工藤は自室の姿見の前にいる。
整った顔。長く伸ばした髪、細い首。そこまで見て、浮き出た鎖骨の下あたりから柔らかい線を描く乳房がある事に気がつく。鏡の中にいるのは憂いを含んだ目をした美少女である。ただ、その表情は憮然としたものだった。
この髪をばっさり切って、この邪魔な乳をどうにかしたら男に見えるだろうか。
工藤百華はそう思って、姿見の前で「男らしいポーズ」をしてみるのだった。あれやこれやとポーズをとっていると、何故か最後には体をしならせて流し目をする、「女らしいポーズ」になってしまっていた。工藤百華の魅力が2上がる。
がっくりと肩を落とす工藤。
世の中にはどうにもならないことが2,3ある。少なくとも工藤はそう思っていた。
そのどうにもならないこと2,3の中に、工藤の男とも女ともつかない体の事も、もちろん入っている。
今更どう足掻こうと男らしくなんてならないことを工藤は理解していた。
小島航は、女みたいな顔をしているし、髪も長いがちゃんと男の子だ。男の子に見える。
その小島とよく一緒にいる谷口はもうもちろん女らしいところなんてひとかけらも無い。
真に羨ましいことだ。
工藤はどうにならないことを理解していたが、それでもやはり、ちゃんと男の子しているクラスメイト達が羨ましく、妬ましかった。
なによりあいつらは、あの中隊長に男だと思われている。
それが何より羨ましい。
ふと時計を見上げると、七時の二十分を回るところであった。
そろそろ隊長を迎えに行こうと思う。小島やら谷口やらが迎えに行く前に自分が迎えに行くのだ。
ハンガーにかけてあった制服の上着をひっ掴んで、工藤は家を出た。
女の子はいいにおいがする。俺だってするけど。
女の子はやわらかい。俺だってまぁ一部を除くとやわらかい。
でも女は汚い。クズだ、クズ。俺は、伯父さんに育てられた俺は、クズではないと信じている。
その俺は、隊長はクズではないと思っている。
工藤は息を弾ませて雪の積もる道を走り抜けている。
新雪を踏み固めた道はでこぼこで、頻繁に工藤の足を掬ったが、それでも工藤の足は前へ進んで走るのをやめなかった。
道すがらうだうだと考え事をしたために、いつも隊長・石田咲良を迎えに行く時間を大幅に遅れたのだった。
隊長は待っているだろうか。いや、待っているだろう。
一人暮らしの広い部屋で、一人で膝を抱えて、最悪の事態を想定して、嫌われたと思って泣いているかもしれない。
実際、最悪の事態を想定してぐるぐるしているのは工藤である。だが、工藤は落ち着いて我が身を省みる余裕は無かった。
何しろ、最愛の隊長の危機である。
今、参りますとばかりに最後のコーナーを曲がる工藤。
減速をしなかった為に、大きく車道へはみ出す。クラクションが鳴る。
その全てを無視し、最後の直線を走る。
そのゴールは石田咲良隊長の家のドアのはずであった。しかし、工藤はそのゴールを変更せざるを得なかった。
遙か前方、学校へ向かう道。
そこに、目立つ青い髪の少女、見紛う事なき石田と、目立つ巨体、谷口が手をつないで歩いているのが見えたのであった。
「お、おのれぇぇぇぇぇぇ!!」
雪の降る道で仁王立ちし、叫ぶ工藤。猫が逃げ、ゴミに群がるカラスが一気に飛び立った。
後ろから歩いてきた竹内が驚いて転び、憔悴しきった声でごめんなさいと叫んだ。
とりあえず竹内の顔を蹴り飛ばし、のしのしといった足取りであの二人が消えた学校校門へ歩く。
腹が立つ。腹が立つ。
今日はもう隊長と口を聞いてやんないことにする。
ついでに隊長にあげようと思って持ってきた絵本も明日あげることにしよう、と思う。
今日は隊長を可愛がるのをやめて、いぢわるしてやろう。
でも、隊長が謝って来たら許してあげてもいいかもしれない、と思う工藤。
穏やかでない足取りのまま教室に入る工藤。
工藤を見つけるや否や、駆け寄ってきていつも通りに嬉しそうな顔で話しかけてくる石田に、ほんの少し肩を落とす工藤。
「どうしたの?お腹が痛いの?」
「・・・」
本気で心配する石田。ちょっぴり泣きそうである。
ほんの少し気が咎める工藤。しかし、工藤はいぢわるすることに決めていた。
「わたくし、怒っておりますのよ。」
つーん。 である。
怒っている、と言われて顔色をなくす石田。
工藤はちょっと離れた自分の席まで移動して、無視の姿勢をとる。
こんだけやれば、次の休憩時間には、あっちから謝ってくるはずである。
うなだれた青い頭を見て、工藤はちょっと笑った。
いけないいけないと思い、不機嫌そうな顔を取り繕う。
それを見て、教室に入ってきた竹内がまた悲鳴を上げた。
プレイバック一方その頃、第4中隊兼第1小隊長・石田咲良は、ひたすら工藤百華を待っていた。
相当苦労して弁当を作った。更に相当苦労して制服を着込んだ。
スカーフが曲がっているけれど、これでいい。
百華は、いつも弁当を作って、制服を着て家を出る丁度そのときにチャイムを鳴らす。
それで、曲がっているスカーフを直して、コートを着せて、笑う。
参りましょうか、といって笑うのだ。
咲良は、その百華の笑顔が大好きである。
その感情は、刷り込まれた「母親」と「姉」に対するデータと類似していたけれど、
全く別のものの様に感じることも出来た。
とにかく、石田咲良は工藤百華が大好きである。
その工藤百華、今日は七時の四十五分を過ぎても、やってこない。
出かけようと、何度もドアノブに手をかける咲良。チャイムが鳴らないので、何度もドアノブを掴んだり離したりを繰り返す。
溜息をつく咲良。なぜ、私は溜息をついているんだろう?
そう考えて更に溜息をつく咲良。
も一度、ドアノブに手を伸ばす。
つめたいドアノブに指先が触れる寸前、チャイムが鳴る。
弾かれたようにドアを開ける咲良。
「百華ぁ!!!」
ドアを開けるのももどかしく、ドアの外の人物に抱きつこうと飛び出す咲良。
何でもっと早く来なかったの、いつもよりもう十五分も過ぎてしまっている。
遅刻は厳罰なのに!
「隊長!お迎えに・・・」
ドアを閉める咲良。あれは百華じゃない。
「隊長ぉ!!谷口です!遅刻したいんですか!」
ドアをドンドン叩く音とともに谷口の近所迷惑な声が聞こえるが、無視しておくことにする。
いま、私は百華を待つので忙しい。
谷口はひとしきり騒いだ後、何かに気付いたように押し黙った。
さっさと学校行っちゃえ!咲良は思ったが、黙っておいた。
敵軍の機関銃掃射は遮蔽物の後ろに隠れてやり過ごすのが最善。
「おぉ・・・可愛い子犬だなぁ〜!」
ドアの覗き窓にひっつく咲良。谷口の背中しか見えない。
「かわいいなぁ〜。かわいいなぁ〜。ふわふわしているなあ!」
ドアをちょっと開ける咲良。
時には、果敢に飛び出して反撃に転じる必要もあるのだ。
開けた途端、首根っこを掴まれる咲良。
子犬は、いない。谷口の罠であった。
「谷口!子犬は!!?」
「学校のほうへ走っていきました。」
咲良、学校へ行こうと走り出す。それをとっつかまえる谷口。
「コートを着てくださいっ!」
コートを着せて、玄関に放置されていた咲良の鞄と弁当を持って沙良の手を引く。
咲良は、子犬の犬種はなんだったか、と聞いてくる。
自分は犬に詳しくないので判りません、と応える。ちょっと胃が痛む。
その様を遠くから見た工藤百華が竹内を泣かせたことを、石田咲良も谷口竜馬も知らない。
プレイバックは更に続く。
石田咲良は、おとなしく自分の席で待機姿勢を取っていた。
本当は今すぐ子犬を探しに行きたいし、家に帰って百華を待っていたいのだが、
授業には出なければいけないと決まっていて、咲良はその決まりにはどうしても逆らうことが出来なかった。
それに、一番後ろの席で谷口がこちらを監視している。
下手な動きをすればまた咲良を拘束しにかかる可能性がとても高かったのだ。
百華はまだ教室に入ってこない。子犬も教室からは見えない。
百華が家で待っていたらどうしよう。チャイムを押しても出てこない自分を嫌ったらどうしよう。
百華に嫌われたら、きっと子犬も自分を嫌うと思う咲良。
うなだれる咲良。
さては、朝ごはんを食べていないな、と思う谷口。とんだ誤解である。
谷口が咲良に声をかけようとした時、ガラッと派手な音を立てて、工藤百華が教室の戸を開けた。
のしのしと、あまり淑女然としない足取りで、あからさまに石田の席を避けて、工藤の席へ向かう。
すかさず駆け寄る咲良。元気一杯に今日、今まであったことを報告しようとする。
百華はきっと子犬がすきだと思う咲良。一緒に探しに行こうといったら、百華はなんと言うだろうか。
あんまり騒ぐとまた疲れてしまうのになあと胃の痛みを感じる谷口。
しかし工藤は隊長によく尽くしているが、隊長と工藤が話すと長い、と思う。
もうすぐホームルームも始まることだし、止めようと思うが、石田はもはや自分の席で大人しくしている。
一方工藤は、小さく肩を揺らして笑っている。
仲の良いことは良い事だ、隊長がちゃんとするのはもっと良い事だ、と思って満足する谷口。
胃の痛みも少し和らいだようであった。
竹内が何事か叫んでいたが、程なくホームルームが始まり、1時間目の授業が始まったのであった。
そして現在。
工藤百華は、真面目にノートを取るふりをして、石田咲良を盗み見ていた。
真面目にノートを取っている。えらいえらい―じゃなく、それじゃあつまらない。
ふと何か考え込んで眉根を寄せる。いいぞいいぞ。
ひどく悲しそうな顔をして目をこする。いい、すごくいい。
口元に笑みが浮かぶ。ああ、きっとこれが好きってやつだと思う工藤。
行動が小学生並であったが、工藤はそんな事などまるで問題にしていないのであった。
「ちょっと、百華ったら何ニヤニヤしてんの〜」
小声で隣の菅原乃恵留が話しかけてくる。黙れ、今いいところなのに。
ちょっとね、窓の外に可愛い子犬がいたものだから。と適当な事を言うと、菅原はどこどこ、と
工藤の方に身を乗り出してくる。なんだ、食いついてくるんじゃねえよ、と思う工藤。
また、咲良の方に目を向けると、向こうもこちらを見ていた。
すごく嬉しい、と思う。しかし、今はいぢわる中なので微笑みかけてやるわけにはいかない。
目をそらすと、咲良はまたひどく悲しそうな顔をしたのだった。
内心、ほくそ笑む工藤。きっと、次の休みには泣きながら抱きついて謝るだろう。
菅原が犬見つからない、と言うのを無視してまたニヤニヤし始めた工藤は、
咲良が伏せて誰にも気付かれないように泣いたことに気付かなかった。