く。
「こんなとこ入って、何もしないまま出れると思ったのか、ニア?」
「それは、思わなかったけど……んんっ」
可愛い唇についばむようなキスを落とし、それを何度も繰り返す。
ちゅ、ちゅ、と淫靡な音が部屋に響く。
やがてシモンの舌がニアの口内への侵入を許されるころには、ニアの身体からはすっかり力が抜けていた。
シモンの手を制そうとした腕からもすっかり力が抜けて、ただ添えられるだけになっている。
ぐったりした彼女をベッドに横たえ、その上にのしかかる。
キスをする。キスを繰り返す。少しずつドレスを剥ぎ、丸い肩と乳房を晒す。
露になった肌には、さらに丁寧に口付けする。
「はぁ、んぅっ……シモ、ン……っ」
上手く力が入らないのであろう両手を、それでも必死に背に回してしがみつくニアが健気だ。
シモンの舌が鎖骨を伝い乳房への愛撫を始めると、ニアはシモンの頭を愛しげに抱きしめる。
細い指で髪を梳き、シモンの頭を愛撫する。口付けすら繰り返し落とした。
「ああっ!」
一際高い嬌声があがる。シモンの唇が頂点を吸い上げ、舌先で優しく転がす。
「ここ、いい?」
「聞かなくたって、分かるくせに……んんっ!」
両手で胸を荒々しく揉む。掌の中で柔らかく形を変えるその様が目を楽しませた。
ニアは目尻に涙を浮かべ、必死に与えられる快楽に耐えている。
ピンク色の唇から漏れる吐息がなんとも色っぽく、シモンの欲を煽った。
(俺のこと好きだから、耐えてるん……だよな)
その事実が興奮を増長させる。多分ニアは、少しだけ乱暴に愛撫しても、少しだけ意地悪をしても――きっと今日は、許してくれる。
シモンに対する負い目があるから。
(ちょっと卑怯かもしれないけど……でも、たまになら許されるよな?)
ニアの身体をまさぐり、ドレスを少しずつ剥いでいく。時折さりげなく、シモンが脱がせやすいように身を捩ってくれるのが嬉しかった。
すべすべしたふとももに掌を這わせ、そのままスリットに侵入する。
腰骨まで到着し、そのまま尻を撫でる。すべすべした感触。……下も、本当にはいてなかった
「すーすーしなかったのか?」
「え?」
好奇心から訊ねてみる。……否、半分はニアへの意地悪だ。
案の定、問われたニアは赤い顔を更に赤くして目をそらす。
頬にキスを落として、再度問う。
「な、ニア?」
「……す、すーすーしました……」
「上は?」
「うえ?」
「おっぱい。乳首、ドレスで擦れたんじゃないかって」
「……っ!」
まん丸に目を見開いて、蒸気が上がらんばかりに顔が朱に染まった。どうやら図星だったようだ。
次の瞬間、力の入っていない拳がシモンの頭上へとぽかぽか振り下ろされる。
「わっ、こら、ニア! やめろって」
「シモンのバカ! なんでそんな意地悪言うのっ」
「あー、悪かった、悪かったって」
両手を掴んでニアの可愛い暴行を止めると、シモンは強引に再度の口付けを落とした。
怒ったように睨み返すニアの身体から、少しずつ力が抜けていく。
許しを乞うようにニアを求める舌におずおずと返答が帰ってくると、シモンはスカートの裾に手をかけて一気に捲り上げた。
「んぅ!」
重ねられた唇から驚いたような吐息がもれるが、唇は解放しない。更に深く重ねて、舐る。
「んぅ、ふぅ、うんんっ……ひぅ、ふぅっ……!」
露になったそこにゆっくりと指を這わせると、ぬるりとした熱い感触が伝わる。
「すごいな、ニア。とろとろだ」
くちゅくちゅと何度も指を這わせ、ニアの瞳を覗き込んで告げると、さすがに怒ったような瞳でニアが睨み返した。
「今日のシモン、すごく意地悪」
「あはは」
これくらいにしておこう、とシモンはこっそり心の中で呟いた。これ以上は後が怖い。
「ニアだけじゃないよ。俺のだってさ、こんなになってるし」
硬く膨張したそれを、ニアの秘所にあてがいぬるぬると滑らせる。
感触が恥ずかしかったのか、ニアは縮こまるように顔を背けた。
ニアのドレスはすっかり脱がされ、ベッドの下へとするりと落とされる。やや遅れて、シモンの服も。
「入れるよ、ニア」
「うん……」
細い腰をしっかり掴むと、あてがったそれを一気に沈めた。
「あああっ……!」
身体をしならせ、ニアが喘ぐ。すでに熱く蕩けきった膣は、待ちわびていたかのように蠢いてシモンに絡みついた。
「シモン、シモぉンっ……!」
「くっ……!」
遠慮の欠片も無しに腰を打ち付ける。ニアの細い腰を掴んでいると、時々壊れてしまうのではないかと不安になることすらある。
白くすべすべした腹に、可愛く小さいへそ。乳房はシモンの動きに合わせて上下に揺れ、目を楽しませる。
耐えるようなニアの表情、こぼれる吐息。肌はどこもかしこも桜色に上気して、シモンの欲を更に煽った。
「あっ、あっ、あぁん、ひぁっ……ひぅ、ああっん……!」
背にまわされたニアの指が、縋るものを求めて背に食い込む。その痛みすらもが、シモンの快楽の源になっていく。
「シモン、シモンっ……!」
縋るニアは、耳元でうわ言のようにシモンの名を呼ぶ。
「好き……好き! 好きなの、大好き……!」
シモンにしがみ付き、肩に顔を埋めてニアは叫ぶ。何度も何度も、繰り返す。
「――――っ!!」
「ああああっ!」
一際強く抉られ、ニアの口から殆ど悲鳴と変わらない叫びが上がった。
そして、それすらを封じるように、シモンはその唇に食らいつく。
組み敷いたニアの身体を力の限り抱きしめる。快楽の逃げ場など、どこにも与えない。
全部、全部ニアに受け取ってもらう。
好きだよ。好きに決まってる。俺だってニアのこと、大好きだ。
でも俺は男だし、不器用だから、そんなに簡単にそれを言えない。
言わなくてもわかってくれるって、ニアに甘えてる。
だからその分を、こんな形でしか示せない。全力で、ニアと愛し合うことでしか。
「はぁ、あ、あ、あああぁっ!!」
ニアが、絶頂の嬌声を上げるのを聞くのとほぼ同時。
声にならない叫びで、ニアの名を呼び――シモンは、全てをニアの中へと注ぎ込んだ。
―――――――――――――――
夕日が落ち、夜空に星が煌めき始めたころになって二人は帰宅した。
ニアはランジェリーショップに寄ってもいいと言ったのだが、シモンが頑なにそれを拒否したためホテルからタクシーを使っての一直線の帰宅だった。
シモンはようやく落ち着ける、とでも言いたげに大きく息を吐く。
「ああ、今日はニアのおかげでなんだか大変だったな。疲れたよ」
だらしなくソファに沈み込むシモンを覗き込み、ニアは言う。
「まあ、残念。私、シモンにお願いしようと思ったのに」
「ん? 何を?」
ニアはからかうように笑うと、シモンに言った。
「私、まだ下着はいてないでしょう? お風呂上りにはかせてくれる人を募集してたんだけど……。
疲れてるシモンにそんなことお願いできないし」
「え」
「今夜は別の部屋にベッドを用意するから、ゆっくり休んでね」
「え?」
「じゃあ私、お風呂に入ってくるから」
「あ、いや、ニア? ちょっと座ったら俺、元気になったような」
「いいのよ、無理しなくても」
「ひょっとして、意地悪したこと怒ってるのか?」
「違います!」
この後シモンが無事ニアのご機嫌をとり、晴れて二回戦目に挑戦できたのか。
それは、当事者である二人にしかわからないことである。
終