東城が柳生家の屋敷に辿り着いたのは、次の日の昼過ぎのことだった。
それでも急いだ方だった。実家での事等何一つ解決していない。彼らの隙をついて、途中で捕まらぬよう逃げるようにここに来た。
後で叱られるだけではすまないだろうがどうでも良かった。そんなことより何よりも――九兵衛の言葉が気になった。
酷く冷たい声だった。
少し掠れた、静かな、しかし激しい怒りを湛えた――そんな声だった。
何をそんなに、彼女を怒らせてしまったのだろう。一昨日のメイドさんプレイがいけなかったのだろうか。何だかんだいって、あの
人だって結構楽しんでいた癖に……。……否、そんな次元の話ではない雰囲気だった。
どうにもこうにも、兎に角彼女の怒りを静めなければ。しかし原因がわからないのでは謝りようがない。それで彼女が納得するはず
もあるまい。
とはいえこうして、自室で静かに一人、一通り考えをめぐらせて見ても思い当たることがなかった。仕方ない、とりあえず彼女に会
おう。そして直接聞くしかない。思って東城が立ち上がった、その時。
「……帰ってくるなと言った筈だが」
いつの間にか開いていた部屋の障子の向こう側から、凛々しく美しい少女が静かにこちらに歩いてくるのに気づく。
「わ……か……」
震える声で、東城は少女の名を呼んだ。
それを気にも留めずにつかつかと、彼女は歩みを進めると、やがて東城の前でぴたりと立ち止まる。小柄な彼女は低い位置から、鳶
色の隻眼で彼を見上げた。
東城を睨み上げるそれは、酷く冷たい目だった。
彼女が冷めた目で東城を見るのは度々あることだった。だがそれは、これまで彼が目にしてきたものとは明らかに違う色をしていた。
それは、人間を見る目ではなかった。
まるで汚らわしい――けだものを見るような目だった。
――これが本当に、彼女の目なのだろうか。
一昨夜、臥所で蕩けるような熱っぽい視線を己に向けていた彼女と、同一とは思えない。
東城は九兵衛のその変化が、俄かに信じられなかった。
「随分と早かったな。……大方、貴様の家での揉め事など適当に放り出して来たのだろう」
「それ、は……若にあの様なことを言われれば……」
淡々とした口調で詰られたのはずばりその通りで、東城は気圧される。
「若。私の主は若ただお一人で御座います。若の為とあらば、親兄弟とても縁を切れる覚悟です」
「……そうか」
きっぱりと言い切ったその言葉にすら、帰ってくる声は酷く静かであっさりとしていた。いつもの彼女なら、そんな事を簡単に口に
するなと、己に小言の一つでも言うだろうに、まるで興味がないといった風情で受け流す。
「なあ、東城」
そして変わらぬ声色で続ける。
「僕はずっとお前を信じていた。何があろうと、お前だけは僕の側にいてくれると。お前だけは僕についてきてくれると。お前だけ
は僕の味方でいてくれると……。色々と困らされたこともあったが、その度にそれほどまでに僕を大事にしてくれているのだと思っ
ていた」
「……! も、勿論で御座います、若……」
心がざわめいた。
九兵衛の言っていることは事実だ。だが、彼女は何故今更、そんなことを言ってくる。
何故――全て過去形で、話を進める。
「だからな、東城。俄かには信じられなかったぞ。まさか貴様が――」
ふと、九兵衛が懐に手を入れた。かと思うと次の瞬間、それは凄まじい速さで動く。
こん、と顔に何かがぶつかった。反射的に東城はそれを手に取る。
「こんな方法で、僕を裏切っていたとはな! 」
投げつけられたそれは果たして、くしゃくしゃに握り締められて潰れた、避妊具の入っている小箱であった。
そう――己の部屋に置いてあった筈の。
「……もう一度言う。二度と僕の前に姿を現せるな。とっととこの家から出て行け! 」
そこにおいて東城は、漸く全てを理解する。
彼女が如何して、こんなにも冷淡な眼差しを己に向けているのか。
彼女が何に対して、怒りを示していたのか。
「フ……成る程……クク……」
それを知って尚、しかし東城は動揺のあまりに取り乱したりはしなかった。
「アッハハハハハハ! 」
ただ自然――笑みが零れていた。室内に男の高らかな哄笑が響く。
「……何がおかしい……」
気が触れたか、とでも言いたげな九兵衛を見ていると、口の端があがるのを抑えられなかった。
「いえねえ……ただ少し、残念だと思ったのですよ。もう暫く、甘い夢が見られると思っていたものですから……」
気づくのが意外と早かった、というのがまず東城の抱いた感想だった。それというのも、あの不測の事態が原因だ。昨日の朝、慌し
くこの部屋から己が出て行った後、まだここに残っていた彼女が発見したのだろうか。いつもなら彼女が目覚める前に片付けていた
あの小物入れを、昨日に限って隠しておかなかったのが拙かった。彼女は己の部屋のものになど興味はないだろうと、高を括ってい
たせいもあるかもしれない。
だが――それは東城にとって、それ以上の問題ではなかった。気づかなければ彼女は少し不幸にならずに済んだ、その程度の違いで
しかない。
「それにもう暫く、若にもこの私を完全に支配しているのだと、愚かな思い上がりをしていただけると思っていたので……」
「……ッ! 」
その言葉に、九兵衛は明らかに反応し、より深く眉間に皺を寄せた。美しい顔に嫌悪の情が浮かぶ。
「……戯言を……」
「ねえ若。それで貴女は、どうしてここに来たのです? 私にお別れを告げる為ですか? 」
「……何を言っている!? 貴様、僕の話を聞いていなかったのか!? 三度目は言わん! 早く僕の前から――」
「消えませんよ」
九兵衛の言葉の途中で、しかし東城はそれを遮った。
「何――」
「貴女はまだ思い違いをしていらっしゃる。貴女が真実に気づいたから、それが何だと仰るのです。それで何かが変わるとでも? 」
「……どういう意味だ。何も変わらぬとでも言うのか!? 」
九兵衛は声を荒げる。先ほどまでとは完全に立場が入れ替わっていた。彼女の怒りの原因を把握した東城はもう、焦ることなどなか
った。
「そんな風に凄んでみても、貴女は所詮、何もわかっていらっしゃらないお嬢様なのですねえ。真実に気づいて尚、まだこの私を支
配できると思っていらっしゃる。……否、ある意味ではそれは間違いではないでしょう。確かに私を支配しているのは間違いなく貴
女です。しかしそれは、貴女という存在なのであって貴女の意思ではない」
そっ、と東城は九兵衛の両の手を、相手に警戒させぬようあくまでも優しく取った。びくん、と、彼女の身体が震える。
「……何が言いたい……」
「若にここまでしてきた私が、今更貴女に睨まれ罵倒されたからといって、はいそうですかと引き下がると、本気で思ってらっしゃ
ったのですか? 」
そんな言葉を告げながらも、東城は決して、普段の温厚そうな表情を崩しはしなかった。
「無防備な姿で自ら近づいてきた美味しそうな赤頭巾を、狼が食さぬとお思いですか」
「……ッ!? 」
続けた言葉に、愈々九兵衛の身体に緊張が走って強張った。だが彼女が行動に出る前に、東城は掴んだ手を素早く後ろ手に回すと、
既に解いていた己の腰帯で両手を縛り上げた。
「……なっ!? 」
突然の東城のその行動に、当然九兵衛はうろたえた。だが彼女は男に、それも今の今まで裏切られたと憎しみを抱いていた相手にこ
んな事をされて、恐怖で動けなくなって何も出来なくなるような女ではない。
「……のッ! 」
自由を奪われた腕の代わりにと、九兵衛は足を振り上げる。
「あッ!? 」
しかしそんなことは、東城にとって予想通りのことだった。彼女の蹴りをあっさりとかわすと、脇で脚を止める。九兵衛がそれでバ
ランスを失うのを見計らって、東城は畳の上に彼女の身体を組み敷き、今度こそ彼女の動きを封じる。
彼女がいかに優れた剣客であろうと、所詮小柄で華奢な少女の身。これだけの体格差のある男の己を相手に力で敵うはずもなかった。
だから初めに手の動きを封じたのだ。彼女が剣を抜けぬように。
「……何の真似だ!? 貴様、早くこれを解けッ!! 」
東城の下で九兵衛が、彼を睨みあげていた。長身の身体に覆い被されて、彼女の顔に暗い影が落ちている。
「何の真似? おやおや、この状況で私が若に何をしようとしているかまだ分かりませんか? 生娘じゃあるまいし……それだから
貴女はいつまでも、無知で愚かなお嬢様なんですよ」
「な……に……」
九兵衛の語気が弱くなる。そんな彼女を、東城は舐めるように見回した。憎悪に寄せられていた細い眉が、驚愕に緩められていく。
赤く色づいた薄い唇からは荒い息が漏れた。後ろで一つに束ねられた長く艶やかな黒髪は、乱れて畳の上に広がっている。白い肌を、
一筋の汗が伝うのが見えた。濃紺の着物の衿元には、薄い鎖骨が浮かび上がっている。
そんな彼女が、今組み敷く己の下に存在してその、涼しげな印象を与える美しい鳶色の隻眼でこちらを見上げてくる。彼女と身体の
関係を持つずっと以前から、何度も頭の中で思い描いていたその光景は、想像よりも数十倍扇情的だった。
「ま……さか、お前……」
己の言葉と、視線の意味を漸く理解したのか、九兵衛は一度大きく見開いた瞳に、次の瞬間力を籠めて再び睨む。
「……下種がッ! 」
澄んだ低い声が、東城を罵った。
「正気か!? 貴様……この僕にこんなことをして、ただですむとでも思っているのか!? 」
「今更どうなると仰るのです」
主人の威圧的な言葉に、しかし東城は微塵も怯まなかった。
「初めに若が言ったように、私をこの家から追い出しでもしますか? まだ当主でもない貴女一人の力で、この私にそんなことが出
来る権限があるとでも?
それとも、誰かに告げますか? 若の方から訪れた私の部屋で、私に無理やり犯された、とでも。――誰が信じるというのです?
そんなことを。私と若の関係は周知の事実でしょうに。
私が避妊する振りをして貴女に中出しし続けていたとでも暴露しますか? それとて私との関係は、妊娠しては困るものだったと
言いふらすようなものですよ。男女愛などない間柄だというのに、一門の皆を欺くために、若がご自身の立場を利用して私に肉体関
係を迫ったと――」
「……黙れッ!! 」
吼えるように叫んだ九兵衛の、隻眼は涙で潤んでいた。もう彼女にはこの状況を打破する手立てなどない。だからこそ――己はこん
な手段に出ているのだ。
ここまで彼女を追い込んだのは彼女自身の行動の結果に他ならない。人喰い狼に美味しそうな身体で近づいて、この森の奥にはもっ
と餌があるのだとまで親切に教えてくれた赤頭巾に、全く非がなかったとどうして言えようか。無知がどれ程残酷な罪か彼女は知ら
ぬのだろうか。己の中の獣を引き摺り起こしてしまったそれが――。
「この鬼畜生が! 何処まで貴様は外道なんだ!? そこまでして僕に貴様の子を孕ませたいか!? 貴様には、倫理観がないのか!? 」
「これはまたおかしなことを仰る……そんなものが何になると言うのです」
己の際限ない欲望は、そんなものをとうに打ち砕く域に達していた。人としての良心も道徳も、他人の目も遵法精神も、彼女を手に
入れたいという際限のない想いの前には何の抑止力にもならなかった。
それでも今まで己が過ちを犯さぬよう思いとどまらせていたのは、ひとえに彼女を絶対に傷つけたくないという愛護の情だけだった。
「こんなことが出来るなど……貴様は人ではない、悪魔だ!! 」
「フ……悪魔、ですか。しかし若、私を悪魔に変えてしまったのは、他でもない貴女なのですよ? 」
「な……に……? 」
「あの雛祭りの前夜。若があんなことを頼んできさえしなければ、若の仰るように私は、一生貴女を大事に出来たでしょうに……」
そう――全てが狂い始めたのは、運命のあの日。
「だから私は始めに警告したでしょう。……きっと後悔なさる、と……」
あの時自分は、彼女を守りたいと思う一方で、恐ろしい程素早く、彼女を手に入れる算段を頭の中で計算していた。
「な……ん、だと……? 」
信じられない、という表情で九兵衛は見上げた。だがそれは、直ぐに怒りへと変わる。
「……ふざけるな! 貴様が外道に堕ちたのが、僕のせいだとでも言うのか!? 」
「お怒りはごもっともです。しかし事実なんですよ」
あの夜彼女をずっと大事にしたいという愛情も、彼女に尽くし続けたいという忠誠心も、ついに己の中をずっと渦巻いていたおぞま
しい欲望が屈服させてしまった。
彼女を手に入れたい。何としても。守りたかった筈の彼女の心も身体も、十数年かけて築きあげてきた信頼も、他の何を犠牲にして
も――その為なら、悪魔にでも魂を売れた。
「ああ、それにしても若……今日は本当にどうされたのです? こんな無防備なお姿で……本当に、私に食べられにでも来たのでは
ないですか? 」
九兵衛とそんなやりとりをしている間にも、東城の手は迅速に動いていた。帯を解き、柄一つ無い男物の濃紺の着物を肌蹴させると、
彼女の胸が露わになった。仰向けに寝かされているにも関わらず、確かな質量をもった張りのある若い少女の双丘は、潰されも
せず盛り上がっている。
「いつもあんなにきつく巻いてらしたさらしもせずに……。そんなことも忘れてしまわれる程、昨日は疲れてらしたのですか? 」
「……っ! 」
東城の指摘に、九兵衛は顔を真っ赤にして逸らした。噛み締めた唇が、赤くなっていく。その反応に苦々しい想いを覚え、可憐なそ
れに貪りつきたくなった。全てを奪ってしまいたかった。
「……んぐッ!? 」
九兵衛の小さな顎を掴むと、口を無理やり開かせては強い力で固定する。そうしなければ気丈な彼女のこと、ちらちらと覗くその白
い歯で己の舌を噛み切られよう。そんな抵抗手段も奪った上で、東城は己の唇を彼女の薄くも柔らかいそれに重ねた。
「……っふ……ぅ……!! 」
強引に押し入れたものを、いつもは己に翻弄されながらも懸命に後を追うように絡めてくる彼女の舌は、しかし何とか押し返そうと
動いていた。だがそれすらも、東城を煽りこそすれ何の抵抗の意味を成しはしない。
もう何度目になるか知れない、彼女との口付け。今まで以上に東城は、執拗に九兵衛の口腔内を舐った。彼女の唾液を吸い上げては
飲み干す。いつもの彼女の味だった。己のそれより若干粘度が低めの、生温いそれを、じっくりと味わう。他人のそれなど汚らわし
いと思っていたのに、彼女のものだと思うと、極上の蜂蜜よりも甘美な味がした。何時だか東城は九兵衛に言った。接吻は余り経験
がないと。疑いの眼差しを向けた彼女よりは無論慣れていようが、しかしそれは事実だった。それは病気でも貰ったら面倒だと思っ
たからというのもあったが、何処かで線を引いていたのかもしれない。それが己が彼女達を愛していない証拠だと――。
だがいかに愛する人に捧げる行為であっても、こんな風に無理やり奪うものなら、それは暴力となんら変わりなかった。
「…っ……う……」
すぐ近くで鼻が鳴る音が聞こえて、ふと薄目を開くと、鳶色の瞳が涙に潤んでいるのが見えた。それに気づいて漸く唇を離すと、ぽ
たぽたと、目尻から雫が流れ落ちる。
いつも彼女は、己との接吻に目元を赤くし、瞳を潤ませて酔いしれてくれていたが、そんな快楽からくるものとは、明らかに違う涙
だった。
「……本当に泣き虫なお人ですね、貴女は……」
困ったように漏れ出た声は、自分でも驚くほど優しい色をしていた。彼女がそんな目をするからいけないと、東城は思う。昔から彼
女は泣いてばかりだった。今も尚、その本質がそう簡単に変わったとは思えない。それなのに如何して、普段あんなにも強がってい
られるのだろうか。
「……ぅ…して……」
唇を解放された九兵衛が、ひどく弱弱しい、震える声で呟く。
「ど……うしてだ……東城……どうして……」
「……っ! 」
――どうして、僕にこんなことを。
声以上に、東城を見上げる潤んだ隻眼が、九兵衛の意思を東城の胸に訴えた。睨まれるよりも一層、己の心を乱す彼女の無自覚な反
撃。
「あ……んなに、僕を……大事にしてくれたじゃないか……どうして……こんな……」
「どうして、ですか……。……言ったところで、若にはわからないでしょうな……」
――貴女を愛しているから。
心から愛しているから、これまで貴女のためなら何でも出来たけれど。
矢張り心から愛しているからこそ、貴女にここまで非道なことが出来る。
それは彼女には、到底理解できぬ理屈だろう。そんなものは愛ではないと、決して受け入れはしまい。御伽噺の世界のような、穢れ
など一切無い尊い愛に憧れるままの少女には。
彼女は知るまい。相手に身も心も捧げて尽くしたい、そう思う一方で、相手にも同じことを求める心が、相手の全てを手に入れたい、
己だけのものにしてしまいたい、そんな風に思う側面が愛にはあるということを。彼女は知るまい。魅力溢れるお姫様を愛するよ
うになるのは、彼女が選んだ、いつも彼女を守ってくれるばかりの素敵な王子様だけとは限らないと。決して彼女は振り向かぬと知
りながら、愚かしい妄執にとらわれてしまう男もいるのだと。
……そう、彼女の心など己には決して手に入らないと知っている。彼女を想い続けてから十年余り、長きに渡って何度も思い知らさ
れてきた事実。……だから。だからせめて。
「若……」
「……あッ!? 」
ぐっ、と、それまで組み敷いて体重をかけていた彼女の身体を抱えると、膝を立てさせてうつ伏せに寝かせ、彼女が抵抗する前に再
び、動けないように押さえ込んだ。
頭の中でシミュレーションしていたのよりもずっと、それは酷くあっさりと実現できた行為だった。驚くほどに、小柄な彼女の身体
は軽く簡単にあしらえた。こんな身体で如何して彼女は、あれ程までの剣の腕前を身に着けられたのか。こんな身体で如何して、今
までの苦行に耐えてこれたのか……。
あのまま彼女の顔など見ていたら、到底外道になど堕ちれぬと思った。十数年彼女を誰よりも護りたいと、大切にしたいと思ってき
た己の心が、再びそれを邪魔してしまいそうだった。今更止めたところでもう、引き返せる道などありはしないというのに。このま
ま堕ちるところまで堕ちることしか、もう己には出来ぬというのに。
「ひあァッ!? 」
東城は九兵衛の衣服に手をかけると、一思いにそれを引き剥がした。膝辺りまで下ろされて下着も剥がされて、九兵衛の下半身が曝
け出される。
「は……ぁっ! 」
そして後ろから脚を開かせると、張りあがった白く丸い尻の間の、可愛らしい菊門やそれに続く、髪と同じ黒々とした陰毛に覆われ
た性器までもがあらわになった。気位の高い彼女には到底耐え難いであろうその痴態。男の欲望を煽るために存在しているのではな
いかと思うほど扇情的な光景に、東城はごくり、と唾を飲む。
――忘れたかった。
最早己を苦しめるものでしかない、彼女を傷つけたくないと思う高次的な欲求を、もっと原始的な欲望に溺れることで。
「……ひッ!? 」
背後から膣にあてがったそれが何か流石にわかったのだろうか、九兵衛の身体がびくん、と跳ね上がって強張る。焦がれ続けていた
彼女の淫らな姿に、己のそれはとうに勃ちきっていた。
「や……止めろ……」
己に命を下す彼女の低めのその声は、恐怖にか震えていた。そこから余裕のなさが伺える。
「止めてくれ、後生だ……東城、こんなのは……」
この人の望みなら何でも叶えて差し上げたい、そう強く思った少女の懇願する声も、もう東城を思いとどめはしなかった。
「ぅあぁぁぁぁぁぁぁぁぁーッ!! 」
九兵衛の言葉を無視し、東城は既に猛っていた己の逸物で、容赦なく一気に最奥まで彼女を貫く。
まだ濡れてもいないそこをむき出しの肉茎で押し広げ、きついその場所に逸る気持ちのまま無理に侵入するその度に、敏感な皮膚が
擦れて痛みを覚えたが、この質量を受け入れている彼女の苦痛はその比ではないだろう。
「あ……ぐッ……。……嫌だ……! 」
そのまま東城は、強引に腰を動かし、九兵衛の身体に熱い楔を打ち続けた。
「い……ゃだ、東城……こんなの……はッ……! 」
彼女の意思も自尊心も、何もかもをただ力によってねじ伏せた行為の前に、九兵衛はただひたすら、嫌だ、と繰り返す。それをかき
消すように、東城は乱暴に肉茎を捻じ込んだ。
「おやおや……」
激しい摩擦を引き起こすその運動に、やがて彼女の身体は異物から自身を護るべく、粘液を染み出させる。
「お嫌と仰ってる割に……濡れてきているではありませんか」
「……ッ!! 」
それを思い知らせるべく、東城はわざと、大きな水音が立つように動く。ずぷずぷと、卑猥な音が部屋に響いた。
「本当は、気持ち良いのではありませんか……? 若……? 」
「……そっ、そんな、は……ずが……あッ!!」
「嘘はいけませんよ」
段々に上手く紡げなくなってくる彼女の言葉の途中で、東城はそれを否定した。
「いつも貴女は、床ではあんなにも素直だったではありませんか……っ。気持ちが良いと、如何にかなってしまいそうだと。私を離
したくないと、仰っていたではありませんか……っ」
「そ……っ、それは……」
「ねえ、聞かせてくださいよ。今どんなご気分か……っ。今度は聞き逃したくないんです……っよ」
囁く東城の脳裏に、一昨夜のことが思い出された。
自ら東城の分身に身体を沈め、快楽に酔いしれながら腰を振り続けた彼女が、最中に己に訴えた言葉。
聞く限り無意味な言葉の羅列のようだったそれは、しかしとてもそうは思えなかった。東城の上に跨る形でも彼に身長の届かぬ彼女
が、切なげな視線で己を見上げながら紡いだそれらの言葉で、彼女は何か、彼女にとってとても大事なことを己に伝えようとしてい
るように見えた。
それは錯覚だったのかもしれない。あの時は己とて彼女の体に溺れていて、まともな判断力などなかった。だから感極まって思わず
呟きそうになってしまった。
――お慕いしております、と。ずっと昔から。今も変わらず。
張り裂けそうな程の胸のうちは、告げてしまえば最後だと思っていた。同情で関係を続けられる程器用な人ではない。きっと己に気
遣って距離をとってしまうだろう。けれどそんなことは耐えられない。ずっと、ずっと側にいたかった。
……否、最早関係のないことだ。
「……ゃ、だ……ッ! 」
そんな東城の期待に反して、九兵衛は先ほどと同じことをただ繰り返す。
「こんな……のぉっ! い、ゃだッ……! やだよぉっ……! 」
「……いけませんね、若……ッ! もっとご自身に素直にならないとッ……! 」
「ふぁぁぁっ! 」
東城は彼女の細い腰を掴んでいた手をすっ、とずらし、肌蹴ていた衿口にそれを差し入れると、彼女の乳房を鷲掴みにした。
「ほら……こんなに、濡れてらっしゃるじゃないですかッ……! 私のものにぴったりと吸い付いて、離すまいと締め上げていらっ
しゃるじゃないですかッ……! 」
言いながら東城は、その先端を探りあてると、執拗にそこを擦り、こねくり回して刺激する。
「ひゃうんッ! 」
それに反応して、九兵衛の口から甘い声が漏れた。
「ふ……ふふっ、びくんっ、となりましたよ? ねえ若、気持ち良いんでしょう……っ? 私に背後から犯されて、感じてらっしゃ
るんでしょうっ……? 乱暴に胸を揉まれて、悦んでらっしゃるのでしょうっ……? 」
「やぁぁぁっ! ち、ちがぁッ!? 」
「何が違うと仰るのですッ!? ……分かってますよ若、ここが気持ち良いんでしょうッ? 」
「はぁぁぁんッ! 」
愛液で溢れかえった九兵衛の膣内の、彼女の弱いところを東城は集中的に擦った。何度も重ねた情交の中で知ったそこを刺激すると、
九兵衛の中は益々びくびくと脈打って、東城の陰茎を締めあげた。生き物のように蠢くそれが、東城の全てを絞り上げるように、
彼を更なる快楽へと導いていく。
「やぁぁぁぁッ! やだぁぁぁぁぁぁっ!! 」
掠れた声が耳に届いた。――泣いているかのような。
「嫌、ではないでしょうっ……!? 若、もっとして欲しいのでしょう……ッ!? もっと……この私が欲しいのでしょう!?」
「いやぁ、やめてぇぇぇッ!! 」
これ程東城の身体を刺激していながら、しかし九兵衛の口からそれを肯定する言葉は決して出てこなかった。
――本当は分かっている。
それらは彼女の意思とは無関係な、生理的な反応でしかないことくらい。彼女自身はその言葉通り、本当は己を拒んでいることくら
い。大嫌いだ、顔も見たくない。早く僕の前から失せろ――こんな形で彼女を抱く前に示した態度が、彼女の己に対する全てである
ことくらい。自ら選んだ相手でなくとも、そこに愛などなくとも、女の身体は男を受け入れられるように出来ている。それでなけれ
ば売春婦という職業は成立しない。
それでも、そんな風に彼女を責め続けなければ、気が狂いそうだった。否、とうに己は狂っている。正気であればこんなことが出来
るはずがない。ずっと愛していた人を乱暴に捻じ伏せて、生物としての本能の前に、気高い彼女の意思を屈服させるなど――。
だがもう、他に道はなかった。例えそれが畜生以下の道でも。己の金銭欲しさに夜の女達は、その妖艶な肢体と巧みな言葉で何人も
己を誘惑してくれたが、しかし彼女達に溺れられたことは一度もなかった。そして彼女と結ばれてみて思い知った。自分は彼女でな
ければ駄目なのだ、と――。己は彼女を到底幸せには出来ない。だが己は彼女でなければ満たされない。――遅かれ早かれ、いずれ
こうなっていたのかも知れない。己が折れれば良い話と、これまでのように自身に言い聞かせるには彼女を知りすぎた。その色香に、
骨の髄まで支配されてしまった。
「……ぅじょうっ……とうじょおっ……!! 」
「……っ! 」
その時、彼女が不意に叫んだ己の名に、一瞬、東城の心臓がどくん、と大きく脈打った。
――東城。
――東城。
これまで生きてきた記憶の中で、彼女が己の名を呼んだ光景が幾つも思い出される。或いは泣きながら。或いは嬉しそうに。或いは
呆れるように。そして或いは――切なげに。無限とも思える膨大な記録が、東城の頭の中に甦る。
「ふっ……ぅあぁっ……」
鼻にかかったような声が聞こえた。やはり彼女は泣いているようだった。
――何をしている。
彼女を泣かせているのは誰だ。己の何よりも大切な主人を。小さな身体が震えるのを懸命に抑えながら、過酷な運命に立ち向かって
きたこの気高く凛々しく、美しい人を――。
「……ぁあッ!? 」
不意にこみあげてきたその思いを振り払うように。東城はより激しく、自身の身体を九兵衛に打ち続けた。肉同士がぶつかりあう乾
いた音と、繋がった部分が擦れる濡れた音とが部屋に響き渡る。
――何を、考えている。
何故己が苦しむのだ。こんな風に彼女を蹂躙して犯している己が――……。
「ひぅ……ぅッ! 」
その時ふと目に入った、高く結い上げた髪の下に続く白く細い項に、それらを忘れるように荒々しく吸い付く。
そうして行為に没頭しているうちに、東城は己が益々昂っていくのを感じた。
「……ねえ、若……っ、ご存知ですか……っ? 」
近づいた彼女の、小さな白い耳の側で囁く。
「夫婦同士が望んで子作りに励むよりも……ふ……ぅっ、無理やりされた方が子供は出来やすいそう、ですよ……」
「……っ! 」
東城の言葉に、九兵衛は凍りつく。絶望を覚えたのだろうか。
「……ろっ……」
震える声で九兵衛は訴えた。
「止めろッ……! とぅじょぅッッ……! や……めてくれぇッ……!! 」
「……ふ、ふふ……」
その悲痛な叫びをかき消すように、東城はもっと、もっと奥へと、己自身を九兵衛にあてがう。
「ああ、若……私の子供、孕んでくださいねッ……!! 」
「いやだッッ……! 嫌だァ――ッ!! 」
最後まで己を拒絶した九兵衛の言葉を無視し、東城は先端を子宮口までおし進めると、
「若……ッ! ああ、わかぁっ……!! 」
愛しげにその名を呼びながら、彼女の最奥で己の全てを解き放った。
それから実に数時間。東城は九兵衛を犯し続けた。
与えられ続ける快楽の前に、ついには九兵衛はこれまで教えられてきた様に自ら腰を振り、それでも決して東城に折れるような言葉
は口にしなかった。最早抵抗する気力がないのだろう。磨きぬかれた宝石の如く輝いていた筈の瞳は、酷く虚ろで淀んでいた。生物
としての本能のままに、憎いであろう筈の男の子を宿す為に艶かしく動く。その様は限りなく哀れだった。本当にこれが己の望みだ
ったのだろうかと、ここまで追い詰めておきながら、今更そんな後悔の念に囚われそうになる程に。
「……ろせ……」
枯れかけた声で九兵衛は呟く。
「いっそ……殺してくれ……こんな思いをするくらいなら……」
「……ご冗談を」
九兵衛の言葉を残酷に笑い飛ばしてみせる東城は、しかしそんな考えを抱いたこともあったな、と思い出す。
彼女を己の手で殺せば、永遠に手に入る、と、そんな愚かなことを思ったことも――。だが己が愛しているのは、死んで永久の思い
出になる彼女ではない。今目の前で生きている彼女なのだ。不器用にでも美しく、こんなにも生の匂いを発して生きている彼女なのだ。
しかし今の彼女は、本当に自分が手に入れたいと願い続けてきた姿、なのだろうか。
「ねえ若? そんなことを考えるより、もっと楽しいことを考えましょう。もっと楽しいことを沢山して……子供を沢山作りましょ
うね。男の子が良いですか、女の子が良いですか? 若のお子ならきっと飛び切り可愛らしいんでしょうねえ……そうだ、子供が産
まれたら、名前は何にしましょう。それ位は若が決めて良いですよ」
心の内に浮かぶ迷いを隠すように、東城は酷薄に告げる。相手を選ぶ自由を、性行為をするか否かを決める自由を、出産の自由すら
も奪ってしまった今、そんな権利を彼女に与えても、何の慰めにもならないけれど。
「……うして……こんなことをする……」
「またそのご質問ですか……いいでしょう。教えて差し上げます」
狂気に満ちた己の言葉に肩を震わせながら、再び投げかけられた問いに東城は、力なく座り込み壁にもたれかかっている九兵衛の前
に跪くと、耳元で囁く。
「若……貴女を愛しているから……」
「……っ! 」
その言葉を聞くと、泣き続けたためか、赤く腫れ上がった隻眼が東城を睨みあげた。それでも尚美しい、強い意志の宿る瞳。一瞬東
城が愛した九兵衛の姿が甦る。彼への深い憎悪が、彼女を現実へと引き戻したのだろう。……それでいい。もっと己を憎めばいい。
「この期に及んで……まだそんな戯言をっ……」
言って悔しそうに震える唇を噛む。
「女なら……抱かせてくれる女なら、誰でも良い癖に……っ」
「……は! 」
この人は何を恨めしそうに言っている。見当違いもいいところだ。誰でもよければ、それこそこんなことにはならなかっただろうに。
彼女の命令にも気軽に応じ、後腐れなくひと時の関係を楽しみ、頃合いを見計らって適当に別れ、再び今までの日常に戻れただろう。
長い年月をかけて築き上げた固い信頼で結ばれた、主人と従者、それ以上でもそれ以下でもない関係に。
「これまでなら弁明も致しましょう。しかし、若のような節操のない男好きに言われる筋合いは御座いませんな」
「……何? 」
ピクン、と、美しい曲線を描く細い眉が持ち上がる。
「如何いう意味だ」
「とぼけないでくだされ」
身に覚えがない、とでも言わんばかりに睨む彼女に、東城は冷たく言い放った。
「昨日の晩、お部屋に電話しても全然出なかったじゃないですか。一時間以上携帯電話にかけ続けても、気づいてくださらなくて…
…何処で何をしてらっしゃったのです、あんな時間に」
「……な、にを、言って……」
「私とあんなに激しくまぐわったそのすぐ翌晩に、よくもまあ……知りませんでしたよ。普段あんなに凛々しく澄ましていらっしゃ
る貴女が、そんな色狂いだったとは……ねぇ」
「……っ! 」
言いながら東城は、九兵衛の膣口に硬いプラスチックで出来た楕円形の物体を押し込んだ。何度も男の逸物を受け入れて、すっかり
柔らかくなったそこは、あっさりとそれを飲み込む。
「……言ってごらんなさい。昨日は誰に、可愛がって貰ったのですか。誰のものをここに、銜え込んだんですか」
「あぅぅっ……! 」
さらに奥へとそれを押し込むと、九兵衛は身体を仰け反らせた。
「……て、ない……そんなこと、してないッ……! きのうはずっとここにい……って……! 」
「またそんな見え透いた嘘を……! 私のいないこの部屋に、貴女が何の用があったというのです!? ……ああ、それとも貴女は、
この部屋に他の男を招きいれたんですか! 随分と大胆なことをなさいますね。興奮するのですか? そういうの。一昨日私が着
せて差し上げた服でもお召しになったんですかねえ? あんなに悦んでらしたものね。一体貴女は何人の男に仕えるメイドさんなんですか? 」
「ひぁぁぁぁぁっ! 」
九兵衛を詰りながら、東城は手元の機械の電源を入れた。それから伸びるコードの先にある、九兵衛の膣内に挿入された先端が小刻
みに震えだし、その振動が堪らぬのか九兵衛は高く擦れた声をあげる。
「ねえ、その男はどんな風に若を抱いたんです? 私よりも良かったですか? ……仰ってくださいよ。何でも同じことをして差し
上げますよ」
「ふ……ぅっ! ……し、してなひっ……! そ、そんなこと……っ! お前以外と……は、本当に……っ! 」
片方だけの瞳をぎゅっと瞑って、九兵衛は東城の言葉を必死に否定した。
「嘘はいけませんね……現に今だって、こんな機械で感じていらっしゃるじゃないですか。びくびくと痙攣して、はしたなくいやら
しい蜜を零していらっしゃるじゃないですか! ……正直に仰ったら如何です? したくて堪らなかったのでしょう? たった一日
すら我慢できなかったのでしょう!? 」
「あぅ……ぅ、し、してない……ほんとに、……なにも……してないんだっ! 」
「強情な方ですね……いい加減白状したら如何なんです。一体誰と寝たんですか。南戸ですか? それとも北大路? 案外西野ですか?
それとも、門下生でない男を夜に呼び寄せたんですか? 最近は殿方のご友人も多く出来ましたものね……またあの万事屋の
男ですか? それとも新八殿? 大事なご親友の弟君によくもまあ……或いは桂殿あたりですか? 中々美青年ですものね。若も、
どうせ抱かれるのならああいう男が良いと……それとも長谷川殿の方ですか? 貴女の倍は年がいってそうですが、案外……」
「……て、ない……っ! しんじ……てっ! 」
「まだそんなことを! 」
「ひゃうぅぅぅっ! 」
尚も頑として首を横に振る九兵衛の姿に、苛立った東城は手元のスイッチを弄って、出力を上げた。彼女の小さな身体が弓なりにしなる。
「ほんと……だっ、ぼくは……おまぇだけだっ……とぅじょうっ……! 」
「………っ! 」
潤んだ瞳で訴えられ、東城は思わず電源を切った。
「……あ、はぁ……はぁっ……」
その振動から開放され、九兵衛は荒々しく息をつく。
――彼女の言葉を、信じようと思った。
彼女が他の男と関係を持っていたとして、ここまで頑なにそれを否定する理由がない。元々柳生家を治めるという目的のための手段
に過ぎぬ関係だったのだ。彼女が他の男に手を出したとて、如何してそれを隠さねばならぬ理由があるのだ。もっと堂々としていれ
ばいい筈だ。
それになにより、己の知る限り彼女は、そこまで嘘を突き通せる人間ではない。
だが、それでは疑問が残る。
彼女が言っていることが本当ならば、彼女は主のいない筈の部屋を夜中訪れて、何をしていたのだ?
何度電話しても出れぬほどの、翌日サラシを巻くのを忘れてしまうほどの、何を――。
――僕は、お前だけだ。東城……。
不意に、先ほど九兵衛が口にした言葉が反芻された。お前だけ……何と心地良い響きだろうか。
それに伴って、一昨夜もまた己をそんな気持ちにさせた言葉が思い出させられる。
何でも注文してくれて良い。満足させられないかもしれないが、頑張って見る……メイド服に身を包んだ彼女はそう言った。それは
役になりきった彼女が、己の真似でもして言っていたのではないかと思っているが、しかし果たして彼女がそんな安易に言える言葉
だろうか。律儀な彼女は一度口に出したことを簡単に覆しはしない。何度そこに付け入ったか知れない。リップサービスになど慣れ
ているが、しかし商売女でもない彼女がそんなことを口にするメリットが思いつかない。
……否。
考えても仕方がない。諦めた筈ではないか、彼女の心を掌握することなどとうに……。だからこんな、取り返しのつかない愚行にま
で出てしまったのではないか。そう――今更、後になど引けない。
「さて……これからどうしましょうか。私としてはずっと若をここに閉じ込めておきたいくらいなんですよ。そうしなければまた浮
気でもされそうですからなァ……しかしそうもいきませんね。突然この柳生家の次期当主である若が消えたりしたら大騒動です……
そうだ」
言いながら東城は九兵衛の手をとった。流し続けた汗に濡れた、酷く冷たい手だった。相変わらずか細い腕、と東城は思う。よく締
まっていながらも柔らかな曲線の残る、紛れもない女子の手。この腕で如何して彼女は、あの神速と謳われた剣を身に着けるまでの
稽古に耐えられたのか。
「こういうのは如何です? 若は腕を骨折してしまって、暫く稽古にも出れないからここで静養する……というのは。そこで私が、
甲斐甲斐しく世話をしてさしあげる、というのは」
「……っ! 」
片方だけの瞳が、恐怖に見開かれた。狂気に取り付かれた今の己ならそんな恐ろしい計画も実行しかねない、そう判断したのだろう。
――そう、本気だった。そうすれば彼女をずっとこの場所に置いておける。本気でそんなおぞましい考えを抱いていた。最早彼女
を手に入れるためならばどんな手段でもとろう。そう思っていた。……だが。
「……」
どうしても、そのか細い腕を握る手に力が入らなかった。
……この期に及んで、意気地のない……。
己の決断力の弱さに毒づきながら、しかしどうあっても、彼女を自ら傷つけることが躊躇われた。
無理もない。彼女の身体に赤い情交の証を残すことすら嫌気が差した自分だ。
――今更馬鹿なことを。もう散々傷つけてしまっただろうに。どんなに丁寧に扱っても、彼女の心に、取り返しのつかない傷を残し
てしまっただろうに……。
「……なんて、冗談ですよ。この服に包帯やギプスは似合わないでしょうからねえ」
「……」
それを隠すように呟いた東城の、眼下にいる九兵衛が身に纏っているのは、漆黒の布地に薔薇の刺繍が施された豪奢な着物だった。
たっぷりとした白いレースが縫い付けられ、真紅の帯は後ろから見れば大きな蝶々が止まっているかの如く見えるように可愛らしい
リボン結びに仕立てられている。それを止める帯締めなども金糸銀糸の華やかなもので、異国のドレスのようにふんわりと広がる短
い裾から伸びた脚には、これまたレースのあしらわれた、膝上まである長い足袋を穿かされていて、裾と足袋の間からちらちらと白
い太腿が覗いている。ヘッドドレスを施した頭の頂点ではレースのついたリボンで長い黒髪がツインテールに結ばれており、毛先は
内巻きに巻かれている。そして永遠に光の差すことの無い左目には、薔薇の形の眼帯が結ばれている。
――まるで人形だ。
「ああ若……素敵です。とてもよくお似合いですよ。本当に……」
完成された芸術品のような美しさの主の姿に、陶然として東城は繰り返す。
こんな形で、この服を彼女に着せる日がこようとは。それは果たして、今年の雛祭りに彼女に贈ろうと、東城が密かに用意していた
服に他ならなかった。彼女が一番気に入ってくれた十四の雛祭りに贈ったものと似た形の、更に豪奢な衣装。思いもかけぬことが起
こりすぎて(何しろあの日は大騒動になってしまった)、あの日は結局渡せなかったプレゼント――この服を見せたら彼女はどんな風
に喜んでくれるだろう。四年前のように笑ってくれるだろうか。矢張り貴女には笑顔が似合う。……そんな風に夢を見ながら用意したのに。
目の前の少女は己の言葉に微塵も表情を変えず、感情を失った人形のように、呆然と姿見に映る彼女自身の姿を見ていた。
先ほど帯できつく締め上げてしまった為に、赤い痕の残ってしまった手首には、薬を塗りガーゼと包帯を巻いて、さらに緩衝材とし
て柔らかいリストバンドを嵌めた上から、足首と同じ拘束具が施されている。
そして短い裾から覗く太腿のもっと奥には、大きく穴の開いた、下着としての意味をなんら成さない白いレースのショーツに包まれた、
先ほど押し入れた桃色の球体をしっかりと咥え込んだ蜜壷から、だらりと愛液が零れている。
「気に入っていただけませんでしたか? 私からのプレゼントは……」
「……れが、こんな……」
「おやおや」
「ふゃぁあああッ! 」
睨みあげた九兵衛の態度に、ふ、と笑みを零し東城は再び、手元のスイッチを操作する。
「悦んでいただいているようではありませんか。こんなにして……」
「あぅ……はぅぅぅぅッ! 」
それを動かす度に、九兵衛の身体は跳ね上がり、花芯から漏れ出た蜜が黒い布地に淫靡な染みを作っていく。
「いけませんねえ……折角の服をこんなに汚して……」
どんなお仕置きをして差し上げましょうか、東城が言いかけた、その時。
部屋に備え付けてあった電話が、大きな音を立てて鳴った。
その用件は大方察しがついた。使用人達には自分には通すなと言ったのに。電話線を抜いてしまおうか、思ったがそれは止めた。そ
れでも己に連絡せずにはいられない事態なのだろう。
受話器を取ると、うろたえる女中の声が聞こえた。どうやら実家の人間が、この柳生家にまで押しかけてきているらしい。
面倒な、思いながらも彼らに代わってもらうと、罵声が耳元に届いた。何を考えている、と。
「それはこちらの台詞です。私一人の為にこんなところまでくるなんて、随分と暇なことですな」
もともと後で適当にあしらおうと思っていた程度だったが、正直今は、彼らのことなど心底どうでも良かった。
「……言ったでしょう。私はとうに東城の人間ではありません、と」
そこまで言ったところで、東城の脳裏に、ある考えが浮かぶ。
彼らのことではない。己の頭をいっぱいにしているのは、今も昔も一人の少女のことだけだ。
「……とはいえ、あなた方がそこにいたのでは柳生の方々にも迷惑がかかってしまいますね。良いでしょう。今からそちらに向かい
ます。少し支度がいりますので待っていてくだされ」
しかしそんな内心は決して明かさずに、あっさりと態度を変えて言ってはかちゃり、と受話器を置き、振り返ると、鎖に繋がれた少
女が冷めた目でこちらを睨んでいた。
「実家とはうまくいってないらしいな」
己の問答を聞いていたのか、冷ややかな声を浴びせる。
「己は東城の人間ではない、か――随分と気の早いことだ」
「早くなんてありませんよ」
少女の言葉を、彼女に近づきながら否定する。
「ずっと昔から、あの家に戻るつもりなど微塵もありませんでした。この家で若に出会ってから」
――ずっと、私の主人はただ貴女お一人なのだと、貴女だけに己の全てを捧げようと思っておりました。
身も心も、全てを。
「成る程。この柳生家の唯一の嫡子が女子の僕一人だけだとわかってから、ずっとこの機を伺っていた訳か……」
「……何のことです? 」
しかし返された九兵衛の言葉はどこか焦点がずれていた。ずっと伺っていた? これが計画的な犯行だったとでも? 彼女の言い方
ではまるで、出会い頭から己がこうなることを望んでいたかのようだ。何を馬鹿な。これまで己がどれ程思い悩んできたと思っている。
そんなつもりならばとうにそうしていた。
「とぼけるな。僕に貴様の子を孕ませて、こんな方法で僕を屈服させて……そうして貴様がこの柳生家の支配者に君臨する、そういう
腹なのだろう!? そんなことの為に、こんな、鬼畜生のような真似を……! 」
「なっ……」
吐き捨てられた言葉に、東城は思わず目を丸くした。
そんな風に思っていたのか。
そんなくだらないことの為に、己がここまでのことが出来るとでも――。
「っはははははは! 」
そう思うと東城は次の瞬間、笑わずにはいられなかった。成る程、彼女にはそれが一番納得のいく理由なのだろう。それでなくとも
彼女の周りには、彼女の地位に惹かれて言い寄る輩がごまんといた。そう考えるのが自然だろう。到達できる筈がない。まだ本当の
意味での愛など知らぬ彼女が真実になど。知っていれば愛してもいない男に抱いてくれなどと、彼女が言う筈もないだろう。
「……勘違いなさらないでくだされ。私は柳生家になど一切興味はありませんよ。いかな伝統ある名門といえどこんな家、欲しいと
思ったことは一度もありません」
「な、に……? 」
己を睨みつけていた九兵衛の瞳が、驚愕に見開かれる。
「だってそうでしょう。こんな家に生まれなければ、若はあんなにも苦しい半生を送る必要はなかった。優しいお父上とお爺様に愛
されて、ごく普通の女の子として成長できた筈だった。綺麗な着物を着て、妙殿たちとお弾きだとか飯事だとか、そんな遊びをして
育って、町の子供に男女と罵られて虐められることもなかったんですから……」
「何を言って……」
先ほどまでの勢いは何処にいったのか。東城の発言に、九兵衛の語気が弱くなる。
「……ならお前は……何のためにこんな事を……」
――貴女を手に入れるためですよ。
他の誰にも渡さない、貴女を私だけのものにするために。私は悪魔にさえなった。
柳生家も東城家もどうでもいい。私が欲しいのはただ、貴女自身。それだけです。
「さあ、何のためでしょうね。さて、そろそろ私はいかねばなりません。実家の者が待っているようなので。……と、その前に」
心の内で思った言葉を、しかし東城は口には出さなかった。それは戻ってきてから、幾らでも伝えよう。やがて少女が、己のおぞま
しい執着心の前に真に絶望するまで。
奈落の底に落とす前に、せめて泡沫の夢を見せてあげてから。
「帰りは遅くなりそうですからね……」
言って冷蔵庫の中から、箸をつけずに閉まっていた己の昼食を取り出した。今日戻った己の姿を見て、慌てて女中が出したがとても
取る気にならず、放置していたものだ。
もう大分時間が経っているし、彼女がいつそれを口にする気になるかわからない。雑菌でも繁殖していたら困るので、取り合えず全
ての品に再び火を通しておく。添えられていた生卵は出汁巻き卵にした。
己の用意した食事など彼女は口にはしないかもしれない。それでも、それを机の上に並べておく。
「……ああ、それと、そのままではお手洗いに困りますよね……」
彼女を繋ぎとめる鎖は頑丈なものだ。この状態では部屋の外になど出れる筈もない。
「……っ! 」
「ふふ、覚えていらっしゃいます? 幼いとき若がずっと使っていらしたおまるですよ」
押入れから取り出したその古めかしい物体を見せ付けると、羞恥にか、九兵衛は顔を赤くしていた。その様にまた、己の中でよから
ぬ考えが浮かぶ。
「まあ、こんなものをいれていては満足に用を足せないかもしれませんがねえ……」
「はぁぅッ! 」
東城は再び機械の先のスイッチを入れると、そのまま彼女が自分で動かせないよう固定しては九兵衛のショーツにそれをさす。
「私がいない間はこれで愉しんでいてくだされ。……人を呼ぼうとしても無駄ですよ。こんな姿の貴女を見たところで、愉しんでい
るようにしか見えないでしょう。それに……こんな姿の貴女を見て、襲わぬ男がいるとお思いですか? まあ、襲われたいのなら別
ですけどね」
「……」
「……ねえ若。若はずっとシンデレラのようなお姫様になりたかったのでしょう? 」
異国のドレスのような着物に包まれた少女に、傅き東城は囁く。
「私が魔法をかけて差し上げますよ。それも十二時に消えてしまうようなまやかしではない、永遠の魔法を……。綺麗なお召し物を
沢山着せて、たっぷりと可愛がってさしあげます。……でも、私がかけてあげる魔法はそこまで」
「……」
「南瓜の馬車も白い馬も、私は用意して差し上げません。お城の舞踏会に行きたかったら、王子様にお会いになりたいのなら、ご自
身の足だけで城まで歩いてごらんなさい。夜の闇の中を、いつ着くとも知れぬ遥か遠い王城まで。悪い魔法使いに気づかれる前に」
「……」
九兵衛は何も言わず、相変わらず冷めた眼差しで東城を見上げた。
――これが御伽噺だったのなら。幽囚の哀れなお姫様を救うべく、勇敢な王子様が悪い魔法使いを倒して、やがて二人は永遠の幸せ
の中で暮らすのだろう。
先ほどの九兵衛の言葉が思い出された。悲しそうな目で、僕はお前だけだと、涙ながらに訴えた彼女。
貞操など誓う必要もない己に、それでも懸命に告げた彼女の言葉。それが闇に堕ちんとする己の足を踏みとどまらせる。絶対にあり
えもしない、淡い期待を抱かせて仕方が無い。
だからこそ、最後の迷いを振り払うために。東城は九兵衛に鍵を渡した。
そう。この言葉は青髭が妃に託した、禁断の部屋の小さな金の鍵。
それも彼のように、それを使ってはいけないと禁じもせずに煽る。その部屋には素晴らしい宝が眠っているのだと。そこへ行けば彼
女は邪悪の王から逃れられるのだと。己から逃れたいのなら、使えるものならば使ってみろ、と……。
そして彼女が彼の下から逃げ出すためにそれを開けてしまった時。助けが駆けつけるその前に、塔の上で哀れな妃は斬首にされるのだ。
試すように鍵を渡して、結末もわかっている癖に、何処かで彼女を信じたいと思う勝手な自分があった。――散々酷いことをした癖に。
それと同時に。これはただ姫の幸せを願う優しい魔法使いが、最後に残した、余りに儚い希望でもある。十二時の鐘がなるのと同時
に、消えてしまう魔法。それまでに城の舞踏会に、真実の愛に辿り着ければ、彼女はいずれ城から迎えに来る王子様によって救われ
るかもしれない。そしてその時――今度こそ己は、全ての迷いを捨てて悪魔になろう。
……本当は、何処かで止めて欲しいと思っているのかもしれない。ここまでのことをして、それでも彼女を護りたいと願っているから。
彼女には彼女の選んだ男と、幸せになってほしいと思っているから。それ故にこんな行動に出てしまうのかも。だがもう……脆
弱になってしまった己の意思だけでは、如何にもならない。だから。
「では私はこれで。……行ってまいります」
物言わぬ少女の手の甲に唇を落とし、繋がれた彼女を残して東城は己の部屋を後にした。
思っていた通り、大分時間がかかってしまったが、それでも東城は自室に戻ってきた。これまで何があったかは、取り立てて触れる
べきことでもないので省略するが、若干疲れたのは確かだ。無理もないことだが。
「……これはこれは……」
だが開いた障子の前にあった光景に、そんな疲れも吹き飛んだ。
そこには机の向かいに敷いた座布団の上に、己が着せた豪奢な着物をきっちりと合わせて纏い、静かに座っている九兵衛の姿があった。
手足に嵌めていた鎖は既に外されている。ごく平然とした表情から、出かける前に膣内に埋め込んだ球体も今は取り除かれているこ
とが伺える。机の上に置かれた箱の中にでも入っているのだろうか。
それはある程度は予測できた光景だった。出かけた先の己に、彼女の中に入れた機械が抜かれたことを知らせるサインが届いていた。
ただ一つ、己の予想外だったのが――そこにいた九兵衛自身の姿。
何故彼女は逃げも隠れもせず、堂々とそこに座っているのだろうか。手元には彼女の愛刀が黒塗りの鞘に納められた状態で置かれて
いる。護られるだけのお姫様では満足できない彼女は、勇敢にもあんな屈辱を与えた己に、一人自ら立ち向かおうとしているのか。
それも良い、と東城は考えていた。彼女に殺されるのなら本望だ、と――。殺したい程の憎悪で彼女の心を占めることが出来るのなら、
それは幸せなことだ。だが一度は彼女に捧げようと思っていたこの命を、それでもそう簡単に渡すつもりは既になかった。最後
まで、彼女を永遠に己だけのものにすることを諦める気はない。そう……最早躊躇する理由などなかった。
部屋に備え付けられた電話のボタンを幾つか弄っては、表示された画面に笑みを零す。わざと届く範囲に鎖を伸ばしていた、彼女に
残した部屋の外との唯一の連絡手段。
「……王子様には会えましたかな? 」
これではシンデレラではなくラプンツェルだ。悪い魔法使いに、高い塔の中に閉じ込められて、王子様に救いを求める姫君。だがそ
れと知った今、迷いは無かった。いずれその長い髪を切ってしまおう。
「それにしても……」
しかし予想を上回る、流石のその状況に、呟かずにはいられなかった。
「南戸に北大路……それに西野ですか。いやはや、貴女の節操のなさには敬服すら致します。一日でよくもまあ……それとも、三人
を同時にお相手なさったのですか? 」
「……っ! ……分かるのか」
自嘲気味に笑いながら、九兵衛は呟いた。開き直っているのだろうか。淫乱な雌豚と、月並みだがどこかの忍者がどこかの銀髪の男
にでも言われたら悶えて悦びそうな言葉をぶつけてやろうか。
実に簡単なことだ。部屋の奥の、己が所謂夜のオカズにするものを隠していた場所は雑然と曝け出され、南戸に貸していたAVが押
し込められている。九兵衛を繋いでいた、鉄の鎖は引き千切られていて、それを成したのが尋常ならざる怪力の持ち主であることは
見て取れる。そして何より目に付いたのは、既に空になっている、己が九兵衛の為に作った出汁巻き卵をのせていた筈の皿に残って
いた、毒々しいまでの赤い物体の跡。この部屋にそんなものは置いていない。誰か、たまたまそんな、普通なら常備などしないもの
をここに持ち込みでもしなければ――。
無論最後の件に関してはそれだけでは不十分だ。だれかがあの男の犯行に見せかけるために仕組んだ可能性もある。だが電話の発信
履歴の、この部屋を己が出てきた後からの時刻で一番初めにきっちりと奴の名が残っているのだから、九兵衛が彼を呼んだと読む方
が自然だ。履歴には他に西野の名しかなかったが、それならば南戸はこの部屋に彼女がいると知ってどちらかと同行したのだろう。
……否、相手が誰かなど東城はさして興味がなかった。以前ならば九兵衛の選んだ相手はそれこそ徹底的に調査を重ねていたことだ
ろう。だが今は――。三人ともそれぞれの存在を隠すつもりは無いらしい。だが己に対して挑戦的なアピールもしていない。どうい
うつもりだ。否、奴らのことも如何でも良い。重要なのは九兵衛が確かに、彼らを呼び寄せ、そして彼女の女の部分を曝け出したと
いう点だ。
「……誘ってみたのだがな。振られてしまったよ」
「……? 」
――振られた? 彼女が?
意外なその言葉に、東城は眉を顰めた。彼女のような魅力的な女性に求められて、断る男が果たしているのだろうか。己の存在に恐
れをなしたか。南戸は兎も角、北大路までもが? 否、あの二人はさて置き、九兵衛に心酔しているきらいのある西野がそんなこと
をするだろうか。己と違い純粋に慕っているからこそ手を出さなかったという可能性はある。しかしそう考えると矢張り妙なのは北
大路だ。何か……彼なりの思惑があるとしか考えられない。
「……東城」
そんなことを考えると、不意に名を呼ばれた。
「きょろきょろしてないで、座ったら如何なんだ」
言われて視線を落とすと、そこには座布団が敷かれていた。北大路より分からないのは彼女の意図だ。立ち上がろうともしないどこ
ろか自分も座れ、と来た。何を考えている。
「……何故僕の方を見ようとしない」
「は……」
九兵衛の言葉に、思わず声が漏れた。
「何を仰っているのですか。ずっと見ているではありませんか」
そう、ずっと貴女を――貴女だけを見ていた。
貴女以外のものなど、何も目には入らなかった。
貴女は己の全てだった。貴女さえいれば、他には何もいらないのに。
「惚けるな」
しかしそれを、九兵衛はきっぱりと否定した。
「僕を押さえつけてからずっと、お前は僕の顔をちゃんと見ていなかったじゃないか」
「……それは……」
「……なあ東城」
再び九兵衛はその名を呼んだ。じっと東城を真っ直ぐ見据え、一瞬足りとて視線を逸らさずに。
「本当のことを教えてくれ。お前は僕を如何思ってるんだ? 」
「……っ! 」
心の内を探り当てられたようで、一瞬どきり、とする。あの狂乱の宴の果てに、とうとう彼女は気づいたのだろうか。己のこの、狂
気じみた愛に。……否、それにしては妙だ。それに気づいたとして、彼女がこんな訊き方をするだろうか。
「僕はお前を信じていた、と言ったな。だからあんな形で裏切られるとは思っていなかった、と――。
そしてお前は、そう詰め寄った僕を乱暴に犯した。あの時僕は絶望した。僕の知っているお前は、もういなくなってしまったのか、と……。
だが未だに信じられないんだ。十八年お前は僕を、世話役として本当に大事にしてくれた。パパ上やお爺様よりも、お前はずっと
近しい存在だった。それがまやかしだったとは、僕を騙すための偽りの姿だったとは、とても思えない。
僕の知る限りお前は、東城歩という男は、そんな人間ではなかった筈だ。僕を欺いてまで孕ませようと目論み、挙句力で僕を捻じ
伏せて陵辱するような男などでは決して……」
「……」
――今更何を言っている。
九兵衛の言葉を、東城は心の中で嘲笑った。だからあの時の、優しい従者に戻ってくれ、とでも? まるで安っぽい台本だ。今更何
処に戻れというのだ。家族より大切だと言われても、既に己は、彼女の従者という立場だけでは到底満足できない。
「そうですね。それは偽りなどではありませんよ。若は私にとって、何より大切な存在でした。若の為なら命すら惜しくはないと、
本気でそう思っておりました。でもそれは……表層的な一面に過ぎません」
彼女は知るまい。そのうちの中でずっと渦巻き己を苦しめてきた、激しい欲望を。相反する感情はどうしようもない葛藤を生み出し
た。だがそれでも、彼女は幸せになれた筈だ。それを悪戯に引きずり出そうとなどしなければ。そう……それは確かに事実だったが、
今となってはもう、何の意味もなさない。
「……そうか……」
ぽつり、と九兵衛は呟く。
「ならば教えてくれ。お前の全てを」
思いもよらぬ言葉を口にして見上げる彼女の視線には、迷いがなかった。それは彼にとってはあまりに唐突な発言で、東城は一瞬そ
の意味が分からなかった。
「は……今更何が知りたいと仰るのです。私は若の信頼に背いて貴女を傷つけた。これ以上何を……」
「傷ついても良い。それでも……知りたいんだ」
「若……? 」
「僕には今のお前がわからない。あんなに大事にしてくれたのに、どうして僕にこんな事をするのか。柳生家などに興味はないとお
前は言った。ならばお前の目的は何だ? そこまでしてお前は僕に何を望んでいる? ……言ってみろ。お前の望みなら叶えてやっ
ても良い」
「知ったところで、更に絶望するだけですよ」
己が望んでいるのが何かは分からないが、それを与えれば全て終わると、己から開放されるとでも思っているのだろうか。
今も昔も――己が求めているのはただ一つ。彼女自身だ。
それを知っても、彼女は自身が己から逃れられぬ事実を知るだけなのに。
「それでも構わないと言っている」
「何……ですと? 」
「前にも一度。僕はお前に裏切られたと思ったことがあった」
「……」
東城は押し黙る。護衛の身でありながら、彼女が窮地に陥ったときに助けに行けなかったことを指しているのだろうか。何度悔いた
か知れないその事を詰られても、東城は受け入れるつもりだった。
「……お前が女を買っていると知ったときだ」
「え……? 」
しかし続けられたそれは意外な言葉だった。買春の事実など彼女は当然好ましく思うはずがないと思っていたので隠してはいたが、
それを知られていたことよりも寧ろ、彼女がそれを『裏切られた』とまで形容することが。南戸の女遊びの激しさなどは目の当たり
にしているだろうに、それに金銭が絡んだだけでそんなにも動揺する事態となるだろうか。
「お前は男として生きることを強要され、泣いてばかりだった僕に、それでも僕は女の子なのだと言って、こっそりと綺麗な服をく
れた。ほんの一瞬だけだが、僕にとっては憧れでしかなかった女の子にしてくれた。だが、そんなお前が金で女子の身体を買ってい
ると知って……分からなくなった。お前にとっての女の子とはなんなのか。お前は僕を、何だと思っているのか……急にお前が、男
というものが理解できない、汚らわしいもののように思えて……今思えばそれも……」
それは初めて知った事実だ。かつての彼女のあの潔癖なまでの男嫌いの原因が、まさか己の買春にあったとは。それ程まで彼女にと
っては重大なことだったのだろうか。だとすれば彼女は男に対して余りに無知だ。否、それよりも。
「……だから、如何してですか。それが本当なら、私は二度も若を裏切ったことになりましょう。私はあの境遇に苦しむ若に貴女は
女の子なのだからと言って、女物の衣服を差し上げて夢見させた一方で、そんな若の憧憬の対象を金で買って汚しました。そして今
とて、何時いかなるときもご自身の味方に立ってくれると思っていらしたという若の私への信頼を裏切って、ずっと若を欺き、避妊
を求めた若の御意思に背いて若を孕まそうと目論み、それと知られると否や若を力付くで犯して監禁した――そんな男の何が理解し
たいと仰るのです」
東城には九兵衛のこの態度こそ理解できなかった。
「……恨めばいいでしょう。憎めばいいでしょう。貴女の期待を悉く踏みにじった男、と……」
その方が一層良かった。例え憎悪の情であっても、この人の心を己で占めることが出来るのなら。ずっと求めて止まなかったこの人
の心を支配することが出来るのなら。
だが己のその期待にすら反して、彼女は己を厭うどころか、理解したい、などと――。
「……無論憎んだ。これではまるで道具のようではないか、と。手の上で踊らされて蹂躙されて良いように着飾らされて、僕はまるで、
お前の人形のようではないか、と……。あんなに大事にしてくれたのに、と……」
「でしたら! 」
「だがお前が本当に僕を道具のように扱っていたとは、思えないんだ」
「……何を仰っているのですか」
「あの時お前は僕の手を折ろうとして、しかし止めた。何故だ? ああ言っておけば僕が恐怖でお前に屈するだろうと判断して脅し
をかけたのか? この格好に包帯が似合わないから? そんな理由で止めれるものか。僕を閉じ込めておきたいのなら、そうするの
が一番合理的じゃないか。お前が言っていたように、こんな状態は長くは続けられまい」
「……それは……」
「南戸に言われた。こんな風に包帯を巻かれた上に手足に枷をつけられて、食事まで用意された状態でとても監禁されているとは思
えないと。あいつを欺く為か? だがそもそも僕が奴らを呼べたことが妙じゃないか。食事に毒でも盛られているんじゃないかと思った。
そうすればお前の言ったように僕を看病すると言ってここに置いておくことが出来る。だが北大路はお前の料理をなんなく平
らげた。あいつは味覚は異常だがお前と違って目が利く。妙な点があれば見逃すとは思えない。お前は精々数時間経っただけの食事を、
口にした僕が腹を壊さないよう態々全てに火を通したんじゃないか。
……なあ東城。僕にはお前が本当に、人の心を失ってしまったとは、鬱陶しいほど心配性で、僕をとても大事にしてくれたお前が
幻想だったとは思えないんだ。だから僕にはお前が分からない」
「……っ、それが何だと仰るのですか! 」
東城は声を荒げた。
「腕を折らなかったから、傷つかぬよう丁重に手錠をつけたから、腹を壊さぬよう火を通した食事を与えたから、それが何になると
いうのです!? 私が若にしたことは、そんな些細な事の前に癒されるようなことでは到底ないでしょうッ!? 何故その程度のこ
とで私を……」
驚く程焦燥していた。彼女を追い詰めていたのは己の筈なのに、如何してこんなにも己の心が乱れているのか。
「……あの時。お前の買春の事実を知ったとき僕は、厭うあまり逃げていたんだ。お前を理解することから。だから今度は逃げない。
……たとえお前の本性がどんなに忌まわしい悪魔のような人格であっても、受け止めるつもりだ。全部……」
「……分かりませんね! それが若の何になるというのです? そんなことをして若は何を得られると? 」
ここまで言い切るのならば、彼女は別段己に救いを見出したいわけではないのだろう。寧ろ、更なる絶望を望んでいるようにすら見える。
悲劇のヒロインでも気取りたいのだろうか。否、そんな愚かしい少女ではない筈だ。
「……お前がそうしてくれただろう? お前はこれまで僕がどんな道を選んでも、ついてきてくれた。そしてこんな僕でも――何度
お前のところに訪れても、嫌な顔一つせずお前は僕を優しく抱いてくれた。お前は僕の全てを受け入れてくれた。だから……」
フ、と思わず東城は笑みを零した。――こんな僕でも、か。彼女のコンプレックスの大きさは時々理解出来ない。鏡をじっと見たこ
とがないのか。そこには誇るべきでこそあれ何ら恥じる点などない絶世の美少女がいるだろうに。何にそんなにも引け目を感じるこ
とがあるのか。男として育てられて、女子らしい振る舞い方など知らないから? 左目に大きな傷跡があるから? 或いは人より幾
分小柄であるから? それら全てを含めてこんなにも愛しく思っているのに。
彼女に望まれて彼女と身体を重ね、同じ床で共に朝を向かえていたあの頃が、恐らく己の人生の中で最も幸せだった時だろう。先に
も後にも、あんな幸せを味わえることなど到底あるまい。
「……否、漸く思った。ああいうことは矢張り、愛し合った夫婦が子供を望む時以外にすべきではない」
「……は! 」
続けられた言葉を、東城は笑い飛ばす。
「世間知らずのお嬢様らしい考えですな。……それで、お説教でもしてくださるのですか? 年若くして買春に走った私に」
そんな理想論が通るとでも思っているのだろうか。何千年前から娼婦が存在していると思っている? 彼女の父の様に、十八年も昔
に他界した一人の女性の為に、今も尚頑なに操を立てているような男の方が珍しい。妻を持っているうちから、何人も妾を囲ってい
る男を彼女とて幾人も知っているだろうに。そこまで己の買春に拒絶反応を示す彼女には解せがたいものがある。
「それにそれは若が言える様な事ではないでしょう? 愛してもいない男に、肉体関係を求めたのは若ではありませんか。それに今
日も三人もの男を誘って……」
「……そういえば、お前は言っていたな。あの三月二日の夜に、僕があんなことを頼まなければ、こんなことにはならなかったと。
一生僕を大事にするつもりだった、と……」
東城の言葉の途中で、思い出したように九兵衛は呟く。
「あの時落胆したからか? お前が蝶よ花よと愛でてきた、汚れも知らないお嬢様と思っていた女子の口から、お前の厭う柳生家の
為に抱いてくれなどと頼まれて――お前がこれまで尽くしてきた主人は、そんな人間だったのだと失望してしまったから、その余り
に僕にこんなことを? ……それならば僕は、何も躊躇することなんてなかったんだな。失うものなんて、既に何もなかったのなら……」
「……? 」
後半は殆ど独り言のようだった。その意味がよく分からず東城は眉を顰める。失うものがない? それは己が悉く奪いつくしたから
、ではないのか?
「お前に言わなければならないことがある。……今更言ったところでどうにかなることではないと知っているが、それでもこれ以上
一人で心の内に抱え込み続けることに意味が無いのなら伝えたい」
真剣な面持ちで、九兵衛は切り出した。
「……一体なんだと仰るのです。大体そんな格好で何を仰られても気圧されなどしませんよ。真面目なお話をなさりたいのならせめ
て正装なされば良いのに、その刀がそこにあるということは当然同じところに置いておいたいつものお召し物の場所とて覚えてらし
たのでしょう? 」
「……否、敢えて着替えなかった。敢えてお前がくれたこの服で待っていたんだ。柳生の御曹司として育てられてきた、お前の主人
としてではなく――ただ、一人の女子としてお前に言いたいから」
「……!? 」
その言葉に、見据えられたどこまでも真っ直ぐなその視線に、それまで優位に立っていた筈の東城の心が、急速にざわめき出した。
「――東城」
一切の迷いの感じられない、静かな声で九兵衛は切り出す。
「……僕はお前が好きだ。従者としてでも兄弟子としてでもなく、一人の男として、お前を愛している」
そして続けられた言葉が――東城の思考を愈々停止させる。
――何を言っている。
このお方は、このお方は一体何を――。
「……は……」
微かに荒い息が漏れる。
酷く長い時間をかけて、告げられた言葉の意味を理解すれば、それは新たな混乱の波を生み出す。ありえない。ありえる筈がない、
そんなことが――!
「馬鹿な……」
思わず呟いた。
――このお方の隣になど立てないから。このお方の心など、到底手には入らないから。せめて求めて止まぬその身体だけでも己のも
のにしたいと、ついには悪魔に心を売り渡して、こんな愚行にまで走ったのに。
それが真実だというのなら、自分は一体何の為に。何の為にこんなことをしてきたというのだ――!?
今までの己の世界を根底から覆す、余りに衝撃的な言葉の前に、東城はただ、呆然としていた。