淡い陽射しが注いでいた。  
空は蒼く、風が穏やかに春の香りをあちらこちらへ連れていく。  
小鳥のさえずりが鼓膜を震わせ、色とりどりに咲く花は見る者の目を楽しませた。  
 
うららかな、春。  
 
そう。季節は、あくまで平和的だった。  
 
 
 
聖マルグリット大図書館。悠久の時を静かに過ごす、壮大なる知性の都。  
内部は迷路のように階段が点在し、いちばん上には、かつての学園の創始者でもある国王が、愛人との逢い引きの為に作らせた秘密の部屋があった。  
その秘密の部屋は、情事に耽ったであろうベットの影も形もなく、南国の植物が繁茂する植物園となっている。  
 
そしてそこには、極上のビスクドールと見紛う少女─ヴィクトリカ・ド・ブロワがいた。  
陶器のような白い肌、長い金色の髪は天窓から差し込む春の陽に輝き、対照的に、碧色の眼は深く、冷たさと知性を匂わせた。  
ヴィクトリカは頬張っていたマカロンを嚥下し、パイプをぷかり、と吸い、目の前にずらり並んだ書物の一冊をめくった所で、  
「ふむ…?久城め、遅いな」  
いつもなら東洋人の少年─久城一弥がやってきていてもいい時間だろうことに気付いた。  
「あぁ……退屈だ…!」  
低くしわがれた声で唸り、本の一冊を投げ飛ばす。  
「退屈ったら退屈なのだ!遅いぞ久城!」  
「それは悪かったね、ヴィクトリカ」  
「!?」  
急な背後からの声に、ヴィクトリカが柄にもなく驚いたようにいつの間にやら登ってきていた一弥を振り仰いだ。  
それからむむぅ、と頬を膨らませ、  
「図書館に入る時に一言ぐらい無いのかね?」  
「ごめん……うっかりしてた」  
「……………む?」  
何か、おかしい。  
久城の、様子が。  
いつものように「ヴィクトリカー?」と呼ばなかったし、階段を歩く規則正しい靴音すらしなかった。  
なんというか、元気が無い。  
少しばかり目元が赤い。  
若干服装が乱れている気もする。  
しかし、知恵の泉はなにも導き出さない。  
だがまぁそのうちまたいつものようにつまらん事を宣い始めるだろう、とヴィクトリカは手近な本を拾い、ページに目を落とした。  
 
 
静寂。  
 
 
幾十分経っても一弥が口を開く気配はない。  
思い詰めたように唇を噛み締め、部屋の隅に座り込んでいる。  
その様子を一瞥すると、ヴィクトリカはふん、と鼻を鳴らしまた本に目を落とした。  
 
 
静寂。  
 
 
だんだん、ヴィクトリカは耐え切れなくなってきた。  
何だというのだ。今日の久城は。  
「久城」  
「・・・・・・・・・・・・・・」  
「おい久城」  
「・・・・・なんだい?ヴィクトリカ」  
「今日のその暗澹ぶりは何かね、君。君は私の為にどうでもいい俗物的な話を飽きもせずするのが日課では無かったのかね?」  
「ぅん・・・・・ねぇ、隣に行ってもいいかい?」  
「む?ぅ、うむ」  
一弥はいつものキビキビした動作ではなくどこか弱々しく立ち上がると、周りに散らばる書物を除けてヴィクトリカの右側に小さく正座した。  
 
 
──また、静寂が訪れる。  
 
 
ヴィクトリカが訝しげに一弥を見る。そして驚きに深緑の瞳を見開いた。  
一弥の目尻に、うっすら透明の縁が掛かっている。  
「く、久城・・・?」  
ヴィクトリカは、一弥の涙を初めて見た。  
正座した膝の上に固く握り締めた拳を置き、ぎゅっと閉じた眼から涙が零れる様が、とても痛々しい。  
「ぁ、う・・・く、じょう・・・・・?」  
声も上げずただ涙を流す一弥を、どうしたらいいのかわからない。  
膨大な知識と知恵の泉を持つはずのヴィクトリカは、どうしたものかと、大いにうろたえた。  
そうして暫く逡巡した挙げ句、フリルに包まれた小さな身体で怖々と、しかし柔かく柔かく、一弥を抱きしめた。  
かつてこの優しい少年が自分にしてくれたように。  
ヴィクトリカもまた、不器用ながらに、優しさを伝えようとした。  
そして、そこで初めて気が緩んだように、一弥は声を幽かに上げて、泣いた。  
 
 
「ありがと、ヴィクトリカ」  
不意に、ようやく落ち着いてきた一弥が言った。  
「ん…、ぁ。訳も話さぬままいきなり泣くな、この軟弱者が…!」  
ヴィクトリカは、急に一弥を抱き締めていた自分が恥ずかしくなり、ばっ、と身体を放した。フリルがぶわりと大きく揺れる。  
思わず薔薇色の頬がさらに赤みを増した。  
しかしその様子には気付かず、一弥がぽつりと言った。  
「軟弱者かぁ……」  
そして、言葉の意味を深く深く味わうかのように黙り、少し苦笑いっぽく微笑んだ。  
「君の言う事は、本当にいつも、正しいんだなぁ」  
あはは、と自虐的な渇いた笑いが静かな植物園に流れた。  
天窓から差し込む陽射しが、二人を取り巻く空気を暖めている。  
やがて一弥は、誰に言うでも無いように話し始めた。  
「──僕ね、さっき、アブリルに襲われたんだ」  
「・・・・・・・・・・・・・・・」  
「アブリルが倉庫に行こうって。また新しい怪談でも調べるのかと思ってたんだ。でも違った。暗い奥まで入ると、押し倒された。」  
「・・・・・・・・・・・・・・・」  
「真っ暗な中でアブリルが僕に馬乗りになってることだけは分かった。止めようとしたら・・・・・・キスをされた」  
「・・・・・・・・・・・・・・・」  
「耳元で『久城くんは私のだもん。灰色狼の娘になんか渡さない』って囁かれて、それから・・・・・・・」  
一弥は一旦口をつぐみ、深呼吸を一度すると、続けた。  
「僕はされるがままだった。怖かった。それでも、アブリルに触られて、身体は気持ちよくなって、でも心は全くついていかなかくて、・・・・・」  
 
 
シン、とまた、一時の静寂が下りる。  
 
 
「僕は、君が言う通りの人間だったんだ」  
一弥が再び口を開く。  
「軟弱者でならず者でけだもので、オマケに人の気持ちの分からないわからず屋だったんだ。アブリルにも言われた。『好きなのにどうして分かってくれないの』、って。アブリル、泣いてるみたいだった・・・・」  
それから。僕は自分っていう人間にがっかりしたよ、と。一弥は呟いた。  
あの涙は。情けなくて、出た。哀しくて、出た。そして、―・・・安心して、出たんだ。と。  
 
「君の気持ちはどうなんだ?」  
「・・・・・・え?」  
「君の気持ちだよ、久城。君自身、あいつをどう思っているのかね?」  
今まで黙っていたヴィクトリカの急な問い掛けに、一弥は素直に答えた。  
「アブリルは、好きさ。勿論、友達としてだけど」  
「そうか」  
それからヴィクトリカは憎々しげに眼を細め、吐き捨てるように告げた。  
「ちなみに私の気持ちを教えてやろう。・・・『許せない』。」  
カツ、と一歩踏み出し正座している一弥の前に立つ。  
「あの屁こきいもりめ…!久城は私のだ!絶対にやるものかっ!」  
ヴィクトリカが低く強く叫んだ。  
「『久城は私の』、だと!?分不相応にも程がある!あいつにはこれから、ありとあらゆる恐怖を味合わせてやる…!!」  
「それにだな、」と続ける声が途端に震える。  
それを聞き、どうしたのかとヴィクトリカの顔を見上げて、一弥は息を呑んだ。  
今度は、ヴィクトリカが泣いていた。  
 
碧色の瞳から水晶が溶け出したような涙が零れて肌に跡を描く。  
「君も君だ久城…!もう少し私の下僕だという自覚を持ちたまえよ、君!!」  
ぼろぼろと涙が頬を伝い、落ちてフリルに染みを作り出した。  
「簡単に奪われたりするな久城・・・!お前は・・・私のだ!!」  
普段恐ろしく冷たい空気を纏った彼女からは想像がつかないぐらいに泣きじゃくり、ひっくひっく、としゃくり上げる。  
その様子を見て、一弥は胸がいっぱいになるのを感じた。  
『ヴィクトリカは、僕を必要としてくれてる』。  
それが、なによりも嬉しかった。  
「なんとか言ったらどうだ、久城…!」  
ぅ、うん、と頷き、一弥はどもりながら口を開く。  
「ぼ、僕が好きな女のコは一人だけさ・・・!それはね、――……」  
 
 
ざわり、  
 
 
春の風が急に流れ込み、二人の間を走り抜ける。  
開きっぱなしの本のページがめくれ、しゃらしゃらと音をたて、一弥が呟くように告げた想い人の名を掻き消した。  
 
 
「・・・・・・・・・・聞こえん」  
ヴィクトリカがむすっ、と文句を言うが、一弥はもう真っ赤になっていて、今一度言える様子ではなかった。  
「久城」  
こちらへこい、と指で示す。  
膝立ちになって近寄る一弥。  
ヴィクトリカは、手の届く範囲へ一弥がやってくるのを見計らい、後ろへ押し倒した。  
一弥が、一日に二回も女のコに押し倒されるのはどうなんだろう、とか考え起き上がろうとすると、ヴィクトリカが一弥に馬乗りになった。  
そのまま、ぐっ、と口付けられる。  
「ん、んん!?」  
一弥の唇とヴィクトリカのさくらんぼのような唇が重なり、さらには中で舌が交錯した。  
暫く絡まっていた互いの唇が離れると、ヴィクトリカはなにやら表情を歪めた。  
「ん、・・・・・・屁こきいもりの味がする・・・・・・気にくわん」  
「ぇ!?そ、そんな訳な、ちょ…ッ!んんんー!」  
ヴィクトリカが一方的に一弥の口内を蹂躙し始めた。  
舌を絡め、歯茎をなぞり、自分の唾液を流し満たした。  
くちゅ、にちゅ、と口の中で音を立て合う。  
ヴィクトリカが舌を引っ込めると、今度は一弥がヴィクトリカの口中を舐った。  
んむっ!?、と予想外の反抗だったのか、ぎゅっ、と一弥にしがみついてくる。  
ヴィクトリカの口の中は甘く、微かにパイプの香りがした。  
それは中毒性のあるお菓子のようで、何度も何度も、唇を、舌を、唾液を、求めあった。  
「っぷは…!久城、はぁはぁ…君という男は、随分と、はぁ…飢えているよう、だな…」  
「ヴィクトリカこそ、はぁっ…思いの外、積極的だよ…!」  
二人の顔は真っ赤に染まり、それは決して落ち始めた春の夕日の所為では無かった。  
想い合う二人─どちらも自分の想いを伝えた訳ではないが─は、ここまでくると歯止めが効かない。  
互いが互いに互いの身体を欲していた。  
「ぁ、ね、ねぇ。僕、このフリルの脱がし方がよく分かんないんだけど…?」  
「ならフリルごと私を抱け」  
「ええっ!?……ぼ、僕は『ヴィクトリカ』に触れたいんだけど…」  
何気ない一弥の一言で、ぼっ、とヴィクトリカは熟れ過ぎた苺のように顔を真っ赤にした。  
「な、なるほど、欲情しているのだな、久城。季節は春。低俗な動物共が、最も盛る時期だからな」  
「うん…僕、ヴィクトリカに、今、その…よ、欲情してるんだ…。き、君が可愛い過ぎるから…」  
「!……むぅ・・・」  
 
一弥が押し倒された姿勢からむくりと起き上がり、きゅっ、と真っ赤なままのヴィクトリカを抱き寄せると、ヴィクトリカは、その腕に甘えるように柔らかくしな垂れかかった。  
「久城」  
耳元で囁く。  
零れる吐息は一弥の耳をくすぐり、どくどくと胸を高鳴らせた。  
「久城」  
「ん…?なぁに、ヴィクトリカ…?」  
「君も早く私の服を脱がしたまえよ」  
「ぇ…わわっ!僕の服が!君って人はいつの間に…!」  
「さぁ、早くしろ」  
 
気付けば一弥は、ジャケットが脱がされ、木綿のシャツのボタンも上から順々に─ちょっともたつきつつも─外されていた。  
「えぇっと…」  
一弥も、慌ててヴィクトリカのフリルを脱がしにかかる。  
しかし、あっという間に一弥の上半身が素肌となったのに対して、ヴィクトリカは脱がせても脱がせても、ふかふかなままの気がした。  
幾分かけて、ようやっとスモック一枚にする。  
一呼吸おいて、スモックも脱がした。  
そこで思わず、  
「・・・!」  
一弥は見入ってしまった。  
真白な肌は夕の陽射しを受けて朱く染まり、髪が金の布のようにその小さな身体を包んでいる。  
濡れた瞳にいつもの冷たさは無く、ゆらり、と深く碧色が揺れ動いた。  
「……いつまで見ているんだ、けだもの」  
「…ぁ!そ、そんなに見てないよ!ただ、き、綺麗だなぁ…って」  
言って、一弥は赤面した。  
ヴィクトリカもまた、頬を赤らめ、つい、と余所を向き、低く老女のような声色で言った。  
「早く、私に隷属するという誓いを示せよ、君」  
「隷属って・・・傲慢な言い方は止めてよ、ヴィクトリカ」  
「黙れけだもの。女であれば誰彼構わず欲情する痴れ者が」  
「・・・・・・・・・・・・・・」  
「不埒な君はだね、すべからく私に隷属を―んっ!?」  
一弥が唇を重ね、ヴィクトリカを黙らせた。  
しかしヴィクトリカはどこか嬉しそうに深緑の瞳を細め、一弥の舌を甘く受け入れた。  
一弥はヴィクトリカの小さくか細い肩に手を回し、  
ヴィクトリカは一弥の線の細いその腰に手を回す。  
壊れ物を包むように、しかし、放さないという意思のように、優しく強く、口付け合ったまま互いに抱き合った。  
 
やがて、一弥が唇から、首筋、鎖骨へと口付けの位置を滑らせた。  
ぴくん、とヴィクトリカの身体が細かに震え、一弥を抱く腕に力が篭もる。  
一弥はさらに、ヴィクトリカを抱き直し、その陶器のような白い肌に舌を這わせた。  
緩やかに膨らんだ胸をなぞり、その淡く桃色に色づいた頂を、軽く咥える。  
「んん・・・っ!」  
びく、と跳ね、ヴィクトリカは懸命に声を堪えているようだった。  
左手で抱きとめたまま、口と右手で愛撫する。  
甘噛みしたり、摘まむようにしげきを与えつつも、決して、痛くないように気を払う。  
一弥は、自身の優しさを全て注ぐように、丹念に丹念に、胸を愛撫し続けた。  
「ぁ、はぅう・・・!」  
不意にヴィクトリカが、堪えかねたように声を漏らす。  
それは低く沈んだ老女の声ではなく。甘く掠れ、今にもすすり泣きそうな儚い少女の嬌声だった。  
「ヴィクトリカ・・・・君、凄い、綺麗だよ・・・・」  
一糸纏わぬヴィクトリカの姿はさらに小さく感じられ、全身が淡く桜色に染まっていた。  
 
 

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