「もう一つ賭けをせんか? 戻ってくるかどうか」  
「いいでしょう。では、私は戻ってくるほうに賭けます」  
「……。私もそちらに賭けるつもりだったのじゃが。ううむ」  
「賭けになりませんな」  
 
 
 1  
 
 戻ってきた。  
 頬を撫でる風にさえ、リレは遠い記憶を呼び覚まされる。  
 今歩いている廊下も、柱の傷も、ここから見える空の青さも、何もかもこの学校の生徒だった  
頃と変わっていない。  
 昔と同じ匂いの空気に混じって、魔法使い見習いの少年少女の声がリレの元に届く。  
学び舎はやはり、活気があってこそだ。お喋りしながら廊下をすれ違う女子生徒たちの姿に、  
かつての自分もあんな風だったなと、顔が綻んでしまう。  
 
 
「……あ、先生!」  
 ガンメルに貸してもらった部屋に帰る途中、リレは中庭前の廊下で師の姿を見つけた。  
「おや、どちらにお出かけでしたか?」  
 教え子の声に、アドヴォカートは足を止めた。彼女の在校中と変わらぬ姿、変わらぬ態度で  
振舞う黒魔術の教師に、リレは懐かしさでついつい目を細める。そのまま傍に近寄った。  
 思えばここにいた頃も、こんな風に呼び止めたものだ。  
「シャルトリューズ先生の研究室に。新しいキメラの生成方法を見せてもらいました」  
「学生どもにあなたの勤勉さを見習わせたいものです。向学心のない生徒の相手など  
時間の浪費でしかありませんから」  
 アドヴォカートは呆れ顔で不満をこぼした。先程の出来事だったのだろうかと思ったリレが  
尋ねると、彼は否定した。  
「幸運にも無知な質問で煩わされずに済みましたよ」  
 
 会話を続ける二人を、通りがかった男子生徒がもの珍しそうに眺めている。視線に気づいた  
アドヴォカートがちらりと見やると、生徒は青くなって足早に去っていった。  
「今の男の子、私が珍しいのね。確かに、悪魔に魂を奪われなかったのは私くらいかも」  
「あの時はまんまとしてやられたわけですな。ひどい話だ、せっかく上等の魂が私の抵当に  
入っていたのに」  
 
 逃がした魚は大きいとばかりに、アドヴォカートは大げさにため息をついた。  
 賢者の石が作り出した時の牢獄を脱した後、小さな鍵のグリモアを入手したいきさつを  
話したところ、彼がやたらと悔しがっていたのをリレは思い出した。  
「……リレ・ブラウ」  
 名前を呼ばれて、リレは反射的に顔を上げる。  
「日が沈んだら、この階で一番北の階段に来なさい」  
「夜に……ですか? ご用向きは――」  
「おお、リレくん。アドヴォカートも」  
 
 リレの問いは、しかし、途中で遮られた。廊下の向かいからこちらのほうに、白髪白髭の  
老人がゆっくりと近づいてくる。老人――校長であるガンメルは、ずいぶんと出世した卒業生に  
孫でも見るかのように微笑んだ。  
「ガンメル先生まで」  
「なに、通りがけに姿が見えたのでな。……どうしたアドヴォカート、不服そうな顔をしおって」  
「……私としたことが、先程授業を行った教室に忘れ物をして来たようです。失礼」  
「え? さっきは何もなかったって……ちょっと、先生!?」  
 アドヴォカートはリレが止めるより早く身を翻していた。遠ざかっていくアドヴォカートの背を  
見やるガンメルの顔に、罪悪感らしきものが混じった苦笑いが浮かんでいる。  
「少し恨みを買ってしまったようじゃな」  
 
 
 二人の教師の間で半ば板挟みのような心地だったリレは、老先生の声でようやく我に返った。  
 アドヴォカートの後を追うべきだったと、彼の姿がとうに見えなくなってから今更のように  
思い至る。ガンメルを置いて今から探しに行くのはちょっと気まずい。  
 ……結局、何の用だったのか聞かずじまいになってしまった。  
「今しがたまで妙に上機嫌に見えたからのう。アドヴォカートも、リレくんが学校におった頃が  
懐かしいのじゃろうな。ところで、仕事はどうかね」   
 話を振られて、リレは内心を気取られぬように返事をする。  
「順調ですわ。でも仕事そのものより、人間関係のほうがずっと難しいです」  
 出世も金も絡む場所だ。当然、嫉妬や敵意だって生まれる。“大賢者ガンメル・ドラスクの  
紹介で現れた若き天才”に皆が好意的かというと、必ずしもそうではない。  
 つい職場の愚痴を口走りそうになった時、近くの階段の上から在校生の少年が、分厚い  
グリモアを抱えてぱたぱたと駆け寄って来た。  
「ガンメル先生、質問があるんですが……あれ、そちらの女の人、新任の先生?」  
「はじめまして。私はリレ・ブラウ。この学校の卒業生です」  
 
 にこにこしながら、リレは金髪の少年に話しかけた。在校期間が短かったせいで、後輩と話す  
機会に乏しかった彼女の眼には新鮮に映る。彼はどことなく、昔の弟に似ていた。  
「ふむ、せっかくじゃから、教えてやってはもらえんかな」  
 少年が開いて差し出したページを指差して、老先生はリレに言う。リレは快諾し、精霊魔法の  
魔法陣についての質問に答えた。  
 
 
「ありがとうございました、リレ先生!」  
 大きな声で礼を言うと、少年は来た時と同じようにぱたぱたと走り去っていった。途中で  
転ばないかと、見ている自分がはらはらさせられるような勢いだ。  
「騒々しい小僧ですまなんだな。しかしどうじゃろう、この学校に戻ってきてはくれんかの。  
ここで教壇に立つのも、悪くはあるまいて」  
 今のやり取りが微笑ましかったのか、ガンメルは自らの白い髭を撫でながら言う。  
「でも魔法院の仕事がありますから。紹介してくださったのは、先生ご自身ですよ」  
「いや、何もすぐにとは言わんよ。じゃが、年寄りの戯言を覚えておいてはもらえんかな。  
私がこの学校を設立したのは、後継者たる魔法使いを育てるため。こうして子供たちの相手を  
するのも、先達の大事な務めだと思わんかね」  
「……」  
「それにリレくんなら、他の先生方も大歓迎じゃろう」  
「先生、まさか、どこかお体が……」  
「これこれ、まだ若いもんには負けんわい」  
 呵々と笑い出したガンメルの様子に、リレはほっと胸をなでおろした。  
 苦笑いを浮かべて、改めて老先生の顔を見る。病気には見えなかった。健勝で何よりだ。  
「急にそんなお話をなさるんですもの、驚かされましたわ」  
 ……それでも“後継者”という言葉には、引っかかるものを感じる。  
 単に自分が「人間関係が難しい」などと言ったから、教職を勧めたに過ぎないのだろうか。  
 それならば良いのだが……  
 
 ふと、日が傾いてきたことに気がついた。研究室に行ってくるだけのはずが、いつの間にか  
長々と時間を費やしてしまっている。  
「すみません先生、そろそろ失礼します。ガフが、退屈だって怒ってるかもしれません」  
「ふふ、そうじゃな。明日もあるのに、今日すべて喋ってしまうのは惜しい。せっかくこんな  
辺境まで来たんじゃ、息抜きだと思ってゆっくりしていきなされ」  
 老先生に別れの挨拶を述べて、リレは来客用の部屋へ向かった。  
 部屋で留守番のガフがさぞ待ちくたびれているだろう。  
 
    
「……何の用だったのかな、アドヴォカート先生」  
 独り言ちて、リレは足を止めた。こつこつと響いていた彼女のブーツの音さえなくなり、  
辺りは静寂に包まれる。時は既に夕刻。生徒は部屋に戻ってしまっていて廊下には人気がない。  
 自分がいるから上機嫌……ガンメルはそう言っていた。  
 気の遠くなるような永い時間を過ごしてきただろうから、人間に嫌われるのなんて  
もう慣れっこだと思うけれど、それでも自分を嫌っている人間より、好意的な人間の近くに  
いるほうがずっと気分が良いに違いない。  
 そういえば、現在この塔の中で彼に好意的なのは、契約をしている老先生だけだ。  
 リレの在学中も、大抵の生徒はその恐ろしい素性ゆえ、用がない限り彼には近づかなかった。  
面白がって話相手になっていた自分は例外なのだろう。そしてそれはきっと、今でも同じだ。  
 先程ガンメルは、この学校で教壇に立つのはどうかと勧めてきた。あまり考えたくはないが、  
もし老先生が倒れたら、教師が一度に二人いなくなる。  
 ガンメル亡き後、アドヴォカートが学校に残る理由がない。  
 
 口から溜息が一つ漏れた。  
(……だからあんな話を。ずるいですわ、ガンメル先生)  
 確かに後任を誰にするかは揉め事になるだろうから、さっさと決めておくのが無難ではあるし、  
同時に教師が一人いなくなるのも防ぐことは出来るだろうけれど……。  
「これじゃ引き受けるしかありません!」  
 リレは思わず声に出していた。  
 ……己の責任感やら義務感やらに、多かれ少なかれうんざりしながら。  
 
 
 2  
 
 夜の帳がすっぽりと地上を包み、部屋から明かりがちらちらと漏れ始めた。  
 壁や床が冷え冷えとして、塔は昼間の喧騒とはまた違う一面を見せる。魔王の居城だった  
かつての名残か、塔内をうろつく霊や悪魔たちのささやきと息づかいが聞こえてくるようだ。  
 少し肌寒い夜の廊下を抜けて、リレは中庭北の階段の前に来た。流石に教師の呼び出しを  
すっぽかすのはきまりが悪い。  
「……早いですね」  
 リレの到着より少し遅れて、アドヴォカートは現れた。  
「師を待たせないのは当然の配慮です。あなたは礼儀というものを弁えている」  
「え、ええ……。ところで、どんなご用ですか?」  
「ついて来なさい」  
 言い終わる前に階段を上り始めた教師の後を、リレは慌てて追った。  
 
     
「――いい月ですね。こんな場所、初めて来ました」  
 案内されたのは、ここの生徒だった頃はほとんど来なかった一角の、それもずいぶん階段を  
上った先だった。塔の内部、というには天井がない。最初から造っていなかったのか、それとも  
何らかの理由で崩れたのか。位置は塔の外周にあたるようだ。見上げれば天には満月、  
視線を下ろせば階下の部屋から無数の明かり。夜の静けさと澄んだ空気が、この幻想的な  
舞台を引き立たせるようだった。  
 つまりこれを見せたかったのか。  
「あなたがいた頃は、このあたりにはまだカルヴァドスの魔法が残っていましたからな。最近  
教室を増やす必要が出てきたので、ガンメルが“掃除”したんですよ」  
 アドヴォカートは諸手を広げて、げんなりした口ぶりで続けた。  
「私も駆り出されました」  
 
「そのとき見つけた場所、ですか。いいところですね。月に手を伸ばしても届かないけど」  
「今のうちだけですよ。そのうちここも生徒に占拠されるでしょう。魔女ルジェの霊がいた頃は、  
夜中に出歩く生徒も少なかったのですが」  
 確かに、学生カップルのデートスポットに転じる可能性は高そうだ。  
 この塔は変わらないと思っていたけど、やっぱり少しずつ変わっている。  
 
「……先生はお変わりありませんのね」  
 目の前の相手は、塔以上に永い間変わっていないのだろう。  
 そしておそらくこれからもずっと変わらない。  
「あなたは変わりましたな。周囲の男どもが放っておかないでしょう」  
「そこまででもないですよ。みんな大魔法官の肩書きに気後れするらしくて。このままじゃ  
弟の方が先に結婚――」  
 才女が陥りがちな苦境を吐露するリレがそこで口をつぐんだのは、傍らの教師がくつくつと  
笑い出したのに気づいたからだった。  
 彼の同情を買う気など端からないが、しかし笑われるのは女として複雑だ。  
「もう……ひどいですわ先生、他人事だと思って」  
 少しむくれた彼女に、アドヴォカートは失礼、と一言詫びて、普段どおりの口調で告げた。  
「それならこの学校に戻って来てはいかがです? 上手くやればオパールネラとハイラムのように  
なれますよ」  
「……」  
 
 ……つまり、教師になって男子生徒と恋愛をしろ、ということだろうか。転職の動機としては  
ちょっと不純な気がする。  
 
 それにしても、この教師にまで塔に戻ってくるよう勧められるとは。  
 リレは改めてアドヴォカートの顔色を窺った。例によってこちらの反応を楽しんでいるようだ。  
 要は自分が色恋沙汰でおろおろする様が見たくて仕方がないのだろう。  
 彼はそういう為人だ。  
 見世物にされているようで、リレは何だか腹立たしかった。  
 当事者でないものの余裕が、鼻についた。  
 
 
「きゃ……っ」   
 急に風が吹いた。リレの高帽子が飛び、後頭部で髪を結わえていた紐が解け、長い髪が  
ばさりと広がる。  
「あ、いけない、帽子……ありがとうございます」  
 拾ってくれたアドヴォカートに礼を言って、帽子を受け取る。  
(……?)  
 被り直しながら、何を見ているのかと彼の視線を追った。どうやら見比べているらしかった。  
 月と、月と同じく金色のリレの髪を。  
 
 
「……そろそろ帰りますか。長いこと夜風に当たっていては風邪を召します」  
「でも今来たばかりです」  
「部屋まで送りましょう。……どうかしたのですか」  
 表情を曇らせた教え子に、アドヴォカートは何食わぬ顔で聞く。  
 
 
「……先生」  
 リレは思った。彼の態度は、見物者であるがゆえだと。  
 夜に自分から誘っておきながら、他人事のように言うのが腹立たしかった。  
 ならばいっそのこと。  
 我関せずと傍観に徹する嫌味な見物人を、舞台の上に引っ張り上げてみようか。  
 
 ――きっかけは、ちっぽけな反感に灯った、小指の先程の小さな火。   
 
 
 アドヴォカートの服の裾をくいと掴んで、リレは唇を動かし、静かに告げた。  
「お得意のつまみ食いはなさらないのですか?」  
 
    
 口をついて出てきた言葉に、自分の事ながら驚いた。よくもまあ大胆なことを。  
 言ってしまった後で急激に恥ずかしくなったが、最早後には引けない。確実に彼に聞こえている。  
「……本気で言っているのですか?」  
 アドヴォカートは少々面食らったようだったが、口調は咎めても嘲笑ってもいなかった。状況を  
楽しんでいるらしい。  
 次は何を言い出すのかと、嬉々としてこちらを眺めてくる。退屈させるなという、言外の脅し。  
 
「先生でも手折れぬ花がおありですか? ……それとも、手折る価値もありませんか」  
 あの長い五日間の一節で、彼がどんな貞女でも口説き落とすと豪語していたことを思い出す。   
とはいえ、悪魔といえど好みはあるとも語っていたが。  
 リレを見下ろす彼は、どこか嗜虐的な雰囲気をたたえていた。  
 学生時代より幾分か背は伸びたが、それでも自分が見下ろされる構図なのは変わらない。  
 と、リレの顔にアドヴォカートの手が触れた。人にあらざる者に対する本能的な危機感が  
背筋を撫でたのか、リレは服を掴んでいた手を即座に引っ込める。  
「とんでもない卒業生だ。教師を挑発しますか」  
 面白いおもちゃでも見つけたように、悪魔は教え子の双眸を覗き込んだ。  
「結構な申し出ですが、また何か企んでいるのではありませんか」  
「そ、そんなこと……」  
 疑われたのにむっとしたが、小さな鍵がらみの契約の事がある。自分は賢者の石のお陰で  
命拾いしたが、彼にしてみれば魂を貰い受ける話が苦々しくも反故になったわけだ。  
 ……警戒されるのも、仕方ないことかもしれない。  
 
 悪魔の手はそのままリレの頬をゆっくり撫でて下に降り、首に触れる。  
 尖った爪が喉元に当たって、ぞくりと総毛立つ感覚がした。  
 喉を捌く、胸を引き裂く……そんなところか。夜風で冷えたリレの唇が、震えた。  
 それでも、肌に食い入る爪の痛さも、我が身を案じるゆえの恐怖もできうる限り押さえ込んで、  
努めて平静に、対峙した相手に告げる。  
「アドヴォカート先生ほどの上位の悪魔なら、魔法使いの女一人、恐れることはないでしょう。  
それに、ギムレットのように、あなたと敵対する理由はありません」  
 アドヴォカートは動かなかった。ただ聞いていた。  
 リレは続けた。悪魔に臆した声ではなく、己の意思の通う声で。  
「先生の爪の鋭さは心得ていますが、死人がお好きだとは初耳です。墓場のように冷たい  
ベッドで、血まみれの女に何を語るおつもりですの」  
 そして怯えて逃げたりはしないとばかりに口の端を吊り上げた。  
 
 女が男に情を乞うにしてはいささか挑発的過ぎるリレの笑顔に、アドヴォカートは考え深げに  
しばし沈黙し――  
 
「自ら悪魔に身を委ねますか。……まったくあなたという人は」  
 ……黙考の後、リレの首元からするりと手を離した。  
 やれやれ、と苦笑しつつ。  
「あなた方が笛を吹くなら、男は踊るしかない。アダム以来、女には振り回されっぱなしだ。  
ここにいた頃も、私の姿を見るなり用もないのに走り寄ってきましたな」  
「ええ。先生も、私が来ると待ちかねたように自慢話をしてくださいました。延々と」  
 リレも穏やかに嫌味を言い返す。  
   
「まあいいでしょう。確かに死骸はつまらない。猫が死んだ鼠を喜ばないのと同じ理屈です」  
 アドヴォカートはリレの頬にかかった長い金髪を払ってやると、  
「……瑞々しく血の通う頬が一番いい」  
 彼女の耳元でそう囁いて、赤みのさした女の頬に軽く口づけた。  
 
 
 
   
 
 
 
 3  
 
「……羽の付け根を触るのはやめてください。くすぐったい」  
「でも人間に羽はありませんから、何だか気になって」  
 呼吸が少し落ち着いたと見るや、リレは再び擦り寄った。  
 月を見ていた廊下から程近い、誰も使っていない一室に、二人はいた。小振りな寝台の上で、  
裸身を晒す若い女が、同じく裸の悪魔の背から生えた一枚羽をぺたぺた触って遊んでいる。  
 空き部屋ではあるが、近々入室予定の新入生がいるのだろう。室内は掃除済みで、学生用に  
一通り揃えられた調度品は丁寧に埃を払ってある。  
 この部屋を割り当てられるはずの顔も知らぬ生徒に、リレは心の中でこっそり詫びた。  
 教師と卒業生で寝台を上下動させるなど、部屋本来の使用目的から外れること甚だしい。  
「今度は耳ですか」  
「人間の耳は尖ってはいませんから」  
 ため息などついて、アドヴォカートは彼女の手が鬱陶しいとばかりに頭を振った。  
 
     
 彼を不愉快にするつもりはない。リレは寝台を降りて、裸のまま窓に近寄る。  
 かつて自分が使っていた部屋の窓よりも大きなそれは、外が真っ暗なせいで、鏡のように  
自分の上半身を映していた。  
 少女の頃と変わらず長いまんまの金髪に、白い肌の女の裸身。膨らんで自己主張するように  
なった胸とくびれた腰は、最も分かりやすい肉体の成熟の表れか。体の内側がどうなのかは、  
さすがに外からは判断がつかない。  
「……?」  
 ふと気になって振り返ると、アドヴォカートがこちらを見ていた。  
 何やら下半身にじろじろ視線が注がれると思ったら、自らの放った白濁を眺めているらしい。  
彼女の太腿や尻、脚の間の薄い茂みにからまる迸りが独占欲や支配欲を満たすのか、  
彼は機嫌よさそうに唇に弧を描かせている。  
 獲物、あるいは戦利品を確認するようだ。リレはそんなことを思った。  
 
 
「……よかったのですか? 悪魔と睦んだ肉体では、もう人間の男と結婚など出来ませんよ」  
 からかうように、アドヴォカートはリレに尋ねてくる。  
 事が終わった後で楽しそうに言ってのけるあたりが意地悪だと感じたが、  
「それはきっと、先生に何もされなくても同じことです」  
 リレは平然といらえをした。  
 仕事上、恋愛は難しい立場になってしまったらしいから、多分嘘はついていない。  
「あなたの日常はどうも味気ないですな。今どきは修道院の尼僧でさえ、赤子の泣き声に  
手を焼いているのに」  
 途端に呆れた表情をして下世話な口上を述べると、悪魔は寝台を降りて女の傍らに来た。  
 
 リレの顔を上げさせて、唇で唇を塞ぐ。押し込まれてきた舌に、彼女は抵抗しなかった。自分の  
舌と絡ませ、少しだけ離しては再び口付ける、を繰り返す。  
 ようやく互いの顔が離れたところで、リレは大きく息を吸った。  
「……弟たちの学費も欲しかったし、紹介してくださったガンメル先生のお顔も立てないと……  
そう思って働いたら、こうなってました」  
「そういうところは相変わらずですねえ。いつもいつも他人のことで追われていて、自らを優先  
させることがない」  
 アドヴォカートの唇が、今度はリレの首筋を這った。先程の行為の最中につけられた牙の跡は  
鬱血していて、そこを舌先でつつかれると体が疼く。  
 
「ぁ……っ」  
 男の右手がの胸に伸び、手の動きに合わせて柔らかい乳房が形を変える。先端を弄ばれ、  
リレは甘いため息を漏らした。  
 身体の底から、飢える声が聞こえてくるようだった。男を欲して体の内部を撫で上げている  
ような気がして、ぞわぞわする。  
「……先生?」  
 自分の胸で遊ぶ手がふと止まって、体を離れる。  
 窓の隣に、簡素な木製の机が置かれていた。学生用に用意されたものなので、質はさほど  
良くはないが、自習に使う分には何の問題もなさそうな――そんな机。この部屋に生徒はまだ  
入室していないから、机上には勉強道具やその他の物は何もない。  
 アドヴォカートは机の上をとんとん、と指で軽く叩いている。リレが訝しげに見ていることに  
気がつくと、彼女の体を抱き寄せた。  
 
「あの、もしかして、また……ですか?」  
「いけませんか。そもそも最初に誘ってきたのはあなたですが」  
 彼は楽しそうにの太腿を撫でている。確かに、口説いたのは自分……ということになるのだろう。  
 けれど。  
「ええと……その、そう何度もは体が持たな……」  
「膨らんだ胸も、細い腰も、尻の曲線も全て、男の劣情を煽るために備わったのに」  
 こちらの言い分などお構いなしで、アドヴォカートはリレの胸に顔をうずめた。正直なところ、  
さほど体力は残っていなかったから、断るのが最善だと頭では思う。しかし、疲れているにも  
関わらず、リレの体は物欲しげにざわめいて、強い拒絶が出来ない。  
「……そしてここも」  
「! やぁ……っ」  
 
 今度は女の部分に触れられて、たまらず声を上げる。脚を広げさせられ肉芽を弄られ、  
彼女の奥からどろっと粘液が垂れていく。  
「あ……やだ、せんせぇ、あ、……はぁあ」  
 体液の絡まった指が肉芽を擦り上げてくる。その甘美な感覚に、女の腿が震えた。  
頭の中がぼうっとして、何も考えられなくなっていく。指に翻弄されて、呼応するように悩ましげな  
息を吐き出し、愉悦に喘ぐ。  
 敏感な場所に直接触れられるせいで、またも気持ちよさを引き出されていく。  
 
 リレは肢体全体を紅潮させ、瞳をうるませた。体がふらつく。  
 相手の体にすがろうとする女の手が、悪魔の尖った耳をわずかに掠めたとき。  
 
「……。変えますか」  
「かえ……る? ……やっ」  
 急に止めたかと思うと、アドヴォカートは彼女の肩に手を伸ばして体の向きを無理やり変える。  
ふらついたところに背中を軽く押され、リレは自然と机に手をついてしまった。後ろに尻を  
突き出す姿勢に、さっと羞恥が湧く。背中に口付けられたとき、ようやく彼の意図を理解した。  
 
「あ、あの、せめてその、ベッドで……」  
 女の入り口に指ではなく違うものがあてがわれ、リレはつい身をよじった。寝台の上で、散々  
自分の中を出入りしては楽しんでいたものが、もう一度侵入しようとしている。  
 けれど行為そのものを拒んで抵抗するにはならなかった。……なれなかった。昂りかけた  
体の奥が、止めないでと、続きをと訴えている。  
 己の内側が切望する。屈するしかないほど。リレは、首を後ろに向けた。  
「先生、あの、……するなら、はやく……」  
「急かしますか。それなら言いなさい。たった一言、私が欲しいと」  
「……先生が、欲し、い……」  
 催促されて応じたものの、アドヴォカートは焦らすように秘部をなぞるだけで入っては来ない。  
「もっと大きな声でお願いします」  
「アドヴォカート先生が、欲しいです……!」  
「それを三度言っていただきたい」  
 どこまで意地が悪いのだろう。だが、それでも怒る気にならなかったのは、その意地悪さに  
軽い反感と同時に彼らしさをも感じるからか。  
「アドヴォカート先生が、欲しい、です……」  
「机につかまっていなさい」  
「え、あ、ぅん……あっ」  
 
 
 腰を掴まれると反り返った屹立が挿入され、リレの体がびくりと硬直する。  
 在校時代と比べてずいぶんと形良く、大きく膨らんだ胸が机に押し付けられ、形を変える。  
机は冷たくひんやりしていて、既に体温の上がりかけていたリレには心地よかった。  
 先程絶頂を味わっているにも関わらず、膣内は再び侵入した男のそれを締め付けて、  
逃がすまいと、奥へ奥へと誘い込もうとする。  
「……あなたの中は本当に具合がいい」  
 背後からアドヴォカートがゆっくりと出入りする。そのたびごとに、リレの唇から甘い声が漏れた。  
 膣襞を擦られ、下半身がさらなる刺激を欲してうずうずする。  
 
「ああ……ん、ぁ、はぁあ、あ……っ、せんせぇ……」  
 腰の奥から湧き出てくる愉悦に応じて嬌声をあげ、首を振る。寝台の上で注ぎ込まれた白濁と  
彼女の奥から新たに溢れ出る愛蜜が混じり泡だって、女の腿を伝う。指で白い背中をなぞられて、  
リレは身体の奥底からまたもせりあがって来る快感を否定できずに喘いだ。  
「女の体は感じやすく出来ていますからな。好きなだけ快楽に溺れなさい」  
 リレの背にかぶさるようにして、耳元でアドヴォカートが囁く。  
「でも、こん……な、後ろ、ぁあ、うしろから……あ」  
 耳に息を吹きかけられ、体が反応する。  
 女の肌は火照り、だらしなく開かれた唇からは唾液が垂れ、机に染みを作っている。  
 はしたないと分かっていても、体中が疼いていた。もっと欲しい。もう一度、絶頂を迎えたい。  
 
「……先生」  
「どうかしたのですか」  
 己の記憶と寸分違わぬ、つまりは例の嫌味な口調で、アドヴォカートは聞いてきた。  
「……と」  
「と?」  
 口に出すのを少しばかり躊躇った後、愉悦でもつれる唇をリレはどうにか動かす。  
「もっと……さっきみたいに、くださ……ひゃあん!」  
 硬いものが一気に胎内に押し入って来て、我慢できなかった女の甲高い声があがった。  
勢い良く貫かれたかと思えば、内臓まで引っ張り出していくように後退する。激しくなった動きに、  
リレの息は荒くなり、体全体が汗ばんだ。  
 しかし女の体は明らかに悦んでいた。欲しかったのはこれだ、と。  
 
 
 肉の歓喜に酔う声と、淫靡な響きの水音、二つの体がぶつかる音が生まれては消える。  
「……ほら、あなたのおねだり通りにしましたよ。これが良いのでしょう?」  
 女の体の奥深くまで占拠するそれは、リレの唇から先生、と鼻にかかったような声が零れると  
さらに質量を増した。  
「あぁ……はぁ、あん、くぅ……ん、あああぁ、はい……ぃ」  
 肉槍に膣壁を擦られ、先端で最奥を突かれ、下腹部から生じた快感が体全体に響き渡る。  
リレはたまらず腰をくねらせた。  
「いやらしい姿を見せるものです。……知りませんでしたよ、ここまで好きとは」  
 普段なら聡明な彼女が、快楽に呑まれた今は何も考えられなかった。  
 首を振り、長い金髪が揺れる。混合した体液が結合部から零れ、床を卑猥に汚していた。  
 
    
     
 何度腰が打ち付けられただろう。時間の感覚などとうに失いながら、それでも貪るように  
互いの体を堪能する。どこまでが自分で、どこからが相手の体なのか、分からなくなるほど。  
 絶頂が迫り、リレの背後で男が苦しげに息を吐く。  
 ぐいと腰が奥につき込まれ、女の部分が咥え込んでいた陰茎が脈打った。白い迸りが  
どくどくと注ぎこまれる感触に、リレの胎は再び浸される。  
「や……ぁ、いゃ、あっ、あ! ……ああああぁ!」  
 そして昇りつめた女の膣肉がぎゅっと収縮し、男のそれを締め付ける。  
 彼女の全身が震え、頭の中が真っ白になり、逆らえぬ悦楽の痺れに身を任せていった。  
 
 
 
      
 
 
 
「時々……思うんです。今の私は、昔の私が望んだ姿になれたのかな、って」  
 寝台の上で寄り添いながら、リレは未だ解けないわだかまりを語り始めた。  
 賢者の石の置かれていた部屋で出会い、消えていったもう一人の自分……加えて、彼女が  
会ったという、自分でも彼女でもないリレ・ブラウ。彼女たちがどんな将来を欲していたか、  
今となっては知る由もない。――“立派な魔法使い”になることの他には。  
 リレが話し終えると、聞くだけ聞いてやったと言わんばかりの顔で、アドヴォカートは告げた。     
「少なくとも、今のあなたにはなりたくないでしょうな。喪服を召したような魂だ」  
「! ……それは、その……」  
 素っ気ない感想を寄越されて、リレは少しかちんと来た。抱いた女を慰めるくらいはしても  
いいだろうに。……しかし、確かに悩み多い未来など誰も望まない。そう思うと何だか恥ずかしく  
なって、顔を隠すように俯いた。  
 私は今、あからさまに陰鬱な顔をしていたのだろうか。  
 
 
 一つ、昏い渇望がリレの頭をもたげた。  
 彼に頼めば、救ってくれるだろう。もう一人の自分の影につきまとわれることから。   
 ――悪魔に魂を差し出せば、どんな願いでも。  
 
 心臓の動悸が早くなるのを自覚した。ごくりと唾を飲み込んで、恐る恐る顔を上げ、  
「先せ――」  
「まあ、せっかく日常から離れたのです。この機会によく考えなさい。自らのことを」  
「え? ええと……はい」  
 しかしあっけなく遮られたのに拍子抜けして、リレはつい安易な肯定をしてしまった。  
 今の自分は余程の間抜け面になっているらしい。アドヴォカートに声に出して笑われた。  
 
 
「その若さで地位も名誉も得たあなたが、満たされていないとは皮肉ですね。力を持て余して  
いるなら、王侯どもに戦でも吹っ掛けてやるのはいかがです?」  
「そういうことには興味がありません」  
「あなたが望めば世界中が手に入ります。何なら、私もお側に仕えますよ。全て仰せの如くに  
立ち働きましょう」  
「ですから興味が……」  
 自分の手を取って口付けなどしてくれるので、リレは困惑した。自分のさらなる堕落を願う  
誘惑なのか、単に興味本位なのか、それとも反応を見て楽しんでいるだけなのか、さっぱり  
判断がつかない。  
「では一切を捨てて僻地に隠遁しますか。あなたの名声を妬む輩の顔を見なくて済むように  
なりますな」  
「誰とも会わないのは寂しいですわ」  
 人里離れて暮らすというのは、確かに偉大な魔法使いの趣がある。だが孤独は少し辛い。  
「ふむ。それならこんなのは――」  
「……」  
 次々出てくる提案に返事をしながら、リレはこの問答をどう終わらせようか思案し始めた。  
 
 
(でも、結局助かった……のかな)  
 あのまま契約を切り出したら、隣にいる悪魔はさぞ喜んだことだろう。彼も惜しいことをする。  
「考える……よく考える……」  
 何度も口に出し、頭の中でも反芻した。そういえば前にも、同じようなことを言われたっけ。  
違うのは、今度は自分のために考えるということ。時間は、十分ある。  
 アドヴォカートに助言をくれたことへの礼を言うと、彼は辟易した様子で手を振った。  
「いいですか、陰気な女が近くにいてもまったく面白くありません。この私を差し置いて憂いの  
相手をするのはやめてください」  
 
    
    
 4  
 
「あー……」  
 来客用の部屋で机に向かっている最中、リレは舌打ちをした。  
 羽ペンで魔女ルジェについての調査内容を綴っていたところ、紙にインクの染みが出来て  
しまったのだ。ペン先がしけっていたのだろうか。苦い顔をして、紙を取り替える。  
「どうしたんだよ、さっきから紙くず作ってばっかりだぞ」  
 ガフに指摘されて足元を見ると、ゴミ箱が丸めた紙くずで埋まっていた。  
 
 一旦ペンを走らせるのをやめて、リレはソファでくつろいでいたエルフに尋ねてみる。  
「……ねえ、ガフはこの塔と街での生活、どっちが好き?」  
「おいら? そうだな……リレがいるならどっちでもいいぜ。でもここならガンメル様にお菓子  
もらえるし、掃除のし甲斐もあるな」  
「そう?」  
 あとはアマレットか。帰宅したら持ちかけてみよう。どんな顔をするだろう。  
 …………。  
(ええと……大丈夫、よね……?)  
 満面の笑顔で即行退職してくるアマレットを想像してしまい、リレは少々困惑した。すぐに決行  
する話ではないから、いきなり歌の仕事を辞められてもちょっと困る。  
 ……そしてもし、彼女が街に残ると言ったときには、素直に彼女の選択を受け入れよう。  
アマレットには、彼女自身の選んだ生き方をさせてあげたい。自分がそうするように。  
 魔法使いとして生きられる場所で、人と関わりあって、そして今よりは気が楽なところ。  
 結論は比較的簡単に出た。もっとも、あの辛辣な黒魔術の教師は「結局はガンメルの要望に  
応えるのですか」などと嫌味を言ってくれるだろうけれど。  
「リレ、塔に戻ってきてから楽しそうだな」  
「んー? そうねえ、やっぱり馴染みのある場所だからかな。何百年もここで過ごしたんだし」  
 机の上にペン先の替えを出し、付け替えながらリレは答える。  
   
 
「……それとさ、一つ聞いていいか?」  
「なあに?」  
「夜になると部屋を抜け出してくけど、毎晩毎晩どこに行ってるんだ?」  
「それは内緒」  
 人差し指を立てて唇に当てると、リレは再びインク壷にペン先をつけて、書類を作り始めた。  
 
    
    
 5  
   
 出立にはおあつらえ向きの朝だった。  
 着替えや書類、その他の荷物をドラゴンの背に積み終えて、リレは空を見上げる。  
 澄み切った青空。これなら、空の旅もそれなりに快適だろう。  
 
 見送りに来てくれると言っていた教師陣はまだ来ない。挨拶なしに帰るわけにもいかず、  
どうやって時間を潰そうかと考えていたところ、近くの木の根元にいた二羽の小鳥に気がついた。  
 パンくずでもあれば良かったのだが、生憎とそんなものはない。  
「あ、ガフがお菓子いっぱい持ってたわ。分けてもら……あーあ、一匹飛んでっちゃった。  
……置いてきぼり?」  
 二羽のうち片方だけがどこかに行ってしまった。その場に残された一羽を眺めていたとき、  
二人分の足音が近づいてきた。  
 
「遅れてすまなんだ、リレくん。しかし……もう行ってしまうのか。寂しくなるのう」  
「ガンメル先生……」  
「今日は泣かないのですか、リレ・ブラウ」  
「アドヴォカート先生も。……泣く?」  
「卒業の日、泣き腫らした真っ赤な目で、ドラゴンに乗るのを散々ぐずった困り者の生徒が  
いましたな、大賢者先生?」  
 アドヴォカートは意地悪い笑顔で隣のガンメルに話を振る。当時を思い出したらしいが、本人の  
前で笑うのは失礼だと思ったのか、老先生はわざとらしく咳払いをした。  
「そんなこと忘れてください! もう、ガンメル先生まで!」  
 涙ではなく恥じらいで真っ赤になって、リレは声を荒らげた。  
 
「名残惜しいが、今日のところはお別れじゃな。シャルトリューズくんにも声をかけたが、実験で  
昨夜から徹夜らしい。手が離せんようでな、アマレットくんによろしくと言付かってきた」  
「早く帰っておやりなさい。あなたのいないうちに、人間の男と会っているかもしれませんよ」  
 二人の教師の言葉に、別れのときを実感した。滞在したこの数日が、途端に遠い過去の  
出来事のように思えて切なくなる。  
 最後まで当てこすりを言わずにおれないアドヴォカートに苦笑しながら、リレは口を開いた。  
「それはそれで、彼女の生き方ですから。あの子、仕事柄すごくもてるし。……でも、好きな人が  
出来たんなら、教えてほしいです。私に気を遣わなくていいから」  
 言い終えたちょうどそのとき、ガフがドラゴンのほうから走って来た。  
 
「おーいリレ、そろそろ行くぞ。ガンメル様ぁ、どうかお元気で!」  
「それでは私もこれで。先生方、お見送りありがとうございました」  
 リレは礼を述べて、再び走ってドラゴンに向かうガフの後を、歩いてついて行く。  
 
 
「リレ・ブラウ」  
 件の尊大な声に呼び止められて、くるりとアドヴォカートのほうに向き直った。  
「悪魔の前で不幸な顔をされては、私も意地悪してやろうという気が失せます。  
少しは我侭勝手をしてみなさい」  
「ええ、先生。あなたの言うように、よく考えました。……私のことを」  
 にこりと笑って答えると、踵を返す。リレはもう振り返らなかった。  
 
 
 ばさり、と大きく羽ばたき、リレとガフを乗せたドラゴンが徐々に地上を離れる。  
 生まれながらに王者たるものの風格をもって空を悠然と旋回し、両の翼を動かす毎に銀の  
星体の塔からどんどん遠ざかっていく。  
 漆黒の森の上を飛行し、ついには小さな点のようになったドラゴンを、教師二人は完全に  
見えなくなるまで眺めていた。  
「アドヴォカート、もう一つ賭けをせんか? リレくんが戻ってくるかどうか」  
 思いついたように、ガンメルは契約相手に切り出した。  
「いいでしょう。では、私は彼女が戻ってくるほうに賭けます」  
「……。私もそちらに賭けるつもりだったのじゃが。ううむ」  
「賭けになりませんな」  
 老人と悪魔は、顔を見合わせると揃って破顔した。  
 
 
 
 
 
 塔の中に戻る前、アドヴォカートは二羽の小鳥に気がついた。  
 先刻リレが戯れていた鳥。  
 飛んでいってしまった片方が、たった今戻ってきたのだ。  
 最初はつがいなのかと思ったが、よく見るとどうも種類が違う。  
 やがて小さくさえずると、二羽は共に羽ばたいて、塔の中の他の鳥に紛れていった。  
 
 
                <了>  
 

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