「おー速水!今日も大活躍だったな!」  
「滝川や壬生屋さんの掩護があったからだよ」  
「謙遜するなって。あんな数の幻獣に囲まれて、無傷で突破なんて  
 お前しか出来ないって。・・・なぁ、何でそんなに頑張れるんだ?」  
「う〜ん、幻獣に殺された人達のことを想うと、まだまだ足りないよ。  
 倒した幻獣の数も、僕の努力も・・・だからあれこれしなきゃって思うよ」  
「は〜、なるほどな。その上目指せお菓子職人だもんなー。  
 お前みたいなのが神に愛される者ってやつなんだろうなー」  
「・・・いないよ、神なんて、そんなもの・・・」  
「・・・」  
「・・・」  
「・・・あー、悪いこと言ったみたいだな。さて、ゲーセン行こうぜ!  
 一回奢ってやるよ!」  
「今日は早く休みたいんだ。この夕日をもう少し見たら帰るよ。また今度ね」  
 
滝川、ごめん。嘘だよ。  
誰かの為なんかじゃないんだ。  
僕の心に深く根を張った孤独感を忘れる為なんだ。戦闘中の高揚は僕を少しだけ  
楽にさせてくれるけど、その後は必ずそれを上回る孤独感が襲ってくる。  
その孤独感を忘れるにはもっと大きい高揚が必要なんだ。  
太陽の光と夜風に晒された大岩が序々に砕けていくように、僕の精神も壊れていく。  
小隊の皆に世話を焼いて気を紛らわす時期もあったけど、今は無理になった。  
薬に逃げる事も考えた。でもそんなことをしたら、あのポニーテールの彼女は  
かんかんに怒ってあの爽やかな笑みを二度と見せてくれないだろう。  
そうなったら、僕は本当に終わってしまう。  
長くはない、と思う。これは僕が選んだ生き方だ。救いが欲しいなんて言わない。  
・・・けど、・・・いや、それだけは避けないと。  
目の前の卓袱台には出来損ないにしか見えないクッキーが載っている。  
形は歪んでいて、焼き過ぎで硬くて黒くて、味も薄いクッキー。  
僕はそれをガリ、とかじり確認する。それだけは避けないと。  
 
 
厚志は変なやつだ。いつも笑みを絶やさない。  
隊に来た直後は兎に角人を避ける行動ばかりしていた。  
間もなく誰にでも世話を焼き、隊の中心を担う人物の一人になった。  
高い戦闘技術も身につけた。判断力なら完全に私を超えた。戦闘中は厚志の補助に  
徹すれば間違いはないと断言できる。頼もしい存在になったものだ。無論嬉しい事  
なのだが、微量の悔しさもある。  
今や頼れる戦友ではなく、一人の男性として意識している。体の一部が触れる度に  
恥ずかしさと心地よさが私を動揺させる。その動揺が広がる前に厚志は離れていく。  
その度に心がため息をつく。  
・・・最近は人を避けているような行動をしている。隊に来た時のように。その笑みも  
何か違う種類に変化した気がする。  
何かあったのだろうか。  
それらと関係があるかどうか解らないが、戦闘中に奇妙な現象が起こるようになった。  
 
左翼に広がる敵にアサルトを二号機と連携して撃ち込む。右翼では一号機がミノタウロス  
を数体引き付けている。スキュラはまだ遠い位置にいる。  
不意に頭に白い閃きが走り、あるイメージが浮かぶ。  
ゴルゴンが二匹倒れ、三号機は一号機に向かって走る。二号機は残った敵を撃つ。  
「舞、あと二匹倒したら一号機の掩護に行く。射程に入ったらロックして。  
 二号機は残った敵を撃つ」  
「了解だ、三号機」  
「舞?」  
「・・・うむ、了解」  
まただ。厚志の指示通りのイメージが、その言葉の直前に浮かんでしまう。  
思考が似ているから、というには余りにも精確で、タイミングが良すぎる。  
厚志がやっているとしても、このような力は聞いた事がない。東原が持つ同調は受け取るだけのはずだ。  
待て、そこまでだ。今は敵を倒す事に集中しろ。終わってから聞けば良い。  
 
そう思っていたが、聞けないでいた。聞いてしまったら元に戻れなくなる、そんな予感がある。  
厚志も、私も。今日こそは聞こうと厚志を探すが見つからない。これも偶然では  
ないのかもしれない。夜の11時を過ぎた。今日は諦めようか・・・いや、いた。  
整備員詰め所で情報技術の訓練をしているようだ。  
 
「舞か。まだいたんだ」  
中には厚志だけが居た。いつもの笑顔だが、優しさ以外の感情が強く感じられる。  
やはり、変わった。そう確信し、躊躇わずに私は言った。  
「厚志、戦闘中の、あのイメージは厚志がやっているのか?」  
「ああ、そうだよ」  
簡単に肯定されてしまい、次の言葉が出ない。冗談、なのだろうか?  
端末の電源を切り、部屋の中心に向かいながら厚志は言う。  
「冗談じゃないよ。聞く事も出来る。ののみちゃんは同調の変種の力だって言ってる。  
 この力が生まれるきっかけなんて見当もつかない、いきなりだよ。  
 最初は舞の心が聞こえるだけだった。それも近くに居る時だけ、だった。  
 今は聞こえる人の数は随分と増えてるし、範囲も広いんだ。解らない人もいるけど、  
 解る人は解る。ぼんやりとじゃないんだ。送る方は舞だけだ。でも何時どうなるか・・・  
 聞こえる度にお前は人間じゃないって言われてる気になってしまう。ののみちゃんは  
 強い子だよ、こんな状態で変わらずに居られるんだから・・・僕はそうはいかないみたいだ。  
 ・・・最近、人間と幻獣の区別の仕方がすごく単純になってる。殺していいか、そうでないか  
 くらいの違いしかない。・・・僕は何になるんだろうね。  
 ・・・やばい事なってるんだろうけど、どうしようもない」  
厚志は私に体を向け、笑みはそのままで視線を落として言う。  
「だから、近くにいない方が良い・・・」  
長い独白に続いて沈黙する。  
厚志の言葉が頭の中で渦を巻いている。受け止めるだけで精一杯だ。上手く思考できない。  
何を言ってやれば良いのだろうか。  
私は何をしてやれば良いのだろうか。  
何故、これほど詳しく言ったのだろうか。  
私をも遠ざけるためなのか。  
それほどまでに危険な状態なのだろうか。  
私の問いが、最後の一歩を踏み出させたのだろうか。  
・・・厚志の笑顔が、消えていく。  
 
やっと解った。  
この笑みの裏には強烈な孤独感が存在していたのだ。放って置けば速水厚志を消してしまうほどの。  
最後の笑顔が薄れていく。目から生気が消えていく。滲み出る孤独感が勢いを増していく。  
厚志が、どこかに行ってしまう。  
駄目だ。行くな。待ってくれ、お願いだ。戻ってくれ。私から、離れないでっ!  
厚志の胸に飛び込み、右腕で背中を引き寄せ、左手を厚志の右手に絡ませる。  
これで聞こえないなんていわせない。精一杯呼べば厚志は戻ってくる。戻すんだ。  
「厚志は馬鹿だ」  
私は馬鹿だ。  
「もっと早く言えば、それほど苦しまずに済んだはずだ」  
もっと早く聞けば、これほど苦しませずに済んだはずだ。  
「厚志だけではないぞ」  
私も孤独だった。辛かった。  
厚志の右手が僅かに反応した。間に合ったのだろうか。  
「舞、こんな人妖(ばけもの)からは、離れなきゃ、いけないよ」  
言いながら厚志は左腕で私を引き寄せる。間に合った。良かった。  
そうだ、私も寂しかった。  
芝村の末姫として何不自由なく育てられたが、友と呼べる存在は一人も居なかった。  
この名に劣らない能力を身に付ければ自然に出来る、そう信じて勉学に励み、体を鍛えた。  
しかし、そうなることはなかった。学校での休み時間や下校途中に聞こえる楽しげな会話や  
弾けるような笑い声は、私に辛い現実を突きつけた。  
私の周りには誰もいない。これからも、すっとだ。寂しい。  
芝村の名がその弱さを見せる事を許さない。寂しい時こそ必死に芝村を演じた。  
月日が経つにつれてその状態に慣れるようになった。・・・正確には、寂しさから  
目を逸らすのが上手くなったと言うべきか。しかし不意に強烈な寂しさは襲ってくる。  
そんな時は抱えた膝に顔を埋め、それが通り過ぎるのをじっと待つしかなかった。  
この隊も同じだろうなと思っていた。でも厚志は違った。芝村を知った後でも普通に  
接してくれた。待ち望んだ普通。これほど嬉しい事はなかった。  
私はまともな人付き合いをしたことがない。だから、厳しい言い方をしたことがあるかも  
知れない。もしそうなら許してくれ。私に出来る事があるなら何でもしてやる。  
だから、傍に居て欲しい。独りはもう嫌だ。  
 
厚志はこの隊に来る前から孤独だったのだろう。だから、人を避けていたのだろう。  
過去に何があったのかは知らない。どんな理由なのか聞くつもりもない。  
けれど、その寂しさは解ってやれる。私はお前を慰めてやれる。傍に居るだけで良いのだ。  
私が居る事を確認したいのなら名前を呼べば良い。実感が得たいなら手を伸ばせ。  
厚志の気がすむまで答えてやる。だから、一緒に居て欲しい。  
もし良ければ、この腕の中を私の居場所にして欲しい。それ以外は何もいらない。  
「舞・・・」  
厚志の顔を見ると、辛そうで今にも泣き出しそうな表情をしている。  
幾重にも積み重ねられた寂しさや孤独感に隠された、本当の厚志。  
私も同じような表情だろう。頬が熱く、目元が震えている。  
どちらからともなく唇を重ねる。  
その例えようがない暖かさが全身に広がるのを感じる。  
唇を離し、厚志を見る。その目には確かな意志が宿っていた。厚志は間違いなく戻ったのだ。  
その心を繋ぎ止められるなら、私は・・・  
無言で二度目の口付けを求められ、答える。  
唇を舌が割って入ってくる。私も必死に舌を動かす。  
厚志は私の、豊かとは言えない胸を左手で服の上からゆっくりと揉む。  
「ん・・・はぁ、んぅ・・・」  
私の息と声を全て飲み込もうと、厚志は口を離さない。その行為が嬉しかった。  
もっと、もっと私を感じて欲しい。厚志の中の私をどんな事があっても揺るがない、  
確かなものにして欲しい。  
ふと唇が離れ、私の耳を弄ぶ。脳髄にその強烈な刺激が叩きつけられ、全身が  
振るえ、力が入らなくなる。  
「あ、あっ!厚志っ!」  
厚志にしがみ付いたまま膝をついてしまう。  
やや迷うような目を見せる厚志。  
細い声をどうにか絞り出して私は言った。  
「大丈夫、だから・・・続けて」  
 
制服を脱ぎ、下着姿になる。今更だが恥ずかしさで顔が熱い。厚志も同様にトランクス  
だけの状態で、その膨らみは早くも準備が完了している事を表していた。  
見ていられず、視線を逸らす。ちらりと見えた厚志の顔は、僅かだが辛さが緩和している  
ように見えた。  
厚志は何も言わずにやや乱暴に私を両腕に収めた。太ももに厚志の性器が押し当てられている。  
こんなに大きくて、熱いものなのか・・・  
三度目のキスをする。舌の動きは激しく、とてもついていけない。私のブラジャーを脱がし、左手で  
先ほどより大きく胸を揉み上げる。舌と手の動きが同調し、私の体は容易に厚志の支配下に  
落ちてしまう。その行為は激しいというより優しさがない、と感じてしまう。  
・・・もしかしたら、相手は誰でも良いのかもしれない。厚志が想っている人は私ではないのかもしれない。  
促されるままに横たわる。  
厚志の右手は私の左手を掴んで離さない。私の両足の間に体を割り込み、空いた手と口で私の胸を  
貪っている。吸われる、甘く噛まれる、強く押し込まれ、その周りをなぞられる、指でしこられ、  
舌で転がされる。何かされる度に私は声を上げ、性を目覚めさせられる。  
私の右手は無意識に厚志の頭を撫でていた。  
もっと、厚志を感じたい。もっと私を感じて欲しい。  
「厚志・・・」  
私は声を掛け、両腕を厚志の首に回した。厚志は顔を上げ、私を見詰める。  
やや体を起こし、私から口付けた。  
視線が交じり合い、息と唾液を交換し、その行為が高めた快感が私の体から力を奪う。  
この行為に何の感情もなく、ただ本能に従っているだけだとしても、許せる。  
厚志だから、許せる。・・・聞こえているか?  
「・・・ぁ、ふ、・・・っ・・・はぁ・・・」  
顔を離し、荒い息を整えているのが精一杯だ。気が付くと寝かされていて、厚志の姿が見えない。  
「厚志?・・・っあ!」  
秘所を舐められている。そう判断した時には既に侵入していた。  
厚志の舌が動く度に訪れる快感に、私は体を反らせ、捻らせる。  
「ああ、・・・は、んうっ・・・くぅう!」  
今までの包み込むような快感とは全く違う、激しく勢いのある快感が背筋を遡る。  
その激流が思考が埋め尽くしていく。  
それでも私は呼びかけを止められなかった。  
 
厚志の故郷がどんな所なのか知りたい。  
春はどんな花が香り、夏はどんな蝉が鳴くのだろうか。  
秋はどんな木々が染まり、冬はどんな手触りの雪が降るのだろうか。  
季節感が薄い町でも構わない。私は厚志と一緒にそこを歩きたい。  
そして、私の故郷も知って欲しい。厚志のそれと比べて面白くないかもしれないが、  
四季の移り変わりを見せたい。些細な思い出も全部語りたい。その理由は、  
私は、厚志が好きだから。  
「・・・っ!・・・あぅぅ!・・・ん、ぁぁ・・・」  
軽い絶頂、そして甘美な余韻に浸りながら涙がこぼれているのを知った。  
視界は僅かに歪み、ひくひくと揺れる脚の間に居る厚志を見詰め、私は頷いた後に  
両手を胸に載せ、目を閉じる。  
今日という日があった事を私の体に刻んで欲しい。一生忘れないように、深く、しっかりと。  
その痛みは相当なものだと知っているが、怖くはない。だから、早くして欲しい。  
・・・不意に水滴が落ちる音がした。目を開けると、厚志が泣いていた。その表情は酷く辛そうで、  
涙は次々に床を叩いた。助けなければ。身を起こし、厚志の頭を胸に抱く。その涙は熱く、  
体はぶるぶると震えていて、歯も僅かだが鳴っているようだ。  
声こそ出さないが、紛れもない慟哭だった。  
それまでの快感を忘れ、必死に呼びかけた。  
しっかりしろ、私はずっとここに居る。大丈夫だ。どこにも行かないから、どこにも行くな!  
数分後、厚志は私から離れた。弱々しい笑顔を浮かべている。私に見られたくない顔を  
隠す為の仮面であるのは間違いない。その顔を見ていると、もう一度しっかりと抱いてやりたいという  
衝動に襲われるが、駄目だ。耐えろ。何かを伝えようと離れたのだ。邪魔をしてはいけない。  
「舞の思う通りだ。・・・僕は、昔、ちょっとあった。その過去をまだ振り切れていない。  
 少しだけ、時間をくれないか・・・どんな答えが出るか判らないけど、舞が望む答えじゃない  
 かもしれないけど・・・こんな半端な気持ちだと、舞も迷惑だよね。だから・・・  
 その答えが、舞の望むものだったら、一緒に居られると思う。けど、そうじゃなかったら、  
 諦めた方が良い、と思うよ・・・」  
厚志は自分の過去と向き合い、決着を着けると言う。  
これは厚志だけの闘いだ。私は何も出来ない。介入せず、待つしかない。  
待つしかないんだ。  
 
どんな答えであろうと、厚志は変わる。もし最悪の方向に変わったなら、命を犠牲にしてでも  
止めなければならない。  
その答えを出させたのは私なのだから。  
「解った。待ってるぞ」  
私は無言で服を着て、ドアに向けて歩く。厚志も服を着終えていたが、その場に立ったままだった。  
あらゆる感情が混在するが故の無表情で、意思の宿った目を何もない空間に焦点を合わせていた。  
もう始まっているんだな・・・  
聞こえていないかも知れないが、声を掛ける。  
「厚志、・・・待っているからな」  
家に帰り、ベッドに入っても眠気は全く無かった。  
目覚まし時計が無音で時を刻むのを見ながら、厚志のことを考える。  
自分を崩壊寸前に追い詰めるほどの孤独感や寂しさを成型する過去。  
その心の古傷を無理やり開き、手の施しようがない致命傷にしてしまうだけかも知れない。  
その結果どうなるのだろうか。  
心に鉄壁を張り、外界との接触を一切絶つ廃人になるのだろうか。  
幻獣と人間の区別が付かない何かに変化し、凶行に走るのだろうか。  
その途方も無い痛みに耐え切れず、自害するのだろうか。  
嫌だ、そんなのは、絶対に嫌だ・・・っ!厚志はきっと克服する。勝つと信じている。でも、  
どうしても悪い方向に考えてしまう。  
私は酷い事をさせている。他にも方法はある筈なのに、最も辛い行為をさせている。  
厚志の生還を何よりも望みながら、最悪の窮地に追い込んでいる。  
馬鹿だ。大馬鹿者だ。私は、こんなに馬鹿だったのか。  
厚志、・・・厚志。  
今すぐ傍に行きたい。そして、・・・どうする?邪魔する訳にはいかない。  
待つと約束しただろう。厚志はもっと苦しんでいるのだ、私が我慢出来なくてどうする!  
でも、何とか、力になりたい。・・・私に出来る事は、それでも待つ以外の選択肢は無いのだ。  
・・・厚志もそれを望んでいる筈だ。それならば、待とう。  
 
一睡もせず朝になった。  
今日は日曜。家に居ると厚志の事を、悪い方ばかり考えてしまう。  
このままでは精神が持たない、そう思い士魂号の調整に一日を費やす事にする。  
最近の隊の被害は少なく、担当地域の幻獣も狩りつくしたとあって出てきているのは私だけだ。  
仕事に集中出来る環境ではあったが、成果は上がらなかった。  
厚志の事を思考の隅に押し込みながらの作業が上手くいく筈が無い。  
手を休めていると、ふと夕日に染まる校舎が頭をかすめた。  
今更のように昨日の事を思い出す。体を重ね、一線を越える寸前までの行為。その興奮も蘇り  
体温を上昇させる。頬が熱い。  
続きが出来るのはいつだろうか。・・・出来る結果になって欲しい。厚志、負けるな。  
私は続きが、したい。だから、必ず勝て。  
夕日に、染まる・・・?  
顔を上げ、窓を見る。夕方だ。では、厚志は、今のイメージは。  
ハンガーを飛び出し、校舎前に走る。厚志は居た。目前まで行くが、何も言えなかった。  
優しい微笑みではなかった。口元は硬く結ばれ、強い視線を私から離さない。  
闘いの結果は、答えはどうなったのか言って欲しい。私から聞くなんて出来ない。  
何故、何も言わない・・・その沈黙は、余りにも重くて、・・・早く言ってくれ、厚志!  
厚志は何も言わずに私の手を握り、整備員詰め所に連れ込んだ。  
突然の事に声が出てしまう。  
「ちょ、っと・・・厚志!」  
ずんずんと部屋の中心に向かい、そして振り返った。  
優しい笑顔だった。続けて言う。  
「一緒に暮らそう」  
返事を返す間もなくキスをされる。何の変哲もない唇を重ねるだけのキスだった。  
その感触で、私は確信した。厚志は勝ったのだ。私と一緒に居る事を選んだのだ。  
嬉しい。本当に、嬉しい。  
私も最高の笑顔で感謝の言葉を述べよう。  
 
その笑顔が作れない。  
今まで押し殺してきた感情が息を吹き返し、私の顔を歪めていく。  
心を落ち着かせようと目を閉じると、大量の涙が押し出された。  
感謝の言葉など出る筈もなく、  
「ううっ・・・」  
嗚咽しか出ない。  
違うだろう。今、しなければならないのは、そんな事ではないだろう。・・・顔はどんどん歪みを  
増し、涙も一向に衰えない。嗚咽も時間と共に大きくなって、止めようがない。止めて、私は、  
感謝しなければ、ならない、そう決めて、いるのに・・・っ!  
「ううっ!・・・ぐ、ううううう!」  
許せ厚志、すぐ終わるから・・・っ!  
夕闇の中で私は厚志の胸に顔を埋めて泣いた。  
厚志は何も言わずに私の頭を撫で、この行為を受け止めてくれた。  
この胸がとても優しく、広く、大きく感じる。  
両腕を背中に回し、引き寄せる。それでも物足りなくて、手に制服を握り締めた。  
厚志も私の背中に腕を回してくれた。私の外面を吹き飛ばす内側からこみ上げる感情と、  
それを抑えようとしない私の気持ちが、私の本心を表していた。  
・・・厚志に一番知って欲しかったのは、私が本当は弱い人間であるという事だ。  
薄い殻一枚でどうにか成り立っているだけの、脆い存在なのだ。  
殻の中ではいつも泣いていた。でも芝村の為にずっと漏れ出さないようにしてきたけれど、  
もう限界だった。この胸なら堪える必要がない、そう知ってしまったから、こんな気持ちになって  
いるんだ。  
これが、誰にも見せた事がない、本当の私なんだよ、厚志。  
厚志には隠したくないから、偽りたくないから、見て欲しいから・・・  
だから、もっと泣いてもいい?  
私は、こんなに、我慢してたんだよ・・・!  
「っく、っぐ、・・・うう!あううう!」  
しなければならないのは感謝だ。でも私は、私がしたい事を優先させた。  
私は厚志の腕の中で子供に帰り、子供の様に泣き続けた。  
 
全てを吐きつくし、顔を上げ、体を離す。辺りは暗かった。  
厚志の制服が広く濡れている。今まで我慢していた分を出し切った気がする。  
「ごめん・・・服、汚した」  
何の抵抗もなく謝罪の言葉が出た。  
厚志は笑顔で頷いて許してくれた。頭を撫でる手が温かい。  
再度厚志に体を任せ、心地よい安堵感に身を委ねる。何故こんなに安心できるのだろうか・・・  
そう、なのだろう。私は様々なものに駆り立てられ生きてきた。芝村の名前、士魂号のパイロット  
としての立場、襲ってくる敵、周囲の視線、それらに負けられないという感情。  
この腕の中ではそれらから私は解放される。安心して足を止めることが出来る。  
私は、生まれて初めて休んでいるのだ。休める場所を得たのだ。  
厚志は私の髪を指で遊んでいる。その刺激が安堵感の奥底からある衝動を浮上させる。  
何の抵抗もなく言葉になる。  
「昨日の、続き・・・」  
言ってしまってから恥ずかしさで顔が熱くなる。耳まで真っ赤になっているに違いない。  
途中で止めたしまったが、意味は通じるだろう。  
「ここで?」  
厚志も同じように短く聞いてくる。真剣な響きがあった。  
私は首から上が更に加熱していくのを感じながら、決心する。  
言え、言ってしまえば楽になる。言わなければならない。  
「そ、その、わ、私の、部屋に、来い」  
「ん、解った」  
厚志は涼しい声で答えた。  
全く、解っているなら言わせなくても良いだろうに、この男は。  
私は無言で厚志の手を引き、ドアに向かった。  
 
「お、広いな。さすがって感じだな」  
厚志の口調から察するに、私の部屋は平均より広いらしい。  
楽しそうに目を巡らせ、ある部分に視線を固定し「あはは」と笑い、続けた。  
「舞も女の子なんだね、うん」  
枕元に所狭しと並んでいる猫のぬいぐるみを見ながら嬉しそうに言う。  
否定はしないけれど、何となく反発する言い方をしてしまう。  
「悪いか。芝村にも性別くらいはある」  
厚志は優しい笑顔で私のささやかな抵抗を受け流した。  
そして私を正面から抱き、口を開いた。  
「舞は女の子なんだよ」  
私は何度も頷き、確認する。  
「うん、・・・うん」  
私を女として扱ってくれるのは厚志だけだ。だから、私も厚志を男として扱わなければ、  
釣り合いが取れないというものだ。だから・・・  
昨日と同じように、どちらからともなく唇を重ねる。  
今までの辛かったった日々が次々と思い出され、そんな日は二度と来ないと確信出来る記念すべき時。  
寂しさの終わりが嬉しくて、孤独から開放されるのが嬉しくて、厚志がずっと傍に居てくれるのが  
嬉しくて、また涙が、出てしまった。  
唇を離し、私は言った。  
「ごめん・・・私は、こんなに泣き虫だったんだな。・・・知らなかった」  
その言葉を受け、厚志は静かに言った。  
「いくら泣いてもいいんだよ。隠さなくていい。その涙は、舞が変わっていく証拠  
 なんだ。僕は、生まれ変わった舞が見たい」  
私も、そう思う。  
自分という殻を破られるのを恐れる脆弱な私を変えたい。揺るがない芯を持ち、傷つく事を恐れずに  
前に進む新しい私に変わりたい。  
厚志には、その手伝いをして欲しい。この古い私を壊し、新しい私に力を注いで欲しい。  
ゆっくりと服を脱ぎ落とす。古い殻を一つ一つ外していくように。  
厚志も私を見詰めながら服を脱いでいく。  
服の擦れる音が私を昂らせた。  
 
ベッドの上で唇を重ね、厚志は私の体の隅々まで指を這わせる。  
僅かに残った私の殻を落としてくれていると錯覚してしまう。そうではないとしても、  
その手はとても温かくて、優しい。昨日とは違い、私を意識して、してくれている。  
舌と指で程よく刺激し、私の反応を確かめて更に刺激してくれる。声帯を使わない会話。  
浅い息を吐き、その行為がもたらす快感に酔う私を見た厚志は、唯一触れていない部分に、  
最も敏感な所に手を伸ばした。  
「あ!・・・ああ、んふぅ・・・」  
秘所は小さな音を立てて厚志の指を受け入れ、その動きに呼応し、熱い液体を溢れさせる。  
熱い気持ちも、溢れさせる。もっと、して欲しい。その指では足りないよ、厚志。  
指を染める透明な液体と、私のもの欲しそうな表情を見て厚志は言った。  
「舞・・・」  
「・・・うん」  
私はそれ以上何も言わずに脚を開く。厚志も同じく無言で移動し、私と一体となる姿勢になる。  
トランクスから飛び出した予想以上に太い性器に目を奪われてしまう。心臓の音が更に大きくなる。  
受け入れられるのだろうか。大丈夫なのだろうか。・・・でも、受け入れたい。きっと、大丈夫だ。  
期待と不安が膨らんで、おかしくなりそうだ。ついに厚志は動き出した。  
秘所が掻き分けられ、その軋みがそのまま声になる。痛みと圧迫感で、目を開けていられない。  
「ん、・・・く、うう!・・・あ、あぁ!」  
その痛みに体が勝手に逃げようと身を捩り、腕を伸ばし厚志の胸を押し返そうとする。  
しかし厚志は私の腰をしっかりと掴んでその行為を続ける。  
体の中で何かが貫かれるような衝撃と、更に大きな痛みが、悲鳴を封じ込めた。  
「っ!・・・・・っ!は、・・・っ!」  
厚志はそれ以上動かずにいてくれた。しばらくして少しだけ痛みが引き、目をようやく開ける。  
厚志は私の手を握り、切なそうな表情で言った。  
「痛そうだね、ちょっと、一休みしようか」  
内奥の衝動を必死に抑制し、気を抜けば理性が排除されてしまう、そんな顔をしている。  
私のことを気遣う顔だった。  
また、辛い思いをさせているのか、私は・・・。もうそんな顔をさせたくない。  
「大丈夫、だから、・・・いいよ」  
表情をそのままに厚志は答えた。  
「・・・解った」  
厚志は一つ大きく息を吐き、動き始めた。  
 
慈しむように、愛しそうに、厚志はゆっくりと動く。私の秘所をこの行為に慣れさせようと、  
根気強くその胸の衝動を抑えながら、さざなみの様なゆったりとしたリズムを、私に刻む。  
「く、・・・は、んんっ・・・う、あぅ・・・」  
痛みは頑強な抵抗を示し、私の中から去ろうとしない。  
厚志は諦めずにそのリズムを守り、やがて少しずつ痛みが小さくなっていく。その隙間を埋めるように、  
ぼんやりとした快感が大きくなっていく。  
厚志が動く度にその快感は鮮明になり、質量を増しながら積み重なって、喉から零れ落ちた。  
「あ、あぁん!」  
信じられないくらい艶のある声。本当に、私が出したのだろうか?  
それを聞いた厚志は意を決した表情になる。そして言う。  
「いいみたいだね。じゃ、いくよ」  
私の半開きの唇に軽くキスをすると、今までとは全く違う激しい動きを始めた。  
荒い息を吐き、低く野太い呻き声を上げながら秘所を奥深くまで貫き、掻き回す。  
「っ!う、っ、むぅ、んうぅ!」  
それは本能に従う雄としての咆哮なのだろうか。男としての務めを果たそうとする声だろうか。  
どちらなのかは解らない。両方が混じっているのかもしれない。  
しかしその顔は間違いなく厚志のもので、本気の表情で、私の願いを叶えようとしている。  
古い私を壊そうと、その槌を必死に振るう。何の疑いもなくそう信じられる。  
私の口は甘く高い声を上げ続ける。  
「ああ!は、ああう!ん、ああん!」  
雌としての悦びと、女としての歓びが結合した声だった。古い私が崩壊していく証しでもあった。  
もっと、丹念に徹底的に容赦なく、壊して欲しい。  
この凝り固まった最奥の殻を破壊出来るのは厚志だけだ。早く壊して、力を、注いで欲しい。  
新しい私の心、その根幹を創る力は、厚志のものが良い。厚志の強さが欲しい。  
辛い過去を克服したその強さ、少しでいいから私は欲しい。  
厚志と目が合う。その瞳は深く、私の全てを飲み込もうとしている。その濃密な視線は、私に全てを  
与えようとしている。  
周囲の空間を震わせ、厚志の溶岩のような心が、近づいてくる・・・  
 
舞、あれから僕はずっと考えて・・・そして、決めたんだ。  
舞の全てを、僕のものにする。笑った顔怒った顔泣いた顔喜ぶ顔。いいにおいがする黒い髪。  
やわらかくてあたたかくてきれいな体。よく通る声透き通った瞳。  
僕を救ってくれた優しい心。全部だ。  
全て、僕のものだ。誰にも覆せない決定事項なんだよ舞。誰にも芝村にも舞にも、僕でも覆すことが  
出来ない、絶対の決まりだ。  
そして舞が望むことは全て叶える。この戦争の終結も全ての幻獣の抹殺もこの国の全ての人間の忠誠も  
この地球の全ての人間の滅殺も。何でも叶える。  
舞が傍に居てくれるなら、僕はどこまでも強くなれる。何があっても何が襲ってきても、舞を  
必ず守る。守り続ける。  
だから、お願いだから、僕の腕の中にいて欲しい。・・・僕はもう舞なしでは居られない。  
こんな言葉が適切かどうか解らないけど、この言葉でどれだけ僕の気持ちが伝わるか解らないけど、  
言うよ。何度でも何度でも、伝わるまで言うよ。  
「舞、好きだ」  
・・・私は、そんな大層なものはいらない。この腕の中に居られるなら、それで良い。厚志が苦しい  
時は一緒に戦い、辛い時はずっと支えてやるから、私を離さないで欲しい。  
厚志に抱かれている間は、未来に対する不安が一切無くなる。無条件で、明るい将来が訪れることを  
信じられる。それだけで私は十分だ。  
もし、それ以上何かを望むことが許されるなら、・・・この私にとって心安らぐ時が、厚志にとっても  
安息の時間であって欲しいということだけだ。それだけだ。  
昨日は聞こえていないかもしれないから、今こそはしっかりと聞いて欲しいから、  
言うぞ。何度でも何度でも、伝わるまで言うぞ。  
「私も好きだ、厚志」  
 
私の手は絶えず厚志のどこかに触れていた。私より太い腕、私より広い胸、大きい手。時折厚志と  
唇を重ねるときは、湿った髪をくまなくかき混ぜた。全てが熱かった。  
私の内側の、繋がり続けるその部分が最も熱い。  
ふと厚志は律動を止め、私の背に腕を回し抱きついてきた。そのまま肩に顔を乗せ、動きを再開させる。  
「舞、舞・・・舞」  
私だけに向けられ、私だけに聞こえ、私だけの為に存在する言葉。  
荒い息と共に、あらゆる意味を込めた響きを私の耳に浴びせる。  
厚志の槌はこれまでの愚直なまでの真っ直ぐな動きから変化し、内壁を強く擦りあげ、抉るような  
ものになっていた。  
導き出される新しい快感。私を呼ぶ声をもっと聞きたくて、厚志を呼ぼうにもその快感がそれを許して  
くれない。  
「あ!は、・・・ああん!あつ、はああぁ・・・」  
声で答えたいけれど、答えられない。何とか伝えたくて、両手で逞しい背中を撫でる。  
私の中に沈もうとする、或いは私を自分の中に沈ませようとする厚志の動きがより大きく、深くなって  
いく。私の要求に答えてくれている。もっと、して欲しい。もっと、一つになりたい。  
その想いは急速に膨らみ、止まることを知らない。いつの間にか厚志のリズムに合わせて私も体を  
動かしていた。より深く、より強く結合するように。  
またしても厚志は突然に止まる。私の頬を優しく撫で、首筋に舌を這わせる。  
普段なら心地よいはずの感触も、くすぐったいだけの感触も、性的な刺激として私を攻める。  
「ん、・・・は、あああ、ぁぁ・・・」  
私の体はどうなってしまったのだろうか。こんな事に快感を覚えるなんて、とても信じられない。  
・・・いや、これが正常なのかもしれない。好きな人に全てを曝け出し、好いてくれる人に  
全てを触れて貰える行為が嬉しくないはずがない。気持ち良いのが当たり前ではないか。  
厚志は力が抜けた私の腕から身を起こし、直線的な動きを再開させた。  
先程よりも更に強く激しい。私の腹に汗を降り注ぎながら、凝縮した視線をそのままにその行為に  
没頭している。  
その姿が、私を更に昂ぶらせる。  
 
厚志が与えてくれる熱さと快感が、私の全てだった。  
他にも何か考えていたような気がするけど、よく思い出せない。でも、それでいい。  
体はこんなにも熱いのに、胸の奥だけが何故か温かい。温かい何かが、心に打ち寄せている。  
厚志に伝えたくて、首に腕を回し抱き寄せる。その波がより強くなった。厚志が送っていたのだ。  
形も色もないけれど、確実に私を温めてくれる。その波を受ける度に、気持ち良くてとろけそうに  
なる。心がどこかに飛ばされそうになるけど、もっと浴びたくて、必死に身を震わせてその場に  
留まる。回数を重ねる程に温かくなって、気持ち良くなって、もっと欲しくなる。  
厚志は何も言わずに答えてくれる。力強い波動を、何度も何度も送ってくれる。  
ずっとこうしていたいけれど、序々になにも考えられなくなっていく。力が入らない。  
もう、保てない。もっとして欲しいのに、もっと感じていたいのに・・・  
心が、弾ける・・・!!  
 
気が付くと私達は抱き合っていて、同じリズムで荒く呼吸をしていた。心臓の鼓動も同一だった。  
厚志がとくとくと熱い力を注いでくれている。心にしっかりとした芯が存在しているのも感じる。  
厚志は私の望みを叶えてくれたのだ。本当にありがとう、厚志。  
胸の奥が温かい。厚志にも、私の波は届いていたのだろうか。  
口内を撫でられる感触。その感触を十分に味わった厚志は体を起こした。  
全てが信頼出来る笑みだった。このひとを好きになって良かった、心からそう思える。  
突然恥ずかしそうに視線を落とし、さらに目を横に逸らす。  
さっきの顔、もっと見たかった・・・何故止めてしまったのだろうか。  
「いや、その、滅茶苦茶、かわいいなって思ってさ・・・」  
「ば、ばかっ・・・」  
こんな時に言うことか、全く・・・。私まで恥ずかしいではないか。  
厚志は私に顔を近づけて、照れながら言った。  
「だから、もっと見たい」  
「・・・ばか・・・」  
何度目か解らないキスで肯定すると、厚志は体を動かし始めた。  
私と厚志の匂いが同じものになるのは、そう遠くはないだろう。  
 
白。  
白い色、白い空間・・・なんだ?  
私は、あれから厚志と何度もして、・・・何処だここは?夢の中、にしては何もなさすぎる。  
体に目を向ける。いつもの制服と靴。影は殆ど無い。空間そのものが光を放っているからだろうか。  
他に何かないかと顔を上げると、少し離れた所に何かが浮いていた。  
確かめるために歩いて近づく。床は固く、足を進めるとこつこつと音がする。  
ドアのノブ、か。誰かが握っている。手首の辺りで空間に溶けるように消えている。  
それを見詰めていると、何かが頭に割り込んでくる感覚があり、序々にそれは強くなる。  
そうか、これは、厚志の記憶だ・・・  
 
冷たいノブを掴みながら僕は思い出し、考える。  
舞が好意を寄せてくれているのは解っていた。その純粋さに僕も惹かれている。  
だから、突き放そうと本当の事を話した。・・・危ない所だった。そして、あのまま最後までしていたら、  
距離を取ることが出来ない関係になっただろう。それだけは、避けなければならない。  
近づいてはならない。諦めなければ、ならない。・・・でも。  
空いている右手を誰かに握られる。・・・やっぱり君か。  
爽やかな笑みを浮かべる少女が僕の手を握っている。あの日から姿を全く変えないポニーテールの  
少女。僕が創り上げた、ここだけに存在する少女。  
実体のない虚像だ。間違いなく偽物だ。それでも僕は決着をつけなければならない。  
過去と現在を混在させるのを、終わらせなければならない。  
いつものように微笑み返すことは出来ない。目を逸らすのを堪え、膝を折りその小さい手を両手で包む。  
君の事は大事だ。君と過ごした記憶も、大事だ。それは変わっていない。これからも変わらない。  
でも、舞のことも同じくらい大事になったんだ。  
ここに居る限り、舞と一緒に居られない。守れない。  
・・・この場所を作って、閉じこもって、君の笑顔だけが全ての速水厚志は、もう居ないんだよ。  
僕は、変わってしまった。もう戻れない。  
だから、・・・ここには居られないんだ。今の僕には、合わない所なんだ。  
舞は君の替わりなんかじゃない。・・・君のことは忘れない。約束だ。  
許してくれないだろうけど、許してくれなんて言わないけど、行くよ。  
 
立ち上がろうとするが、  
「厚志くん」  
・・・まさか!ありえない!・・・これは、幻覚だ。喋るなんて出来ないはずだ。  
その少女は、確かに口を動かしている。  
しかし、微笑みは消えていた。  
「許されるなんて、本気で思ってるの?」  
本物、だったのか?何故、そんな怖い声を出してるの?  
「そんな、虫の良い話が、あると思ってるの・・・!?」  
何でそんなに恐ろしい目を、僕に向けるの?  
その少女は手を乱暴に振り解き、両手で僕の顔を掴んだ。・・・冷たい手だった。  
体が動かない。どんなに力を入れても、びくともしない。  
そんな僕を睨みながら、少女は言う。  
「他の女に、取られるくらいなら・・・っ!」  
止めてくれ、もう、止めてくれよ、お願いだから。そんな君を見たくないんだ。  
「まずは、全てを思い出させてあげるね」  
嫌だ。あの日の事を掘り返すのは、止めてよ。  
あの日の記憶が甦っていく。止められない。やっと封じ込めたのに、どんどん湧き出してくる。  
あの痛みは忘れていないから、そんな事はしないでくれ!嫌だよ!  
「駄目。・・・見なさい!」  
嫌だ・・・嫌だ!  
 
やっぱり綺麗だな、うん。  
夕日が放つ橙色じゃなくて、その少し前の黄色い光が一番好きだ。  
そんな事を考え、母さんにお使いを頼まれて近所のスーパーに行く。  
T字路を折れて、後は真っ直ぐ進めば目的地だ。滑るように飛ぶ赤トンボと一緒に歩く。  
トンボは少しずつ高度を上げて、左側の鳥居に止まった。  
ちょっと惜しいけど、仕方ないか。バイバイと手を振り別れを告げる。  
意味ありげにくりくりと頭を動かしていたのが可笑しかった。  
スーパーの中では迷うことなく頼まれた品をカゴに入れ、レジへ持っていく。  
レジのおばさんも知ってる人だ。少し微笑みながら、何か言いたそうな顔でテキパキと清算する。  
仕事中じゃなかったらあれこれと15分は話し掛けられていただろうな。  
外に出ると肌寒い風が吹いていた。半袖の出番はそろそろ終わりだな。真っ直ぐ帰ろう。  
途中の鳥居にさっきのトンボがまだ止まっていた。何かを訴えるように僕に沢山の目を向け、奥の  
境内に飛んで行った。  
・・・何だか、気になる。それにブランコの音が聞こえる。こんな時間に?  
少し迷って、境内に行ってみる事にした。  
10メートル程太い杉が並び、影を落としている。  
もう一つの鳥居を通ると左に社があり、右に何故かブランコがある。社の隣にある保育園と関係が  
あるんだろうけど、詳しくは知らない。その黄色い支柱のブランコをひとりの女の子が揺らしていた。  
生まれてからこの町に居るけど、初めて見る子だ。  
ポニーテールも初めて見た。黒い長袖とズボンで、女の子って感じがあまりしない。  
・・・引っ越してきたばかり、なんだろうか。でも、そんな話は聞いてないし・・・訊けば解るか。  
社に目を向け続けてブランコを揺らすその子に近付き、僕は言った。  
「ねぇ、ひとつ、訊いていいかな?」  
やや警戒した顔を僕に見せ、言った。  
「・・・何?」  
「えっと、最近引っ越してきたの?」  
「ずっとこの町にいるよ。生まれてから、ずっと」  
「君と会うのは初めてだよね?学校でも見たことないけど・・・」  
「わたし、隣町の私立の学校行ってるから、・・・保育園も、そこのじゃないし」  
「ああ、なるほどね」  
「わたしのお母さんって、いわゆる教育ママってヤツに近いの」  
なるほどね。  
 
その子が揺らすブランコの音が、何だか凄く寂しそうに聞こえる。  
って、この近所に友達がいないんだよな。・・・・・・。ま、いいか。  
「あの、さ・・・僕で良かったら、友達になろうか?」  
「遊ぶ時間なんて、そんなにないよ」  
「今日は、日曜なら空いてるんだろ?十分だよ」  
「・・・日曜だけ、ね。それってさ、友達って言える?」  
「言えるよ。言っちゃいけない理由なんて無いよ」  
「他の友達がいるんでしょ?折角の日曜日を潰しちゃうよ?」  
「まぁ、あいつらとは学校でいつも会ってるし、・・・それに、親友って呼べる人は、いない」  
「何でいないの?・・・言いたくないなら、いいんだけど・・・」  
「隠す事じゃないけど・・・僕、小さい頃は体が弱くてね。誰かと走り回って遊ぶのは殆んどなかったんだ。  
 今は何ともないんだけど、お医者さんも大丈夫って言うけど、・・・やっぱり気にしてしまうし、  
 あいつらも、気にしてる。・・・それで、少し・・・かな、離れた付き合いになった。  
 で、あいつらは完全に体育会系になって、僕はその逆って感じだよ。  
 何とか近付こうとして色々やってた時期もあったけど、・・・それが、消えない壁になっちゃった。  
 ・・・あいつらと僕は上っ面だけの友達、それが一番良いみたいだ。・・・そして現在に至るってね」  
「・・・ふぅん・・・大変、だったんだね」  
「もっと大変な事なんて、これからもあるさ。もっともっと良い事も、きっとある」  
「・・・体、本当に平気?」  
「大丈夫。僕が保障する」  
「何それ?当てになんないじゃない・・・わたしが、テストしてあげる。それなら安心でしょ」  
「はは、・・・そういう事で、宜しく。親友第一号」  
「こちらこそ宜しく。親友第一号」  
「って、自己紹介してないね。僕は速水厚志」  
「わたし、角倉美里」  
「じゃ、握手から」  
右手を差し出すと、その子はブランコから降りて両手で握ってくれた。背丈は僕よりやや低い。  
それまでの硬い表情が一変して、いい笑顔だ。  
トンボさん、ありがとう。  
 
美里ちゃんとの遊びは体を動かすものばかりだった。キャッチボール、バトミントン、バレー・・・  
「活発」がぴたりと当てはまる子で、毎回汗だくになって遊んだ。  
今までの分を取り返そうと、ただひたすらに遊んだ。  
その合間の小休止に色々な事を話した。  
「私立って、どんなの?」  
「まぁ、わたしが行ってる所はね、バリバリの進学校なのよ。良い大学に入りたい、って言うか  
 入らせたいって親が行かせる学校だよ。宿題が毎日山作ってるし、テストなんて日常茶飯事。  
 明るい子が少ないんだよね・・・わたしみたいに遠い所から来てる人も多いから、一緒に遊ぶなんて  
 まず不可能だし」  
「きついね、それって」  
「お母さんは本当にわたしの将来の為にその学校を選らんだみたいだし、わたしも勉強は嫌いじゃない  
 し。だから、それほど嫌だって感じはないけど」  
「で、僕を相手にして憂さ晴らしするって?」  
「あはは。覚悟しなさいよ」  
「ま、その辺は僕も似たようなもんだけど」  
「えっと、他の友達はここで遊ばないの?」  
「あいつらは橋の傍の広場で遊ぶよ。あっちの方が広いからね」  
「ひひひ。貸切、占領、独占、独壇場、・・・いい響きだねぇ」  
「そう?」  
「何よ、ひょっとして冷たい人?」  
「君が熱いんだよ。二人合わせてちょうど良い、くらいかもね」  
「へへ。名コンビ確定って事で、もう一回やろうよ」  
「はいはいっと。今日はこれで終わりだね」  
「ほら、いくよー」  
こんな感じで遊んで話してを毎週繰り返した。  
雪が降る頃にはすっかり仲良くなって、美里ちゃんの家に行ったり逆に呼んだりするようになった。  
意外にそんなに遠くなかった。なんで今まで会えなかったのか、ちょっと不思議だ。  
彼女のお母さんは、上手く例えが出来ないけど柔らかいって感じを受けた。  
パソコンを使って家に居ながら仕事が出来るそうだ。雑誌の編集でそういうのがあるらしいけど、  
・・・そんな風には見えないよなぁ。  
美里ちゃんは僕と同じくお母さんとの二人暮しで、何だか家族が増えたような気がする。  
 
気が付けばクリスマスが過ぎ大晦日、そして元旦。  
初詣は一緒に行こうと約束してたけど、・・・振袖。うわ、本物だよ。  
「・・・ねぇ、似合わない?」  
いやいや、そんな事はないけど。滅茶苦茶女の子してる。目から鱗が落ちまくり。  
・・・本当に大事にされてるんだな。  
「うん、似合う。吃驚だよ」  
「・・・えへへ、良かった」  
髪型はいつもと同じだったけど、別人のような雰囲気だ。  
「ねえ、毎年その格好してるの?」  
「うん。年に一回の晴れ姿ってやつだよ」  
「レアな体験ありがとう」  
「同い年の男の子と初詣は初体験なのですよ。来年も、こうしたいよ」  
「もう来年の約束するの?・・・まぁ、良いけど」  
「ありがとう、厚志くん」  
「・・・本当に別人みたいだね」  
「年一回なら悪くないでしょ」  
あれこれと話ながら願掛けを済ませる。美里ちゃんが僕の手を握りながら言った。  
「何か買ってよぉ」  
僕を上目使いで見詰め、手に込める力を少し強める。同い年の子ではなく、完全に年下の妹に見える。  
本気のお願いのポーズだ。この仕草に僕は弱い。いくら抵抗しても結局そのお願いを聞いてしまう。  
って言うかこれで断れるヤツっているのか?  
「・・・いいけどさ、高いのは無理だよ」  
僕はその小さい手を引きお守り売り場に向かう。見た目で男向けらしいのと女向けらしいのを選び、  
勘定を済ませる。  
「これで良い?」  
僕が女向けのお守りを差し出すと、美里ちゃんに男向けのお守りをひったくられた。  
「えへへー!さんきゅう!」  
・・・。やっぱり、ね。  
「要らなくなったら、返してあげるからねー」  
年上の姉の様に偉そうに言いながら、ぶんぶんとお守りを振り回す。  
その笑顔は間違いなく同年代の女の子だった。ころころとよく変わる表情。  
本当に、見てて飽きない子だ。美里ちゃんは僕をどんなふうに見ているんだろうか。  
 
春。  
美里ちゃんとの付き合いは何の変化もなく続いていた。  
そんなある日。  
「ねぇ、厚志くん」  
「何?」  
「二人だけの場所、欲しいなー」  
「・・・えっと、いわゆる秘密基地ってやつの事?」  
「うん。この歳で持ってないなんてどうかしてるよ」  
「・・・お嬢さん、どこからそんな知識を仕入れたのかな?」  
「ね、いい所、知らない?」  
僕の言ってることなんて聞いてない。しかも久しぶりの本気のお願いだよ。困ったな、どうしよう。  
そういえば、東の、町のはずれの山に、なにかあったような・・・  
「どこなのそれ?ねえってば!言いなさいよ!」  
何も言ってないだろ。何で解るんだよ。・・・はぁ、仕方ないか。  
「解ったよ。来週案内するけど、遠いよ?」  
「うん、約束だよ。流石厚志くん、頼りになるねー!」  
行ってみたけど使えないって展開になって欲しいよ。あんな所まで毎週行くなんて、考えるだけで  
気が滅入る。それに、出来ることなら危ない目には遭わせたくないし。  
「んじゃ、今週のお題はこちら」  
美里ちゃんは持ってきたナップサックから羽子板を取り出した。  
・・・羽子板?  
「はいはい、さっさと始めるよー」  
やたらと豪華な羽子板を僕に押し付ける。春に、羽根突き。  
やるね、美里ちゃん。  
「そー、れっ!」  
かんかんと羽根を打つ音が境内に響く。  
ちょっと恥ずかしいけど、ま、いいか。  
 
僕たちはがしゃがしゃと自転車を漕ぎ、目的地に向かっている。  
美里ちゃんの自転車はその服装と同じく完全に男の子仕様だった。  
何故か正月の振袖姿を思い出してしまう。・・・極端だよな、どういう教育方針なんだろう?  
水入りのペットボトルを用意していた。どんなに遠くても絶対に行ってやる、という意思表示だな。  
「まだ見えないの?」  
「そこを曲がれば、見えるよ」  
信号のない交差点を右に曲がる。右に見える山に、赤い屋根が見える。  
う〜ん、思ってたより近い。疲れるからやめよう、という案は却下されましたとさ。  
「ほら、あれだよ」  
「もうすぐじゃない!遠くなんかないよ」  
舗装されていない道路に入り、間もなく林道に変わる。かなりきつい上り坂で、僕たちは自転車から  
降りて歩く。左手の林のにちらちらと目的の建物が見え隠れしている。  
この道は使われなくなって随分経っているのだろう。タイヤの溝が雑草で埋まっている。  
「だれも来ない所なんだね」  
美里ちゃんも同じ考えらしい。そして数分後、ついに到着。赤い屋根の正体は倉庫だった。  
入り口前には広く空いていて、町の神社の境内の倍くらいはありそうだ。  
ま、草が伸び放題なのは当然だよな。  
美里ちゃん大喜び。ぽんぽんと飛び跳ねて言う。  
「うわー、広いよ!」  
倉庫自体はかなり古そうだ。鉄の扉は錆びだらけで、壁のシャッターは動きそうにない。  
「中も広いよー!」  
扉の前のコンクリートの床にノブが転がっている。壊したのか壊れたのか、どちらにしても  
とどめは彼女がやったんだろうな。  
中には何もなくてがらんとしている。蹴散らされた埃が美里ちゃんのはしゃぎっぷりを教えてくれた。  
奥の裏口はもう空いていて、その向こうから大きな声が聞こえた。  
「屋根に上がれるよ!梯子で上がれるよ!」  
至れり尽くせり、だな。僕も美里ちゃんの後を追い、屋根に上る。  
夕暮れ前の太陽の黄色い光が目に入る。もうこんな時間か。  
日が落ちる方向に海が少しだけ見える。しばらく待っていれば、海に沈む夕日が拝めるだろう。  
「絶景、絶景。えへへ、いい物件だね。ありがとう、厚志くん」  
いつになく嬉しそうな笑顔。僕には出来ない笑顔。僕を満たしてくれる、宝物だ。  
ずっと、守っていこう。そうしようと僕は決めた。  
 
この場所での遊びは境内でしていたのと大きく変わりはなかったけれど、美里ちゃんは  
ご満悦のようだった。倉庫の中にはそれぞれが家からもって来た道具が並んで、いかにも秘密基地、だ。  
「夏になったら虫をいっぱい取って、秋はアケビを食い尽くすんだよ。楽しみ楽しみ」  
・・・来年は狩りでもするのかな。やりそうだな、うん。  
「よし、夕日見て帰ろうよ、厚志くん」  
これはいつもの事だ。僕が言い出したんだけど、美里ちゃんも気に入ったらしく、毎週飽きずに  
続いている。っと、忘れるところだった。  
「えっと、これ食べる?」  
僕は言いながら持ってきた袋から手製のクッキーを取り出す。  
美里ちゃんは目を大きくしてクッキーを睨む。まぁ、こんなに見た目が悪いのは滅多にないから  
仕方ないよな。  
「もしかして、厚志くんが作った?」  
「うん。お母さんが時々作ってくれるんだけど、真似して作ってきた」  
「・・・夢はお嫁さんになりたい!ですか?」  
「まさか。何となく、だよ。美里ちゃんも何か作れるようになればいいのに」  
「えー!?何で!?」  
「もうちょっと女の子らしくしなよ。そんなんじゃ、結婚なんて無理だよ」  
「厚志くんこそ、こんな女の子らしいことしてたら無理だよ」  
「忠告してるんだよ。全く、君ってひとは・・・」  
「あはは、売れ残ったら貰ってあげるよ。安心しなさい!」  
「随分な言い草だね・・・ま、その時はよろしく」  
美里ちゃんはクッキーを口に入れてがり、と一つ音を立ててかじるのを止めた。  
「硬い・・・」  
「焼き加減がまだ良くわからないんだよ。味はそこそこだと思うけど・・・」  
美里ちゃんはがりがりと強引に噛み砕き、僕の言葉を肯定してくれた。  
「うん、おやつ程度なら十分だと思うよ」  
「次はもっと上手に焼けるといいんだけど」  
「目指せお菓子職人?」  
「そこまでは考えてないよ」  
「・・・ふぅん・・・ね、余った分は貰っていい?」  
「うん。いいよ」  
それから少しの間、僕達はクッキーを食べながら夕日を眺めた。  
 
夕日を見ていると、不思議な一体感を覚える。木や草、コンクリートの建物さえも夕日に  
顔を向けているような、そんな気がしてならない。こんな事を感じるのは僕だけなのかな。  
美里ちゃんが口を開いた。  
「戦争、いつまで続くんだろうね・・・」  
数日前、隣の県に幻獣が現れ軍と戦いになった。  
日本への本格的な侵攻はまだだけど、そんなふうにゲリラ的な小規模の襲撃が度々ある。  
もう何十年も続いている、幻獣との戦い。こんなに続いている理由は何だろうか。  
・・・何だか、現実じゃないみたいだ。  
「本当だよね。いつまで、続くんだろう・・・」  
「何か、うーん、悪い夢みたいだよね」  
「・・・覚めない夢、ね・・・」  
「こんな、馬鹿みたいな夢に、これ以上付き合ってられないよ」  
僕の手を握って夕日に顔を向けながら、続ける。  
「だから、わたし達で終わらせようよ」  
「そんな、簡単にはいかないよ」  
「やれるってば。わたしはいい学校に入って、一生懸命偉くなる。沢山の人を動かせる権力を、  
 きっと手に入れるから・・・厚志くんも頑張って、沢山の人を動かせる強い人になって欲しい。  
 ずっと先のことだけど、そうなってからわたし達が協力すれば、きっと戦争は終わるんだよ。  
 ・・・終わらせることが、出来るんだよ」  
本気で、言っている。間違いない。  
「・・・うん。そうだね・・・僕も、そうなって欲しい」  
「約束、だよ」  
「わかった。約束だ」  
僕たちは夕焼けの中で約束した。  
 
翌週。  
昼ご飯を食べ、さて行こうかと自転車に乗ると警報が鳴り響いた。幻獣の襲撃だ。  
「なんだよ」  
ついてないな、仕方ないか。  
家に戻り、最低限の荷物を持ってお母さんと一緒に非難所へ向かう。  
既にたくさんの人が集まっていた。初めてではないから、皆慣れていて混乱は殆どない。  
美里ちゃんのお母さんがいた。けれど、美里ちゃんは一緒にいない。  
話しを聞くと、昼ご飯を食べてすぐ出掛けて戻らないそうだ。  
他にも非難所はあるからきっと無事よって言ってるけど、不安そうな顔だった。  
僕も少しだけ心配だ。早く幻獣が倒されて、会えるといいな。  
近くにいた大人達の声が耳に入った。  
「東の山から下りてきた所を、偶然通り掛かった軍が発見して、即戦闘だとよ」  
「へええ、運がよかったな」  
「今は北の平野に誘き出して戦ってるそうだ。もうすぐ終わるらしいぞ」  
東、いない美里ちゃん、幻獣の襲撃・・・  
いやまさかありえないだがしかしもしかしたらひょっとしたら。  
美里ちゃん・・・  
嫌な、感じだ。どんどん大きくなって、僕を追い詰める。僕に、命令する。  
確かめに行こう。今すぐだ。  
お母さんにトイレに行ってくると言い、その場を離れる。トイレの窓は小さいけど、僕は何とか通った。  
家に寄って自転車に乗りあの倉庫に急ぐ。  
大丈夫だ心配ない大丈夫だ心配ない大丈夫だ心配ない。  
こんなに言い聞かせてるのに、ちっとも不安は無くならない。くそ、何でだ。  
いつもの交差点を曲がり、さらに急ぐ。  
舗装してない道路を過ぎ、林道に入る頃には息が上がってしまって、足が動かない。  
・・・何だよ、これ・・・木が不自然に倒れている。奇妙な、大きなへこみが道にいくつもある。  
自転車を投げ捨て、足を無理やり動かす。  
僕が向かう方向にはいつもそのへこみがある。木は相変わらず倒れまくっている。何だろうなこれは。  
いそげいそげ急げ!早くしろ!  
心臓が、爆発しそうだ。でも、それどころじゃない。  
美里ちゃんがいないことを早く確認して、帰ろう。  
 
何だ、やっぱりここにいたんだ。はぁ・・・心配したよ。  
急げ。  
あんなの持ってきてるし。本当に許可をもらったんだろうか。  
早くしろいそぐんだ。  
ん、珍しく女の子っぽい服だ。何かあったのかな。  
どうでもいいだろそんな事は急ぐんだ。  
しかも呑気に寝てる。いや、寝たふりかもしれないな。近付いたら大声で「ばぁ!」か?  
そうだわかってるなら迷わず傍に。  
本当に寝てるのかも・・・それなら起こさないと。風邪をひいてしまう。  
だから、急げ!  
・・・何で、そうなってくれないんだ。  
赤い絨毯だと思いたかったのは、コンクリートの床に広がった美里ちゃんの血。  
女の子っぽい赤い服ならよかった。でもそれは白い服が血で染まってただけだった。  
寝てなんていなくて、薄く目を開けていて、僕を見詰めている。  
大声なんて出せるはずがない。脇腹が裂けていて、すごく痛そうだ。  
傍まで行って、血に座る。手を、血だらけの小さい手を握る。  
「さすが、親友第一号。一番、会いたい時に、来てくれた」  
小さいかすれた声で、美里ちゃんは言った。  
ああ、大変だ、すぐ誰かを呼びに行かなくちゃ。僕じゃ、治せない。  
「待、て。行かないでよ」  
美里ちゃんは僕の手を精一杯握る。ふるふると震えている。  
いつもみたいに、強く握ってくれない。お願いだ、放してくれよ。助けを呼びに行かせてよ。  
「あはは、・・・れちゃった。まさか、目の前に、・・・るなんて、吃驚・・・」  
美里ちゃんの目に、涙が溢れてくる。何か言う度にその量は増えていく。  
「厚志、んのクッキー、も、っと食べた、たよ。もっと、遊びたかった・・・にもしたいことあったんだよ」  
日の光が、涙を輝かせる。命の輝きが今にも零れそうだ。  
「今日、いい夕焼け、・・・そうだよ。わた、の代わり、見て、いてね」  
わかったよ。だから、放してくれないか、美里ちゃん。  
「・・・うだ、忘れてた、ね。よく、聞いてね・・・」  
痛いはずなのに、苦しいはずなのに、美里ちゃんはいつもの笑顔で、普通の声で言った。  
「えー、厚志くんの体に、異常は認められませんでした。正常です。おめでとう!」  
 
涙が一層増えた。辛そうに息を吐いて、震える声で続けた。  
「だから、ね・・・わたしの、分まで・・・」  
・・・なんだよ、お願いなら最後まで言ってくれないと。それに、手も強く握ってくれないと。  
そうじゃなきゃ、聞いてあげないよ?  
涙が輝きながら頬から落ちて、手から力が抜けた。  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
どんなに待っても、言葉は続かない。手も握ってくれない。  
・・・神様、よく見てください。美里ちゃん、こんなに顔色はいいんですよ。  
周りはちょっと汚れてるけど、すぐ元通りになります、してみせます。  
あなたが、その優しい心でその大きな手で美里ちゃんを触れてくれれば、それでいいんです。  
後始末は僕が全部やります。だから、どうか、お願いします。  
・・・・・・・・・・・・・  
わかってる。そんな都合のいい神様なんて、いないんだ。  
太陽が雲に隠れた。その肌の色は土色だった。  
美里ちゃんは死んだ。死んでしまった。  
僕は美里ちゃんの両手を胸の真ん中に重ね、薄く開いたままの目を閉じててあげた。  
・・・ごめんよ、美里ちゃん。こんなところに、連れてきてしまったから、こんな・・・  
痛かったよね、苦しかったよね、辛かったよね・・・ごめん。僕が、悪いんだよね。  
「うう、あ、・・・あああああ!」  
心が、痛い。みしみしと、隅々まで、ひび割れていく。血が、流れ出す。  
「あああああ!・・・・・・っぐ!わ、あああ!」  
真っ二つに割れて、片方が腐りながら、落ちていく。残った方は一層血を吹き出し、がくがくと  
震えている。  
僕は、半身を失ったんだ。  
僕の所為だ。  
美里ちゃんを、かけがいのない本物を、永遠に失ってしまったんだ。  
ずっと傍にいてあげていれば、僕が強かったら、こうはならなかった。  
僕の所為だ。  
僕が悪いんだ。  
 
えっと、それからどうなったかな・・・  
ああ、そうだ、気が付いたら大人がたくさん来ていて、それから・・・お葬式は、もう終わったか。  
今日は、何日だったかな。カレンダーを見て、少しだけ驚いた。もうそんなに経ってたんだな。  
あれ以来、何をしても遠い感じがする。  
見えない壁が僕を囲んでいるような、現実と僕の間にやけに距離があるような、そんな感覚。  
・・・また、涙が流れている。あれからずっとこうだ。気が付けば涙が出ている。  
食事中に、授業中に、買い物中に、流れる。周りの人は皆心配してくれるけど、僕もどうしたら  
止まるのかわからない。  
玄関のチャイムが鳴った。お母さんは買い物に行ってるんだよな。玄関を開けると、美里ちゃんの  
お母さんがいた。これは厚志くんが持ってた方がいいと思って、と言い小さな袋とノートを一冊  
渡された。辛そうに笑って、すぐ帰ってしまった。  
部屋の椅子に座ってノートを開く。題名はなかったけど、日記帳だった。  
日曜だけたくさんの事が書いてある。僕とどんな遊びをしたか、ただひたすら書いてある。  
視界が、歪む。美里ちゃんとの思い出が涙を流させるんだ。割り切ってるつもりなのに・・・  
袋の中身は何だろう。  
僕があげたクッキー、まだ持ってたんだ。何となく口に入れる。・・・僕の味じゃ、ない。  
日記帳の最後のページを開く。  
苦労して作ったことが書いてある。お母さん以外の人に食べさせるのは僕が初めてにしたい、  
将来はお菓子屋さんになりたい、丁寧な絵だ、美里ちゃんの隣には、僕が居て・・・  
この夢が叶っていれば、たくさんの人達が美里ちゃんのお菓子で心を潤しただろう。  
なんて素晴らしいものを葬ってしまったんだろうか。  
なんて膨大なものを壊してしまったんだろうか。  
なんて取り返しがつかないことを、僕はしてしまったんだろうか。  
「・・・っ!・・・ぅ、ぁ・・・!・・・ぁぅ!」  
何でだろう、僕はこの泣き声を誰にも聞かせたくなかった。  
 
机に伏せた姿で目が開いた。泣き疲れて眠っていたんだ。  
もう一度目を閉じると、厚い扉があった。振り返ると、美里ちゃんが笑っていた。  
僕は、こんなものを作ってしまったんだ・・・でも、いいや。  
この部屋とこの笑顔があれば、それでいい。ずっと、ここにいよう。ここにいれば、あんな事は  
二度と起こらない。誰にも起こらない。どこにも行かないからね、美里ちゃん。  
現実に戻り、決意する。このクッキーを作り続けよう。この痛みを忘れないようにしよう。  
 
「はぁ、はぁ、・・・はぁっ」  
引きずり出された美里ちゃんとの記憶に、僕は押し潰されそうになる。  
いくら胸を掻きむしっても、中々消えてくれない。上体に力が入らなくて、黒い床に顔が  
軟着陸した。何で、こんなことをするんだ。あの痛みは忘れていないよ、美里ちゃん。  
からからと何かを引き摺る音がする。顔を何とかあげると、美里ちゃんの両方のつま先と、カトラスの  
先端が目の前に見えた。美里ちゃんは振り返り、向こうに歩いて行く。その先に、舞がいた。  
傷だらけの姿で、僕の方に歩く。片足を引きずり、肩を押さえ、口から血を流している。  
息も絶え絶えに、向かってくる。  
「舞!どうした!?聞こえないのか!?」  
美里ちゃんは真っすぐに舞の前に進み、カトラスを振り上げた。・・・何を、するんだ。  
美里ちゃんは顔を半分だけ僕に見せた。・・・般若の目だ。その目ですることは。  
「止めてくれ美里ちゃん!舞、逃げろ!」  
体が、動かない。僕はなにをしているんだ。早く行って、止めなきゃ。動け、動いてくれよ!  
舞には美里ちゃんが見えていない。ああ、早く気付いてくれ!舞!止めてくれ、お願いだよ!  
美里ちゃんは顔を正面に戻し、対幻獣用に作られたカトラスを、振り降ろした。  
その刃は服を切る皮膚を裂く骨を断つ肺を破る。血を、吹き出させる。舞は、前方に崩れ落ちる。  
今ごろになって僕の体は駆け出していた。美里ちゃんは消えていて、僕はやっと舞を支えた。  
すぐ上を向かせる。手に温かい血がこんなに、ああ、何てことだ。  
「舞、しっかり!舞!舞!」  
舞の目はふるふると震えていて、僕に焦点を合わせると、止った・・・もう、動かない。  
「・・・ま、い・・・」  
僕は、またやってしまったのか。また失ってしまったのか。  
「あ、・・・あああ。・・・ぁぁ」  
心のひびが、深くなる。なにも、出ない。なにも感じない。もう、どうでもいい。  
僕は、僕なんか、消えてしまえばいい。もうこんなのは嫌だ。・・・終わろう。  
深くなる傷。繋がろうとする裂け目。割れようとする心。あと少しだ。僕は、終わるんだな。  
・・・さようなら、僕。  
 
舞が、消えた。・・・幻、だったのか?途端に痛みが蘇る。  
「う、ぐうううう、あ、は、あああ・・・」  
思考が、定まらない。痛い。いたいいたいいたい。  
こんなのは嫌だ。何で僕は消えなかったんだ。  
 
「厚志くんは、何でこの部屋を作ったの?」  
美里ちゃんが、すぐ前で訊いている。  
それは、僕はもうこんな思いをしたくなかったから。誰かにこんな思いをさせたくなかったから。  
「そうだよね。わたし、奥の方にもっと頑丈な部屋を作ってあげたから、そこに行こうよ」  
美里ちゃんが指さす先には、いかにも頑丈そうな扉がある。  
ああ、流石美里ちゃん。あれなら、きっと大丈夫だね。やっぱり、僕が作った部屋じゃ、駄目だよね。  
あの向こうには、きっと揺るぎのない平安があるんだ。・・・そうだな、僕、疲れちゃった。  
「早く行こうよー!」  
美里ちゃんは僕の手を引いてその扉に歩いていく。  
そんなに急ぐ必要はないだろ。せっかちだな。  
一歩毎に、心が固まっていく。体も冷えていく。とても心地よい。  
楽しげに揺れるポニーテール。揺れる。揺れる。揺れる。・・・  
何だろう・・・心の底で、ざわついている何かがある。気分が悪い。何なんだ。  
はっきりさせてから、固めてしまえ。それが一番だ。  
この、ざわめきは、適切な概念は、ええと、何だろうか・・・  
「どうしたの?」  
僕の足は止っていた。ちょっと待ってくれ、今終わるから。  
もう少しで、はっきりする。ああ、そうだ。この揺れの正体は、・・・  
違う、だ。  
そうだ。違う。  
「ねえってば。どうしたの、厚志くん?」  
その言葉を心に浮かべる度に、冷えていた心が溶けだす。体にも温かい血が巡り始める。  
そうだよ。違う。違うんだ。  
「聞いてるの?」  
心と体の熱が結び付いて、大量の力を発生させる。今にも吹き出しそうだ。  
「早く行こうよ、厚志くん。奥に行けば、何があっても大丈夫だよ」  
美里ちゃんは僕の手を握り、上目使いで見詰めている。  
「ごめん、そのお願いは聞けないよ、美里ちゃん」  
もう、抑えられない。静かに話したかったけど、無理だ。  
 
「違うんだよそれは!間違ってるんだ!さっきも今も、僕は壊れかけた。それが答えだったんだ!  
 僕は舞が好きだ!好きなんだよ!もし僕がここから戻らなかったら、舞は一人で頑張って、  
 僕が戻ると信じてずっと一人でいるんだ!戻らない事を知ったら、僕と同じ目に合うんだよ!  
 そうならないとしても、いつかは疲れ果てて倒れてしまう。そうなってしまったら、僕は  
 あの痛みを繰り返してしまう!この先に行けば大丈夫なんて、間違ってるんだよ!  
 ここにいるからこそ、あれは繰り返されるんだよ!   
 僕は行くよ。恨むなら恨んでいいよ。君のことは、ずっと大事だ。それは間違いないからね」  
くそう、外はどうなってるんだ?どのくらい時間が過ぎたんだ?  
早く出ようこんな所から。一分でも一秒でも一瞬でも早く出るんだ。  
美里ちゃんの手を離し、出口に向かう。  
今行くよ舞。待っててくれ。  
外に通じるドア。ノブを握り、回す。ガチャリと音がして、後は押すだけだ。  
「厚志くん」  
とても寂しそうに、僕を呼ぶ声。・・・駄目だよ、僕は、行くんだよ。  
「本当に、大丈夫なんだね・・・安心したよ。じゃ、頑張りなさいよ・・・」  
・・・なんだよ、今までのは、演技だったのか?  
最後に何か言いたくなって、手を離し振り向く。・・・でも、何を言えばいんだろうか・・・  
ノブから手が離れているのに、ゆっくりとドアが開く。橙色の筋が差し込み、太くなっていく。  
美里ちゃんはその光から逃げるように奥に走り去り、闇に消えた。  
何も言えなかった。やっと言いたい言葉が、浮かんだのに・・・言いたかったのに。  
橙色の奔流が僕の背中を暖め、部屋の壁を霧散させていく。  
・・・頑張りなさいよ、か。わかったよ。頑張るから、見ていてくれよ、美里ちゃん。  
もう後ろを向いて立ち尽くすのは終わりだ。前を向いて歩こう。  
橙の世界に伸びる影に背中を向ける。中空の輝きは一層強くなって・・・  
 
そして、目が開いた。夕日が眩しい。  
卓袱台に載っているクッキーに目が移る。・・・ずっと作ってきたけれど、もう止めよう。  
残ったクッキーを噛み砕き、決意する。舞に会いに行こう。この気持ちを伝えよう。  
 
・・・厚志は、こんなに、・・・ああ、よかった。本当に、よかった。  
何度も駄目かと思えたけれど、厚志は見事に克服した。これでよかったのだろう。  
危ういところだったけれど、これしかなかったんだろう。  
膝から力が抜けてしまい、その場に座り込んでしまった。  
辺りの様子はがらりと変わっていた。  
数え切れない人の顔と風景がトンネルを作っていた。静かだ。すぐ右には裸で喘ぐ私の顔、  
すこし左に目を移すと、薄暗い整備員詰め所で抱きついてくる私、昼の教室、一昨日のカレンダー。  
奥に行くほど昔の記憶らしい。その色は薄れ、暗くなっていく。  
その暗闇のずっと向こうに小さな光があった。ここからでも万色の輝きであるのが解る。  
あれが、角倉美里との記憶なのだろう。  
首を巡らせ後ろを見る。  
白い光が溢れ、出口である事を示しているようだ。その光に入れば目が覚めるのだろう。  
ふと気配を感じ、暗がりに目を戻す。  
あらゆる色の小さな明かりの中に誰かが座っている。靴と床が創る硬い音を聞きながら私は近付く。  
ポニーテールの少女。厚志の大事な人。厚志を大事にした人。  
その子は立ち上がり、私を見詰める。私は膝を曲げ、視線を合わせる。  
その行為と合わせるように周りの記憶が消え去り、照らす光は明るくなる。  
自分と同格に扱わなければならない、そう思えた。  
「はじめまして。私は芝村舞だ」  
(はじめまして。角倉美里です)  
声はない。・・・やはり、そうだったのか。  
(伝えたい事があって、待ってました)  
「そうか・・・一つ確認したいのだが、厚志のあの力は、貴方が?」  
(はい。そうです)  
先ほどのあれはまさしく演技だった。口を動かさなくても、意思を伝えることが出来たのだ。  
それでも、演技をした。厚志を立ち直らせるためには、それが最も効果的だったからだ。  
少女は少し苦しそうに、寂しそうに、辛そうに目を伏せて続けた。  
(厚志くんがこの場所にわたしを入れてくれたことは、嬉しかったんです。・・・ずっと、傍にいられる  
 から。わたしだけを見ていてくれるから。厚志くんは時々ここにきて、わたしを見て、そして  
 現実を生きる。・・・笑顔で励まそうって決めました。  
 来なくなるまで、ここにいようって、決めました。そうなって欲しいって思ってました。)  
 
(わたしと会うときは、厚志くんも笑顔でした。・・・だんだん、辛そうに笑うようになっていくんです。  
 わたしが一生懸命笑顔で答えても、その辛さはちっとも変わらなくて、大きくなっていくんです。  
 厚志くんの思ってることが、わたしには判るようになってて・・・厚志くんは、友達を作らないで、  
 ひとりで過ごしていて、寂しいのを我慢して、・・・わたし、辛くて・・・  
 舞さんの隊に入ってから、表面上でもいいから沢山の友達を作ろうって色々始めたんですよ。  
 わたし、厚志くんはひとりじゃないって知って欲しくて、この力を分けてあげたんです。  
 そしたら、その力が勝手に大きくなってしまって、厚志くんを苦しめて・・・何とか、止めようと  
 したんですけど、・・・どうしようもなくて、折角、友達が出来そうだったのに、わたしが邪魔を  
 してしまって、・・・厚志くん、すごく辛そうに、今にも泣きそうに笑うようになってしまいました。  
 ずっとここにいるようになってしまいました・・・現実から、目を背けるようになっていくんです。  
 わたしの所為なのに、言えなくて・・・何とかしたいのに何もしてあげられなくて・・・  
 舞さんは間に合ったんです。ぎりぎりで、届いたんです。  
 わたしは、厚志くんを苦しめただけでした。傷つけただけでした。  
 ・・・何も、してあげられませんでした。  
 厚志くんを助けてくれてありがとう。舞さん)  
角倉美里はぺこりと頭を下げる。今にも泣きそうな、真摯な顔で。  
・・・それは、違う。  
「・・・何もしていないなんて、それこそ間違いだ。貴方がずっと支えていたから、厚志は今まで生きて  
 いたんだ。駄目にならずに済んだのだ。そして・・・その力があったから、私は厚志を理解してやれた。  
 救うことができたのだ。貴方がした事に間違いはひとつもない。全部正しいことだ。  
 厚志はきっと貴方に感謝している。こうして、私が貴方と話しが出来ているのも、  
 その力があるからだ。私も、感謝している。  
 ・・・今まで厚志を支えてくれて、本当にありがとう」   
角倉美里は少しだけ明るい顔を見せた。  
(・・・舞さんと話せて、よかったです。じゃ、わたし、行きます)  
 
晴れない表情で言う。このまま行かせてはいけない。何とかしなければ。  
「厚志なら、あの通り大丈夫だぞ。・・・行かなくても良いのではないか?」  
(厚志くんはやっと前に進むことにしたんです。舞さんと一緒に歩こうって決めたんです。  
 わたしがここにいる限り、後ろを向いて足を止める可能性はあるんです。  
 厚志くんには明るい未来を作って欲しいから、止まって欲しくないから・・・だから、  
 行くんです。・・・もう、戻ってくることもないと思います)  
その陰りは一向に変わらない。私が出来ることは・・・それしかないだろう。  
「そうか、・・・少しだけ、良いか?」  
私は腕を伸ばし角倉美里を抱きしめた。  
(何、を・・・)  
全く予想していなかったのだろう、動揺してしる。  
この時だけは年上の女として接したかった。妹のように扱いたかった。  
「厚志なら良かったんだろうけど、・・・今まで、よく頑張ったな。偉いぞ・・・  
 もう我慢しなくても良いんだよ。本当に強いな、美里は・・・」  
小さい手で私の服を掴み、顎を肩口に乗せた。  
(わたし、・・・わたし・・・!)  
泣いているはずの声は聞こえない。言葉にならない感情は伝わらないのだろう。  
それでも、肩に涙が落ちる感触は確かにある。体もこんなに震えている。  
「うん、そうだよ。溜まったのを全部出して良いんだ。堪えなくていいんだよ。  
 受け止めてあげるから、もっと出していいよ・・・」  
手の力は強くなり、震えも大きくなる。  
ずっとこうしてあげたい。ただの自己満足かもしれないけれど、この子を慰めてあげたい。  
私に出来ることは、このくらいしかないから。  
 
しばらくして、角倉美里は離れた。すっきりとした、爽やかな笑みだった。  
(ありがとう、舞さん)  
その笑顔を見ながら、ふと思いつく。  
「・・・ここに戻らないなら、私の中にならいつでも来てくれ。その時は一緒に遊ぼう。  
 私は、貴方と友達になりたい」  
驚き、そして嬉しそうに角倉美里は言った。  
(そうですね・・・考えておきます)  
僅かに混じった悲しい響きが、真実を語っていた。行ってしまったら絶対に戻って来れない。  
この少女はその事を知っている。  
それでも、いつかは戻ってきて欲しい。心からそう願う。  
私達を照らす光が強くなる。  
(もう、時間ですね・・・あの、最後に手を握ってくれますか?)  
「ああ、いいぞ」  
差し出された両手を私は両手で包む。その手に込められた意思も、しっかりと受け取る。  
(じゃ、またいつか会いましょう)  
「その時を楽しみにしているぞ」  
守られない約束。来る筈がない再会。それは解っているが、辛い別れにしたくなかった。  
笑って手を振れる別れにしたかった。  
手を離す。角倉美里は光に向かって歩き、一度振り向き手を振る。私も同じく手を振り、答える。  
光はますます強くなって、少女の体が見えなくなっていく。目を開けていられない。そして・・・  
 
目が開いた。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。  
私は厚志に抱かれるように眠っていた。私の微かな動きに厚志も目を覚ます。  
「ああ、おはよう舞」  
「・・・おはよう、厚志」  
厚志は体を起こし、背を伸ばす。  
「さて、今日から頑張らないとな」  
言わなくてもいいのかもしれないけれど、私は言った。  
「厚志、力はまだあるか?」  
「・・・ない、な。何でだろう」  
「寝ている間、美里と沢山話しをした。・・・美里は、行ってしまった。  
 これを私に託して行ってしまった」  
手の中にあったそれを、男物のお守りを見せる。  
「・・・まさか、そんな、・・・」  
厚志は手を伸ばしかけ、不意に驚いた顔で私に背を向け、ベッドに腰掛ける姿勢で視線を落とす。  
「何だよ、全く君ってひとは・・・今まで、ありがとう。・・・ああ、うん。  
 そう・・・解った。じゃ、またね・・・」  
その言葉は誰の為のものか、考えるまでもない。この震える背中の向こうで流れている涙も・・・  
私は無造作に置かれている厚志の左手を握った。余計なことだろうけど、そうしたかった。  
「・・・大丈夫だよ、舞」  
厚志は涙を拭うと、私に体を向けなおし手を握り返す。  
感情があるのかないのか、よく解らない声で厚志は言った。  
「舞は、これからどうしたい?」  
呆気なく訪れた、これからの世界が決まる時。・・・迷う必要はない。  
私の心は決まっている。  
「そうだな・・・まずはこの戦争を、私達の勝利で終わらせよう。その後の事は、そうだな・・・  
 ゆっくり旅行でもしながら一緒に考えよう」  
「・・・うん、わかったよ、舞」  
厚志と一緒なら、私は何処までも歩いていける。どんな困難にも立ち向かえる。  
そして私達を常に励ましてくれる存在も出来た。戦争の終結くらいなら、簡単だろう。  
私と厚志はこれから始まるのだ。もう止まることはない。  
 
 
「良い祭りではないか」  
「そうかな・・・小さい頃散々見てるからそんな気がしないよ。北に、もっと凄いのがあるし」  
「いや、大したものだ。私は好きになれそうだ。・・・この山車が減ることはもうないのだ。  
 参加する人も、それを支える人も・・・それが何よりではないか」  
「・・・そうだね。その通りだ」  
 
終  

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