日付も変わったというのに、シモンはまだ執務室から出られないでいた。
机の上の書類は、その山と積み重なった有様と、卓上の淡い明りが微妙に競り負ける、
迫る薄闇に浮かび上がる紙の白さでさながら雪山を連想させる。
その雪山にペン一本で立ち向かい早数時間、若き総司令はもはやその目で文字を追うことも出来ず、
テーブルの上、それでも僅かに開いたスペースに臥していた。
「この量を「終わるまで帰らないで下さい」って……ロシウの鬼……」
夕刻、最後の追加を机に積み重ねた生真面目なる補佐官がにこりともせずに宣告した言葉を
脱力しきった声で反芻する。本当ならば今夜は、懐妊がわかったキヨウのお祝いにダヤッカの家で
パーティーをするはずだったのだ。
ロシウが立ち去って数分後にシモンを迎えにきたニアは、シモンが欠席の旨を伝えると
泣きそうになっていたが、それでもシモンが、事前に欠席すると連絡済みだったロシウと
ふたりで選んでおいたリットナー夫婦へのプレゼントを渡して託を頼むと
「じゃああとで夜食でも差し入れに来るわね」とシモンの頬にキスを落として去っていった。
ニアの唇が触れた箇所を指で辿る。柔らかく暖かく、濡れているのではないかと錯覚するほど
すべらかだった感触を反芻して、シモンは僅かに頬を弛ませた。
「シモン!」
記憶の中で温めていたそれと寸分違わぬ声がして、シモンは咄嗟に顔を引き締めると視線を上げた。
扉を開けて入ってきたのは青みがかったプラチナブロンドの綿飴のような髪、すなわち今思い返していた
唇の持ち主、ニアそのひとで、シモンは何となしの気恥ずかしさに僅かに目元を染めた。
「や、やあニア。キヨウ、元気だった?」
「はい!すごい、あと1年もしないうちにキヨウさんから赤ちゃんが生まれるなんて!」
常より輝いている瞳は彼女の興奮を示していて、無邪気なその様にシモンは折角引き締めた頬が
再び弛むのを止める事が出来なかった。駆け寄ってくるニアを椅子に腰掛けたまま腕を広げて
向かえ、目の前に立った彼女の細い腰を抱き締める。
ニアは慣れた仕草でそのままシモンの膝に腰を降ろすと、シモンの年齢にしては細い首に腕を回した。
下から覗き込んでくる睫毛はやはり髪と同じ不思議な色をしていて、卓上の照明をまといつかせてきらきらと光る。
「好きな人との間に授かる愛の結晶なんて素敵ね、シモン」
ニアはうっとりとシモンの胸に顔を寄せた。薄くいささか頼りなくも見えるシモンの体は、
しかしニアにとってはかつても今も自分を守る絶対の城壁だ。その信頼は7年で変わるどころかいや増している。
一方ニアの言葉に、シモンの肩がぴくりと跳ねた。
「……ニアも欲しい?こども」
僅かに掠れる声、シモンはこっそりと頭の中で、机の引き出しの片隅に仕舞ってある小さな箱を思い返した。
銀の台座に緑の石をはめ込んだ指輪である。さりげなさを装いつつ彼女の手を取ってこっそり指のサイズを
推測し、職務の合間に銀細工の店を持ったかつての仲間を訪れてこっそり指輪の作り方を習い、
ロシウの目を盗んで少しずつ形にした努力の結晶だ。
プロポーズするならニアの事を指のサイズしかしらない他人が造った指輪より、自分の思いのたけを篭めたかった。
(そうだ、ビッグチャンスじゃないか。今ここでこれを渡して、俺と結婚して俺の子供を産んでくれって言うんだ)
シモンが心で拳を握り固めたところで、ニアは反芻していたシモンの言葉を漸く理解したのか、満面の笑みで頷いた。
じゃあ、と喜色を浮かべたシモンが頭の中に浮かんだプロポーズの言葉を続けようとした、そのときだ。
「おじいさん!」
ニアが口にしたのは、この場に一番そぐわない単語であった。シモンの喉から「へぁ?」と間抜けな声が漏れる。
次の瞬間、入り口が開いてオレンジがかったマントが飛び込んでくる。ココ爺だ。
老人とは思えないスピードと力は健在で、ココ爺はシモンが呆けた一瞬に総司令室際奥のシモンの椅子の後ろに
回りこんだ。ニアがシモンの膝から立ち上がると、次いでココ爺がシモンを一度椅子から引っ張りあげ、両腕を取る。
その腕を後ろ手に縛り上げて再び椅子の上に落とし、シモンが、今自分は両腕を拘束されたのだと気付く頃には、
老人は既に風のように去っており、ニアがどこで覚えたのか「グッジョブ!」と閉じゆくドアに親指を立てているところだった。
「ニ、ニア?これどういうつもりだよ」
思いつきもしなかった事態に狼狽しながらシモンが傍に立つニアを見上げると、ニアは祈るように両手の指を組んで
小首を傾げてみせた。相変わらず天使のような最上の笑顔をつけて、曰く。
「シモン、私子供が欲しいです!キヤルさんが赤ちゃんの作り方を教えてくれたので早速実践しようと思うの」
「うん、是非はともかく意向はわかった、でも何でここで俺を捕縛する必要が!?」
ニアは再びシモンの膝の上に腰を降ろして、シモンの頬を両手で包む。肌目の細かい指先がそろりと肌を撫でるのに
ぞくぞくしたものを感じながら、シモンは必死に縛られた腕を何とか解けないものかともぞもぞ動かしてみる。
しかし無駄に万能なココ爺の手になる結び目は強固で、そう簡単にシモンを解放してはくれなさそうだ。
「キヤルさんが、シモンはシャイだから縛り上げるくらいの心意気で押せ押せでいけって」
「ニ、ニア、お前いい加減言葉のあやってものを……んんっ!」
シモンの抗議は、ニアの唇で封じられた。先程頬に触れた柔らかく暖かく、濡れているのではないかと錯覚するほど
すべらかな感触が、今度は唇に触れている。擦り付けられるそれに微かに開いたシモンの薄い唇の間、
ニアの花びらのような桃色の舌が滑り込んだ。
「ん、んぅぅ……!」
「ぁん……んむ、シモン……」
薄く小造りなニアのそれは、シモンの頬肉の内側を擽り、上顎をからかうように撫で、前歯の裏を突付く。
経験がない分稚拙ではあるがツボを心得た愛撫に、縛り上げられたシモンの手が堪えるように握りしめられた。
性感を燻されて内股を摺り寄せれば踵が上がる。と、膝の上に座っていたニアの尻が滑り落ちて、シモンの下腹、
僅かに頭を擡げ始めたシモン自身に触れる形となった。
「ふ……っ!」
きつい刺激に、思わず首を振ってニアの唇から逃げる。そっぽを向いたシモンの頬を、ニアが再び手を伸ばして
包むと、ニアの花のような光が浮かぶ目が水の膜を張ったように潤んでいて、白皙の頬も微かに桜色に
染まっているのが解る。
白金色の睫毛に縁取られた潤んだ目の中に映るシモンの目も酷く水気を帯びていて、まるで地下で穴を
掘っていた頃、何かに怯えて縮こまっていた時のようだとシモンはぼんやり思った。
「シモン……何だかとっても可愛い……」
「に……あ……ほどいて……腕……」
「やだ」
薄いが果実めいた充足を湛えたニアの尻が、ことさらにシモンの下腹にこすりつけられるように蠢いた。
ニアの股の間に服越しに挟まれる形になったシモン自身が、新たに血を送り込まれてどくりと跳ねる。
竦む体の隙を突くように、ニアの手がシモンの服に伸ばされた。ぞんざいに羽織られた青い礼服の下、
白のツナギの襟元に、ほっそりとした指先が掛かる。ひとつ、またひとつと釦を外すと、
いかにも若さを思わせるさらりとした肌が露出した。土に塗れなくなって久しい体は、ニアの肌の
白大理石といった趣に比べれば健康な青年のそれではあったが、橙の照明に照らされて
象牙めいた質感を主張する。
晒された、その年頃にしては頼りない首筋に、ニアの唇が落とされた。微かに浮いた喉仏の下から
水の張れそうな鎖骨までを、柔らかな唇と舌がぬるぬると辿る。ニアが動くごとに仄かに甘い香りが
シモンの鼻腔を擽って、シモンは腰骨に溜まる熱と頭の中に渦巻く羞恥に板ばさみになりながら首を振った。
ぱさり、と真夜中の青を湛えた髪が揺れた。ときおり強く吸い上げられて思わず声が漏れる。
「やめ……にぁ……へん、だって……こんな……」
煽られた熱と欲に霞んでくる頭の中で、シモンは必死に思考を巡らせた。
ニアと結ばれる、それ自体はまんざらではない。まんざらどころか大歓迎というか夢見ていたというか、
とにかくそれは構わないのだ。だがこの現状、職場で、彼女のリードのもと、強引に奪われるというのは、不味い。
不味いというかよろしくない。
このまま深窓の姫君だった彼女に一方的に頂かれてしまっては成人した一男性として立ち直れなくなるではないか。
「ニア!」
「なぁに、シモン」
シモンの胸元をちゅうちゅう吸っていたニアが顔を上げて見つめてくる。僅かに頬を染めてはいるが、
きょとんとした表情とほわほわした声は変わらない。シモンはそれにほんの少し安堵する。
「お、俺腹が減ったなぁーって。ニ、ニアが夜食持って来てくれるっていうから、夕方から食べてないんだ、よ」
明らかに苦しい言い訳だった。営んでいる真っ最中に空腹を理由に行為を止めるというのがあまり
一般的ではないことは、悲しいかな現状それらしい経験のないシモンにも解る。これでニアが騙されて
引いてくれるとは流石に思わなかったが、それでも興が殺がれてくれれば御の字だった。
「まあ、大変!ごめんなさいシモン、そういえば約束してたものね。私、今すぐ何か作ってくる!」
しかし予想以上だった。ニアはシモンの言葉に目を見開くと、慌てたようにそれまで跨っていた
膝の上から飛び降り、そのまま小走りで執務室を後にしたのだ。……縛り上げたシモンをそのままに。
一方縛り上げられたままのシモンはずるり、と背凭れに体を預けて荒くなりかけた息を落ち着かせようと
目を閉じた。よかった、ニアがドのつく素直で。
シモンの心配が、あとはいかに腕の拘束を解くかに絞られたところで、再び扉の開閉音が聞こえた。
ニアが戻ってきたのだろうか、と思う間もなく、陶磁器が床に叩きつけられる音が夜のさえた空気の中盛大に響く。
「シシシシシ、シモン総司令!?」
そこにいたのはロシウだった。手には小さなトレイがあり、その足元にはつい数瞬前までそのトレイに
乗っていたのであろう、シモンに差し入れられるはずだったコーヒーカップが無残な姿を晒している。
普段怜悧なその目が驚愕に見開かれるその様は昔の彼を思い出させてどこか懐かしくもあった。
確かに扉を開けたらそこでいきなり友であり上司である人間が縛られているのは予想外の光景であろうが、
何をそんなに驚く必要が、とそこまで思ってシモンは青褪めた。
後ろ手に縛られた腕、これはまだいい。いやよくないが。
興奮冷め遣らぬ紅潮した顔、目尻に滲んだ涙、おそるおそる目を開けて自分の首から下を鑑みれば、
盛大に寛げられてほぼ剥き出しになった上半身に、点々と吸われた痕が残る。
よもやこれを見て、仕事に疲れてうたた寝をしただけとは誰も思うまい。
「な、何があったんですか!ていうか何をされたんですか!!」
ロシウの詰問に思わず素直にニアが、と言いかけてシモンは口をつぐんだ。
いかにココ爺の助けがあったとはいえ、仮にも人類開放の英雄である自分があの華奢で柔らかなお姫さまに
強姦されかけましたなどと口が裂けても言えはしない。
無論、ロシウなら事実を述べても顔色ひとつ変えずに事実の隠蔽に力を尽くしてはくれるだろう。
しかしここでシモンにとって問題なのは、総司令としての威厳ではなく男としての矜持なのだ。
故にシモンは、嘘をついた。
「し、身長2メートル体重100キロの超アマゾネス軍団がよってたかって俺の貞操を!」
「ちょ、超アマゾネス軍団!?」
そんなトンデモ集団が総司令にやすやすと近づけるなんて、とロシウはどこからか携帯を取り出して
警備斑やらなにやらと忙しなく連絡を取り出した。罪もないのに突然補佐官に厳しい叱責を受ける羽目になった
兵士達に、シモンは心の中で全身全霊の謝罪を送る。
(そしてごめんニア、俺は勝手にお前をアマゾネスにしました)
ちょうどその頃。
庁舎より少し離れた自宅のキッチンで、空腹の恋人のために一心不乱に鍋をかき混ぜていたニアが、
くしゅんとくしゃみをした。
【終】