「なにこれ、ねえなにこれ。やっちゃった、やっちゃったよオイ」
……女と褥を共にした男の、朝一番の発言としては最低最悪の部類だと思う。自覚はある。しかしそれ以上に表現の仕様がない。惚れて愛して欲もあって、それを全部誤魔化すのも慣れて、恐らくお互い様な進歩のない関係を随分続けていたはずなのに。
「なあ、目、覚めてんだろ。怒ってんの。まさか泣いてたりしないよね。銀さんちゃんと素面だったはずだし、どんだけ暑さでテンション変でも根がSでも、そんなに無体な真似はしてなかったよね」
乱れ髪のお妙は潜って隠れようにも布団もなく(暑くてそんなものかけてられるか)寝返りをうって、はだけ放題の銀時の浴衣に顔を埋めて、
「……汗臭っ」
と呟いた。
「ねえおねえさん、それもちょっと酷くない?」
「銀さんお風呂でちゃんと洗ってます? どうしてこんなに汗臭いの?」
「洗ってます! 気にしてんのこれでも! オッサン臭撲滅を念じてヘチマでガンガン洗ってます! だからお願い臭いって言わないで凹むから」
銀時は寝床近くに放り出したうちわに手を伸ばし、自分を扇ぎ、ついでにお妙も扇いでやった。ああ涼しい、とお妙は目を閉じて大人しくしている。仄かに汗ばんだうなじがなまめかしい。
「なァそんな油断しきってるとちゅうすんぞ」
「できるものならどうぞ」
ちゅ、と鼻先に口付けると半眼開けて睨まれた。
「中途半端」
「一応これでも気遣ってやってるつもりなんですけど。銀さんまだ若いからね。朝から二人で汗かくのもいいけど、それじゃお前がつらかろうと」
「つらいです。今だって痛いです。痛いし暑いし、でも思うんですけど」
「何を」
「さっきの銀さんの台詞じゃないですけど、ああやっちゃった、って」
お妙は暑いと文句を言いつつ銀時にしがみついたままだ。いろいろ問題がある。暑いし。
ああ、どうして俺は我ながら汗臭いのに、お妙はなんだかいい匂いがするんだろうなあ。
「ずっーっと、順序を守らなきゃって思ってたはずなのに」
このお堅い女が何にほだされて俺なんかに抱かれちゃったのかなあ。
「銀さんたら、どうでもいいことは死んだ魚の目してぺらぺら言えるくせに」
暑さのせいだなんてぐだぐだな理由はありえねえだろやっぱり。
「肝心なところで真顔で無自覚なんて、本当にたちが悪いわ」
あのーやっぱり俺記憶飛んでる?
お妙がこんな風に甘えてくるなんてのは、まさか暑さでおかしくなっちまったんだろうか。
「まあ銀さんったら、随分失礼な言い様じゃありません?」
考えていたことがどうやら口から漏れていたらしい。
昨夜からは想像もつかない元気さで殴られた。
* * *
昨日の昼過ぎ。新八から、仕事途中で万事屋に戻りましたと電話がかかってきたのだ。
『今日雨どいの仕事だったんですけど、神楽ちゃんが熱中症っぽくて。今銀さん一人で仕事続きしてるんです。
姉上は大丈夫ですか? ちゃんと涼しくしといてくださいね。僕今晩こっち泊まりますから。神楽ちゃん、もう落ち着いて大丈夫なんですけど、ちょっとまだ心配だから』
確かに酷い暑さだった。朦朧としてくる。仕事が盆休みに入っていたのを幸い、盥水に素足を浸し、風鈴を聴きながら庭を眺める。怠惰で世間様に申し訳ないような夏の午後。気がつくと転寝をしていた。
ただいまぁーと間延びした声が玄関から聞こえた。迎えに出てみるとコンビニの袋を提げた銀時が、首に掛けた手拭で汗をぬぐいつつ、おう生きてたか土産だ冷凍庫入れとけもう手遅れかもしんねえけど、とか言いながらいつものように上がりこんできて。
神楽ちゃん大丈夫なんですかと問うと、途中で電話入れた、新八もいるし、飯食えたみたいだから多分大丈夫、と言う。
それよかおねえさんも暑さにやられてない? 飯ちゃんと食った? そうめんでいいからちゃんと食っとけでないとまな板が……と余計なことを言い始めたので一発殴る。
大人しく殴られた銀時は一瞬真顔になり、あららパワー不足よふらふらじゃねえのお前、もうダッツでいいから食っとけ、休んどけと、妙を居間に押し返した。
コンビニ袋の中身はダッツバニラと氷あずきだった。
それ食ったら銀さんが何か晩飯作ってあげるから。もうまさかと思ったけど案の定だよ。棟梁に感謝だよ。家の中でも熱中症ってなるらしいから、うちのかみさんもこないだ危なかったんだよって言うからさ。
お前意外にその辺無頓着だし、それ言ったら続き明日でいいから嫁さんの様子見に帰ってやれって言われてさ。
誰が嫁さんですか、いつ私が嫁さんになったっていうんですか、神楽ちゃんいるじゃないですか。妙がそう言うと、銀時は後ろ頭を手拭でかき回してぼそぼそと言い訳を始めた。
嫁さんじゃねえけどポジション的にはそこは神楽よりお前だろ。神楽は新八が見ててくれてるし、ふっと心配になってきてみりゃつれないねえ。銀さんねー結構真面目に心配したんだよ。俺だって今日梯子から落ちそうな暑さだったからね。お前顔赤いし。熱出てねえだろうなおい。
無造作に額を触られてうっかりきゃっとか口走ったら、銀時は一瞬目を大きく見開いたかと思うと口元を押さえて、やべえ、と呟いた。
ご飯と、新八手製の胡瓜の糠漬と梅干、豆腐を煮て玉子でとじたのと。地味な献立をほぼ無言で食べて、片付けて。汗だくだった銀時に風呂を勧めて。その頃になってやっと妙は我に返った。
私一体何をしているんだろう。
心配してきてくれたのが嬉しかった。嫁さん呼ばわりを銀時は否定しなかったのだろうか。多分何も考えてなかったのだろうけれど、そう言われて嫌な気はしなかったらしい。自分もしなかった。そこはきっと殴る場面だったろうに。
風呂なんか勧めてしまって。様子見て、無事を確認して、ご飯食べさせて、安心して万事屋に帰って、そのはずだろうに風呂なんか勧めてしまったら、その後帰れというのもおかしな話。泊まっていくのはもっとおかしな話。
ただいまなんて言って帰ってきたから、そこから何がなんだか分からなくなってしまった。
ご飯もおいしかった。食欲もあまりなかったのだけど、なんとなく食べられた。
銀さんてば、暑さでおかしくなってしまったんじゃなかろうか。どうしたんだろうこんなに優しいなんて、本当に変。
「変じゃないでしょ。おねえさん頭の中全部声に出てるからね。嫁さんが弱ってたら旦那が労わってやらんでどうするの」
あら、いつから私は銀さんのお嫁さんになったんです?
「馬っ鹿、例えです。そりゃこういうのもいいなあと思っても現実は違うからね。そんなに甘くないからね」
私もお風呂はいってきます。
「長湯してのぼせんなよ。風呂の前にもう一杯水飲んどけ。危ないから」
わざわざ、コップに水を汲んでくれたりして。これは現実? 都合のいい妄想?
「……………あら、銀さん。いらしてたんですか」
風呂上りの浴衣姿も見慣れてしまった。居間に入って、たっぷり二十秒は黙っていたかと思うと、妙はとんでもないことを言った。
「なんでさっきまでの全てがなかったこと認定されてんの!?」
今度は湯当たりかよ全く世話の焼ける。文句を言いながら銀時は妙をちゃぶ台の前に座らせ、台所から水を汲んできて飲ませ、うちわで扇いで、そりゃもう至れり尽くせりにしてやった。
「銀さんって亭主関白志願だと思ってました」
だらりと足を崩した、浴衣から覗く脹脛が色っぽい。
「尽くすべきときは尽くすんですー。銀さんけなげだから。無視されても虐げられても乗り越えるから」
「無視されたんですか? かわいそうに、こんなに頭くるくるで目立つのに」
「天パ関係ないから! 無視してるのお前だから! まったくこんだけあからさまにしてもあしらわれたんじゃ、押し倒しても幻扱いされそうじゃね?」
「押し倒したいんですか」
「そりゃね」
まな板だろうがゴリラだろうがと続けるのが、右の耳から左の耳へ流れていく。口は茶化しても顔が真剣だ。その証拠に瞳が半分以上見えているし、眉毛がほんの少し近づいてる。
「女性全般の話として伺いますけど、銀さんは余程まな板やゴリラがお嫌いなんですね」
「いや全然女性全般じゃないでしょ。きわめて特定個人を指し示してるでしょ。嫌いじゃないねかわいそうなだけ。玉子焼も然り」
「それなのにどうして構うんです。最近じゃ吉原でもモッテモテだそうじゃありませんか。あちらにまな板はいませんでしょ?」
「モッテモテだよ最近に限らず。でも肝心のお前がこんなヘロヘロしてたんじゃ調子狂っちまうでしょ。いい男の浮気ってな時と場合をちゃんと選ぶんですぅ」
浮気。
肝心のお前。
嫁さん。
「……ちゃんと言ってもらおうだなんて、思ってたのが怠慢だったのかしら」
「怠慢は日頃の俺かもしれないけどね。どしたのお妙殴らないの。マジで具合悪いのか?」
背筋の力を抜いてしまうと、真っ直ぐ座っていられない。背に回された腕が暑苦しいが、どれだけ寄りかかっても倒れる心配がないのはいい。
「おいしっかりしろって。とりあえず布団引いてやるから寝とけ。な。ちゃんと」
ちゃんと、何だと言うのか、最後まで聞くのも億劫だった。
銀さん、と呼んで目の前にある分厚い肩に縋る。おい大丈夫かと再度掛けられる優しい声を力いっぱい振り払う。深く息を吸い込んで、小さな声だが精一杯言い切った。
「これ以上誤魔化したら、離婚します」
それが嫌なら態度で示して。ちょうど囁く息があたっただろう首筋が、一瞬面白いほどに見事な鳥肌を立てた。
言葉にしなくてもいいから、と許してあげたつもりだったのだけれど。
「……結婚前から離婚突きつけられるってすげえレアじゃね?」
銀時は力持ちだった。見かけよりさらに。
女性としては大柄な方である妙を、片腕で抱えたまま押入れを開けて布団を敷いてのけた。ただしそれが限界で、多分色々な意味で限界で、そのまま二人して受身も取れずに倒れこんだ。
しがみついたまま離れないでいたらだんだん暑苦しくなって、口は塞がれたままで呼吸困難。気分は悪くなるし汗はかくし、どうにも獣じみていると思ったが、いざ事が進んでしまうとそんなのは序の口だった。
ああきっとこれから、銀時が甘味を楽しむ姿を、その口を、自分は真顔で見られない。
* * *
「今何時ですか」
「あーっと6時半。早えな」
「暑くて寝てられません。お風呂でもつかってさっぱりしたいわ」
「一緒に入る?」
「ご冗談を」
何時の間にか着替えていたらしい銀時から、コップに入った水を渡される。冷たくておいしい。こうして水を受け取るのは、夕べから一体何度目だろう。
「あーいや、やっぱちょっと寝過ごしたな、急がねえと」
「あらどちらに?」
「万事屋に」
「ああ神楽ちゃん心配だわ。あそこは空気の通りがあまり良くないから」
妹分を案じる妙に銀時はへらへらと首を横に振った。
「違えよ。神楽は扇風機でも使ってんだろ。八っつぁんはあれは寝起きがいい子だから、今更急いでもあんまり意味ねえかもしれねえけどちょっくら行ってくらぁ」
「寝起きはいいほうが良いじゃありませんか」
「分かってないねえ。幸せに寝ぼけてる間にお許しを頂いちまったほうが被害が少ないだろうが、俺の」
「一発だけでいいですから、殴られてあげてくださいね」
「それ以上は情状酌量を願い出ます。新八最近強いもん。鼻フックデストロイヤーとか食らってみ、人間としておしまいな気分だよ。少なくとも鼻はもげるよ」
ちょうど目の前にある鼻を見て、それはちょっと勿体無いかもしれない、と妙は思った。真面目な顔でも緩んだ顔でも、鼻筋がすっきり通っているところはかなり好みなのだ。
「酌量の余地なんかあるのかしら」
「そりゃあるでしょ。告白もしてねえ好きな女に離婚を切り出されたんですよ。脅しだよ。脅迫だよ。焦って思わず計画も段取りもぱぁだよ」
「天パなだけにね」
「それ違うから! 天パがぱぁにしてんのは俺の見てくれだけだから! あ、傷ついた! 自分で言ってて傷ついた!」
ぐああと呻いてふわふわの天パをかきむしる。馬鹿なひと、と妙は呆れて言った。
「計画なんて、どうせ今日をいかになあなあにやり過ごすか程度しかなかったんでしょう。そんなの待ってたら、私が適齢期過ぎちゃうじゃありませんか」
「適齢期なんてないからね、そういう問題じゃないから」
「まな板ゴリラだからですか」
「違います。そりゃ怒ると時々ゴリラかもしれないけど……だからそこで殴るなって。適齢期なんてねえから。俺が貰う時が適齢期だから。それにお前」
折角真面目な顔して語っていたのに、そこで銀時はわざとらしい、いやらしーい顔をして見せた。
「まな板ってほどアレじゃないのに、どうして普段あんなにぎっちり押さえこむかな。嬉しい誤解よ。まあギャップってのも大事だけどさー」
「……そんな破廉恥な口は縫い閉じてしまいましょうか」
にっこり笑って拳を振り上げる。
「言動が一致してないから! 縫い閉じちゃったらご挨拶もプロポーズもできないから!」
結局縁側から蹴り出して、その拍子のあらぬ痛みに思わず障子の影に逃げ込む。自分の顔さえ恥ずかしくて見れそうにない。
あー痛ぇとか文句を言いながら銀時が立ち去るのを確認してから、妙はその場にへたり込んだ。両手で頬を覆って、呟く。
ああ、どうしよう。やっちゃった。やっちゃったわどうしましょう。
少なくとも適齢期は逃さずに済むらしい。
まあ、全部この夏の暑さのせいってことで。