ばたん。  
 仕事を終えた一人の女が部屋に入った途端に布団に倒れ込んだ。そのまま寝入ったように見えたが片時経つと気怠そうに仰向けになり、  
腕を額の上に乗せてやおら瞬きを二、三した。静溢なる時が訪れるがまたしても転がる。妙に落ち着かぬ、深夜一時の事だった。  
 吉原自警団「百華」二代目頭領、死神太夫。  
 ただしあと一年もすればその肩書きの上に「元」という冠が載せられるのは流石に確実だろうと月詠は踏んでいる。いやはや歳という者は恐ろしく、  
趣味の喫煙も相まって、吉原最強の番人と謳われた彼女の技巧も体力もすっかり鈍磨線上にあった。  
(……疲れた)  
 このまま瞳を閉じるか否かは注意力を要する職に身を置く彼女にとっては死活問題に影響する上、  
月詠自身も睡魔に遵守し早々に寝たいところではあったが、それらよりもここは趣味の喫煙が先に立つ。  
やめろやめろと耳に蛸ができるほど指摘されたがこれだけは譲れないのだ。障子型の窓縁に畏まると袖から愛用のキセルを取り出し、一服する。主流煙を吸い、  
ニコチンが程よく回って多少気が解れると、ふうーと吹いた。出てきたのは呼出煙だけではなかった。  
 舞妓の歌声や琴の音色、下郎の哄笑。  
 遊女の街なんぞで奏でられる雑音は下劣極まりないと多くの人が蔑視するのが世の常だが、人生の大半を吉原で過ごした月詠にとっては子守唄も同然だった。  
夜街のピークタイムにしては普段より小音な、そこらかしこから流れてくる混沌なるハーモニーに耳を傾けながらする仕事上がりの一服はこれまた格別だと月詠はしみじみ趣に耽る。  
黒の雲霞に光を遮られた月は彼女の心情そのものだった。キセルの小さな小さな火皿の中で蝶の鱗粉ほどに勢いを亡くした火を見た月詠は、煙草盆の縁に静かに雁首を当てる。  
(風呂は……朝でいいか)  
 そう男勝りに考えるところに月詠らしさがあった。と喫煙をやめると、それまでは煙で嗅覚が利かなかったが匂いがするのだ。  
(何じゃ?)  
 月詠はすんすんと嗅いでいく。微息できくと摩訶不思議な気分になった。それでいて、どこか懐かしい。大きく吸ってみると鼻孔から肺へと至って全身が弛緩した。  
更に大きく吸うと脳髄でこれまた懐かしい感覚が蘇る――そして月詠の心の臓は罅でも入ったかのように大きく揺らいだ。  
 
 あっ―――。  
 彼女らしからぬ虚を衝かれた相好だった。「あの馥郁」は外から風に乗って漂っている。  
羽織を肩にかけると月詠は一も二もなく外に飛び出た。微かな残香を宛てに夜街を走る。  
白い息が付き纏った。まだまだ明るい表通りから如何にもな路地裏に入ると、  
匂いはどこやかしこと散漫してしまった。  
 吉原が鳳仙の独裁から解放されて十余年となる。  
 月詠は三〇と少しになって先述の通り技巧も体力も随分落ちた。  
五年前までは視線を移すのと同義ほどに造作もなかった事にさえ上手く反応できなくなって  
生傷が絶えなくなった体を日輪に指摘された。もう女手一つで一組織を切り盛りするのは限界なんでしょ、と。  
月詠自身はまだまだ現役じゃと胸を張るものの、部下達の足を引っ張る前兆さえしばしば窺える始末だ。  
 ……潮時なのかもしれんな。  
 日輪に心配をかけまいと無理をしているが迷惑をかけるようでは本末転倒だ。  
そう考えつつもズルズルズルズルとかれこれもう三年の月日が経つ。  
月詠には百華以外に居場所がないのだ。無意識の内に、この天職を取られたらわっちには  
何が残るんじゃろうという焦燥とも恐懼とも忌避とも言える危険信号が具現化し、惰性の頭領を作り出した。  
 そんな月詠の心境を察して日輪は何かと転職先や縁談等、居場所づくりに尽力を注いだが  
月詠の肌は普通の世界になかなか馴染めなかった。幼少時代、殺しの術だけを叩き込まれた彼女に  
一般常識などあるはずもなかったのだ。まして少々力がある程度で他には何もできぬ中年女の再就職先など  
そうそうあるはずがない。この頃から惨めやら悔しさやら虚しさやらが月詠の中にこびり着くようになる。  
 ところでその「縁談」だが、主に日輪の繕う見合いを指す。専業主婦でも落ち着けば首尾良く辞任できて  
幸せを手に入れられるとでも考えたのだろう。百華の構成員に類似するのは「女を捨てた」点で、  
その頭領が「女に戻る」となれば物議を醸すかもしれないが、これまで面倒を見てくれた月詠が人並みに  
幸せを掴めるのなら百華一員としては総出を上げて祝杯を掲げるところであった。  
 それが月詠と他に軋轢を生じさせる発端となった。  
 女に戻れとは即ち、月詠にとって明確な戦力外通告だったのだから。土台、否、それよりも縁談を持ち出す  
頃合いがあまりにも見計らった点が月詠の琴線に触れてしまったのだ。  
 
 坂田銀時の、戦死。  
 真偽はともかく公ではそういう事になっている。本当に死んだのかもしれないし、  
ある日ひょっこりと姿を現すかもしれない。それがネックだった。二度の救済を経て  
月詠は内心銀時に淡い恋心を抱いていたがついぞ彼の生前にそれを自覚する事はなかった。  
喪失感で、初めて気付かされたのだ。それでも外観上では月詠には一切に変化はなく  
自分の業務を淡々と熟していき、七年が経つ事となる。止まったら死ぬマグロの原理だ。  
 それからは、銀時への気持ちも花が枯れるが如く、少しずつ薄れ、萎れた。  
 だからこそ花が枯れたそのタイミングを狙って縁談を持ってくる周囲の人間に  
月詠は強烈な不快感を抱いた。無論彼女達がいつ大怪我をするかも知れぬその身を案じ、  
如何に彼女の幸せを願っているか否か。この点は月詠とて理解している。  
だがこれは理屈の問題ではなかったのだ。  
 結局何の成果も成さぬまま月詠は渋々帰宅した。匂いを呪いてシャワーを浴び、床についた。  
血のざわめきが夜更けまで醒めなかった。  
 部屋の片隅にある掛軸には則天去私とある。己を殺し自然のままに生きるという  
夏目漱石の晩年の言葉だ。自警団に身を置く月詠には滅私奉公に近い意味を持っていた。  
元々は師であるジライヤの教えに基づき掲げた物だったが今となっては悪い意味で滑稽甚だしい。  
自己嫌悪と恐懼が蔓延する。これからわっちは何をするんだろう、今のわっちは必要とされているのか、  
自分は何者なのか、と。あの頃の孤独に逆戻りしたような暗澹なる絶望感に支配される。  
 いつの間にか眠り入った月詠の寝顔に一筋の涙が乾き残っていた。  
一つ一つの事柄が程良く間隔を開けていたり、むしろ密集していたりしたら耐えていたのかもしれない。  
だが月詠を苦しめる三つのそれは絶妙な局面で発射されたものだから、寝ている合間、稀にこうしてしまうのだ。  
 ふと、物の気配がして、月詠はぎょっとし身構えた。手元にあるクナイで――いやシャワーの後寝間着に  
着替えたせいで武具は携帯していなかった。その代わりと言ってはなんだが五感が鋭敏になっていた。  
 
すんすんと鼻を利かし、先程の匂いが漂っていると知る。  
「だ、誰じゃ!?」  
 これは鉄、いや白銀の匂い。無論そんな物まで嗅ぎ分けられる訳ではないが――  
言うなれば雰囲気としての匂いだ。化粧台の前で胡坐をしている人影を見て、月詠の胸は高鳴った。  
「あ、覚めちまったか。悪りぃな、偉い老けた面で泣いてるもんだから、  
ちったあ見れるようメイクの一つでもしてやろうかと思ったんだが、オメエ白髪染めしか置いてねえじゃねえか」  
「ぬ、主は誰じゃ……?」  
「おいおいそいつはねえだろ。せっかくこうして出向いてきたっていうのによ。まったく年取るとろくな事がねえな」  
 月詠の視力が徐々に暗闇に慣れていく。次から次へと見覚えのあるシルエット、色、表情が  
脳髄に刻みつけられていく。最後に銀色の髪の毛を見て月詠は言葉を失った。  
「よう、久しぶりだな」  
「な、な、な」  
「なんだあ? 客が来たってのに挨拶もできねえのかよお前は」  
 ぎ、銀時……?  
「おう、戻ってきたぜ」  
 その時の月詠ときたら、もう訳が分からない程様々な感情に流されていた。これは夢なんだとか  
自分の妄想だとか。ただその中の最大勢力を上げると、やはり「何故また今になって」だった。  
「主は誰じゃ!? またカラクリの類か!?」  
「ああ? あーそんな事もあったな。昔が恋しいねえ」  
(……本物じゃ)  
 そこにいる坂田銀時は紛れも無く月詠の知る、等寸台の坂田銀時その人だった。が――  
(銀時はもう死んでおる。やはり夢か幻か)  
 月詠は、目を据えた。しかし目を伏せた。混乱。月詠は不甲斐なく震えが止まらなかった。  
「おーい、とりあえず酒持ってこいよ。ったく、無愛想なのはあの頃のままだな」  
「……」月詠は目の前にいる銀時が幻夢でない現なのだととりあえず認めた上でその場を去ろうとした。  
「女を侍らせたいなら遊郭にでも行きなんし。こんな萎れた女を添えるなぞ興削げる事甚だしいぞ」  
「いいや、俺の指名はお前だぜ」  
 言われて、破壊的な衝動が沸々と湧き上がり障子の一枚でも叩き割ってやろうかと震えた月詠は  
渋々と「ちょっと待ってろ」と告げて酒を持ってきた。  
「この度はご指名頂き有難う御座いやんす。死神太夫、月詠でありんす」  
 
「そういう硬っ苦しいのはいいって」  
 ごみでも払うかのように銀時は言った。  
「というか主は、本気で何をしに来たんじゃ」  
「俺はあん時のタダ酒を呑まねえと死んでも死に切れねえんだよ。いいから付き合え。  
もう一〇年以上経ってんだ。テメェも少しは飲めるようになったんだろ」  
「ま、まあ。おちょこ三口程度なら……」  
「じゃあまずはお前が注げよ。あの時は俺が注いでやったんだ。おまけに酒瓶をぶっ叩かれるわ、  
ワンサイド向いてホイ敢行されるわ。あの時の辛さときたらつい昨日の事のように思い出せるぜ」  
 ――ああ。  
 あの頃。あの時。  
 月詠のここ数年を思い起こせば、心底気が楽でいられたのはまさにあの時、あの頃の事だった。  
吉原が自由となり、ジライヤの呪縛から解き放たれ、自然と友人が増えたあの頃。  
そしてその風景には必ず銀時がいたのだ。  
「あ、ああ。じゃんじゃん呑むといい。わっちが注いでやる」  
 光源のままならぬ、夜街と月夜のそれだけが窓から入る、誠に綻ぶ月見であった。  
 その後は、文字を憚りたい。二人は一夜、体を重ねた。  
 翌朝目醒めると銀時はいなかった。薄情な奴だと月夜は一人分空いた毛布を手繰り寄せた。  
 その夜も、銀時は月詠の褥を跨ぎに赴いた。月詠は言う。  
「日輪も晴太も遊女達も皆、お前は死んだと言っている。主は本当は誰なんじゃ?」  
「俺は俺だよ。なんだ、まだパフパフしてやらねえと分からないのか」  
「……たわけが」  
 銀時は彼なりの二、三のキザな台詞を添えると、月詠の顎をくっと持ち上げて唇を重ねた。  
すると、月詠は不甲斐なく複雑な気持ちになろうとも結局は事もなく委ねてしまうのである。  
そしてあくない恋の夜が始まるのだ。  
 翌夜もそうだった。さらに翌々夜も。その次の日も。  
 ついに月詠は百華の仕事に一刻の暇を申し出た。陽が落ちると、そそくさと寝台に潜る。  
と、風のように銀時がやってくるのである。銀時の心と体に月詠は溺れていった。  
 それが、一月続いた。  
 百華に復帰して生活習慣を元に戻してからの月詠はすこぶる快調で、次第に周囲との溝も修復していった。  
心に余裕ができると物の見方も変わるもので、これまでの自分はなんと小さな事で悩んでいたのだろうと  
図らずも鼻で笑ってしまうのだ。全く融通の効かない女だったと苦笑するばかりである。  
 
 月詠の頭領辞退後は、自警団の師を兼ね、日輪の店で台屋を開く予定に収まった。  
この事に日輪をはじめ百華達は胸を一撫でしている。月詠を見て取り巻き達はしみじみこう言うのだ、  
人間やっぱり休みが重要だねえと。無論理由は別にあったが相変わらず銀時の話が彷彿すると  
哀愁どころか彼女には気遣いの言葉を添えられるし、内容も内容だったので、その内月詠は銀時の話を  
するのをやめた。  
 その夜は年を明けて最初のそれで、吉原も例に漏れず閑雲野鶴の中にあった。普段なら喧騒な吉原の夜も  
こうなれば水を打ったように閑寂だ。百華の頭領があと数月でその任を終えるのだから最後の一歩と今夜も  
気張ろうとしたが、生憎と先約があったのではいた仕方ない。  
「いやあ、最高の女を侍らせて、最高の酒をお月様の下で飲めるなんて男冥利に尽きるねえ」  
「褒めても何も出さんぞ」  
「えっ」  
「えって何だ!?」  
 何でもない、夢か幻かも未だに分からぬ銀時との戯れが月詠にとって最高の一刻だった。  
今や二人の愛柄は友人や、まして客と遊女に類する他人行儀なものではない。月詠は月詠として、  
銀時は銀時として、御台を間に挟み、互いの盃に酒を注いでは微笑み合って月を見るのだ。  
「綺麗な月だな」  
「そうじゃな」  
「あのな月詠」  
 その声音を聞いた時、月詠はとうとう来たか、来てしまったかと思わずにはいられなかった。今の銀時の存在は  
あまりにも虚ろで現実味がなさすぎる。月詠はそうした中で、どういった過程かは分からないが、  
おそらくは銀時への未練を長く断ち切れずにいたがために苦悩している自分の存在を知ったのだと  
手前勝手に憶測している。  
「実はよ――」  
 月詠はそれを遮るように言った。「待ちなんし」  
 薄々感づいてはいた。いずれこんな日がくるとは十分予想できた。  
 なのに盃の月は、揺れてしまうのだ。  
「――銀時。主には、感謝している。これで救われたのは、三度目じゃ。  
この一月、わっちは、本当に、本当に幸せじゃった……」  
 
「…………ふん、お前がそういう表情をするとはね。シメ臭くていけねえや」  
銀時は呆れた相好をして「そんじゃ最後に、一杯だけもらってお暇するかね」  
 とくとくとくと注がれる酒の音は今世の別れへの秒読み。酒は縁ぎりぎりまで入れられた。  
神妙な面立ちの銀時を見て、月詠はまだまだ知りたい事、やりたい事が山のようにあったが  
結局何も口を聞けずにいた。  
 ほら、お前のもと促され月詠は自身の盃を出すと銀時に注がせた。その後はいつも通り、  
月を見ながらちまちまと口に運ぶのだ。  
 しばらくすると、銀時の姿はもうなかった。  
 まだ温もりを残した座布団、その手前に溢れんばかりに酒の入ったおちょこだけが  
ぽつんと畏まるようにして残っている。  
 銀時?  
 銀時?  
 銀時。  
 月詠は三度だけその名を呼んだ。それからは生涯一度も、その名を口にする事はなかった。  
 呑まれなかった酒の水面には、月が一人寂しく映っている。  
 
 終  
 

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