一度は緩めた、それでも離すには至らなかった腕に、我知らず再び力がこもる。
ずっと求めていた安らぎは、君だったんだな。
作り物の俺の外面ではなく、本当の俺を、
歪んでしまった俺を、歪みごと受け入れてくれる人。
「ありがとう」
受け取った彼女の気持ち、今度こそ俺はそれに応えねばならない。
「石田さん…、俺は…、人には隠している顔がある」
今度はさしたる苦労も無く腕を緩めることができた。
「でも、君には見せるよ。全部を知って欲しいから」
見た目以上に華奢な肩に手を置き少しだけ体を離す。
「俺も心を決めるよ。君を信じて、そばにいたいから」
彼女の顔を、眼を、真っ直ぐに見る。
不思議なほど落ち着いているの、今度は錯覚なんかじゃない。
「解りにくいから、ハッキリ言え」
解らないと言いつつ、顔が真っ赤なのはなんでだろうね。
そんな事が考えられる程度には落ち着いていた。
「……。 この先、何があるかはわからないけれど同じ物を分け合おう。
それが甘いか苦いかはわからないけれど。
残念ながら拒否権はナシ、俺にここまで言わせたんだからね。」
石田さんは気付かないかもしれないけど、これは…まるで………
「それは小島にとって私が特別な存在ってこと?」
やはり気付かなかった。
「あ、ああ」
俺は落胆しているのか、それとも安堵しているのか、うなずくのが精一杯だった。
ここで終わると負けてる気がする。
「そうか……特別、なのか……えっ?」
俯き加減に表情を隠し、どこか満足げに呟く彼女。
俺はその頬にそっとに触れこちらに向ける。
「何?」
俺を信じきった表情に、ちくりと痛みにも似たものを感じる。
罪悪感。それでも、俺は止められそうになかった。
彼女の薄桃色の唇からもう眼が離せない。
望めばすぐにでも触れられる距離にそれはあり、そして俺は望んでいる。
ゆっくりと引き寄せる。
俺の意図するところを察したのか、石田さんが考え、迷い、躊躇ったあげくに眼を閉じる。
俺は彼女のその表情があまりにも可愛くて、もっと見ていたくて、礼に反することにした。
ほんの一瞬、それも軽く触れるだけそれは、
しかし、ただそれだけで全身を歓びが駆け巡り、幸福感が脳髄を焼いていく……
「本で読んではいたけど……」
石田さんはどこかぼんやりとした表情で呟く。
「ただ唇を接触させるだけなのに、なんか……すごかった」
「いきなりでゴメン、嫌じゃなかった?」
先に了解をとっておけばこんな間抜けな事を言わなくてすんだのだが、
了解をとってからキスするって言うのもなんだか間抜けだな、そんな事を考えてしまう。
「恥ずかしかったけど、嫌じゃなかった。これも特別なこと、だよね?」
俺に向けてにっこりと笑って見せる。
「うん、特別だよ。」
ここに鏡は無いけれど俺もきっと笑ってる。
幸せな時間。このまま時が止まればいいなんて、ありがち過ぎてお寒いセリフだけど、
俺は今本当に、心からそう思っている。
駄菓子菓子、もとい、だがしかし、そう思ってるときほど波乱というものはやってくる。
「もっと他にもあるよね?特別」
ああ、やっぱり。そろそろ来るだろうとは思っていた。このままの流れだと避けられないだろうとも。
もう覚悟はして、避けるつもりは無かったけど、それでも動揺はしてしまう。
「えー、と……意味、解って言ってる?」
一応、確認。返ってきたのは、
「質問を質問で返すな! 解らないから聞いてるんだ、ちゃんと答えろ」
なんとも隊長らしいお答え。
「困ったら言えって、解らないことは聞けって言ったのはアンタでしょ」
はい、言いました。確かに言いましたけど、流石に返答に困ります。
適切な言葉を探す俺をおいて、彼女は続ける。
「菅原や渡部も、みんな知ってるって。けど昨日、先生に聞いたらまだ早いって言われた」
……菅原さんたちが知ってるっていってもそれはおそらく…………
まあ、菅原さんたちの話はともかく置くとして、放課後の兄さんのあの言葉、その意味は解った。
しかし兄さん、なんで俺に理由があると思ったんだよ? 信用無いなあ。
いや、当然といえば当然か。実際今こういう状況になってるわけだし。
事ここに至っては俺も男だ、覚悟は決めよう。だが、問題が無いわけではない。
「あー、うん。確かに知ってるけど……」
そこまで聞いて跳ね上げられる彼女の視線。
だから、そう期待に満ちた眼を向けられるとちょっと困る。
「あくまで知識として、だよ。その……俺も、経験は無いし……」
……言ってしまってから激しく後悔、自己嫌悪。死にたくなるほど恥ずかしい。
そうだよ、無いさ!無かったさ!!
これまで馬鹿馬鹿しい恋愛ゴッコにつき合わされないようにして生きてきた、これがツケかよ!!
なんでこんな事言ってしまったんだ?
今まで振ってきた、って言うと聞こえが悪いな、交際をお断りしてきた方々の呪いでも受けてるのか、俺?
「なにそれ? 当然でしょ? 特別なコトなんだから」
俺の発言も、内心の葛藤も、彼女はサラリと流してしまう。
なんか…落ち込みそうだ。
「その態度は……なに?」
ガックリと肩を落とす俺を怪訝に思ったか、不安げな声を掛けてくる。
「いや、なんでもないよ」
何を考えるでなく反射的に答え、マズイ返事だったと言ってしまってから気付いた。
一瞬、怒気が膨らむ気配。このパターンには覚えがある。
「そ、それが上官に対する……」
やってしまった。思いつつ、怒声にそなえる。
が、そこから先は以前とは違っていた。
怒気が、萎んでいく。怒ってはいない……のか?
……怒らなったからといって安心するわけにはいかない。
彼女を不安なり不快なりにしてしまったのは想像に難くない。
こんな時何を言っていいのか解らない、顔が上げられない。
俺がもう少し大人だったら、こんなことは無いんだろうか。
「…やっぱり、まだ駄目…なの?」
「駄目じゃない、駄目じゃないけど……」
うつむいたままの俺の顔を覗き込む不安げな表情に、
精神的にはつい今まで凹んでいたくせに肉体的には(一部が)凸ってくる。
それでもそんな様子は出さない、出せない。
最低だ、俺。
「駄目じゃないなら何なの?」
「石田さん、痛いのは平気?」
間髪いれずに返す、また質問に質問を返す形になっているな。
「同じ事を言わせるな!質問に質…………『特別な事』って痛い、の?」
…『特別な事』っていう呼称はどうかと思う。間違っては無いんだけど。
まあ、俺の言わんとしている事は察してくれたようで助かる。
この際だからはっきり言ってしまうことにした。
「ああ、女の子は初めてのとき凄く痛いらしい」
俺はしたいかしたくないかと問われればそりゃ、まあ……したい。
それは男だから仕方がないだろう。
けど彼女はどうか?
激痛(俺には経験した事もする予定も無いから実際はどの程度のものか解らないが)を伴うと知って、
それでも俺を望んでくれるとは限るまい。
だからといって、それを知らせずに事に及ぶなんて卑怯だ。
どんな答えが返ってくるのかと伺うが、石田さんの考える表情を見る事は出来なかった。
「…それでも私は、アンタの特別になりたい、アンタを私の特別にしたい」
ほとんど即答だった。
敵わないな、石田さんには。
何故か可笑しさが込み上げて、けれど笑ってしまうとまた話が拗れそうで、
全力で笑いを噛み殺す。もちろんそんな様子は出さない。
「何? それで変だったの? 躊躇ってたの?」
きっと一生傍にいても俺は彼女に敵わないんだろうな。
「痛かったぐらいでアンタを嫌いになったりしないわよ」
一歩踏み出す事で二人の関係が、俺が、彼女自身が変わることを恐れていない。
強いのだ。純粋なのだ。信じているんだ、自分を、俺を。
その強さ、純粋さが、無知ゆえの物なのか、それ以外からの物なのか、
どちらであってもそれはとても綺麗で、だから俺は彼女に惹かれた。
「むしろその程度でアンタを嫌うと思われてた事の方が腹立つわよ」
俺は覚悟したつもりで、今ここに至ってもまだ怖いのに……ああ、本当に敵わないな。
「で、するの? しないの? それともできないの?」
けど、俺はもう逃げない。さっき自分で言ったばかりじゃないか、
全部見せると、彼女を信じて、傍にいたいと。
「……します、させていただきます」
逃げようにももう逃げ道は無いし。
ここまで言わせた言わせたのは自分のくせに、俺の返事に驚いたのか、力が抜けたようにペタリと座り込む石田さん。
「お、おぅ……で、どうすればいいの?」
座り込んだまま俺を見上げるその眼は素早く驚きから立ち直り、期待に輝いている。
尻尾があったならばブンブン振り回してそうだ。
いや、どちらかと言えば石田さんは犬よりは猫っぽいかな?
あまり期待されても困るんだけど。もしもご期待に副えなかったらどうなってしまうんだろう?
最後の逃げ道を自らの言葉で塞いだ事が今更になって恨めしい。
「じゃ、場所を変えようか……」
全く意気地の無い、逃げられないなら進むだけだろう。
石田さんを横抱きに抱え上げる。
と、一瞬また驚いたような表情を見せたかと思うと、今度は手足をバタバタとさせ始めた。
嫌がっているのかと思ったが、そうではないらしいと表情から見て取れた。
どうやら嬉しくて、同時に照れくさくてはしゃいでいる様に俺には見えた。
一体何が嬉しいんだか、俺の腕の中ではしゃぐ石田さん苦労して運ぶ。
……そうだ、失念していた。この体勢『お姫様ダッコ』とも言うんだった。
コレもまあ特別と言えなくもない。急にこっちまで照れくさくなり、ベッドまでの距離が伸びたようにに感じる。
どこの誰がこんな知識を植えつけたのか知らない(予想は付く)。
が、今この時、彼女を運ぶ際に限ってはいい迷惑だ。
苦労して運んだ大事な荷物を、ゆっくりとベッドに横たえる。
使い慣れた俺のベッドと石田さん。
その組み合わせはあまりにも、卑怯なまでに強烈な衝撃を以って俺の理性をあっさりと絡め取る。
もう……我慢が、できない。
「キス、してもいいかな?」
今度は聞いておきながら、
「キス? さっきしたやつで……っん、んむっ!」
返事を待つことはできなかった。
これはさっきのキスとは違うよ?
もはや拒否されたらなんて考える余裕は無かった。
怖くなったのだろう、奥に逃げようとする彼女の舌を絡め取り、吸い上げる。
歯列を舐り、上顎の裏を擦り上げる。
「んっ、ぅん……んふっ……」
時折こぼれる彼女の声は俺を更に煽る。
もう拒否されても止まれるとは思えない。
彼女の口腔を味わい尽さんがばかりに、俺は……蹂躙する。
ゆっくりと銀糸を引きつつ唇を離す。
1分は経ってない筈。が、長かっただろうか。
彼女にとっては長かったかもしれない、怖い思いをさせてしまっただろうか。
そんな事を考えながらも俺は、混じり合い彼女の唇から零れ落ちる唾液を、
敢えて見せ付ける様に舌を伸ばし、舐め取った。