―――今、分かったんだ。僕は貴女のように強くなりたかったんだ、と。  
 
 
 
「情けないッ! それでも男ですか!! ぶっ飛ばしますよっ!?」  
「え、あ……ご、ごめん……なさい」  
 ある日の放課後、校舎裏で怒鳴られている上田虎雄の姿があった。どっちが男でどっちが女か分からないぐらいに、  
 彼の表情は弱々しく、怒鳴っている女性―――横山亜美の言葉の勢いに吹き飛ばされそうでもあった。  
 
 ことの始まりは何の訓練もせずに帰宅しようとする上田を横山が呼び止めたことにあった。  
 この戦時下、誰もが訓練または仕事に励み、己がまた明日生き延びられるようにその可能性を高めている。  
 上田もまた偵察兵として、横山は突撃兵として前線で戦う学兵であり、戦場で生き延びるためには己を鍛えなければいけないはず。  
 そのことを横山は指摘したのだが、上田は「うん、ごめん…」と謝ってばかりいるだけでその態度には卑屈さを感じ、  
 もともと上田を毛嫌いしていた横山はついにぶち切れて、今のように怒声をあげてしまったというわけだ。  
 
「全く……。もう少ししっかりしてください。  
 貴方も前線で戦う身なんですから、他の仲間に迷惑をかけるような真似をしないで……?  
 ――――ちょっと待ってください、その痣……」  
 嘆息して説教を続けていた横山だったが、ふと上田の目元にある痣に気付きそっと触れる。  
 気がつけばあちこちにも擦り傷や打撲のあとが残っている。  
 上田はというと、こうして怒鳴られて怖くも思えるとはいえ、異性に触れられてどぎまぎと身体を硬直させるだけだった。  
 だが、そんな上田の様子には構わず横山は真剣な眼差しでその痣を観察する。  
 その眼差しは徐々に剣呑さを増して、先ほどとは違う殺気にも似た怒気を孕ましていった。  
 
「…この痣、どうしたんですか? 戦闘や訓練で負った怪我ではなさそうですが」  
「……………」  
 あまりの語気の強さに上田は沈黙し、視線をそむける。  
 先ほどまでのどぎまぎはどこかに吹っ飛んでしまい、その瞳は暗く地面に積もる雪を映し出すだけだ。  
「…誰かに殴られましたね?」  
 その言葉にギクッと彼は肩をビクつかせたものの、その言葉に答えることはできなかった。  
 だが、それを隠し通せるほど上田も嘘が得意ではなかったし、横山に関して言えば武人だ。  
 上田の怪我を戦闘で出来たものではないことぐらい見抜けた。それからしばらく沈黙が続いた。  
 
「貴方のことははっきり言って嫌いです。  
 ……しかし、怪我をしている人間を放っておけるほど私も鈍感じゃありません。  
 貴方みたいな人でも、一応この小隊の仲間ですからね」  
 真顔でそう静かに呟くと、突如として上田の腕を取ると強引にひと気のない校舎の中へと引き摺って行く。  
 あれこれ上田に説教していたらすっかり陽も暮れ、既に校舎内をうろついている生徒は少ない。  
 いるとすれば、訓練や技能獲得に精を出している生徒たちのみだ。  
 
 保健室にたどり着くと、蛍光灯の電気を点けて、半ば強引に横山は上田をベッドの上に放り投げた。  
 ベッドは硬く、上田は強かに腰を打った。「ヒドいよ、横山さん…」と小声で抗議するものの、  
 横山には全く聞こえていないのか、ロッカーの中から救急箱を取り出し、ガーゼや消毒液をベッドの上に並べていく。  
「…少し染みますが、我慢してくださいね」  
 ただ淡々とそう呟くと、テキパキと彼女は上田の手当てを施していく。  
 医療技能の持たない彼女は本当に必要最低限の手当てしか出来なかったが、  
 やはり武道を嗜む上で怪我は付き物なのか、慣れた様子でしっかりと消毒しガーゼで傷口を塞いだ。  
 
 上田の手当てが終わると、ふたりはベッドに並んで腰をかけていた。  
 手当てに夢中になっていたが、上田も横山も相手にあまり良い印象を持っていない。  
 手当ても終われば、気まずい沈黙が降りるのも仕方が無かった。  
 
 無言。  
 何か、話さなければ。  
 妙な圧迫感に駆り立てられた横山は、咳払いをしておずおずと話し始めた。  
「……少し付き合ってくれませんか?」  
「へ?」  
 
 
 校舎の屋上。横山は上田を連れ立って、手には二本の竹刀を収めてそこにいた。  
 雪はしんしんと降り積もり、お世辞にも温暖とは言えない。  
 こうして、突っ立っているだけでも寒さが肌にしみて、がちがちと歯すら噛み合わない。  
「よ、横山さん? こ…、こんなところに、どうして?」  
 そんな上田の質問も耳を貸さず、彼女はゆっくりと柵の手すりへと近づいてそこから眼下の景色を見下ろした。  
 いつも見慣れた光景も、ひとつ角度を変えて見ればどこか新鮮なものに見えた。  
 横山はそこで振り返り、鋭い眼差しでしっかりと、上田の目を見つめた。  
「上田君、これを構えて」  
「え?」  
 そう言われて、上田はきょとんとする。いきなり、横山は手にしていた竹刀を投げてきたのだ。  
 慌てて、その竹刀をキャッチする。表情にはどこか納得が出来ていないという曖昧なものが浮かんでいた。  
「でも、僕、剣道なんてしたことが…」  
「つべこべ言わず、構えるッ!」  
 戸惑いを見せる上田だったが、横山の一喝により、その言葉を遮られる。仕方がなく適当に竹刀を構えて見せた。  
 ――――すると。  
「だぁぁあっ!」  
「うっ、うわぁっ! よ、横山さん!? い、いきなり何するんだよっ」  
 唐突にもう一本手にしていた竹刀を握り締め、横山はそれを上田へと振り下ろした。  
 咄嗟に手にしていた竹刀で受け止めたが、もし直撃していたと想像するとぞっとしてしまう。  
 防具すら身につけていないのに、手馴れている横山の一撃を喰らってしまえば痛いの一言では済まされないだろう。  
 
 横山は無表情に上田の顔を覗きこみながら言った。  
「やはり…、反射神経は良いみたいですね」  
「だ、だから! 何の話なんだよっ?」  
 流石にいきなり襲われては、上田も語気が強くなってしまう。  
 殴られることには慣れているが、横山の剣撃はそれに比較ならないことぐらいは戦場でよく身に染みている。  
 実際に、戦場でその剣捌きに何度か助けられてことだってある。  
 
 だが、横山は上田の戸惑いを無視しているのか、やはり納得できない様子で首を傾げる。  
「上田君、どうして貴方は努力しないんですか? この小隊が幻獣に殲滅されてしまってもいいと言うのですか!?」  
「え、あ…別に……そんなことは、ない……けど…」  
 かつての熊本のような激戦区ではなく、この青森はどちらかというとまだ人類側の方が有利だった。  
 出撃頻度もそれほど頻繁でもなければ、出撃したとしても小型幻獣を相手にするぐらいで  
 中型以上の幻獣を相手にすることは殆どなかった。  
 
 しかし、どちらにしろ戦場に出るということは命がけで戦うということだ。  
 気を抜けば、自分の命だけではなく、自分たちの小隊すらも壊滅に導く可能性だってある。  
 横山は元々上田のような性格は嫌悪すら覚えるのに加えて、訓練すら積極的にしようとはしない彼の態度について不満を抱いていた。  
 むろん、彼女も本気で上田がそんなことを思っているなどとは思っていない。  
 ―――だが。  
 
「貴方は一言で言えば、気概がたりない。  
 覚悟も足りない。度胸も。  
 優しさと卑屈さ、強さと暴力を混同しています」  
「…え?」  
「殴られてもやりかえさない。幻獣を倒す気概もない。  
 そして、この小隊を救おうとする覚悟もない」  
 真摯な横山の言葉が、上田の心を貫く。  
 確かにその通りだった。薄々自分でも、今の自分が卑屈で戦場に赴くには覚悟が足りないことに気づいていた。  
 だが、人間というものはそう簡単に割り切れるものでもない。  
「……争うのは嫌いなんだ」  
 打ちのめされたように俯き、ぼそりと呟く。  
 これは本心だった。確かに戦うことで自分が傷ついたりあるいは命を落とすことは怖い。  
 だが、それ以上に何かを傷つけたり、殺すことは怖かった。いや、あるいは嫌悪していたと言っても過言ではなかった。  
 だから、虐められてもやりかえさなかったし、幻獣にしてもトドメを差すことに躊躇いが多々生まれた。  
「そ、それに、この小隊を救うだなんて、僕にはそんな力はないよ」  
 気弱な上田の発言に苛立ちながらも、横山は言葉を返した。  
「…それが卑屈だと言っているんです。  
 谷口さんが言っていました。貴方は才能だけならある、と。  
 半信半疑でしたが、今の一太刀を受け流したことで分かりました。  
 無論、男としての気概もなく鍛えてない分、確かに貴方はこの小隊でも最弱でしょう」  
 
 横山はそこまで言うと、一息をつき、そして顔を上げる。真摯に上田の瞳をみつめて。  
「上田虎雄。貴方も男なら剣を取りなさい。絶望の闇を切り裂く銀の剣を。  
 最弱なら最弱なりに努力しなさい。たとえそれは1億の力に対するたった1の力だとしても、  
 1億対1億の戦いにおいて、たったその1の力でも勝利への鍵になるのです。  
 ……男になりなさい。私は貴方のことが大嫌いですが、それでも仲間として信頼しているのですから」  
 
 ―――言葉が胸に突き刺さった。  
 
 
 
「ねえ、ペンギン。僕、間違っているのかな」  
 翌日の昼休み。上田は校舎の屋上で手すりにつかまりながら、偶然居合わせたペンギンに話しかけていた。  
 昨夜の横山の言葉が強く心に突き刺さっていた。確かに自分は臆病で他人に頼りきりなところもある。  
 だが、自分はみんなとは違う。「戦わないと生き延びることができない」、「どこかの誰かのために」、  
 その戦う目的はそれぞれ違うだろうが、まだ10代の子供なのだ。  
 そこまで自制心が働く方がおかしい、と上田はそう言葉にして思ったわけではないが感じていた。  
 
 もちろん、誰かが傷ついたりあるいは死んだりするのは嫌だ。  
 けれど、戦って戦って、その先に何があるのだろうか。これは周知の事実であるが、学兵は捨て駒のように扱われる。  
 ここ青森では、まだ幻獣の侵攻が緩慢であるためそこまでではないが、  
 かの激戦地熊本では十分な訓練も装備も与えられないままに死んでいった小隊すらあったという。  
 伝説の5121小隊という逸品が出てきた反面、その裏側では数多とも数えられぬ多くの学兵たちが貴重な青春と時間と、  
 そして何よりも唯一無二の命が散らされたのだ。  
   
 なぜ、みんな、疑いもなく戦うことができるのだろうか。それほどまでに何が彼らを突き動かしているのだろうか。  
 そんなの大人に任せればいいじゃないか。僕たちがなぜ戦わないといけないのか。みんな、傷ついたり、死ぬのが怖くないのか。  
 
 上田は悩んでいた。  
 
「間違ってはいない。だが、その考えは今の残酷な世の中には通用しないだろうな」  
「…しゃべった? ペンギンがしゃべった!」  
「返事がないと思って話しかけたのか」  
「え、いや、その……」  
 それは誰だって驚くだろう。だが、冷静に考えてみると別におかしいことではないことに上田は気がついた。  
 動物にだって心はある。絵本や物語には人の言葉を話す動物だってたくさん登場する。  
 それに、年を経た動物は人の言葉を理解し話すこともできると聞いたこともある。  
 もともと夢見がちな上田はこういう常人から見れば『異常』だとも思える現象に対しては人一倍受容的であった。  
 まさか、本当に喋るとは思ってはいなかったが。  
 
 ペンギンは、上田の戸惑いも素知らぬ様子で話を続けた。  
「現実を見ろ、とは言わん。お前のような純真な心を持つ人間がいるからこそ、古代のよき神々たちも未だ消えずに済んでいるからな。  
 だが、理想だけでは悪夢には打ち勝てない。どれだけ大言を吐いたところで、  
 それを叶える手段と道具、そしてそれを扱う者がいなければ、それはただの設計図にしか過ぎん。  
 その逆も然りだ。お前が本当に他の者の命と生活と幸福を守護したいと思うのなら努力をしろ。  
 お前が望む限り、お前はきっと力をつける。人間の体というものはそういう風に出てきている。だが、今は飛ぶことすら知らぬ雛鳥。  
 お前が大空へ羽ばたきたいと思うのなら、その努力をしろ。いいな」  
 
 唖然とする上田を残して、ペンギンはその場を立ち去った。  
 一度に色々と言われたせいか、まだ頭が混乱していた。  
 ペンギンが喋ったというその事実より、ペンギンすら戦いについて考えているというその事実が上田を驚かし、  
 そして彼は彼自身がなんだか情けなく感じた。 ――――やはり、自分は逃げているだけなんだろうか。  
 
「はぁぁ……先日は何てことを」  
 一人、放課後の教室で突っ伏して嘆いているのは横山亜美だった。  
 彼女が気を病んでいるのは先日の上田との会話であった。もともと熱くなりやすい性格である横山であるが、  
 あそこまで遠慮もなしに言いたいことだけを言ってしまったのは初めてだった。  
 感情的過ぎたのではないだろうか。いくら嫌悪している相手だとは言え、同じ小隊の仲間だ。  
 下手をすれば今後の戦闘において支障が出てしまう。  
 
 …それだけでなく、人の欠点を突くというのは何か卑怯な気がしたのだ。  
 横山自身も別に完璧無欠の超人というわけではない。  
 例えば、感情の波に突き動かされやすいし、性格的にも少々キツいところがあるというのも自覚している。  
 あとはみんなには内緒にしているが漫画好きだったり…、何にしろ人に欠点というのは付き物だ。  
 自分のことを棚にあげて、相手の弱みを突く。  
 いくら我慢が出来なかったとはいえ、あんな正面きって言うこともなかったのではないだろうか。  
 そんな悩みがぐるぐると横山の脳裏に延々とループしていた。  
 
 しかし、それにしても先日の上田の頬の痣はなんだったのだろうか。  
 あれが戦闘において作られたものではないことぐらいは横山でも見抜くことができた。  
 だとしたら。横山はある仮定がすぐに思い浮かんだ。上田は誰かにいじめられているのではないだろうか、と。  
 
 確かに上田はいじめられやすそうな性格をしている。  
 おどおどとしていて、いつも誰かの影に隠れようとする。その上、自分の言いたいことはハッキリと言わない軟弱者。  
 横山もそんな上田の悪口を叩いているのを耳にしたことがある。彼女もその大方においては同意する。  
 しかし、誰かをいじめるなどと、真面目な横山はしようと思ったこともないし、許せるものだとも思わなかった。  
 
 とにかく、今のままでは今の上田という存在に対して、横山は不満だらけであった。  
 せめて、あの男が堂々と胸を張れるようになれば、  
 いじめられることもなくなるだろうし、横山も彼に対して不快感を抱くことはないだろう。  
「よし、やろう!」  
 横山はある決意とともに椅子から立ち上がった。  
 
 そんなこんなで、翌日。  
「そういうわけで、今日から私が訓練に付き合ってあげます!  
 ビシバシ行きますので、覚悟しておいてください!」  
「え、ええっ!? そ、そんなこと誰も頼んじゃいな…」  
「男ならつべこべ言わない! 血反吐を吐くまでやりますからっ」  
 放課後。体操着に着替えたふたりはグラウンドにいた。  
 横山は、ふふんとなぜか誇らしげに胸を張り、その顔には爽やか過ぎるほどの笑顔が満ち溢れていた。  
 一方、上田はというと、強引な横山の誘いに「うへぇ」と言わんばかりの苦渋に満ちた顔をしていた。  
 
「で、でも、いきなりどうして…」  
 あまりに唐突な横山の申し出に、上田は疑問を抱いた。  
 なぜあまりいい印象を抱いていない自分に対してこうも積極的に関わってくるのか、ということだ。  
 普通気に入らない人間は距離を取るか、あるいは罵倒し嫌がらせをしてくるか、だ。  
 
 上田は大抵後者のようにいじめに遭ってきた。  
 確かに先日の横山の言葉はトゲがあった。しかし、(あまり認めたくないものではあるが)それは事実に基づいたものである。  
 罵倒には近かったが、そこに悪意は感じられなかった。  
 かといって、自分を無視するようなことはない。今こうして絡まれているのがその証拠である。  
 
 うろたえる上田を無視して、ふん、と横山は息を漏らす。  
「いきなりじゃありません。  
 これをいきなりだと言うのなら、物事のきっかけはいつもいきなりです。  
 今のあなたは背中を任せられるような男ではありませんから。  
 せめて、安心して戦えるぐらいの器量と度量ぐらいはつけてあげます」  
「そ、それって、自分勝手なんjy(ry」  
「何か言いました?」  
「い、いえ…」  
 得意げな満面の笑顔を浮かべながら語る横山に、鋭い目線で気圧され何もいえなくなってしまう上田は、  
 殆ど初めてと言っても良いほど自分の性格を後悔した。  
 だが、何も言えなくなったのは何も気圧されただけではないかもしれない。  
「分かった、分かった…やるよ。君に付き合ってみる」  
「その息です! でも、付き合うのは私の方なんですからね」  
 横山は渋々といった感じの上田の言葉に満足そうな笑みを浮かべる。  
 その上田は何故か彼女の満足そうな笑みを見ると、嫌なことも「まぁ、いいか」とどこか許してしまうのだ。  
 ―――その後、上田は、その考えさえも後悔してしまうことになるのだが。  
 
「ひっ、ひぃぃっ!?」  
「ほらほらっ! あとグラウンド十周です、走って走って!  
そのあとで運動力の訓練が待っていますからね!」  
 ――地獄だった。  
 はじめに上田に課せられた課題は基礎中の基礎、体力と気力の訓練であった。  
 気力の訓練は集中力を使うので、多少の疲れは残ったもののまだ乗り越えることができた。だが、その後が問題だった。  
 日頃の訓練不足がたたってか、グラウンドを一周走っただけでも息切れを起こし、すぐ体力が尽きてしまった。  
 しかし、横山はそれを許さずへとへとながら走る上田の口にやきそばパンを詰め込んでは、  
 背後から竹刀を振り回しながら彼を追い立てていく。  
 上田にとってこの時間の一分一秒はとても長く感じられ、もしやこのまま自分は死んでいくのではないだろうかと思ったぐらいである。  
 走るたびに足は裏の方からじんじんとした痛みが走り、  
 息苦しさは増すばかりでまともに呼吸しようとしても懸命に動いている肺がそれを許さない。  
 
 結局、横山から課せられた課題が終えられたのは、22時を過ぎてからだった。  
 やきそばパンを何度も口にしたとはいえ、まともに食事を取っていない上田はついにへとへとと地面に崩れ落ちた。  
「かふ…、も、もう、ダメ……」  
「何、情けないことを言っているんですか」  
 地面に大の字になって倒れる上田を呆れた様子で横山が見下ろす。  
 彼女も上田に付き合って運動したためか、この寒い中でもかなりの汗を掻いていた。  
 額から流れる汗と彼女の凛々しい表情は健康的な爽やかさが見られた。  
 
 しかし、すぐに横山は真剣な表情になり、じっと上田を見下ろし、言った。  
「立ちなさい。あなたは倒れる事も許されない。  
 生きている限りは戦うべき定めよ。  
 …誰の手も借りずに、自分で立ち上がりなさい。  
 一人で生きて一人で戦うの。自分のために。  
 誰かのために戦うなんて、恥ずかしい事を言わないで。  
 あなたの主人はあなただけ。 あなたが決めたからそうなのよ」  
「え……?」  
 厳しい言葉。普段の上田なら、その言葉を心底嫌っていただろう。  
 だが、何故か今は素直に彼女の言葉を聞くことが出来た。それは……  
「自分のため?」  
「そう。あの時、私は『小隊を救え』と言いました。でも、それ以上に貴方に生き延びて欲しいんです。  
 はっきり言ってしまえば、この小隊でもっとも頼りにならないのは貴方です。  
 きっとこのまま戦い続けていたら、貴方はきっとどこかで命を落としてしまう。  
 ……百戦錬磨のエースですら、いつ、死んでもおかしくない状況なんです。  
 ましてや、貴方のような弱気で力の持たない人間が、この戦争を生き抜くことは非常に難しいと私は思います」  
 
 横山は一息つき、にこりと微笑を浮かべる。  
「だからこそ、一人で戦える力を身につけなければならない。  
 貴方は何も考えなくても良い。  
 貴方が生き延びることだけを考えて、貴方のために戦いなさい。  
 小隊のことはその次でもいいです。だから、立ちなさい。自分の力で」  
 
 身体が軋む。今にも四肢が千切れてしまいそうな痛みが全身に走る。呼吸もまだ整ってはいない。  
 息をするだけで、痛みが倍増するような気すらする。あまりの痛さと苦しさに、目からは涙が自然と零れてしまう。  
 
 だが、それでも上田はゆっくりと上体を起こし、言われるとおりに膝を立て立ち上がる。  
 それは赤ん坊がはじめて立ち上がるよりもふらふらで不安定なバランスだが、それでも上田は立った。  
 体操着は泥だらけだ。肌もあちこち擦り傷が目立つ。心臓なんて今にも破裂してしまいそうだった。  
 
 しかし、横山はそんな上田を見て満足そうに微笑んだ。  
「それでいいんです。覚えておきなさい。  
 男というものは、弱音なんか吐かないものよ。  
 それを言うくらいなら、死んでしまいなさい。  
 …安らぎも癒しも、男には要らないわ。  
 癒されるために、あなたは生きているんじゃない。  
 誇りを貫くために、あなたは生きているのよ」  
 自分の誇りって、何だろう。真っ白になっている頭の中で、そう思った瞬間、上田の視界は急に暗くなり再び地面に倒れた。  
 だが、そう言った彼女の真剣でありながらも、どこか満足げな笑顔を見られただけでも、上田も何故か満足感を得られることが出来た。  
 
 それからと言うものの、彼女からの猛特訓の施しを受ける日々が続いた。  
 幸いというべきか、小康状態にある戦況のためか出撃もなくその間は上田も訓練に集中することが出来た。  
 とはいえ、やはり厳しい訓練のためか泣き言が絶えることはなかったのだが。  
 それでも、自然と上田はその訓練をなんとかこなしていった。急激な訓練に最初は痛みと苦痛しか覚えなかったものだが、  
 その内次第に身体の方がついて来るようになったのか、今では何とか気絶せずに一日を終えることが出来るようになっていた。  
 
 以前の上田なら、逃げ出して放棄していただろう。  
 それは彼自身も不思議に思うことだが、それはいい変化だと思った。今でも訓練に関しては消極的ではあるが。  
 
 そんなある日の昼休み。  
 その日、偶然にも再び屋上でペンギンと出くわした。  
「トラオ、随分と酷くやられているようだな」  
 ペンギンだから、あまり表情の機微は分からないが、上田にはニヒルに笑っているように思えた。  
 苦笑を返しつつも、上田はフェンスの手すりに掴まりながら言葉を返した。  
「横山さん、全く手加減なしなんだもん。よく自分が死ななかったなって思うぐらいだよ」  
「ほう、泣き言を言わなくなったようだな」  
「いいや、横山さんの訓練のときは、いくらでも泣き言が出てくるよ。  
 体中あちこち痛いし、信じられないくらい厳しい言葉を投げつけてくるし。  
 正直、今立っているのも辛い」  
「…ふっ。その割には笑顔だが。しかし、男ならそれくらいの度胸がないといかんな」  
「横山さんにもそう言われたよ」  
 
 そんな他愛も無い会話を交わしながら、ペンギンは上田を眺めあげた。  
 
「強制してまで、お前の身体を鍛えるのは、あの女なりの優しさだ。  
 その優しさは、そこら辺に転がっているものではない。感謝しておけ。  
 そして、その優しさはお前が優しさで返してやらねばならん。…分かるな?」  
「…うん。今の僕に何が出来るかはわからないけど」  
「護ってやれ。あれは、女のなかの女だ。故に男を叱咤する。  
 故に気丈に振舞う。故にその弱さを見せない。故に男に守られることを夢見る。  
 男なら拳一つで守れるぐらいに強くなれ。きっとその気持ちは精霊たちをも惹きつける」  
 
 ペンギンは笑いながら、コートのポケットからライターを取り出し上田に手渡した。  
 
「これは俺からの餞別だ。拳に灯すは、ライター一本分の火で十分だ」  
「…よく、分からないけど、ありがとう。大切にするよ」  
「いつか、青空を呼べる鳥となれ。トラオ」  
 

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