ぐう、と胃の奥からの鈍い響きに、ヴァンはわずかに眉をしかめた。
もう何日、食べていないか。
前の町で流し込んだ料理・・・とは言えない、ほとんど調味料を満載した皿を懐かしく思い出す。
が、いくら記憶を反芻しても、それで腹が膨れるわけもない。
眠れずに、ごろりと岩の上を転がった。月は白く、強迫的なまでに頭上にのしかかってくる。
また空腹を紛らわそうと、懐のパズルを握ってみる。だが、
ーーー眠るには、この方がいいか。
冷たく見下ろす月から目をそむけて、自分の分身を握り締めた。
夜気の冷たさに触れた拍子に、帽子のリングがちりん、と鳴った。
ーーーヴァン、
思い浮かぶのは、愛しい女の声。
もうこの世にはいない、自分の全て。
あの細い手で、自分の手を握ってくれた。無縁そのものだった平穏を与えてくれた。
一緒に暮らしてくれると言ってくれた。そして、ずっと続くはずだった。
ーーーヴァン、私たち、結婚するのよ。
あれは式の前の晩。
絶望と激情に混沌とした今とひきかえ、エレナとの日々はより鮮明に思い出される。
ミルクとワインで乾杯をして、微笑むエレナに見入りながら夕食を取った。
幸せな、心から幸せそうなエレナを見ていれば、あの頃は調味料なんか要らなかった。
暖かな部屋、美味い料理の味、明日には妻になる最愛の存在。
殴ったり奪ったりしなくても暮らしていける未来。
エレナがいれば自分も幸せで、自分がいればエレナも幸せにできる。
まるで夢のように全てが満たされていた・・・
それは確かに夢ではなく、喪失の怒りは今も胸で燃え盛っている。
ーーー明日は、みんな祝福してくれるわ。
ガドヴェドさんも、お友達を連れてきてくれるんですって。
「みんな」なんかいらない。エレナといられるだけでいい。
でもそれがエレナの幸せの一部なら、自分もそれを守らなくてはいけないだろう。
まともな暮らしとはどういうものか、まだよくはわからない。
でもそれを脅かす奴がいるなら、撃退できる自信はあった。
鍛えた長身と腕っ節。それだけが、エレナと出会う前に得た唯一の誇れるものだ。
他はもう、要らなくなる。惨めな過去は捨てて、生まれ変わることができる・・・
ーーーねえ、ヴァン。
ふと手を取られて、長椅子へ導かれた。まだ食事は残っていたが、誰かに取られる心配ももういらない。
ーーーねえ、ヴァン。
柔らかい椅子や寝床にはまだ慣れなかった。柔らかすぎて、体がゆがみそうな気がしてしまう。
すぐ隣に座ったエレナは、自分の手を握っていて・・・その手がゆっくりと頬に触れる。
のしかかるように身を寄せてくる近さ、暖かな重みが気恥ずかしかったが、
エレナも少し恥ずかしそうに、それでも本当に嬉しそうに微笑む瞳に吸い付けられて、動けない。
逃げる必要もなかった。こんなに他人と体を密着させて安心できるなんて、
以前なら信じられなかっただろう。
おずおずと背に手を回す。折れそうに華奢な体の扱いがわからなくて、少しずつ力を込めていった。
腕の中に収まるエレナの香り、胸に触れる胸も顔に落ちる亜麻色の髪も、
どこもかしこも柔らかな愛しい体。
ーーー苦しい、
強すぎたのか不意に呟いたのに慌てたが、でも微笑みながら唇に唇を寄せてくれた。そして、触れ合う。
この感触にはいつも気が遠くなる・・・今度こそ力加減に気を配りながら抱きしめれば、
互いに鼓動が高鳴るのを感じ、甘い感覚に酔いしれて執拗に唇を重ねる。
ひそかに目を開くと、うっとりと閉じたエレナの瞼がすぐそこにあった。
決して無理強いはしていないことに安心して、夢中で息を継ぎながらまた唇を求めて・・・
ふと小さく笑う気配と共に、熱い舌に唇を割られた。驚いてもぎ離そうとしたが、
いたずらっぽい笑みを浮かべたエレナに首を抱かれて、口腔を犯されるよりない。
歯列をなぞられ、口蓋を舐られ、舌に舌が絡みつき、鈍い味覚にも甘い唾液が流れ込む。
脳の奥がとろけそうな快感に耐えかねて顔を逸らすと、耳元でくすぐったい吐息がささやいた。
ーーーこういうのも、あるの。
ーーー明日は・・・
ーーー式では、だめ。でも・・・
そう、式でもキスをするんだった。まともに結婚式というものを見たことがない、
教会自体ろくに行ったことのない自分に、エレナは式の流れや意味を丁寧に教えてくれた。
教会どころか、社会常識とされるものをまるで知らない自分を、エレナは馬鹿にしなかった。
いちいち驚いたり蔑んだりする連中とは違って、必要なことを一つ一つ教えてくれる・・・
「こういう」事も。
しかし普通のキスにしても、牧師やガドヴェドや客の前で、どんな顔をしたものか想像もつかない。
とぼんやり思う間もなく、まっすぐに見つめるエレナに視線が引き戻された。
ーーーねえ、ヴァン。
つと手を取られた。エレナの細い手が好きだった。今もたまらなく好きだ。それは導きの御手。
その白い指を自分の無骨な指に絡めて、豊かな胸に押し当てるのを、
どこか信じられない思いで見上げていた。
初めて手で触れた胸の柔らかさに、ぞくりと鳥肌が立つ。これこそ迂闊に扱えば壊してしまいそうな、
それでいて張りのある丸やかな感触の頂点に、固い芯を感じた。
それが何かは知っている。わずかに指を動かしただけで辛そうに息を詰めて、
ひくりを背を反らせるエレナが、恥じらいを含んだ目に何を感じているかもわかっている。
・・・けれど。
ーーーヴァン。 ・・・いいのよ?
その言葉に甘えるには、流れ者暮らしに浸かりすぎた。
男と女の関係といえば、金や力で相手を曲げて言うことを聞かせるもの。
服ばかり豪奢に着飾って虚ろな媚態を浮かべる娼婦、時に集団で苦痛もかまわず嬲る連中。
それだけは絶対に与したくなかった。そうでなくても、ろくに知りもしない相手と、
身を鎧うなけなしの服すら脱いで絡み合うなど、よくできるものだ。
自分は違う。エレナもそんな相手とは違う。エレナには全てさらして構わない。
そして苦痛を強いたくない。せめて式を挙げてからというのが「まとも」というものらしい。
・・・だから。
ーーー・・・いや。
ーーーえ?
ーーー明日、終わったら、続きをしよう。
自分でも無理をしていたと思う。当然、見抜かれていただろう。
また深い口づけの後、するりとほどかれた白い手が股間に伸びるのには本気で慌てた。
敵なら容赦なく蹴倒す脚のやり場がなく、制しようとした声は指の感触に焦って飲み込む。
ーーー大丈夫。
微笑んだ唇に、先端が含まれるのを呆然と見つめる・・・間もなく、熱く柔らかい刺激に思わず息を吐いた。
何が大丈夫だ。一人での処理とはまるで違う、未知の快感が背筋を貫き、
股間に最愛の人をうずくまらせる罪悪感と、丁寧に舐め上げ、吸われる快楽の落差で気が狂う。
ようやく肩を掴んで中止を叫ぶと意地悪く歯を立てられる、それさえも至福。
抵抗をあきらめれば途端に腰へと衝動が襲いかかった。堪えようもない熱に浮かされ、
空白な脳にひたすら愛しさが焼き付けられる・・・そして溢れ出す、空虚なまでの充足感。
気がつくといつの間に掴んでいたのか、ひどく髪を乱しむせて咳き込むエレナがいた。
慌てて抱き寄せると、白濁のにじむ唇が唇に押し当てられる。舌に乗って伝わる、ひどい味。
必死に髪を撫で付けてやりながら、内心絶望していた。こんなものを飲ませてしまって・・・。
・・・それでも。
ーーー明日は、私の番ね。
ーーー・・・ああ、頑張ってみるよ。
ーーー頑張ることじゃないわ、愛してくれていれば。・・・愛してるわ、ヴァン。
ーーー俺もだよ、エレナ。
それはまるで、夢のように。
微笑むエレナは、夢のように幸せそうだったんだ。
目を開くと、相変わらず月が浮かんでいる。
ヴァンは手に放った精液を草むらになすりつけて、残りを少し舐めてみた。
匂いは少し感じるが、もう味はよくわからない。でもきっと、相変わらずのひどいものだろう。
こんなものを自分から飲むというのもよくわからない。でも、確かにエレナは愛してくれていた。
あの「翌日」・・・倒れたエレナの手を、自分は取ることができなかった。
そして目が覚めた時、全てがなくなっていた。夢見ていた全てが、何もかも。
・・・それを思い出すと、もう眠るどころではなくなってしまう。
もう一度手を草でぬぐって、夜闇の中に立ち上がった。仇を求めて。
全てを奪った仇を殺しに、次の町へと歩き出す。
月の光を静かに返して、帽子のリングがちりん、と鳴った。
=完=