そこは、全くの闇であった。
照らす灯火は有るのだ。しかし、それを打ち消して尚余りある闇の気配が、光の存在を翳らせていた。
ヴェルゼリア。夜に住まう者たちの本拠にして、その居城の名でもある。
その最奥に、二つの深き闇がある。
人の身に有りながら、魔族よりも尚深く闇に愛されたもの。
即ち、闇の皇子であり、闇の皇女である。
禍々しき魔法陣の上、粘りつくような瘴気のみを纏い、闇の中に二つの裸身を曝け出している。
人の智として否定されるべき混沌という名の法則の下、聞き取ることすら難しい呪を交え、絡み合う白き闇。
それは邪悪なれども美しき暗黒の儀式であった。
呪を唱える唇が重なる。奇怪なことに、唇と舌は相手のそれを求め淫猥なる濡音を混ぜながらも、穢れし言葉が途絶えることは無い。
皇子の右手が、女の胸で動く。
生者no骨肉を感じさせぬ程に細い指は、小さな蛇を思わせる動きで豊かな皇女の胸に絡みつく。
美しき双丘の片方が、掌に押し潰され、指に絡みとられて卑猥にその姿を変えてゆく。
やがて皇女は昂りを覚え、裸身を赤く染めて身悶え、僅かに喘ぎを漏らすが、
しかしその唇と胸は相手を逃すことなく、より強くと、押し付ける。
天幕の中、ヘインは、妙に寝付けずにうなされていた。
覇道を志したエルウィンと共に、魔族の離反者と共に、拠点すらなく毎日が戦闘と放浪の連続だった。
疲れが溜まりすぎると逆に休めなくなるんじゃないか、等と言ったどうでも良い考えが浮かび、
そんな感じのが続いて更に眠りは遠のいてゆく。
「はぁ……ん?」
溜息と共に、寝返りを打……とうとしたのだが出来ない。
下半身に重いものが乗っている感触に気付いた。
それに、なにやら奇妙な感覚が局部にある。
人肌よりも温かい何かが、適度なぬめりと柔らかさで持って肉棒を蹂躙している。
有り体に言えば、そう、気持ちいい。
ああ、そろそろ出るな、と思った時、半ば寝ぼけていたヘインの意識は覚醒する。
「うわわわわっ!!」
慌てて布団をはね除けると、そこに居たのは一人の少女だった。
赤い髪を持ち、蠱惑的な瞳で己の顔を見上げている。
何も身につけていない裸体は健康的な小麦色で、南国の果実を思わせる張りの有る乳房の背中側には、
対となるようにしてコウモリのような皮膜を持った羽がある。
「サッキュバス!?」
淫魔、と言う奴だ。戦場では強力な魔力を振るうが、元来は肉欲に溺れさせ徳高き聖人を堕落させる魔神だ。
従えた魔族の中には、確かに居たはずだ。しかし、彼の持つ魔力を恐れてか、
今まで近づいた事すらないはずだった。
慌て、寝台の横に立てかけて置いている杖に手を伸ばしたが、指が滑り寝台の下へと転げ混んでしまう。
「ああぁ……!?」
ヘインほどの術者になれば、杖などの依り代に頼らずとも魔力を振るえるものだが、
寝起きかつ不意打ちに動転している頭では、そんな判断など出来るべくもない。
「へいん、オチツケ……」
美少女と言うべき人型の魔族から聞こえるには違和感のある、くぐもった女性の声だった。
聞き覚えのある声だった。そろそろ馴染んだと言っても良い音だ。
「え〜と、確かソニアの」
二人、直属の様な形で付き従う、姿を変える魔族が居たはずだ。
「オスト、だっけ?」
外れである。
「……チガウ」
未だ足の上に跪き、潤ませた瞳でこちらを見上げ呟いた一言は、少し寂しげに聞こえた。
「ええとゴメンよエスト……ああってだからなんで舐めるのさ!」
罪悪感に駆られこちらが謝罪の言葉を吐いたと同時に、口淫を再開したエストの肩を抑える。
「いやジャナイノダロウ……コウスレバ、にんげんノおとこハよろこブトコノからだガシッテイル」
「そう言う事じゃなくって!」
思いっきり頭を掻きむしりたい所だったが、手を離せば再び犯されそうな気がして、それは適わなかった。
「なんでおいらのところなのさ!」
生まれて初めて触る、妙齢の女性の手触りは、ともすれば欲望に身を任せたくなる情動に駆られるが、
魔術師の知識としてこの魔族の力を知っているからこそ、己をぎりぎりのところで律する事が出来ていた。
「えるうぃんハ、オソロシイ……ろうがニハ、そにあガイルシ、まちノにんげんヲころスノハとメラレテイル」
淡々とした語り口のそれは、恐らくは体験してしまった事実なのだろう。
反らされた目には、恐怖すら浮かんでいるように感じた。
とはいえ、だ。
「だけど……」
「ソレニ」
こちらの反論をさえぎり続ける少女の言葉は、切実なものだった。
「だめナノダ……ドレダケにくヲくらオウト、かわキガいエヌノダ。
タブン、コノからだノセイダトオモウ……タノム、ウズイテショウガナイ……」
抑制するヘインの手を振り切り、詰め寄るエスト。
いつの間にか取られていた手が、なにやら柔らかいものに触れた。
それは先ほど自身を包んでいた感触に似ていて、柔らかく、暖かく、ぬめりを持って指へと絡みついてくる……
「……へ?」
思いもよらぬ感触に、うっかり指が動いてしまった。
柔らかな何かを、己の二指が刺激した。これがいけなかった。
「あ……」
ぴくりと身体を震わせて甘い吐息を漏らし、エストがもたれ掛かってくる。
「へ、へ、へ?」
思いも寄らぬ反応にヘインはすっかり慌てきり、必死になって手をそこから離そうとするが、
自分の足と相手の身体に挟まれ、抜く事すらままならない。それどころか。
「ン、へいん……ソンナ、きゅう、ニ……うごカサ……レルト……」
混乱を深めるヘインを尻目に、エストの目は潤み、頬は上気して、甘い息は益々荒くなってゆく。
勢いを付けて何とか手を引き抜くと、どうやらそれが止めになったらしい。
「ハァ、アア、へいん……アアッ!」
一際高い声を上げて、エストの裸体が仰け反った。手を抜いた辺り……
つまり、エストが跨っていた辺りに、なにやらなま暖かい感触がある。
「ちょ、ちょっと、エスト!?ねぇ!?」
瞳を閉じ、自分に寄りかかって恍惚の笑みを浮かべるエストを揺すってみても、
小さなあえぎ声を漏らすだけで、それ以上の反応はない。どうやら、意識を失ってしまったらしい。
「ちぇっ、なんだっていうんだよ、全く……」
舌打ちをしてみたものの、前よりも愛らしく見えるエストの寝顔を見ていると、それもどうでも良くなってくる。
自軍内ではそれなりの立場にあるとは言え、裸体の少女を、その寝所まで連れて行くという度胸はヘインにはない。
結局自分の寝台はエストに与え、己は久しく使っていない寝袋を取り出し、その中に収まった。
翌。
結局、ヘインはその夜一睡とすることはなかった。寝台に眠るエストが気になったし、何よりその裸体が目に焼き付いて離れなかった。
「あら、エスト、ヘインと仲良くなったの?良かったじゃない。人間と魔族の共存も、夢じゃないって事よね、やっぱり」
なぜだかまとわりついてくるエストをあしらおうとしていると、ソニアからそんな声が掛けられた。
「ちが……って、ああ!行かないで」
否定の言葉をヘインが吐く前に、気合いの入った足取りでソニアは走っていってしまった。
腕にすがりついている少女を見ると、ちょうどエストもこちらを向いていた。
目が合う。エストの顔に、笑顔が浮かんだ。
「こんやモ……マタ、いクゾ……」
「あはは、はははは……」
笑うしかない。
アルハザードを開放し、ボーゼルを滅ぼして、エルウィン達は世界の半分以上をその手中に収めたこととなる。
武を極めた者達が集う中、ヘインは半ば必然的に軍略を意識することになっていた。
当座の目的は、アルハザード奪還に失敗した帝国軍を追撃し、その軍勢に壊滅的な被害を与えることだろう。
しかし、考えるべき事はそれだけではない。
帝国首都を攻め落とし、光輝の同盟諸国も盟主であるカルザス王国が陥落させた。
伝国の玉璽とも言うべきラングリッサーが我々の手にあることもあって、多くの国が臣従の意を示したが、
それでも我々の勢力はあくまでも新鋭であり、決して心からの恭順ではあるまい。
今は大丈夫でも、一手の失敗が再び大陸の動乱を招くことは想像するに難くなかった。
そして、現状がある。
追うのはこちらだが、帝国軍の精鋭部隊は未だ存在し、その指揮を執るのはエグベルトであった。
自らを含む四団の長を囮とし、その実で主軍とベルンハルトを隠れさしむる等という奇策を思いつき、実行しうる男が居るのだ。
退却のうちに、どれだけの策を仕込んでいる物か、想像することすら出来やしない。
数々の戦いの中、ヘインの軍略の智もまた侮るべきものでは無くなっていたが、
それでも傭兵からのたたき上げでもあるその男には、適うはずもない。
地図を眺め、彼我戦力を冷静に比較し、物見からの報告に目を通す。
恐らくは、という策はいくらでも浮かぶが、余りにもその選択肢が多く、逆に不安ともなる。
「ああもう、何でオイラがこんな事……」
いかにも愚痴、といった風で背伸びをしながら漏らすが、その中に含まれる小さな楽しみの響きに、本人すら気付いては居ない。
そうだ、実に楽しかった。
軍略を練る、という行為は、魔術を構築するに似ていた。
情報を集め、理論に基づき経過を考え、しかし発展するためには変化も必要で、そして結果へと辿り着く。
そんな思考の動きが、ヘインには楽しくて仕方がなかった。
とは言え例え楽しくとも、疲れが溜まるのは仕方がない。
不意に、視界が塞がれる。
冷たくしなやかな筋肉の質感が顔の前に有り、首の辺りに柔らかい感触がある。
多分、この目の前にある何かは腕だろう。ならば、この背中に感じる柔らかい感触は……?
身体を緩ながらも戦場に有った意識は、唐突に現実に引き戻される。
不意に頭に血が上り、振りほどこうとするが、頭を捕らえる腕の力は強く、身体を揺らすことすら出来ない。
この様な真似をする存在は、ヘインには一人しか思いつかなかった。
「……もしかして、エスト?」
頷く気配が、髪に感じられた。
「なんどモこえヲかけたガ、はんのうガなカッタノデナ……」
言いながら、ヘインの目を塞いでいた腕が降り、首に回る。
「ちょ、苦しっ……」
真っ赤だった顔が少しずつ青くなっていくのを自覚しつつ、エストの腕を叩く。
「……あ、スマナイ」
「ふぅ……ちょっと考え事してたからさ、気づかなくてごめんよ」
「これダケノじかんハ、にんげんニトッテチョット、ナノカ?」
言われて、燭台の蝋燭を見る。
四半日近くは持つ大型の蝋燭は、三分の一程度までその姿を縮めていた。
いつから居たのかは全く判らなかったが、それなりの時間を待っていたのは確かに違いない。
「あ〜、ええと……」
「ン?」
「ごめん、気づかなくて」
「さっきモいッタナ、ソレハ」
そう言われても、ヘインには他に言うべき言葉は思いつかない。そこで、話を逸らしてみることにした。
「もしかしてこの姿勢ってさ、もしかして……吸うの?」
今は吸血鬼の姿を取っている。この姿勢ではエストの姿は見えないが、
妖艶な肉体をタイトな黒衣に包む、白い肌の女性の姿だ。
彼女は憑依生物とでも言うべき存在であり、その性質は宿主に依存する部分が大きいらしい。
以前淫魔をその身としていたとき、半ば強姦まがいに精を奪われたことを思い出す。
ならば、今の姿で思いつくことはただ一つ。
「イヤ、ソンナコトハシナイ。タダ……」
否定の言葉に、ほんの一瞬胸を撫で下ろしたが、続く言葉があるらしい。油断は出来ない。