紅い粒がぽつぽつと降りてくる。紅い雪だ。  
春が終わりそうな季節に、真っ青な晴天から。  
私にとっては珍しい現象じゃない。昔からの、馴染みのある光景だ。  
直径数ミリ程度の紅い粒を人差し指で受け止める。一瞬して、溶けるように皮膚に染み込んだ。  
降るだけじゃなくて、地面から湧き出る事もあるのだ。じわじわと霧のように周囲の物を  
覆いながら広がって、薄くなって消える。  
目を凝らせば、血液のように身体を巡っているのも解る。  
音も熱もないけれど、それは確かに私の一部として活動しているのだ。  
誰にも見えない紅。私だけが見れる存在。  
私以外の人には見えない塵。誰の身体にも流れている──力。  
この正体は依然として不明だけれど、私自身は魔法の源、魔力だと考えている。  
普通の人なら馬鹿げてると思うだろう。当然だ。見えず、触れられず、感じないのであれば  
それは無いのと同義だ。  
私がこの粒を魔力だと信じる一番の支えは、誰にも言えない遠い記憶なのだ。  
物心つく前から孤児院で育った私が持っている記憶。  
 
 
──温かい手が、私の頭を撫でている。  
年老いた男の人と、幼い女の子の会話。  
『いつも関心だねぇ。さぁ、魔法の勉強をしようか?』  
『えー?今じゃないと駄目なの?』  
『駄目かな?いっぱい教えなきゃいけないからねぇ』  
『……わかった。すぐもどるから、まっててね』  
心地よい感触が失われ、声が遠くなる。  
去っていく誰かを目で追うと、紅い波が私を襲い、ごおごおと風の音。  
 
 
──そこで記憶はおしまいだ。  
記憶にある魔法という単語と美しく紅い波。目に映り、触れることが出来る粒。  
この二つだけが私の考えの拠り所だ。  
 
記憶なんて、結局は自分に都合のいいように作り変えられるものだと知っているけれど、  
あの会話と紅い風景は本物だと思うのだ。それ程に存在感があって、私と常に一緒だった。  
いつも漂っている魔力。誰もが口に出さないだけで、私と同じように感じて、見えているのだと  
思っていた。  
『ないよ、そんなの』  
『馬鹿じゃない?』  
『あるんなら証拠出してみろよ』  
誰もが否定した。私の見えるものと、私の記憶が否定される。  
私は認めてもらいたくて、必死に話した。確かにあるのだと何度も話した。  
嘲笑。無視。侮蔑。  
やがてそれらの言葉には暴力が加えられ、私が何も言わなくてもこの身に襲いかかるようになった。  
彼らを責める気にはなれない。異常を排除しようとする集団行動は理に適ったものであり、  
──私は、それに該当するものなのだから。  
それでも私は諦めない。理解して貰える事については殆ど望みはないと確信しているけれど、  
私の噂を聞きつけた他の魔法使いが現れる事を期待していた。  
私はひとりなんかじゃない。同じ仲間は必ずいるのだ。  
……どれだけ待っても現れなかった。  
裏切られたとは思わない。何処にもいない誰かに期待してただけだから。  
けれど、その代償はしっかりと私に植え付けられてしまった。  
気が付けば会話が普通に出来なくなっていた。私自身すらも感じ取れない深いところは確かに傷ついていたのだ。  
誰も理解し得ない私の感性。幾度も否定された感性は、それでも消えてくれない。  
紅い湧出地に立てば、それだけで私の身体は力を回復するのだ。どんなに疲弊していても、  
このお陰でやってこれたのだ。  
だけど、信じてもらえない。  
そして理解を得ようとするのを止めた。誰とも話さず、ひとりで魔法の証明をするべく  
怪しげな本と格闘する日々。  
そんな姿が殊更奇異に見えるのは当たり前の事だ。疎遠すべき異常者は消去すべき異端者になり、  
更に明確な行動を伴う。故に、私はより一人っきりになろうとさ迷い歩くようになった。  
紅い泉。不安定なものならばどこにでも存在する。アスファルトの上、空き地の中。流れる川の中にも。  
次の日には消えてしまうものには頼れないし、そういったものは随分と弱いから大した効果もない。  
 
あちこちを散策し、朽ち果てた大屋敷などに安定した泉が多い事に気付く。  
その泉をある種の力として行使した痕跡。あるいは知らず知らずに力としていた残骸。  
不思議なもので、幻獣からは遠ざかるような動きを示す。  
これがきっかけで幻獣の出現を察知し、つい口に出してしまったが為に死神扱いをされた事もあった。  
悪いのは私。この子達ではない。  
魔法はあるのだ。この身体にだって流れ、蓄積している粒。  
私はこれを使えない。  
悔しい。私だけの世界だなんて思いたくはない。誰の目にも見えるように形と色を与えたいのに、  
方法がない。  
どうすれば、この子達を認めさせてあげられるのだろうか──  
 
*  
 
今日の幻獣、士魂号と融合した敵は強かった。  
四機のうち二機までもが行動不能な損傷を受け、それでも私達は生き残ったのだから運がいい。  
実際に敵と相対していないはずのオペレターや私、トレーラーで待機している整備員も皆疲れきった顔だろう。  
あの激しい戦闘の音や幻獣の叫び声を思い出すだけで震えてしまう。  
……私は弱い、と思う。  
勝手な想像にさえ怯えてしまう。  
士魂号が撮影し、指揮車に記録された映像なんて見たくもない。  
幻獣の強さは概ね外見と一致する。今日の敵を見てしまったら、それだけで失神してしまうだろう。  
気分を変えようと砲塔に上り、銃座に腰を下ろす。  
びゅうびゅうと吹き付ける風が気持ちいい。癖のある長髪が後ろに流れた。  
なのに、紅い粒、赤い波は広めの川を越えて真横からやってくる。右手の切り立った崖に吸い込まれていく。  
こういった風景を見れるのは私だけの特権だ。  
「ふぅ……」  
何となくため息をついて、道路の先に何かがあるのが解った。  
あれは……岩のようだ。  
十メートルほど手前で指揮車は停止し、後ろのトレーラーも同じく停車。  
 
足元からは司令とオペレーターの話し声が聞こえる。  
「落石、かよ」  
「……そのようですね。若宮十翼長、来須十翼長。落石により通行不能になっています。処理を手伝って下さい」  
「俺もですか?」  
「当たり前でしょう。パイロットや整備員は動かせませんからね」  
「了解、ったく……」  
元気よく指揮車の横を駆けていくウォードレス姿の二人。  
ほどなくして車内からもう二人が出てくる。  
岩のサイズは大したものではないけれど、数は結構ある。少し時間がかかるだろう。  
最年少の東原さんも出てきて「んー」と崖に視線を送りながら背伸びをしている。硬い椅子に座りっぱなし  
というのは結構疲れるものだ。  
四人の作業に興味を持ったらしく、とことこと歩いていく東原さん。  
転がる岩。どこから落ちて来たんだろうか。岩壁に視線を移して観察した。  
それこそ草木も生えない硬い壁だ。登れないほどの急斜面で、まだ見つからない。更に高いところでそれらしい  
部分があった。  
……不自然に、黒くなっている。焼けて、焦げている感じだ。  
落雷なんてありえない。ここを通る時や戦闘中も雨はなかった。道路も乾いていて、朝から続く晴天を  
証明している。今だって真っ青な空だ。  
──ひたすらに高く青い空。ゆっくりと遊歩する白い雲。傾き、僅かに黄色い太陽。  
ごくりとのどが鳴る。全身に満ちていく戦慄が私を動かした。  
上下左右を見渡す。ない。遠い道路や崖の上にある林。ない。振り返って数台のトレーラー。その向こうの風景。  
……ない。見慣れた赤い子達の姿がない。  
退避が完了した、という事。  
幻獣が、来る──!  
いそいで司令に回線を繋いで、私は言った。  
「敵、……幻獣が、来ます……っ!」  
司令が私を見て叫んだ。  
「戦闘準備!」  
司令はばたばたと駆け戻りながら全員に命令する。  
 
追うようにスカウトの二人と瀬戸口さんも走る。  
「敵って、どこからですか!?」  
「恐らくは河川側ですが、崖にも注意するように!」  
直後に後方で爆発音。がらがらと岩が落ちる音も続いた。遠くにはゴルゴーンの姿。  
やられた。幻獣達は最初からこれを狙っていたのだ。  
全員を疲労させ、安心させてから怪しまれない足止めをして気を緩ませ、その隙に包囲する。  
まさか、こんな凝った手を使うなんて。  
一番後ろのトレーラーから飛び出した士魂号予備機がジャイアントアサルトを放ち、崖を崩したゴルゴーンを倒す。  
幻獣はそれきり現れない。様子見、だろう。  
司令は友軍を要請したようだったけど、それまで持ちこたえられるだろうか。  
機銃を河へ向け、やってくるだろう幻獣を一瞬でも早く見つけようと気合をいれた。  
二機の士魂号は河に入って待ち構えている。  
司令からの通信が入った。  
『すぐに友軍は来ますが、油断しないように』  
──でも、こんなチャンスを逃がすような戦力で来るのだろうか。  
数瞬してから河の向こうが歪んで、ぞろぞろと幻獣たちが姿を見せた。  
私の、相手だ。  
「──っ!」  
狙いをつけて、撃った。  
全身を軽々と吹き飛ばす衝撃が手元から伝わってくる。しかし頑丈な銃座は全てを吸収して  
私に射撃を続けさせた。  
小さな幻獣が次々に弾けて消える。消える。消している、私。  
「うぅ……っ!」  
後から後から現れる。  
胃からこみ上げる何かを強引に封じて、撃ちまくる。  
焼けた銃身が何度も弾丸を吐き、私の倒すべき敵はいなくなった。  
少しだけほっとする。殺さずに済む時間。甘いとか言われそうだけれど、やっぱり殺したくはない。  
例え幻獣だったとしても。  
視界の左端では士魂号も戦闘に入っていた。派手に水を蹴りながら動き、中型幻獣を相手にしている。  
一番機が迷いなく斬りつけ、二番機は躊躇せずに撃っている。  
 
「舞、そっち持って!」  
「よし、行くぞ!」  
三番機のパイロットとスカウトは邪魔な岩をどかそうとしていた。  
整備員たちは見えないけれど、トレーラーに隠れているのだろう。彼らに戦闘は殆ど無理のはずだ。  
私も偉そうな事を言える程ではない。彼らに比べて暇が多い分、銃に触っている時間が多いだけの話だ。  
再び湧き出す幻獣。照準を合わせて引き鉄に力を入れる。  
ぼろぼろと落ちる薬莢が床を叩いて、金属音が連続した。  
──今度は止まらない。止められない。銃身を振り、向きを変えた隙に違う方向から近寄られる。  
「ううううう………!」  
士魂号は来れない。目の前にいる中型幻獣に背を向けられるはずがない。  
道はまだ塞がっている。強引な突破も無理だ。見れば、トレーラーの向こう側でも戦闘状態だ。  
光と音が繰り返されているのが解った。  
「あ、……あ、っ!」  
土手を登りガードレールを乗り越え、懐に入られた。どんなに銃口を下げても撃てない場所に侵入された。  
ニタリと笑う幻獣が、  
「おらああああ!」  
野太い大声とその主の飛び蹴りで消し飛んだ。  
若宮さん、だ。  
「石津、安心して撃ちまくれ!近いのはまかせろ!」  
言いながらも殴り、蹴り、撃つ。ひとつの動作でひとつの敵が減っていく。  
その強さより、大きな背中が一番安心させてくれる。  
気を持ち直して私は弾丸を送り続けた。  
若宮さんは僅かに顔を横に振って言う。  
「来須!頼むぞ!」  
来須さんが走り、整備員たちの掩護に向かった。途中でカトラスを振るい、紙を切るように幻獣の数匹を  
──全部、身長2メートル以上のゴブリンリーダーだった──簡単に仕留める。  
多分、壬生屋さんとほぼ変わらない腕前だと思う。  
どぉんと再び崖が崩れた。開きかけていた道路が沢山の岩で埋まる。  
逃げられない。ずっとこの繰り返しになるんだろう。必死の思いで岩を片付けても、ちょっとした  
ことで簡単に元通り。  
 
「……くそ!」  
「厚志、来るぞ、引け!」  
芝村さんの言葉を証明するように、岩の小山をゴブリンやゴブリンリーダーが乗り越えてきた。  
しかし次々と撃破されてしまう。二人の連携は固く強力で、全くつけ入る隙がない。  
……でも、弾が尽きれば難しくなる。体力が続かなくなれば終わる。  
そんな嫌な展開を否定するためにも撃つ。  
こんな所で死んでたまるか。魔法を、使えるようになるんだ。  
『石津さん右!ナーガを撃って!』  
強い口調での命令に、考える前に身体が動いた。  
ぐるんと銃座が旋回して撃つべき敵が照準に収まり、直後に轟いた閃光がナーガの細い胴に刺さる。  
余りにも機械じみた動作。嫌気で胸が一杯だけれど、引き鉄を戻さずに幻獣を砕く。  
私だって死にたくない。  
「は、っ!」  
向こうにもう一匹。赤い目がぎろりと私を見た。  
いくつもの輝きが列をなしていて、どれもがレーザーの照射口だ。  
「わ、……ぁ、あ!」  
混乱を声にして吐き出し、僅かに残った理性だけに意識を向けて攻撃した。  
被弾し踏みとどまろうとするナーガをひたすら撃つ。  
でも、倒れてくれない。そして赤い目が一層光って、ぐらりと揺れる。  
間に合った──  
「きゃ、っ!」  
白い光に反射的に顔を下げ、ばちりと指揮車に黒い筋が焼き付けられた音がした。  
あの幻獣は倒れながらもレーザーを出していたのだ。  
じいじいと焦げる音に目を向けると、僅か一メートル離れた所にその痕がある。  
怖い。隠れたい。でも、出来るだけのことはしなくちゃいけない。  
『その調子です。崩れた崖を越えてくるのは殆どがゴブリンなので、他の隊員に任せます。  
 石津さんは河の下流から来る敵を撃ってください』  
司令はナーガに撃たれたという事を何とも思っていない口調で言う。聞いている私の心も落ち着きを取り戻し、  
周りには銃声やお互いを呼び合う声が繰り返されてるのがようやく解った。  
 
その喧騒で不安が生き返る。  
「援軍、まだ、……ですか……?」  
『もう少しかかります。頑張って』  
通信が切れる。薄れていた恐怖感も戻ってしまう。  
……私だけじゃない。誰だって同じなんだから、私だけが折れる訳にはいかない。  
改めて周囲を確認した。  
視界の左前方、深めで水量が少ない河の上流で士魂号が戦っている。次々とやって来る中型幻獣を倒し、  
追い払っている。けれど、いつものように一方的な展開にはならない。  
三番機がいない為に攻撃力が不足しているからだ。  
動けない指揮車とトレーラーを守る、という足枷もある。迂闊に離れる事も出来ない。  
右前方と正面から来る幻獣を撃つのが私の役目だ。小型も中型も区別なく討ち倒す。  
河の流れは道路よりも低く、撃ち下ろしという条件により機銃での損傷はより大きなものになる。  
私さえしっかりしていれば幻獣の撃破はそれほど難しいものではない。  
今のところは撃つべき目標は存在しない。  
トレーラーの向こう、崩れ落ちた岩壁の辺りでも激しい戦闘が起きている。  
「大介、本当に行くの?」  
「このままじゃ駄目だろ……行くぞ、遠坂」  
「行ってきます、田辺さん」  
「………」  
皆も頑張っている。  
私も頑張ろう。  
 
*  
 
私達は善戦した。  
過去形で述べるしかない状況になっている。  
 
「弾、弾をくれ!」  
「いってー、くそっ!」  
「中村サンもう無理でス。ここで他の人の手当てをして下サイ」  
「おい、小杉!」  
「……クリサリス!」  
「ちょこまか動くなっ!」  
「皆下がって!」  
漂うのは疲労と焦燥、絶望を拒む見せ掛けの姿勢。  
『石津さん指揮車から降りて!複数のゴルゴーンに狙われました!早く!』  
命令により砲塔から指揮車の中に一旦戻ると、瀬戸口さんと司令が機材を繋ぐケーブルを片っ端から外している。  
さっきの戦闘の記録だけでも持っていこうとしているのだ。  
私には手伝えない。早く出よう。  
ぐらぐらと車体が揺れる。直撃はしないまでも、近くに生体ミサイルが落ちているらしい。  
「ふええ、……」  
今にも泣きそうな東原さんが二人を見詰めたまま立っていた。  
この人達から離れるのが怖いのだろう。しかし、迷ってる時間もない。  
「……東原、さん……行くわよ」  
小さな手を取って搭乗口に寄り、素早くドアを開けてから外を窺う。  
この車を狙っていたゴルゴーンが見える。気圧されないようにお腹に力を入れて睨み返すと  
幻獣の側面が弾けた。  
二番機の攻撃だ。  
「っ!」  
走る。  
こちらに注意が向きなおす前に隠れよう。  
ジャイアントアサルトの轟音を背中で聞きながら駆け、気付けば空いていた手には拳銃が握られていた。  
無意識の行動。私の、本音だ。  
「は、はぁ、はっ!」  
指揮車の陰に入り背中を預けると、機材を抱えた司令と瀬戸口さんが私の前を走りぬけた。  
直後に鼓膜が轟音で破れそうになる。ぱらぱらと装甲の破片が降ってきて、がくりと車体が傾いた。  
「間一髪、と」  
「今の状況で言う事ですか?」  
軽口を言い合いながらお互いの無事を確かめているようだ。  
 
「滝川ぁ!」  
田代さんの声が一際大きく響いて、とっさに指揮車の角から顔を出すと仰向けに倒れようとする二番機が見える。  
最後の仕事とばかりにジャイアントアサルトを振り回し、広範囲に弾丸をばら撒いて、ついに倒れた。  
「行くぞ岩田!」  
岩田さんはやれやれと愚痴をこぼして田代さんの後を追う。  
見れば倒れた二番機を庇うように一番機が立ち塞がり、近寄ろうとする幻獣を片っ端から斬り倒していた。  
被弾を恐れずに突撃し、一匹でも減らそうと斬り伏せる。  
二番機のハッチが開いてパイロットが飛び出した。無事のようだ。  
逃がさないとばかりに二番機を包囲しようとするゴブリン達を、田代さんと岩田さんが寄せ付けない。  
滅多に見ない組み合わせだけど、見事に息は合っている。  
「善行!友軍は!?」  
後ろでは原さんが司令に掴みかかっていた。その額には汗が流れ、いつもの冷静さはなかった。  
司令も同じような感じだった。歯をかみ締め、決意したように口を開く。  
「……足止めされています。突破がいつになるかは予想できないそうです」  
その言葉を聞いた人達は何も言えない。  
口を開けば、絶望の呻きが出るから。  
原さんは俯き、そして顔を上げて銃を構えて走った。指揮車を襲おうとしている幻獣に向かって発砲する。  
「石津さん、借りますよ」  
それを見た司令も私の銃を取り上げ、原さんの隣に向かう。  
三番機パイロットの二人は既に弾切れのようだ。私にはとても真似出来ない体術を駆使して群がる幻獣と  
戦っている。  
『伏せて!』  
通信回路から壬生屋さんの声が聞こえ、黒い大きなものが頭上を横切った。  
どぉん、と岩壁に衝突し、そこにめり込んで落ちてこないのは大太刀を持った一番機の腕だ。  
一番機を象徴する兵器。最後に残っていた士魂号が、戦力を失った証拠。  
「馬鹿、さっさと脱出しろ!」  
瀬戸口さんが叫び、否定するように一番機は戦っていた。  
白い人工血液を撒き散らし、それでも片腕と両足で幻獣を倒してる。  
足掻いている。この先の展開を否定しようと抵抗しているだけの姿だ。  
 
この場に居る皆の姿に、ぞぶりと穴があいた。  
「………───っ!」  
声にならない悲鳴があちこちからあがった。私の喉もあげていた。  
もう助からない。腰部が大きく欠け、何も出来ずに倒れる士魂号。  
次は誰かだ。  
「くそっ!」  
瀬戸口さんが走った。アスファルトの穴を飛び越え、豹のように音もなく駆ける。  
こちらに戻りかけていた二番機パイロットと、その傍に居る二人も壬生屋さんの救出に向かう。  
……私は、行けない。武器になるものが全く無い。  
一番機にはゴブリンが何体も張りつき上半身の動きを完全に封じている。  
一際大きく見えるゴブリンリーダーが一番機によじ登り、ハッチをこじ開けようとしている。  
「壬生屋!」  
「壬生屋さん!」  
「どけぇ!」  
「ちっ!」  
四人の叫びと隊員全ての願いを無視してハッチが剥ぎ取られ、投げ飛ばされる。  
腕を振り上げた幻獣が、ハッチと同じように吹き飛ばされた。  
飛び出した壬生屋さんがカトラスを振ったのだ。  
「すごい……」  
刃の先端だけではなく、振るった腕さえも見えなかった。  
コクピット周辺にいた数体の幻獣が一瞬で斬られ、夥しい体液の噴水を突き破って  
壬生屋さんが疾走する。  
道を塞ごうとする幻獣も簡単に斬り倒し、あっという間に四人と合流してしまった。  
その速さは驚愕に値するものだ。出迎えた四人も戸惑い、そして何か言われたのだろうか、  
壬生屋さんを囲んで弾丸を撃ちながらこちらに戻ってくる。  
若宮さんもそれに加わり、ほどなくして指揮車の陰に五人が帰ってきた。  
「壬生屋!おい!」  
瀬戸口さんの呼びかけに応える事も出来ずに、がっくりと膝をついて荒く息をしている。  
これではカトラスを振れないはずだ。合流した時にこの事を言ったのだ。  
「おおああああ!」  
指揮車の向こうで派手な咆哮と発砲音が連続した。声は若宮さんのものだ。  
 
そして速水くんと芝村さんに引きずられて来る巨体。  
「ぐ、げほっ……がは!」  
脇腹の辺りから大量の血液が流れている。それ以外のところからも出血している部分はいくつもあった。  
痛そうに顔を歪め、悔しそうに拳でアスファルトを叩く。  
ごつん、ごつん。動けない自分を責めるようだ。  
「馬鹿っ!」  
新井木さんが叱り付けながら手当てを始めた。私もその姿に自分の役目を思い出し、両の手足にある傷を  
塞ぐ。新井木さんが手を動かしながら言った。  
「馬鹿!こんなに無茶してっ!」  
「……やらなきゃ、お前が死んで、しまうだろうが。……悪いかっ」  
脂汗を滲ませながら言い切ると、がくんと気絶した。  
失血によるものではないと思う。神経が激痛に耐えられなくなったのだろう。  
「こっちもお願い!」  
森さんと小杉さんに支えられてやってきたのは来須さんだった。  
太ももの傷が大きい。しかし太い動脈は辛うじて無事らしい。  
「……っ!」  
若宮さんのように声は出さないけれど、噛み締められた顎が痛みの大きさを示していた。  
「……痛い、わよ」  
目いっぱい力を込めて止血する。痛みを考える余裕もない。  
強引に塞いで、縛る。  
「どうですか?」  
後ろから田辺さんが尋ねる。  
「……体力次第、よ……」  
私がした処置も本当に応急でしかない。  
完全な死を迎えるまでの時間を少しだけ長くするだけの気休め。  
「……何してやがる!さっさと来いよ!」  
滝川くんの言葉で、周囲の異常を思い知らされた。  
銃声が途絶えている。幻獣特有の鳴声だけが霧のように漂い、私たち人間の声はひとつとしてなかった。  
誰の銃にも弾丸は僅かしか残っていなくて、無駄弾を避ける為にも引き付けて撃つ必要があるのに、  
幻獣は近寄ってこない。  
殆どの人が指揮車の陰に集まっているのに、攻撃してこない。  
 
完全に囲まれている。  
どこにも幻獣がいる。日が沈みかけ、暗さを増していく空間に赤い目がいくつもいくつも光る。  
殺意と憎悪の火。  
逃げたい。  
その一心で指揮車の角から顔を覗かせると、さらに多くの赤が壁を創っていた。  
禍々しい色の銀河だ。  
「……ぅう!」  
もう助からない。戦える人も数えるほどだ。  
私を殺そうとする幻獣はその何倍もいる。  
「は、……ぁ……!」  
この身体が熱を持たない塊になる。そして肉の塔を構成する部品として使われるのだ。  
力が入らなくなった膝に、ざくんと硬い灰色が刺さった。  
「あ、あ、……」  
じわりと染み出した赤。膝を中心に緋色がひろがっていく。  
ざわざわと周囲が揺れだした。人の声、悲鳴?弾ける空気も。  
それよりもこの赤に目意識が向いてしまう。何故、勝手に出て行くのか。  
過去にこんな事は一度もなかった。  
……私の身体には居られない、ということだろう。  
身体を抱く指の隙間や爪の間からも逃げ出している。  
私に将来はないと。  
「助けて……」  
その想いを否定するように流出は勢いを増していく。  
ぞろぞろと列を作り、規則正しく私から離れ、行き場がない事を知ったように立ち止まる。  
「助けて、よぉ……!」  
私のお願いなんて聞いていない。好き勝手にざわざわと遊んでいる。  
……無理もない。私は、この子達を従える方法をしらないから。協力してくれるように頼む方法も  
見つける事が出来なかったから。  
私の所為だ。私がしっかりしていれば、存分に力を発揮出来たのに。  
「……御免なさい」  
謝っても意味はない。  
 
この子達は間違いなく消えて、死んでしまうから。  
本当に悪いこと、しちゃったんだな──。  
ぐるぐると渦を巻き始めた。赤い小さな海が私を中心に回転し、水位もどんどんと高くなっていく。  
勿体無い。これだけの勢いがあれば何だって出来るのに。  
私の未熟さが、それを許さない。  
「御免なさい……っ!」  
自分よりもこの子達がなくなってしまうのが不憫でならない。  
ざぶざぶと波が高くなって、暗くなりかけた空が時折見えなくなる。周囲もよく見えない。  
──懐かしい。  
私の最初の思い出を再現しようと試行錯誤しているみたいだ。  
もう十分、なんだけどな。  
更に完璧なものにするつもりらしく、私を囲む赤い壁が出来上がる。頭上にも蓋がされていて、  
本当にあの時と同じになった。  
「ぁ、……」  
ごうごうと唸る紅砂。  
懐かしさが温かくて、なんだかほっとする。  
思い出を引き出す匂いもあるような気がする。  
不思議な感覚だ。  
この雰囲気は、あの頃に戻ったみたい。  
「っ……、ぁ……」  
懐古の声じゃないけれど、誰かの呟きが聴こえた。  
幻聴だろう。ありえないものが聴こえるはずがない。  
こつん、と硬いものが落ちる音がすると急速に海の色と勢いが褪せていった。  
……もう終わりなんだな。  
「いったー……あ、つ──」  
誰かの声はまだ続く。大人びた艶のある声だ。  
「しんじ、られない。術も式も何もかも滅茶苦茶なのに、こんな力技で召喚なんて」  
赤が消えて、まだ存在している──人?  
赤い海があった場所には蹲る私と、背の高い女性だけが居た。  
癖のある長髪が伸びている。胸にかかるまでの長さだ。高そうなゆとりのある服を着ていて、  
どこかのお嬢様、という感じだ。  
 
額に手を当てて、ぼそぼそと一人で喋っている。  
「それよりも、何で私が?問題はそこね……」  
手が下ろされ、冷たい視線が私を射抜く。  
僅かにつりあがった目尻が身を包む威厳を増幅させている。  
直感だけど、魔女だと思った。  
捻じ曲がった杖や三角の帽子なんてないのに、そう思えるなにかがあった。  
「………」  
私はぼんやりと見上げるしかなかった。  
見たこともない人なのに、とても親しい人だと断定までしている。  
何故なのか理由がはっきりしない。けど、間違いない。  
かけている眼鏡に長い指が添えられて、その人は私に言った。  
「貴女ね。ねえ、どうやって、……貴女、は」  
そこまで言うと、唖然とする女性。  
威圧感がどんどんと薄れていく。その目からも冷たさは完全に消え失せる。  
膝が曲がって、美人としか言いようがない顔が目の前で微笑む。  
「久しぶりね。お姉ちゃんの事、覚えてる?」  
……その意味は、ひとつしかない。  
「……、ぁ……」  
あの記憶はやっぱり正しくて、本当の事だった。  
「ほら、思い出せない?」  
頭を撫でられる感触も、同じものだ。  
目が熱くなって、今まで封じ込めてきた感情が出てきそうになる。  
何とか誤魔化そうと握られた拳にも優しく大きな手が重ねられた。  
その人は私の肩口に顔を埋め、安心したように言う。  
「……覚えててくれたんだ。よかった」  
「あ、う──!」  
喉も目尻も限界寸前。  
ずっと待っていたこの時を確かめたくて、しなやかな指をちゃんと握ろうとすると  
その人は立ち上がった。  
「ちょっと待ってて。ここ、終わらせてからね」  
 
突然に喧騒が耳を直撃する。幻獣の嬲るような攻撃が始まっていたのだ。  
発砲音が連続し、合間に叫び声。  
その様子を腕を組み面白そうにお姉ちゃんは眺め、  
「どこにも戦争はあるものね」  
と余裕の構えだ。  
腕を解いて手の平を目前にかざすと、その小さな舞台で赤いなにかが踊る。  
「こっちも同じ、か……まぁいいわ」  
心底つまらなそうな呟きだ。  
「まさか、民間人!?そこの人伏せて!」  
お姉ちゃんを見た森さんが強い口調で命令する。  
優雅とも言える動作でお姉ちゃんは振り返って、森さんはぎくりと硬直してしまった。  
私からはどんな表情なのかは見えない。さっき見た怖い顔なのだろう。  
ふわりと私に向きなおし、笑顔で肩に手を置いて言う。  
「ほら、立って」  
言われるままに立ち上がる。  
「私の傍が一番安全なんだから、離れちゃだめよ」  
その言葉は絶対の約束だと思う。だから、子供みたいにお姉ちゃんの腰につかまった。  
直後に赤い流れが目の前を横切る。  
凄い、と思った。  
それは信じられないくらいに存在感があって、しかも綺麗な模様まで刻まれている。  
糸として束ねられて編まれたそれは、まるで美しい刺繍のようだ。  
音もなく何重にも流れる複雑な赤色に見とれてしまい、何も言えなくなる。  
「………」  
「あら、見えるの?」  
見上げて頷く。  
お姉ちゃんはにっこりと微笑んだ。  
「あとでもっと教えてあげるわ」  
声にこめられた力強さに私は何度も頷いた。  
私を片腕で抱き寄せ、もう一方の腕を皆に向かって突き出す。  
するすると赤い線が放出され、半球状に皆を覆ってしまった。  
きっと守りの魔法なのだろう。  
 
殆どの人が異様な空気を感じ取りざわめく。周囲を見渡して、お姉ちゃんに視線を固定させてしまう。  
「ご心配なく。味方です。皆さん、動いてはいけませんよ」  
それだけ言うと集まる目線を無視し、ぶつぶつと小声で呟きながら肘を曲げ、暗くなりつつある空に二本の  
指を揃えて立てた。  
爪の先に圧縮された深紅が固まって、眩いばかりの輪を生み出す。  
直径を広げながら指から手首を通り抜け、肘の近くまで降りていく。  
数秒の間で五つの輪がきれいに並んだ。  
「さ、行くわよ」  
準備は完了とばかりに歩き出すお姉ちゃん。  
動かない指揮車とトレーラーの間を通り、河の方へ私を連れて行く。  
この先には数え切れない幻獣がいるのは解ってる。なのに、震えは全くなかった。  
これから起こる現象を余すところなく記憶しようと気合まで入っている。  
高い集中力を感じさせる表情でお姉ちゃんが言った。  
「魔法はね、できるだけ普通の人に見せるものじゃないのよ。  
 よほど強力なものじゃない限り見えないのが当たり前なんだけどね。  
 目の前で理解不能な現象が起これば、それを行った人を恐れてしまう。  
 悪い事じゃないけど、そうなれば貴女が嫌な思いをするんだから」  
それはもう知っている。  
我流のおまじない程度の事でも随分と嫌われたのを身をもって体験している。  
「出来れば、私が教えた事も隠して生活して欲しいのよ。皆から何か訊かれても適当に誤魔化して  
 欲しいわ」  
魔法に携わる者としての心得、だろう。  
既に授業は始まっている。一言一言を聞き逃がしてはならない。  
でも……  
「どうかしたの?」  
私の心配事を見抜いたようにお姉ちゃんが尋ねた。  
「皆……大丈夫、かな……」  
あれだけの幻獣の攻撃が集中してしまったら、流石に耐えられないのではないあろうか。  
そうなれば隊の皆も黙っていられないだろうし、内側からの力にはそんなに強くない種類なのかもしれない。  
 
緊張していた頬が緩んで、優しい声で言ってくれた。  
「大丈夫よ。長持ちはしないけど、かなり強力なものよ。そうね……このトレーラーが最高速度で  
 突っ込んでも全然平気なくらいかな。もちろん内側からもね。……でも、混乱はするかな。  
 貴女には見えるけど、あの人達には見えない壁だから」  
……そんなに凄いものを、あんなに簡単に。  
「お姉ちゃんって、……凄い、魔法使い、なの……?」  
つい訊いてしまう。  
それを聞いたお姉ちゃんは豊かな胸を張って答えた。  
「そりゃそうよ。貴女もね、私の一番弟子なんだから胸を張っていいのよ」  
ちょっと、嬉しい。  
自然と笑みを浮かべているのが解る。  
私を抱き寄せていた手が優しく髪を撫でてくれた。  
「やっと笑った顔、見れたわ」  
 
こつこつとアスファルトを叩いていた靴が止まる。  
林の暗がりには無数の赤い点が確かな意思を持って存在していた。  
僅かに揺れて私達を見ると、その闇を身体にして近づいてきた。  
それなりに広い河があっという間に埋まってしまった。川底が掘り返され、きれいな流れが泥になる。  
「しかしまぁ、解りやすい相手よね。……どうやって生まれたのかしら」  
川を渡るモノ達を見ながらのお姉ちゃんの独り言。  
冷静で、感情の薄い声だ。  
「今から見せるのはあくまでも修得の過程で得たものよ。魔力を操る技術を転用するとこうなるけど、  
 こういう事を極める為に身につけちゃ駄目よ」  
必ず痛い目に遭うからね、と付け加えると私を見た。  
信頼の眼差し。  
……絶対に守ろう。  
私も同じくらいに気持ちを込めた視線を返す。  
ぽんぽんと私の肩を叩くお姉ちゃん。確認か約束か、どちらかだろう。  
正面に向き直して腕を伸ばすと、紅光の輪の一つが抜けて新聞紙二枚程度の広さに拡大した。  
私達を取り巻く守りの壁とは全く違う印象の模様が書き込まれている。  
 
ぐるぐると幾何学的に入り組んだ大小の筋に魔力が通り、まるで起こされた撃鉄のような迫力を帯びる。  
「さあ、やるわよ」  
そして、ただただ一方的な殲滅戦が始まった。  
一対数十という数の差だけど、強さを比べるなら正反対だ。  
銃弾と爆発物を使用しない現実味の薄い戦闘は、実際目にすればひどく幻想的なものだ。  
炎上、凍結、変質、溶解、切断、落雷、墜落、圧潰。  
どれもがありふれた自然界の力で、どれもが絶対に想像出来ない暴力を伴う。  
隊の皆を囲んでいた幻獣達もその異常に気付いて駆けつけたけど、それだけだった。  
何も出来ないままに次々と消されてしまう。  
お姉ちゃんはとてもつまらなそうな顔だ。一刻も早く終わらせてすっきりしよう。そんな感じだ。  
「………」  
激しい魔力の変化の全てを、私の目は捉えていた。  
詳しい理屈はひとつとして知らない。なのに、理屈に反しない変容なんてありえないと  
直感で理解していた。  
 
*  
 
数分後。  
あれだけいた幻獣はきれいにいなくなった。  
夕日が眩しい。  
「よし、こんなものね」  
お姉ちゃんの勝利宣言だ。  
「………」  
私は何も言えない。  
通常の戦闘では絶対にありえない痕が眼下に広がっている。  
凄まじい力が行使された証拠。半ば夢のような時が現実だった印。  
………。  
こんな事が、出来るなんて。  
「さ、戻るわよ」  
かけられた優しい声に我に返って、握られていた手を引かれて指揮車の向こうに戻った。  
隊の皆は無事だった。  
けれど、重苦しい沈黙と怪訝な表情だけがその場にあった。  
 
お姉ちゃんを見ると、特に気にした素振りをしていない。  
予想通りなんだろうけど、どんな言い訳をするんだろうか。  
す、と音もなく立ち上がったのは壬生屋さんだ。  
「お聞きしたいのですが、宜しいでしょうか?」  
その目と声には明らかに挑発するようなもので、お姉ちゃんも似たような返事。  
「人にものを訊く時は、まず名前を言うものよ」  
ぴく、と壬生屋さんの眉毛が動く。  
そして無言のままお姉ちゃんの目前まで迫り、真っ直ぐな声ではっきりと言った。  
「壬生屋未央と申します。あれだけの数をどうやって、」  
「みぶや!へえぇ!ふぅん……」  
珍しい動物でも見るようにあちこちから壬生屋さんの顔を眺めるお姉ちゃん。  
何でそんなにするんだろうか?  
「な……何ですか!?」  
「軍属の方とお見受けしますが、姓名と所属を賜りたい」  
困惑の壬生屋さんの間に割り込んだのは司令だ。  
すぐ後ろには原さんが控えている。  
お姉ちゃんの妖しい視線がちらりと原さんに向いた。  
「っ、………」  
何かを言いかけて、不機嫌そうに視線を逸らす原さん。  
……何でお姉ちゃんは勝ち誇った表情を浮かべているんだろうか?  
焦点を司令に戻したお姉ちゃんが言う。  
「何故軍属だと?」  
簡潔な問いに、司令も短く答えた。  
「雰囲気です。民間人のものではありませんので」  
鋭さに満ちる視線で司令はお姉ちゃんを見据えている。  
少しだけ考えて、お姉ちゃんも答えた。  
「私は、この子の姉です」  
そして私を引き寄せた。  
嬉しくて恥ずかしい感覚が顔から胸に落ちる。  
田代さんの驚きは他の人よりも大きい。  
 
司令の顔にははっきりとした不満が現れた。眼光も同調するように密度を増す。  
「そのような情報はこちらにはありませんが。  
 ……では、どのように敵を撃破したのですか。一回も銃声らしきものは聞こえませんでしたが」  
「この戦闘の事ですけれど」  
お姉ちゃんはいきなり話題を変える。  
その声音にも威厳が満ちていた。司令よりも上の地位からの命令に聞ける強さだ。  
「あなた達だけで排除した、と報告してくださらないかしら?」  
「……、どういう事、でしょうか?」  
眼鏡の向こうにある不満が怒りに変化しかけている。  
……仕方ないだろう。一民間人だと言い張る人の命令に従うなんて、それこそ軍としての沽券に係わる。  
これ以上誤魔化しても手荒い方法を選ばせるだけだ。  
しかし、  
「虚偽の報告なんて初めてじゃないでしょう?今回もそれをやってくださればいいのです。  
 私が居なかった事にしてくださいな」  
お姉ちゃんはその一線を自分から越えてしまった。  
「………」  
司令は何も言わない。  
それがとても怖かった。  
たいていはこの後、爆発する。  
「………」  
「………」  
睨み合いが続き、司令が奥歯を噛み締めたと同時にお姉ちゃんの目も細くなる。  
「舞!」  
「ば、馬鹿者!何を!」  
速水くんが芝村さんに覆いかぶさった瞬間に辺りは赤い空間に包まれ、直後に鼓膜を弾き飛ばすような  
爆音が炸裂した。  
「ゃ、……!」  
頭の中が真っ白になって気が遠くなる。  
私を繋ぎ止めるように肩をしっかりと掴んだのはお姉ちゃんだろう。  
唯一の肉親の無事を確かめようと顔を上げかけ、私は固まってしまった。  
 
「ふぅん、あっそう」  
一切の感情が切り取られた響きだ。  
その相手が誰なのかは決まってるけれど、そうじゃない私まで背中に冷たいものが滝をつくっている。  
ばさばさと厚い布が靡く音に目を向けると、真っ赤なマントがはためいている。  
「え、うそ!?」  
「……なんだと?」  
疑問のざわめきを聞きながら私を守るようなマントを見て、お姉ちゃんを見た。  
赤かった空間は元に戻っていた。戻らなかったのは、お姉ちゃんの姿だ。  
真っ赤な三角帽子とマントを身につけている。高級感に溢れた長袖も柔らかいスカートも、ひたすらに  
赤い法衣に変化していた。  
これが、信じられない。  
皆に見える程に凝縮した魔力の結晶だ。さっき見せてくれた守りなんてこの服に比べれば何百分の1でしかない。  
「まったく、見逃してあげたんだけどな」  
細く鋭い目をそのままに振り返る。  
私の肩からは手が離れていた。  
「そこにいなさい。大丈夫よ」  
本気の声。だけど、それ以上にお姉ちゃんの全身から放出される魔力に圧倒されて動けない。  
「分からず屋は嫌いよ」  
……ぞっとした。背中の戦慄が身体の隅々まで広がった。  
そんな私に気付かず無造作に掲げられた手に、染み出すように現れたまっすぐな杖が水平に落ちる。  
飾りの少ない実用性を重視した外見。  
くるりと垂直になった途端にとんでもない力が宿った。  
「っ!……!」  
がくがくと全身が痙攣してしまう。今の私は心の底から畏怖している。  
見習いですらない私でもこうなってしまう程の魔法使いだった。天上人、でも不足している。  
「邪魔」  
やる気のない声と緩慢な動きで淡く光る杖が振るわれる。  
『ごおん!』  
燃え盛る指揮車がミノタウロスに殴られたように宙を舞って、道路を塞ぐ岩に激突した。  
力ない何気ない動作に、それだけの威力があったのだ。  
小隊の皆が凍りついた気配がひしひしと伝わってくる。  
 
「あ、……」  
お姉ちゃんが睨む方向に大きな塊が浮かんでいるのが見えた。  
スキュラ。遠距離からのレーザーでの攻撃を主とする大型幻獣だ。  
一番機の腰部を破壊し、二番機の膝を撃ち抜いて機動力を奪い去った敵。  
どんな兵器でも真っ向勝負では勝てない脅威に、  
「逃げないなら、倒すだけね」  
お姉ちゃんは簡単に死刑宣言をした。  
ぴたりと杖の先端をスキュラに向けると、周辺に散らばっていた高濃度の魔力が明確な形を持ち始める。  
「え、ええ……!?」  
「何だよこりゃあ?」  
皆の声からすると、どうやら見えてしまっているようだ。  
私はそれ以上に理解している。  
感覚だけど、今アスファルトの上に描かれ始めたのは空間を遮断する目的のものだ。  
私と皆を守り、さらには魔力の漏洩も許さない。  
そして、これから行う魔法の基礎でしかない。  
内側に満ちる魔力は膨大で、閉鎖の術を完了させても殆ど目減りしていなかった。  
次の魔法が始まる。  
お姉ちゃんの口から小さな声が連続していた。  
全然聞いた事がない異国の発音に誘導されるように凝縮し、お姉ちゃんの身体に巻きついてからも  
圧縮されて図形化する。身体のラインをなぞるように張り付いたそれは、言うならばレンズだろう。  
お姉ちゃんを太陽だとすると、その強烈な光を一点に集中させる為の仕掛けだ。  
さっき見たような変化をさせない、単純で純粋な力として叩きつけるつもりなんだ。  
「あ、く……!?」  
突然の悪寒が神経を突き抜けた。  
本能が探り出した原点には、やはりスキュラがいた。  
大きな目が私達に焦点を合わせるように力強く動いて、止まる。  
「あ、あ!」  
ぎらぎらと輝く瞳孔が、内に秘めていた力を放った。  
アスファルトは瞬時に溶解し、トレーラーのエンジンが次々と爆発する。  
切り立った崖にも穴が穿たれたに違いない。  
 
ばきり、と円で囲む結界に亀裂がはいった。  
「……っ!」  
相手も必死だ。今破らないと勝ち目がないと解っている。  
普通では考えられない程の連続放射だ。  
光の柱が何度も私達を突いて、なぎ払い、叩き潰そうとする。  
ぎしぎしと軋む防御を忘れているようにお姉ちゃんは目を閉じて集中している。  
「───。よし」  
不可思議な歌は終わり、全身を覆い、内側にも流れていた赤が杖の先端に集中している。  
その輝きは硬い。研ぎ澄まされた刃物のようだ。  
「終わりね、お馬鹿さん」  
その言葉を合図に太陽みたいに光の放射が強まる。  
マントがなびき濃い影が伸び、他の皆も赤く照らされている。全員が理解不能に陥り、硬直していた。  
「は、っ!」  
短い呼気とともに打ち出された光弾が、スキュラでも破壊出来なかった壁を容易に貫通して飛んでいく。  
人間の頭蓋骨ほどの大きさだ。残光も美しくかろうじて目視可能な速度で飛翔する。  
スキュラも黙っているはずがなく、ゆるりと巨大な身体を横に移動させた。  
直撃を避け、反撃を狙う為の行動なのは確かだ。  
──そうはならなかった。  
ぴたりと瞬間的に止まったかと思うと、最初の数倍はあるだろう速さで大きな弧を描き幻獣を飛び越えた。  
振り返る暇も与えずに背面から巨眼を貫いた。空洞の幅は魔力の塊の何倍もあった。  
そして高々と舞い上がって上部と腹部を串刺しにする。止まらず左右の側面を穴で繋いで仕上げとばかりに  
斜め方向からの突撃を二回。ちょうど『×』になる光の尻尾。  
ぐずぐずとスキュラが崩れながら消える。お姉ちゃんが攻撃してから数秒でこの結末だ。  
異常と言える手段を使いはしたものの、生身の人間がスキュラを一方的に撃破してしまったのだ。  
ふぅ、と私にだけ聞こえる溜息を吐くお姉ちゃん。  
見上げれば明らかに疲労の色が窺える。大丈夫よ、と無音で唇を動かして皆に振り返った。  
かつん、と杖を突き立てる。静まり返った夕暮れに似合う透き通った音だった。  
その顔には自らに対する誇りが満ちている。  
気を確かに持っているのは司令と速水くんと芝村さんだけだ。  
私では読み取れない思考が三人に巡っている。  
 
流石と言うべきだろうか。司令だけが答えの出ない問題を振り切ってお姉ちゃんに言う。  
「あなたは、何なのですか?」  
風に吹かれるマントが唐突に存在を失い、真紅の法衣も柔らかな洋服に戻る。  
アスファルトに立っていた杖も消えていて、空いた手が優雅に私を抱き寄せた。  
懐かしい匂いと久しぶりの安堵が私を包む。  
「私は、この子の姉です」  
優しくて揺るぎのない台詞が、とても嬉しかった。  
 
*  
 
「あら、ちゃんと片付いてるじゃない」  
お姉ちゃんは私の部屋に入ってすぐにそんな事を言った。  
最低限の整頓だけはしているつもりだけど、それだけだ。  
台所やお風呂の場所を確認するようにあちこちを見回しているけど、私にはそんな余裕は  
なかった。  
……夢にまで見たお姉ちゃんが、この場所に。  
「……、うぅ、っ!」  
胸の感情が喉を通って、目からも零れ落ちる。  
繋いでいた手も勝手に動いて、お姉ちゃんの背中に回っていた。  
夢じゃない。本当に夢じゃないんだ  
「ぐ、あう!……わ、あああああ………!」  
ずっと耐えてきて良かった。何度も諦めようかと思ったけど、我慢してよかった。  
やっと、会えた。  
お姉ちゃんの洋服に顔を押し付けて私は泣いた。  
悲しかった事も辛かった事も苦しかった事も、全部がごちゃ混ぜになって私を埋め尽くす。  
それ以上に嬉しくて嬉しくて。髪を撫でられる感触や深々と抱かれる優しさが、余計に私の  
心を瓦解させ、溶解させた。  
「……っ!、っ、………!」  
お姉ちゃんは私の行為を無言で受け入れてくれた。  
 
*  
 
ようやく泣き終えて顔を離す。  
お姉ちゃんが膝を曲げて視線を合わせてくれた。  
目尻が濡れている。何度も確認した事を、こんな時なのに改めて確かめる。  
この人は私のお姉ちゃんなのだ。  
「ずっと、いてくれるの?」  
懇願と確認と。  
お姉ちゃんは悲しそうに俯いて、それでも私を正面から見据えて言った。  
「ごめんなさい。……朝になる前に、居られなくなる、と思うわ」  
……やっぱり、そうなんだ。  
何となくは理解していた。この世界に居るだけで相当な力を消費してしまうのだ。  
お姉ちゃんの身体に流れる魔力は随分と減っている。これがなくなった時にいられなくなる。  
私には分けてあげる方法なんてないし、多分お姉ちゃんも断るだろう。  
「さ、ご飯を食べましょうか」  
誰にでも解るくらいに無理をした明るい声と表情だ。  
あと少ししかいられないなら、それこそ無駄な時間は小さい方が良いに決まってる。  
私も意識して笑顔を浮かべて台所に向かった。  
 
*  
 
私の作った料理なんて簡単なものだったけど、お姉ちゃんは美味しいと言ってくれた。  
それ以上に作れる事を褒めてくれる。  
「屋敷だと、やらせてもくれないからね……」  
屋敷。家じゃない。  
本物のお嬢様だ。  
……私とは全く違う環境で育ったお姉ちゃん。  
なんで、こんな事になったんだろうか。  
訊いていい事なんだろうか。  
他にも疑問はあるけど全部無視して、一夜の夢だと決め付けてしまった方が良いのではないのか。  
 
「どうしたの?何でも言っていいのよ?」  
私の気持ちを察したお姉ちゃんが言ってくれた。  
……。やっぱり、訊こう。  
「……私と、お姉ちゃんって、どうして、……別れた、の?」  
鎮痛な面持ちで暫く沈黙してからお姉ちゃんは答えた。  
「……結局は私の所為よ。私も貴女も小さい頃の話だけどね、お爺様から魔法を教えてもらってたの。  
 その時はとにかく遊びたくて、貴女に構いたくて……それで、無理しすぎたのよ」  
空になった皿を見詰める瞳は後悔で濁っている。  
「早く終わらせようって頑張りすぎて、自分の力量じゃ絶対に扱えないくらいの力が出てしまってね。  
 それで、貴女は私の住んでいた世界から消えてしまったの」  
そして、この世界に来てしまった。  
お姉ちゃんの見た目は(正直に聞かせたら怒るだろうけど)どんなに若くみても二十台ぎりぎり、だろう。  
対する私は十台半ばだ。記憶では何歳も離れていなかった。私がこっちに来る時にずれてしまったのだ。  
 
でも。  
「お姉ちゃんは、こっちに居るだけで、力を使って、……なくなったら戻るんでしょ?」  
重い表情で頷いて、私の言葉を待つ。  
「じゃ、私はどうして、……戻らないの?」  
特に何かをしているつもりはない。  
身体も昔から異常はなく、実は健康体だったりする。  
ふぅ、と息を吐いたお姉ちゃんが私の疑問に答えてくれた。  
「……、救いになるのかならないのか、どっちかしらね。  
 貴女にはこの世界に溢れる魔力を自然に吸収する能力があるからよ。だから、何もしていなくても  
 いられるの。貴方が力を出し切って空っぽになったつもりでも、その直後には吸収が始まってしまうから、  
 この世界から消える事が出来ないのよ。自覚はないでしょうけど、着ている服とか、  
 持っている物からも吸っているのよ。  
 私たち……普通の魔法使いも体内で生産しているんだけど、  
 こういった別世界では消費のほうが上回ってしまうから、いつかは完全に空になってしまうのよ。  
 貴方と同じように他の物から吸収するのは全く不可能な事でもないけど、大掛かりな仕掛けが要るし  
 時間も必要だから簡単には出来ないわ。  
 まぁ、はっきり言えば効率も良くないからね。  
 ……貴女がどうしてそうなったのかは予想がつかないけど、子供の対応力って凄いわね。  
 生きようとする力って言うのかしら」  
 
今もお姉ちゃんの服に赤い砂は落ちているけど、確かに吸い取ってはいない。表面を流れ落ちるだけで  
中には入っていかない。  
私は、じんわりと染み込んでいく。  
「私、本当の家には、戻れないの?」  
ずっとひとりなのだろうか。  
もう逢えないのだろうか。  
私を勇気付けるようにお姉ちゃんは微笑む。  
「でもね、私を呼び寄せたのは貴女よ。貴女にはそれだけの力を蓄える事が出来る。  
 今日のは偶然だけど、それでも召喚してしまった。  
 ……ちょっと羨ましいくらいに素質があるし、意欲だってある。方法さえ覚えればどれだけ  
 伸びるか解らないわ。頑張れば、また逢えるのよ?」  
自分でも解る。頬が熱くなって、身体の芯が力強く私の心を持ち上げる。  
また、逢う事が出来る。  
「さてと、さっさと片付けましょうか?出来るだけ教えたいわ」  
お姉ちゃんも私と同じように気分が高まったようだ。  
使い終えた食器を二人で運ぶ。  
どんなことでも記憶しようと精神が昂っていく。  
 
*  
 
「……あー、駄目ね、うん」  
何故魔法を極めようとするかという根本的な目的を説く事から授業は始まった。  
私は言われた通りにあれこれと試し、どれもがお姉ちゃんを喜ばせた。  
どうやら基礎の部分については我流ながらも会得しているとか。  
あとは応用を覚え、幅を広げるだけらしい。  
「でもなぁ、どうしよっかなぁ……」  
心底残念そうな声と表情。  
これまでの褒め言葉が続いていただけに、その落差が気になってしまう。  
「お姉ちゃん、……どうしたの?」  
「その、なるべく直に教えた方が良いんだけどね、『お姉ちゃん』としての時間を過ごしたいな、  
 とか思ってるのよ」  
 
私も似たようなことはちょっとだけ思っていたけれど、こちらからその提案を出すのは気が引ける。  
「よし決めた。お風呂に入りましょうか」  
返事をする前にぱたぱたと片付け始めてしまった。  
なんだか凄く嬉しそうだ。  
「勉強、……どうするの?」  
「良いの良いの。後は一人でも出来るわよ。ちゃんと宿題も作ってあげるから」  
言いながら使わずに置いてあった数冊のノートと鉛筆を取り出し、机に置いて何やら呟く。  
じりじりとふたつに魔力が灯り、ノートの上で鉛筆が踊りだす。  
「自動書記ってやつよ。今日見せた破壊の魔法よりもずっと難しいんだから」  
ようやく私は気がついた。お風呂って、  
「お姉ちゃんも、一緒に、入るの?」  
「そうよぉ。隅々まで見てあげるんだからねぇ」  
にやにやと意地の悪い笑顔。……私としても全く興味がない訳ではないけど、  
差を見せ付けられるのは既に解っている事だ。  
……お姉ちゃんを見た原さんが数秒もしないで視線を外したのも、多分これだろう。  
「異議なし、ね。じゃあ行きましょう」  
私の手を引いてお風呂に歩き出す。  
空いていた手にはしっかりとバスタオルがあった。  
抜け目がない人だなぁ。と感心してしまった。  
 
食事前にスイッチを入れておいた風呂釜のお湯は、ちょっと熱いくらいだ。  
桶で混ぜるとちょうどいい温度になる。  
「入るわよ」  
ドアが開く軽い音に続いて入ってくるお姉ちゃん。  
肩越しに視線を送る。  
……。原さんの眼力は確かだ。  
胸も腰も実に形よく膨らんでいて、同姓である私から見ても魅力的だ。  
原さんもスタイルが良いけど、お姉ちゃんよりは熟成されていないのが解る。  
深い色合いの白い肌。髪の毛は私と同じように癖がある。だけど、見事なまでにアクセサリーとして機能している。  
胸の双丘は大きく、腰にはどっしりとした安定感が漂い、男性ならば振り返らずにいられないだろう。  
私は……痩せっぽちで出るべきところは殆ど出ていない。  
 
「気にしなくてもいいのよ。私も貴女くらいの頃は似たようなものだったわよ」  
「……本当に?」  
私のすぐ後ろに座って、桶でお湯をかけてくれた。  
肩を起点に胸や腹、背中からお尻までが熱くなる。  
「ああ、若いわね……」  
とても羨ましそうな言い方だ。  
つい口に出てしまった。  
「お姉ちゃんも、若いと、思う」  
あはは、と軽く笑ってからの返事。  
「いいのよ、解ってるわ。そろそろ下り坂って実感はあるのよ。  
 ……貴女はこれからよ。あと数年もすれば見違えるわ。ウチの家系って皆そうなのよ」  
お姉ちゃんはスポンジにボディソープを垂らし、私の背中を優しく洗い始めた。  
その声も温かい。  
「ある程度までは子供みたいな感じが続くんだけど、変わる時は一気に変わってしまうの。  
 アルバムなんて笑えるわよ。ページをめくると別人みたいになってるんだから」  
思い出したのだろう、くすくすと素直で控えめな笑い声が室内に響く。  
私も見たい。見たいから決めた。  
「私、見にいくから」  
今の私でも解る。呼ぶよりも行く方が何倍も難しい事が。  
それでも叶うように努力して、いつかは生まれた屋敷に戻りたい。  
「……そうね、貴女ならきっと来れるわ。頑張って」  
私に力を与えるようにお湯を注ぐお姉ちゃん。  
ざぶざぶ。  
……このままだと前まで洗われそうだ。  
「お姉ちゃん、……」  
「ああ、やっぱり前は恥ずかしいよね」  
やっぱり洗うつもりだった。  
ごしごしと擦り始める。……本当に出てきてくれるんだろうか、この胸は。  
後ろでお湯が流れる音がした。お姉ちゃんも身体を温めているのだ。  
「この髪の色、お母様譲りね……」  
懐かしむように手櫛を通され、私も反応してしまう。  
 
「……そうなの?」  
「そうよ。もし私の住む世界に来れたら写真を見せてあげる。美人よ」  
楽しみがまた一つ増えた。  
必ずお姉ちゃんに会いに行けるようになろう。  
洗い終わったのを察したようにお姉ちゃんがお湯の入った桶を渡してくれた。  
こんな事なのに嬉しい。  
「一回温まりましょうか」  
お姉ちゃんが湯船に入り、私の肩をぴたぴたと叩く。  
つまり、  
「一緒に、入るの?」  
「そうよぉ。もっとスキンシップしましょう?」  
にこにこと満面の笑顔だ。断られる可能性を全く考えていないみたいだ。  
仕方ない、か。  
「……うん、解った、わ」  
お姉ちゃんが足をたたんで、私は空いたところに爪先を伸ばす。お湯の熱さがじんじんと  
骨まで伝わってくるのが気持ち良い。  
「はい捕まえたー」  
「あ、っ!」  
ざぶんと派手な水飛沫が散って私はお姉ちゃんの腕に収まっていた。  
お尻に当たる弾力は若々しい。背中には当然膨らみが感じられる。  
「うふふー」  
本当に楽しそうに頬擦りしてくる。  
ちょっとだけやり返したくなった。  
「お姉ちゃんは、恋人、……いるの?」  
「あ、あははー。それ訊くんだ」  
意外。  
もっと訊きたくなって、言葉を続ける。  
「候補は、いるの?」  
「んー、まぁ、いるんだけどさ、なかなかねぇ……。  
 男の人ってさぁ、名画よりは真っ白なキャンバスのほうがいいのかしらね……」  
溜息。  
 
その例えが何を現すものなのかは理解できる。  
いくら魔法が使えるとしても、その手の方向に強くなれる訳じゃないし、多分使ってはいけないと思う。  
「全部、絵の具で埋まってるの?」  
「どうかしら……よく解らないのよ」  
その絵は大きくて立派だけど、だからこそ近寄って見ようとする人はまず居ない。  
遠くから眺めるのが良いと誰もが思ってしまうから。  
近寄ってくれないなら近付いていけばいい。……そんな簡単な話じゃないと思うけど、  
そんなに的外れでもないはずだ。  
「強引に、見せてあげれば、いいんじゃないの?おもいっきり、近いところで」  
「……んー、その機会があれば試そうかな。ありがとうね」  
すこしだけ私を抱く腕に力がこもった。  
こういう風に扱われるのは本当に久しぶりだ。  
嬉しくて、上手く言葉が出ない。  
「……ごめんなさい」  
ひどく沈んだ雰囲気でお姉ちゃんが言った。  
その意味がよく解らなくて、私は訊く。  
「何、が?」  
「貴女が上手に喋れないのは、ずっと傷ついてきたからでしょう?  
 ……私がした事が原因だよね。私が、しっかりしていれば、……」  
私を捨てた誰かにそういった感情を持ったのは否定しない。  
何度も考えた事だ。意味がないと結論し、それでも繰り返したものだ。  
でも。  
「私は、お姉ちゃんを、許す」  
ぐ、と身体の密着した面積が広くなった。  
言葉はないけれど、先を促しているのは解る。  
「私が、やってこれたのは、……お姉ちゃんの思い出があったから、だもの」  
何回も挫けそうになった。  
でも、同じ回数だけやり過ごせた。一番の理由はその思い出があるから。  
「これからも、ずっと、生きていけるよ。今日の事、ずっと覚えていられる、から」  
ついに会えた。手を握ってもらったし、言葉も交わした。  
知識も教えてくれた。今までの生き方が正しいと証明してくれた。  
「だから、許すの」  
 
その原因が何であろうと許せる。  
他の感情も伝えたくて、大きな手をしっかりと握った。  
「……、ありがとう」  
言葉も身体も振動していた。  
心からの安堵が吐息として首筋にあたる。  
私も安心しているのを知って欲しくて、全身から力を抜いて背中を預けた。  
「………」  
「………」  
そうして過ごした時間が何秒か何分なのか、よく解らない。  
余りにも穏やかな空気はいつまでたっても新鮮で、飽きがこない。  
かくん。  
「ぁ、……」  
軽い衝撃は、私の頭部からだ。  
眠りに入ろうとする私を、身体が止めてくれたらしい。  
「今日はいっぱい喋って、頑張ったものね。あがりましょうか」  
「……うん。そうする……」  
湯船からあがりお風呂から出ると、お姉ちゃんは何も言わずに私の身体を拭き始めた。  
子供じゃないと思いつつ、嬉しさに逆らえずに黙っている私。  
「はい、終わり」  
お姉ちゃんも楽しそうだった。  
私はそのまま寝巻きに着替える。お姉ちゃんを見ると、床にある赤い球に指を伸ばしている。  
サッカーボール大の球体がぱちんと弾け、ふわりと洋服が広がる。眼鏡も載っていた。  
「こうしないと消えちゃうのよ」  
そういえば、そうか。  
さっきの授業で言っていた。この服にも貴女に見えないくらいの力を通してるのよ、と。  
この世界にとってはお姉ちゃんと一緒にきた洋服も異物なのだ。  
抵抗力がなくなればあっさりと消えるだろう。  
慣れた手つきで洋服を着たお姉ちゃん。  
「さて、眠りましょ」  
……いいな、こういうの。  
今日限りだけど、寂しい眠りから解放される。  
 
ベッドは小さく、ちょっと無理があるけどお姉ちゃんと一緒に布団に入った。  
抱き合うような姿勢にならざるを得ないけれど、充実感は格別だ。  
安心する。  
眠気は洪水のように私の中に溢れ、目を開けているのもつらい。  
「おやすみなさい」  
「……、……」  
答えようとする意思さえも温もりの中に消えていった。  
 
*  
 
目を刺す光が私を目覚めさせた。  
ぼんやりとした頭で昨日の事を思い出す。  
色々とあった日だった。念願の殆どが実現し、新たな願いと目指すべき目標を見つけた日でもあった。  
思い出すだけで身体の芯が活力を生産する。  
低血圧で寝起きは悪いはずなのに、がばりと勢いよく身体は起き上がった。  
「……、うん。頑張る」  
自分に言い聞かせるように呟く。  
お姉ちゃんとの約束を守ろう。その為の努力を惜しんではいけない。  
何となく生きていた昔は終わった。  
今日からは違う。  
やる事がある。  
──視界の隅に、紅い箱があった。  
「……?」  
机の上だ。  
昨日使ったノートのすぐ横にある。  
ベッドから降りて冷たい空気を感じながら近づく。  
昨日見た赤球と同じ役目をするものだと理解出来た。  
中には何かが入っている。  
忘れ物なんかじゃない。私への贈り物だ。  
 
そろそろと指を伸ばし、角に軽く触れた瞬間に赤色が私の身体に浸透した。  
「あ、ぁ、……っ!」  
限界まで濃縮された力が体内を駆け回った。ぐるぐると走り、ごうごうと吹き荒れる。  
今まで使っていなかった回路にも注がれ、びくびくと気でも違ったように背筋が仰け反った。  
それほどまでに力強く、圧倒的なお姉ちゃんの魔力だった。  
「……、は、あ……」  
じんじんと全身が熱を持っている。  
やっぱりお姉ちゃんは凄い。こんなに濃い力を常に生み出し、制御しているんだ。  
追いつけるとは思わないけど、可能なところまで近づいて、びっくりさせてあげよう。  
「……じゃなくて」  
そうだ。もうひとつの贈り物を確かめなきゃ。  
視線を下げる。お姉ちゃんがかけていた眼鏡があった。  
その下にはメモが置かれている。  
『貴方に合うようにしてるつもりだけど、かけてみて』  
残された鉛筆の文字に従って私は眼鏡をかけた。  
「……え、えぇ……!?」  
世界が変わった。  
今まで見てきた魔力の粒が、形を変えている。──いや、違う。  
こんなにも多様な形をしていたんだ。丸いだけじゃない。棒のようなもの、四角いもの。  
これは補助具だ。初心者向けの道具。  
落ちる粒子を追って、メモに含まれる魔力を形にした文章が見える。  
『この字が眼鏡なしで見えたら半人前。この文章が全部読めたら一人前よ↓』  
……何も見えない。どんなに目を凝らしても輪郭すら感じられない。  
ふと気になってノートを開くと、余白が随分と大きい。  
今の私には見えない文字で、新たな課題が綴られているに違いない。  
これからの道は随分と険しいものだと容易に知れた。  
でも。  
「うん、頑張る」  
絶対に、辿り着いて、お姉ちゃんと会おう。  
短い手紙にはお姉ちゃんの名前と、私の本当の名前も載っていた。  
この名前で呼んで、呼ばれたいと私は思う。  
 
*  
 
登校すると、皆が軽く驚く。  
「おい石津、……雰囲気が全然違うぞ」  
田代さんが彼らの気持ちを代弁してくれた。  
眼鏡をかけたまま私は学校に来たのだ。  
お姉ちゃんがいつも傍にいるようで、私はそれだけで顔をあげていられる。  
「そのうち、慣れる、わ」  
ふ、と微かに笑った田代さん。  
「そうだな、変わらない人間なんていないんだよな……」  
ぽんぽんと私の肩を叩いて席に戻っていくと、  
どすどすと重い足音を響かせて坂上先生が教室に入ってきた。  
 
*  
 
そして、理解した。  
他の人には魔力は流れていない。表面を滑り落ちるだけで、内部には存在していないのが  
はっきりと見えるようになった。  
──ひとりだけ違う。  
触れるだけでばちばちと弾き、流れを否定する人がいる。  
魔力が避ける対象は後にも先にも幻獣だけだ。その事実が覆された。  
……違う。中に、幻獣がいるのか。  
間違いはない。私の感覚は真実のみを訴える。危険だ。私だけじゃ対処出来ない。  
彼に直接言ったとしても、最悪の場合、私が消されるだろう。  
彼ではなく内に潜む『彼』に。  
どうする。  
賭けだけど、常に傍らに居続ける人に言おう。  
信用してもらうにはどんな内容を、どんな言葉で告げるべきだろうか。  
考えよう。  
 
終  
 

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