まあ、当然の話だが、初めての、それも最愛の人相手に、あんな路地裏でいきなり野外プレイとしゃれ込む程にゃ、
俺は鬼畜じゃないわけだな。……ホントだぞ?
近場にそういう事をできる場所が無いか、と考えた末に思いついたのがここだった。
「……隆之さん……ここは……?」
有体に言えば、廃墟。所々壁は崩れかけ、歩みを進める度に埃が舞い上がる。
「秘密の隠れ家、って奴かな?」
しばらく使っていなかったせいか、あちこちに蜘蛛の巣が張っている。
手でそれを払いながら、俺は奥へと歩いていく。
「………………」
未央の顔には、不安の色がありありと現れていた。
自分がどこに連れて行かれるのだろうかという不安か……あるいは、これから"する"事に対しての不安か。
ま、両方だろうな。
「心配するな。もうすぐ着く」
そういって程なくして、俺は目的の扉に行き着いた。
「ここだ」
扉を開け、未央を招き入れる。
「!」
そこは、それまで歩いていた廃墟とは似ても似つかない、整った部屋だった。
「我が秘密の隠れ家へようこそ。マイ・スイート・ハニー」
「……す、凄い……!」
未央が瞳を丸くする。
まるで、高級ホテルの一室のような絨毯、カーテン、そしてベッド。
ここだけは掃除されていたか、埃はほとんど舞っていない。
「ま、とりあえず飲み物でも飲むか? 酒もあるぞ」
「……隆之さんも、未成年ですのに」
「ははは、ま、固いこと言いなさんなって。どうする?」
「じゃあ……少しだけ」
俺は笑いながら、備え付けの小型冷蔵庫から瓶を取り出した。
栓を開けて、戸棚から取り出したコップに中身を注ぐ。
「一体、ここは?」
……まあ、当然の疑問だな。
ここは、俺が芝村に飼われていた時、真夜中に舞う事を条件に与えられていた休息の場所――
「……まあ、昔、ちょっとな」
「………………」
俺の手渡すコップをソファーに腰掛け受け取りながら、未央は物珍しげに辺りを見回している。
「……その……女の、方と?」
「……え、あ」
「ふふふ……気にしませんよ、もう」
不安気な表情から覗く、悪戯めいた笑顔。……ちょっとだけ怖い。
「……まあ、そういう事もあった」
「もう、無いん、ですよね?」
「ああ」
俺はきっぱりと答えた。
「……嬉しい」
不安気な表情が、少しだけ和らぎ、今度は喜びの笑顔が彼女の顔を彩る。
朱に染まった頬が、本当に、可愛い。愛らしい。愛おしい。
「じゃあ、一先ず乾杯だ」
「はい」
いますぐにでも抱きしめて、想いをぶつけてしまいたい衝動を抑えながら、俺はグラスを掲げた。
「ありきたりだが……俺たちの未来に」
「私たちの、未来に」
グラスを打ち合わせる、澄んだ音が響いた。
「……お酒、飲むの初めてです」
「ま、無理するなよ」
変な匂い、と呟きながら、未央はグラスの中身を一気に飲み干した。……って一気に!?
「うにゃ〜」
見る見る内に、顔どころか、手や足まで真っ赤っ赤の真っ赤っ赤に染めて、仰向けにソファーに全身を投げ出した。
それなりの度数の酒だ。今まで酒に耐性の無い人間が一気飲みすれば、まあ、ぶっ倒れるのは至極当然。
「……………………えーと……」
……こ、こういう展開になるとは、思ってなかったぞ、おい。
―― 一方その頃 約二十時間ほど前の事 ――
その少女は、いまだ誰も知らない、少女自身すらも知らないが、世界に選ばれた世界の守護者であった。
人類史上六人目の絢爛舞踏章を受賞し、人類の決戦存在にしてHEROと、そう後に呼ばれる事になる少女は、
この時はまだただの少女であり、後に待つ己の命運など知る由も無く、いつものように大好きな"先輩"を追い掛け回し、
そしていつものようにつれない態度をとられ、そしていつものようにそれでもめげていなかった。
名を新井木勇美と言う。
「来須先輩ー!今日はお弁当作ってきたんですよー!」
来須は、自分に差し出された弁当箱――絵に描いたようなドカベンだ――を一瞥すると、
「……すまんな」
そう一言だけ言い残して、その場を立ち去った。
玉砕、である。
「………………」
だが、この程度でめげる女では、新井木という少女はなかった。
でなければ、一度は世界の防衛反応の為に記憶の中から消された存在を、それでも追いかけ、そして追いつき、
最後には結ばれるような事もなかっただろう。
全ては執念の為せる技――だが、それはまだまだ先の話。
「……やっぱり、カッコいい」
うっとりした声で呟く彼女は、まだ普通の少女だった。
「また玉砕か、新井木」
物陰に器用に隠れていた――というか、たまたま弁当手渡しの現場に遭遇して、出るに出られなかった
というのが正しい――巨体が、姿を現す。
「若宮先輩」
若宮康光。新井木の愛する"先輩"、来須銀河と二人で5121小隊の戦車随伴歩兵として戦う男だ。
戦場においては重ウォードレス"可憐"に身を包み、鬼神のごとき戦い様を見せる彼も、普段は爽やかな好青年だ。
――少しおつむが足りないのがたまに傷だけど、とは新井木の評である。
「……見てたの?」
「不可抗力だ。許せ」
本当に不可抗力だったが故に、その笑顔に曇りはなかった。
不覚にも覚えてしまったときめきに、新井木の顔が少し赤くなる。
「……じゃあ、許す代わりに、これ」
「それは、来須に作ったんじゃないのか?」
「戦況は安定してるけど、食べ物を粗末にしていい理由にはないからね」
「残飯処理、って所か?」
「……そ、そんなつもりじゃないよっ!」
「ははは、冗談だ。ありがたくちょうだいしよう」
(――若宮先輩も、結構カッコいいんだよねぇ。バカなのがたまに傷だけど)
その述懐を知ってか知らずか、若宮は新井木の手を取った。
「えっ?」
「もう昼だ。お前もまだだろう、昼飯?」
「…………」
「たまには、来須以外の男を見てもいいんじゃないか?」
なんだか、告白でもされてるみたい――そんな想いが、新井木の顔をますます赤くする。
「……話、聞いてくれます?」
「俺でよければ」
――後に、一時期ではあるが、この二人は付き合う事になるのだが、それはまた別のお話である。
「いい天気だな」
プレハブ校舎屋上のベンチに並んで腰掛け、二人はそれぞれの弁当を広げた。
「……はぁ」
「ん? どうした、ため息なんかついて」
「いつか、来須先輩と、こうして並んでご飯食べたいなー……って」
「はっはっは、俺じゃ役者不足という事か」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「冗談だ」
笑みにイヤミは欠片も無い。その事に少しだけ腹を立て、少しだけほっとしながら、新井木は言葉を口にした。
それまでは、心をよぎっても誰にも話す事のなかった不安を。
「来須先輩って、ボクの事嫌いなのかな……」
「さあな」
「若宮先輩、いつも二人でいるのに、わかんないの?」
「……なんとなく、だがな」
若宮は、普段見せないような難しい顔をしながら言った。
「アイツは、来須銀河という男は、誰にも理解できん。そんな気がする。アイツ自身が理解される事を望んでいないような、な」
「……つまり、わかんないんですね」
「ははは、身も蓋も無い言い方をすれば、その通りだ」
一転、この晴天のごとく晴れやかに笑う若宮。
「そんなんで戦場だと大丈夫なんですか?」
「戦場ではな」
新井木は、若宮とこんな風に話をするのは初めてだった。
「戦場では人としての理解は要らない。兵としての理解と信頼があればいい。来須の兵としての動きは理解できるし、
兵としてはこれ以上無い程に信頼している」
そしてわかった事がある。若宮という人間は、バカなわけではなく、図抜けて素直なだけなのだと。
猫の目のように、コロコロと変わる表情は、来須とは対照的ではあったが、また違った魅力があった。
「それって……絆、って奴なのかな」
「そういう言い方もするかもしれんな」
「絆、か」
それを、自分が来須と結ぶ事ができるのだろうか。それを、人としてのそれを。
「お前のいい所は、諦めない事だな」
「え?」
「本当に欲しいと思ったものを、諦めない事がお前の長所だと俺は思う」
「……けど、ボク……」
「確かに、お前は飽きっぽいし、訓練はよくサボるし、整備も手抜きが多い」
「ちょ……酷いよ若宮先輩! ……そりゃ、その通りだけどさ」
「だけど、それはお前が本当に欲しいと思ったものじゃないからだろう?」
「……そう、なのかな」
「来須の事を、お前が本当に欲しいと思ったなら……」
「思ったなら?」
「あるいは、お前なら……アイツを人として理解する事も、できるのかもしれないな」
「………………」
「だから、頑張れ。負けるな。力の限り、向かっていけ」
「………………」
「ま、俺が言いたいのはそれくらいだ」
いつの間にか空になっていた弁当箱を、新井木の膝の上において、若宮は立ち上がった。
新井木には逆光になって見えない頬は、心なしか赤くなっているようだった。
「……弁当、美味かった。ありがとう」
若宮がそう言って立ち去った後、新井木は自分が少しも弁当に手をつけていない事に気づいた。
「……ボクの方こそ……ありがとう、若宮さん」
思い出したかのような晴れやかな笑顔で、新井木は弁当を一口食べ、そして気を失った。
まさにそれは、気を失うような不味さだった――
若宮康光 特殊能力:鉄の胃袋
目を覚ませば、そこは整備員詰め所だった。
「……ん……あれ……?」
気絶していた間に、仮眠用のベッドに運ばれていたらしい。
一体誰が? その疑問に答える者はいない。詰め所には、新井木の他には誰もいなかった。
実は、用事を終えた来須がたまたま倒れていた新井木を見つけ、ここへ運び込んだのだが、当然の事ながら
新井木には知る由もない。知れば小躍りして喜んだだろうが。
「……それにしても」
答えの出ない疑問はすっぱりと捨て去り、新井木は先程の自らの弁当の味を思い出し、身震いした。
「ボクって、こんなに料理下手だったっけ」
弁当を作って渡すという行為自体に舞い上がり、ろくに味見もせず、調味料の分量を間違えまくり、
調理時間も十分なものではないとなれば、そうなってしまうの仕方がなかろうものである。
「……はぁ」
ため息一つ。だが、一度思い出した晴れやかな笑顔を、新井木は忘れなかった。
「ま、来須先輩に食べてもえなかったのは、不幸中の幸いってとこだよね。
こんなの食べさせてたら、本当に嫌われるとこだったし。へへへ」
若宮がその弁当を綺麗に平らげていた事実については深く考えない事にして、新井木は笑った。
「若宮先輩にも言われたしね!諦めない、それがボクにできる戦いなんだ!」
次はきちんと食べられる弁当を、と新井木が決意した、その時だった。
「ん?」
詰め所の入り口に気配を感じ、新井木は思わず布団を被って隠れた。
隠れる必要など無いと気づいた時には気配の主が詰め所内へ入ってきていて、出るに出られなくなっていた。
「……誰もいませんね」
「なんで小隊司令室じゃなくて、こんな所で?」
「司令室には加藤さんがいますからね」
「……で、俺に話しってなんなんです、委員長?」
(珍しいな、瀬戸口さんと委員長の組み合わせなんて)
明かりの灯っていない詰め所は暗く、姿は判然としなかったが、声から瀬戸口隆之と、善行忠孝の二人だとわかった。
こんな暗がりで、祭ちゃんがいたらできない話だなんて!と新井木が妄想をたくましくする暇もなく、善行は話を切り出した。
「実は、貴方の遍歴をかって、一つお願いが」
「……お願い、ですか。命令じゃなく」
「ええ。実際は似たようなものですが」
二人とも、ベッドの中に新井木がいる事には、全く気づいていないようだった。
「貴方の、その女泣かせな所を見込んで、ね」
「……委員長。俺はプレイボーイは廃業したんだがね」
「ええ、知っています」
善行は、いつものあの無表情眼鏡なのだろう。
瀬戸口が小さくため息をつく音が聞こえた。
「生憎と、私には貴方くらいしか適任が思いつかないもので」
「……"そういう話"なんだよな?」
「"そういう話"ですよ」
「……受けたら何か報酬はあるのか?」
「特には」
「……受けなかったら?」
「色々と」
「………………」
「………………」
沈黙がしばしその場を支配する。
なにやら、際どい話のようだ。
(瀬戸口さんって、確か未央っちと……だよね)
何度か、二人で弁当を食べている姿も見ている。先日は、市街地で二人で買い物をしている所も見た。
逆に、瀬戸口が、かつてのように日替わりで違う女性とデートしている姿を見る事はなくなっていた。
何より、二人の態度を見ればそれは如実にわかった。先日の戦い以来、二人の間にある空気が変わっていた。
(未央っち、何か優しくなったもんね……それに……)
元々耳年増で色々と"そういう知識"に(だけは)詳しい新井木に、壬生屋が度々"そういう話"を聞きにくるようになったのも、
丁度その頃だったように思う。それまでは、壬生屋の方から"そういう話"を聞いてくるような事はなかった――"そういう話"に
耳をそばだてていた事はしょっちゅうだったが。
(アレとかアレとか貸してあげたけど……もうやる事やってるのかなぁ、未央っち……ちょっと羨ましいかも)
自分もいつかは来須先輩と……と想像して、思わずにやける新井木。
そんな新井木の妄想を他所に、沈黙は破られた。瀬戸口の苦々しげな声で。
「……俺は、アイツを大事にしてやると誓ったんですよ」
「なに、気づかれなければ問題ないですよ」
善行の即答に、瀬戸口は再び小さくため息をついた。
「最初からそのつもりか………………狐め」
「そう呼ばれるのも久しぶりですね」
「……聞かせろよ、その話とやらを」
瀬戸口の求めに応じ、軽く咳払いをし、善行は任務について話し始めた。
「――ある幻獣共生派と目される女性を、篭絡して頂きたいのですよ」