ヴァルカニア士官養成校の廊下の窓を、夕陽が埋めていく。  
老朽化が進む校舎には、全てを暴き立てる昼の光より、影を呼ぶ夕陽がふさわしい。  
 人影もほとんど消えた廊下を、太陽の消えるまでの時間を縫うように歩く一人の下級将校がいる。この国では珍しい女性士官だ。  
 まだ少し少女の柔らかさが残る長身と、ぷっくりと愛らしく尖った口元。  
 初々しいと形容したくなる風貌を、そこだけが鋭い眼光で束ねていた。  
 高く響く靴音が、彼女の怒りを伝えている。理由はあった。  
 やがてその理由が、曲がり角の向こうから、のこのことやって来た。  
 
「クリストファー。クリス!」  
 信じられないほどだらしなく制服を着こなした青年は、女性士官の声で立ち止まり、よお、と片手を振った。  
「どうした、ディアーナ。今日はおめでたい日だったんだろ」  
 ディアーナ・シルヴァネールは、顔をしかめると、青年ことクリストファー・オーディネルに抗議する。  
「私をディアーナと呼ぶな、いつも言っているだろう。私はシルヴァネール総領であり、他の何者でもないのだ」  
 何度も繰り返したやり取りなのだろう、ほとんど懇願めいた口調だったのだが、  
「馬鹿を言え。紙に包んだ薔薇の匂いを隠せぬように、君がいくら自身を覆ったところで」  
 そっと右手を取る。馬鹿な言動のくせに、案外様になっていた。  
「美しさが香るのさ、ディアーナ」  
 シルヴァネールの左手が閃き、クリストファーのテンプルを鋭いフックで打ち抜く。  
「また同じことを私に言わせたときは顎を砕く」  
 うずくまるクリスに対し、自白を迫る拷問吏のように容赦なくシルヴァネールが告げた。  
 
 おおむね二人の関係はこのような物であり、殺伐としているのか仲が良いのか当人同士にもよく分からない。  
 それでも日々は過ぎるものだし、奇妙な形の付き合いにあえて名前を付けることもしないできた。  
 名前が付くことで失われてしまう何かを、シルヴァネールは恐れた。  
 すくなくとも、今日この日まではそうだった。  
 
 悶絶するクリスの中肘を掴み、なかば引き摺るようにして、シルヴァネールは中庭まで歩く。  
 痛い痛い、君の愛情表現は過激すぎると泣き喚くこの男のどこに、自分が時間と心を割く必要があるのか考え、  
答えに行き当たりそうになって慌てて首を振る。  
 そんなはずはない。シルヴァネール卿の身に、そのような事は起こらない。  
「おい、どこまで連れて行くつもりだ」  
 我に返る。既に中庭へ到着していた。  
「おお、まさかこのままいかがわしい場所へ俺を連れ込もうというのか!  
いかん、いかんぞディアーナ、愛し合うにも段階というものが」  
 必要以上のスナップを効かせて、クリスの体を解放してやる。  
 シルヴァネールは筋骨たくましい男性並みの膂力がある。クリスは勢い余って木にぶつかり、潰れた蛙の声で鳴いた。  
 
「で、なぜだ」  
「なぜって、何がだ。この間の娘なら避妊はちゃんと」  
「そうではない!」  
 叩きつけられた拳と怒声で、木の幹が揺れる。  
「どうしてロイヤルガードの座をアルフへ譲った。お前の剣をもってすれば、容易くガードの称号は得られたはずだぞ」  
「血相変えて、何を聞かれるのかと身構えてみればそんなことか」  
 
 たちまちシルヴァネールの背後から怒気がたちのぼると、  
「そんなこと、だと」  
 精神を起爆した。  
 胸ぐらを掴む。二人の背は近く、同じ高さで顔が迫る。  
「お前の言うそんなことのために、どれほどの人間がどれだけの努力を払っているか分かっているのか」  
「言い換えたほうがいいぜ、ディアーナ。『私がどれだけの努力を』だろ」  
 頬に朱が差すのを感じた。ある真実をえぐる言葉だった。ひどく、こたえた。  
「勘違いするな。俺は君や弟を嘲る為にガードを蹴るわけじゃない」  
 いつの間にか男のニヤケ面は消え、戦士の決意が代わりに表れていた。  
「これは道だ。選ばれるべくして選ばれる、俺のための道なんだ」  
 呆然とクリスの瞳を見つめる。  
 生半な覚悟ではないことは察せられた。  
 しかし、何が彼を駆り立てたのか、その正体までは掴めなかった。  
 ついに彼の魂まで手が届かないことが分かると、シルヴァネールの胸に悲しみが湧いた。  
 手を、放す。  
 そこでようやく、シルヴァネールは自身の本当の望みに気付いた。  
 口をついたのは、別の言葉だ。  
「これからどうするのだ、クリス」  
 乱れた襟元も直さないまま、クリスが答える。  
「弟を手伝うさ。そうさな、密偵の真似事でもしてみるか。  
落ちこぼれた失意の長男が無頼の遊び人と決め込んだところで、誰が疑うものでもないだろうしな」  
「そうか。その」  
「ん?」  
「ら、乱暴なことをしてすまなかった」  
 俯き加減で謝るシルヴァネールに、  
「いやあ、君のは乱暴というより暴力そのものだな」  
 いつもの軽口が返り、  
「馬鹿者っ!」  
 渾身の右ストレートが、クリスの顎を捉えた。  
 
 夕陽も落ち、ただ暗闇だけの中庭にシルヴァネールは独りで立っている。  
 クリストファーの、とても剛剣を遣うとは思えぬ細身の背中を思い出す。  
 あの背中は、去っていった。  
 私とは異なる道へと行ってしまった。  
「ずっと」  
 そう、ロイヤルガードに成りさえすれば。  
「ずっと一緒に居られると」  
 二人の時間は続くのだと、心のどこかで信じていた。  
 だから、裏切られたと思った。彼は私を捨てていくのだと思った。  
 彼にしてみれば、身勝手な話もいいところだ。  
 恋することを、始めようともしなかったのに。  
 
 ぐるりと首をめぐらし、士官学校の古ぼけた校舎を見渡す。シルヴァネールの鋭敏な五感は、暗闇もそれほど苦にしない。  
 私たちは既に、この場所を巣立った鳥なのだ。  
 どんなに懐かしくとも、ここは帰っていくための場所ではない。  
 そしてどうやら青年は、一足速く大人になりつつある。  
 負けるものかと気合を入れるしかなかった。  
 
「でもクリス、ひとつだけ言わせてほしい」  
 初めて出会ったときから、最後まで変わらなかったことがある。  
「私をディアーナと呼び続けたのは、あなただけだった」  
 クリスも辿った玄関までの道のりを、シルヴァネールは進みだした。  
 
 
                           おわり  
 

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