異国の地で迎える夜は、いつも短い。
乾いた、日の長い気候の中で、朝陽が昇る頃に起床し、深夜を待つ前には眠りにつく。そんな生活が少年にはすっかり定着していた。
―――将として部下を率い、崩された国家の復興を手助けすること。それが少年の役目だ。
命令を下す立場ではあるが、書類に目を通し部下に指示するだけの仕事では決してない。現地を自分の目で見、確かめ、そして直に行動を起こす。全て含めて、彼の任務である。
照りつける日光の下で白い腕を焼き、艶のある黒髪を砂に塗れさせ、陽が沈む頃にくたくたになって宿舎に戻ること。それが日常になった。
故に、彼の夜は短い。帰って来た途端、下履きのまま廊下に転がり眠りこけたこともあるくらいだ。
今日も今日とて、疲れ顔で少年は帰って来た。流石にその場へばたりと倒れ込んでしまうことは無かったが、どうにも眠そうで、顔色が薄い。
少年が扉を開き、ただいまを言う。彼の帰りをずっと待ち続けていた一人の少女が、おかえりなさい、と笑顔で迎えた。
ふわりと長い髪と長いスカートをなびかせて、少女は廊下を駆ける。そのまま少年へ抱きつこうとした。
が、彼の様子を見て、足がゆっくり止まる。
少年の前で、少女は痛ましそうに柳眉を寄せた。
「…お仕事は忙しいの?」
疲れているみたい、と無意識だろう仕草で目を擦る少年の手を取って、少女は琥珀色の瞳を覗き込む。少年の睫毛は微かに震えていた。
それを誤魔化すように小さく欠伸を一つすると、少年は軽く首を振ってみせた。
「そんなことはないよ」
苦笑して、手首を掴む少女の手をやわやわと握る。大丈夫だと言うように。
でも、と少女は心配そうな態度を崩さず、また何か彼に対する疑問を口にしかけた。
その時。
「んっ…」
ぐい、と。
華奢な手を自分の方へ引き寄せ、少年は物言いたげな桜色の唇に自分のそれを重ねた。
少女の口腔に微かな砂の匂いと味が広がる。深く浅く啄まれ、呼吸を、言葉を遮られた。
「ん、…ぅ……」
背が反らされて、少女の足元が頼りなく震えた。
細腰に少年の手が回される。角度を変えてまた口づけられ、静かな空間に濡れた音が響く。
舌の隙間から喘ぐような少女の呼吸が漏れ出した頃、少年はやっと彼女から顔を離した。
赤く湿った唇が、どうしたの、と問う。潤んだ瞳が上目に、彼を僅かに非難するような色を見せた。
けれど少年は悪びれなく、笑って言った。
「おかえりなさいのキスが欲しいと思って」
「…も、う」
―――嘘。
その台詞が本当ではないことを、少女は感じ取った。
けれど。
少女は苦笑して、少年の答えを追求することを止めた。
彼が言いたくないのなら、聞かない方が良いのだろう。
それよりは―――。
少女は背伸びをして、少年の背に手を回した。
「ちゃんと言ってくれたら、私からするのに」
隠したいのなら隠させてあげるし、誤魔化したいのなら誤魔化されてあげる。
それが、彼の為に私が出来ること。
そうウェインの唇に、アリエータは自分のそれを押しつけた。
明かりの落とされた室内で、瑠璃色の髪が鈍く光った。
シーツの白に、ほんのり赤味がかった桃色の滑らかな皮膚、薄く血管の透けた柔らかな乳房にも散らばり、映える長い髪。
節ばった指でそれを手繰り、少年は愛おしげに口づけた。
ふわりと鼻腔をくすぐる、花の香り。
「同じにおいがする」
ウェインが嬉しそうに微笑む。彼の黒髪からも同じ香料が香った。
薔薇の香りに似せた匂い。二人で買い物に行って、二人で何気なく選び、そして二人で共有しているシャンプーの匂い。
少女も顔を綻ばせた。耳の後ろ、こめかみにもキスを落とされ、くすくすと笑いを上げる。
「や、くすぐったい、ウェイン」
「だってアリエータ」
「もう、やめてってば」
ちゅっ、と高く音を立て繰り返されるキスと、首筋や脇腹をくすぐるような指使いに、アリエータは身を捩った。シーツの中からくぐもった笑いと軋むスプリングが響いた。
―――けれど、それも束の間のことで。
悪戯な指の動きは、いつの間にかくすぐったさとは別のものを引き出そうと、撫で摩るような動きに変わっていた。
それは次第に、少女の屈託無い笑い声を、快楽の混ざった吐息に擦り替えていった。
薄暗い部屋は二人分の呼吸と、シーツの擦れる音、寝具の軋んだ音で満たされていた。
窓から射す月明かりの中ぼんやりと白い肌が浮かぶ。ほっそりと華奢なようで、女らしい曲線を大きく描いた肢体。
たわわな胸は少年の手のひらからこぼれ、むっちりとした太腿は少年の腰に絡みつく。
「ん、…あぁ…」
揺り動かされる度、肌と肌が柔らかくぶつかった。
心地良い、と思い、アリエータはウェインの首筋へ頬をすり寄せた。闇夜で瑠璃色に潤んだ瞳は瞬き、目尻から涙がこぼれ上気した頬を伝う。
同年代の少女達より幼くあどけない容姿と、それを裏切る男好きする身体は、自分ではコンプレックスに感じていたのだけれど。
彼は―――自分を優しく貫いている少年は、そのギャップすら可愛いと言ってくれた。
「…俺だけが知ってる秘密みたいで、嬉しい」
耳元で内緒話をするみたく、低めの声音で囁かれる。言葉通り嬉しそうに。ほんの少し、恥ずかしそうに。
アリエータはひどく照れくさくて、そして嬉しかった。ウェインに褒められる度に身体が熱くなる。
彼の細身の肩へ、それより更に細い自分の腕を回し、きゅうと抱きついた。
ぎしぎし、と鈍い音と共に揺すられる。
熱いウェイン自身が体内で脈打った。
ふわふわと意識が覚束ないものになっていく。
「アリエータ、…」
目の前にあるウェインの、少女のような作りの顔が苦しげに歪む。この瞬間を見るのが好きで、どんなに恥ずかしくても行為の間は目を閉じずにいた。
見つめ合ったまま深く口づけられる。絡む舌が熱くて、融けてしまいそうだった。
このまま融け合ってしまいたくなり、アリエータは必死に舌を動かした。その分だけウェインが応えるように絡めてくれた。
「はぁっ、…あ、ウェイン…」
口から勝手に喘ぎが漏れる。甘ったるい響きが自分の耳にも聞こえ、羞恥に顔が熱を持った。身体中、熱くて仕方が無かった。
煽られたのか、一番深い所でウェインがびくびくと震えた。熱い物が中で広がっていく。
「っ、アリエータ、アリエータ……」
ウェインは、何度もアリエータを呼んだ。アリエータもひたすらに彼の名前を呼び続けた。
意識が遠くなり、霞む視界の中で少年を強く抱き締める。耳元に浅くて短くて、そして熱い呼吸を感じた。
どれくらいの時が流れただろうか。
時計はかちかちと秒を刻んだが、暗闇の中でその輪郭は見えず、正確な時刻が解らない。十数分位のような気もするし、あれから数時間は経った気もする。
アリエータは半身を起こし、乱れた髪を軽く手櫛で梳いた。
そして、すぐ傍に眠る少年を見返った。
「……ウェイン」
ひっそりと、名前を呟いてみる。
だが細く小さな声は彼の耳には届かなかったのか、ウェインは目を閉じたまま静かに呼吸を繰り返すだけで。
「…ん」
闇に浮かぶ顔はどこか青ざめて見える。漏らした吐息は苦しげで、僅かに眉根が寄せられていた。
―――達した後。
糸の切れたように自分に覆い被さって、ウェインはそのまま静かに眠ってしまった。
「ウェイン」
不安を感じ、アリエータはうつ伏せて眠る彼の肩にそっと寄り添ってみた。
とくん、とくん。
鼓動と脈。血の巡る音。
温かい。
良かった、彼は生きている。
そんな、当たり前のことで安心し、アリエータは胸を詰まらせた。
どうか、あなたは居なくならないで。
私を、独りぼっちにはしないでね。
―――泣いてしまいそう、と思った。
思った間にも、目の端から滴が溢れ、ウェインの頬に流れ落ちる。
そしてその冷たさに、ウェインが身動ぎをする。あ、と思った。重そうな瞼が開き、睫毛に縁取られた琥珀が現れた。
「……アリ、エータ…?」
焦点の定まらない瞳が此方を仰ぐ。アリエータは慌てて瞼を擦り、ウェインへぎこちなく笑いかけた。
「起こしてしまった?」
ごめんなさい、と言うと、彼はいいやと首を振った。ぼやけた目が少女を見つめ、細まる。
そうっと、ウェインの手がアリエータへ伸びた。指が濡れた頬を辿る。潤む瑠璃色は瞬きを数度して、ゆっくりと閉じられた。
「…泣いていたのか」
「ううん」
少女がなよやかな首を横に振る。ウェインは黙ったまま湿った目元を撫でた。
嘘をついたことを咎められはしなかった。
ただ―――。
「ごめんな」
そう小さく言われた。
私達、謝り合ってばかりね、と思いアリエータは苦く笑った。
もう一度かぶりを振って、ウェインに抱きつく。
彼の裸の胸に顔を埋めると、ひどく不安定だった感情が嘘のように落ち着いた。
「お仕事、無理はしないでくださいね」
「うん」
生返事でも良かった。
瑠璃色の髪にウェインの指が差し込まれ、頭を抱き寄せられる。
彼が傍に居る。
それだけで良かった。
「ウェイン、好きよ」
「…俺もだよ」
「大好き」
「俺も……」
少年の声は、そこで途切れた。長い前髪に閉じた睫毛が隠れる。
どうかどうか、無理だけはしないで。
ぎゅっとウェインを抱き締めて、彼の寝息が規則正しく穏やかなものであることを確認した。
指と指を絡めて、祈るように目を瞑る。
彼が、私の傍で安心して眠れますように。彼の帰れる場所を作れますように。
それが、彼の為に私が出来ること。
END