黒い夜空に真っ白な星々が光り輝いている。
その空の下の岩肌に黒いタキシード姿の男が一人寝転んでいた。
昼間のあの一件以来、ヴァンはショックと気恥ずかしさとそして何よりも最愛のエレナを裏切ってしまった罪悪感で
心はどんよりと鉛のように重く、この場所から離れられなくなってしまっていた。
もう、どのくらい自分はここに居るのだろうか?
まさか自分がエレナ以外の女に──それもアイツに反応するなんて。
ヴァンはため息をつくと片腕を額に乗せて、目を閉じた。夜風が心地よく吹き抜けて気持ちがいい。
帽子についているリングがチリンとなった。
ヴァンは目を閉じてエレナの顔を思い出す。いつも柔らかく微笑んで自分を包み込んでくれたあの笑顔。
一緒にいると固く閉ざしていた自分の心がゆっくりと氷解していくのが分かった。
あの日のときもエレナは優しく微笑んでいた。
エレナは自分のよれていた襟元を直してくれて素敵よ、ヴァンと言ってくれた。
綺麗な女だった。
今まで汚い世界にいた自分は、あんなに美しい女を見た事はなかった。
最高に幸せな瞬間だった。これからもこんな幸せな毎日が続いていくと思った。
あの扉を開けるまでは────
意識が戻った時には彼女の姿は無かった。
ガドヴェドに問い詰めても視線を逸らすばかりで何も答えてくれない。
何か嫌な予感がして、まだ痛む体を引きずりながら彼女の研究所や部屋を探し回った。
またあの笑顔に逢いたい。
もう一度、結婚式のやり直しをしよう───そう願いながら。
エレナの姿はどこにも居なかった。
姿だけではなくいつも愛用していたペンやお気に入りの本など彼女に関係するもの全てが消えていた。
エレナという人物の存在自体が消えてしまっていたのだ。
どうしてだ?
なぜ、エレナはいなくなった?
両手で頭を抑え、必死に散り散りの記憶をかき集める。
教会のドア。祭壇のシンボル。金色のかぎ爪。倒れた参列者達。エレナの悲鳴。禍々しい血痕───。
思い出した。
彼女は殺されたのだ。あの教会で。祭壇の所にいた片手がかぎ爪の手を持つ異形の男に。
その事実に全身から力が無くなっていくのが分かった。立っていることが出来ず、その場にへなへなと崩れこむ。
エレナはいない。もういない。
どうしょうもない絶望感が自分を包み込んでいく。
遺体にすがりついて泣く事さえも出来なかった。何もかもがいきなりな事ばかりで頭がグルグルと回る。
自分のなかで何かが終わったような気がした。
エレナを失くした自分に残されたものは彼女の遺したヨロイと───激しい憎悪だけだった。
ヴァンが出て行ってしまった後、追いかけようとウェンディは脱ぎ捨ててあったブラウスを急いで身に着け
ドアノブに手をかけた瞬間、チラリと傷ついたような怯えたような表情のヴァンの顔が頭によぎった。
ウェンディはドアノブから手を離すと、部屋へと戻り傍にあったテーブルの椅子に腰掛ける。
何となく追いかけてはいけないような気がしたのだ。
もしかしたら自分はヴァンにひどいことをしてしまったのかもしれない。
このまま、帰ってこなかったら──そんな不安がウェンディの心に広がっていく。
カメオが心配そうにウェンディの顔を見つめていた。
そんなカメオの頭を撫でてやると、カメオは目を細めてキューと嬉しそうに鳴き声をあげる。
「大丈夫よ。ヴァンはちゃんと帰ってくるから……」
カメオに話しかけるというよりもウェンディは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
日が暮れて夜になってもヴァンは帰ってこなかった。
シャワーを浴びて浴室からでたウェンディはテーブルの上に用意したヴァンの分の夕飯に視線を止める。
今日は彼の好物のハンバーグだ。ちゃんと彼好みの味付けにしたウェンディの力作だ。
ウェンディは髪を拭きながら窓際に寄り添って夜空を見上げてみる。今夜は随分と月が大きく見えた。
昼間のときの青ざめたヴァンの顔を思い出す。
「どうして、あんな事しちゃったんだろう………」
ウェンディは額を窓ガラスに押し付けて、ため息をついた。
あんな風に傷つけるつもりはなかったのに。ただ、自分を見て欲しかった。ちゃんと見て欲しかった。
それだけだったのに。
ウェンディは後悔した。ヴァンはもうこの部屋には帰ってこないかもしれない。
当然だ。
あんなにエレナを一途に想い続けたヴァンの心を土足で踏み荒らしてしまったのだから。
「私……本当に子供だわ。体はいくら成長しても中身はあのときまんま……」
自分を女として見てくれないからといって何だというのだろう?
ヴァンが傍に居てくれるだけで良いじゃないか。毎日、一緒にご飯を食べて、たまにケンカして───
それだけで幸福だったはずなのに。
ヴァンに逢いたい。逢って謝りたい───
もしかしたらヴァンはもうこの町を離れているかもしれない。もし、逢えたとしても彼は自分を
許してはくれないかもしれない。
それでもウェンディは逢いたかった。謝りたかった。
ウェンディはそう心に決めると窓から離れ、ベットの横にあるクローゼットに近づいた。
クローゼットの中から適当な服を見繕うとそれを手早く着始める。髪の毛も結おうかと手を添えたが、止めた。
今は一秒でも時間が惜しい。こうしている間にヴァンはどんどんとこの町から離れてるかもしれない。
ウェンディは部屋の隅で首を引っ込めて寝ていたカメオに留守番を頼むと、ドアを開けて外へと飛び出した。
ウェンディは走った。
まず、町の方に向かって真夜中でも営業している近くのレストランに入ってヴァンの姿を探した。
店内に彼の姿が見つからないと、ウェンディは顔見知りの店員をつかまえヴァンのことを訊いてみる。
「…あの、すいません。ヴァン見かけなかったですか?」
「いや、彼は来てないけど…。どうかしたの?」
「その、ちょっといなくなっちゃて……」
ウェンディは、もごもごと言いにくそうにそう答えると、
「ウェンディ、いなくなったなら俺達も探すの手伝おうか?」
傍で酒を飲みながら、そのやり取りを聞いていた年配のグループの1人がそう言った。
「そうだな。探すなら、人手は多い方がいいだろう。ここら辺なら良いが、森の方に行くと真っ暗だぞ。」
「狼も出るしな。」
皆、口々にそう言うと席を立ち始める。店員も受話器を取りながら、
「それなら、他の店にもヴァンさんがいないかどうか訊いてみますね。」
そういって、番号を押し始めた。
「あの、大丈夫です!!ひとりで探せますから」
ウェンディは慌てて、その親切な申し入れを丁重に断った。ヴァンが出て行った理由が理由だけに
なるべくおおごとにはしたくない。
ウェンディはその店員に丁寧にお礼を言うと、そそくさとその店から出て行った。他にもまだ
営業している店は何件かあった筈だ。ウェンディは、また走り出すとその店へと急いだ。
祈るような気持ちで、最後に入った店にもヴァンの姿はどこにもなかった。
店から出たウェンディは途方にくれてフラフラと路肩にしゃがみこむ。
家から走り続けたせいか、汗で全身がぐっしょりと湿っていて服が体に張り付いていた。
額から流れる汗を手の甲で拭う。他に彼の行きそうな所はあっただろうか?
ウェンディは必死に考えたが、ここ以外で彼の行きそうな場所なんて思い当たらなかった。
やはりヴァンはこの町を離れてしまったのだ。
降り積もる後悔がウェンディの胸を静かに静かに押しつぶしていく。息をするのも苦しいぐらいだ。
「ヴァン……どこに行っちゃたのよ?」
視界の端に映る町の灯りがうっすらとぼやける。
ウェンディはそろそろと息を吐き出すと顔を膝にうずめた。
どのくらいの間そうしていただろうか?
しばらくの間ウェンディは顔を伏せていたが、やがて少し落ち着くと顔をあげた。
走り回ったせいか随分と髪が乱れている。ウェンディはそれを手櫛で丁寧にとかす。
すると、ふと視線の先に白茶けた岩肌が目についた。
その岩肌は町を少し出たゲートの所にあって、崖になっていた。少し先の部分が丸くなっていて変わった崖だった。
ウェンディはぼんやりとその崖を見つめる。
(そういえば、あの場所で自分はヴァンと一緒に旅をしようって……兄さんを探そうって決めたんだっけ。)
いつも兄に任せてベッタリだった自分が、初めて自分で何かを選択した場所だった。
ヴァンがこの町に来なかったら、自分はオドオドとこの町で理不尽な暴力に
怯えて暮らしていただろう。いや、この町自体が消えていたのかもしれない。町の人達もそうだ。
自分で決めて、自分の足で進む───その事を教えてくれたのはヴァンだった。
「行ってみようかな……」
あの場所へ。
ヴァンはここにはもう居ないけれど、彼を少しでも感じていたい。
ウェンディは、立ち上がると服に付いているホコリを手で払い落とした。
崖の方をまっすぐにもう一度見てみる。真っ暗闇で月の明かりだけが頼りという感じだ。
風が吹いてきてウェンディの長い髪を揺らしていく。
ウェンディは深く深呼吸をすると、ヴァンとのその思い出の場所へと向かって歩いていった。
どこか、暗闇の中から獣とも鳥とも分からないような不気味な鳴き声が聞こえてきた。
「ひっ!」
ウェンディは一瞬、身を強張らせると恐る恐る辺りを見回す。
ここに来る途中、護身用にと拾ってきた棒きれに力を込める。が、嫌な汗が手を湿らせていてなかなか
思うように掴む事が出来ない。
先ほどの店の客の1人が言っていた『狼』という言葉がウェンディの頭をかすめる。
本当に狼が出てきたら──そんな恐怖がウェンディの足どりを重くしていた。
道の方もかなり時間をかけて歩いてきたつもりだったが、まだ目的の場所には着けそうにもない。
(・・・本当にこの道で大丈夫よね?)
暗闇のせいでウェンディは自分が今どこにいるのか、よく分からなかった。
このまま引き返したい衝動にウェンディは駆られた。
明るい時間帯だったら、分かるのに──そうだ、このまま夜明けまでここで待ってみようか?
ウェンディはそんな事を考えるが、すぐに首を振った。
(進まなきゃ・・・・・・)
それではさっきの決心は何だったのだろう?
ウェンディは前方をまっすぐ見据えると、もう一度力強く歩き出した。
・・・ジャリ・・・・・・ジャリ・・・
その時、ちょうど歩き出したウェンディの背後から、何者かが歩いてくる音が聞こえた。
その音はウェンディの歩く音に合わせて、少しずつ近づいてくる。
ウェンディが歩幅を速めると、その音も速くなった。明らかにウェンディの後をついてきているのが分かる。
「・・・・・・・・・っ」
しばらく歩きながら様子を伺っていたウェンディだったが、怖さのあまり堪らなくなって駆け出した。
ウェンディが駆け出すと後ろの足音も速くなった。
途中、砂利で足をとられそうになるが、なんとか自分の身が隠せそうな大きな岩場を見つける事が出来た。
ウェンディは、急いでその岩場の影に隠れると息を殺しながら相手の出かたを待つ。
向こうが近づいてきたら飛び出していって、棒で殴りつけるという寸法だ。
心臓がバクバクとなって、背中には冷たい汗がヒヤリと流れた。力を込めたはずの両手は
フルフルと震え始める。
ウェンディがそうしているうちに、また背後から砂利を踏む音が聞こえ始めた。
その音はどんどんと大きくなって、ウェンディの隠れている岩場の方まで近づいてくる。
やがて相手の息遣いまで聞こえ始めた。
「くっ・・・来るならきてみなさいよっ!!」
ウェンディは意を決して隠れていた岩場から身を乗り出すと、手にした棒を構えて思いっきり振り上げる。
「あ?・・・・・・おっおぃ!やめっ・・・・・・」
相手が何か言うのもウェンディの耳には入らず、それは勢いよく相手の頭に振り下ろされた。
イッテェ──ッとどこかで聞いた覚えのある叫び声を出しながら、目の前の人間は頭を押さえて崩れ落ちた。
「簡単にはやられたりなんかしないんだから!!」
ウェンディは倒れこんで頭を抱えている相手に対して、なおも殴りつけようと再び振り上げる。すると、
「まっ…待て!ちょっと待て!!俺だ。俺だよ!!」
「……えっ?」
ウェンディは振り上げた体勢のまま、相手の顔をまじまじと見つめた。
「やだ……ヴァン、なんでこんな所にいるのよ…」
ウェンディはゆっくり腕を下ろすと、その場にヘナヘナと崩れ落ちる。
「それはこっちのセリフだ!いきなり人の頭をぶったたくなんてどうかし……おい、どうした?」
顔を上げずにぼんやりと自分の手元を見つめているウェンディに、ヴァンは少し心配になって声をかける。
「おい」
反応がないことにヴァンは少しイラついて、ウェンディの肩を掴むと少し乱暴に揺すった。
「返事ぐらいしろって」
うつむいたままだったウェンディが、ゆっくりと顔を上げる。
顔を上げたウェンディの両目には、今にも零れそうな涙が乗っていた。
「えっ?………なんだ、お前……」
その涙に驚いて、ヴァンはウェンディの肩から慌てて手を離す。
「だって、もう会えないかと思って・・・・・・」
「はぁ?………」
「…昼間のこと怒って、もう私のこと嫌いになったかと思っ……」
一息でそれを言うと、堪えていた涙がボロボロと零れた。慌ててウェンディは必死でそれを拭い取る。
それでも涙は次から次へと溢れてきて、上手く喋ることが出来ない。
「出て行った、きり、帰って、こないし、町の中、探しても、いないし……!」
「あ───……そりゃあ、悪かったな。心配させて。」
「本当よ!心配したんだから!!ヴァンの馬鹿!」
そう言い放つと、ウェンディは両手で顔を覆って本格的に泣き出し始めた。
そんなウェンディの姿を見て、ヴァンは困ったように頭をかきながらも、どこか他人事のような感じで
ぼんやりとそれを見つめていた。
「……ヴァンこそ、なんでこんな所にいるのよ。」
しばらくの間、泣きじゃくっていたウェンディだったが少し落ち着くと、もう一度そんな事をポツリと呟いた。
「あぁ、俺か?俺は道に迷ってた。」
「?」
今度はウェンディがキョトンとする番だった。
「いや、歩いてたらなんか暗闇にモゴモゴ動いてるのがいたから、近づこうとしたら……」
コレだ───そう言って、ウェンディの横に転がっている棒きれをヴァンは顎で指し示した。
「…………………」
───ヴァンの話す内容をまとめたら、つまりはこうだ。
昼間のあの後、混乱する頭でブラブラ歩いていたら、いつの間にかここの崖に辿り着いてしまった。
なんとなく帰りづらくて、しばらくはボンヤリして時間を潰していたが腹も減ってきたので
そろそろ帰ろうかと、もと来た道に戻ろうとしたら何故か迷ってしまった───という事らしい。
あまりにもヴァンらしい、単純明快な内容だった。
ウェンディがグダグダ悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しく思える程に。
あまりにも馬鹿らしくて、ウェンディの涙もすっかり引っ込んでしまった。
(それじゃあ、もともと帰るつもりではいたのね……)
脱力感にとらわれながらも、ウェンディは少しホッとした。
「それじゃあ、帰るか。」
ヴァンはそう言うと立ち上がり、まだ地べたに座り続けているウェンディに
声をかけた。
「うん、そうね。でも……本当に怒ってない?」
服のホコリを払いながら立ち上がると、ウェンディはオズオズとヴァンの顔を見上げる。
「痛かったけどな。まぁ、いいさ。」
「違うってば。さっきの事もそうだけど……昼間のことよ。あんな事しちゃって……」
あの時いくら頭に血が上っていたにせよ、あらためて思い出すと顔から火が出そうだった。
ウェンディは急に恥ずかしくなってきて、ヴァンの顔から視線を逸らす。
「ヴァンのこと傷つけたと思うし、エレナさんとの思い出も……」
「…………」
「私、もう『ヴァンのお嫁さんになりたい』だなんて言わないから……」
「…………」
「ごめんなさい。」
なにも話さないヴァンにウェンディは気詰まりを感じて、彼に背中を向けると
町のある方の道へと歩き出した。
「ヴァン、早く帰ろう。もう夜も明けてき」
「ウェンディ」
ウェンディの背中越しに、ポツリとヴァンの声が聞こえてきた。
「あの、さ。……俺はやっぱりエレナが大切なんだ。」
「………うん。」
「アイツを殺したところでエレナが戻ってくるわけじゃないし、
いまだに殺されたときのことは夢でみる。
エレナがいなくなったら、もう俺の人生は終わったも同然なんだよ。」
「………」
「……エレナのことは忘れられないし、忘れたくはないんだ。」
分かってる、分かってるから。
もうそれ以上は言わないでよ───
石を飲み込んだように、胸が苦しかった。
あらためてヴァンの口から聞くその言葉は、すでに分かっていた事とはいえ、やっぱり辛い。
さっきまで引っ込んでいたのに、また緩々と瞳が潤んでいくのが分かる。
「……分かってるわよ!だから、早く帰…」
背中越しで聞いていたウェンディだったが堪らなくなって、まだ話そうとしているヴァンを
遮りそのまま歩きだそうとした。が、急に強い力で腕を掴まれる。
「聞けよ!でも、俺は、そう言いながら、お前から逃げてただけなのかもしれない。
お前の気持ちに気付いていながら、見ないようにしていたのかもしれない!」
「っ………!」
「エレナを盾に、して……」
ヴァンはそう一気に吐き出すと、やがてゆっくりとウェンディの腕から手を離した。
「……俺自身、よく分からないんだよ。その…昼間、お前に……ああゆう事されて。
正直、すごいびっくりした。」
「……………」
「でも、なんか嫌じゃなかったんだ。お前にああいう事されるの……。何でだろうな。」
それだけ言うと、ヴァンは黙り込んでしまった。
ウェンディはゆっくりと向き直り、ヴァンの顔を見つめた。
悲しそうな困ったような、随分と情けない表情のヴァンがそこにいた。
図体は大きいくせに、なんだか頼りない小さな子供のようで、思わず少し吹き出してしまう。
「…なにがおかしい?」
「ううん。ごめんなさい、何でもないの。」
「まったく、人が真面目に話してるってのに。」
くすくす笑っているウェンディを、変な生き物でも見るかのような目つきでヴァンはジロジロと見ていた。
が、やがて元気になったウェンディにひと安心したのかヴァンもつられて少し笑う。
「なんか久しぶりだな。お前が笑ってんの。」
その、時折見せるヴァンの少し寂しそうな笑顔を見て、ウェンディはまた胸が苦しくなる。
ただ先ほどまでの重かった胸の苦しさとは違う、もっと別の種類の苦しさだ。
胸をキューッと締め付けられて、泣きたくなる。
でも何だか暖かいものがウェンディの心を奥のほうからヒタヒタと染み渡らせ、満たしていく。
「ねぇ、ヴァン」
「何だ。」
「…手を繋いでもいい?」
ウェンディはそう言って片手を差し出した。
「はぁ?なんで手なんか……」
「なんだっていいじゃない。ほら」
ウェンディは、そう言ってヴァンの手を無理矢理、右手で握り締めると、
「……なんかね、ヴァンとこうしたくなったの。」
そういって微笑んだ。
「さっ帰ろうヴァン!お腹空いたんでしょう?」
「あっああ……なんなんだ、お前……」
なかばヴァンを引きずるような形で、ウェンディは、町への道を元気よくどんどんと歩いていった。
ヴァンはというと、どうしてこういう流れになるのかなんだか訳が分からないといった面持ちだ。
歩きながら、空を見上げる。
空は段々と白み始めてきて、辺りも少しずつ長かった夜の姿から形を変えつつあった。
もう少ししたら、太陽が出てきて明るくなって、またいつも通りの毎日が始まるだろう。
でも、同じような毎日でもあの夜明け前の空のように少しずつ少しずつ変化していくものなのかもしれない。
自分とヴァンとの関係だってそうだ。
先のことなんて分からない。
早朝特有のひんやりとした冷たい空気の中で、繋いだ手の温もりが心地良かった。
遠くに自分達の町が見えはじめた。いろいろあったせいか、たった一晩離れただけなのに
ひどく懐かしく思える。
もうすぐ夜明けも近い───