広い志村邸の廊下の奥、客間は今は使われていない。姉弟以外に志村邸に泊まる者など今は銀時と神楽くらいしかおらず、それは大概療養中であったから、せめて陽の明るい南の座敷をと妙は都度布団を抱えて支度をする。  
その布団は今、仄暗い客間の押入から半ば落ちて妙の膝の上にある。  
背から覆い被さるように銀時に抱かれている。  
   
訪ねて来たのは四半時程も前か、死んだ魚のようなのとは違う力の無い眼をした男に、また傷でも開いたのかと妙は躊躇なくその黒い上着の襟元を肌蹴させて、前日の夕方に自分が巻いてやったままの包帯がわずかに赤く染まっているのを見て顔をしかめた。  
いいかげんになさいと責めるのを、男は黙って首を振り、怪我ァ開いちゃいねえと言い訳がましく呟く。良く見れば返り血のようだった。何故か、ぞっとした。  
包帯、取り替えましょう。居間に行っていてくださいな。布団を仕度しますから。傷は開かなくても熱が出てきたでしょう。必要以上に厳しく告げたのは戸惑いを隠すためだった。  
客間の押入を開け放ち、今日の昼間に干したばかりの布団を抱えて一歩下がろうとして、背中からぶつかった。気配も無かった。取り落とした布団が崩れて落ちて、妙の両腕は後ろから伸ばされたより太い腕に押さえられ体ごと抱え込まれていた。  
何も言おうとしない銀時の呼気は常より僅かに速く、熱かった。  
「銀さん」  
初めに考えたのは帯のことだった。家着とはいえ、血が染み付いてしまったら物によっては落とせない。駄目にしてしまう。  
全く女というものは。こんな時にさえ着物のことを一番に考えるなんて。  
「銀さん、放して」  
首の後ろにふわりとしたものが寄せられる。横を見ると夕日を受けた白い髪が、やけにきらきらしく傍にある。ぐずぐずと頭を振るのは拗ねた子供のようで、妙は少しだけ安堵した。  
押さえ込む太い腕に指をかけて撫ぜる。親指から繋がる内側の筋がぴくりと張った。  
「銀さん」  
「……無理はねえと思うんですけど。怖がられんのも、辛いもんなのよ」  
斬りました。そりゃァね真剣だもの。なまくらだってそれなり斬れますもの。でも俺ァ斬られんのも嫌だけど斬るのも嫌いだよ。痛いのも怖いのも嫌いだよ。  
銀さん本当は臆病者なのよ。  
 
「知ってます。図体ばかり大きな子供だこと。でも少しだけ怖くなったのも本当です」  
 貴方が誰かを斬るような、そんな切羽詰った破目にまた巻き込まれたかと思うと、臆病者の貴方がいつか壊れてしまったらどうしようかと、怖くて仕方ないんですよ。  
「うん」  
「貴方は屋根の修理でもしていれば良いんだわ」  
「うん、割と得意分野だしね。しんどいけど儲かるし、器用だしね」  
 銀時が押さえ込んでいた片腕を放してくれたので、妙は斜めに振り向いて、ふわふわと柔らかい白い髪を、犬の仔でも構うようにかき混ぜてやる。妙の白い手に、赤茶けた筋が引かれた。これも良く見れば返り血だった。  
「俺ァ臆病だけど頑丈ですから。そうだな、壊れちまうとしたらそん時は」  
 誰もいなくなって、お前もいなくなって、痛くて怖くて、寂しくて。  
 そしたら壊れちまいそうな気はするなぁ。嫌だよなぁ。  
 肩の骨に呟く声が響いて、もう一方の手が引っ掴んだ袖から前合わせが崩れて、後ろから甘える声が吐息が肩から胸の方にまで、かかる。  
「なぁ、甘えさせてよ」  
「もう十分に甘えてるじゃありませんか」  
 わざわざ断りを入れるような関係じゃない。いざそうしたいならきっとこの男はしたいようにするだろう。  
銀時は、妙が己に課した道徳の枷をよくよく承知していて、決定的な何かを口にできるほどの度胸も覚悟も見せてはくれなかった。物思わせな、罪な臆病者。  
 
 右手が差し入れられる。  
 襟元から手のひらだけ。喉首の骨から手のひらの分だけ身に添わせて、それ以上進められたことがないから妙は動かなかった。ただ一度身体を僅かに震わせて、努力して息を落ち着かせ、大人しく銀時に寄りかかった。  
 心臓の音を探っているのだ。肌を弄るでもなし、胸乳を包むでもなし、むしろ異常な態度なのに、まるで正しいことのような気がして妙は逆らうことができない。  
頻繁ではないけれど、半端に酔った雨上がりの夜だったり、やけに静かな早朝だったり、良くない何かにさらされた銀時は子供じみた真面目さで妙に甘える。  
初めに払い除けなかったのが悪いのだ。でも払い除けていたら二度と触れられることは無いだろう。そう分かってしまった。愛おしいと思ってしまった。結局自分で許した関係なのだ。  
「ちゃんと動いてますでしょう?」  
「うん」  
 
「銀さん」  
「なに?」  
「私に会わないころはどうしていたんです?」  
他の誰かにこうして縋る姿がどうしても想像できなかった。嫉妬ではなくて、むしろそんな誰かがかつて居て、それが失われたのだとしたらたまらないと思った。  
「さぁ、どうだったっけ? 呑んで潰れてた?」  
「どうして疑問形なんです」  
「わかんないけど」  
なだらかすぎる気がする自分の胸に、銀時の大きな手は確かに触れていて、いやらしいことばかりわざと口にするような普段の態度を思うと、一体どんな我慢をさせているのだろうかと妙は疑問に思う。  
男の欲求など知らないし、あまりにも子供じみた様子なので想像すらできない。不能なわけもないだろうし、と失礼なことを考えてみたりする。そんな余裕すらある。  
「甘えたいのなら頭ごと抱きしめてあげましょうか」  
「うん、いや、いいよ。このままがいい」  
好き勝手に触れて、好き勝手に離れていく。男の腕に抱え込まれた妙には主導権がない。触れそうで触れないのは身体も心も同じで、振り回されるにも優しすぎる気がして殴れもしない。  
臆病者。卑怯者。選ばせてもくれない。この関係に名前もつけさせてくれない。  
「お前はいいな、暖かくて、柔らかい」  
上がりすぎる心拍。触れられている胸が熱い。息が詰まって、「銀さん」呼んだつもりの声が音にならない。  
「お妙」  
滅多に呼ばれない名を呼ばれて身体が震えた。それだけで何もかも満ち足りたような幸福感と、同時に感じる酷い遠さ。堪えていたのに涙が零れた。気付かれないといい。  
「お妙」  
その後に言葉を続ける代わりに、銀時はただ無闇に抱きしめてくるばかりだ。どうか何もかも打ち破ってしまって。道徳も貞操も知ったことか。そう思いはしても、妙はそれを、口にすることができない。  
ああ、なんて、臆病者。  
 

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