とっさに逃げてしまった。不自然なほど、すばやく逃げてしまった。
だけど、ほっとできたのはたった一瞬で。
気がついたら缶ビールを二本持ったまま、彼のひょろりとした腕に囚われてしまっていたのだった。
後ろから抱きしめられて、背中にダイレクトに体温が伝わってくる。
あらら? と他人事のような声が出た。
喉の奥でちいさく笑った青自の暖かい指が、頬を撫でて顎を掴む。
深くうつむいて隠していた顔をあげさせられて、細めた両の瞳に見とれたわずかな隙にくちびるを塞がれてしまった。
「……っ!」
驚きすぎて声も出なかった。たとえ声が出ていたとしても、全部青自が飲み込んでしまっていただろう。
身じろいで僅かばかりの抵抗を示してみるものの、細いと思った腕は案外力強い。普段室内にこもりっぱなしの麻子が適うはずもなく。
そればかりかくるりと簡単に身体の向きを変えられて、彼の大きな手のひらが背中に回りますます逃れられなくなってしまう。
腕ばかりに気をとられていたら、すぐに熱い舌が麻子の口内に入り込んできて、我が物顔で這い回り始めたのだった。
呼吸の方法すら忘れてしまうほど動揺をして、息苦しさのあまり、どん、と青自の胸をビールを握ったまま数度叩く。
だけど青自に抗議が伝わった様子はない。
押してだめなら、とひき下がろうにも逃げ場はどこにもなく、かえってきつく抱きしめられてしまう。
奥に引っ込めた舌を探り当てられて、柔らかくつつかれて身体がびくりと震えた。
背筋を柔らかく撫で上げられ、腰のあたりが甘く痺れる。
きつく閉じたまぶたの裏が、真っ白すぎてくらくらする。
やっとくちびるが開放されたころには、麻子の息はすっかりと上がってしまっていて、青自の腕に支えられて立つのがやっとだった。
「……麻子さん」
低く名を呼ばれて、また胸が熱くなる。
だめ、と呟いた掠れた声は、青自の耳にちゃんと届いたのか。
訳が判らないまま両手の缶を奪い取られる。
ぞんざいな調子でキッチンに置かれる様子を、ぼんやりと見つめていたら、またあっという間に抱きしめられた。
今度は冷蔵庫に身体を押し付けられて、そこから取り出したばかりの缶を握り締めていたために、すっかりとつめたくなってしまった両手に、青自の筋ばった手が絡みついた。
あたたかい。
囚われたのに窮屈な気持ちは微塵もわいてこなくて、今度はごく自然に青自のくちびるを受け入れていた。
胸がどきどきしすぎて苦しい。はやがね、とは、まさにこういうのを言うのだ。
感情の置き所が見つからない麻子は、青自の舌を従順に受け入れることも拒否することもできずに、
とりとめもなく言葉を浮かべて意識をそらし、この場をやり過ごそうとする。
だけど青自はそんな逃避を許容しない。
あつい身体をぐいと密着させて、舌先でくちびるをつついて、洋服の上から身体を撫でて、麻子の意識を確実にとろけさせていく。
二度目に離れたくちびるは、すぐに頬を滑ってくびすじに落ちた。
悪寒にも似た甘い痺れが背中を駆け抜けて、びくびくと身体が震える。
柔らかい肉に軽く歯を立てられて、そういえばグーグーが小さいころちっとも甘噛みを覚えてくれなくて指が傷だらけだった、と取りとめもなく思った。
洋服の裾から進入した手のひらが、臍の周りをぐるりと撫でる。
「あ……だ、だめっ……!」
とっさに叫んでいた。
大きな声を出すと、グーグーがびっくりしてしまう。こんなときも自分は、グーグーのことばかりだ。
今度の静止は、ちゃんと彼の耳に届いていたようだ。
不思議な煌きを見せる両の瞳に、まっすぐと見据えられて身動きが取れなくなる。
「…………だめ?」
「だめ、です」
きっぱりと言い切った麻子に、少しだけ困ったように眉根を寄せて苦笑いをこぼす。
「どうして?」
「ここ、キッチンですし」
「ここじゃなかったらいいの?」
「いえ……そういう、問題ではなくて」
「じゃあなに?」
「…………………えぇと……………」
言葉が見つからずに言いよどんでうつむいていると、ちゅ、と軽く湿った音を立てて、青自のくちびるが頬に落ちた。
麻子の鼻の頭をぺろりと、まるで猫のように舐めた青自が、額をこつんとぶつけてくる。
顔が近い。
息がかかる。
身体があつい。浅ましく、期待をしている。
穏やかで優しげなのに、意思の強そうな彼の眼差しに、心まで捉えられてしまう。
「麻子さん……いや?」
もう認めてしまいたい。
彼が、すきだ。
あなたがほしいって、きっとこういうときに使うんだ。
「……………………いや、じゃ…ない……です……」
額同士を重ねたまま、長らくぼんやりと見詰め合っていたらいつの間にかそう口走っていた。
まるで操られたように自然にくちびるから言葉がこぼれて、言った麻子自身が両目を見開いて驚くほどだった。
青自が、その瞳を人懐っこく細めて笑う。
うれしそうに。
しあわせそうに。
「だめなのにいやじゃないって、難しいこと言うんだな」
その声音も、抑え気味ながらも心なしか弾んでいて、つられて麻子もすっかりと幸福になってしまった。
恥ずかしいからいやだと幾度訴えても場所を変えるどころか明かりを消してももらえず。
電気をつけっぱなしのキッチンで、身体の隅々までを見つめられて撫でられて、子猫みたいにいろんなところを舐められて。
背中が痛いけれど、ぐにゃぐにゃに力の抜けてしまった身体では抵抗なんてまったくできなくて、麻子はただ青自の思うままに翻弄され、小さく甘い声を漏らして細い身体を震わせた。
グーグーに舐められたってこんな風にならないのに。
わたしの身体はどうなっちゃったんだろう。
キッチンのライトを見つめながら頭の片隅でそんなことを考えていた麻子の耳元で、青自が、いれるよ、と囁いた。
なにを、と思った次の瞬間、ずんとした熱い痛みが下肢から全身に這い上がってくる。
いたい。思わずあげそうになった悲鳴をあわてて飲み込んだ。
「大丈夫?」
「……う、ん」
ほんとうはぜんぜん大丈夫じゃなかったけど、何故か年上らしくしなくっちゃなんて場違いな感情が沸いてきて、麻子は途切れ途切れに頷いてみせる。
身体をずりあげて痛みをやり過ごそうとしても、汗ばんだ肌がフローリングの床に張り付いて身動きが取れない。
痛いのは余り得意じゃないのに。
そう思っている間にも、細い身体の中に青自がどんどんと割り込んできて、左右に引き裂かれそうな痛みに襲われる。
「……麻子さん……ちから、抜いて」
掠れた声が色っぽい。じゃなくて。
……力ってどうやって抜くのだったっけ。
はあ、と申し訳程度に息を抜いてみるものの、まったく痛みからは逃れられそうにない。
おそるおそる、ぎゅっと閉じていた瞳を開いてみると、青自が困ったように眉根を寄せていた。
麻子の視線に気がつくと、青自がますます辛そうに表情を歪めた。
「つらい? やめる?」
やめないで、と出したはずの声は言葉にならずに、ただ息だけがひゅうと抜けていった。
あわてて首を左右に振る。
でも、と青自が言った。
やめないで。面倒だと思わないで。すきなの、あなたが欲しいの。
一番、近くにいて欲しいの。
くちびるを動かしかけたその瞬間に、いて、と青自が呻いた。はっとして顔を上げると、端正な顔がすぐ間近にあって、今更ながら心臓が高鳴った。
「…………グーグー、」
恨みがましく呟く青自の背を肩越しに見つめると、ふわふわの身体がその上からこちらを見下ろして、彼は麻子と目があうと一言、にぃと鳴いた。
降りろよと文句をつけながら、背を傾ける。
落ちる、と焦った表情のグーグーが、ぐっと両の前足に力を入れたのが判った。
同時に青自が悲鳴を上げる。
「あたたた……つめ、痛いってば」
ごん、と少々大げさな力を込めて、右のひじを床についた。大きく傾いた、広い背中から逃げるようにしてグーグーが飛び降りる。
みゃあ、と可愛らしく鳴きながら何か言いたげにこちらをちらりと見やって、相手にされないと判るとすぐにお気に入りのソファの上へと舞い戻る。
「…………別に、麻子さん虐めてるわけじゃないんだけどな」
無念そうにつぶやいた青自の言葉に、思わず吹き出してしまう。
「……っ……。力、抜けた」
弾んだ声に、はっと顔を上げる。再び、青自の嬉しそうな顔が間近に迫っていた。
ああ、ほんとうだ。
先ほどまでの、身が焼けてしまいそうな痛みが和らいでいる。
グーグーのおかげだ、と思った。彼はいつでも私を助けてくれる。私を、支えて、穏やかにしてくれる。
にこり、と目いっぱい穏やかに微笑む。微笑を返してくれた青自のくちびるがふわりと降ってくる。
心地よくそれを受け止めて、突然に幸せな気分になった。
「…………あっ!」
前触れもなく肉体を押し進められて、体中が青自でいっぱいになる。
先ほどまでの、拷問にも似た圧迫感が不思議と薄らいでいた。
その代わり、身体の内側があつくてあつくて仕方がない。
「あ、ああっ」
ゆっくりと引き抜かれた青自のそれが、同じスピードで戻ってくる。
最奥まで何度も強く貫かれて、そのたびに目の前が白く濁る。
幾度かそれを繰り返したのち、徐々に抽送の速度が速くなるに従って、麻子のくちびるから、抑えきれない高い声がとめどなく漏れ続けた。
「……あっ、や、や……っ、ふ、あ……ああっ」
くちゃくちゃという隠微な水音と、止められない淫らな声。室内に響くこれらをグーグーが聞いて何を思うのか。
気になったものの目の前の快楽に抗えず、ただ与えられるそれを麻子は貪った。
そして私は呆気てしまふ、バカになってしまふ
青自がその精を吐きだす一瞬前に浮かんだのは、そんな言葉だった。
今この瞬間だけはバカになってしまってもいいと、らしくなく思ったのだった。
後始末もそこそこに、熱の引ききらない青自の腕に再び閉じ込められて、ここがキッチンだというのに天国と錯覚しそうになった麻子は、慌てて理性を引き戻した。
眠ってしまわないように気を入れる。
熱くひょろりとした青自の二の腕を指先でなぞりながら、神様が男女の身体の構造にかくも差をつけた理由をとりとめもなく考えた。
明かりを灯したキッチンに、互いの息遣いだけが響く。先ほどまでの喧騒がまるで嘘のようにひっそりとしている。
時折聞こえる、猫の足音だけがこの場を動く唯一のもののようだ。
「あぁ、しづかだしづかだ」
囁くような声で呟く。学生時代に、暗唱してしまうほど好きだった詩のひとつだ。
それを聞きつけた青自が、同じような小声で、何か云った、と聞き返す。
何でもないの。
そう答えて、そっと目を閉じた。
「ふうん」
訝しげに唸ったものの、すぐにどうでもよくなったように青自が、軽く身を起してくびすじにくちびるを寄せてくる。
「麻子さん、…………好きだよ」
詩の続きは、たしかこうだ。
――めぐり来た。これが今年の私の春だ。
長らく縁遠かった春が、別に待ち望んでもいなかった春がやってきてしまった。
「…………わたしも、です」
消え入りそうな声で呟いて、だけどその言葉の率直さに思わず身を丸めて顔を覆い隠す。
いつの間にか周りをうろついていたグーグーに、ぺろりと頬を舐められる。
あまりの幸せに、涙が出そうになった。
彼と、グーグーがいてくれさえすれば、こんなにも自分は幸せなのだ。
単純な自分が急に愛おしくなってしまって麻子は、気恥かしさを誤魔化すべく身をのばして青自にくちづけをしたのだった。
おわり