夜の帳が折り始めた部屋は暗く、破れたカーテンの隙間からはネオンの色とりどりの灯りが零れてくる。
裏通りの四畳半の角部屋は、つい先程までの熱っぽい時間を忘れたかのように静まり返っていた。
「……終わったんだから帰れよ」
背中を向け胡坐をかいた長谷川は、懐から煙草を取り出すと一本咥えた。
うっとおしげに言い放った後で、「バスがなくなっちまうぞ」と付け加えた。
ライターはオイルがないのか、何度も空回りし、やっと煙草に火が付いた。
ち、と舌打ちをしてから深く一息吸い、紫煙を吐き出す。
「また……来てもいい?」
煎餅布団の上で乱れた着物を正しながら、ハツは呟くように尋ねた。
「月曜以外はバイトで忙しいんだよ……」
しゃがれた声で、長谷川も呟くように答えた。
ちらかった四畳半の長谷川の部屋は、煙草と酒と饐えた匂いと、そしてさっきまで行われていた
男と女の匂いが入り混じっていた。
それはむせ返るほど濃く、けれど懐かしくてどこか離れがたい……そんな匂いだった。
離れて暮らすようになって半年。
原因を作ったのは長谷川の方で、出て行ったのはハツの方だ。
ハツは長谷川の背中を見た。すっかりやつれ、一気に年をとったようなその背中に、
思い切り抱きつけたらどんなに楽だろう、とハツは思った。
やつれて、年をとったような、どうしようもない男の背中。
地位も名誉も肩書きも何もかも失った、けれど世界で一番、愛している男の背中。
長谷川はちらりとハツを見た。痩せたな、と思った。
ハツを思い切り抱きしめてやれない、ふがいない自分を恥じた。
「月曜なら、来てもいいのね」
ハツが再び尋ねた。月曜以外と言うことは、月曜は空いている、ということだ。
「……」長谷川は答えない。沈黙は肯定だ。昔からこうだ。
ハツは己の顔に笑みがこぼれそうになるのを感じた。
別居し始めた頃に比べれば、これでもまだお互い随分と歩み寄った方だ。
一時の感情に任せて、入管の局長をくびになったのは長谷川。
やはり一時の感情に任せて、家を出たのはハツ。
お互い、バカなことをして、その癖まだ意地を張っている。
意地という糸の端と端を握って、子供の様にうじうじしている。
ここ最近は時々会って、同じ布団に入って夫婦ごとをするまでになったけれど、
昔の様に愛を語り合うわけでもなく、子供を作るでもない。童貞と処女でもない癖に、とてもぎこちない。
その最中なら言いたくても言えない事が言えそうな気がしているのだ。お互い。
だから会って、悪態をつきながらも身体を重ねている。
でも、まだ言えない。
すまなかった、ごめんなさい、やり直そう、やり直しましょう、が言えない。
「今度は、お稲荷さんでも作ってくるわね」
ハツは髪を撫でつけると、荷物を手に立ち上がった。
「これから寒くなるっていうのに、温かいモンくらい持って来れねえのかよ」
「だってここ、ガス止められてるんだもの」
意地という糸の端と端を握って、子供の様にうじうじしている。
ぎしぎしと音を立てるアパートの階段をハツがゆっくりと降りると、知った顔の男が立っていた。
会釈をし、通り過ぎようとするハツに片手を挙げた男――銀時は、口端を軽く上げるとハツに向かって言った。
「長谷川さん、火曜も空いてるみたいだよ」
「……」
「アンタ達見てたら、なんかじれったくてケツがかゆくなっちまうよ」
言い返すことも出来ず、ハツは下を向いて唇をかんだ。
(おわり)