「うー、寒い…」  
 
街灯の少ない通りを少女は急ぎ足で進んでいた。住宅街に等間隔で並ぶ光に照らされて、口からこぼれる白い息が雲一つ無い夜空へと吸い込まれていく。  
この先を曲がればもう家につく。手を口元に寄せ、はぁっと息をつく。  
手を温める彼女の足が、不意にぴたりと止まった。  
それは、偶然だった。  
ほんの僅かな、光の当たらない空間。気付こうとしても気が付かないような光を拒絶する空間がそこにあった。  
漆黒の闇の中に赤い光が二つ煌々と輝いていた。  
それを見て少女が一瞬動きを止めた。  
本能が警告する、今すぐにここを立ち去れと警鐘が鳴らされた。  
 
これは、関わってはいけないものだと。  
 
 
関わってはいけない、目を合わせたらいけない、  
 
――何よりも気付いてはいけない。  
 
外気とはまた違う寒さが少女の体を駆け巡る。  
まるで精神が直接この寒い空気に晒されているようなそんな寒さ。  
判るのだ、オカルトなどと呼ばれるものに僅かながら精通し、六道女学院でGSになるべく精進を重ねている自分にはわかってしまうのだ。  
 
これが、まったく歯が立たず、自分ではどうしようもない相手であるということに。  
足が震えた、腕がだらりとぶら下がる、肩に掛けていた鞄が地面へと落ちて中身が転がった。  
それでも、その眼は闇に潜む何かからそらせずにいた。  
ようやく、悲鳴が上がった。上げたつもりだった。  
だが、辺りには依然として沈黙が広がっている。  
おかしい、そう思ったときには既にそれは暗闇を抜け出していた。  
まるで靄のようなその姿。それがいるところだけ闇が濃くなったように濃密な存在感をかもし出している。  
頭が揺れた。  
直接頭の中に響き渡る漆黒からの叫び。  
股間から広がっていく生温かい気持ち悪さ、とうとう脚に力が入らなくなり、少女は地面へとへたり込む。制服のスカートが自分の漏らした液体で濡れ、不快感が広がっていく。  
叫び声の意味はわからなかった。だが、少女はわかってしまった。  
 
恐らく自分は死ぬのだ、と。  
 
 
横島忠夫はいつものように地獄のロードを制覇し、事務所へと帰る途中だった。  
「死ぬ、いつか死んでしまう!」などと泣き言を言っていた過去が懐かしい。今では弟子の人狼こと犬塚シロとの散歩にも慣れてきてしまった。  
散歩のおかげで体は引き締まり、脱いでも恥ずかしくないほどだ。余計な贅肉や無駄な筋肉は無く、仕事に適した肉体といっても過言ではない。  
なのに女気が無いのはどういうわけだろう。  
もてないオーラがさりげなーく漂っているのか、はたまた煩悩全開でおおっぴろげなところが原因だろうか。  
いや、女気が在ったといえばあったのだ。いつものように物の怪の類ではあったが。  
だが、その彼女も今はいない。転生の時を彼の体の中で待っている最中だ。  
「先生? 早く事務所に帰るでござるよ!」  
物思いにふける横島を律儀に待っていたシロが痺れを切らして催促する。季節は冬だ、いつまでもこうしていたら風邪をひいてもおかしくない。  
「そうだな。おキヌちゃんが昼食を――」  
「あの、すみません。横島忠夫さん、ですよね?」  
振り返ると、六道女学院の制服を着た女子高生が立っていた。  
 
じょしこうせい。ミニスカ。寒いはずなのにその下にハーフパンツ等の重ね着なし! しかも美人! 最高だ!  
「おじょーさーん! 僕の名前は横島忠夫! 僕に用ですか? そうに違いない! ずっと前から愛してましたー!」  
人外の動きで横島が少女を口説きにかかる。  
「人生の春! こんな俺にもとうとう人間の女の子が! お嬢さん! 今まで無駄にしていた時間を一日で取り戻しましょう!  
 くんずほぐれつ体と心のスキンシップを!」  
一瞬にして理性を失い、少女に飛び掛る横島。この辺りが女気が無い理由と取れない事も無い。  
「ええ、楽しい事をしましょう?」  
いきなり横島の口内へと少女の舌が侵入する。そして、溢れ出す妖気。  
横島と少女から少し離れた位置にいるシロには少女の口内に存在する赤い光を持つ闇が見えた。  
赤い光。溢れる妖気。そして広がる闇。  
「先生! そいつは人じゃ――」  
シロが何かを叫んだ気がする。叫んでいなかったかもしれない。わからない。  
横島の精神は一瞬にして闇に閉ざされた。  
 
「先生に何をするでござる!」  
霊波刀を出現させて、シロは女子高生へと切りかかろうとする。しかし、何もせずに少女は地面へと倒れこんだ。  
そして、先ほどまで溢れていた妖気が少女からは感じられなくなっていた。  
代わりに、シロは横島から流れ出る奇妙な妖気を感じ取っていた。霊気とも妖気とも判別の出来ない異質な波動。肌がひりつくほどの波動だ。  
「せ、先生!?」  
横島に向き合ったシロの視界には奇妙なものが映っていた。外見は紛れも無く横島だ。だがそこから溢れ出る波動は禍禍しく、シロはじりじりと後ずさりを始める。  
背中に何かが触れた。それ以上後ろへと下がる事が出来ない。  
横島の姿をした何かがゆっくりと近付いてくる。目は赤く光り、不敵な笑みを浮かべ、少しずつシロとの距離が迫る。  
嫌な圧迫感だった。今すぐにでも背を受けて逃げ出したい欲求に刈られる。人狼の戦士としてあるまじき姿だが、己の師匠のように蜂のように刺しゴキブリのように逃げる戦士の気持ちがわかった。  
怖い。ただその言葉が浮かんだ。だが、そんな言葉を発するわけには行かない。  
相手が何者であれ、退くわけには行かない。師匠を助けなければいけないのだから。  
「先生を…拙者の先生を返すでござるよっ!」  
霊波刀の出力を引き上げ、シロは横島に向かって突進した。先手必勝。爆発的な加速で横島の肉体に刀で切りつけようとする。  
死ななければいい。手加減などという文字はシロの脳裏には浮かんでこなかった。そんな事をすれば自分が負けると一瞬のうちに悟ったのだ。  
 
「っ!?」  
横島の肉体を切り裂くはずだった刀が、寸前で止まる。止めたわけではなかった。まるで見えない鎧に切りつけたかのような手ごたえがシロの腕に広がる。  
「シロ…」  
横島が口を開いた。そして、いつものように笑う。  
「先生! 今助けるでござるよっ!」  
シロはその横島の声を助けを求める懇願だと思ったのだろう。限界を超える勢いで霊派刀に力を注ぎ込む。  
「シロ、そんな事はしなくていいんだ…。そんな事より――」  
横島の笑いが、崩れた。いつものような人懐っこい笑顔ではなく、どす黒くて、嫌悪感をもよおすような笑み。  
「我が奴隷となれ!」  
いつの間にか横島の手にはいくつかの文殊が握られていた。刻み込まれた文字は《十》《倍》《増》。  
それ等の文殊がシロに向かって放たれ、文殊に封じ込められていた霊気が、まるで服の様にシロの体へとまとわり付いていく。  
「ひっ!?」  
思わずシロが横島との距離をとる。だが、既にシロの全身に霊気は纏わりつこうとしていた。  
「ふあぁっ…いやぁっ」  
 
シロは敏感に変化を感じ取っていた。服を着ているところが、髪が当たるところがむず痒くてしょうがない。  
全身を掻き毟ろうとした腕が、見えない何かによって押さえつけられた。地面を見れば、転がる《縛》の文字。  
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  
シロの目に涙が浮かぶ。髪や服だけではない、いまや空気に触れる全ての箇所が疼き出していた。  
「せ、先生! やめてっ! お願いでござるっ! ひゃうっ。このままじゃっ、拙者っ、く、狂うでござるっ!」  
横島はそんなシロの姿を笑いながら眺めていた。動こうとはしない。何もせずにただ息の荒くなってくる人狼の姿を眺めるだけだった。  
 
シロが腕を動かそうと頑張るたびに、僅かながら体が動く。そのたびに空気が揺れる。  
そして空気によって作り出される快感。幾度この行為を繰り返しただろうか。  
だんだんとシロの頭は霞がかかったようにぼんやりとしてきていた。  
あれほどむず痒かった感覚が、今では少し痺れるように心地良いものに変わっていた。  
空を見上げれば星が出ていた。残念な事に月は欠けている。満月であればこの事態から抜け出せただろうか。  
いや、もう残念でもなんでも無いのだ。もう、何も考えられないほどにシロの精神は疲弊していた。  
ひたすらに空気を震わせ、快楽を得ようとする。  
股間にはしみが広がっていた。股間を濡らした液体は歩道のアスファルトにまで染み込んでいる。  
だが、まだ一度もシロは絶頂には達していない。達しようとするたびに横島が新たな文殊で《感》《無》と何も感じない状態に戻すのだ。  
そして、今では《倍》《増》だけに数字は減らされていた。何故始めに我慢したのだろうか。  
《十》《倍》《増》の時に何故快楽を得ようとしなかったのか。  
始めは、むず痒いだけだった。どうしようもなく不快だった。  
それがいつしか熱を帯び始め、そして快楽なのだと気づいた時には全てが遅すぎたおかもしれない。  
もう、我慢が出来ない。直接股間に手を持っていきたい。  
だがきっと淫核を直接触ったところで、シロが絶頂に達することは無いだろう。  
刺激が少なすぎる。それこそむず痒いだけだ。  
「あはぁ…せんせぇ…せっしゃ…もうだめでござるよぉ…」  
ついに、心が折れた。  
 
「お願いでござる…どうか、どうか始めの様に感じさせてください…」  
だらしなく開いた口からは涎が糸を引いて垂れた。潤んだ瞳からは涙がこぼれた。快楽を感じ始める前、  
ただひたすらにむず痒さだけが体を襲った頃に強がりを言っていた口からは懇願の声しか紡ぎだされなくなっていた。  
「お願いでござる…これじゃあ、このままじゃ…拙者は本当におかしくなるでござる…」  
数刻ぶりに、横島が口を開いた。奴隷になれと言葉を発した以降はただ口元を緩ませながらシロの痴態を眺めていた横島が。  
「断る」  
期待を裏切られたシロは凍りついた。ぐちゃぐちゃにしてもらえると思ったのだ。こんなむず痒さではなく、あの何かが登りつめてくるような快楽を最後まで味わえると思ったのだ。  
「せんせぇ…お、お願いでござる。なんでもします、先生のゆうことには、従いまふ…だからぁ!」  
横島が地面に倒れるシロに近付く。ズボンと下着を脱がし、直接割れ目へと指を入れる。  
「きゃうっ」  
シロが声を上げるのも気にせずに、指に蜜を絡めてそれをシロの口元へと運ぶ。  
「舐めろ」と横島が言い終わるよりも先にシロは指に舌を絡めていた。音をたてて、丁寧に指をしゃぶる。  
シロは知らない。むず痒かったという感覚こそが正しかった事を。  
シロは知らない。彼女の死角には《淫》という文殊が転がっている事を。  
知るよしもない。  
 
シロはただ己の体に芽生えた快楽を得るためだけに舌を這わす。いつの間にか体の束縛は解けていた。  
それでも己の肉体に指を這わせるような事はしない。霊波刀を作り出しもしなかった。  
横島の手を取り、一心不乱に舌を這わせる。それこそが快楽への近道だといわんばかりに。  
「気持ちいいか? シロ」  
「ふぁい…」  
別の手で頭をなでながら横島は笑う。  
「俺を助けたいか?」  
横島の声で、横島の顔で、横島が訊ねる。  
「あ…」  
シロの動きが止まった。それを見て、横島が舐めさせていた手を引っ込めた。  
「あうぅっ!」  
文殊がまた作り出された。《感》《無》、と。  
「いやぁ、いやあぁぁぁぁぁ!」  
シロが横島にすがりつく。僅かに火照っていたからだの疼きはなくなっている。  
それでも体と心に刻まれたあの快楽を手放す事など出来なかった。  
それを見て、笑いながら横島が言う。  
「選択しろ」  
横島がシロの目の前で両手を開いた。右手には《十》《倍》《増》、左手には《感》《無》。  
「好きなほうを選べ」  
シロは、迷わず右手に飛びつこうとする。それを横島は妖気を溢れ出させる事で推し留める。  
 
「お前が選ぼうとした方は奴隷になる道だ。堕ちる代わりに嬲って舐って弄って犯して狂いたくても狂えない快楽を与えてやろう。」  
びくっと、肩を震わせてシロの動きが止まった。ほんの一瞬の迷い。  
「迷うのならば選ばないでおくか?」  
右手が、天高く上げられる。その光景がシロには快楽が離れていくように見えて――  
「…り……す」  
蚊の鳴くような声をあげる。  
「なり…ます。奴隷にしてください…拙者を狂わせてください…」  
横島の右手が開かれた。欠けた月の光を反射しながら地面へと落ちていく。  
「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  
文殊が発動し、シロの目が見開かれる。空気が体を嬲る感覚に歓喜の声をあげる。  
「この体の持ち主の事はいいのか?」  
横島が笑いながら言う。答えはわかりきっているのだから。  
「んっ…いいです…拙者は…もう、たえられっ――あぁぁ…来るっ、なにか、あっ、あぁぁぁぁぁ」  
シロが潮を吹いた。空気に犯される感覚。終わる事の無い絶頂。  
「あぁっ! あうっ! いいっ、ですぅ! ご主人様ぁ――あぅ! あっあっああああぁぁぁぁぁぁ!」  
それを見ながら横島は笑っていた。そこに体の持ち主の面影を見つける事は出来ない。  
 
 
「ご主人様…」  
シロは横島の足を舐めていた。未だに処女のままだが既にその体は快楽に溺れている。  
「先生でいい。怪しまれるだろ?」  
「…はい、先生」  
シロの首には文殊を加工して作り出された首輪がはめられていた。隷属の証だ。  
「それはお前が欲しがった事にしておけ。怪しまれたら外してお構わないが常に持ち歩いていろ」  
「はい」  
「部屋などの閉鎖空間で二人きりの時以外はいつもどおりに行動しろ。出来なければ捨てる」  
「は、はいっ。――わかったでござる」  
あたりを見渡し、ここが屋外である事を思い出したのか普段と同じように行動し始めるシロを見て横島は笑った。  
「お前はいい奴隷になりそうだな…ああ、事務所ではいくら室内といえどもいつもどおりに過ごせ。心配するな、事務所では無理でも散歩の代わりに外で調教してやる  
ホテルだろうとどこだろうと場所はどうにでもなる。  
何なら今の様に人払いの結界をはればいい」  
「嬉しいでござる…先生は何故事務所のことを知っているのでござるか?」  
シロが素直に疑問を口にする。だが、すぐに足を舐める行為を再開するあたり短期間で奴隷根性が身にしみているのかもしれない。  
「こいつの記憶は全て取り込んだ。行動パターンも読める。お前以外は俺が横島忠夫であると見抜けないだろうな。もちろん両親も含めてだ。  
ついでに教えてやるが、横島忠夫の事はこの前に体を奪った女の記憶から情報を奪い取った…六道女学院とかいう学校では多少なりとも有名らしいな。  
理事長が気に入ってくれているようだしな  
体は役に立たないが、こいつの持ってた結界の張り方も重宝しそうだな  
今みたいに、誰にも邪魔が入らずにお前を調教できる」  
そう言うと横島はシロを立ち上がらせた。まだ舐めたり無いのか名残惜しそうに舐めていた足を見つめる。  
 
空には日が昇り始めていた。時計を見ると午前六時。そろそろ事務所に帰ってもよい頃だろう。  
横島は「帰るぞ」と言いながら文殊でシロの衣服を乾かし、汚れを洗浄する。  
「…こんな時間に帰って怪しまれないでござるか?」  
「お前との散歩で遠くまで行き過ぎて迷った事にするさ――おい、帰るぞシロ。美神さんにはお前も謝れよ」  
「はい、先生」  
立ち去る二人の後には朝日で煌く《淫》の文殊とシロの愛液、そして女子高生の死体だけが残されていた。  
 
 

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