その夜は、どうしても行き場がなかったから。  
 
 
深夜二時。  
スナックスマイルの仕事から帰った妙が我が家の扉を開けると、静寂が薄暗い廊下を  
すっぽりと支配していた。  
今夜、新八は帰らない。  
『久しぶりの大仕事なので、遅くなるようだったら泊まってきます』そう書かれた弟  
の書き置きを、今朝方居間の食卓の上で見た。  
視線の先ではa忍び込んだ月明かりが、誰もいないその居間をぼんやりと映している。  
人気のない我が家は、ようやく帰りついた住人にさえひどく他人行儀だった。  
 
卸したての帯をぐいとゆるめ、襟元を楽にする。  
着替えなければと思い、化粧を落とさなければと思い、優しい弟がきっといつもどおり  
整えておいてくれた布団へと、少しでも早くもぐりこみたいと願うのに。  
玄関を上がり、小さくきしむ廊下に二、三歩足を進めたところで、妙は寄りかかった  
壁に沿いずるずると座り込んでしまった。  
着物の布地を通して、板の間の冷たさがじんわりと伝わってくる。  
 
帰り際、おりょうから飲み過ぎだと叱られた。  
そうだ。今日は飲みすぎてしまったのだろう。  
だからだ。下肢から順々に伝わってくる冷ややかさとは裏腹に、喉元には熱いものが  
こみ上げてきていた。  
今さっきまで耳の奥に留まっていた喧騒がどこへともなく消えていく。  
ああ、いつもどおりだ。何もかも。  
華やかな時間は過ぎ去って、疲れた女が一人残される。記憶の中から『おかえり』と  
言う弟の声を引っ張り出し、誰もいない廊下へ「ただいま」と返してみる。  
鼻の奥がつんとした。  
 
泣き上戸だった覚えはないが、過分な酒に浮かされて感情のコントロールがあやふや  
になるのはよくある話だ。働きすぎたのかもしれない。疲れが溜まっているのだ。  
もちろん安酒の飲みすぎも良くなかった。  
 
泣いて、しまおうか。  
誰もいないのだからかまわない。  
帰り道仰ぎ見た星空は、はっとするほどきれいで、こんな夜は一人芝居が似合う気がした。  
 
ふと、視界の中に滲むように映りこんでいたそれに釘付けになる。  
良くないことだと思ったけれど。  
手が無意識のうちに伸びていた。気がつけば、左手には黒い電話の受話器。  
右手は迷うことなくダイヤルを回していた。  
 
一回、二回。  
壁と耳にはさまれた受話器の奥のコールに耳を澄ます。  
新八が出ればいい。  
そうしたら、今日はそこに泊まるのねと、駄目な上司にこき使われた弟の身を案ずる  
心配性な姉をそのままに演じれば良いのだから。  
三回、四回。  
コールは何の変化も見せず五回目にたどり着く。  
不器用な騒音が深夜のあの広い事務所兼居間に鳴り響いてる様を思い浮かべる。  
新八が出ればいい。  
 
六回目の途中で、コールは切れた。  
 
「もしもし。万屋ですが」  
耳元で直に響くそっけない低さに、胸が焦げる。  
「…もしもし。わたし」  
一度目の沈黙が返る。  
「誰だか分かる?」  
 
「……なんか、こんな恐怖の電話なかったっけか」  
感情の起伏が機敏なようでいてそれとも意識して緩慢なのか、二度目の短い沈黙の後、  
聞きなれたやる気のない声が返ってきた。  
「誰って、お妙だろう。今帰ったのか」  
「…新ちゃん」  
「おお、ウチに居るぜ」  
「新ちゃんは?」  
相手の問いには答えずに、つぶやく様に弟の名を口にする。  
だって、あなたが出るとは思わなかったんだもの。  
言外に隠した言い訳に、男は果たして気付くだろうか。  
「なんだよ。確認ですか?点呼ですか?どこまでブラコン一直線なんですかオマエ」  
「泊まるって書き置きがあったわ」  
「えーえー。お宅のお坊ちゃんなら、上司の俺を差し置いてウチで一番良いお布団で  
がっつり熟睡中ですよー」  
「当然でしょう。きっととっても疲れてるのよ。ぐうたらな上司に代わって今日も  
一生懸命働いたんだわ。」  
「何?何ですか、喧嘩の押し売り?銀さん今ちょっとカチンときたんだけど」  
「あら。銀さんでも図星を指されるのは辛いのね」  
「だから、新手の電話セールスですかっての。やめなさいそれ。儲かんないから」  
「しないわよ、そんなこと」  
口癖のような憎まれ口は、いろんなものを守ってくれる。  
そんな所で二人は似ていた。  
「・・・新八に用なら起こすぜ?」  
「ヤメテ。新ちゃんの安眠を妨害する気?天パの分際で」  
「天パ関係ないから。いい加減覚えて。それ差別だから」  
「ひがみ?いやだわ、大人気のない」  
どれくらいぶりに声を聴くだろう。こうして言葉を交わすだろう。  
「へえへえへえ。ところで銀さんの安眠も心配してね。実は何気にお肌の曲がり角  
とか気にしちゃってるんですから」  
「人生の曲がり角はとっくに過ぎちゃったものね。お気の毒様」  
「ヨケーなお世話だ。このヤロウ」  
「誰がヤロウか。覚えとけよダメ親父」  
「なんなの?ほんと何の用なの?真夜中に、弟の上司にダメ出しして、いったい何が  
楽しいの」  
「もういいわ。新ちゃんがそっちに居るならいいの。どうも夜分遅くに失礼しました」  
「それ、普通一番最初言うよね」  
取り立てて話す事などあるわけもなく。当たり前のように会話は収束へと向かう。  
この喧騒もしばらく耳の奥に留まって、またすぐにどこかへ消えるだろう。  
それじゃあとこちらから電話を切ろうとした時、被せる様に男が喋った。  
 
「朝になったら」  
「え?」  
「朝になったら、新八いったん家に帰すわ。悪かったな」  
忘れていた。覚えていたけど忘れていた。この男はまったくもって似合わないくせに、  
こうしてどうしようもなく妙なところで律儀なのだ。  
「明日は泊まりなんて事にはなんねぇから、気の済むまで姉弟でよろしくやってくれ」  
あるか無しかの切り札は出し惜しみを許さないかの様に、あっけなくすべてを使い切らされる。  
「…そうね、そうさせていただくわ」  
後は受話器を置くだけだった。  
「おお、じゃーな」  
「ええ、じゃあ」  
そして振り出しに戻るのか。一人きりの夜に。  
 
「銀さん」  
良くない事だとは思ったけれど、求めたものを諦め切れなかった。妙は受話器を握り直す。  
「切らないで」  
「…何?まだなんか用ですか?」  
きっと後悔するだろう。あとで一人でもがくだろう。  
けれど今。今、この夜の行き場のなさを、妙は一人でやり過ごせる気がしなかった。  
「用は、無いの。何にもないの」  
「はあ?」  
「用はないけど…だけどこのまま切らないで」  
何を言っているのだろう。  
「…おい?」  
電話の向こうで、眉を寄せている銀時が目に浮かぶ。  
その顔を振り払い、妙は堰を切るように続けた。  
「眠たくなったら寝ても良いから、そこからいなくなっても良いから」  
喋る言葉などなくていいから、気遣う声などなくていいから。  
「電話だけは繋いでおいて。切らないでいて」  
どうかこのままこの夜に、私とこうして繋がっていて。  
「…お妙」  
「寝ていいわよ。疲れてるんでしょう?」  
「…なんかあったのかよ」  
「なんにもないわ。いつもどおりよ」  
わたしの側に誰もいないだけよ。  
銀時が受話器の向こうで息を呑む。  
「お前。なんで泣きそうなのよ」  
「…わかんない。今夜はそういう気分みたい」  
妙の声が、せりあがってくる感情を押し込もうとにわかに震える。  
けれど、それに返した銀時の声も妙には何故だか震えて聴こえた。  
「おま、何その場末のママさんみたいな文句。コラ、ちょっと聴いてんのか、お妙」  
「聴いてるわ」  
痛いほど受話器を耳に押し当てて。心の中の声までが聞こえてくれば良いのにと。  
困った女と思っているでしょ。面倒くさい女と思っているでしょ。  
会いには来れない時間に、走っては来れない距離で、想いを確かめたのだ。  
自分だけでそっと。  
「寝れないんなら、絵本でも読んでやろうか?」  
「いやよ、気色悪い」  
「お前な…」  
そうして無言の時間がいくらか流れて行った後。  
銀時が静かな声できっぱりと告げた。  
「あー、あのな…。悪い。やっぱ切るわ」「銀さんっ」  
「悪いな」  
ガチャン。聞きたくなった音が妙の耳に響く。妙の呼びかけには何も返ってこないまま。  
電話はあっさりと切られた。ようやく耳から離された受話器から、不通を知らせる音が漏れる。  
妙は、電話をそっと元の位置に戻した。  
廊下には、さっきと少しも変わらない静寂が満ち満ちている。  
 
夜明けが、遠くの空からその一歩を踏み出し始めたころ。  
男がひとり、月明かりの夜道へ走り出していた。  
 

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