※※※
あれから幾日が過ぎただろうか。その夜も九兵衛は、単身東城の部屋へと向かっていた。無論――彼に抱かれる為に。
他の門下生や女中達にそれと知られるのが恥ずかしくて、人目を避けながら歩く傍ら、九兵衛はふと、以前東城と交わした会話を思い出す。
変わらず何度も膣内射精を繰り返す彼に、何時だか耐えかねて九兵衛は切り出した。避妊はしてくれないのか、と。以来東城はそれに応じて
くれはしたが、しかしこうも付け加えた。確実な避妊方法など存在しませんよ、と。
その言葉を聞いたとき、恐怖や落胆を覚えるよりも寧ろ、何処かでそれを望んでいる己があるのに九兵衛は気づいてしまった。そうなれば彼
を、確実に己の下に繋ぎとめる口実が出来る、と――。
そんなやり方は卑怯だと思うし、それで彼の心が得られる訳ではない。何より人間として、許されるような行為ではない。男の関心を得るた
めに子供を望むなど、最低だ。それは分かっている。だがそれでも――いずれ彼が他の女と所帯を持つのを、指を咥えて見ているよりはマシ
に思えた。そうして一生黒い感情を抱き続けて生きていくよりかは。
九兵衛とてそんなことをせずに、もっと正々堂々と、己の中の激情を彼にぶつけて、そして彼に愛を乞いたい。けれど出来るはずもなかった
。そうすることで驚かれたり戸惑われたりするだけなら耐えられる。だが、そんなことをすれば――確実に彼は己を軽蔑する。
十五年も昼夜を共にした相手に、今更その想いに気づいたなど、どうして信じられようか。あの三月二日の夜、九兵衛の中で何かが確実に変
わり、しかしそれは同時に終わりを告げていた。そう、全ては遅すぎた。彼と発展しえぬ関係を築き上げてしまったのは、他ならぬ九兵衛自
身だ。彼自身は酷く渋っていたというのに、柳生家内の混乱を鎮めるためになどといって、地位を盾に身体の関係を求めた女など、どうして
彼が愛せよう。今となっては口実にしか思われまい。
だが妙との一件をあれ程後悔したにも関わらず、結局己はあの時と変わってはいなかった。彼女の深い友愛の情に、己に対する負い目につけ
こんで、彼女に結婚を迫ったように、東城が己には逆らえないのをいいことに今の関係を続けているのに過ぎない。そうして後に戻れぬとこ
ろまで行き着くのを、何処かで待ち望んでいる……。
我ながらぞっとする。どうして己はこんな方法でしか他人を愛せないのだろうか。否、こんなのは愛などとは決して呼べまい。こんな――余
りに身勝手で暗い感情は。
それはもっと、美しく尊い物なのだろうと思っていた。幼い頃夜毎東城に聞かされていた、何度も夢見た異国の姫君の物語のような。そして
あの日、一人出かけた町の少年達にいじめられていた己を助けてくれた少女の姿が、そんな絵本の中に出てくる、魔物を薙ぎ払って救いに来
てくれた王子様のように見えたのだ。東城が買春している事実を知り、世の男全てが信じられなくなっていた中でも、彼女といた時だけは安
らぎを覚えた。彼女が己に与えてくれる、優しく温かいものこそが、ただ一つの愛なのだと思っていた。その意味も知らずに。そうして彼女
がその、いつも浮かべていた笑顔の裏に隠していたものを知ったとき、憧れるばかりだった彼女を護りたいと思った。とうに絵本の中の世界
など信じてはいなかったけれど、それでも今度は自分が彼女の王子様になるのだ、と――。彼女のお陰で東城達すら凌駕する実力を身につけ
、しかしそれでも決して強くなどなっていなかった。だから彼女の涙に目を向けることができなかった。所詮己は彼女の王子様になどなれぬ
のだと、気づくのが怖かった。けれども、己の見ぬうちにいつのまにか逞しく成長していた彼女の弟によって、それを思い知らされたとき、
誰よりも愛しかった筈の彼女に酷いことをしてしまったと初めて知った。だがそれでも彼女は、己の為した事の前にただ泣き濡れるばかりの
自分を抱きしめて、泣いてもいいのだ、と言ってくれた。女の子なのだから、と――。こんな自分にも女としての生き方があるのだと、教え
てくれたのは彼女だった。ずっと憧れていた、女子としての人生が。けれどあの夜から、己はまごうことなき女なのだと、女子としてしか生
きれぬのだと知ったとき、それは決して、それまで思い描いていたような綺麗なものではないのだと思い知る。初めて気づいた己の東城に対
する感情は、妙に抱いていたような憧憬や尊敬や保護欲とは全く異なる、余りに薄汚い嫉妬と独占欲だった。
あの時金で女を買い、幾人もの女と寝る東城を心底軽蔑し、所詮この世に物語のお姫様と王子様のような運命の恋などありはしないのだと知
ったが、しかし今の己とて何処までも無垢で他人を憎むことなど知らない、況してや他人を利用することなど思いつきもしないお姫様とは程
遠い。意地悪な恋敵がいいところだ。汚い手段で王子様を手に入れたところで、彼女と王子様の間に愛が生まれる筈もない。
そして東城から金を受け取って、身体を開いた女達に何処か引け目を感じていた。己とて彼に、望まれて抱かれるのならどんなに幸せか――
どうせ愛のない関係ならばと、そんなことまで考えていた。だが所詮、己は彼をそこまで惹きつけるものなど持ち合わせてはいないのだ。殆
ど女なら誰でもいいような関係を持ち続けてきたあの男を、その気にさせる程度のものすら。だからこんな方法でしか彼を求められない。夜
毎彼は己の容貌を褒めてくれ、その度に少し誇らしく思えもしたが、冷静になって思えばそれとて信用できるものではなかった。仮初の関係
にばかり溺れてきた男の、情事の中での睦言など如何して信じられようか。己をその気にさせて、少しでも彼が楽しむ為の言葉、それ以上の
意味などきっと持つまい。そう思うとたまらなく悔しかった。
何故あんな男を愛してしまったのだろうか。好きになったのがあんな不埒な男でなければ、こんなにも苦しむことはなかったのかもしれない
。否、特定の相手がいるわけでもないあの男のその行動を非難する権利など己にはない。わかってはいる。それでも、どうしようもなく苦し
かった。他の男が、例えば南戸あたりが何人の女と寝ようと大して気にもしないのに。精々、厄介事を起こさないでくれと、思う程度だった
。それなのに。この想いに気づいてからというものの、東城が少し女中と話をしているのを見るたびに、彼が彼女をよからぬ目で見ているの
ではないかと、どす黒い感情が己の中に生まれるのを感じた。馬鹿馬鹿しいと思いながらも止められなかった。どうしてこんなにも、あの男
に執着しているのだろう。騒ぎ立てるような美青年という訳でもあるまいに。まあ、かと言って悪くもないとは思うが。長い金の髪は仄かな
明かりを受ける度輝いて、それは色の白い肌と相俟って美しくもあった。優しげな細い目が送る視線も、少し高めの甘い声の響きも、いつも
己を安らげるものだった。年の割りに落ち着いた物腰のせいもあるかもしれない。……否、確かに見た目こそ穏やかで上品ではあるが、実際
の性格は真逆もいいところではないか。己に何かある度に酷く取り乱しては、大袈裟に騒ぎ立てて。それに何かにつけて口煩く、己の生活に
過干渉してくる。自室にも度々勝手に侵入する彼が世話役についていたのではプライバシーも何もあったものではなかった。まあ、それらも
全て自分のことを心配してくれているが故なのだということはわかっているが、しかし心配性にも程があるのではないか。あんな風に常時張
り付くように護られねばならぬ程、己は弱くない。それとも信用がないのだろうか。否、彼は己がどんな道を歩こうと、いつだって己の味方
に立ち、己の為に戦ってくれた。己のどんな望みにも応えてくれた。だからこそ――今の関係がある。
……駄目だ。そこまで考えて、九兵衛は項垂れた。考えれば考える程思い知る。反発しようとしてもどうしようもない位、自分はあの男に惚
れている。恋は惚れた方が負けなのだと、仮想恋愛の達人であるすまいるのキャバ嬢達は言っていたが、この恋に勝算などない。嫌に成る程
その根拠は挙げられる。しかし多分、それでも自分は幸せなのだろう。そう思わねばならなかった。彼は己を信じていてくれているからこそ
、こんな命令にすら結局は応じてくれた。そして今も尚、嫌な顔一つせずこの関係を続けてくれている。それどころか、閨の中での彼は心底
幸せそうですらあった。不満を抱くには贅沢すぎる環境ではないか。
頻繁に訪れる九兵衛を、東城はいつも快く迎え入れてくれた。今では九兵衛の寝巻きや下着を彼の部屋に置いてすらいる。いつだったか、激
しい行為に汗ばんだ衣服をそのまま纏おうとした己に、それでは風邪をひくと言って東城はそれをさせなかった。その時は結局東城の服を借
りたが、長身の男のそれは小柄な己に合うはずも無く、酷く不恰好な形になってしまった。あの時の屈辱と言ったらない。それ以来東城の部
屋に自分の服を持ち込んでいた。九兵衛はそこを訪れる前には必ず入浴して念入りに身を清め、衣服と下着の清潔さには気を使っていたので
、汗をかく前に脱がされてしまえば着る必要もなかったが。
そんなことを考えているうちに、愈々たどり着いた部屋の前で立ち止まると、周囲に誰もいないことを確かめては、隠れるように、声をかけ
もせずに静かに障子を開いた。
「……おや、今夜もいらしてくださったのですか」
その部屋の主の言葉に、無言で頷くと、九兵衛は後ろ手に障子を閉める。
「こうも頻繁に、若の方から私の元へと通ってくださるとは……嬉しい限りです」
そう言って座布団も用意せずに、既に敷いてあった布団の方へと九兵衛を促した。もう、何度寝たか知れないその布団へと。
「しかし案外と……若も好き者でいらっしゃいますな」
「……っ! 」
そうして自身も九兵衛のすぐ隣に腰を下ろすと、そんなことを囁いた。九兵衛はその言葉にかあ、と顔が赤くなる。だがその言葉を非
難出来ないほど頻繁に、九兵衛は東城の元へと通い詰めていた。
しかしそれは彼が思っているように性欲を満たすためでも、当初の目的のように柳生を統治するためでもなかった。愛しい男と少しで
も一緒にいたいから、そんな健気な感情でもない。
ただひとえに――東城を己の下へと縛り付けておくためだった。他の女のところになど、決して行かせぬように。
だがそんな黒い心の内を、この男に晒せる筈もなく、九兵衛はただ押し黙って俯く。
「ああ、そう気を落とさないでくだされ。何も侮蔑するつもりではなかったのですよ。……素敵だと思いますよ、そういうのも」
そして東城はそんな九兵衛の顔を覗き込むようにする。
「……東城……」
肩から突き出された男の顔の方を、九兵衛は目の動きだけで見上げた。
「若……」
男女二人の、情熱を孕んだ視線が絡み合う。最早、それ以上の問答は不要だった。
「……ん……」
無言で近づいた顔に、九兵衛は静かに瞳を閉じる。そしてやがて触れた温かい感触を受け入れた。
「……っは……」
口腔内を舐る舌先に己のそれを這わせては絡め、互いの唾液を混ぜ合わせながら、九兵衛は東城との長い口付けに酔いしれた。それだ
けで達してしまいそうな程に、彼との口付けは濃密なものだった。
やがて名残惜しそうに唇が離れると、最早どちらのものか分からぬ唾液が、二人の間に刹那透明な橋を築いて、しかし次の瞬間九兵衛
の顎から首筋にかけて崩れ落ちる。
「……ぅ……」
東城はそのまま顔を九兵衛の首筋に埋めると、彼女の白い肌を強く吸った。彼の舌は鎖骨下を辿って胸元へ降りていき、その度に赤い
痕を残していく。
「……若……」
すっ、と身体を起こすと、東城は静かに九兵衛の名を呼んだ。
「この位で……宜しゅう御座いますか? 」
「……ああ」
許可を求める従者の言葉に、九兵衛は伏し目がちな瞳で答える。
彼が己に痕をつけるのは、九兵衛が男との関係が確かに続いていることを周囲に知らしめる為……それ以上の意味など決してありはし
なかった。初めの夜こそ幾つもの痕跡を残してくれもしたが、次に訪れた時にそれを目にした彼は何処かそれを後悔しているかのよう
な目をしていた。以来その数は急激に減り、何時だったか、ついに彼ははっきりとこう言ってきた。こういうことは、余りしたくはな
いのだ、と。そんな彼にとってその行為は義務でしかない。だから主人の確認を必要とする。
そのことを思い知らされる度に、それは彼と己との愛情の差の表れのようで、九兵衛は心が張り裂けそうになる。
東城のきっちりと合わせている寝間着の下には、今は見えはしないが、九兵衛が残した夥しい数の痕が残っている筈だった。人目につ
くようなところには、恥ずかしくてつけられなかったが、しかし着物に隠れて見えぬところにはそれこそ余すところ無く――。それら
をつける度に、まるで彼を所有出来たかのような思いに駆られてでぞくぞくとした。そんな己が彼に抱く、暗くも激しい感情を、彼は
己に対して微塵も持ち合わせてはいない……。
「……東城」
そんなことを考えているのはたまらなくなり、忘れようと九兵衛は東城の胸元に手を差し入れては、そこに顔を沈めた。上手く肌に触
れられぬことに焦れると、着物を止めている腰紐を外しにかかる。
「……積極的ですね、若……」
そっ、と東城はそんな九兵衛の髪を撫でた。しかしやがて手を止めると、
「今日は少し、趣向を変えてみましょうか」
「……え? 」
「若のために用意したものがあるんですよ」
言って東城は、胸元の肌蹴たその状態のままで立ち上がると、箪笥の方へと歩き出した。はらり、と腰にかかっていた帯が落ちる。
「こちらになります」
「! これは……」
そこから東城が運んできたそれは、衣服のようだった。きっちりと畳まれていて全体的な外観は分からないが、胸にかけられた白い、
レースのたっぷりとついたエプロンがそれがどういった服かイメージさせるには十分だった。
「ええ、メイド服です。若にお似合いかと思いまして。お召しになっていただけますか? 」
「……」
九兵衛はまじまじとその衣装を見つめる。それは確かに東城の言うように、形こそ異国の女中の制服を模したものではあったが、しか
し作業着と呼ぶには些か華やか過ぎるデザインのものだった。桃色の布地には豹の毛皮のような柄が描かれ、エプロンには過剰な量の
レースが縫いつけられている。それに飽き足らず、下の服までひらひらとしていた。頭に巻くのであろう太目のリボンには矢張り白い
レースと、そして服とおなじ柄の猫の耳のような飾りがついている。服の方から伸びている棒のようなものは恐らく着たとき獣の尻尾
のような形になるのだろう。ご丁寧に、それらの服に合わせたデザインの眼帯までセットになっていた。幾らなんでも眼帯のついた服
などそうないだろうが、もしかして彼が同じ布地を取り寄せて手作りしたのだろうか。凝り性なこの男ならやりかねない。何かと器用
なこの男、西野程ではないが確か裁縫も得意だった。というか西野の裁縫の腕が異常だった。
否、西野のやたらとファンシーな小物作り好きの趣味は如何でもいいのだが、兎にも角にも、その少女だけに着ることの許された、可
愛らしいデザインの衣装に、九兵衛は少し、興味を持った。
「ま、まあ、着てやってもいいが……しかし」
「しかし? どうなさいました? 」
「今日はその……しないのか? 」
だが何も、こんな時にそんなものを出すことはないだろう、と、既に着物を脱がせかけた東城に九兵衛は視線を送る。それとも流石に
、呆れているのだろうか。余りの頻度で自分がこの部屋に、身体を重ねる目的で訪れることに。
「まさか。ですから、これを着てなさいませんか、と申しているのです」
「? どういう…」
「そうですね……若、今夜は私のメイドさんになって頂けませんか? 」
「……何? 」
「つまり、私が若のご主人様で、若が私に仕える可愛いメイドさん。そういう設定で今夜は楽しんでみませんか? 」
「……はあ? 」
繰り返し説明されて、漸く東城の言わんとしていることを理解すると、九兵衛は酷くまの抜けた声をあげた。
「何を言っているんだ。何の為にそんなことを……」
「何の為だなんて。そんな難しい意味などございませんよ。ただ、そういうのも興奮するのではないかと思いまして」
「……おかしいんじゃないか、お前。大体なんでメイドでするんだ」
「ですから、深い意味なんてありませんって。ただ、若にお似合いかと思って用意しただけです。それに、ご主人様をお慰めするのは
、メイドさんの務めでしょう? 」
「馬鹿馬鹿しい。お前は女中の仕事を愚弄しているのか。家事の為に雇われてる女中が、何で主人の夜伽の相手までしなければ……」
心底呆れたようにそこまで言いかけて、しかし九兵衛ははっ、として、その後の言葉を飲む。
――そうだ。許されるはずがない。そんなことが。職権濫用もいいところだ。立場の強い者が、それを利用して弱い者に、定められた
役割以上のことを望むなど……。
「……そういう、こと、か……? 」
震える声で、九兵衛は呟く。
プレイの一環とかこつけて、この男が己に何を訴えようとしているのか。それを理解して。
「確かに……こんな関係は、お前の本意ではないだろう……それなのに、こんな、度々お前のところに押しかけて……それでも、お前
は断れないから……その、そこまでお前が迷惑していたのならばそれは謝る。……っだが……」
「……若……? 」
「お前が……お前がこんな陰険な男だとは思わなかった! 嫌なら嫌と、面と向かってはっきり言えば良かったじゃないか! 僕に純
潔を守って欲しいとか、そんな回りくどい事を言わずに、僕をそういう目では見れないから、と! あまつさえ僕に気を使って、それ
にフォローなんてせずに! 」
「若…? 一体何を……」
「……それを……何だ! こんな、何回も通った果てに、こんな方法で詰らなくても……! 分かっているんだ。こんな事をされなく
ても、僕が……お前に何をしているか、くらい……自分でも最低だと思ってる、お前はあんなに渋ってたのに、柳生の混乱を鎮めるた
めなんて理由で、お前にこんな……っ……」
「……若ッ! 」
「……っ!? 」
ぽたぽたと涙を落としながら、訴える九兵衛の言葉の途中で、しかしそれは遮られた。
「と……うじょ……? 」
不意に、力強く抱きしめられて。
「違います若! そのようなつもりでは決して……! 若にそのような皮肉を言うような意図など、全くなかったのです。ああ、若。
お許しください。私の考えが足りませんでした。まさか若にそのようなご不安を抱かせてしまうとは……! 」
胸板に顔を押し当てられ、九兵衛に東城の体温が伝わった。トクトクと聞こえる鼓動は速く、それは彼がその語気からも感じられるよ
うに心底焦燥していることの表れのようでもあった。それを感じるうちに、九兵衛の心は静まっていく。
「勘違いなさらないでくだされ。私は貴女に今の関係を強要されているなどと思ったことは、一度たりとて御座いません。それどころ
か……幸せに思っております。理由がどうあれ、そのお相手にこの私を選んでくださったこと……」
「……本当か? 」
「ええ。貴女のような、素敵な女子に望まれるなど、これ以上の幸福が御座いますか」
「……また、そうやって……」
「言っておきますが、若に気を使って世辞を申しているのではありませんよ。何度も申したではありませんか。若よりも美しい女子な
どこの世にいない、と」
「……」
――何て軽薄な男なんだ。どうしてそんなことを、簡単に断言出来る。僕のような女にさえも。
思って九兵衛は俯く。同じ言葉を、何人の女に告げた? 考えただけでも忌々しい。
「言葉では信じられませんか? しかし若、身体は正直なものでしょう。余程魅力を感じている人でなければこんな、度々来てくださ
る方を毎度一夜に何回もお相手出来たりはしませんよ」
「……っ! 」
その疑念を知ってか知らずか、続けられた東城のその卑猥な物言いに、九兵衛は顔が熱くなる。しかし一方で、その話には説得力があ
った。頻繁に訪れる己を、この男はいつも情熱的に求めてくれた。彼も己と同じように、己を愛してくれているのではないかと錯覚す
る程に――。それが錯覚なのだということは分かっている。彼は己とは違い、愛していない女でも平気で抱ける人間なのだ。彼以外と
そんな関係を築きたいとは思えもしない己とは根本的に違う。それでも……東城の物言いは大袈裟にしても、彼が買った女達のように
、この男を性的に刺激出来る程度には魅力的なのだと、納得出来る。
「……そうか……」
力なく九兵衛は呟く。欲張りな女と、自分でも思った。主人としてこんなに大事にされて、女としての魅力も感じてくれて、それでも
まだ、到底満足できない。それで十分ではないか。これ以上この男に何を望む。
「……その、すまなかったな。取り乱して……」
「いえ、私の配慮が足りませんでした。若にお似合いかと思って用意したもので、まさか若自身私のことをメイドのように思ってらし
たとは考えが及ばず……」
「いや、流石にそこまでは思ってないんだが」
若干ピントのズレた発言に、九兵衛は思わずメイド姿の東城を想像してしまい、眩暈を覚えた。そんなことを考えていると、急にこれ
まで思い悩んでいたのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「まあいい……侘びと言っては何だが、お前の提案、呑んでやる」
「……え? と、申されますと……」
「乗ってやると言ってるんだ。その……メイドごっこに」
「……宜しいのですか!? 」
九兵衛の言葉に、東城は子供のように表情を輝かせた。
「ああ。……演じてやれば良いのだろう? 魅力溢れる主人に求められて、心から幸福を覚える女中を」
お前のように、と九兵衛は心の内で付け加えた。
本当はまだ不安はいっぱい残っていた。東城の言葉が、何処まで本当かわからない。けれど何処まで偽りでも、東城は確かに、今まで
己に対してそうしてきてくれたのだ。ならばそれに応えてやるのも道理ではないか。
それに、東城の言葉に九兵衛は少なからず安堵を覚えていた。一人の女子にこんな風に縛られて、彼が真に満足しているかは疑問だが
、少なくとも――彼が己に興味を失くすまでは、この関係を続けても良いのだと、許しを得たかのようで。
不器用な自分は他人を欺いたり、演技をしたりすることには自信がない。しかしその演目ならば問題はないと感じていた。何しろ自分
は、演技などではなく本当に心から、彼に抱かれることを望んでいる。こんなにも、愛されたいと願っている……。
大丈夫だ、だからきっと、うまくやれる……。
九兵衛のそのささやかな自信はしかし、ものの見事に打ち砕かれた。
「さあ、出来ましたぞ。いかがです? 」
いつからその部屋に置かれているのか、多分今日用意したのであろう大きな鏡の前に東城は、自ら用意したその服に着替えさせた九兵
衛を立たせた。
「……ぅ……くっ……! 」
鏡に映りこむ己の姿に、九兵衛は羞恥で消えたくなる。
畳まれた状態では全貌が分からなかった。分かっていれば、決して受け入れたりなどしなかっただろう。あの状態では、確かにただの
可愛らしい服に見えたのだ。だが、全ては遅かった。侍が一度引き受けた事を簡単に引き下がれる訳がない。
それは見た目こそ実に可愛らしい服ではあった。高い位置で、桃色のレースのリボンによって二つ分けに結い上げられた、少女らしい
今の髪型ともよく合っている。しかし――問題はその、到底表には出れぬレベルの露出度だ。
大きく開いた胸元からは、ばっちりと胸の谷間まで曝け出されていた。しかも胸の締め付けが異様に緩いせいで、動くたびに乳房が揺
れる。
そして下半身はといえば、ふんわりとしたスカートはしかし余りに短く、長いオーバーニーソックスを止めるガーターベルトの紐が見
えてしまっている。それが太腿に食い込み、硬く締まった男のそれとは違う柔らかさを確かに持っていることを、嫌でも視覚的に訴え
てくる。
否……実のところそんなことすらこの際如何でもよかった。
何よりも九兵衛を辱めるのは、この服を着せる際に、東城が九兵衛の下着を全て脱がせてしまったという事実だ。
やたらとレースの多い服が、胸の先端を弄ぶように擦る。それでなくても東城のその全身を舐めるような視線のせいで、とうに九兵衛
のそこは勃ちきっていた。そしてスカートの下の、余りの風通しの良さは刺激的であると同時に心もとない。直ぐにでも……はしたな
く蜜を零してしまいそうだった。
なんだこの状況は。この、こっち見ないでね真中君、してないのバレちゃうから的な展開は。いや、あの時の彼女だって流石に下は穿
いていただろうに。そもそもバレるバレないの問題ではない。そんなことは下着を剥いだこの男自身が知っているのだから。問題は…
…少しでも動くその度に、それだけで電撃が流れるような刺激が全身を走ること、だ。東城に触れられている訳でもないにも関わらず。
「ああ、若……素敵ですよ」
背後から東城が、メイド服を纏った九兵衛を抱きしめた。大きく開いた背中と、曝け出された彼の胸とが触れる。その熱に九兵衛の胸
が高鳴った。……まずい。このままでは……。不意に九兵衛は先ほどの東城の言葉を思い出す。そして本当にこのままするのだろうか
、と急に不安を覚えた。否、恐らく彼は本気だ。下着を剥いだのもその為だろう。だがこんな――九兵衛は堪らなく恥ずかしかった。
彼の前に何度もその裸身を晒してきたにも関わらず、この異様に露出度の高い格好を見られるのが――。
「あ、あまり見るな……恥ずかしい、から……」
鏡に映る己のその姿に見惚れている様子の東城に、九兵衛は顔を伏せて訴える。
「恥ずかしがることなんてありませんよ。こんなに素敵なのですから……ほら」
「……! 」
東城は九兵衛の手を取ると、それを己の下腹部へと導いた。
「若が余りに魅力的でいらっしゃるから……もう反応してしまいましたよ」
下着越しに触れたそれは、平常ではない熱と硬度を帯びて、どくどくと脈打っているのがわかる。
「東城……」
それを感じると、九兵衛は先ほどまでの、あれ程の羞恥すらももうどうでも良くなる程の飢えを覚えて、早急に下着の中へと小さな手
を探りいれた。その手が男の熱く滾るものにたどり着くと、彼の方へと向き直って、跪いてはそれを下着から取り出す。眼前にまだ勃
ちきっていない、赤黒い陰茎が顔を現す。いつも己を悦ばせてくれるそれを愛おしく感じ、九兵衛は顔を近づけた。
「……ふふ、早急な方ですなあ」
「う、煩い……! 嫌いじゃないんだろ、そういうの……」
「ああ……しかし、いけませんねえ」
言って東城は、九兵衛の頭を撫でながら、静かに布団の上へと腰を下ろす。
「メイドさんがご主人様にそんな口の利き方をしては」
「……えっ? 」
あくまでも限りなく優しく言われた言葉に、しかし思わず九兵衛は、男のものを握ったまま声をあげた。
「『ご奉仕させて頂きます、ご主人様』……そう言って御覧なされ」
「なっ……! 」
とんでもないことをさらりと言われ、九兵衛は顔を上げる。見上げたそこには相変わらず涼しい顔をした東城がいた。
「ふ、ふざけるな! 何で僕が、お前の主人である僕がお前にそんなことを……」
「でも今夜は、私のメイドさんになってくださるのでしょう? 」
「……うっ」
己の非難を物ともせずに受け流す彼の言うように、それは確かに九兵衛自身が約束したことで、彼女は言葉に詰まる。そして暫くの間
をおいて、ついには観念し、
「……ご、ご奉仕させて頂きます……ご主人様……」
か細い声で、九兵衛は呟いた。
「……んっ」
そして先端に愛しげに口付けると、待ちかねた馳走にありつけた子犬の様に、九兵衛は手にしていたそれに貪りついた。
「はぁ……んむっ……」
舌先で転がすように先の方を舐め回し、咥えこんでは吸い上げる。そして根元まで丹念に下を這わせて舐った。
「……ふ……そんなに美味しそうにしゃぶりついて……余程、欲しくてたまらなかったのですね……? 」
「……んんっ……」
東城の問いに、九兵衛は口に入れたままの状態で頷く。
「……ああ……うまひ、ぞ……東城……」
そして口を離しては、熱に浮かされ始めた頭で呟き、再び深く咥え込んだ。
「若……また、そんな……」
耳にした東城の声は、少し戸惑っているようでもあった。だが実際、自分でもどうかしているとは思うが、徐々に硬度を高め質量を増
していくそれが、この男のものだと思うと堪らなく愛しくて、そんな感情すら呼び起こさせた。そして普段この男に繰り返される度に
、激しい羞恥を覚える言葉ではあったが、こうして己の方から口にしてみれば、成る程困惑する男の声は己が彼を翻弄していることの
表れのようで心地よかった。
「……『美味しゅう御座います、ご主人様』、でしょう? 」
「……っ! 」
しかし矢張り、切り返し方は東城の方が一枚上手であった。言い方を変えて繰り返された己の言葉に、九兵衛は益々熱くなる。
「くっ……」
その反動で少し強く吸い上げてしまった刺激のためにか、東城の唇から荒い吐息が漏れた。
「……っは……」
そして徐々に大胆になっていく九兵衛の動きの前に、それは確かに乱れていく。時折零れた男の高めの声は上擦っていた。
それを耳にするたびに、九兵衛の身体は昂った。もっとこの男を己との行為の中に溺れさせたい。骨の髄まで支配したい――。
そう考えたところで、九兵衛はふと思った。今夜は己は彼のメイドなのだと、彼は言っていた。そして彼はご主人様――そう、完全に
立場が入れ替わっている。それならば、と、思い立って九兵衛は己の口から既に完全に起立している男のものを抜いた。口の端からた
っぷりと溢れさせていた唾液が零れてそれに纏わりつく。
「……っふぅ……ふふ、いけませんねご主人様、もう、こんなに大きくしてしまって……」
「……は……若……? 」
軽く口を拭いながら、九兵衛は悪戯な笑みを浮かべた。閨の中ではいつもこの男に翻弄されてばかりだが、今こそそのお返しをしてや
る。普段己がなされていることを思い出しながら、柔らかい敬語で東城を責め立てた。
「確か、ご主人様は――」
「……っ! 」
そして言いながら、それまで懸命に男の脚の間に埋めていた身体を少し起こし、
「僕に、こうされるのが好きでした、よね? 」
大きく開いた胸元の谷間にそそり立つ男根を差し入れ、抱えた乳房でそれを包み込んだ。
「……ほら、大きくなった。ふふ、ご主人様ったら……」
「わ……若……」
どくん、と汗ばむ胸の間でそれが脈打つのを感じると、益々嬉しそうに九兵衛は微笑む。
「気持ちいい、のでしょ? こうされると……」
「は……はい……」
そして身体を揺すりながら、柔らかい乳房を使って竿全体をマッサージすると、男の口からやや掠れた声が漏れた。
「堪りません……若に、そのようなお顔で見上げられると……もう……」
それを聞きながら、九兵衛は先端を口に咥えた。
「ああ……若、私は……」
熱っぽい視線で見下ろされ、九兵衛はもっと、この男を昂らせたいと思った。
「んっ……ふむっ……! 」
――言ってみろ。気持ちが良いと。もっとして欲しい、と。
思いながら九兵衛の指が、舌が忙しなく動いていく。
「わ……かっ! 」
――僕が欲しいと。他の誰でもなく、この僕だけが欲しいと言え。
「若……ああ、若……! 」
――僕を……愛していると。主人としてでも妹弟子としてでもなく、一人の女子として愛していると言ってくれ。
頼む……東城……。
「……は、……ぁっ……! 」
そんな事を思いながら、九兵衛は、これまでの彼との情交の中で覚えた技で、彼の弱いところを攻め続けた。
ひたすら己の名だけを呼び続ける、熱を孕んだ声を耳にしながら、それでも……九兵衛には分かっていた。それが勝手な願いだという
ことは。切なげに眉を寄せるこの男を今支配しているのは、己自身などでは決してなく、若い雄の際限ない肉欲でしかないということ
は。
「あ……ぁ、若、もう、その辺で……」
東城の手が、九兵衛の頭に伸びた。しかし九兵衛はそれを振り払うように、益々深く、はちきれんばかりの陰茎を咥え込む。
「い……いけません、わか……これ以上は……! イッてしまいます……! 」
余裕のないその声が快く、九兵衛は愈々それを手放そうとはしなかった。これまで何度も逢瀬を重ねてはいたが、まだ彼を口や手だけ
で達させたことはない。九兵衛はそれを試してみたくなった。
「だ……駄目、ですっ……! 若ッ……! 」
焦燥に駆られる東城の顔を見上げながら、九兵衛は口の中のそれを強く吸い上げる。
「あ……! わ……かぁッッ……! 若ぁッ……!! 」
それに応じるように、東城の男根は九兵衛の口腔内で、一際大きく跳ね上がると、
「……っっ!! 」
彼女の喉奥にまで、熱い欲望を迸らせた。
「……っゲホッ! ……っぇえッ!! 」
突如注がれた異物の感触に、反射的に九兵衛は噎せ返る。激しく咳き込むその度に、吐き出された泡立つ白濁の液体が、手を、胸元を
汚した。それでも口内に残る、唾液とは違う粘性の体液の感触が、栗の花にも似た生々しい臭いが、えぐみの強く苦い味が吐き気を催
させる。
「若……! 」
それを見て東城は、慌てて九兵衛の背をさすった。
「……っはぁ……はあ……」
何度も優しく撫でられているそのうちに、漸く呼吸も落ちついて行く。
「大丈夫ですか!? 若……」
「ん……あ、あぁ……」
おろおろとしながら、東城はちり紙を何枚も使って、唾液と精液とに塗れた九兵衛の顔と身体を拭う。
「良かった……」
そして言うや否や立ち上がると、とても先ほど達したばかりとは思えぬ機敏な動きで、部屋のあちこちを歩き回った。
「……? 」
やがて九兵衛のもとに戻ると、すっ、と九兵衛に水の注がれたコップをさしだす。
「ほら……早く、お口を漱いでくだされ」
言われて一緒に洗面器を渡されはしたが、吐き出すところを見られるのが恥ずかしくて、九兵衛は水を一気に口に含み、残っていた精
液と共に嚥下した。
「それと、これを……」
「……何だ、これは」
「胃薬です。あと、お口直しに飴も用意いたしました」
「……」
手渡された錠剤と、あくまでも真剣な男の顔とを交互に見ながら、九兵衛は黙り込む。確かに初めてのその味に驚きはしたが、ここま
でされると逆に申し訳なさを覚える。
「ああ、それにしても何と謝罪すれば良いのか……まさか若のお口に出してしまうなんて……」
「……お前が謝ることはないだろう。お前の制止を聞かず続けたのは僕だ」
「しかしそんな……汚いでしょう。若のお体に障りでもしたら私は……」
「……。お前だって……僕のその……アレとか舐めたりしてるじゃないか」
「そりゃあ私は……若のでしたら例え唾液でも愛液でもお小水でも、鼻水でも痰汁でも経水でも便でも悦んで飲み干せますし、それで
腹を下しても寧ろ若に犯されているようで興奮しますが……」
「……。お前、やっぱり変態なんじゃないか……? 」
躊躇無くきっぱりと言い切る東城の言葉に、九兵衛は呆れ果てる。……しかし、そこまで言える相手に対して、精液一つ飲み干せない
己が少し、何処か情けなくも思えた。
「……お前にも、かかってしまったな……」
ふと九兵衛は、東城の股座に目を向ける。盛大に吐き零してしまったせいで、そこは白い液体に塗れていた。それを見て、九兵衛は拭
いてもらったばかりの顔をそこに埋めた。
「! 若、何を……まだ、汚れて……」
「だから、綺麗にしてやる……んっ」
太腿から腹、そして精を吐き出してすっかり萎んでしまった陰茎や、くすんだ金色の陰毛や睾丸に至るところまで丁寧に、九兵衛は東
城にふりかかっていた彼の精液を舐め取った。
無論それは、決して二度も口にしたい味ではなかった。その度にまた吐き出したくなるのを、しかし懸命に堪えて押しとどめる。
小便や鼻水は流石に嫌だが、けれど彼の身体に飛び散ったその白濁の体液は別だった。それは彼が己に示した確かな情欲の証であり、
そして誰よりも愛しい彼の子種でもあった。そう思うと、自ずと愛情も持てる。
「ん……その、すぐには無理かもしれんが、そのうち……ちゃんと、全部飲んでみせるからな」
「若……良いんですよ。若にそのようなことをしていただく訳には……はぁ、こうして、若御自ら私のものを舐めていただけるだけで
も畏れ多い位で……」
丹念にその部分を舐めているうちに、柔らかくなっていた筈のものが徐々に再び頭をもたげてくる。
「……構うことはないだろう、お前だっていつも僕に……それとも」
とうに白濁の見当たらぬ部分を、それでもまだ舐め続けながら、九兵衛はふと、思ったことを口にする。
「あ、あまり……普通はこういうことはしないもの……なのか? 」
あまりにすまなそうにする東城の態度に、もしや自分は、とんでもなくアブノーマルな事をしているのではないか、そんな疑問が脳裏
を掠めた。
「それは……確かに割と標準的なサービスですけど……。……しかし、若にして頂くと、何だか酷く申し訳なく思えて……」
「遠慮するな。僕が……したいと言っている」
「若……」
「お前には……その、いつも、世話になっているからな……それに。
今日は僕が……貴方のメイドなのでしょう、ご主人様」
「若……? 」
「……その……何でも構わず注文してくれていい……んですよ。ご主人様の満足のいくように出来ないかもしれませんが……頑張って
みますから……」
そう、本当はそれが多少特殊なことであっても良かった。どうせ自分は……この男以外と関係を持つつもりはない。普通であることな
ど何の意味をなそうか。
「若……何を仰って……」
「僕は……ご主人様のメイドですから」
「若……」
言っては再び口での愛撫に専念する九兵衛の名を、東城は静かに呼んだ。
「……とんだ忠誠心ですな……。すっかり、なりきって頂けてるのですね……」
「……」
その言葉に、九兵衛は何も答えなかった。
ただ、心の内で思う。
――メイドでも、何でもしてやる。お前が望むのなら。お前の言う標準的なサービスとやらがどういうものなのかは知らないが、標準
的でないことに至るまで応じてやる。
……だから。
他の女のところになど行くな。僕だけを見ていろ。僕だけのものになれ。ずっと……僕の側にいてくれ。
「……は……」
すっかりなりきっていると、東城は形容したが、しかし己は彼のような忠実な従僕になど決してなれはしなかった。
何の見返りも求めず、私欲を滅し、他人に尽くすなど、出来る筈もない。
ずっと……その裏には、暗い欲望が、絶えず渦巻いている。
「無理をなさらなくていいのですよ……若……」
そんな己のうちなど知らぬであろう東城は、優しく九兵衛の頭を撫でた。
「先ほど吐き出したばかりではありませんか。本当は気持ちが悪くて仕方なくいらっしゃるのでしょう……? 」
「ふ……そんなことは……」
「ほら、そのようなものよりも、美味しい飴をさしあげますよ」
「う……別に、そんな……」
「若のお好きなバナナ味もありますよ」
「や……でも……」
九兵衛は躊躇った。確かに彼のいうように、口の中に纏わりつく感触は依然として不快だった。しかしここで彼の好意を受け入れてし
まったら、まるで彼のそれを汚らわしいと認めてしまうかのようで。東城は彼が豪語するようにいつも、己の体液を嫌がらぬどころか
自ら悦んで受け入れてくれた。その度にそれが、恥ずかしいと同時に、少し嬉しかったのに。
「いらないのですか? でしたら私が食べてしまいますぞ」
「あ……」
言って東城は、箱の中の飴を一つ取ると、それを九兵衛に見せ付けるように口に入れた。程なくして、爽やかなミントのような香りが
鼻腔に届く。それは微かに、口腔内の違和感を微妙に和らげた。
「……そんな物欲しそうな顔をなさって……やっぱり、欲しくていらっしゃったのでしょう? 」
「……うぅ……」
飴を舐めながらそう言われ、彼の口が開くたびに香る匂いに惹かれたのは確かで、観念して九兵衛は手を伸ばした。……が。
「……ふぅっ!? 」
次の瞬間、その手を掴まれると、突然唇を彼のそれで塞がれ、
「……んんっ……!! 」
口の中に、舌と共に、それとは違う、硬い何かを入れられる。
それが彼が先ほどまで舐めていた飴玉だと気づくと、九兵衛はそれにしゃぶりついた。
「ふ……」
他人が口にいれたものを己の口に入れるなど、以前は到底考えられないことだったが、それでも……九兵衛はそれを汚らわしいとは思
わなかった。
「……んっ……」
差し入れられた舌と一緒に、彼と共に愛でるように硬い飴玉を舐め回す。
それから、実にその飴が完全に溶けきるまでの間、東城との長い接吻は続いた……。
「……はぁ……」
唇を開放されると、九兵衛は力が抜けたように崩れ落ちそうになる身体を、何とか腕で支える。
先ほどの長い口付けで、身体には確実に火が灯り始めていた。
もっと……熱くなりたい。
「東城……その、そろそろ、しないか……? 」
「おやおや、すっかりその気になってしまわれましたか。接吻だけで……」
「う……いいから、早く、……してくれ」
恥ずかしくなって顔を逸らしながら、それでも九兵衛は訴える。彼だけが、この行き場のない熱をどうにか鎮めてくれる。
「そうですか……そんなにして欲しくて堪らないのですか……。本当に、淫らな方ですなあ、若は」
「う……煩いッ! 誰のせいで……」
「ふふ……忘れてしまいましたか? 若は今夜はメイドさんなんですよ? 」
「……っ! 」
背後からかけられた言葉に、九兵衛は一瞬、きっ、と東城を睨み上げ、しかし、
「……お願い、です……ご主人様……熱くてたまらないんです……してください……」
羞恥に耐えながらも、それに勝る本能のままに、そんなはしたない言葉を紡ぎだす。
「そうでしょうねえ……」
「……っ! 」
言って東城は、九兵衛の脚を大きく左右に開かせた。
「触ってもいないのにこんなにされて……せっかくの服にまで愛液が垂れてらっしゃいますよ。これでは堪らないでしょうなあ……」
「あ……! 」
そしてその姿は、目の前の大きな鏡の前に映りこむ。
「ほら……見えるでしょう? クリトリスをこんなに勃起されて……」
「いっ……! 言うな……!! 」
東城の指によって開かれたその、九兵衛の最も秘められた部分が、彼女の目にもはっきりと映った。
今まで自分でも見たことのなかったその部分。桃色の肉壁を物欲しそうにひくつかせ、溢れる蜜に濡れた……九兵衛は恥ずかしさに目
を背けた。
「目を逸らしてはなりませんよ。きちんと御覧なさい」
しかしそんな九兵衛を、東城は背後から叱咤する。
「ほら……ここを、弄って欲しくて仕方が無いのでしょう? 」
「〜〜ッ!! 」
悔しいがその通りだ。こんな風に焦らされるのはもどかしい。
「頼む……みます、早く……! 」
「いいですよ」
何度も懇願して、漸く東城は頷いた。しかし。
「ご自分でなさってくださって」
「……え……? 」
続けて囁かれた言葉は、九兵衛が期待したものとは程遠く、思わず聞き返す。
「ほら、お辛いのでしょう? 私が見ていて差し上げますから」
「……お前がして……くれないのか? 」
「……駄目ですよ、若」
強請るように尋ねた言葉に、東城はきっぱりと、首を横に振る。
「ご主人様の手をわずらわせるおつもりですか? 」
「そんな……! 」
到底折れる気はないらしい。暫く経っても動かぬ男の気配に、焦れた九兵衛はついに、己の手をそこに伸ばした。
「……っは! 」
真っ赤に充血した肉芽を摘むと、その刺激に九兵衛の身体は跳ね上がる。最も敏感なその部分は、与えた刺激に快楽を超える痛みを覚
えた。加減が分からない。
「……っつぅ……」
それでも、その刺激だけでは到底満たされるはずも無く、九兵衛は恐る恐る、指を動かす。
「……は……ぁ……んぁぁっ……」
そうしているうちに、徐々に九兵衛の意識は快楽の波へと溺れていく。それでも東城はそんな彼女をただ見つめるだけで、何もしはし
なかった。だがその、全身を舐るような彼の熱い視線が、九兵衛を加速度的に興奮させる。
「ふっ……あ……あぁんッ……」
「ふふ……気持ち良いのですか? 若……瞳がとろんとして参りましたよ」
「んッ……きもちぃっ……とうじょぅっ……」
男の言葉に、理性の崩れかけた九兵衛は素直に頷いた。自ら弄び、快楽に酔う姿が鏡に映って目に入る。瞳を潤ませ、頬を上気させな
がら、大きく開かれた脚の中心を恥ずかしげも無く晒し、絶え間なく指でそこを愛撫する……その、余りに淫らではしたない姿ですら
、九兵衛をより昂らせこそすれ、最早現実に引き戻させる要因にはならなかった。
「そうですか……では、そこだけではなく」
「……あッ! 」
「ここも弄って差し上げた方が良いのではないですか? 」
言って東城は、九兵衛の手を取り、先ほどからとめどなく蜜を零している入り口にその指を導く。
言って東城は、九兵衛の手を取り、先ほどからとめどなく蜜を零している入り口にその指を導く。
「うぅ……んッ」
そのまま九兵衛は、東城の手が離れても尚、己の指を抜き差しするのを繰り返した。
「はぁ……あぁ……いぃよぅ……」
差し入れられた細い指に、肉壁が蠢き、纏わりつくのが感じられる。
もっと強い刺激が欲しくて、九兵衛は自らそこに挿す指の本数を増やした。
「んぅぅぅっ……はぁんっ……」
しかしそれでも――まだ、満たされはしなかった。
こんな……か細い指では到底、届かない。
次から次へと襲ってくる欲望は、更なるものを求めてくる。
「は……うぅ……とぅじょぅっっ……ぉねがぃ……もぅっ……れてっ……」
もっと――熱くて硬い、逞しいものでそこを貫かれたい。
九兵衛は、後ろからぴったりと己を抱きしめている男の、たくし上げられたスカートの中で時折押し当てられているそれに、焦がれて
どうにかなりそうになる。
「お願いッッ……とうじょぅ……ぼく、切なくて……! 僕……欲しいのっ……東城がッ……! 」
「……おやおや」
ふ、と笑みを零して東城は小柄な九兵衛の身体を抱えあげると、東城はいつの間にかすっかりと準備のなされたその部分を九兵衛に見
せ付けるように向き直らせた。
「若……これが欲しいのならばきちんとお願いしてみなされ」
「う……うぅっ……! 」
この場に来ても尚焦らされて、九兵衛は殆ど自棄になる。
「お願い……しますッ! 挿れてください……ご主人様を……僕の、ここに……」
最後の羞恥をかなぐり捨てて、九兵衛は己の鍵穴を広げて見せた。早くそこに、ぴったりと合う唯一の鍵を嵌めて欲しい。そうすれば
直ぐに、九兵衛は己の全てを解放することが出来るだろう。
「では若……挿れてくだされ。……ご自分で」
「……ッ!! 」
だがそんな姿を晒してみせても、東城は彼から動いてはくれなかった。
あくまでも――メイドである九兵衛が、自ら奉仕することを求める。
「……どうされました? 固まってしまって……ほら、欲しくて堪らないのでしょう? 私のもので、若の奥まで突かれたいのでしょ
う? 」
「くッ……ぅ、うぅ……」
そんな風に挑発されて、それでも狂いそうな程の熱に浮かされた九兵衛は、言われた通り立ち上がると、
「は…ぁぁあッ! 」
小さな身体を仰け反らせながら、ゆっくりと、自ら男のそれに腰を沈めた。
「ああ…は……んッ!! 」
ずっと待ち焦がれたものを銜え込んで、九兵衛の身体が悦びの悲鳴を上げる。
「あ…はぁ…はーっ……はーっ……」
そして、重力に従うままに腰を落とすと、漲る男の熱い楔は、確かに九兵衛の最奥まで貫いた。
「ほら……若……ぼーっとなさらないで……」
そうしているうちに、男の声が九兵衛の耳に、届いた。
「動いてくだされ」
「あ……ふぁッ……!! 」
腰に回された手の動くままに、九兵衛は身体を少し浮かせる。
「はぁ…! あぁんッ……! 」
そして今度は、自ら再び腰を沈め、
「あッ…! いぃッ……! すごひッ…!! 」
何度も、繰り返し身体を上下させた。
「あ……あぁッ! ふぅ…んッ! あ……あつぃッ……凄く熱いよぉっ……! 」
己の中を埋める狂おしい程の質量に、九兵衛は自然、身体が動いていく。もっと、もっとと絞り上げるように。
「は……あぁ、と……ぅじょうッ! もっとぉ……! 」
「ああ……若、凄い、ですね……こんなに、激しく腰を振って……」
「ふ……ぅん! らってぇぇ……きもちひぃッ……! 」
「……いいんですよ、若……。ほら、もっとご自身に素直になって……」
「あ……はぁぁぁッ! いぃよぉぉッ! とまらなぃのぉぉっ! 」
理性を忘れ、本能に従う獣のように、九兵衛はひたすら細い腰を振り続けた。
「く…ぅ、若、凄い締め付けですね……きゅうきゅうと吸い付いて……離そうとしませんよ……」
「うんッ! ……って、はなし……たくなひッ……! 」
「……わ……か? 」
熱に支配された今の九兵衛を制御するものなど、最早何もありはしなかった。東城の言葉に、堅く秘められた情熱が、綻びて溢れ出し
そうになる。
「は……あッ! とぅじょぉッ……!! ……っと、……のままッ……!! 」
――お前を離したくなどない。片時ですらも。
ずっと……ずっと側に繋ぎ止めておきたい。
「とぉじょ……きッ! ……く、……まぇが……ッ……!! 」
――東城。
お前が好きだ。狂いそうな程に好きだ。
細胞の一つ一つすらもが、こんなにも激しく、お前を求めている……。
「わか……? 」
激しい動きの中、熱に浮かされ呂律の回らぬ舌で紡がれた途切れ途切れの言葉は、聞いた側には意味を成さぬ仮名の羅列であろうが、
それでもそれは、包み隠さず曝け出された、九兵衛の本心に他ならなかった。
「ぅじょぉッ……! ……てぇッ! ……くぅッッ!! 」
「……若……ッく! 」
「……ふぁあッ!? 」
不意に側近く抱き寄せられ、九兵衛は驚く。
「んッ……ふむぅッ……!! 」
そして顎を大きく引き上げられたかと思うと、深く屈みこまれた東城に口付けられ、温かい舌が差し入れられる。
「……っは! あァッ! ふぁあぁんッ! 」
その一方で下からは東城に突き上げられて、二人の唇は刹那離れてはまた重なる。
「……ぉッ……とうじょッ……! ……くッ! っあ、もう、……っくッ!! 」
徐々に白くなっていく視界に、九兵衛は自身の絶頂が近いことを感じた。
「……かッ! ……かぁッ! 」
「あッ……はぁぁぁぁッ! っく! とぉじょ……ぃくぅぅぅぅッ!! 」
「……ぁぁッ! かッ……! ……ぃしてッ……!! 」
掠れかけた意識の片隅で、叫ばれたような言葉の意味は、しかし九兵衛には分からなかった。
「……ふッ……あ……」
ただぐったりと、糸の切れた操り人形のように東城の胸の中に崩れ落ちて、
「はぁ……はぁ……」
己の中に響いた、激しく何かが爆ぜる音を感じていた。
「……ああ、困りましたねえ……」
「……ん……? 」
下腹部の辺りから聞こえた声に、いつも以上に激しい運動の後の、気だるい身体を起こすと、九兵衛はそちらを見やる。
「ほら……破れてしまっていましたよ。若があんまり激しく動くから……」
「なッ……! 」
ひらひらと、ゴムの残骸を示してみせる東城の言葉に、九兵衛は青ざめた。
「そんな……一体いつ……」
「そりゃあ、挿れている最中でしょうなあ。私が抜いた後には、既に……」
「……な、それじゃあ……」
九兵衛はそれまで東城の手にしているものが入っていた場所を見やった。まだ胎内に残る生温かい感触。これは……。
「お、お前……! 途中で気づかなかったのか!? 」
「そんな事を言われましても……若の中が余りに素晴らしくて、私、それに夢中でしたから……」
「……ッ!! 」
東城のストレートな物言いに、熱が冷めた筈の身体が熱くなる。……否、今はそんなことを考えている場合ではない。
「まあ……仕方ない、だろう……」
「……え? 」
呟いた言葉に、東城は訊き返した。
「宜しいのですか? 」
「……何を訊いている。どうせお前は気にも止めていないのだろう。前に散々中に出した癖に」
「……はぁ、それは……まあ……」
歯切れの悪い東城に、九兵衛は苛立った。この男、わかっていないのか。自分が何をしたか――。
「……言っておくがな、東城」
「何でしょうか」
「僕はお前以外とは……こういうことはしてないんだからな」
「そうでしょうな」
きっぱりと告げた言葉の、その意図すらも通じないのか。東城は動じもしなかった。
「これだけ頻繁に私の所に訪れて……昼間とていつも私は貴女のお側にいるのですから。これで私以外の者と交われる可能性があった
ら驚きますよ」
「……。随分と、冷静だな……」
九兵衛は東城を睨みつけた。
――完全な避妊方法などないのだと、言ったのはお前の方ではないか。それとも……それで困るのは女である僕の方だけだから、自分
には関係ない、とでも……?
「後悔しても、知らんぞ……」
「私が、で御座いますか? 」
低い声で続けたそれにすら、東城は冷静さを崩さなかった。
「……まさか。後悔などしませんよ。何も」
「フン。どうだか……」
「私は若を信じておりますから。若はとても、優しいお方だと、よく存じておりますから」
「……何? 」
――どういう意味だ。
僕は優しいからきっと、こんなにも尽くしてくれるお前に酷いことはしないだろう、とでも?
「……お前に僕の何がわかる」
「おやおや、仰いますね。十八年間若にお仕えしているこの私に、若の何がわからぬと言うのです? 」
「フン……」
「若が何処をどうすれば気持ちが良いのかも、教えてくださったではありませんか……」
「……ッ! そういう、戯言はいい」
「若のことは私が一番存じておりますよ」
――それでもお前は知るまい。
僕のこの、狂おしいほどの、暗くも激しい情熱を。
「どうなされたのです? 先ほどから、怖い顔をなさって……」
「……」
――僕はきっと、お前を逃しはしない。
お前が僕を如何思っていようと。
他の誰にも、お前を渡しはしない。
それでも……後悔しないと、僕を信じられると、どうして言えようか。
そうして余裕溢れる、穏やかな笑みを浮かべていられるのも……今のうちだけだ。
「東城……」
九兵衛は自分でも恐ろしくなるその考えに、身体が震えた。
また……同じことを繰り返すつもりなのか。
こんな一方的な感情を押し付けて、相手を傷つけて……それで、何になる? 後悔と空しさ以外に残るものがあるのか?
「何でしょうか? 」
――ただ……好きなだけなのに。
たまらなく好きなだけなのに。
怪訝そうな顔をする東城の顔を、九兵衛はじっ、と見つめた。
本当に相手のことを想うのなら、その人の真の幸せを願うべきだ。妙との一件で、それを学んだ筈でもないのか。
「……いや、何でもない」
「ひょっとして、……若、私を脅してらっしゃるおつもりなのですか? 」
きょとん、とした顔で、東城は尋ねた。……今更何を言っているんだこいつは。
「脅しなんかじゃないぞ」
「……でしょうなあ」
半ば呆れたように九兵衛が言うと、しかし彼はそれも気にしていない様子で、
「そんな可愛らしいお姿で凄まれても……怖くなどありませんし」
笑みを浮かべながら鏡を指差した。
「……ッ!! 」
それを聞いて九兵衛がそちらに目を向けると、そこには先ほどまでの行為で乱れた、桃色のメイド服に身を包んだ己の姿があった。頭
にはぴょこん、と、猫の耳まで立っている。成る程、これでは真面目な話をしろという方が無理な話だ。九兵衛はこれだけ主人である
己に睨まれても全く取り乱さぬ東城の様子に何処か納得する。
「……そういえば、今夜は僕はお前のメイドさん、とかいう話だったのだな。途中からすっかり忘れていた」
「そうでしたねえ。そんなことは忘れて、一心不乱に腰を振られておられましたから」
「……っ! ま、まあいい……では、もう一度、致しましょうかご主人様? 」
「え? 宜しいのですか? 」
「フン、どうせご主人様は、一回でなど満足できない人でしょう? 」
「そりゃあねえ……でも」
「……っあ!? 」
己から誘っていながらも、言葉の途中で、不意に押し倒され、流石に九兵衛は驚きの声をあげた。長い金の髪が、九兵衛の顔にかかる
。
「もう……無理なさらなくていいんですよ。先ほどまであんなに素直でいらしたではありませんか」
「とう……ご、ご主人さ」
名を呼びかけたその唇を、指で塞がれる。
「今日は私の我が侭につきあって頂き有難う御座いました。若。本当に可愛らしいメイドさんでしたぞ」
「そ、そう……か? 」
「若……私は本当に幸せです。貴女のような素晴らしい主人にお仕えすることが出来て……」
「う……何だ、いきなり、面と向かって……」
「……先ほどは若に動いて頂いてばかりでしたからねえ。今度は私の番でしょう。本当は……」
「ひぁッ!? 」
突然胸元に手をいれられ、九兵衛は跳ね上がりそうになる。
「何処もかしこも、触って欲しくて仕方なくていらしたのでしょう? お胸も、お腹も、お手も、指も、おみ足も、お尻も……若の一
番大切なところも」
「……! 」
耳元で囁かれた甘い声に、びくん、と身体が震えた。
「いいんですよ、もっと私に甘えてくださって……」
「……と……うじょう……」
「主人を満足させるのが、従僕の務めですから」
そんなことを言われつつも施された愛撫を受けながら、九兵衛の身体に再び火が灯っていった。
次の夜九兵衛は再びその部屋を訪れて、しかし灯りのともっていないことに気づく。
「あ……」
微かに声を漏らしならが思い出す。そこに部屋の主がいるはずもないことに。
その日東城は、朝から出かけてしまっていた。彼の実家の母親が急に体調を崩したとかで、そちらに行っているのだ。突然のことだっ
たので、帰りが何時になるかは分からない。
今日のことだ。そんなことは知っていた筈なのに、自然足が向かっていたことに羞恥を覚える。最早彼との夜の生活は、九兵衛にとっ
て日常の一つになっていた。
「……」
誰もいないその部屋に、九兵衛は黙って侵入すると、灯りをつけた。静まり返ったその部屋は、妙に広く感じる。
今夜はここで寝てしまおうか。ふと九兵衛はそんなことを思い立って、昨日も寝たその布団を畳の上に敷いた。
東城の匂いの染み付いたそれに身を包むと、彼に抱かれているような気分になる。けれども今は足りぬ温もりに、九兵衛は寂しさを覚
えた。……何を考えているのだ、どうせ奴は数日で戻るだろうに。
眠りにつくにはまだ早い時間。中々寝付けぬ九兵衛はふと、枕元の小物入れが目に付いた。何だろう、思って彼女はそれに手を伸ばす
。他人のものを勝手に漁るのはあまり褒められたことではないが、あの男が普段己にしていることに比べれば可愛いものだ。そんなこ
とを考えながら開けてみると、そこには紙の小箱が数個、入っていた。美しいデザインのそれが、しかし何なのか分からない。妙なこ
とにそのうちの二つが開封されていた。その一つを開くと、中には更に個装された小さな袋が幾つかあった。それでも九兵衛はまだ、
それの正体に気づかなかった。
「……っ! 」
そのうちの一つを開けてみて、漸く九兵衛は理解する。見慣れた色のそれが、普段彼が使っている避妊具であることに。
――こんな風になっていたのか。
如何いう仕組みなのか、縮こまっているそれを伸ばしてみれば確かに適度な大きさの袋状になるのを見て、九兵衛は妙に感心する。
何度も関係を持ったにも関わらず、彼がその袋を開封し、それを身につけるところを、今まで九兵衛はまともに見たことがなかった。
いつも散々身体を熱くされて、いつの間にか彼がそれをしているという寸法だった。その度に彼のその手馴れた様子に悔しさを覚えて
いた。
しかし一方で、こんなゴム越しでなく、直に彼のものに触れたいと思う自分があった。初めての夜に体験した、あの彼と身も心も一つ
になるような感覚を、もう一度味わいたい……。
そんなことを考えたところで、九兵衛は頭を大きく振った。――何を考えているんだ。
それに、と、九兵衛は思う。そんなことを感じたのは、多分自分の方だけ、だ。彼の身体だけでなく、心までも手に入れられた、など
……自惚れにも程がある。悲しいほどにそれは事実だ。
……否、こんなことを考えるのはよそう。思って九兵衛は、己の心のうちから意識を逸らす。そしてそれは自然、彼女が手にしていた
物に向かった。それにしても、よくこんな小さな袋に入って……。
「……ん? 」
その袋を弄っている指先に、九兵衛は妙な違和感を覚えた。平坦な袋の表面が、その部分だけ妙にざらつく。
「……? 」
不思議に思ってその部分を目に近づけてじっ、と見つめてみると、
「……ッ!? 」
沈んでいた九兵衛の心は、一気にざわめいた。
「……な……さ、か……」
はじめそれは、極稀な欠陥品が紛れ込んでいるだけなのだと思った。否、そう思いたかった。しかし、恐る恐る探った箱に残っていた
小袋全てに、その傷がついているのを見て、それは打ち砕かれる。
「まさ……か……」
ありえない、そんなことは。思う九兵衛の目に、先ほど開封した未使用のそれが映った。思い違いだと信じたい一心で、九兵衛は部屋
に備え付けてある水道の蛇口をひねると、そこにそれをあてがった。
「……!! う、嘘……だろう……? 」
だが幾らそこに水を注ごうとも、それは先端から漏れ出るばかりで、袋の中に一向に溜まりはしなかった。
世間知らずで、性に関する知識も余り豊富とは思えぬ己でもそれが何を意味するのかはわかる。これでは、この道具はその意味をなし
えない。
それは不良品で済む事態では無かった。こんなものが市場に出回っている筈がない。否、万が一出回っていたとしても、あの慎重な男
がそんなものを掴むだろうか。
そう――何者かが、故意にそれを破壊したとしか思えない。
その光景を確かに目にしても尚、それは九兵衛には俄かに信じがたいものだった。
が、それが事実なら、あの男はこれまで――。
「……っ! 」
九兵衛は思わず己の腹に手を当てた。激しい恐怖が込み上げてきて、全身が震え上がる。まともに呼吸が出来ない。
信じたくはなかった。そんなことを。
しかし、目の前で起こった現象の前に、それを否定できるものは、最早何も残っていなかった。
彼ではない第三者の仕業ではないか、ふと浮かんだ考えに、縋りつこうとしてそれはしかし直ぐに泡と消える。既に残り少ない箱の他
に、内容量通りの数が入っている開封済みの箱があるのがいい証拠だ。何でも密封されたものを開いてしまったら、その瞬間から腐り
はじめると思っているきらいのあるあの神経質な男が、そんな開け方をするとは思えない。一つを使い切ってから開封する筈だ。他人
が勝手にそんな開け方をしていて、彼が気づかないというのはあまりにおかしな話だ。だが彼が、その普段の彼の習性以上に――例え
ば、一夜のうちに一箱目を使い切ってしまったとき、新たに欠陥のない新品を開封させるのを躊躇させる理由があったのではないかと
、そう考えればこれ程自然なことはない。
思えば昨夜の彼とて不自然だった。大して困っていないような顔でのほほんと、破れてしまいました、などと言っていたが、幾ら避妊
に対してあまり積極的でなかったと言っても、曲がりなりにも己の身体の、それも一番デリケートな部分に挿入されていた物体に欠陥
が見つかって彼が黙っているはずがなかった。うちの大事な若のお体に傷でもついたら如何してくれると、製造会社にクレームの電話
でも入れかねない、そんな男だ。一見温厚そうな容姿をしている癖して、己のことが絡むと直ぐに短気を起こす、そんな彼を今まで何
度も見てきたではないか。だが昨日のあの様子では、そもそもあれすらも事故であった可能性は低い。
そう――全て、彼が仕組んだこととしか、考えられなかった。
――嘘だろう、東城。
嘘だと言ってくれ。
これは夢だと、悪い夢なのだと――!
愕然として九兵衛は項垂れる。
「ど……う、して……」
身体中を巡った震えは一向に止まらず、かみ合わぬ歯がかちかちと鳴る。
九兵衛は暫く、何も考えられはしなかった。
そのまま彼女の思考が止まってしまえば、まだそれ以上の不幸は訪れなかったのかもしれない。
だが長い夜の静寂が、徐々に九兵衛の意識を冴えさせる。
己が目にした、確かな事実。唯一残った右目だけの視覚を、この時ほど呪った事はなかった。けれどもそれから、逃げることは出来な
い。今、己の身に起こっていることから。
これまで東城が使っていた避妊具に細工を施していたというのなら、何の為に彼はそんな事をしたのか。
その意図は明確だ――そう、己を妊娠させるため。
思えば彼は、初めから己に対して最も妊娠のリスクが高い形で射精していた。それも、何度も。
それは彼が、今までそういった目的とは無縁の性行為ばかりしてきたからだと思っていた。しかし知らぬ筈がない。確実な避妊方法な
ど無いと、己に言った他ならぬ彼が、その行為が本来子を作るためのものであることを。今にして思えば、あの言葉もカモフラージュ
の一つだったのだろう。そして昨夜の様に時折、避妊具も壊れることのあるように見せかけるような細工をして、さも妊娠が発覚して
も不自然ではないような状況を作り上げてきたのだ。全ては、彼の計画通りに進んでいたのだ。
だが何故彼は、こんな強引な手段をとった? 己に何の相談もせずに、己の意思がどうあっても、関係ないといわんばかりに捻じ曲げ
るようなやり方を。こんな――己に対する裏切りにも等しい方法を。
果たしてどうなる。今己が彼の子を身篭れば――。
「……っは! 」
そうして静かに思考を巡らせているうちに、九兵衛はある考えに至る。
そうだ。それは今まで己が、何度も思い、その度に自責の念に駆られたことに他ならぬではないか。
今や彼は、一門の中でも己の公認の愛人も同然だった。己が妊娠すればそれは彼の子だと、誰もが思うことだろう。だからこそ一生彼
を束縛することが出来る、そう思っていた。だが考えてみれば、それは己とて同じではないか。尚且つ彼の方が立場は弱いのだ。彼か
らすれば、元々仮初に過ぎぬこの関係、己に適当な時期が来たと判断されれば簡単に切られるものと、そう考えられる。それ故に、そ
うなる前に何としても逃れられぬ既成事実を作ってしまおうと、そう思ったのでは――。
そして恐ろしいほど、己が悪魔の所業と、何度も否定しようとしたそのことに対して彼には躊躇がなかった。
まるでそこに、人間らしい感情など一切存在しないかのように。
それは彼を愛しているが故にそんな考えを持ち、そしてまた愛しているが故に思い悩んだ己とは明らかに異質なものだった。己の中で
は恐ろしい想像でしかなかったそれを、計画性を持って実行していた。
心を捨てて、彼がそんな行動にでたのは。そこまでして、彼が己と結ばれようとしたその目的は。そこまでして、彼が己に求めたもの
とは。
思い当たる理由が、一つだけあった。決して行き着きたくはない理由が。
「あ……あ……」
それに気づいた瞬間、九兵衛の意識は再び白く染まった。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁッ!! 」
やがてそれは、夜の静寂を切り裂く絶叫へと変わる。
心が張り裂けて、壊れてしまいそうだった。
「あ……は……ぁ、はぁ……」
息が切れるまで叫び続け、そして漸く途切れても、荒くなった九兵衛の呼吸は中々静まらない。
「はぁ……は……っ、……ぅっ……」
そのうちに大粒の涙が、ぽたぽたと零れ落ちる。だが九兵衛には、それを拭う気力すらなかった。
――信じていた。
例え女として愛されなくても、彼は己を主人として大事に思っていてくれているのだと。ずっとそれは変わらぬのだと。
己がどんな道に進もうとも、彼はついてきてくれると。例え世界の全てを敵に回しても、彼だけは己の味方でいてくれるとすら。
彼が己に示してきた愛情と忠誠は、天地逆になろうとも決して揺るがぬものと信じていた。
己が何をしても彼は裏切らないと、傲慢にも近い信頼を置いていた。
それなのに。
それすらも……それすらもまやかしだったというのか。
「っ……く、ひっ……く……」
心から抱かれたいと思った男は東城一人だったが、別段彼に頼み込まなくても、九兵衛の恋人になりたいと言い寄ってくる男は門下生
の中に幾らでもいた。
あの一件で己が女と知れて以来、彼らは己に甘い言葉を囁き続けた。初めて貴女を見たときから、一目で恋に落ちた、などと言ってき
た者すらいた。
だがそれまで男として振舞っていた己を女と知るや否や掌を返すように態度を変えた彼らが、己に何を求めているかなど九兵衛にはわ
かっていた。だからそんな言葉になど、一度も耳を傾けなかった。
女の身でありながらこの名門柳生家の後を継ぐ事の約束された己を羨む者は多くいた。継ぐべき家のない者達だ。それ故彼らは女子の
九兵衛を如何にかして口説き落とそうと躍起になっているのだ。生まれた時から一国一城の主となる夢を持つことの出来なかった彼ら
が、最後の逆転をして返り咲くために。彼らが見ているのは九兵衛自身ではなく、柳生家の令嬢である彼女だけだ。そして一旦己の婿
になってしまえば、男である彼らが女である己を支配するのも道理だと、そんな己を侮る野心すら透けて見えた。そのような連中を如
何して異性として見る事が出来ようか。
だがそんな男達に己が言い寄られるその度に、腰に差した真剣に手をかけ、細い目を見開いて脅しをかけて追い払う東城を見て、彼は
その男達とは違うのだと思っていた。彼は己が女であることを確かに認めながら、それでも父の言いつけ通り男として強く成長してい
くのを、温かく見守りながら応援してくれた。共に剣の修行に明け暮れる一方で、一年に一度、己を女の子にしてくれた。
けれど所詮――それは己を油断させ、彼に心を許させるための策略に過ぎなかったというのか。
己は彼らを、己を一人の意思をもった人間としてすら見ていないと軽蔑していた。だが知らなかった。本当に人でない扱いを受けると
いうのがどういうことか。それを己を一番尊重してくれていると思っていた男に思い知らされるとは。
「……っ、ぁ……」
妹のように娘のように、大事にしてくれているのだと信じて疑っていなかった彼が、まさか……こんな形で己を欺いていようとは。こ
れでは道具扱いも同然だ。己の感情など一切構わず、彼がこの柳生でのし上がる為に利用される道具のようでしかない。
道具とて長い事使っていれば、それなりの愛着ももてよう。物言わぬ人形を、とっかえひっかえ綺麗な服に着せ替えさせて、可愛らし
く髪を結って、思い思いのポーズをとらせて愛でる。人はそれを愛情と呼ぶだろう。だがそれは、所詮心持たぬ道具に対するものでし
かなく、決して人間に向けられたものではない。
己が感じていた彼からの愛情など――その程度のものだったのだ。
不意に若、と、何度も己の名を呼んだ声を思い出す。時に愛しげに、時に熱っぽく……。何度そう叫びながら、彼が騒動を起こしたか
しれない。その度に頭を抱える一方で、九兵衛の為なら己の身を省みない彼に、仕方のない奴だと、密かに微笑みながら息をついてい
た。
だがそれこそ彼は、所詮己が柳生家の若君だから大事なのであり、可愛いのだろう。
「ふ……ぅっ! っく……! 」
――悔しい。悔しい。
こんなにも愛しているのに。苦しいくらい愛しているのに。彼にこんな形で裏切られるなんて。
これは報い、なのだろうか。
己の立場を利用し、彼を縛ろうとした事に対する――。
「……っは! 」
――そう、だ。
何を悲嘆にくれている。
どんなに嘆いてみせたところで、所詮己は悲劇のヒロインにはなれぬのだ。そうして可哀想な自分を演じて見せて、王子様の慰めを乞
うには、己は余りに汚れを知りすぎた。
形がどうあれ、己が彼との間に子を成せることを、己が女であり彼が男であることを初めに利用したのは、他ならぬ己の方ではないか
。
最初から――この関係が愛に変わることなど、ありえなかったのだ。
「……ん? 」
この部屋を訪れてからどれ程時が経っていたのだろうか。九兵衛は薄手の寝間着がちかちかと光っていることに気づく。
懐から携帯電話を取り出し、視線を落とすと――
「……っ! 」
きっちりと五分置きに、数十件。着信が入っている表示があった。
奇しくも、相手の名は――
「! 」
その時再び、携帯が鳴った。
「……。……僕だ」
九兵衛は静かにボタンを押すと、酷く落ち着いた、低い声でただそう答える。
「ああ、良かった。漸く繋がって……。若、一体何処におられるのです? お部屋の方にかけても一向に繋がらなくて……」
受話器越しに聞こえた、少し高めのその声は、今最も聞きたくなくて、同時に最も聞きたい声でもあった。
「……何の用だ。こちらの都合も考えず、こんなに何度もかけてきたからには、それなりの用なのだろうな? 」
「いえそんな、用という程ではないのですが……」
電話の声がうろたえていた。この男の心配性など今に始まったことではないが、それでも詰らずにはいられなかった。
「こちらの方のことです。母の身体の方は大したことはなかったのですが、家の者とのことでちょっとごたごたしてまして、申し訳な
いのですが、まだ帰れそうになくて……無論、なるべく早く片付けて、一刻も早く戻るつもりですが」
「……るな」
「え? 」
「帰ってなどこなくていい。永劫にな」
「……若? それはどういう……」
「……」
あれ程泣き喚き、己の中にはまだこんなにも激しい感情が渦巻いているというのに。九兵衛の声は自分でも恐ろしいほど静かだった。
「二度と僕の前に姿を見せるな。この痴れ者が」
「若……!? 何を仰っ」
「貴様など……大嫌いだ。顔も見たくない。何処へでも消えてしまえ」
「若!? わ……」
受話器の向こうで続いていた声を無視して、九兵衛は機械のように淡々とした動きで、電話の電源を切った。
彼との関係が、静かに、しかし確実に崩壊していく。
それを感じながら、九兵衛は思った。何も嘆くことはない、と。
これが終わりなのではない。己と彼との間には、始まりすら存在しなかったのだから――。