一人残されて静かになった部屋で、九兵衛は思った。どうしてこんなことになってしまったのか、と。  
東城も指摘していたが、己の甘さにも一因があったと、九兵衛は悔いる。考えてもいなかった。あんな風に欺かれていたと知って尚、  
彼が己を力で捻じ伏せて組み伏せ、監禁までするなどと。矢張りそれでもまだ何処かで疑いきれていなかったのだ。彼のことを。  
九兵衛は唇を噛む。  
そういえば、と九兵衛は思う。ここを出る直前、あの男は妙な事を言っていた。城の舞踏会に、王子様の元に行きたいのならば、馬  
車も使わず己の力だけで歩いて行け、と。まるで誘惑するように。……何を考えている。歩いてみろと言われても、もう既に、その  
場所までに至る道など残ってはいないというのに。どうしたら辿り着けると言うのだ。城の在り処は分かっている、ただ行く術が見  
当たらない。窓の外に見えるそれに焦がれるばかりの――遥か東方の城。  
否、奴の言葉遊びになど付き合っていても仕方がない。そう、最早その距離は埋まりようがないのだから。  
兎に角まずはこの状況を何とかせねば。このままではいずれ戻ってきた奴にまたいいようにされるだけだ。誤解一つまともに解けな  
い状況に陥ってしまう。  
九兵衛はこの部屋から脱出すべく思いつく限りの方法を試した。だがどれも上手くいかなかった。失敗を重ねる度に九兵衛は焦燥し  
始める。何より東城が残して去ってしまった己の体内で暴れる冷たい無機質な塊が、九兵衛の身体を悪戯に燻って頭が上手く回らない。  
一度達してしまえば幾分冷静にもなれる気がするが、その微妙な刺激はしかし九兵衛を絶頂まで昂らせるには至らないものだった。  
いつまでも開放されることの無い熱が九兵衛の中に蓄積して苛める。早く楽になってしまいたい、少し気を抜けばそんなことば  
かりが頭を巡る。  
その時ふと、東城の部屋に備え付けられた電話が目に入った。何とか手が届く。今のこの痴態を他人に見られるなど考えただけで顔  
から火が出そうだが、そうも言ってられない。誰に助けを求めようか。困ったときは電話しろと、万事屋の言葉が思い出されたが、  
彼らも含めて友人の電話番号を登録した携帯電話は取り上げられてしまっている。唯一志村家の番号は空で覚えていたが、こんな姿  
を妙や新八にだけは見られる訳にはいかない。そんな事を考えているうちに、内線のボタンが目に付いた。それに手を伸ばして、不  
意に東城の言葉が思い出される。こんな姿の貴女を見たところで、愉しんでいるようにしか見えないでしょう。それに、こんな姿の  
貴女を見て、襲わぬ男がいるとお思いですか――。女中を呼ぼうかと思ったが、それも憚られた。己に妙な性癖があると誤解されて、  
変な噂など立てられては堪らない。女子のそういった性を九兵衛は男の立場からよく見てきた。それよりも、と九兵衛は思う。襲  
われたいのなら別ですが、と付け加えた東城の言葉に最早、それでも良いかも知れないと思っていた。  
心から抱かれたいと望んだ男は一人だけ。それは今も変わらない。変わらないからこそ、許せなかった。あの男の己に対するこの仕  
打ちが。こんなにも愛しているのに、如何して……。それは次第に理不尽な怒りへと変わった。秘めた恋心に気づかない、己を殺さ  
んとする愚かな王子様に、それでも人魚姫は彼を護る為、最後まで彼を想いながら泡沫と消えたらしいけれど、そんな真似など如何  
して出来ようか。あれ程深く根付き己が心を占めていた愛情は、激しい憎悪にすら変わった。何でもない男にされたことだったのな  
らば、ここまでの激情は抱かなかっただろう。だがこんなにも愛していた彼だからこそ――。  
彼の胸を貫ける短剣などあるのなら、それで何度でもあの男の心臓を突きたい位だ。しかしそんな隙など今はなかった。だからせめて、  
せめて一矢報いたい――。  
 
あの男はやたらと、己を孕ませることに拘っていた。その理由は最早分からない。柳生家を手に入れる為とばかり思っていたが、一  
笑と共に否定されてしまった。それどころか柳生家を恨んでいるようですらあった。九兵衛を苦しめた元凶、と……。何を馬鹿な。  
これだけ己を苦しめてきた男が他にいるだろうか。そんな男が何を言うのか。しかしこの柳生以上に、彼が己に一体何を求めている  
というのか、皆目見当もつかないが、それでも……あの男が己を欺き、こんな手段に出るまでそれに拘っていたのは確かだ。ならば  
ここで、己が東城以外の男と孕む可能性のあるようなことをしてしまえば。それは彼の計画を狂わせるきっかけともなりうるのでは  
ないか。  
……以前の己なら到底考えられないようなことだった。だがしかし、東城への憎しみが、己にそんな考えすらも浮かばせた。  
無論それらは万一の時の話だ。今は兎に角、ここを脱出することを考えなければならない。それに――上手くいけば手に入るかもし  
れない。あの男の胸を貫く短剣も。  
やがて九兵衛は受話器を取ると、静かにそのボタンを押した。  
 
 
 
「失礼致します」  
暫くして、障子の向こうから聞きなれた男の声がした。  
「入れ」  
ぶっきら棒にそう告げると、がらりとそれが開けられる。  
「……どーしたんですか、若」  
「……それはこちらの台詞だ、南戸」  
しかし入るなり尋ねられた言葉に、九兵衛は思わずそのまま返す。  
「何でお前までここにいる」  
黒髪をオールバックにして眼鏡をかけた、生真面目そうな男の隣に平然と立っていた、彼とは対照的な長めの赤毛の、いかにも遊び  
人風の男は、いやいや、と手を振った。へらへらと笑っている男の態度に九兵衛は苛立つ。あの電話で彼を呼んだ覚えなどなかった。  
「来る途中にこいつに会いましてね、ここに若がいて用があるって聞いたもんで……丁度東城さんに借りたAV返そうかと思ってた  
らあの人また外出しちゃったって聞いて困ってたんで。あの人前に勝手に部屋入ったらえらく怒ったんですけど、まア若がいるんな  
ら別に良いかと思いまして。……よっと」  
隣の男を指差しながら、南戸は状況を説明する。そして手にしていた袋から幾つか箱を取り出すと、証拠とばかりにそれを机の上に  
置いた。あられもない姿の看護師らしき服装をした女子が、白い布で緊縛されている写真が見えた。九兵衛は思わず顔を顰める。  
「馬鹿か貴様は。そんな物を若に見せたりしたら、寧ろ東城殿は余計に怒るだろう」  
眼鏡をくいとあげながら、南戸の隣に立っていた男、北大路は溜め息をついた。そう……九兵衛が呼びつけたのは彼だけだ。  
「さァ、東城さんも案外AV見せながらプレイとかしてんじゃねーの。何せ東城さんだし」  
北大路のその指摘も気にも留めていない様子で、南戸は部屋の奥に進むと、棚をスライドさせて幾つか動かした。この部屋に何度も  
通った九兵衛ですら知らなかったその奥の開いている場所に、手にしていたそれらを無理やりねじ込むと、そ知らぬ顔で戻る。弾み  
で本のようなものが一冊落ちたが、大して気にしていないようで無視した。  
「にしても若、さっきから何か表情エロくない? 東城さんが出かけちゃってんでたまってるんですか? それでこっそりこいつを  
呼んだと……」  
そして振り向きざまに、そんなことを九兵衛に告げる。にやにやと、下卑た笑みを浮かべながら。九兵衛は思わず、眉根を寄せて睨  
み返す。その言い方ではまるで自分が、夫がいない間に愛人を招き入れる、欲求不満の人妻のようではないか。ふざけるな。誰があ  
の男の妻だ。おぞましい。  
「貴様のその男性器のようなツラ程いかがわしくはないと思うが、恐らく膣内に何か詰め込まれているんだろう」  
「……っ! 」  
北大路がクールな表情を微塵も変えずに、淡々と言い当てた言葉はしかし事実で、九兵衛は心の内で流石だな、と思う。彼は柳生に  
おいてはブレーンとも言うべき役割を担っていた。優れた観察眼と洞察力、そしてあの男とは圧倒的に差をつけているのがその冷静さだ。  
こんな状況ですら眉一つ動かさずに指摘する。  
 
「マジで? 」  
興味津々、とばかりに南戸は九兵衛を見つめた。やや遅れて、ああ、と九兵衛は答える。どれどれと、南戸は九兵衛の着物の中を覗  
き込んだ。余りに突然の行動に九兵衛の反応が遅れる。そうでなくても北大路の言うように己の膣口に宛がわれたそれは今も尚蠢き、  
判断力を悉く奪っていた。  
「うっわ、本当だ。つーか若、濡れ濡れじゃん? こんなしっかり銜え込んじゃってさァ……」  
「……っ! 」  
大事なところをじろじろと、好奇の視線で見られ、そんなことを告げられて、九兵衛は羞恥に顔が赤くなる。  
「へェ……こうして見ると、やっぱ若も女なんですね。……東城さんも凄いな。あの若をこんなエロい女にしちゃって……。つーか  
放置プレイ中だったんですか。相変わらず趣味悪いな東城さんは。その服も東城さんの趣味でしょ? よくそんなヒラヒラの、脱が  
しにくそーな服着せますよね。それとも普段着たまましてるんですか? それでその下着ですか。若もよくつきあいますね。案外好  
き者ですよね、若も」  
「! 」  
悪びれもなく続けられた言葉は、更なる羞恥を煽った。だが繰り返し出された名前に、それとは別の火が九兵衛の頭に点る。  
「東城に……無理やり着せられたんだ」  
「……はい? 」  
なるべく低い声を作って告げた言葉に、南戸はきょとん、とする。  
「ここに来たとき突然手を縛られて、無理やり組み敷かれて……散々犯された挙句、こんな格好でここに繋がれて、こんな……もの  
まで挿れられて……」  
ぽつりぽつりと、九兵衛はこれまでの経緯を語りだす。思い出すだけでも屈辱的だった。どうしてあの男は己にこのようなことを。  
彼に対する抑えがたい憎悪の炎が再び、九兵衛の心の中で燃え上がった。  
「……またまたァ」  
しかしその言葉を、南戸は信じてはいないようだった。世間話でもしているような態度の彼と、未だ奈落の底に落とされたような気  
分でいる己との間には、随分と温度差があるように感じられた。  
「そういうプレイなんでしょ? 見せ付けちゃって……」  
「違う! あの男は……東城はずっと僕を騙して、僕を孕ませようと……」  
「東城さんが? まっさか」  
「本当なんだ! 信じてくれ」  
九兵衛が何度繰り返してもしかし、南戸は冗談のような顔をしていた。そんなことがあろう筈がないと、鼻から決め付けているよう  
で、己との温度差など気づいてもいない。  
「そう言われてもね……あんたら、あんなに仲良さそうじゃなかったじゃないですか。前に女中が言ってましたよ。東城さんの部屋、  
いつもゴムの残骸の数が半端じゃないって、彼女も呆れてましたよ。それにいつだかたまたま東城さんと風呂で入れ違いになった  
んですけど、体中キスマーク付けまくってたじゃないですか。東城さんも『私はあなたと違って他人に裸身を見せびらかす趣味は無  
いんです、そんなに見るんじゃありません』とか何とか言ってたけど俺がそのこと指摘したらすっげーデレデレだったし。嬢に妙な  
痕つけられたらブチ切れてた東城さんがさァ」  
「っ……! だからそれは、あの男に騙されていて……」  
確かに彼に、専有の証とばかりに無数の痕を残したのは他ならぬ己だ。しかしそれは最早過去の話。そのことを何とかして理解して  
もらわねば話が進まない。  
「……あの人が口車に乗せて若を手篭めにしたっていうんですか? まさか。昔っから若を目に入れても痛くないんじゃないかって  
位可愛がってたじゃないですか」  
「だから……それもあの男が僕を欺くために……! 」  
全ては恐らく、彼が己の世話役についた頃から始まっていた計略だったのだ。自分達が見てきた彼は偽りの姿でしかない。如何した  
らそれを分かってくれるのか。  
「またまたァ。東城さんの若への溺愛ぶりのせーで今まで周りがどんだけ被害被ってきたとおもってるんですか。東城さん自身若の  
為なら死ねるんじゃないかって位の人だしさ。つーかそもそも若の方から誘ったんでしょ? 東城さんのこと。何だかんだ言って若  
も東城さんのことすっげー好きなんですね」  
「違ッ……! 大嫌いだあんな男、殺してやりたい……! 」  
「……若ァ。吐くんならもっとマシな嘘をついてくださいよ」  
幾ら九兵衛が必死に訴えても、南戸は微塵も信じようとはしなかった。飄々とした態度を崩さずに、ついには呆れたように切り出す。  
「本当に東城さんのことが嫌いだったら、どんなに迫られたって断れる立場にあんたはいるじゃないですか。でも若は拒むどころか、  
東城さんのところに頻繁に通ってたんでしょう? 」  
「……! 」  
 
それは確かに真理だった。九兵衛は言葉に詰まる。全てを説明するのは躊躇われた。状況が余りに不利だ。彼に騙されていたと気づ  
くまでは確かに彼を愛していたのだと、その果てに彼に女子として愛されてなどいないと知りながら、己に迫られては断れぬ立場に  
ある彼の元に通っていたのだと、その上で彼に無理やり力づくで犯されたのだと、そんな事を言って如何して南戸が信じるだろうか。  
――誰が信じるというのです。不意に東城の言葉が思い出される。それが現実味を帯びた恐怖となって九兵衛を包んだ。  
「ここにだってどうせ、東城さんに抱かれる為に来たんでしょ? 何があったのかよく知らねーけど、実家から飛んで帰ってきたと  
思ったらまたすぐ戻ってっちゃった東城さんにさァ。本当、昼間から元気ですよねあんたら」  
「だ、だからそれは、東城に無理やり……」  
下世話な話をするような調子の南戸に、九兵衛はうろたえながらも弁明しようとする。しかし矢張り、南戸は意にも返さなかった。  
「無理やりねえ……。っつっても、繋がれたって言ったってンな、痛くないように包帯ぐるぐる巻きにした上から手錠されて、丁寧  
に食事まで用意されてる状態で監禁されたって言われても……説得力ないんですけど。ま、東城さんらしいっちゃらしいですよね。  
でも……正直に言ったらどうなんですか」  
「……何? 」  
「東城さんのせいに何かしてないでさ、ヤリたくて堪んないから北大路に電話したって」  
「なッ……! 」  
南戸の物言いに、九兵衛は頭に血が上った。ここに刀があれば間違いなく、彼の喉元に刃先を向けていたことだろう。  
「本当若って、クールぶっててすっげー淫乱なんですね。東城さんが戻ってくるまで我慢できないんですか。こんな玩具まで貰って  
てさ。こんな、エロい格好で北大路を誘惑するなんて。つーか何で北大路なんですか。こんな冷血ケチャップ男より、俺の方が数十  
倍はイイ男でしょ? 」  
「ち……違う! 僕は、助けて欲しくて……」  
「助けるって、こーですか? 」  
「ひゃぁあぁ!? 」  
不意に南戸は九兵衛のショーツに差し込まれていた機械のスイッチを弄った。身体の中に埋め込まれたそれの振動が激しくなる。  
「『ひゃあ』だなんて、若も女みたいな声出せるんですね。そんなに気持ちよかったですか? イケなくてつらそーでしたもんね。  
だからあいつを呼んだんでしょ? にしても若って本当にエロい身体してるんですね。俺もちょっとそそられちゃいましたよ」  
「はぅ、や、止め……」  
凄んで命令を下そうと思ったのに、呂律の回らぬ舌からは酷く淫靡な声が漏れる。屈辱的だった。この男にこんな声を聞かれるなど。  
こんな風に弄ばれるなど。  
「……まァ俺も、こんな玩具じゃなくて、物欲しそうな若に本物くれてやりたいとこですけど……」  
南戸は甘い声で九兵衛に囁くと、しかしそのまま立ち上がる。  
「流石に若に手ェ出したりしたら、東城さんに殺されそーなんでやめときますわ」  
「なっ……んっ……」  
「俺も東城さんの女に手ェ出すほど腐っても、女に不自由してる訳でもないし」  
「あぅぅっ……って、みっ……! 」  
そしてくるりと背を向けると、その状態で九兵衛に語る。南戸の言葉を全力で否定したかったが、甘い声が漏れぬよう必死に抑える  
唇はうまく動かなかった。激しさを増した刺激に崩壊しそうになる理性を、留めようとするだけでせいいっぱいだった。  
「俺が言うのもなんですけどね。若も浮気してねーでもうちょっと東城さんのこと大切にしてやったら如何なんですか。あの人若と  
付き合いだしてから、あれだけ頻繁に通ってたソープやらイメクラやらにも行ってないみたいだし。あの人がよく一人の女で持つな  
ーって感心してるんですよ。ま、でも相変わらずロフトには通ってるみたいですけどね」  
絶望的な言葉だった。あの男を大切にしろ、だと? 己を欺き、こんな辱めを与えたあの男を? あの男が一時買春を止めていたから、  
それが何だというのだ。感謝しろ、とでもいうのか? 余りに勝手な理屈だ。  
あくまでも東城を、己にあのような仕打ちをした男を本位に考える南戸の態度に、九兵衛は目の前が真っ暗になる。  
 
「……行くのか」  
「ああ。これから予定あるし」  
「どうせ大した用事ではないだろう。また女のところに行くのか」  
「俺にとっては大した用事だって。ま、俺はともかくお前も若に変な気起こす前に帰ったほうがいいんじゃね? 今日の若マジエロ  
いしさ、どう考えても誘いまくってんじゃん、お前のこと。東城さんと修羅場っても俺は知らねーよ」  
「俺は若に呼ばれてここに着たんだ。貴様が男性器らしい下種な想像を若に巡らせるのは勝手だが、若の用事を聞くまでは帰れんだろ」  
「あっそう……じゃ、俺はこれで。あんま東城さん怒らせるよーなことはしない方がいいと思うぜ? 」  
ひらひらと手を振りながら、南戸は東城の部屋を後にしてしまった。  
「……南戸の主張は最もです」  
そして二人きりになったその場所で、北大路はぽつり、と呟いた。  
「これまでの経緯や今の状況。若が何を仰っても、若と東城殿のプレイの一環にしか見えない……しかし」  
「……ふ、ぅ? 」  
「若の言が全くの嘘ではない可能性もある」  
「き……た、大路……っ」  
言い方は引っかかるが、彼は南戸と違い信じてくれるのだろうか、己を。東城に嬲られ、南戸には誤解されたまま詰られて、屈辱の  
果てにずたずたにされた九兵衛の心に淡い希望の光が灯る。こんな状況でも或いは北大路ならばと、そう思って九兵衛は彼を呼んだ  
のだ。幼い頃から己と共に過ごし、共に剣の修行を重ねてきた彼ならば、その長い時の中で何度も思い知ってきた聡明さを持つ彼な  
らば、己のことを理解してくれるのではないかと、この場から助けてくれるのではないかと。――それは即ち、あの男とも縁が深い  
ことを意味するのだけれど。  
「……東城殿は追い詰められると何をするか分からない人だ。その果てにこんな事をしても……」  
しかし呟かれた言葉に、九兵衛は顔を伏せた。この男も東城、か。あの男が門下生達に慕われているのは知っている。南戸はその筆  
頭だった。だがこの北大路までも――如何して主である己の立場では考えてくれないのだろうか。単に同性だからあの男の考えの方  
が理解し易いのかもしれないが、そう考えると九兵衛は悲しかった。今や己の敵でしかないあの男なしで、本当にこの先次期当主と  
して、この柳生一門を纏めていけるのか……。第一追い詰められると、とはどういう意味だ。この状況であの男が如何追い詰められ  
ているというのだ。追い詰められているのはこちらの方ではないか。  
「そんな顔しないでください。俺はあの顔面男性器のように東城殿に心酔しているから若より彼のことを信じていると言っているん  
じゃない。ただ状況から見て奴の判断は一見最もだが、俺はそうでない可能性もあると考えている、と言っているんです」  
「……! 」  
心の内を見透かすように、北大路は九兵衛を宥めた。否、宥めるというよりは淡々と、事実を語っているに近い。  
「……ああ、それで。用件は何なのですか? 態々俺をこんなところに呼び出して……」  
「み……見ればわかる、だろっ……!? 助けて、くれ……! 」  
南戸が弄って帰ってしまったそれが身体の中で暴れて上手く言葉を紡げないながらも、九兵衛は北大路に訴える。このままではどう  
にかなってしまいそうだ。始めにその存在を見抜いた彼ならば、そんなことはわかっているだろうに。  
「見ればわかるだろう、と言われてもな……」  
しかし対して北大路は、困ったような顔をする。  
「見ただけでは南戸の言うように、外出中の東城殿に放置プレイを決め込まれて、耐えかねて俺を呼んだようにしか見えないのです  
が。襲ってくれと言わんばかりの状況ですし」  
「……っ! ど、どうしたら……信じてくれるんだッ!? 」  
「さあ、今の若に俺を説得できるだけの材料なんて用意できないでしょう。だが……説得ではなく取引ならできるんじゃないですか」  
「と、取引……だとっ……!? 」  
主人の己を何だと思っているのか、叱り付けたかったが北大路の言葉も最もだった。確かにこの状況では、そう思われても仕方がな  
いのかもしれない。……それでも彼を呼んだのだ。  
「ああ。俺がここから若を開放する見返りに、俺を満足させてくれたら、その手錠を外してやっても良い」  
「……わかった」  
北大路をじっ、と見て、九兵衛は思った。この男は完全に己の味方という訳ではないが、かといってあの男の側についているのでも  
ない、そんな態度だ。それも共に幼馴染である二人のどちらを信じるべきか、そんな情に振り回されて悩んでいるのではなく、あく  
まで彼が今まで見てきた事実の中で客観的に判断を下している、と言った風情だ。  
「で……見返りとは何だ……? 」  
 
「……若も女なら、何度も東城殿に抱かれた女なら。この状況で俺がどうしたら満足するか、位分かるんじゃないですか」  
「……っ! 」  
びくん、と九兵衛の身体が強張った。ある程度予想はしていたが、矢張り――。  
「若の言うように、本当は若は東城殿の事が嫌いで、それでもあれだけ何度も寝たと言うのなら。俺とだって出来るでしょう? 」  
「……」  
九兵衛は黙っていた。――何を躊躇している。初めに東城が忠告したように、こうなる可能性があることも分かっている上で、北大  
路を呼んだのではないか。  
そうだ。今こそあの男に……復讐を。  
「……好き、にしろっ……」  
それでも九兵衛には、それが精一杯だった。顔を背けて瞳を堅く閉じ、男の次の行動をただじっと待つ。  
「では……」  
「……! 」  
それを聞くなり北大路は、九兵衛の脚をがばと広げた。  
――いきなり何て、即物的な男なんだ……!?  
九兵衛は混乱した。接吻から始めて、徐々に気分を高めていくものなのではないのか、まるでそこ以外興味がないと言わんばかりに……!  
幾ら愛のない関係だからと言って、これはあんまりではないか? 少なくとも東城は、あの男はこんな真似はしなかった――。己の  
全身に、余すことなく丁寧な愛撫を施してくれた。焦らされる程時間をかけて、ゆっくりと……。  
……何を考えている。己とあの男との間とて、愛など無かったではないか。  
それに、と九兵衛は思う。早く終わるのならその方が良いだろう。どの道何も無い関係なら……。  
「……はぅ……うっ! ……はぁ……」  
ズル、と己のうちから硬質の物体が引き抜かれる。狂いそうなその刺激から開放されて、九兵衛は大きく息を吐いた。  
「……」  
北大路はそんな九兵衛に労いの言葉一つかけず、それどころか九兵衛のその部分すら見ずに、ただじっ、とそれまで九兵衛の中に埋  
め込まれていた物体を見つめていた。  
「……っ! 」  
ふと、北大路と目が合って、九兵衛はぞっ、とする。  
――冷めた目だった。恐ろしい程に。  
普段あれ程頼もしいと思っていた、彼のこんな状況においてすら保たれた冷静さが、急に恐怖を煽る。  
これが本当に、最中の男の目なのだろうか。九兵衛の脳裏に、情熱的な男の視線が過ぎる。あの男はいつも、最中には切なげな程の  
視線を送ってくれたのに。  
「や……んっ! あっ……! 」  
蜜壷に指を挿れられ、九兵衛の口から甘い声が漏れる。東城のそれとは違う冷たい指が、機械的な運動を続けた。  
「……」  
それでも北大路は何も言わず、ただ黙々と手を動かす。  
「はぁ……あぁっ! 」  
その男の何処までも冷めた態度に、熱くなっていく頭の片隅で、九兵衛はふと思った。  
――本当にこのまま、北大路と関係を結ぶのだろうか。あの男以外のものなど受け入れたことのないその場所に、彼のものを銜え込んで……。  
こんな状況に立って尚、その想像は些か非現実的だった。このまま弄られ続けていれば多分、肉体が絶頂を迎えもするだろう。何処  
か冷静な自分がそんな判断を下す。しかしそれで本当に……己は満足するだろうか。  
九兵衛には既に見えてしまっていた。その先にあるものが。何もない関係。虚しさしか残さない、本当の意味で無意味な……。  
「あッ……! ……とっ」  
ふと、この場にいない男の顔が頭に浮かぶ。――この期に及んで何を。あんな事をされて尚、他の男に抱かれてもあの男の事を思い  
出してしまうのか。  
悔しいが事実だった。こんな冷え切った関係などではなく、一時のようにあの男に情熱的に求められたい。例えそれが泡沫の夢であ  
っても、もう一度それに溺れたい……。  
「……興が冷めました」  
不意に北大路の手が止まる。何事か、思っているうちに指が引き抜かれた。それと同時に、己でも驚くほど急速に、あれ程己を苛め  
ていた熱が冷めていく。  
「何……の真似だ」  
――何を言っている。冷めたも何も、お前は初めから微塵も、熱くなどなっていないではないか。  
「俺にもプライドがありますので」  
言って北大路は立ち上がる。  
「最中に他の男の名を呼びかねない女を抱く趣味はありません」  
「……! 」  
そして背を向けて水道に向かう男の言葉に、九兵衛はぎくり、とする。  
 
勘付かれた、か……。  
嫌に冷たい北大路の愛撫を受けながらも、心に浮かぶのはあの男のことばかりであったことを……。  
自分でも愚かだと思う。あれだけの事をされて、確かに憎んでいる筈なのに。それなのに未だ己は、東城を求めている。狂いそうな  
くらい、あの男の全てを手に入れたいと望んでいる――。  
ここにおいて九兵衛は思い知ってしまった。もう如何にもなりはしないのに。それでも尚、愛しているのは、心から抱かれたいと望  
んでいるのは、己にこんな屈辱を与えたあの男ただ一人だけだなんて……。  
矢張り分からない。如何してあの男は己を、愛してもいない女を、あんなにも熱っぽく抱けるのだろう。そんなことをしても、虚し  
いだけだろうに。  
「南戸とてそうですよ。若が本当に好きでもない男に強姦された上に監禁されたというのなら、あの女の弱みに付け込んで誑しこむ  
のが趣味の男性器が放っておくわけないでしょう。幾ら東城殿の女と言っても、若が本当に嫌がっているのならあの男の彼への評価  
も変わるでしょう」  
「……は……」  
分かっていたというのか。  
それを躊躇させるほど、己はあの男に惚れ込んでいると。  
だから手を出さなかったのか。南戸も。そして――北大路も。  
「……そうだ。僕はあの男が……東城が好きだ。こんな事をされても尚……気づかせるためにやったのか? 」  
「さあ、結果的にそう仕向けたのは若じゃないんですか。俺は主人である若に呼ばれたから来ただけで、そこまでお人よしではあり  
ません。子供の頃からの知り合いである若と東城殿の性生活など正直興味ありませんから、見せ付けられても困りますし。言ったと  
おり興が冷めたから止めただけです」  
「違う、そんなんじゃないんだ! 本当に……僕はあの男に無理やり……。確かに僕は東城のことが好きだが、あの男は僕のことな  
ど何とも思ってないんだ。だから僕にこんなことを……! 」  
「どうだか」  
しかし矢張り、北大路は九兵衛に説得されはしなかった。  
「この機械……取り出した瞬間中で妙な音がしていました。センサーか何か入ってたんじゃないですか」  
「! 」  
気づかなかった。それで先ほどこの男はじっとそれを見ていたのか。全く……恐ろしい洞察力だ。  
「……あの男は僕が昨日、別の男と寝てたんじゃないかと疑ってた。それでそんな真似をしたんじゃないか。また僕を詰る材料にで  
もする為か……」  
「それこそジェラシーの類じゃないんですか」  
「違う! 信じてくれないかもしれないが、本当にあの男は……僕をずっと騙していて……避妊具に細工をして、僕を孕ませようと……」  
「……成る程」  
納得してくれたのだろうか、九兵衛が淡い期待を抱いたのも束の間。  
「それでそんな格好で俺を呼んで、東城殿ではない男の子を孕みうるようなことでもさせられても丁度腹いせになると」  
「……っ! 」  
心の内を言い当てられて、九兵衛は言葉に詰まる。  
「そういうことでしたら、一つ納得もいきますが。でも、あんまり無理しない方が良いんじゃないですか。何かと不器用だし、若も  
東城殿も。そんなんだといつまで経っても平行線のままですよ」  
「……は! あの男が不器用なものか。僕を……愛してもいない僕を何度も抱ける癖に」  
「まあ、多かれ少なかれ男とはそういうものですよ。確かに東城殿や、序にあの男性器なんかは『多かれ』の方に含まれるのかも知  
れません。……でも」  
北大路はくい、と眼鏡を持ち上げる。  
「愛しているからこそ抱きたいと思うのも真理でしょう」  
「……? 如何いう意味だ……? 」  
「さあ、ここから先は若と東城殿の問題でしょうから、俺は口出ししませんよ。……ああ、そういえば手錠を外すという話でしたね」  
「あ、ああ……しかし僕はその、お前に見返りは……」  
「ふむ……じゃあその、卵焼きを貰えますか」  
「! 」  
机の上に置かれた出汁巻き卵を指差され、九兵衛は戸惑った。本当にそんなもので良いのか、と。  
「……あの男が残していったものだ。何が盛られていても僕は知らんぞ」  
「なら尚のこと。東城殿が若に用意したものなら、これ程安心できるものはない」  
「……」  
己の言葉を肯定と受け取ったか、北大路は懐からケチャップを取り出すと、それを出汁巻き卵の上に勢いよく、余すことなくかけた。  
黄色い卵がのっていた筈の皿が、鮮やかな赤に染まっていく。  
「お前それ……出汁巻き卵だぞ。普通醤油じゃないのか……? 」  
 
「若もそんなことを言うんですか。東城殿に毒されてるんじゃないですか? あの人以前言ってましたよ、醤油は卵にかける為にあ  
るんです、とか……どう考えても卵はケチャップにかけられるために存在しているようなものなのに」  
「……」  
どちらも極論じゃないのか。訳の分からぬ議論で勝手に東城の仲間にされ敵視されて、九兵衛は頭を抱える。  
「若も食べますか? 元々若のために用意されたものですし」  
「……いや、いい……というかそれもうお前以外誰も食べられないだろう……」  
滴り落ちるほどケチャップをかけられた、最早北大路専用の『赤い何か』と成り果てた物体をジト目で見ながら、呆れるように九兵  
衛は呟いた。  
「さて……」  
やがて食事を終えると、北大路は再び立ち上がった。  
「……困ったな。どうやって外すんだ、これは」  
跪いて九兵衛の手を取り、少し弄ってみてはしかしぼやく。  
「……そこの棚の、上から三番目の引き出しに工具箱があったと思う」  
九兵衛に示され、道具を取り出し、暫くそれらを動かしてみたが、それでも一向に外れない。それどころか時折彼の手が滑って、九  
兵衛の手に工具が刺さった。  
「……案外不器用なんだな、お前……」  
「仕方ない。……西野を呼びましょう」  
「! 」  
己や東城のことをどうこう言えるものかと、思って九兵衛が告げた言葉もさして気にもしてない様子で、ただその手錠に観念したよ  
うに、北大路は立つと、九兵衛に宜しいか、と確認を求める。それに九兵衛はああ、と頷いた。  
「……そういえば、若はこの電話で俺を呼んだんですよね? 」  
「? ああ……」  
備え付けの電話を取りながらそんなことを言う北大路の言葉に、九兵衛は訝しげな表情をしながら首を縦に振る。北大路はそれ以上  
何も言わず、その電話で西野を呼んでいるようだった。やがて暫くして、スキンヘッドの大男が九兵衛達のいる部屋を訪れる。  
「信じられん……」  
姿を現すなり、西野は呟く。  
「北大路から話は聞いていたが……本当に東城殿が若にこんなことを……? 」  
「南戸はこういうプレイなんじゃないかと言っていたがな」  
「馬鹿な。あんな顔面男性器の言う事など信じられるか。若が違うと仰ってるなら、何故お前はそれを信じない」  
「あの男性器を信じている訳じゃない。俺は俺でこれまでの経緯と見た状況ではとても100パーセントそれが真実とは思えないと  
言っている。若も未だ東城殿には恋慕の情を抱いていると言っていたしな。だからお前も信じられないんじゃないのか」  
「それは……矢張りあの東城殿が、というのがな……。あの男の若への忠義は大したものだと、拙者も日頃感服していた。若と東城  
殿が恋仲になったと聞いたときも、驚きはしたが、あの男なら若を大事にしてくれるだろうと安心していたのに、まさかこんな……」  
「その点に関しては俺も南戸も大して驚いてない。逆にあの東城殿ならこれ位のプレイはしてもおかしくないとすんなり受け入れられた」  
「いや……拙者は東城殿の性癖など知らんし、知りたくも無いし……」  
「俺だって別に知りたくて知ったわけではない。ただこれまでの彼の言動や俺が見聞きしてきたその他諸々のことを総合して推測す  
るに、制服やらコスチュームプレイやらが好きなフェティシストで、日に風俗店を梯子する絶倫で、若相手ならスカトロもいけると  
か言ってた変態で、」  
「いやもういい。……お前の記憶力と洞察力も考え物だな……」  
西野は丸く刈った頭を抱えた。  
「だが確かに信じられんのだ。東城殿はもしかしたら変態なのではないかというのは拙者も時々感じていたが、それでも……。  
 いつぞやもあの男は若の右腕に、そして拙者は左腕にならんと誓いあったというのに」  
「お前が左で東城殿が右なら俺は前だな。何をすれば良いのか、前というと一般に女性器の方を指す様だが。それとも口の方か? 」  
「いやそういう話じゃないから。何で4Pになってるんだ……まあ、話は後だ。兎に角この手錠を何とかせねばな」  
「出来るか」  
「ああ、取り合えず、先に鎖の方を何とかしよう。このままでは作業しにくいし、若も辛いだろうし……」  
言って西野は鎖を取ると、ふん、と気合を入れてはそれを引き千切る。かなり頑丈な鎖だったはずだが、相変わらずの怪力と、九兵  
衛は感心した。  
そしてそのまま座り込むと、今度は手錠の開錠にかかる。その武骨で大きな手で、対照的に小さな九兵衛の手にかけられたそれを暫  
くかちゃかちゃと弄っていたが、やがていともあっさりと外してしまった。そうして九兵衛は漸く、暫くぶりに完全に手足の自由を得る。  
「有難う西野。助かった」  
 
「いやいや、当然のことです。幾ら慕っている男にでも、いや、だからこそ。この様な仕打ち、あんまりでしょう」  
「……」  
己に同情を示す相手に、九兵衛はこれまでの経緯を彼に話すことが躊躇われた。西野ならば己を信じてくれるかもしれない。しかし、  
これ以上彼に心配をかけて良いのだろうか。  
「しかし東城殿が、な……。確かに醤油は卵にかけるために存在しているとか、訳の分からんことを言っていたが、決して悪漢では  
ないと思っていたのに……許せませんな」  
「……。何だかさっき聞いたような話だな……。あの馬鹿……」  
あの男は一体何人にくだらない主張をしているのだ。九兵衛は呆れる。  
「若もそう思うでしょう。卵は牛乳と砂糖とバニラビーンズと一緒に混ぜて濾して、カラメルソースを入れた器に注いで蒸し焼きに  
するのが一番美味いに決まっている」  
「……いや、それもう卵というかただの菓子じゃないか……? というかやけに詳しいな。作ったのか」  
「いや、稚拙ながら拙者は菓子作りが好きで……侍となるか菓子職人となるか迷ったほどで」  
「……相変わらずメルヘンチックな趣味だな……」  
「そういえば何時だったか、卵は酢とサラダ油と混ぜてクリーム状にするためにあるんだとか訳のわからん主張をしていた男がいたな」  
「それももうただの調味料だろ……」  
九兵衛は溜め息を吐いた。如何して己の周りにはこう何処かズレた、おかしな連中ばかりがいるのだろう。己としては卵などについ  
て語っている場合ではないのだが。  
「そうだ西野」  
思い立って九兵衛は側近の一人の名を呼んだ。  
「あの棚の、一番上の段に手が届くか? 僕の刀と、いつもの服があるんだ」  
「ああ……はい」  
言われて西野は立ち上がると、指された棚の引き出しを開け、そこから言われたものを取り出し九兵衛に手渡した。  
かちゃり、と手にした刀が鳴る。これで再びあの男に会っても、今度は簡単には好きにはさせまい。それどころか……形勢逆転も狙える。  
「……妙だな」  
しかしその様を見て、北大路は呟いた。  
「東城殿はそれを若に見えるように閉まったのか」  
「? ああ……だが僕の身長では全然届かなかった。悔しがらせる為に見せ付けたのか……」  
「しかし今のように、誰か人を呼べば届く」  
「それは……」  
「仮に若が言うように、これが本当に東城殿が若の意に反して為した行為なら。若の手元に刀など持たせてしまえば、もう二度目は  
ないと東城殿はわかっている筈だ。東城殿がそんな失態を犯すとは思えない」  
「……」  
「……若が俺にこの部屋の電話で連絡してきたというのも変だった。本当に東城殿が若を監禁していたのなら、若に連絡手段など残  
すはずがない」  
「北大路」  
考察を続ける北大路を、西野が制した。  
「お前はまだ若を疑っているのか? 若は我々に嘘など吐くまい。少なくとも拙者は若を信じるぞ」  
「西野……」  
「……若の言葉が本当だとすれば。これではまるで、誘っているようだな。東城殿は……彼がいない間に、若が別の男と接触するのを」  
「! 」  
――誘っていた? 僕が別の男に抱かれたのではないかと、勝手に誤解してあんなに詰ったあの男が?  
九兵衛には益々、あの男の目的が何か分からなくなった。己に得物を与えて――これでは殺されたいと言っているようなものではないか。  
それとも挑発しているのか。己にあの男が殺せるはずがないと、高を括って――。  
「そういえば、東城殿は何処にいる? こうしてここで色々と憶測を立てるより、あの男に直接訊いた方が早いんじゃないか」  
「彼の実家の人間がこちらに来てな、彼らと共に出て行ったよ。南戸が誑しこんだ女中から聞いた話だと、何でも昨日も色々と揉め  
事があったのに途中で放り出して帰ってきていたらしい。暫く帰ってこないんじゃないか」  
「……ああ。そう言っていた。あちらとは上手くいっていないらしい。電話でも口論しているようだった」  
北大路の言葉を、九兵衛は補足する。  
「まあ東城殿は例え肉親が危篤状態にあっても若に何かあれば放り出しかねない人だからな……大方昨日のその態度が原因だろう。  
 彼も俺と同様殆どこの家で育ったような人間だが、それでも血縁関係の柵というのは色々と厄介だからな。俺も親戚の料亭が誰も  
継ぐ人間がいないので来ないかとか誘われていて困っている」  
『いや、困るも何もお前には絶対無理だろう』  
ふうと溜め息を吐く北大路に、西野と九兵衛はほぼ同時にツッコミを入れた。この偏食家が料亭なぞ継いだ日には、皿中真っ赤な料  
理を並べかねない。  
 
「まあ兎に角、東城殿が戻ってきても俺は何も言うつもりは無い。それは若と東城殿の問題だからな」  
「相変わらず冷淡な男だな。如何あれ拙者は若には協力を惜しまん」  
「有難う。……なあ、西野」  
ふと思いついて、九兵衛は西野の名を呼ぶ。  
「もしもの話だ。もしも僕があの男から逃れる為に……お前に、僕を抱いてくれと頼んだら、お前は応じるか? 」  
「……若? 」  
「恐らくそれはあの男の目論見を崩す手立てとなりうる。……これでも、あの男に相手をさせている内に、少しは上達したんだ。な  
あ……お前は僕の命令だったら聞くか? 」  
西野は目を丸くしていた。己とて無論、仮定の話だからこそこんな事が言える。北大路が、そんな事を実行するつもりは己にはない  
と分かっている人間がいるからこそ。  
「……考えたこともありませんでした」  
困ったような顔で、西野は切り出した。  
「しかし若……拙者には到底出来ません。若がまだ東城殿を慕っておられるのなら……拙者は若には、心から慕っている人と幸せに  
なって欲しい」  
「……そうか」  
――あの男もそんなことを言っていたな。  
ふと九兵衛は東城の言葉を思い出す。だから己を抱くことは出来ないと、冗談なのでしょう、といった顔をしている西野より幾分切  
迫した様子で。  
あの男は言っていた。あの時己があんな申し出をしたから、彼はあの様な行動に出たのだと。あれが全てを狂わせるきっかけだった  
とでも言うのか。  
「いや、おかしなことを聞いてすまなかったな。忘れてくれ。西野……お前の気持ちは嬉しい。だが北大路の言うように、ここから  
先は僕自身の問題だ」  
「若……」  
「僕一人で決着をつける。……例えどんな結果になろうとも」  
ちゃり、と西野から受け取った愛刀を握り締めながら、九兵衛は静かに告げた。  
東城の意図は分からない。だが突破口が開けたのは確かだ。刀さえあれば、もう前と同じ轍は踏むまい。  
――この剣で王子様の胸を貫きなさい。そうすればあなたはまた、今までのように海で幸せに暮らせるでしょう。  
もう十何年も昔に、布団の中であの男に読み聞かされた物語の一説が頭の中でリピートされる。まだ声変わりも迎えていなかった、  
幼くも優しい声……。  
だが彼を手にかけたところで、昔に戻れるはずがない。こんな感情を知らなかった頃になど。  
刀さえ手元に戻れば、今度こそ己を裏切ったあの男を殺すつもりだった。それなのに。まだ己の中に、確かに残っていると気づかさ  
れてしまった彼への愛がそれを躊躇わせる。本当にそれで良いのか。  
エピローグを迎えるにはまだ早すぎると、九兵衛は思った。己は声を失ったわけではない。先ほどまでは力で捻じ伏せられて、まと  
もに言葉も紡げなかったりもしたが、対抗手段は既に手に入った。  
彼に軽蔑されるのが怖くて、ずっと秘めていた想い。このまま胸に抱えたまま終わらせるのは苦しい。無論今のあの男にそれを伝え  
たところで、嘲られるだけだろう。意味などないとわかっている。それでも伝えたい。狂おしい程の激情を。もう――逃げも隠れも  
しない。  
心配そうな眼差しを残しながらも、西野は北大路と共に東城の部屋を去っていった。後には再び、九兵衛だけが残る。  
あの男がこの部屋に戻ってくるまでにはまだ時間があるだろう。取り合えず着替えようかと思い、西野が出してくれたいつも己が着  
ていた男物の服を取り、鏡の前に立って、しかしそこで九兵衛の手は止まった。  
一昨日前からこの部屋にある大きな鏡には、一人の少女の姿が映っていた。長い黒髪を高い位置で二つ分けにして、可愛らしいリボ  
ンで結んで毛先を巻き、黒を基とした異国のドレス風の豪奢な着物に身を包んだ、何処から如何見ても女子にしか見えない己の姿。  
四年前の雛祭りの日が思い出させられる。あの日あの男に貰った服が、どれ程嬉しかっただろうか。東城さんの趣味なんでしょう、  
己の服を南戸はそう形容していた。陵辱の果てに大人しくなった己にあの男が無理やり着せたものだが、本当にこれはいかがわしい  
目的で用意した服なのだろうか。少なくとも四年前はそんな目的ではなかった筈だ。――あの頃は思いもしなかった。あの時の優し  
い従者が、シンデレラの魔法使いのように己に魔法をかけてくれた彼が、こんな事を己にするなんて。  
九兵衛は取り合えず、余りに心もとなかった下着だけを戸棚から取り出したものに替えると、しかしそれ以上の着替えをしなかった。  
 
これからどうしようか、思った矢先、ふと先ほど南戸が荒らしていった棚が目に付いた。塵一つなく整理された部屋の中、雑然とさ  
れてしまったそこが妙に気になって、直しにかかる。こんなことをしている場合ではないのだが、と思いながらも。しかし男特有の  
秘め事の詰められたその場所は九兵衛がとても正視できるものではなくて、そこに近づいたことを後悔しては視線を逸らす。  
その時ふと、視線の先の、棚から零れ落ちていた無機質な分厚い冊子が目に止まった。何だろう、思って取り出して広げてみると。  
「! 」  
そこには一人の少女の成長の痕跡が、写真によって事細かに綴られていた。そう……彼が十八年間ずっと仕えてきた、他ならぬ九兵  
衛自身の姿が。何時の間にこんなにと、驚くほど膨大な量だった。そういえば時折あの男は、己の姿を写真やらビデオやらに納めて  
いた。柳生家のお抱えの写真家が撮ったのを、焼き増ししてもらったらしいものも入っている。それら全てが一枚一枚実に丁寧に、  
アルバムに収められていた。  
一通り見終えては、九兵衛はそれを元に戻す。立ち上がって、今度は別のある棚に目が移った。以前東城が、決して見ないでくださ  
れと言っていた場所だ。何だというのだろう、思って九兵衛はそこを開く。青髭の恐ろしい秘密を知ってしまった妃は確か殺されて  
しまうことになるのだが、それでも九兵衛は知りたかった。あの男が何を隠していたのか。それに己は殺されてやるつもりはないし、  
彼との関係は既に終わっているも同然だ。今更何を躊躇うことがある。  
「……? 」  
開いてみた場所には、矢張り本が置かれていた。それもアルバムとは違う、帳簿のような……。西野も侍になるか菓子職人になるか  
迷ったとか何とか言っていたが、まさかあの男は作家か何かでも目指していたのだろうか。思って好奇心から開いてみると。  
「……! 」  
それは彼の日記帳のようだった。確かに彼の筆跡である整然とした美しい書体で、カーテンが壊れてロフトに行っただとか、取り止  
めもないことばかりが書かれている。しかし来る日も来る日も、その冒頭は殆どが同じ言葉で始まっていた。――『麗しの若は、今  
日も気高く凛々しく美しい』。……戯言だと思っていた。本心からの言葉では決してない、と。だから嬉しくなるのを必死に堪えて、  
今まで耳を傾けないようにしていたのに。  
十何年にも及ぶ彼の日常の記録。その何処を開いてみても、綴られているのは己のことばかりだった。そこにあったのは確かに、己  
の良く知っている東城の姿だった。もうあの彼はいないのだと、全て偽りだったのだと思っていたそれがその日記の中にはあった。  
いつも己のことを心配して、温かく見守ってくれた従者の姿――。  
彼がそれを隠していた理由は何となくわかった。彼自身日記を読まれるなど恥ずかしいというのもあるだろうが、こんなものを平常  
の己が見たら恥ずかしさの余りに、馬鹿なものを作るなと目の前で焼却処分しかねなかっただろう。――けれど。けれど今は……。  
視界が霞む。ぽたぽたと落ちた涙が帳簿の文字を滲ませるのに気づいて、慌ててそれを閉じてもとの場所に戻した。  
そういえば、と九兵衛は東城が去り際置いていった、古びたおまるに目がいった。あの時は羞恥と憤怒ばかりで考えもしなかったが、  
こんなものをまだ大事にとっておいてあったのは、己もよく知っているあの男だからではないか。  
本当にあの男は変わってしまったのだろうか。九兵衛はふと思った。それは俄かには信じられなかった。これまでの仕打ちに絶望し  
ていたが、ここに置いて矢張り己のよく知っている彼は幻想ではなかったのではないかという想いに駆られる。  
その考えに更なる確証を与えたのが、先ほどまでのあの男の態度だ。掌を返し豹変したようだった彼は、しかし何処か苦しそうな表  
情をしていた。舐めるような下劣な視線を己に向け、けれど決して己の顔を直視しようとはしなかった。彼の中にはまだ、葛藤があ  
るのではないか。  
 
あの男のことが分からなかった。誰よりも近くにおいていたはずなのに。以前もこんな思いを抱いたことがあったな、と九兵衛は思う。  
忘れもしない、東城が女を買っていると知った日のことだ。――もしかしたらその先にあるのは、あの時以上の絶望なのかも知  
れない。だが……それでも九兵衛は、今度こそ知りたいと思った。あの男の全てを。あの時のように逃げ出さずに受け止めたいと思った。  
……狂おしい程に、誰よりもあの男を愛していると気づいてしまったから。  
この想いを伝えてしまえば、彼のその最後の葛藤も打ち破ってしまうのかもしれない。どんな結末が待っているのかは分からない。  
それでも良い、と九兵衛は思う。それでももう……己は決して彼から逃げまい。  
手にした刀を握り締めながら、九兵衛は静かに机の前に敷いた座布団に腰を下ろし、その部屋の主の帰りを待った。  
 
 

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