*****  
 
 
この屋敷の風呂は広い。  
広い、と言っても温泉程に広くはないが、人が同時に三人ほどで入っても  
まだ余るスペースがあるほどにはゆったりとしている。  
小竜姫の趣味か、もしくは倒錯した時代観の所為か時代劇の銭湯のような装飾と豪華な檜風呂だった。  
それに最初は面食らったものだったが、段々と慣れて今では当たり前のように  
なってきたのだから人間とは不思議なものだと思う。  
それに自分が今置かれている状況も、それが至極当然であるかのように。  
あるがままを、受け止めるばかりだった。  
最初は――否、二日目が一番精神的にも辛く、こんな所でこんな事をしている  
自分に対しても情けなくなった。  
この三日間、した事と言えばセックスと食べる事(実際は食欲も無く、本当に生きる為だけに、だが)  
と寝る事と、風呂に入る事位だろうか。  
本当に、本能のままの生活。  
こんな生活をずっと送っていたら、多分大切な何かが狂ってしまうに違いない。  
つくづく、三日間という限定付に救われたと、そのことだけには感謝した。  
一週間等と言われたら――多分精神が壊れてしまっていたかも知れない。  
暖かい湯に浸かっていると言うのに、背筋に寒いものが走る。  
今抱いている女の身体も――自分と同じだけの体温を共有していると言うのに。  
「…っ…ん……」  
湯船の中で、女の華奢な身体を背後から抱え、柔らかな肌の感触を身体全体で感じ取る。  
お湯の中でも彼女の泥濘からはぬるりとした液体の存在を指先で遊び、  
割れ目をなぞると腕の中で身体が切なく震えた。  
時間の感覚はすっかり麻痺していたが、段々と彼女が自分を求めてくる周期の波が  
ゆるやかになってきたような気がして、そろそろ治まる頃なのかも知れないと、微かに安堵する。  
三日間もこんな事をして何を今更と思われそうだが、やはり自分にはこの役目は相応しく無かったのだとつくづく感じる。  
どうせ彼女とこういう事になるのだったら――こんな形ではなく、出来ればちゃんとした意識がある彼女を抱いてみたかった。  
もっとも、そうなったらそうなったでまた面倒な事になるのだろうが。  
どうせ捨て去らなければならないこの感情を持つのも、自分だけでよかったのだろう。  
 
男と言うのは、つくづく単純だ。  
俺も横島の事言えなくなっちまうな……。  
自分自身に呆れながら、腕の中の小竜姫の白い首筋に口付ける。  
既に彼女の身体の至る所に自分がつけた痕が紅く染まっていて、彼女の白によく映えた。  
「ぁっ……ん…っ…」  
可愛い声を上げて、身体をびくりと竦める彼女に、雪之丞は苦笑う。  
舌で首筋を舐め上げて、耳元に唇を寄せ、低く、囁く。  
「小竜姫……」  
名を呼ぶと、彼女の瞳がまた潤む。  
泣く寸前のこの表情。泣いている女は苦手なはずなのに――なのに、わざとそうさせたくなるのは  
何故なのだろう。  
小竜姫の腰を浮かせ、自身の昂ぶりを彼女のぬるぬるとした泥濘にあてがうと、  
彼女の目に不安の色が浮かぶ。  
それに気付かぬふりをしながら、小竜姫の胎内に押し入ろうとした瞬間。  
「待って……」  
「………………へ?」  
我ながら、間の抜けた声だと雪之丞は思った。  
けれど、まさか止められると思わず、訝しげに小竜姫を覗き込む。  
「……何だよ…」  
いつもなら、彼女の方からでも自分を求めてくる程なのに。  
「ごめんなさい……聞きたい事が…あったんです……」  
言いながら、彼女が向けてくる表情は――まるで『いつも』の彼女の表情。  
理性を失い、本能に支配されたこの三日間の彼女とは、どことなく違って見えて。  
『いつも』の表情なのに、頬は紅く染まり、瞳は情欲に染まり、  
身体は淫らに求めていて。  
おそらく発情期以外の時に彼女を抱いたら、きっとこういった感じになるのだろう、と思った。  
「雪之丞さんは……どうして私を……抱いてくれたんですか…?」  
「はぁ?今更何言って……」  
「教えて下さい…」  
強く言われ、雪之丞は答えに戸惑う。  
本当に今更な事だが、いざ真正面から聞かれるとどうしてだかわからない。  
いつもと様子が全く違う小竜姫に自分自身が欲情してしまったと言うのもあるが、  
それで彼女を抱く気になったのかと言えばそうでも無い。  
どちらかと言うと色事に関する面倒事は苦手な方で、こんな場合は真っ先に逃げる方だ。  
 
彼女が苦しそうだったから――いや。  
強いて言うなれば、きっと。  
「…泣いてただろうが、お前。」  
「…え?」  
涙浮かべて、苦しげに笑って。そんなんじゃ笑っても意味ねぇんだよ、痛々しいだけだっての。  
「女が泣くのが苦手なんだよ……それだけだ。」  
言ってしまった後に、急に気恥ずかしくなって小竜姫から目を逸らす。  
きょとん、とした表情で彼をしばらく眺めて。  
けれど言葉の意味が小竜姫の思考に浸透するや、彼女の表情がにわかに崩れる。  
「ふ…ふふっ……あははっ……」  
「………あのな…」  
突然笑い始めた小竜姫に、雪之丞はやはり言わなければよかったと後悔した。  
わかってるよ、柄じゃ無いって事位。でもそんなに笑うような事か?  
「…なんだよ、俺がそんな事言うのがそんなに意外かよ?」  
「ご、ごめんなさい…で、でも…だって……雪之丞さんが…あははっ」  
「お前が言えって言ったんだろうがっ!」  
涙浮かべておかしそうに笑う小竜姫を見て、雪之丞は苛々が募り大声を上げる。  
半分は照れからくるものであるが。  
小竜姫は口元を押さえて、込み上げる笑いをどうにか堪えようとする。  
それでも堪えきれなかった含み笑いが、くすくすと空気の合間を縫って漏れ出る。  
それが更に雪之丞を煽り、怒りさえもが込み上げてきて。  
「あーーーーー!!うるせぇな!!何なんだよお前はっ!」  
まるで、以前の小竜姫に戻っているようで調子が狂う。  
或いは――狂っていた調子が元に戻り始めているのか。  
「もうさっきのは無しだ!さっさといくぞ!?」  
「きゃっ!」  
ぱしゃん、という水音と共に――小竜姫の身体をぐい、と引き寄せて。  
「っあ…―――っ!!」  
「――……っ…!」  
突然胎内に押し込まれ、圧迫感と快感に小竜姫の息が詰まる。  
塞がれているのは下のはずなのに、上の唇も塞がれているかのようで、呼吸さえもままならない。  
雪之丞も、或いは同等の思いだったのかも知れない。  
押し入った途端にきゅう、と切なく締め付けられて、自分達が  
今浸かっている湯よりも更に熱い彼女の熱に、眩暈がするほどの快感が押し寄せてくる。  
 
「んっ……!」  
しばらくの間、互いに呼吸さえも忘れその快感をやり過ごしていたが、  
そのうちどちらともなく溜め息にも似た吐息を漏らし始める。  
この三日間で馴染んだ身体はお互いにそれだけしかいらないとばかりに、その快楽を共有し合う。  
こんな生活が続くのは真っ平御免こうむるが、それでも――もう今後二度とこの身体を  
 
抱くことも無いのだと思うと、どこか喪失感のようなものが心に宿る。  
何考えてんだよ、俺ァ…。  
自分自身に悪態をつきながら、そんな感情を追い払おうと試みた、その時。  
「――雪之丞…さん……」  
「!」  
名を呼ばれたかと思うと、小竜姫に回していた手の上に、彼女の小さな手が重なる。  
湯舟に浸かっている為に、ゆらゆらとゆらめくようにたよりなく掴まれた手に、  
何故だか不安さえも感じながら。  
「…我侭ついで…に……もう一つだけ……我侭聞いてもらっても…いいですか……?」  
「…………」  
本当に我侭だな、とか、まだ何かあるのかよ、とか。  
色々な悪態が頭を掠めたが、どれも音として紡がれる事は無かった。  
それよりも、彼女が今どんな顔をしているのかを知りたかったが、ここからでは横顔までが  
限界で、俯いているためにその表情までは伺えない。  
けれど口元だけ見れば、薄く微笑んでいるように見える。  
それだけで――彼女の表情が、彼女の目が、わかるような気がする。  
「……早く、言えよ……」  
搾り出すようにそれだけ言うと、小竜姫の自分を掴む手に、ぎゅ、と力が篭る。  
「…ごめんなさい……今、だけでいいんです…、こうしている間だけで、いい…ですから……」  
 
    ――私の事を…好きになって下さい……――  
 
消え入りそうな声で。しかしはっきりと。  
 
なんだよ、それ…。  
頭が呆然として言葉にならない。  
ならない言葉の代わりに、身体の方が先に動いていた。  
「――っあ…!?んぁっ…!」  
ざぱっと湯船に大きく波が立って、その後は小さな波が断続的に揺らめいていた。  
小竜姫の身体を後ろから抱きかかえたまま、彼女に腰を打ち付ける。  
反動で逃げ腰になる小竜姫の身体を引き寄せて、自分にぴったりとくっつける。  
「あっ…あっ…アっ!っう……ん…!」  
小竜姫の嬌声が浴室内の密閉された空間でくぐもった音となって響いていた。  
それはどことなく不安げで頼りなく、泣き声のようにも聞こえて雪之丞を苛立たせた。  
 
――これだから女ってのは…!――  
 
言葉が必要かよ、これだけじゃ足りないってか。  
あー確かに言われた事があるさ、弓にもな。俺は言葉が足りないってな。  
けどよ、感情が混じってなきゃ、誰がこんなしんどい事三日間も続けられるかよ。  
それだけじゃ、不服か?やってるだけじゃ、不安かよ。  
少なくとも愛も情も湧かねぇ女を抱き続けられるほど、俺ァ器用じゃねぇよ。  
……面倒くせぇな、女ってのは…。いや――  
そんな面倒ごとを引き受けた、自分自身の所為か――雪之丞は自嘲気味に薄く笑んで。  
 
「小竜姫……」  
名を呼びながら、彼女の薄桃色の耳朶を甘く噛んでやると、彼女の身体がびくんと跳ねる。  
そのまま彼女の耳元で、小さく囁く。――自分に出し得る限りの、精一杯の甘い声で。  
 
「―――っ…!!」  
 
どうやらその声が――その言葉が無事小竜姫に届いたようで、電流が走ったかのように  
華奢な身体が強張った。  
 
――…満足かよ、これで。  
 
「っう…あ…ああっ……!雪之丞さんっ……やっ…!」  
「…馬鹿…っ…泣くな…っ…!」  
 
何で泣いてんだよ。これは何の涙だ?  
さっき言ったばっかじゃねぇか、女が泣くのは苦手だって。  
俺か?俺の言葉が原因か?ならこれは嬉し涙か?  
……とてもそうは見えねぇぞ、おい。  
 
ぽろぽろと溢れる雫が絶え間無く湯船の中に零れ落ち、小さな波紋を作る。  
すすり泣くような声を上げながら、突き上げられる衝撃に時々上擦った嬌声が混ざる。  
初めて交わった時も泣いていたが、あの時はまぁ初めてだったから、で終わる話だ。  
今回は違う。  
感情が入り込んでいる分、性質が悪い。  
……泣きたいのは俺の方だ。  
「っ…っく……ひっ…ぅ……あ…ぁっ…!雪…っ丞さ…っ…!」  
「くっ…!」  
ねっとりと絡みつく肉の心地よさに意識は奪われそうになるのに  
彼女から漏れ出る哀しげな旋律が奪われそうになった意識を引き戻す。  
快感だけに集中したいのに、彼女がそれをさせてくれない。  
泣き叫ぶ女を抱くのが趣味な男も世には居るのだろうが、  
少なくとも自分は苦手だ。セックスを楽しむ為の意地悪くらいならば悪く無いが。  
本当はこの場合優しい言葉を掛けてやったりとか、甘ったるい睦言の数々を囁いてやったりとか。  
そんな器用な真似が出来るものだったら苦労も無いのだろうが、残念ながら自分にはさっきのが精一杯だ。  
それで泣いてしまったのなら仕様がない。…多分。  
どうしようも無く、ただ、せめて。優しく、抱いてやろうと思った。  
ずる、と中のものを一旦引き抜いて。  
「――んっ…はぁ……雪之…丞さん…?」  
目に一杯涙を溜めて、哀しげでいながらも扇情的な表情で雪之丞を見て、不思議そうに呟く。  
乱れた吐息が悩ましげで、突然の行為の中断に身体がもどかしく震えていた。  
そんな小竜姫の身体を雪之丞は自分の方へと向けさせて。  
不安げに見つめる小竜姫の身体を、今度は真正面から抱き締めて。  
すると小竜姫の腕も、するりと雪之丞の背に絡まってきて、身体がぴったりと重なり合う。  
彼女の口から漏れ出た溜め息が安堵の為か、それとも身体の熱を吐き出す為か、そこまでは  
わからなかったけれど。  
――前者だということにしておこう、そう自分に言い聞かし、再び、女の胎内に、それを埋め込んでいく。  
「ああっ…!!」  
「…っ…!」  
女はそれっきり、泣く事を止めた。  
女はそれっきり、啼く事を止めなかった。  
優しくしてやろうと思いながらも、結局男というものは本能にひたすら忠実な生き物なわけで。  
彼女の中を、激しく、些か乱暴に、何度も何度も突き上げた。  
「はっ…はぁっ…あっ…あ、アっ…雪之丞さんっ…やっ…!」  
無遠慮に貫かれ、小竜姫の身体に限界が近い事を膣内の脈動で悟る。  
酷く名残惜しい気がしたが、身体は裏腹に女の肉襞を休む間無く擦り上げる。  
「あっ――ああ…―――っ!!」  
痛いくらいに、彼女の腕に力が篭って彼の身体を締め付けた。  
同時に、彼の肉茎も、痛いほどに締め付けられて。  
短く息を詰めて、どくどくと精を彼女の中に迸らせて、互いに絶頂を迎えた。  
「は……、……」  
ぐったりと力を失った彼女の重みを身体全身で受け止める。  
 
何かを考える事を頭が止めているかのように、ただひたすら呆然と。  
自分の肩に顎を乗せて、どうにかその体勢を保っていた彼女が、耳元で、囁く。  
自分が出したのよりも、もっとずっと甘い声で。  
 
「―――……!」  
 
……おい、今それを言うか。  
お返しってわけか、おい。  
いや、薄々は気が付いていたんだが。やっぱ実際言われると、確かに来る。  
だからってもう一回なんて元気は流石に無いんだが。  
 
それは小竜姫も同じだったのだろう。それを最後に、意識を失い、すやすやと寝息を立て始めた。  
 
……お前実は発情期治まってたんじゃねえのか?  
 
眠ってしまった小竜姫を抱えて、水気をタオルで吸い取って、そのタオルを彼女の身体に巻きつける。  
相手が寝ているとは言え、裸のままでは何となく気が引けるので取り合えず脱衣所に置いてあった  
修行場で着るセンスの無い服を着こんで、部屋に向かう。  
乱れたベッド、生々しい匂いが部屋に充満し、呆れるようにその惨状を眺める。  
本当によくもったものだと、今更ながらに思う。  
ていうかよく生きてるな、俺…。  
今までは相手があのお堅いお嬢様だった事もあり、一晩で二回やる事も滅多になかったと言うのに。  
小竜姫をベッドの上に寝かし、シーツを掛ける。  
雪之丞はどこか口寂しさを覚え、気分を落ち着けようと、本当に久々に本能以外の行動をとった。  
黒いコートのポケットの中に仕舞い込んでいた、煙草を取り出し、火をつける。  
別に煙草が特別好きなわけでも無いが、精神を安定させるのに時々役立つので持ち歩いている。  
そのうち中毒にならなければいいけど、と弓からは忌々しげな視線を向けられた事もある。  
ふぅ、と煙を吐き出すと、情交の残り香に煙草の匂いが混じり、何とも言えぬ気分になった。  
言われてしまった。はっきりと。  
――好き、だと。  
何だコレ。何だこのオチ。キャラ違くねぇか、俺達。  
別に何ら不思議な事は無い。  
最初は無かった感情でも、これだけ身体を交えてれば恋愛感情位湧いてもおかしくはない。  
実際に自分もそうであるのだし、まして彼女は初めてだったわけで、  
初めての相手に対して何の感情も持つなと言う方が無理な話かもしれない。  
けれど、所詮は人間。相手は神様。  
寿命も違えば、身分も違う。釣り合わない事甚だしい。  
どうせお互いに自分のものにならないし、なれないのなら、忘れるのが一番手っ取り早い方法だろう。  
「……はぁ……」  
身体はこの上なく疲れているのに、どうしてだか全く眠気が襲ってこない。  
先に眠ってしまった小竜姫を羨ましくも恨めしく思いながら、延々と煙草を吸い続け、  
一箱空にするまで、眠れる事は無かった。  
 
 
*****  
 
 
夢を見ていたような気がする。  
長いような短いような――甘くて、淫靡で、切なくて、苦しい夢。  
身体も苦しかったけれど、きっとそれは身体だけの苦しさでは無くて。  
身体は満たされても心までは満たされない寂しさに――心が泣いている夢。  
これが、本当に夢であればいいのに。  
これが、本当に夢であれば幸せなのに。  
夢だったなら。  
夢だったなら…――  
そう祈りながら、目を開けたのに。  
現実は残酷で。  
時間は無情で。  
眠っていたベッドの上は、明らかにそれが夢で無かった事を証明していて。  
それならば、そこに居るはずの男は今はもう居なくて。  
きっと、こんな自分に呆れ果てて、帰ってしまったのだろう。  
もしかすれば、もう彼は二度とここには来ないかも知れない。  
それは仕方がない事だと、自分自身を納得させた。  
呆然とした頭を左右に振って奮い立たせ、未だ気だるい体を起こし、  
彼に剥ぎ取られた服を再び着こんで、部屋の醜態に愕然としながらも  
何となく掃除する気にはなれずに寝室を出た。  
取り合えず、鬼門に迷惑を掛けた事は詫びなければ。  
そう思い、玄関の引戸を開けると。  
 
「――…雪之丞さん!?」  
胸が、とくん、と高鳴る。  
既に帰ってしまったとばかり思っていた人物が、庭先に居た。  
壁に凭れて、煙草を吸っていて。  
「…お前の所為で中毒になりそうだ、コレ。」  
言われた意味がわからない。けれど、彼が私の所為だと言うのならそうなのだろう。  
何だかわからないけれど。  
「…ごめんなさい…」  
取り合えず、謝っておいた。  
この三日間の事を思い出すと、何だか恥ずかしくて彼の顔がまともに見られず、思わず目を伏せた。  
「…いいけどな、別に。これ、受け取れ。」  
ひゅっと空を切る音と共に、飛んでくる何かを、彼女は反射的に受け取る。  
「……これは…文殊?何で、貴方がこれを……?」  
これを作れるのは、今の人間界では横島忠夫、彼一人のはず。  
「この前横島が金に困ってたから買ってやったんだよ。  
何かの役に立つかと思ってな。…まさかこんな使い方するとは夢にも思ってなかったけどよ。」  
文殊に刻まれた文字は――『忘』。  
 
「雪之丞さん………」  
彼の意図を、瞬時に悟る。…そう、多分、それが一番いい方法なのだ、と自分でも解る。  
寂しさが過ぎり、泣きたくなる。  
でも。  
「じゃあな。俺は帰るぞ。もう大丈夫なんだろ?」  
言いながら去ろうとする彼に、小竜姫は涙を堪えながら――精一杯の笑顔で。  
「――また…修行に来てくれますか…?」  
雪之丞は振り向いて、いつもの彼らしい、薄っすらとした笑みを浮かべて。  
「――そのうちに、な」  
 
*****  
 
部屋に戻ると、やはりあの惨状のまま。  
もちろん、片付けるのは自分しかいないのだから、当たり前だけれど。  
けれど、彼の匂いがまだ染み付いたこの部屋を、綺麗にする気にはまだなれなかったのだ。  
ベッドに横になり、手の中の文殊を見る。  
綺麗な色をしたその宝石のような珠――まだ使う気にはなれない。  
苦しくても、寂しくても、切なくても、その感情さえも消えてしまう事の方が寂しい気がした。  
女が泣くのが苦手だと言っていた。あの時、彼を見送る時感情のままに  
泣いていれば、彼はもしかしたら未だここに留まってくれたかもしれない。  
けれど、苦手だと解っていて彼にそれをぶつけるほど、ふてぶてしくはなれないし、  
惨めにもなりたくはなかった。  
「あ…!」  
ぽろっと、手の中から文殊が零れ落ち、ころころと転がっていくのを見詰めていると、  
その先に、ボタンが一つ。  
「これ…雪之丞さんの……?」  
そう言えば、先程彼の着ていたシャツの、一番上と二番目のボタンが無く、  
胸元が多少肌蹴ていたような気がする。  
文殊の代わりにそのボタンを手に取り――やっぱり、と心に決める。  
覚えていよう。彼は忘れてしまっても、自分位はこの感情を覚えていてもいい。  
――好きだ、と言ってくれた彼の言葉。忘れてしまうのはもっと辛い事だから。  
そう思いながら、頬を紅く染めて、微笑んで、彼のボタンに一つ、口付けた。  
 
 
勿体ない事、したかもしれない。  
帰り道、雪之丞は僅かな後悔を覚えていた。  
三日経って、彼女の屋敷から出たとき、そこはいつもと変わらぬ修行場。  
鬼門がおそらく頃合を見計らって、異世界空間から元の空間へと戻していたのだろう。  
泣きそうになりながらも、精一杯の笑顔を見せた彼女は、まるで天気雨の空模様。  
あのまま泣かれていたら、多分自分は今ここには居まい。  
そう思うと、笑顔で見送ってくれた彼女には相当救われたのだ。  
帰り際、人の気も知らないで異様にテンションの高かった鬼門達をとりあえずは  
ぼこぼこに殴りつけてやって、今こうして険しい山道を降りているのだが。  
無理に、忘れさせる事は無かったんじゃないだろうか、とか。  
いや、まぁそれが一番いい方法だったのだが。  
ついさっきまでは、自分も忘れる気でいたはずなのに。下界に戻ったら、  
まず横島のところに行って、また文殊を売ってもらって。  
何もかも忘れて、綺麗さっぱりしたかったはずなのに。  
……なんで渡した途端に、こんなに後悔するんだよ。  
複雑だ。人間というものは、本当に複雑だ。  
「……だめな生き物だな、男って……」  
横島の気持ちがつくづくわかる。一生解る事も無いと思っていたはずなのに。  
小竜姫の記憶が消えてしまえば、後この三日間の事を知っているのは自分一人。  
あんな彼女の姿はもう二度と自分が生きている間に見ることはないのだろう。  
もう、二度と。  
「……やっぱ、勿体なかったかもな……」  
人間の恋人に対する罪悪感はかなりある。実際どんな顔して彼女に会えばいいのかと  
今から欝になる。  
それでも。  
自分位は、覚えていてもいいだろう。この感情も、あの三日間の事も、全部。  
――好きです、と呟いた、彼女の言葉も。  
それはそれで、いいのだろう。…多分。  
そう心に決めて。彼女の柔らかな肌の感触が未だ残る手をぎゅ、と握り締めた。  
 
 
――END.  
 
 

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