『……僕はお前が好きだ。従者としてでも兄弟子としてでもなく、一人の男として、お前を愛している』
それから大分経って、戻ってきた男に、九兵衛は己の心の内をついに曝け出した。
その言葉に、返事は直ぐには返らなかった。長く重い沈黙が、空間を支配する。
「馬鹿な……」
漸く呟かれたのは、微かな、震える声だった。
「……な、にを……何を馬鹿なことを仰ってるのですか! 貴女は!? 」
東城は酷くうろたえている様子だった。
「私は……私はずっと、若を欺いていたんですよ!? 若の誇りも尊厳も奪って、貴女を強姦した上に監禁までした男なんですよ!? 」
「……ああ」
九兵衛はそんな男の態度とは対照的に、静かに頷く。
「自分でも馬鹿だと思っている。無論お前を恨みもした。殺してやりたいと思った。だが……それでもお前が好きなんだ。他の誰で
もない、お前のことだけが……」
「……か、な……だって若は、今日も三人も男をここに招き入れているじゃないですか! 外して貰ったんでしょう!? 手足の枷
も……私が若の中に挿れた機械も! 見せたんでしょう!? 恥ずかしげも無く若の、一番大切なところを奴らに……! 」
「……そうだ。……だが言っただろう、誘ってみたが振られてしまった、と……」
「嘘を仰らないでください! この状況で、若の方から誘って如何して、連中が断るというのですか!? 」
「……あいつらは気づいていたんだ。僕が東城のことが好きだと。だから手をださなかった」
「……っ! そんな、ことが……」
「北大路が言っていたよ。最中に他の男の名を呼びかねない女など興ざめだ、と……。……駄目だな僕は。お前のように、愛してい
ない男とだって寝れると思ったのに。如何したってお前の顔がちらついて……。お前はいつも、あんなに僕の名ばかり呼んでくれたのに」
「……う、そでしょう……!? 」
東城は尚も、信じられない、と言った顔をしていた。――意外だった。何をそこまで、徹底して自分の想いを否定する? 彼からす
れば、愚かな女と、嘲ればいいだけの話だろうに。彼を優位に立たせこそすれ、追い詰めるようなことなど言っていないのに。何故
そんなにも――苦しそうな表情をする。
「柳生家の混乱を収めるため、そう言って私に抱かれたのではありませんか! それが建前だったとでも仰るのですか!? 貴女は
そんな人ではないでしょう! 本当に私のことを慕ってくださっているのなら、初めからそう言っている人でしょう!? それが本
当なら、何故今まで黙っていたというのです!? 躊躇う理由など、若には何一つないではありませんか! 女子の妙殿を嫁にした
いとまで言っていた貴女が、私相手に何を遠慮することがあったと言うのですか! 」
「……。気づくのが、遅すぎたんだ……」
詰め寄る東城に、ぽつり、と九兵衛は呟く。
「初めはお前の言うように、柳生家の為にお前に僕の夜伽の相手を命じた。だがあの夜……お前に優しく抱かれたあの夜に、漸く気
づいてしまったんだ。僕が抱かれたいと想っているのはお前だけだったのだ、と……。けれど言えなかった。言えばお前に軽蔑され
ると思ったから。そんな建前で、好きな男に立場を利用して関係を迫っていた浅ましい女だと……。それにお前が僕のことを、女と
してなど愛していないことは分かっていたから。お前は妙ちゃんを嫁にしたいと言った時も協力してくれたし、ずっと僕がいずれ好
きな男と一緒になって、女としての幸せを掴むのを望んでいるようだった。この先それが変わるなんて思えなかった。だからそれで
良いと思っていたんだ。お前は僕の、どんな命令にも応えてくれた優しい従者……。そんな関係で良いと思っていた。だがその関係
も破綻してしまった。もう失うものなんてない……だから伝えた。いつも苦しかったんだ。ともすればこの想いを、口にしてしまい
そうで、それを必死に押し殺すのが……」
「……っ! 」
「だから東城……僕は知りたいんだ。本当のお前が。それがどんな結果になろうと、受け止めるつもりだ。僕は……お前のことが好
きだから」
「わ……か……」
東城は力なく、ただ九兵衛の名を呼んだ。
「……東城? ……!」
それ以上何も言おうとしない男の態度を不思議に思い、九兵衛は彼の顔を覗き込んだ。
――堅く噛んだ口の端から、血が滲んでいた。
「……た、しは……貴女に何ということを……! 」
身体を震わせながら呟く。閉じられた瞳の端には、涙が浮かんでいた。
「ああ、若……! 私が愚かでした……! 許してくれなどとは申しません、どうか私を如何様にでも処分してくださいませ……!
今ならばこの命果てようと、惜しくはありません。若に贖うためならば、切腹でも何でも致します故ッ……!! 」
「!? な、何を言って……!? 」
東城の態度に、九兵衛は困惑する。――今更何を言っている。己を道具のように扱い、散々嬲った男が、何を……。
「愚か者の戯言と、嘲ってくださって構いません。私は……私はずっと、若をお慕い申しておりました。無論……一人の女子として」
「……っ!? 」
続けられた言葉に、九兵衛は一瞬、凍りつく。
だが次の瞬間。
「……戯けた事を言うなッ! 」
気づけば力の限りに、東城の顔を張っていた。乾いた音と、怒声とが部屋に響く。
「この期に及んで、何を……! 僕への同情か、優しさのつもりなのかッ!? そんな忠誠心など僕は求めてはいないッ! 」
「同情などでは御座いません……私は、本当に私はずっと……十数年も、若のことだけをお慕いして……来る日も来る日も、気が狂
いそうになるほどに若のことばかりを考えてッ……」
赤く腫れ上がった頬を押さえもせずに、東城は訴える。
「ふざけたことを! だったら何故僕にこんなことが出来た!? 僕を好きだというなら、如何してこんな外道のようなことが…!! 」
言って九兵衛は、東城の胸倉を掴みあげる。無論この体格差だ。大したダメージにはならないだろう。しかしそうと分かっていても、
詰め寄らずにはいられなかった。
「……言った、でしょう? 好きだから……ですよ」
「何」
しかしそこまで詰っても変わらぬ相手の態度に、次第に九兵衛の手から力が抜けていく。
「ずっと貴女が好きだった……貴女を手に入れたかったから。貴女を私だけのものにするために……私は悪魔にも魂を売った」
「……何、を……言って……」
東城の言葉の意味が分からなかった。
この男のあのような非道な行いと、己をずっと女子として慕ってくれていたという事実、相反するようなそれがどう結びつくという
のか。
考えられる筈もなかった。否、考えたこともなかった。
そんな場所に行き着いてしまうほどに、深く狂おしい愛が――ずっと彼の中に存在していたなんて。
「本当なんです……私は……。もうずっと、ずっと昔から貴女を、一人の女子としてお慕いしておりました。今まで何度無理やり奪
ってしまおうかと、思い悩んだか知れません」
「う、嘘だ……ずっと前から、だって……? だってお前は、今まで……」
俄かには信じられなかった。
彼とは五年十年の付き合いではない。それでも彼がそんな素振りをみせたことなど、一度もなかった。
それなのに。ずっと前から、だなんて……。それでは彼は、今までその想いを秘めたまま、己に接してきたとでも?
「……本当は告げるつもりなどありませんでした。一生、墓の中までこの想いは持っていくつもりでした」
「何……で」
「言えば若は、もう私を側になどおいてはくださらなかったでしょう」
「……っ! 」
静かに語る東城の言葉に、九兵衛は一瞬、言葉に詰まる。確かにそれは、事実だったかもしれない。告げられたとて、己が彼の想い
に応えられる筈がなかった。そうなれば、彼がいつか己のことなど忘れて他の女子と幸せになれるようにと、己の元から離れさせて
いたかもしれない。
「それに私は、あの日まで諦めるつもりだったのですよ。若のことは……。だから妙殿の件にも進んで協力しましたし、若に他の殿
方に惚れて頂こうと画策したこともありました。だからあの夜も初め、直ぐにでも応じたい気持ちを押さえつけて若のお言葉をお断
りしたのです。若にはもっと貴女に相応しい、素晴らしい殿方と結ばれるまで貞操を守って頂きたかったから……」
「……あの雛祭りの前夜のことか」
「……ええ。しかしあの夜、十数年ぶりに若のお体を拝見して、気が変わってしまいました。若が他の男と並ぶ姿など、とても耐え
られるものではないと……。若を……誰にも渡したくないと、そんな想いに囚われて……私は若にあのような、恐ろしいことを……! 」
「……だったら! そう言えば良かったじゃないか! こんなことをせずに正々堂々と、僕が欲しいと! 他の誰のものにもなら
ないでくれと、言えば良かったじゃないか! 如何してこんな……」
「勿論申し上げようとしましたよ。しかし……貴女に先手を打たれてしまった」
「え……? 」
「想いを告げようとする前に……若に、私のことは嫌いだと、はっきり言われてしまいましたから……。これまでとてそうでした。
貴女を密かにお慕いし続けて十数年、私の想いが叶う見込みなど到底感じられませんでしたから」
「……! そ、それは……」
「……若のお心など、もう到底手に入らないと思っていたのです。だから……だからせめて、お身体だけでも手に入れてしまいたかった。
それなのに……まさか若が、私と同じお気持ちでいてくださったなんて……」
「……」
「ああ若! いっそ殺してください! 今になって漸く、己のしたことを理解したのです。若のお気持ちも知らずに……私は、私は
……! 」
「……如何してだ……如何してなんだ東城……如何してこんなことを……」
未だに信じられず、九兵衛は繰り返す。
――お前が僕と同じ気持ちだった、だと……?
僕が好きだから……愛しているからこそ、あんな愚行に出た……?
僕の身体を道具のように扱い、あんな屈辱を僕に与えた、お前が……?
「お前は……女なら誰でも良かったんじゃないのか。だからこそ……僕でも抱けたんじゃ……」
「まさか! 私が本当に抱きたいと思ったのは、後にも先にも貴女だけです。貴女と閨を共にしていたあの時程、幸せな時間はあり
ませんでした」
「だったら何で! 如何して買春になど走った!? ずっと僕が好きだったというなら、如何して今までそんなこと一言も告げずに
何人もの女と寝てきたんだ! 僕がどんな想いをしてきたと思ってッ……! 」
「……貴女と褥を共にできる日が来るなど、思いもしませんでしたから……」
「何……」
「言ったでしょう。もう随分前から……私は身を引こうと、若のことは諦めようと思っていたのですよ……。
如何にかして捨てたかったのです。私を苦しめるものでしかなかった、貴女への慕情を……」
「どうし……てだ。何もしない前から諦めるなんて、如何して……」
「私では、到底若を幸せになど出来ませんから……若には、他の誰よりも幸せになっていただきたかったのです」
「か……勝手なことを言うな。お前に出来ないなどと、如何して決め付ける」
「……私は若をお護りする事が出来なかった。一度ではありません。何度だって……。今とてそうではありませんか。勝手な欲望ば
かりを押し付けて、結局は私自ら若を深く傷つけてしまった……! 」
これで何度目だろうか。再び東城は顔を伏せて唇を噛む。
「ああ若……本当にもう悔いなどないのです。身体だけでなく貴女のお心までも頂けたなど、これ以上の幸せなどありません……!
私を如何様にでもしてくださいませ……!! 」
彼は本気で後悔しているようだった。
――果たして己は、本当に彼を責めれる立場にあるのだろうか。
少なくとも己がもっと早く彼への慕情に気づいていれば、それを打ち明ける機会を奪ったりしていなければ、こんなことにはならな
かったのではないか?
追い詰められると何をするか分からない、と北大路は東城を評していた。それでは彼がこんな愚行に出てしまうところまで追い詰め
てしまったのは、他ならぬ己自身ではないだろうか。
それに己とて。彼の心など手に入らないだろうからと、己の立場を利用して、彼の身体を貪り続けてきた。それどころか何処かで、
彼の計画と同様のことを、頭に思い描いていたではないか。
そんな己が如何して、被害者顔ができようか。
しっかりしろ、と九兵衛は未だ混乱する己に言い聞かす。
己は彼の主人だ。己が彼を導かねば、進むべき道を誤らずに選択しなければ、彼は惑うばかりではないか。
「……如何様にでもしろ、か。その言葉に偽りはないか」
「無論で御座います若……! もう未練など御座いません。私は……私は本当に幸せで御座いました。若のような素晴らしい主人に
出会え、褥を共にして、あまつさえ一人の女子として、私を愛してくださったなど……! 」
「……僕への気持ちは今でも変わらないのか」
静かな声で、九兵衛は問う。
「そ、それは無論……」
「言っておくが、僕はお前の思うほど清らかな人間ではない。だから何度もここに来た。お前が拒まないのを良いことに……。お前
を独占したくて、放っておけばお前はまた他の女のところに行ってしまうんじゃないかと思って、それが堪らなくてここに通っていた。
……お前が企んでいた様に、僕がお前の子を孕めばお前を永遠に束縛する口実が出来るとすら思っていた。それでもお前の計画
を知ったとき、耐え切れずお前を詰った。ここまでお前を追い詰めていたなんて露知らず……いや、お前の気持ちなんてそれ以前か
ら知りもしなかった。お前がどんな想いで女を買っていたなんて知りもしないで、ただその事実が受け入れられなくて、あの時もお
前のことが嫌いなどと言って……。振り向かずともただ一心にお前を慕う、清らかなお姫様などではいられなかった。こんなに愛し
ているのにお前は如何して僕にこんな酷いことをするのかと、お前を憎んだ。恨みもした。お前が戻ってきたら、この刀でお前を斬
ってやろうと思っていた。腹いせに他の男と寝ようともした。……それでも」
「若……」
「それでも愛せるか。己の想いに気づいて尚、引き下がりもせず立場を利用してお前と、身体だけの関係を迫り続けていたような汚
い人間でも」
「勿論で御座います若! 貴女が汚いなどと……貴女ほど美しい女子を私は他に知りません。何度も申し上げたではありませんか」
詰め寄るように己の言葉を否定され、それでも九兵衛は納得などしなかった。
「……そんな言葉で信じられるものか。どうせ女郎屋の女にとて同じ台詞を言ってるんだろう」
「ま……さか。そのような事……」
「如何して僕を愛しているなどと言える!? 僕への想いを捨てたいからと言っても、それでもお前は他の女子を抱けるのだろう!?
自ら進んで何人も、相手に出来るというのだろう!? 」
誘われても応じ切れなかった九兵衛には、東城のその行動が理解出来なかった。その事実が、東城の言葉など全てまやかしなのでは
ないかという疑念を九兵衛に抱かせてならない。
「……如何したら信じていただけますか? 」
けれどその指摘にも動じず、酷く静かな声色で、今度は東城の方から尋ねた。
「無論若との関係が始まってから、風俗店の類になど一度も行ってません。しかしそれは単に万一若に変な病気でもうつしてしまっ
たりしたら、私は腹を切らねばならぬと思ったからだけで、若の仰る様にその気になれば今でも他の女子を抱けましょう」
「……」
きっぱりと告げられた言葉に、九兵衛は思わず歯をぎりりと噛み締める。そんなことはとうにわかっていたはずなのに、改めてこの
男の口から言われると堪らなく胸を締め付けられる。
「しかし本当に、私が抱きたいと思っているのは、私が心からお慕いしている姫君は若だけなのです。如何したら信じていただけま
すか? 」
「……それは」
再び尋ねられた問いに、九兵衛は言葉に詰まる。
「……他の女子に一切感じるなと仰るのなら、私の男根ごと削ぎ落としましょう」
「……!? 」
けれど九兵衛がそれに対する答えを見出す前に、東城は顔色一つ変えずそんなことを告げた。あまりに唐突でとんでもない申し出に、
九兵衛は尚も返答に迷う。
「他の女子を目に入れるなと仰るのなら、この目を潰しましょう」
そうして九兵衛が押し黙っていると、東城は再び淡々と言葉を続けた。
「他の女子の声を聞くなと仰るのなら、鼓膜を破りましょう」
その様は一層不気味で、次第に九兵衛の恐怖心を煽る。
「他の女子に触れるなと、他の女子の元に向かうなと仰るのなら、その証拠に手足を切り落としてみせましょう」
――それは得体の知れぬ、非現実的な怪談に対する物とは少し性質の違うものだった。あまりに大仰すぎる、ともすれば馬鹿げた話
だったが、しかし。
「その程度のことは厭いません。元より若が死ねと仰ればいつでも死ぬ覚悟です」
『この男ならやりかねない』……そう思えてならず、九兵衛は息を呑む。
「……は……」
その考えに至った時、思わず九兵衛の口から息が漏れた。
不埒な男、と思っていた。だから彼の言葉など信用できぬと。けれど。
己にそんな思いをさせる程の、そんな大それた話を現実的に感じさせるほどのことを、彼は今まで己にしてくれていたではないか。
彼が『そういう男』であることは、他ならぬ己自身が一番良く知っていることではないか。
それは今まで、己に対する忠誠であり、保護者としての愛情なのだと思っていた。だが本当にそれだけで、これだけのことが出来る
だろうか?
自分はそれだけの忠義に値する程偉大な主人でもなければ、血の繋がった彼の子供や妹でもない。ほんの少し年下の、弱い女子でし
かない。そんな己に、彼が――。
「しかし私にはわからぬのです。如何したらここまで傷つけてしまった貴女の心を癒せるのか、如何したら私のこの、狂いそうな程
に若をお慕いしている心をわかっていただけるのか……。誓って若以外の女子に口説などしたことはございません。だからこそわか
らぬのです。如何したら若のその、私の行動の果てに頑なにしてしまったお心を溶かすことが出来るのか……」
「……もういい。……信じてやる」
東城を制して、九兵衛は漸く答えた。
――それが彼の、己に対する、男としての恋慕の情故に出来たことなのだとしたら。決して振り向くことのなかった己への愛の証な
のだとしたら。……何の見返りも求めぬ愛などありえぬと、感じていたのは己自身ではないか。そんな彼の気持ちなど露知らず、あ
のような命令を下してしまった己に、報われぬ愛に苦しみぬいた彼が、どんな形であれ己を手に入れたいと思いつめた末にあのよう
な行動にでたと言う彼の言葉は、決して理解できぬものではない。それだけ……恋とは決して、ただ美しいばかりのものではないの
だと、知ってしまった今の己には。
「本当ですか」
「ああ、どうやら本当に、女子を口説くのには慣れていないとわかったからな。……僕も『すまいる』に通ってたから分かるんだ。
普通女の子は、そんな重い台詞を言われたら引くらしいぞ」
「……っ。も、申し訳ありません……」
冗談のようにそう言ってやると、東城はすまなそうに、そして少し恥ずかしそうに頬を染めて、顔を伏せた。
「まあ、大仰なのはお前らしいが……」
ふ、と九兵衛は笑みを漏らす。……如何して自分は今まで、彼の言葉に耳を傾けようとしなかったのだろう。こんなにも直向に、愛
していると言ってくれていたのに。直接全てを言葉にはしなかった。言っていたところで多分、己は無視していたところだろう。だ
が変に技巧など凝らさず、彼が言えた限りの中ではっきりと……。
ここにおいて九兵衛は漸く、彼の言葉を信じようと思った。今まで疑うばかりで聞き入れようともしなかった彼の言葉を。
「……今一度訊く。如何様にでもしろ、と言ったな。二言はないか」
「はい。……元より若の為なら……」
「僕の命令になら、何にでも応じるか」
「無論で御座います」
「では一つ、お前に命じる。……僕を幸せにしろ。僕を諦めるだとか、僕の為に身を引くなんて勝手は許さん。お前自身がこの僕を
幸せにしてみせろ」
「……は……? 」
告げた言葉に、覚悟を決めた表情をしていた東城の顔が揺らいだ。
「何を仰って……」
そしてまだ、訳が分からない、といった顔で呟く。
「何を仰ってるのですか……? 私は若にあんなことをして、深く傷つけてしまった男なのですよ……? そんな私に、何を……」
「……ああそうだ! 」
その態度に苛立った九兵衛は声を荒げた。
「お前には散々不幸にさせられた! 勝手に先走ってばかりで、僕の気持ちなど何一つ知らないで……! ……だが僕は、お前じゃ
ないと駄目なんだ。お前じゃないと、幸せにはなれないんだ……!! 」
「わ……か? 」
「お前だってそうだろう!? 十何年も前から僕のことが好きだったんだろう!? お前が如何してそんなに自分を卑下するのか知
らないが、僕を諦めようとして、それでもその想いを捨て切れなくて挙句の果てにこんな愚行に出たのだろう!? そんなお前が僕
から身を引いて、それで耐えられるのか!? 幸せになどなれるのか!? 十何年も、お前は苦しんできたのだろう……!?」
今ならわかる。東城と同じ想いを抱いている今なら。その長い年月の間、どれ程彼が苦しみぬいてきたのか。愛しているのに、心か
ら愛しているのに、伝えることも出来ず、相手の幸せを願ってただ、影からそっと見守る……そんな愛し方しか出来ない苦しさが。
考えただけでもどうにかなってしまいそうだ。そしてそれは、彼を狂わせるのには十分だったのだろう。
「そ……れは……。なれる筈がないでしょう、私は……若でなければ……。しかし私は、若を……。ですから私は……! 」
「如何してお前はそんなに死に急ぐ? 」
「……! 」
「北大路が言っていた。お前にしては詰めが甘すぎる、これではまるで僕が他の男に抱かれるのを誘っているようだ、と……。お前
は最後まで、僕を誰か他の男に明け渡すつもりだったのだろう!? お前はこの刀を、わざと僕に見えるように残していったのだろ
う!? あんなことをしておいて、それでも結局お前は……お前は……」
「若……」
「死んで詫びるつもりか? ふざけるな! お前が死んで、それで何になるというんだ!? 僕はそんなこと望んでない! あれだ
け執着しておいて、今更僕から逃げるな! 追いかけたらどうなんだ! 本当に僕のことが好きなら、手に入れたいと思っているな
ら……! 」
「まさか……生きていても宜しいと? まだ私は、若のお側にいても宜しいと? 若を……想っていても宜しいと? 」
「……。やっと、辿り着いたんだ……」
ぽつり、と九兵衛は呟く。
「長かった。もう道なんてないと思っていたんだ。それでも真っ暗な夜の闇の中を歩いて……漸く城に着いたんだ……」
「若……? 」
「なあ東城。僕と踊ってくれないのか。やっと城に、お前のところに辿りついたのに。やっと王子様に出会えたのに……。お前は僕を、
シンデレラにしてくれるんじゃなかったのか? 」
「……っ! 」
差し出した手に、東城はたじろいだ。
「……ここが若の目指していた城だと、……この私が、若が会いたがっていた王子様だと、そう仰るのですか」
九兵衛の望みを、漸く理解したのか、東城は何処か恐る恐るといった様子で尋ねる。
「ああ」
「……信じられません……」
それに対してはっきりと九兵衛が頷いても尚、東城はそう呟いた。
「……何が信じられない? 僕はお前のことが好きだと、そう言ったじゃないか」
「それが、ですよ……まだ、夢を見ているようで……」
「夢などであるものか。これは現実だ。ちゃんと僕を見ろ」
「……宜しいのですか」
「何がだ」
「私などを選んで……。私は十二時の鐘が鳴っても、若を帰しはしませんよ。それでも若がお逃げになるのなら、地の果てまででも
追いかけますよ。ガラスの靴を落としていったら、返してさしあげなどしませんよ。靴も、それを履いた貴女も全て、おみ足の爪先
から御髪の毛先まで全て手に入れないと満足できない男ですよ」
「知っている。そんなことは……それに、十二時の鐘などとっくに鳴ってしまった。僕は清らな姫の姿でお前の前に現れることは出
来なかった。随分と、灰に塗れて汚れてしまった……。それでも追えるか。手に入れたいと、言ってくれるか」
「勿論です……! どんなお姿であられようと、貴女は他の誰よりも、気高く凛々しく美しい姫君にあらせられるではありませんか
……! 」
「あ……」
――『今日も麗しの若は、気高く凛々しく美しい』……。
ふと九兵衛の脳裏に、先ほど盗み見た東城の日記の一節が思い浮かぶ。
ずっと……そんな風に思っていてくれていたのか。
十数年も前から、この僕のことを、そんな風に……。
「若……! ああ、若……! 愛しいお方……。私は……私は……! 」
「東城……」
長かった。本当に長かった。
すれ違い続けて、傷つけあって。十数年かけて、漸くこの男と心を通い合わせることが出来た気がする。
馬鹿な男と、九兵衛は思う。勝手に思いつめて己にあんなことをして、後でこんなに後悔して。
だが彼のその、不器用な一途さに、何処か心打たれている自分があるのもまた事実だった。
もう二度と、彼に道を間違えさせまいと、九兵衛は思った。己が彼を導こう。彼の主人として、そして……。
「……決まりだな」
ふ、と九兵衛は笑みを漏らす。
「これから宜しく頼むぞ、東城」
「え、ええ……それはこちらこそ。不束者ですがどうぞ宜しく……」
東城は深々と頭を下げた。その様に九兵衛はクスクスと笑う。
「さて東城。式は何時にする? 次の大安で良いか? 」
「……は? 」
九兵衛の言葉に、東城はまの抜けた声をあげた。
「お前、実家とうまくいってないようだがもっと丁重に扱ってやれよ。僕が挨拶に行きにくいだろう」
「え……と、若……話が読めないのですが……。私の実家の者に若が何のご挨拶があると……」
「決まっているだろう、あちらにお前を貰い受けると言っておかねばな。こちらだけで勝手に話を進めて、また妙ちゃんの時のよう
な騒動になっても面倒だ。ただでさえ東城の連中は今日、お前を追ってここに来ていたようだし」
「え……え……では若、お式というのは……」
ここまで言って尚、九兵衛の言っていることが呑めぬらしい東城はうろたえる。
「無論結婚式、だ。他に何があるというのだ? 」
「……っ! 」
そう告げると、漸く全てを理解したのか、東城は言葉を失って赤面する。
「その前にパパ上に報告せねばな。おい東城、お前パパ上に訊かれてもこうなった経緯について余計なことは話すなよ? 十八年も
僕に仕えてきたお前ならパパ上の信頼も厚いだろうから、余計なことさえ言わなければパパ上も納得するだろうからな。間違っても
元々は皆を騙すために形だけ付き合ってたとか、僕を強姦した上に監禁してたとか、そんなこと知られたらきっと許して貰えない」
「い、いやあの……それは勿論ですが若……話が早すぎてついていけません」
「何? 」
「そういうのはもっとその……段階が必要なものではないでしょうか」
「何を言っている」
戸惑う東城の言葉を、九兵衛は一刀両断に薙ぎ捨てる。
「僕はお前が好きで、お前も僕を好きだと言ってくれた。紆余曲折あったが、お互い相思相愛だったと分かったんだ。これ以上何が
必要だと言うのだ」
愛し合う二人が夫婦になるのは、当然の道理ではないか。何を迷う必要がある?
「……それとも、嫌なのか。僕と夫婦になるのは」
「えっ……いやまさか! 滅相も御座いません!! 寧ろそれは……」
九兵衛の問いに、東城は首を大きく横に振った。
「それは……私が、子供の頃から夢見ていたことですから」
「……なら、何も問題はないだろう」
予想以上の答えに、九兵衛は嬉しさを隠せず微笑んだ。
「僕にばっかり語らせないで、お前も考えたら如何なんだ。これからのことを……」
「え……? そうですね……」
言われて東城は、なにやら考え込む。
「式をあげるのでしたら若、白無垢よりウエディング・ドレスを着ていただきたいですねえ」
「ん? 」
「矢張り若には純白のレースがお似合いになると思うのですよ。それとエンゲージ・リングは矢張りダイヤが宜しいでしょうか。若
の誕生石ですしね。若に相応しい可憐で上品なデザインのものを発注して……」
「……お前。気持ちは嬉しいが、もうちょっと現実的なことを考えたらどうなんだ……」
呆れたように九兵衛は溜め息を吐く。
「ああ……すみません。まだ夢なのではないかと思っていて……」
「しつこいな。夢なんかじゃないぞ、これは」
「ええしかし……これまで何度夢見たか分からない状況で……ずっと叶わぬ夢と思っていたものですから、今が恐ろしい程で……」
「……大袈裟だな」
笑みを零しながらも九兵衛は、東城のその、己に対する一途な想いが嬉しくて、同時に少し、切なかった。
「ああ、若……そちらに行っても宜しいでしょうか? 若のお側に行っても……」
「……構わん。来い。そしていい加減早く自覚しろ、これが夢ではないと」
「若……」
九兵衛の許しを得て、東城は立ち上がると、宣言どおり彼女の隣に腰を下ろす。
「本当に……夢ではないのですね。若が本当に、私を婿君にしてくださると、そう仰ってるのですね……? 」
「……本当に、疑り深いな。お前は……僕が信じられないのか? 」
「まさか……そのようなことは。信じております。何があろうとも、私は若を信じます……! ただ、余りにも……幸せ過ぎて、ま
だ夢なのではないかと……」
「そうか。なら……」
「! 」
九兵衛は東城の手を取ると、それを自らの衿口に差し入れて、胸に手を当てさせた。
「わ、若……」
「……分かるか? 」
そして柔和な笑みを浮かべる。
「僕の鼓動が。……おかしいだろう? 十五年も一緒にいる男を前にして、こんなにもドキドキしているんだ」
「若……」
「こんなに……好きなんだ。お前のことが……」
本当はそれでもまだ足りない。
どんなに言葉にして見せたところで、身体で示してみたところで、この想いを表しきれはしない。
「若……! 」
それを感じ取ったのか、東城は九兵衛の身体を強く抱き寄せた。
「東城……」
九兵衛はそれに応じて身を委ねると、腕を伸ばして東城の首元に回す。
「……んっ……! 」
そして東城は深く屈みこむと、九兵衛の唇に彼のそれを重ねた。九兵衛もそれを受け入れ、唇を開いては差し入れられた舌を己のそ
れと絡める。鋭い鉄のような味が口の中に広がった。恐らく彼の血だろう。思って九兵衛は、労わるように東城の、何度も噛んでボ
ロボロになった唇を舌先で舐める。
――運命の恋なんて、王子様とお姫様の物語なんて、もう信じないと思っていた。酷く回り道をして漸くこの男と結ばれて、けれど
これがエンドなのではないと知っている。ここから始まるのだ。僕達の物語は。でも……でも今は。酔いしれていても良いだろう。
好きな男と結ばれた、この幸せに……。
そんな事を考えながら、九兵衛は丹念に己の口腔内を蹂躙する東城の舌をなぞり上げた。
「……っは……」
一方で衿口に差し入れさせた手で次第に胸を揉みしだかれ、甘美な刺激に頭が痺れた。しゅる、と音を立てて、複雑な飾り結びにさ
れていた筈の帯締めが手際よく外される。
「……! 」
やがて真紅の帯が崩れていくのを感じて、漸く九兵衛は我にかえった。
「……おい、何をする気だ」
低い声で、九兵衛は東城を睨みあげる。
「何って……今更何を仰ってるのですか。また何をしているか分からないとでも? 」
「分かっているから言っているんだ。何を考えているんだ、お前は」
さも当然のように言う東城に、九兵衛は呆れ果てる。人が感傷に浸っていたというのに、この男は……。
「僕を力付くで無理やり犯したこと、反省しているんじゃなかったのか? 」
「まさか……! それは無論、心より反省しております。誓ってもう二度と、あの様な真似は致しません!! 」
「だったら、今のこの状況は何だ」
「それは……。いきなりあんなことをされて、抱き寄せても、接吻をしても抵抗されないどころか、積極的に応じてくださったら、
誰だってそういう雰囲気なんだなあと思うでしょう」
「……」
「……でも無論、若がお嫌と仰るのならしませんよ……若の言うように、あの様なことをしてしまったのですし……」
「嫌という訳ではないが、呆れているんだ。こんな時くらい……そういうのでないことを考えられないのか」
「こんな状況だから、そういうことしか考えられないのではありませんか。私が今どれほど喜んで、舞い上がっていることか。この
まま天にも昇ってしまうのではないかと思っています」
しかし東城も引かない。
「言ったでしょう。私はもう十何年も若のことだけを想い続けていたと……。若とこのような関係になる以前から、何度若と肌を重
ねてみたいと焦がれたことか……。私が何度若のことを想いながら達したと思ってらっしゃるのですか。言っておきますが三桁じゃ
収まりませんよ」
「いや……そういう具体的な数字は数えなくていい。何か生々しいから」
それにしても余りに多すぎる気がしたが、しかし或いはこの男なら……。
「何度ソープやイメクラでも達する瞬間思わず若の名を口にしてしまって、まあ向こうは殆どそのことには敢えて触れないでくれま
したけどたまにつっこんでくる女子がいて、『お兄さんもしかしてホモ? 』とか言われて、あろうことか『ああ〜お兄さん髪長く
て綺麗だし色白だしねえ』とか、同性愛者と誤解された上に私が女役なのかと思われて、しかも形成外科のチラシまで渡されて……
」
「もういい、わかった。わかったから……」
殆ど愚痴になってしまっている東城の言葉を、九兵衛は遮った。
――お前も同じだったんだな。
残酷なほどに器用な男なのだとばかり思っていた。愛していない女子とでも平気で寝れて、心にもない、その場限りの甘い言葉を囁
けるような……。だがこの男もきっと、何処か虚しかったことだろう。性欲は満たせても、その先には何もない関係。本当に欲しい
異性は他にいて、それでも……。
ふと九兵衛は、北大路の言葉を思い出す。多かれ少なかれ男は好きでもない女でも抱けるが、しかし愛しているからこそ抱きたいと
思う、というのもまた真理でしょう――彼はそう言っていた。東城の気持ちなど知りもしなかったあの時は意味が分からなかった。
だが今なら分かる。彼は気づいていたのだろうか。己だけでなく、東城の気持ちにまでも……。だとしたら。彼は己と東城の問題だ
から口を挟んだりしないと言っていたが、恐らく彼の導きなしでは己はここまで辿りつけなかった。己も東城も不器用だと彼は評し
ていたが、きっと、彼の言うように、ずっとすれ違ったまま平行線を辿っていたことだろう。
「……北大路に、感謝せねばな」
「……え? 」
呟いた言葉に、東城はきょとん、とする。
「……私は複雑ですな」
しかし続けて、それを柔らかく否定した。
「何故だ? 」
「だって……若の一番大切なところを見たのでしょう? 私しか知らなかった部分を……あの機械を外すためとは言え」
「……何を馬鹿なことを言ってるんだ」
あの機械を挿れたのはお前の癖に。お前など何人も、他の女を抱いたくせに――九兵衛は思ったが、しかし口には出さなかった。今
更過ぎたことを責めても仕方が無い。彼はずっと、今も尚己だけを愛していたと言っているのだし。
「言っただろう。あいつは僕に手を出さなかった。僕が東城のことを好きだと知っていたから……北大路だけじゃない。西野や、あ
の南戸ですら……」
「……二度とそんなことはなさらないでくださいね」
東城は念を押す。
「確かに彼らは若や、或いは私のことを尊重してくれたのでしょう。しかし彼らのような善意で欲望を押さえつけてくれる人間ばか
りではないんですよ。若が誰のことを想っていようが、貴女の様な美しい女子を抱けるのならそれで良いと思う男だって沢山いるの
ですから。若の心が傷つこうと、己の欲さえ満たせればと思う男は幾らでも……いえ、私の言えることではありませんな……」
「……東城は」
自嘲気味になる男に、しかし九兵衛は更に踏み込む。
「東城は抱けるのか。他の男を愛している女子でも」
「……かえって都合が良いと、以前の私ならそう思ったでしょうな。ずっとただ一人の女子しか愛せず、苦しんできた私を想ってく
れるような女子よりは」
東城は否定しなかった。
「……若。確かに私はここに至るまで随分と、爛れた関係にばかり浸っておりました。でもこれからは……誓って貴女ただお一人に、
この身も心も全て捧げましょう。この命続く限り、若のお側におりましょう」
「東城……」
九兵衛は東城の言葉に、ただ彼の名を呼んで応えた。
「……その、しても良いぞ」
「……え? 」
「お前の理屈が分からないわけじゃない。好きだから身体を求めるのは、繋がっていたいと思うのは僕も同じだ」
「若……! 」
「……わっ!? 」
照れながら言った言葉を聞くや否や、東城は突然、九兵衛を強く抱きしめると、そのまま押し倒すような形になる。
「と、東城!? 」
「ああ若……! 私は嬉しゅう御座います。余りに幸せで……このまま死んでしまうのではないかと……! 」
「お、大袈裟な奴だな! 」
「若に……若に、心から私のことを求めて頂けるなんてっ……! 」
「とう……ちょ、ちょっと待て」
「若……? 」
「その……盛り上がってるところすまないが、先に風呂に入らせてくれないか……? 」
「お風呂……で御座いますか? 」
「昨日以来、ずっと入ってないんだ……まさかお前と、こんな関係になれるとは思っていなかったし……だからその……」
「はあ……私は構いませんが。若の汗や垢でしたら、若の体臭でしたら寧ろ私にとってはどんな名品の香よりも芳しい……」
「やっぱりお前変態だろう! お前が構わなくても僕が構うんだ!! 」
「まあ、そういうことでしたら……宜しければ一緒に入りませんか? 」
「何? 」
「お背中お流しいたしますよ。昔よく、していたではありませんか」
「……」
もう十何年以上もの、ずっと昔。まだほんの子供だった頃。女であることを隠していた己の身体を、世話係の東城は洗ってくれてい
た。
「そうだな。……頼もうか」
それも良いかもしれない、と九兵衛は思った。苦難ばかりだった少女時代を、少し懐かしく思いながら。そう……彼はどんな苦難も
己と共にしてくれた。
「はい」
九兵衛の言葉を受けて、東城は立ち上がると、道具やら着替えやらを手早く用意した。
いつぶりだろうか。昔もこうして東城と共に浴室に向かっていた。本来女中にでもやらせれば良いのだが、あの頃の己は彼女達に裸
身を晒すわけにはいかなかった。かつてのその習慣を終わらせたのは東城の方からだった。あの頃の己は自分が女子で彼が男だとい
うことの意味を深く考えていなかったから、ただ寂しいばかりだったが、今思うと彼はそんな子供の時分から己を意識していたのだ
ろうか。そう思うと少し照れくさい。しかしあの頃は世話役の少年を侍らせて浴室に行くのを周囲は何の疑念も抱かずに通り過ぎて
いったのに、もう夜も遅いのでそれ程の人数ではないが、今日はすれ違う人達がやけに奇異の眼差しを向けてくる。……矢張り女子
の己が男の彼に浴室で世話をさせるのはおかしいのか、如何したってその先にある関係を意識させてしまうものか、そう思うと九兵
衛は恥ずかしくなった。
「あら東城さん」
ふと、通りすがった一人の女中が声をかけた。しかし仮にも次期当主である己を差し置いてどうしてこの男の名を呼ぶのか、九兵衛
が疑問に思っていると。
「そちらの可愛らしい姫君は? 輿矩様のお客様ですか? 」
「……何を言っている」
続けられた言葉の意味が分からず、思わず九兵衛は尋ねた。
「わ、若様!? 」
すると彼女は、声が裏返る程に驚く。
「こ……これは失礼を! 」
女中はぺこりと頭を下げると、そそくさと立ち去ってしまった。
「一体何なんだ……」
呟いてしかし九兵衛は漸く気づく。己の今の姿に。
成る程これでは、おかしな目で見るなという方が無理な話だ。今まで柳生家の嫡男として正装していた筈の己が、突然こんなレース
たっぷりの女子の衣装を着て出歩いていては……。
「と、東城……」
「はい」
「急ぐぞ」
堪らず九兵衛は従者の手を引くと、早足で浴室へと向かった。
そしてたどり着いた浴場で、九兵衛は早々と脱ぎ始めようとしたが、複雑な作りの衣装は脱ごうとすればするほど絡まった。見かね
た東城が手伝いますよ、と言って来て、手際よく外しにかかる。そうして九兵衛は、徐々に産まれたままの姿になった。
薔薇の形の眼帯も外されて、ついに九兵衛は一糸纏わぬ姿となる。ふと、鏡に己の姿が映っているのが見えた。背後には東城が、羽
織を脱いではきっちりと畳んでいる。
こうして下駄も履かずにこの男の隣に立ってみると、その体格の差がはっきりとわかる。理想のカップルの身長差は十五センチだと
か何処かで聞いたが、到底届くまい。年とて大して変わらないのに、相変わらず落ち着いた風情の彼とまだ幼さの残る顔立ちの己は
十か、下手をすると十五も離れて見える。同じ年齢の妙は実際十歳以上年上という近藤と並んで立っても遜色ない程の色香を持って
いるのに、この差は一体何なのか。その上曝け出された左目の古傷は、相変わらず醜く残っていた。
「……東城」
「はい」
九兵衛が名を呼ぶと、東城は手を止めてこちらを向いた。
「……お前は本当に、僕を美しいと思っているのか」
何処もかしこもコンプレックスだらけなのに。あれが本心だというのなら、その殆ど閉じているようなお前のその眼には、己は如何
映っているのか。
「まだ疑ってらっしゃるのですか? ……本当ですよ。本当に私は、若以上に他の女子を美しいと思ったことなどないのです。若が
憧れていらっしゃる妙殿よりも、私には若の方が魅力的に思います」
「妙ちゃんより? まさか……馬鹿も休み休み言え」
妙はこの江戸中の女子を集めても、並ぶ者のない程の美女だ。彼女に遠く及ばない点こそ数多くあれ、己が彼女より優れた点など見
当たらない。
「私は若に嘘は申しませんよ。白雪姫の魔法の鏡の如く、真実だけをただ若にお伝えしましょう。貴女はこの世で最もお美しい」
「それでは僕は、意地悪なお妃様か」
「まさか。それなら話が進みません。私にとって最も美しい女子は、永遠に若ですから。二十年近く変わらなかった事実が、この先
如何して変わりましょうか」
そっ、と東城は九兵衛の髪を撫ぜる。
「この黒く艶やかな、絹の光沢の御髪。陶磁器の様にすべすべとした瑞々しいお肌。琥珀の様に輝く涼しげな瞳。珊瑚色の薄くも柔
らかい唇。少しあどけなさの残る、中性的で凛々しいお顔立ち……御覧なさい。これ程美しい女子が他に、この世におりますか? 」
甘い声で耳元で囁かれて、九兵衛は一瞬、ぞくり、とする。しかし長身の彼が小柄な己にそうするために、中腰に屈んでいるのを九
兵衛は見逃さなかった。
「無理をしなくて良い。今だってそんなしゃがみ込んで……。僕なんて、未だに子供に間違えられるし。それにお前には、この傷が
見えないのか? 」
「子供だなんて……若はこんなに立派に成長なさったのに」
「成長? 僕がか? 」
「だってそうでしょう。昔はお胸もぺったんこで、腰も寸胴で、手足もただ棒のように細くて……。あの頃のようにただ愛護の情を
そそるだけのお身体でしたら、あの夜私もあんな恐ろしい考えなど抱くことなく過ごせたでしょうに。それがこんなにも、小さなお
身体に関わらずお胸は実に豊かになられて、対照的に腰はきゅっ、と括れて美しい曲線を描くようになられて、お尻もつんと高く張
りあがって……鍛え上げられてよく締まっていながら、それでいて丸みと柔らかさを帯びた、実に女子らしいお身体に成長されて……」
「な……馬鹿かお前は!? あれ以前にお前が最後に僕の裸を見たのは、十何年前のことだと思ってる!? 幾ら僕だってな……! 」
「勘違いなさらないでくだされ。一体何にそんなにも劣等感をもっていらっしゃるのか知りませんが、余り伸びずに止まってしまっ
た身長も、その影で女子らしく立派に成長なさったお身体も、私は若の何処もかしこも愛しく思っているのですよ。その低く澄んだ
お声も、凛とした佇まいも、若のもつ全てを……。……それに、申し上げたではありませんか。私はこの傷も美しいと思っておりま
す、と。この傷は、若が懸命に生き抜いた証ではありませぬか、と」
「……」
「若。私が何よりも美しいと思っているのは、何よりも惹かれてやまないのは、貴女のその気高きお心なのです」
「……何? 」
「何の苦労も知らずに夢のような世界で育って、ただ王子様が来てくれるのを待っているだけのお姫様だったら、私はこんなにも若
に惹かれはしなかったでしょう。あのような苦行に晒されてそれでも捩れもせず、真っ直ぐに生きようとしていた貴女だから愛しく
思えた。ご友人の窮地に可憐なお顔が傷つくことも厭わず敵に立ち向かうような貴女だから一層美しいと思えるのです。優しい母上
に先立たれ、意地悪な継母達に扱き使われても耐え抜いて、ただ一度だけお城の舞踏会に行ってみたい、そんなささやかな望みを抱
いた清らかなシンデレラだったからこそ、魔法使いはその夢を叶えてあげたくなった……そうは思いませんか? 」
「それでお前は、一年に一度だけ、魔法をかけてくれた、と? 」
「……いえ。結局私は魔法使いにもなれなかったのでしょうね。私が貴女に与えたのは希望の光ではなく絶望の闇だった。それでも
若はその闇を自らの力で切り開いて、南瓜の馬車も使わず自力でそこから抜け出してしまった。そうして私の闇に呑まれもせずに、
その眩しい光で私を照らしてくださった。若に救われたのは、私の方ですから」
「……東城。言っただろう? 僕とてそんな清らなシンデレラではいられなかった」
九兵衛は自嘲気味な笑みを零す。
「気高くなんてないんだ、僕はただ……不器用なだけで。お前にずっと護られていたことすら、その鉄壁の城塞を崩されて、侵入し
てきた敵を認めて初めて気づいたくらい鈍感で。況してやお前の気持ちになんて気づきもしなかった。それどころか自分の気持ちに
すら、気づくのが余りに遅かった。昔から泣いてばかりで……それでも、そんな僕でもこれまで真っ直ぐ生きてこられたのは……。
否、すっかり話が長くなってしまったな。入ろうか? 」
「……承知いたしました。では、続きは中で……」
扉を開かれ風呂場に促され、少し遅れて準備を終えた東城も後から入ってくる。湯加減を確認しては風邪をひかぬようにと言ってか
け湯をして、九兵衛を座らせると宣言通りに東城はその背を流した。まるで一級の骨董品を磨き上げるかのように、丁寧に丹念に、
爪の先まで東城は九兵衛の身体を泡立てた石鹸で洗い上げる。
「……昔を思い出すな……」
九兵衛はふと呟く。
「あの時から随分と、時間が流れた。……色々とあった。お前には散々迷惑をかけられたし、酷いこともされた。僕もお前を苦しめ
てしまった。それでも矢張り、お前がいつも僕の側にいてくれたのは確かだ」
「若……」
「なあ東城。これからもずっと、ずっと僕の側にいてくれ。そして僕を見守ってくれ。昔の様に……」
「無論です。……いえ若、昔と今は違いましょう。これからは……」
「……そうだな。なら東城。これからは僕を支えてくれ。世話役としてではなく、僕の夫として……」
「若っ……! 」
「わっ!? 」
不意に背後から泡だらけの身体を抱きしめられて、九兵衛は驚く。
耳元にかかる息が荒い。背に感じる鼓動が速い。何よりも、腰に当たる熱い猛りが、東城の行動の意味を九兵衛に訴えた。
「……お前という男は! 何を考えているんだ!? 」
九兵衛は怒りをあらわにした。先ほど叱ったばかりだと言うのに、懲りない男だ、と。
「私が考えているのは、いつでも若のことばかりで御座います」
「……っ! 」
「お許しください。しかし若、何も考えるなという方が無理で御座います。若が、ずっとお慕いしていたお方が私の妻になってくだ
さるなど……今直ぐにでも、今すぐにでも夫婦の契りを交わしたいくらいでっ……! 」
「東城……。だ、だがなお前、場所を考えろ。どうしてお前はこんなところで、そういう気分になれるんだ」
「え、そりゃあ私はそう……いや、それ以前にこの場所で、若の残り湯を味わいながらこれまで何百回一人でしていたことか……」
「だ、だからそういう生々しい告白はいい! だ、大体、こんなところでする気か!? 」
「いけませんか? 」
東城はきょとん、とする。何が悪いのか、と言った具合だ。
「だ、だって……こんな……」
「そうですね……このままではお体を痛めてしまうかもしれません。どうぞこちらに」
「! 」
振り返ると床には、いつだかすまいるに東城が持ち込んでいた赤いマットが敷かれていた。あの時も思ったが、何処からこんなもの
を出したのだろう。
「ほ、本気か? 本当にこんなところで、お前は……」
「若とでしたら、何処ででもしたいですよ。……勿論若がお嫌でしたら強制はしませんが」
「……っ、嫌……では無いが」
そんな風に引かれると、否定したくなってしまう。それをこの男は知っているのか知らないのか……。
「でしたら……」
暫くの間をおいて、九兵衛は頷くと、マットの上に座り込んだ。既に湯のかかっていたらしいそこは温かかった。
「……東城」
しかしそのまま、何故か何処かにいこうとする男の名を、九兵衛は呼んだ。
やがて戻ってきた男がこちらに近づくと、九兵衛は無言で手を伸ばす。
東城はそれに応えるように、九兵衛の前に屈みこむと、その身体を優しく抱いた。九兵衛は東城の首に腕を絡めると、自ら彼の唇に
口付ける。どちらからともなく舌先を絡め、吸いあう度に水音が頭に響く。激しく混ぜあって、最早どちらのものともつかぬ唾液が、
喉元を下っていった。
気の遠くなる程に、二人はそうして互いの唇を貪っていた。これまでの溝を埋めていくように、何時になく濃密な口付け……。
どれ程の間そうしていたのか、それでも漸くゼロだった二人の距離が離れると、恍惚としながら九兵衛は東城の胸にしなだれかかる。
どくどくと脈打つ鼓動の音が聞こえた。いつも憎憎しいほど涼しい表情をしているのに、気持ちは己と同じなのだと思うと嬉しく
なる。
「若……冷たかったら仰ってくださいね」
「え? ……ひゃあッ!? 」
胸に落ちた東城の手は、しかし思いもよらぬ粘性を持っていて、思わず九兵衛は声を上げる。石鹸液でも塗られているのかと思った
が、しかしそれにしては入念に擦り付けられているのに泡立たないのが妙だった。全身に塗られたその液体が何なのか、考えを巡ら
せているうちに九兵衛はある思いに辿りつく。
「……成る程な」
丹念な愛撫で熱くなる身体とは裏腹に、酷く冷めた声が漏れる。
「いつも女郎屋でこういうことばかりしているから、風呂場でそういう気にもなれると……」
「あ……いや……」
九兵衛の指摘に、東城はばつの悪そうな顔をする。
「……最初からその気だったのか。お前は……あんな隅々まで僕の身体を洗って、あの時からもう既に、お前はこんな風になってい
たものな」
「あっ……」
完全に屹立しているそれを握り締めると、一瞬手の中でびくん、と跳ねる。
「今まで普段こういうことをしてきたから、僕にも、と……? 」
「若……」
「……お前に求められるのは嬉しいんだがな、ここまでされると不安になるぞ。お前はただ、僕の身体で性欲を満たしたいだけなん
じゃないかと……そうでなくてもお前は、金を払ってまで他の女とこういうことを何年も前からしている訳だし……僕に気を使って
ああいう店でのサービスとやらを受けれない代わりに、僕で……」
それは自分でも勝手だとは思う。関係を持ち始めていた当初は常に己の方から通っていた状態に、彼からは決して己に情事の痕を、
所有の証を刻もうとはしなかったことを寂しく思い、かといってこんな風に見境なく求められると戸惑う。一体己は如何すれば満足
するのか……。
「……それは違いますよ、若」
しかしそんな理不尽に詰られて尚、落ち着いた様子で東城は首を横に振った。
「言ったではありませんか。若がお嫌でしたらこういうことはしない、と。性欲処理だなんて……私はただ、若に気持ちよくなって
頂きたいのです。若の悶える様を眺めていたいのです。そして若に……求められたいのです、私を」
「……」
言われた言葉に、九兵衛は少し頬を染めながらも、黙って耳を傾ける。
「店でだってこんなことしてませんよ。如何して客として金を払っている私が、向こうの身体など洗ってやらねばならぬのですか。
私が洗われるのなら兎も角」
「それは……」
「洗うのも洗われるのも大して変わらないと? そうですね。若からすればそうなのかもしれません。結局やっていることは同じな
のですから。けれど……私にとってはその差は大きいのですよ」
「……どういうことだ」
彼の言うように、己にとってはどちらもこの上なく不快であることに変わりはない。他の女に触らせなどして欲しくはないのに。況
してやこの男が金を払ってまで。
「若は床での私を、女子に細やかに尽くす男だとお思いですか? 一々気遣いをして」
「……知らん。そんな事を訊かれても、他の男が閨の中では如何なのかなど知らないし、知りたくもない。比べようがないじゃないか」
今日初めて、北大路とは少しそんな感じになりもしたが、今思えばあの男は初めから己に嫌悪感を抱かせるようなやり方をとってい
たのではないのだろうか。それではなんの参考にもならない。
「そうでしたね、私は若の初めての男でしたし……」
「ああ。そして最後の男だ」
「若……!
……と、まあ、それは兎も角。私も初めてなんですよ。最中にこんなにも相手の事が気になったのは。こんなにも相手に尽くした
いと思ったのは。こんなにも……相手の全てが欲しいと思ったのは」
「? それは、どういう……」
「自分でも……いつも若をどういう風に扱えば良いのか、戸惑っているばかりで……おかしな話でしょう。どの道一番愛しい人は手
に入らないからと、勝手に自暴自棄になって少年の時分から、経験回数だけは重ねてきたのに……」
「……何を言っている。いつも僕を良いようにしているじゃないか。初めてのあの夜から、僕の身体中舐めまわして……足の裏だと
か、僕の……その、あそこだとか……あまつさえ、尻の穴まで……初めてお前に挿れられて、痛がるばかりだった僕をお前は余裕を
持って優しく宥めてくれたし、僕がお前の……あれとか吐いてしまった時だって、お前は直ぐに対処してくれて……お前のその慣れ
た様子に、どれだけ苦々しい想いをしてきたことか……」
「ですから、今まで相手にそこまでしたことなんてないんですよ」
非難めいた九兵衛の言葉を、しかし東城は否定する。
「はっきり申し上げて、私は今まで相手をそれこそ性欲処理の道具にしかしてきませんでした。対価を支払っている以上、私が満た
されるのは当然だと、相手のことなど如何して思いやる必要があるのかと思っておりました。だから怖かったのです。分からなかっ
たのです。そんな経験しかしてこなかったから、誰よりも大切な女子に、どう対処すれば良いのか……」
「東城……」
「若……。辛かったらいつでも仰ってくださいね? もう二度と、若を傷つけたくはないんです」
言って東城はそっ、と九兵衛の身体をマットの上に横たえらせた。壊れ物を扱うように、丁寧に。
「……若。若が私を選んでくださったこと、本当に嬉しく思っております。誇らしくすらあります。しかし若、それでも私は到底、
私が若に相応しい男とは思えぬのです。……狭量なんです、私は。あまりに……」
「東城……? 」
頭上の男は少し悲しげな表情を浮かべた。
「私は他人のことなど如何でも良いと思っている人間です。今日とて実家の者と随分揉めてきました。血の繋がった彼らですら、ど
うなろうと構わないと思っております。ここまで私を育ててくれたこの柳生の家とて、没落しようが知ったことではない、とすら……。
妙殿との一件の時とてそうです。幼いときから若に仲良くしてくれていた彼女が、若をどのように想っているかなど、若が彼女
の弱みに付け入っているだけだということなど初めから知っておりました。それでも私は若を止めませんでした。幼少の頃からよく
知っている彼女が一生泣くことになっても、それでもそれで貴女が満足なさるなら、幸せになれるのなら、と進んで貴女に協力して、
結果新八殿達とも刃を交えました。……私はただ、貴女さえいればそれで良いのです。例え世界が滅んでも、貴女さえいれば……。
若……貴女は私の全てなんです。それ以外何も要らぬのです。私は……」
「東城……。……っ! 」
突然覆いかぶさるように、東城は倒れこんできた。
「でも私は、もう若から逃れられません。月並みですが、貴女の虜となってしまいました」
「ふっ……あ! 」
首筋を男の舌が這う。何度も確かめるように、じっとりと舐られる。
「若以外の女子など、私が如何して愛せましょうか。花街一の花魁だとて、私を惑わしはしなかったのに。どんな熟練の技巧より、
若の一挙一動が愛おしいのです。私の愛撫に、恥じらいながらも全身で悦んでくださる若が。私の手解きを、懸命に身に着けようと
してくださる若が。破瓜の痛みに、泣き言一つ仰らずに耐え、私を受け入れてくださった若が……」
「ひぁ……ぁっ、東城っ……」
徐々にその舌が下りていく。鎖骨をなぞり、胸の谷間を這って、
「ひゃうぅっ! 」
やがて乳房の頂点に達したとき、九兵衛は甲高い嬌声をあげた。
「……っは……それはな東城、お前だったからだ……」
「……若? 」
一瞬の電撃が走り抜けた合間に九兵衛が告げた言葉に、東城の手が止まる。
「あの時、あの痛みに耐えられたのは東城。お前がいてくれたからだ。お前が優しく、僕の名を呼んでくれたから、僕は安心するこ
とが出来たんだ……。僕が気持ち良いのだって、お前がいつも優しく僕の身体に火を点けてくれるから……だから僕も、それに応え
たかった……」
「若……嬉しゅう御座いますっ……」
「……ふぁっ!? 」
言って東城は、勃ちあがった九兵衛の胸の頂点を口に含むと、或いはそれを舌先で転がし、或いは強く吸い上げて刺激する。
「あっ……は、ぁあぁっ……」
その度に九兵衛の唇からは、甘い声が絶えず漏れた。
「……っふ……ふふ……若……もうこんなに、固くなさって……」
「やんっ……ぅ……」
そして漸く口から開放しては、唾液に塗れたそれを甘く摘み上げる。
「良いですよ、若……もっと感じてくださいっ……この私を……」
「あっ……!? 」
東城は完全に、九兵衛の上に身体を重ねた。全身に体温が伝わる。
「ほらっ……分かりますか? 若……私がっ……」
「んぁぁっ……! 」
言いながら東城はその身体を九兵衛に大きく擦りあわせた。
「ひっ……ぁはぁぁぁっ……! 」
それは強烈な感覚だった。東城が動くその度に、粘性の液体で覆われた身体が刺激される。まるで全ての皮膚が粘膜になってしまっ
たかのような錯覚。全身を同時に舐められているような甘美な刺激に、九兵衛は身を委ねきった。
「ねえっ……若っ……」
「あっ……ふぅっ……! 」
東城は粘液に塗れた手を、九兵衛のそれに重ねた。指の股の間を男の骨ばった、矢張り己のそれよりずっと太くて長い指がぬるりと
擦って、そんな刺激すらもが九兵衛を昂らせる。
「この手も足も、髪の一本一本に至るまでも、こんなにも私は若のものなんですっ……! 身も、心も全てっ……。私の全てを若に
捧げます……。私の全てで若を、こんなにもお慕いしておりますっ……! 張り裂けてしまいそうな程に、私の胸中は若でいっぱい
なんですっ……ああ、若……愛しいお方っ……」
「……っは! とう、じょぅっっ……」
九兵衛はもう片方の手を伸ばすと、東城の頬に触れた。
「良いぞ東城っ……! 貰い受けてやるっ……! お前の全てを僕が……受け止めてやるっ……!! 」
その長い金の髪も。細い瞳の送る優しげな視線も。少し高めの甘い声の響きも。形の整った骨ばった手も。よく鍛えられた逞しい腕
も。厚い胸板も。広い背中も。
全て僕のものだと、そう言ってくれるのか。
それならば。
「恐れるな東城っ……! もっと……全部曝け出してくれ、お前を……! 二度とお前を暴走させたりしないっ……! お前の手綱
は、僕が握ってやるっ……! 」
「若っ……! 」
するすると、東城の指が上り詰めていく。粘液を纏った十本の指が九兵衛の身体中を忙しなく動き、その度に九兵衛の身体から切な
い声があがった。腕も胸も腰も腹も、耳も背も尻も脚も、爪先に至るところまで、九兵衛の身体を知り尽くした指は余すところなく
愛撫を施した。
「ああ……若……」
そしてその手が、九兵衛の仄暗い茂みに達する。
「ふふ……私はここには、何も塗っておりませんのに……」
「やぅっ……! 」
鋭い刺激が、身体中を走り抜けた。
「……あっ……はぁっ、わ、分かってる……癖にッ……! 」
わざとそんな風に、羞恥を煽るような言い方をして。
「ええ、存じておりますとも……こうして欲しい、のでしょう? 」
「あはァッ! 」
舌先で最も敏感な部分を擦られて、九兵衛の身体は跳ね上がる。
「若……」
東城はそこに顔を埋めると、丹念に舐め上げた。その度に九兵衛はびくびくと、身体を震わせる。
「は……やぁぁぁンッ! 」
「ああ若……ふふ、幾ら舐めとっても一向に減りませんねぇ……それどころか溢れ出る一方で……」
「うっ……くゥううっ! 」
ずず、とそれを吸い込む音が、反響しやすい風呂場の中で大きく響く。汁物を音を立てて啜るのははしたないと、幼少の時分に言っ
たのは他ならぬこの男なのに。実際食事の際には、実に品良く物を口に運ぶ男なのに。そんな彼が、品性も礼儀も忘れて、一心不乱
に己のそこに貪りついて……。
「堪りませんねぇ……本当、いつ口にしても……若のお味は……っ」
「あッッ…はぅ……あはァッ! とうじょっ……! 」
ちらり、とそこに目を向ける。それは何時見ても、ぞくぞくとする光景だった。いつも上品に澄ましているこの男が、愛して止まな
いこの男が、己の股座に顔を埋めて、そこから溢れ出る体液を、美味いと言ってはとり付かれたように啜り続ける……。
ふと、東城と目が合った。情熱的な視線を注がれて、九兵衛の身体が熱くなる。
「ふッ……ゃあァアアァァァァァァァッ! 」
その眼差しで一気に絶頂へと登りつめてしまった九兵衛は、一際高い嬌声を上げて果てた。
「っはぁ……はぁ……」
「若……」
「ふゃぁっ……」
東城は再び、九兵衛の身体の上に覆いかぶさる。擦れるたびに感じる粘性の刺激が、達したばかりで敏感になっている九兵衛の全身
を責めた。
「お慕いしております……若……」
「……ひんッ! 」
耳元で甘い声で囁かれ、胸が高鳴ったのも束の間、次の瞬間東城は九兵衛の耳朶を甘く噛み、その耳孔に舌を差し入れる。
「ひぁあぁっ……! と、東城ッ……僕もだっ……! 」
ぴちゃぴちゃと、奥を突かれる水音が頭の中に響き、どうにかなってしまいそうな刺激の中、九兵衛は何とか言葉を紡ぐ。
「僕もお前が好きだっ……! 東城ッッ……! 」
「……っふ……若……」
「んっ……! 」
そして耳から引き抜いた舌を、今度は九兵衛のそれと絡めた。
鼻を擦り合わせて、舌先で突き合い、触れ合うようにしていた口付けは、徐々に激しく深いものになり……。
ふと九兵衛は、太腿の間に、擦り当てられた猛る熱を感じた。快楽を追い求めるように、己の身体の上で疼いている熱……。
「……かっ……? 」
そっ、とそれに手を伸ばすと、驚いたのか東城は唇を離した。
「東城……」
そしてその隙に九兵衛は彼の名を呼ぶ。
「……今度は僕の番だな」
「若……」
悪戯っぽく笑って見せた九兵衛に、しかし東城は首を横に振る。
「良いんですよ若……私のことは。どうぞ若が気持ちよくなることだけ考えてくだされ。私はそれで……」
「……僕がしたいんだ」
だが東城の制止を、九兵衛はやんわりと拒んだ。
「僕がお前を、気持ちよくしてやりたいんだ……なあ、こういうのって、二人で気持ちよくなるものだろう? 」
「若……。……それでは」
「? 」
九兵衛の言葉を受け、すっ、と東城は立ち上がる。
「お言葉に甘えさせて頂きましょうか」
「! 」
東城は今度は頭が互い違いになるように、再び九兵衛の上に身体を横にした。九兵衛の頭上に、東城の漲る逸物が押し当てられる。
愛しげに九兵衛がそれに手を伸ばすと、
「……ひあぁッ! 」
しかしそれより先に、九兵衛の最も敏感なところを刺激され、思わず九兵衛は手にしたそれを握り締めた。
「……んっ……」
九兵衛も負けじと、その先端に口づけては、ゆっくりとそれを口の中に沈めていく。
「っふ……! ……ぅっ……! 」
男の弱いところに、舌先を這わせ、舐りあげ、時には焦らす様に……しかしその間にも絶え間なく与えられ続ける快楽の波に、溺れ
て意識を手放しそうになる。
「……っは……若ッ……! お辛かったら、止めて構いませんからねッ……! 」
「ぅっ……むぅ……っ! なっ……なめるなッ! なれがッ……! 」
そんなことを言われれば、九兵衛は益々闘争本能に火がつく。一層激しく大胆に、東城の急所を攻め続けた。
「……っぁ……ふぅうぅんッ! 」
膣口に長い指を差し入れられ、抜き差しが繰り返される。そうしてびくん、と跳ね上がる身体の反応に合わせて、九兵衛も口に咥え
たものを強く吸い上げた。
互いが互いの性器を貪る姿。遠くから見れば、きっとこの上なく卑猥な光景だろう。だが……それでも良い。この男となら……何処
までも堕ちてしまいたい。
「っは! あ……ふむぁあぁぁぁァッ! 」
そんな事を思いながら、九兵衛は二度目の絶頂を迎えた。
「……若……」
「ふぁ……? 」
気づくといつのまにか、東城は九兵衛の方へ向き直っていた。熱に浮かされ、焦れたその表情に、男が求めているものを察すると、
九兵衛は頷く。
「……良いぞ、東城……」
「若……」
それに応えるように、東城は彼自身を九兵衛の股間に埋める。
「……ぇっ……ひぁあぁッ!? 」
「は……ッ! 若ッ……! 」
そうして待ちかねたように、激しく腰を動かす。
「……ゃっ! あぁッ……! 」
互いの敏感なところと、粘膜を纏った太腿とが擦れ合って、九兵衛の熱を再び燻らせる。
「ふぁァッ……! はぁあっ……! 」
確かにこれも気持ちが良い。……けれど。
「あぁっ……! とっ……東城ッ……! 」
既に九兵衛は、その程度の刺激では満たされぬ段階にあった。これでは足りない。決定的に……。
「もぅ……もうっ! ……挿れてッ……! そこにッ……! は……早く……ッ! 」
また焦らしているのだろうか。本当に、意地の悪い男だ。
「……っは……」
九兵衛の求めからやや遅れて、東城は立ち上がると、後方に手を伸ばしては、手にした物を手早く装着する。その様を見て何となく、
思った。もしかしたらこの男は、己を意地悪く焦らしているのではなく、まだ躊躇しているのではないか? 己にあのようなこと
をしてしまったことに対する後悔と自責の念に、まだ囚われているのではないか?
「……東城……」
再び覆いかぶさろうとする東城のその部分を、しかし九兵衛は彼の動きに逆らうようにやんわりと握る。
「……そんな顔、なさらないでください。細工なんてしてませんよ……今度は……」
「今更何を言っている」
「……っ」
少し気まずそうな顔をする東城に、九兵衛が静かに言葉を返すと、彼の顔は益々苦痛に歪んだ。
「……責めているんじゃない。その……つけなくて良いと言っているんだ」
「若……!? 」
九兵衛の言葉に、東城は眉を上げる。
「お前も、その方が良いんじゃないのか? こんなゴム越しよりも、直に触れ合った方が……少なくとも僕はそうだった」
「何を仰っているのですか……! 」
そして東城は声を荒げた。
「それがどういう意味か、分からない子供ではないのでしょう……!? ……若、少し冷静になりましょう。貴女は……」
「僕は冷静だ」
「若っ……」
「……心配するな。無論その方が気持ちが良いからと、焦れた余りにこんなことを言っているのではない。……全くそんな気がない
と言えば嘘になるが、しかし……」
「……覚悟は出来ていらっしゃると」
九兵衛の言葉の途中で、その意図を察したのか東城は言葉を折る。
「万一お子が出来るようなことがあっても、女子として責任は取れると。そう仰るのですか」
「まあ……そういう意味だが。普通こういうのって、男が責任を取るとか言うんじゃないのか。それとも今更……怖気づいたか?
あれだけ僕を孕ませようとしていた癖して」
「……私に何の責任が取れると仰るのです」
呆れる九兵衛に、しかし東城は真剣な面持ちを崩さぬまま語る。
「如何あれ苦しむのは若の方ではありませんか。十月十日もの間、胎内で子を養い、守りぬき、出産の苦痛に耐え、そして産まれた
お子を育まねばならぬのは若ではありませんか。私に何が出来ると仰るのです。私には若の痛みを代わって差し上げることは出来ま
せん。そんなことが出来れば良いのにと、この十八年の間で私が何度歯痒い想いをしたことか……」
「……お前らしい考えだな。……だから僕は初め、俄かには信じられなかった」
ふ、と九兵衛は笑みを漏らす。
「昨日の夜、お前の計略を知ったときは。こんな手段を使う以上、精神的にも肉体的にも僕へのダメージは大きい。それをやったの
がお前だとは、到底信じられない……信じたくなかったんだ。僕がちょっと擦り剥いただけでも大騒ぎして、手際よく手当てしてく
れたあの鬱陶しいほど過保護お前が、僕にこんなことをする筈がない、と……。だからお前の言っていたように、今朝はサラシを巻
くのも忘れていた程動揺していたよ。……だが、今にして思えば」
九兵衛は身を起こすと、東城の胸にしなだれかかった。
「そこまでお前は思いつめていたのだな。僕が痛い目に遭うと、僕以上に辛そうな顔をしていたお前が。それでも僕を手に入れたいと、
どれ程僕を傷つけても、それでお前がどれ程苦しんでも構わないと……そう思う程に」
「若……」
「……不思議なものだな」
言って九兵衛は顔を上げた。眉間に皺を寄せる東城の顔が視界に入る。
「こんな事を続けていればいずれ孕むかもしれないとお前に言われたとき、僕は初めそれを利用しようとすら思っていた。自分でも
最低だと思ったが、お前を束縛する為に……だがお前が僕を欺き、僕の中に出し続けていたのだと知ったとき、初めて僕はそれが恐
ろしくなった。自分の身体が、自分のものではなくなっていく気がして、お前の道具に成り下がってしまったように思えて……お前
に無理やり犯されてあの部屋に繋がれながら、誰がお前の子など産んでやるものかと思った。あのまま反撃の機が狙えぬのなら、せ
めてお前ではない男の子を身篭ってやろうとすら考えた。……それなのに」
自然、九兵衛の口元が緩んだ。それが東城には自虐的になっているように映っているのだろうか、益々心配そうな顔をする。……そ
うではない。そうではないのだ。
「……今はお前の子なら、産みたいと思う」
「若……? 」
「お前を手に入れるためではない。況してやこの柳生家の為でもない。そんな何かの手段としてではなくて、ただ純然たる目的として、
お前の子が欲しいと思っている……」
「……若……」
「……覚悟は決めたが、自信があるわけじゃない。出産の苦痛がどれ程のものか、僕には想像も出来ない。生半可なものではないと
思ってる。その果てに病弱だったという母上は僕を産んで直ぐに亡くなってしまったと聞いている。それに、だから僕には母がいな
かった。母親が子に何をするものなのかも知らないのに、良い母になれるだなんて思い上がりはしていない。不安はいっぱいある。
それでも……お前となら乗り越えられると、そう思うんだ」
「私と……なら? ……ですが若、私に……」
何が出来る、恐らく彼はそう言おうとしたのだろう。だがそれよりも早く、九兵衛は遮る。
「さっき言いかけただろう。子供の頃の僕は泣いてばかりで……如何してこんな想いをしなければならないのかと、運命を呪うばか
りだった。パパ上やお爺様が僕の為を思ってしていたことだと分かっていても、如何して女の子として生きてはいけないのかと、如
何して強くならねばならないのかと……。でもお前が、僕の苦しみを受け止めてくれたから、お前が僕がどんな道を選んでも、優し
く見守っていてくれたから、僕は真っ直ぐ生きてこられた。地獄のようだった日々の中で、お前がほんの一瞬かけてくれた魔法は、
確かに僕の支えになっていたんだ……」
「若……そのような」
「……無論ここまでこれたのはお前だけのお陰じゃない。辛かったがパパ上達がそうして僕を育ててくれなければ、僕はこの家で大
した発言権すら得られないまま、それこそ柳生家の為だけに何処かの家に嫁がされて一生を終えていただろう。あれだけセレブだの
に拘るパパ上も、僕には恋愛結婚をさせてくれるつもりらしい。お前達と違って、妙ちゃんとの時は反対したけど、それは妙ちゃん
が女の子だからなだけで……妙ちゃんだってそうだ。お前に護られているばかりでは僕はきっと、到底強くなれなかった。今の僕が
あるのは妙ちゃんのお陰だ。でも妙ちゃんだけでも足りない。新八君がいなければ僕は自分の弱さに目を向けられなかった。お前へ
の想いに気づいてからもそうだ。北大路達がいなければ、お前に辿りつくことも出来なかった。僕は皆に支えられて生きてきて、皆
に囲まれてきて……それでも僕が選んだのは東城、お前なんだ」
九兵衛は東城の手を取っては握った。
「お前が一番好きだとか、そんな単純な感情じゃない。お前のことは何度鬱陶しいと思ったか知れないし、嫌な想いも随分とさせら
れたが、妙ちゃんを嫌いだと思ったことは一度もない。ただ純粋に……憧れていた。僕のお前への想いは、僕が恋だとばかり思って
いた、妙ちゃんへのそれとは随分と違った。あんな綺麗な感情じゃなくて……もっとどす黒い感情だ。お前を僕だけのものにしたくて、
他の女に嫉妬して、劣等感に苛まされて……でもこんなに一人の男に心を翻弄されたのは、欲しいと思ったのは、他にはないん
だ……心も身体も、魂ですらも手に入れたいと思ったのは……」
「若……」
「お前は今でも、お前は僕に相応しくないと、そう思っているのか? いずれもっと素敵な男が現れると……」
「それは……」
東城は視線を逸らす。どうやら図星らしい。
「そんな風に思わないでくれ。多分お前でなければ僕はここまで踏み切れなかった。お前は僕が左目を失ったときもずっと側にいて、
稽古に戻れるまで甲斐甲斐しく世話してくれたし、お前が幼少の頃入門したこの家で、赤の他人の僕の面倒を嫌がりもせず細やか
に見てくれた男だと知っているから僕も頼りに出来る。……お前でなければ到底、女子として責任が持てる気などしなかった」
母も知らぬ己がここまで思い切った決断が出来るのは、相手が他ならぬお前だからだ。十数年の歳月の中でお前が培った実績と己へ
の信頼が、九兵衛の後押しをした。
「僕がいずれ他の男を好きになると、本気で思っているのか? 僕がお前が好きだと気づくのに、どれだけかかったと思っている。
十何年も一緒にいた男に対してそうだったんだ。今更誰を好きになれるというんだ? 」
九兵衛は握っている東城の手の甲を、反対側から己の手で包む。
「もう一度言う。いや、何度だって言うぞ。僕はお前が好きだ、東城。お前でなければ駄目だ、お前でなければ僕は満たされない」
「わ……か」
「これは僕が望んでいることだ。……東城。僕の夫になってくれ。そして僕と子供を作って……僕と家庭を築いてくれないか」
しっかりと手を取ったまま、九兵衛は言った。
「……」
しかし返事はなかった。沈黙が流れるにつれ、九兵衛は次第に不安になる。
「……嫌なのか」
「は……ま、まさか。ただ少し……驚いてしまって。このような状況で、改めてプロポーズされるとは思ってなかったものですから」
「……っ! 」
そういうことに、なるのだろうか。そしてそれは、そんなにも戸惑うこと、なのだろうか。
「……若は本当に、決断が早くていらっしゃいますね」
「何」
「まるで私が、魔法をかけられている様ですよ」
「……どういうことだ」
お前が? 僕にとって魔法使いのようだったお前が、か? 九兵衛は不思議そうな顔をする。
「だって……。私が子供の頃から、ずっと夢見ていたことを、実現してくださるというのですから」
「……! 」
言って東城は、握られた手をやんわりと振りほどきながら、九兵衛の前に跪く。
「……申し訳ありません。返事がすっかり遅れてしまいましたね」
そして再びその手を、今度は東城の方から取る。
「勿論喜んで。私は何処までも、若について行きましょう……。そしてこれからは若の伴侶として、若を支えてまいりましょう。い
かなる試練も共に受け、死ぬ時は同じ場所に骨を埋めましょう」
「東城……。お前こそ」
言っては手の甲に接吻を施され、九兵衛は少し、照れくさくなる。
「だが……嬉しいぞ、東城……」
「若……」
「……。萎んでしまったようだな……」
「あっ……」
身を起こした東城の、身体の中心にある物を見て、九兵衛は呟く。つい先ほどまで己と、互いに高めあっていた筈のその部分は、し
かし既に大人しくなってしまっている。
「申し訳ありません……」
「馬鹿。何で謝るんだ」
言って九兵衛はそれに手を伸ばすと、今度は彼女の方が身を屈めた。
「直ぐに元気にしてやる……」
「若……っ! 」
被せられていた袋を取り外すと、九兵衛はそれを優しく握っては扱きあげる。そうしているうちに、柔らかかった筈のそれはしかし
徐々に硬度を帯びていく。太い血管に、どくどくと血流が流れているのが伝わる。指先を、腹を、関節も掌も巧みに使い分けて九兵
衛は小さな手で刺激を与え続けた。いつもと違う、ぬるりとした感触が妙に劣情を煽り、攻めている筈のこちらが興奮してくる。
「……んっ……」
物欲しくなって九兵衛は、手の内で愛でるように握り締めていたそれにしゃぶりつく。鈴口に吸い付き、傘の下をじっくりとなぞり
あげ、脈打つ血管にそって舌を滑らせ……幾度となく身体を重ねて尚、まだ知らないところが、もっと彼を高める方法があるのでは
ないかと思えて、九兵衛は貪欲にあらゆる手段を試していく。先走って先端から漏れた体液の味は相変わらず九兵衛の苦手とするも
のだったが、それでも吸い上げて喉奥まで流し込む。先端から根元まで余すところなく舐ると、睾丸を口に咥えては舌と唇で刺激す
る。口も手も、胸も脚も、身体中を使って九兵衛は東城を愛撫した。
「若……」
東城はそんな九兵衛の名を呼びながら、そっと頭を濡れた手で撫でた。
「お上手に……なられましたな……」
「……っふ……お前の指導が、良いからな……」
とうに熱を帯びているそれを口から離しては、零れる唾液を拭いもせずに九兵衛は悪戯に笑ってみせる。
「は……」
そうして再び東城の股座に顔を埋めると、再び猛る男のものを、熱心に貪り始める。
堪らない程の愛しさを覚えた。己の口の中で時折震えるそれも、熱い息を漏らしながら、己の名を紡ぐ唇も、切なげに眉を寄せて、
見上げた己に情熱的な視線を送るその表情も……彼の全てが愛しかった。
まだ知らぬ部分がある、それは当然ではないか。頻繁に通っていたとはいえ、彼とこのような関係になってからそう月日は経ってい
ない。これまで彼と共に過ごした年月の中では、ほんの一瞬のようなことだ。十八年の時をかけて、漸く辿り着いた真実もある。ま
だ知らないことも沢山あるだろう。だから。だからこそ知りたい、彼の全てを――。
「若」
行為に夢中になっていると、ふと頭上から名を呼ばれ、喉元を撫でられる。
「もう……十分ですよ。ですから……」
「……ん」
少し余裕のない声に、東城の言わんとしていることを察しては、名残惜しげに九兵衛は唇を離す。
「ふふ……」
そして熱い肉棒に頬を寄せてから、九兵衛は身を起こした。それを東城は優しく支えては、そうっとマットの上に横たえさせる。
「……あ……」
ふと九兵衛は、彼と迎えた初夜のことを思い出した。……あの時もこうだった。あの時もこうして、まるで壊れ物を扱うように優し
く押し倒されて……。
「……おやおや」
そんなことを考えていると、クスクスと笑う声が耳に入って、思わずそちらに目を向ける。
「折角出しましたのに。どうやらローションは必要ないようですな……」
九兵衛の脚を広げた東城が、新たに手にとったらしい粘性の液体を払いながらそんなことを言う。
「……っ! 」
その言葉の意味を理解して、九兵衛は羞恥に顔が熱くなった。……そう、自分でも分かるほどに、彼の眼前に曝け出されているそこ
は熱くて、蜜が溢れて太腿にまで零れている。
「私のものを舐めながら、興奮してしまいましたか? ……全く若も、本当に淫らな方になってしまいましたなァ……」
「そ、それは……っ! だって……早くっ……」
からかうように責められて、しかし九兵衛にはそれを否定する材料がなかった。
「早く……欲しいんだっ……お前がっ……! 」
性感帯を触られたわけでもないのに関わらず。それでも己の口の中で次第に質量を増していった逞しい男のものに、身体が疼いて仕
方がなかった。
淫乱と罵られても構わない。それでも身体が狂おしい程に彼を求めていて、切なくて堪らないのは紛うことなき事実だ。
「ふふ……素直になられましたな……良いですよ。実に素敵です。さあ……」
「あっ……」
「もっと乱れて……溺れてしまってくださいっ……! 」
言って東城は、九兵衛のしとどに濡れたその部分に、猛る蓄熱を押し入れた。
「はぁッ……あァあぁぁぁっ……! 」
東城の激しい動きに身体を揺すられながら、何度も男根で突かれて九兵衛は歓喜の声を上げる。
「若……っ! ……っは! 何時になく凄い……締め付けですねッ……! 」
「あはぁっ! すごぃっ! 熱いぃっ! 」
腰を浮かされた状態でいきなり最奥まで貫かれて、どうにかなってしまいそうになる。
満たされていく。
あんなにも飢えて、乾きを覚えて仕方がなかった身体が今、完全になっていく。
「あッ! ……はンッ! やぁぁッ! 」
男の律動にあわせ、甘く媚びた愛らしい、女の声が漏れる。これが己の本来の声なのだと、九兵衛は自覚していた。長年男として、
生きて苦しんできた経緯も、この男の前ではいつも、主人として堂々と振るわねばと思っていた立場も、修行の果てに力をつけ、柳
生始まって以来の天才と謳われた侍としての誇りも、何もかもを脱ぎ捨てて、九兵衛はただ、一人の女子になっていた。一人の男を
一途に愛し、求めてやまぬ女子に……。
「ふぁあッ! あァッ……とっ、とうじょぉっ! 」
ストロークを繰り返す男の腰を、離さぬよう長い脚で絡めつけて、九兵衛は彼の名を切なげに呼ぶ。
「こっ……! 来いッ……! こっちに……もっと、僕にッ……! 」
「若ッ……! 今……そちら……にっ! 」
九兵衛が震える手を伸ばすと、それに応じるように、東城は身を沈めた。その背に彼女の手が下りる。
「ひぁぁぁあぁっ! 」
ずるり、と粘液に覆われた皮膚が滑る。
「ふふ……っ! 若、今っ、中がびくびくっとしてッ……ぎゅうっと私のことを締め付けましたよっ……? 」
「あっ…! んぁあぁっ! 」
「……こんなに絞り上げてッ……! 欲しくていらっしゃるのですねっ……? 私の子種が欲しくて堪らぬのですねっ……? 」
「……ぁあっ……! 」
耳元で囁かれた言葉に、九兵衛は隻眼を潤ませて頷く。
「欲し……いッ! お前の……っ! 東城の子種ッ、ぼくの中にぃっ……! 」
「若……ふふ、愛しいお方……っ」
言いながら東城は、九兵衛に腰を打ち続ける。その度に熱い剛直が、九兵衛の奥を突いた。
「ああ……直ぐにでも、今直ぐにでも貴女の胎内にたっぷりと、注ぎ込んで差し上げたい……っ! 若の子宮を、私の精液で満たし
て差し上げたいっ……! 」
「ぅうっ……んっ! とうじょぅっっ……! 」
「でも若……もう少し、もう少しこのままでいさせてくだされ……っ! まだ……解放するには惜しいのですっ……! 私の熱をっ
……! もっと貴女に……溺れさせてくださいっ……! 」
「んンんっ……! 」
以前挿入を繰り返したまま、九兵衛は唇を奪われた。
「はぁッ……ぁうっ……! 」
九兵衛は餌を与えられた仔犬のように夢中になって、その舌に吸い付いた。互いのそれが絡み合い、縺れ合う。
「ああ……若ッ! お慕いしておりますっ……! 心からっ……! 」
「とう…じょおっ! ぼっ……ぼくもっ……! 」
やがて唇が離れては、熱っぽく告げられた言葉に、九兵衛もまた応じる。
「好きだっ……! 東城っ……! お前を、愛してっ……! 」
「若っ……! 」
「ふぅんっ……! 」
それ以上の言葉は最早必要なかった。どちらともなく差し出した舌先で、互いの情熱を伝え合う。
奥深くまで貫いて、二人の舌は交差しては再び先で突きあう。口腔内の至るところにまで、埋め尽くすように舐りあった。
「んぁあっ! いぃっ……! 」
感じやすいところを集中的に擦るように浅く、かと思えば一気に深く奥にまで、弱いところを巧みに刺激され、己を貫く熱い楔に翻
弄されて、九兵衛は訳が分からなくなっていく。
「あっ……ひぁあぁっ……! 」
互いの身体が擦れる度に胸の先端が刺激される。否、そこだけではない。胸も腹も、粘液に包まれた身体全てが性感帯になってしま
ったかのように、九兵衛の身体は敏感に震える。
「やぁぁぁっ! もう……もぉっ……! 」
背に回していた腕に力を籠めて、東城の身体を抱き寄せる。
「はぁあぁぁぁぁっ! 」
身体中が、蕩けてしまいそうだった。
「はぁっ……! わ……かっ! 若ぁっ……! 」
そうして吐き出された、熱い吐息すらもが絡み合って、溶けた身体が一つになっていく。
「とっ……とぉじょおッ……! ぼくっ……もぉっ……! 」
「若ッ……! あぁ……今ッ……! 」
もう息も出来ない。目も開けてられない。感じるのはただ、己と相手の溶け合った熱量。九兵衛は絶頂に近づくのを感じた。
「あぁ……来いッ! お……まぇもっ! とうじょぉぉっっ!! 」
「若っ……! 参……りますッ! わかぁぁぁっ!! 」
愛しい名を口にしながら。同時に意識を手放した二人の身体が、やがて糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
達した後も暫くの間、九兵衛はその余韻に浸っていた。
これで漸く――彼と身も心も通じ合えたのだと、実感する。長かった。実に二十年近くにわたる時間をかけて、彼と真に結ばれた……。
これまでは酷く苦しかった。張り裂けそうな程に愛しくて、身体を重ねても好きだと一言も言えず、只管胸のうちに押し殺して。相
手は己のことなど何とも思っていないのだろうと思い悩んで。それが、ただ胸の内を明かすことが、相手に愛していると言われるこ
とが、こんなにもその関係を変えるなんて。心から愛し合えることが、こんなにも幸せなことだったなんて。
九兵衛は身を捻ると、東城の胸に顔を埋めた。そうして愛しげに、そこにそっと唇を寄せる。
「若」
「ん……」
髪を撫でられながら優しく名を呼ばれ、九兵衛はそれでも見上げもせずに曖昧な返事をする。
「いつまでもこうしていては、お身体が冷えてしまいます」
その言葉の直後、不意に直ぐ隣にあった温もりが消える。そこにおいて漸く、九兵衛が東城の方を見ると。
「ほら……こちらへ」
そこには、穏やかな笑みを浮かべ、そっと手を差し伸べる優しい従者の姿があった。
その手に起こされて、九兵衛もまた立ち上がる。行為に耽っているうちに冷めてしまったと、浴槽の湯を沸かしなおす傍ら、東城は
九兵衛の濡れた黒髪を、洗い流し水気をきっては高い位置に結い上げた。そうしてそのまま巻き上げて留めては、今度は彼自身の長
い髪を結いにかかる。
「……」
九兵衛は東城が髪を纏めているのを、久々に見る気がした。こうして髪型を変えられると少し新鮮で、また彼の新しい一面を見れた
ような気になる。
「……ああ、矢張り若にはお団子も似合いますねえ」
「団子? 」
「ええ。ほら……ご覧ください。何と愛らしいことか」
言って東城は、曇った鏡に湯をかけそちらを指し示す。
「!……」
そこで漸く、九兵衛は今の己の髪型を知った。団子というのだろうか、確かに二つに留められた髪は半球状の曲線を描き、丁度神楽
のような髪型になっている。しかも細かな三つ編みが編みこまれていて、妙に時間がかかっていたのはこのためか、と呆れる。
「きっとチャイナ・ドレスなどもお似合いになると思うのですよ。今度是非、お召しになってくださいね」
「チャイナ・ドレス……」
鸚鵡返しに呟いて、ああ、あの中華服のことか、と九兵衛は理解する。可愛い服を着てくれと言われるのは嬉しいがしかし、着物と
違い身体の線がはっきりと出る、露出の高いあの服は些か恥ずかしいのだが……。
「ええ。そして若の美しいおみ足が映えるように……この辺りまでスリットを入れて」
「……!! 」
すっ、と東城の手が太腿を撫で上げては、ピタリと止まった所を指し示す。そこは最早脚と言うより、殆ど腰と言った方が近い気が
する。九兵衛は益々羞恥心にかられて赤くなった。
「そ、そんなに深く入れたら下着が見えてしまうだろう……」
「それも一興かと思いますが、そうですね。それがお嫌でしたらいっそ下には何もつけなければ……」
「なッ……!! 」
馬鹿じゃないのか。言って拳を振り上げると、しかし東城は偶然にもそれを避けるようにふと立ち上がり、浴槽に手を入れた。
「若。漸く良い湯加減になりました。さあ、入りましょう」
「う……そ、そうか……」
そんなことをしているうちに、いつの間にか温まっていたのだろう。九兵衛は避けられて少し不服そうな顔をしながらも、そう告げ
た東城に導かれるまま湯につかった。
「ああ……しかし、これまでは何だったのだろうかと、思ってしまいましたよ」
不意に、東城が漏らす。
「あの雛祭りの前夜、若と初めて肌を合わせた夜……これ以上の幸せはないと思っておりましたのに。それすらも児戯だったように
思えて……。この想いを口に出来ることが、若に好きだと言って頂けることが、あんなにも私の心を昂らせるものだとは、思っても
おりませんでした」
「……僕も同じことを考えていた。東城」
その言葉に、九兵衛はふふ、と笑みを漏らしながら、目を細めて笑った。
「それです」
「……ん? 」
「私の名は、そんな風に、若の澄んだ美しいお声で愛しげに呼ばれる為にあったのだなあ、と、そんな風にすら思えて……」
「……ふっ。大袈裟な奴だな……」
「いえ、大袈裟などでは……ああ、でも、いけませんね。こんな考えは……」
言葉の途中で、しかし東城は自らそれを窘める。
「? どういうことだ? 」
「だって、折角若自ら求婚のお言葉をくださったと言うのに……」
「うん? 」
東城の言わんとしていることが分からず、九兵衛は尋ね返す。
「ですからいずれ私は、東城とは呼ばれぬ身になるのでしょう? 」
「……! 」
それを聞いて漸く九兵衛ははっ、とする。考えてもいなかった。彼を夫とするのなら当然彼がこの柳生家に婿入りする形になるだろ
う。彼は己のためなら親兄弟でも捨てれると断言してくれたが(それもどうかと思うが)、九兵衛には到底柳生家を捨てることなど
出来ない。己が跡を継がねば、後妻どころか妾の一人すら一切設けず亡き母に操を立て、柳生の掟から彼女の忘れ形見である己を護
ってくれた父達の願いを、そしてそれ故のこれまでの己の苦行を一切無にすることになる。東城とてそれを望んでいよう。だからこそ、
誰よりも己を女子として扱ってくれていながら、今も尚己を『若』と呼ぶのだろう。そこまでは分かっていた。それなのに、何
故今までその考えに至らなかったのだろうか。
「……そうか……そうだな……」
もう十何年も己は彼を東城と、そう呼んできた。だが、いずれそうも行かなくなる。早いうちに慣れてしまった方が良いのかもしれ
ない。
「じゃあ、あ……」
「……え? 」
東城は怪訝そうに、九兵衛の顔を覗き込んだ。
「あっ……」
――駄目だ。
とてもではないが、そんな風にまじまじと見つめられては呼べない。少し呼び名を変えるだけなのに。何故かそれが気恥ずかしくて
九兵衛には堪らなかった。
「……何でもないっ」
「若……? 」
「……名前か……そっ……そういえばお前、子供が産まれたら、僕が名づけて良いと言っていたな? 」
「えっ? ……ええ、それは……」
それを誤魔化すように、九兵衛は話題を切り替える。
「……勿論、その通りですが。突然如何なされたのです? 何か良い名でも浮かびましたか? 」
「い、いや……そういう訳ではないのだが。……そうだな。僕は、名づけ方とかそういうのは良くわからんが」
そしてふと思う。
「もし子供が産まれて……それが女子だったら。女子らしい、可愛らしい名をつけてやりたいと思う」
「若……」
九兵衛の続けた言葉に、東城は心配そうな顔をした。
「……ご自身のお名前はお嫌いですか? 」
「……否。そんなことはない。そんなことはないんだ。この名前にパパ上やお爺様がどれ程の願いを籠めてくれたか知っている。た
だ……子供の頃は嫌いだったな。女中達の華やかな名前が羨ましくて……でも、妙ちゃんが僕に、『九ちゃん』なんてあだ名をつけ
てくれて……」
今でも覚えてる。あの日彼女が差し伸べてくれた手に、自分は救われた。
「それからだ。少しずつ、この名も悪くないと思えてきたのは……」
呼ばれる度に嬉しかった。だからこそ……そんな名を己も与えられれば、と思う。
「……お前はどう思っている? 」
「え? 」
「僕の名を。……お前なら、もっと女子らしい名の方が似合ったとか、言ってくれるのか? 」
欲を言えば己とて、可愛らしい名が欲しかった。それこそアヤだとかユイだとか……。
「……いいえ」
しかし九兵衛の予想に反して、東城は静かに首を横に振った。
「美しいと思います」
「……まさか! 」
思いもかけぬ言葉に、九兵衛の語気が強くなる。美しい? こんな厳しい男の名が? ……同じ男の名でも、お前の名の方がまだ、
極平凡ではあるが余程優美な響きを持っているのに。
「若がご自身の名を嫌っていらっしゃるのなら、哀れにも思いましょう。しかし今はそうではないのでしょう? あんなにも苦しま
れた少女時代を乗り越えて、こんなにも気高く凛々しく美しく成長なされた……そんな貴女を表す名ですから、とても愛しく思います」
そう言いながら東城は、浴槽の中で九兵衛の、髪を上げられてすっかり露になっている首筋を撫で上げては耳元に手をかける。
「……九兵衛様」
「……っ! 」
少しトーンを低くして囁かれた言葉に、ぞくり、とした。東城の言っていたこともわからなくもないと、そこにおいて九兵衛は思った。
およそ女子らしさとはかけ離れた名でも、こんな風にこの男の声で一途に想われて呼ばれるのなら、好きになれる気もする――。
一瞬流れた沈黙に導かれるままに、どちらからともなく唇を重ねた。初めは啄ばむように軽く、しかし徐々に濃密に……。
「……名だけはありません」
「……あっ? 」
漸くそれが終わりを告げたとき、東城は真剣な面持ちで告げた。
「この瞳も唇も、お鼻も頬もお耳も、お肩もお腕もお手も、お胸もお腹もお背中も、お尻もおみ足も、否、お身体だけではなくお心
や魂に至るまでも、貴女の全てが美しいと思っております」
「……先ほども……言っていたな……」
聞き覚えのある台詞に、九兵衛は笑みを零す。風呂に入る前に、鏡の前でそう……否、もっと以前から、彼はそんなことを言っていた。
運命のあの夜、十数年ぶりに彼の前で裸身を晒したときも、彼はそんな風にこの身体を美しいと言ってくれては、全身に惜しみ
なく愛撫を施してくれた……。
「は……」
そんなことを思い出しながら、己の身体を隅々まで、確かめるように撫で上げる東城の優しい手に、九兵衛は陶然としていた。
しかしそうしている内に、次第に東城の手の動きが大胆になっていく。湯船の中で執拗に弄られた胸の先端の、桜色に充血した部分
は硬くなり、身体中が敏感に反応していく。時折漏れる声に快楽の色が混じる。そして東城の指先が下腹部の茂みに到達した時、耐
えられず九兵衛は抗議の声を上げた。
「止めろっ……妙な気分になる……」
「何を今更……」
すると唐突に、東城は九兵衛の手首を掴んだ。
「……!? 」
「私はもう……とうにそんな気分ですよ」
導かれたその部分は、彼の言うように、完全に勃ちあがっていた。
「お前という男は……っ! 本当に節操のない! 風呂場の床に飽き足らず、風呂の中でまでそんな気を起こせるのか!? 風呂で
くらいゆっくり身体を休めようとは思わんのか!? 」
「仰る割には……ここはそうは思っておられないようですがねえ……」
「やぅうッ!? 」
止まっていた筈の手が再び動き出しては九兵衛の秘められていた部分を弄られ、思わず嬌声が漏れる。
「そ……れはっ……お前が妙なことをするからッ……! 」
「妙なこととは……こういう事、ですか? 」
「はッ……あァッ! 」
「違いますか? では、こう……ですか? 」
「んぁァアあッ! 」
白々しくそんな事を言われながらも、巧みに動くその手に、九兵衛の意識は快楽の波に呑まれていく。
同時に彼女の中で理性が崩壊し始めた、その時。
「……お嫌でしたら止めますよ? 約束ですからね……」
「あっ……? 」
不意に、あれ程まで激しく九兵衛の身体を弄んでいた指の動きがぴたりと止んだ。
「私は若の忠実な僕に御座いますから……もう若のご意思に反する事は致しません」
「っつ……! 」
耳元で囁かれた高めの声が、頭の中に響いていく。その微かな吐息にすら、身体が反応する。
「さあ……若、ご命令を」
「あ……ぅ……! 」
――ずるい。
何が約束だ。何が忠実な僕だ。散々熱くしておいて、一度は限界にまで近づけさせて。僕が今如何して欲しいかなんて、本当は言わ
れなくても分かっている癖に……! よくもぬけぬけと……!
結局は彼の良い様に動かされているようで、九兵衛は悔しかった。
「ぁっ……とっ……とうじょっ……」
心底悔しい。悔しいけれど。
嫌なら止めると繰り返す彼のその行動が、嫌ではないのは確かで。
「ぃ……れろ……っ! 早くッ……そこに、お前をッ……! 」
熱を孕んだ声で、九兵衛は東城を求めた。
「――仰せのままに」
「ふわぁっ!? 」
言って東城は九兵衛の小柄な身体を抱えあげる。
そうして立ち上がって湯船から出たかと思うと、
「……はぁァあぁあぁぁぁぁぁッ!! 」
秘所に宛がったものを、重力が導くままに一思いに挿し入れる。
「うっ……ふぅぅっ……! 」
仰け反りそうになって、九兵衛は東城の身体に手足を絡めて耐える。濡れた身体同士が密着した。
「若……」
「あっ……!? やっ、あッはぁッ……! 」
名を呼んだかと思うと、立った姿勢のままで東城が腰を突き動かす。
「んっ……! ふぅっ……! 」
身体全体が揺すられて、九兵衛は東城に必死にしがみ付いた。
「あッあッ……! 」
上向きに反った白い首が震えて、東城の動きに合わせて絶えず甘い声が漏れる。そこを舌でなぞられた。
「くっ……ぅああっ! 」
強く抱きしめていた腕が痺れそうになる。離れかけた身体をしかし東城の手が支え、
「ふわッ!? 」
とたんに身体が、がくん、と下に落ちる。じゃぶん、と盛大に水飛沫が飛び散る音がして、二人の身体は再び浴槽に沈んだ。
「……あっ……!? 」
落ちる一方だった身が湯の浮力をうけて少し軽くなる。
「んんっ……! 」
それが少し切なくて、九兵衛は益々強く脚を絡めた。
「ひっ……ぃあぁっ……! 」
じゃぶじゃぶと、男が動くたびに浴槽から湯が溢れ、大きな水音がその運動の激しさを表しているようで、九兵衛は一層昂っていく。
「あっ……んあぁっ! はぁぁんっ! 」
それすらもかき消すように、はしたない声をあげ続ける。沸かしなおした筈の湯よりも、身体のほうが熱く感じられた。
「くぅぅっ! あぁっ……ふぁぁっ! 」
纏わりつく湯の感触に、九兵衛は溺れそうになる。
「はぁ……ぁ、とうっ……じょぅっ……! 」
それを振り払うように、愛しい男の名を口にした。
「す……きだっ! 僕っ……! おまぇがっ……!! 」
これで何度目になろうか。九兵衛は再び想いのたけを口にする。何度言ったところできっと足りぬだろう。だから何度でも伝えたい。
「若……っ。私も……貴女をっ……! 」
それに応えるように、東城もまた言葉を紡ぐ。聞かせて欲しかった。何度でも。
「お慕いしております……ずっと、これまでも……そしてこれからも永久にっ……」
「あぁ……っ! ぼくもだっ……! はぁ……んっ! 東城っ……! 」
「若っ……! 」
「ふぁあぁぁぁぁんっ! 」
その言葉を聞いて、感極まったのだろうか。東城の動きが一層激しくなる。
「ああ……若っ……! 」
「んぁあ……っ!? 」
恍惚として名を呼ぶ声の響きが心地よくて、ふと見上げると、彼の姿が視界に入った。
――ああ、東城。お前はなんて……なんて幸せそうな顔をする。
お前にそんな顔をされると……僕は……。
そんなことを想いながら、九兵衛は迫りあがってくる快楽に完全に身を委ねた。
「若」
「……ん……? 」
ぼうっとしていると、不意に嗜めるように声をかけられた。
「……そろそろあがりましょうか」
「え……」
思いもかけぬ言葉と共にずるり、と蓄熱を引き抜かれ、九兵衛はきょとん、とする。
「だ……だが……」
ちら、と九兵衛は視線を落とす。己の身体の奥深くまで埋まっていた筈のそれは、未だ熱を解放しきれず怒張している。
「のぼせてしまいますよ。ほら……こんなに頬を赤くされて、汗をかかれて……」
「あ……」
優しく頬を撫でられて、九兵衛は思わず声を漏らした。
「……すまない」
熱くなった途中で中断されるなんて、辛いだろうに。先ほど彼にされた時は恨めしい程だったのにと、九兵衛は俯く。だがそれでも、
己の体調を気にかける彼らしい心遣いが、彼女には嬉しかった。
「いえ……それでは」
ざぶ、と音を立てて東城は湯船から出ると、九兵衛に手を差し出した。
「……ああ」
その手を掴み、九兵衛もまた立ち上がる。酷く身体が重く感じられた。よろめきそうになる身体を、逞しい腕が支える。
「……っと。すまん、東城……」
「いえいえ。このような場所で、無理をさせてしまってすみません。水は存外体力を奪いますからなァ」
東城のフォローに、九兵衛はああ、と頷く。それに、疲れているのも無理はない、と思った。今日は余りにも色々なことがありすぎた。
一日中剣の修行に明け暮れていた日々にも勝る疲労感に、しかし九兵衛は納得していた。奈落の底から幸せの絶頂まで、これま
での人生で最大の浮き沈みを、今日一日で経験したような気がする。
しかし、疲れはしたが今は酷く満ち足りていた。心配そうな顔をする従者に、九兵衛はふ、と笑いかけた。己の心を埋め尽くす幸福が、
零れそうになる。
「……続きは部屋でしましょうね」
「……お前は……」
けれど何を勘違いしたのか、続けるように囁かれた言葉に、九兵衛は呆れたような声をあげた。
そしてこの男の心配などした己が馬鹿だった、と九兵衛はつい先ほどの己の感情に嫌気がさす。
「疲れてないのか」
昨日も朝早くから実家の方にまで出かけて、今日昼過ぎに漸く戻ってきて、それから暫く……色々とあった後も実家の人間がこちら
の方にまで来たとかで応対に出て、戻ってくるまで大分時間がかかっていた筈なのに。憎らしい程落ち着いた風情をしている癖して、
妙なところだけ年相応に若くて困る。
「若がおられれば疲れなど飛んでしまいます」
濡れた身体を拭いながら、東城はしれっとそんなことを言う。
「……っ! ……そういえば、お前……」
少し気恥ずかしくなって九兵衛は、何とか話題を逸らそうとする。
「看護師が好きなのか」
「え……」
ふと思って口にした言葉に、ぴたりと東城の動きが止まる。
おや、と九兵衛は彼のその態度に思った。照れ隠しで出てきた言葉だが、どうやら彼には思いもよらぬ発言だったらしい。
「ど……どうしてそのような」
明らかに動揺している東城に九兵衛は面白い、と思った。どうやら食いつく価値がありそうだ。
「南戸がお前に借りたとか言って返しに来たDVDがそんなのだった。あられもない姿の看護師が、包帯か何かで縛られてて……そう
いえば僕の部屋にも度々お前は看護師の制服を置いていたな」
「あっ……あの全身男性器ィィィィィィッ! 若になんてモノを見せて……! 」
「……前にもそんなことを言っていたが、南戸もこんな、状況も場所も弁えずすぐ欲情できる男に男性器呼ばわりされる覚えはない
んじゃないか? 北大路もお前のこと変態だと思っているようだし、お陰であんな格好だったのに『東城殿ならこれくらいのプレイ
はしてもおかしくない』と微塵も疑ってくれなかったぞ。結局鼻から僕を信じてくれたのは西野だけだった」
「いや……それは……」
「それとも縛るのが好きなのか? 僕の手足も散々縛ってくれたが、手足だけでなくあの看護師のように、身体もあんな妙な縛り方
をしてみたいと……」
「そ、そんな、滅相もない……」
「そういえば北大路が、すかとろとかいうのがどうとか言っていたのだが、すかとろとは何だ? 昔カラスにもそんな事を言ってい
たな。僕にカラスの格好でもさせたいのか? この前といい、お前は僕に妙な格好をさせるのが好きらしいからな。南戸も呆れていた」
「いえそれは……とても若のお耳に入れられるようなことでは……」
「ほう、この僕にとても言えないような事に、お前は関心を? 」
「わ……若っ! いい加減にしてくだされ! 」
耐え切れなくなったのか東城は叫ぶ。
「もっ……申し上げたではありませんか。私は若の嫌がるようなことはしないと。私の性癖が……その、少々特殊なのではないかと、
心配なさっているのですか? そんなSMとかスカトロとか、そりゃあ興味がないわけじゃないですけど、というか想像したら寧ろ
興奮してしまいましたけど、でも若がお嫌でしたら無理には……」
「……誰が嫌と言った」
「若……? 」
「前に言っただろう。構わず注文してくれて良い、と。無論僕はお前ほどこういう事に慣れてはいないし、まだ経験も浅い。お前の
満足いく結果が出せるかどうかわからんが……それでも、お前の望みなら叶えてやってもいい」
「若……」
彼女の言った通り、それは以前にも彼に伝えた言葉だ。だが、と思う。今なら言える気がする。あの時その言葉の裏で、飲み込んで
いた己の願いを……。
「だから……だからな東城。その代わりと言っては何だが、もう二度と買春など……他の女と関係を持つなどしないでくれないか」
「えっ……」
九兵衛の申し出に、東城は困惑しているようだった。
「それは……申し上げたではありませんか。心配なさらずとも、私は若とこういう関係になってからはずっと風俗店の類には行って
いないと。それ以前からも」
「違う! 病気が怖いとか、そういうことではなくて……」
「……若? 」
「……なあ、東城。お前が今までどれ程頻繁に女子を買っていたか僕は知ってる。南戸も感心していた。あれ程通いつめてた女郎屋
の類に一切いかないようになった、と……。だからお前を大事にしてやれと、な。だが東城……僕は到底耐えられないんだ。お前が
他の女を抱く様など……想像しただけでも虫唾が走る……っ!
……だから、頼む東城。もう二度とっ……」
それ以上は言葉にならなかった。己の中の黒い感情がこみ上げてくる。我慢ならぬのだ。幾ら心は己だけだったと言われても、この
男が金を払ってまで他の女を追い求めた事実が。今なら彼を束縛する権利もあろう。それはずっと己が欲していたものだが、しかし
手に入れてみれば空しいものだ。権利を振りかざすなど……。
「……ああ、そのようなお顔、なさらないでください」
必死に訴える九兵衛の頭を、東城はすっかり水気のひいた手で撫でた。
「若にそのような辛そうなお顔をされると……私は苦しゅう御座います」
「だっ……。だったら……! 」
――だったら。
……何を言う気だ。結局また、この男の優しさに付け入る気なのか。己は……。
「……ご心配なさらずとも、行きませんよ。申し上げたではありませんか。身も心も貴女一人に捧げると。……ああ、でも」
苦い想いを噛み締める九兵衛とは対照的に、東城は穏やかな笑みを浮かべた。
「嬉しいですな」
「……何? 」
それは九兵衛にとって、思いもかけぬ言葉だった。
「……嬉しいとは如何いうことだ」
己は彼を束縛したいだけなのに。己の幸せを願って、他の男を宛がおうとまでした彼の、一時の遊びすらも許せぬのに。何処に彼が
喜びを感じる余地があるのだ。
「だって……まさか若が、私が金で買った嬢などにやきもちをやいていらっしゃったなんて」
「……っ! 」
クスクスと笑う東城の言葉に、九兵衛は顔を赤くした。やきもち? そんな可愛らしい言葉であしらえるのか、このどす黒い想いを。
嫌ではないのか。こんなにも醜く勝手な感情が……。
「ああ……私は幸せで御座います。こんなにも若に愛されて……」
「なっ……! からかうな……! 」
頬を緩ませてそんなことを言う東城を、九兵衛は軽く小突く。
「……からかってなどおりませんよ」
しかしそれをものともせずに、東城は九兵衛を抱きしめた。
「何を妬く必要などあるのです。……私が他の女子では満足できないと、悟らせたのは他ならぬ若でいらっしゃいますのに……ああ、
でもそこまで仰るのなら」
「!? 東城……」
「もう私を他の女子のところになど向かわせないでください。他の女子など決して目に入らぬよう、何処までも若に溺れさせて……
永遠に沈めてください」
「な……何を言って……」
些か被虐嗜好的な言葉に、九兵衛は戸惑う。これではまるで、自ら己に束縛されたいと言っているようなものではないか。
それでいいのか。それを望んでいるとでもいうのか。お前は……。
「い……良いのか? お前はそれで……」
「ふふ……若こそ。二度と他の男に身体を許したりしないでくださいね? もう私は若なしでは生きられぬのです。貴女のお心が他
の男に移ったのなら私は死なねばなりません」
「お……脅しか!? 」
主人である己を脅迫するとは、何という男だ。それに己が彼に死なれては敵わないと、知っていて言っているのだろうか。
「……心配せずとも僕は、お前以外の男になど興味ないぞ」
「若っ……! 」
「のわッ……!? 」
フン、と顔を背けて言った言葉を聞くや否や、東城は唐突に、九兵衛の身体を濡れた床の上に押し倒した。はらり、と手拭いが舞う。
「……そのような事仰られては……もう我慢なりませんっ……! 」
「と、東城……!? 」
ただならぬ様子で迫られて、九兵衛は焦燥する。影のかかった男の顔が近づいた。
「若……着替えて部屋まで移動する時間など待てません。ここで先ほどの続きをしても宜しいですか? 」
「いっ……良い訳ないだろッ!? どれだけ堪え性がないんだお前は!? この万年発情期がッ!! 」
「げふッ! 」
息を荒げながら襲い掛かろうとする従者の顎に容赦ない一撃を浴びせながらも、九兵衛はこの上ない幸せを感じていたのだった。
――己のこの黒い感情すらも、お前は飲み込んでくれるのか。そんなにも愛されて幸せだと、そう言ってくれるのか。
漸く辿りついた、僕の王子様。
どうしようもない馬鹿で手の施しようのない阿呆で、鬱陶しいほど過保護で心配性で、神経質で口煩くて大仰で、案外短気で腹黒く
て馬鹿で鈍感で、不埒で変態で性欲魔人で、しつこくて馬鹿で粘着質で、悪口など幾らでも思いつくけれど、まあ細やかで気が利く
と言えないこともないし、僕に対してはいつも優しくて真剣で、幼い頃から僕をずっと支えてくれて、そしてこんなにも――僕を愛
してくれている男。
……今度は僕の番だ。
きっとお前を幸せにしてやろう。世界でいっとう幸せだと、思わせてやろう。
お前は僕と結ばれたことを、夢のようだと言っていたな。
ならばずっと、夢を見せてやる。……解けることのない永遠の魔法を、僕がお前にきっとかけてやろう。
そんなことを思いながら。九兵衛は軽く気を失って不恰好な姿で伸びている東城の横に腰を落とすと、その唇にそっと、彼女自身の
それを重ねた。