夜になると昼間以上に活気づく歌舞伎町。  
その一角に構える華やかなキャバクラ、スナックすまいるの客足は今日も非常に芳しい。一度店内に足を踏み入れれば、けばけばしくない程度の照明の中で和装の見目麗しい女達が水面下の内に火花を散らしつつ  
――時々思いきり表に出ているがそれは見て見ぬ振りをするのが良策である――癒しを求める男達の相手をしている。  
「もォ〜〜やだァ〜〜旦那のエッチィ!」  
語末にハートを沢山つけたような白々しい調子で客を煽てながらどんどんどんどん酒を注いでいく巫女装束の、言葉とは裏腹に清楚な容姿のホステス。  
彼女の名は阿音。過去には実際に巫女をやっていたし、今でも再びなれるものならなる予定である。  
スナックのナンバー1、2を争う程の売れっ子で、遣り方はかなりあざといがそれに簡単に絆される客の数は半端ない。  
そして今宵もベタベタと彼女にすりより、尻や腿を撫でているいかにも金持ちそうなでっぷりとした男が居るが数時間後には財布はすっからかんになっていることだろう。  
「もうホンット使えない部下ばっかでよォ、やってられねえ。どうにかやってけるのは阿音ちゃんの優しさあってだよ全くー。」  
と口にしながらも彼女の腰周りや臀部を撫で回す。  
それでも阿音は平然と微笑み調子を合わせて声高に答える。  
「全く、仕事出来ない癖に旦那に雇って貰えてるだけで感謝しろって話だよねェ〜〜〜。」  
女から見れば全くその言葉にも態度にも“本当”が存在しない事も分かるし、男のほうも分かっている筈だ。  
それでも夜に騒めく束の間の悦楽は真実よりもずっと価値があるのだ、この町では。  
しかし中には、金を代償に得る一時的な酒を介しての愛と本当の気持ちとを、酔いの所為か単にのめりこみすぎたのか履き違えてしまう客も少なからず存在する。  
そして今宵その手の客は、阿音の目の前に居たのだ。  
 
「阿音ちゃーん俺のストレスを癒してくれるのは君だけだよー」  
男の癖に情けない、甘えた口調。  
内心嘲りながら阿音は笑って答えを返そうと口を開いたが、それが紡がれることはなかった。  
というのも、途端に男が背に腕を回して唇を彼女のそれに寄せてきたからだ。  
「あ、ちょっと……!」  
頬位なら気持ちは良くないが気前の良い客には許してきた。  
身体を触るのも別に減るものでもない、と巫女らしからぬ堂々たる構えで阿音は気にしなかった。  
だがいきなり唇を奪おうとする者など仕事では初めてで、男の顔が眼前に迫ってきても四肢が強張り何もできなくなってしまったのだ。  
 ――……嫌……――  
胸に込み上げる嫌悪感に反して、身体は動いてくれない。  
共に席に居る男の連れの客や彼らをもてなす為に阿音の傍にいる他のホステス達も目を見張っているだけで何も出来なかった。  
もう絶望的な程距離が近くなったその時である。  
 
 
   ドゴォォォォォン!!!  
突然のけたたましい物音と同時に、阿音の目の前から男の姿は消えていた。  
「……え、……?」  
パラパラ、と何かが剥がれるような音がする。  
その方角をぎこちなく見遣った彼女の眼に飛び込んできたのは壁に顔から見事に突っ込み、  
めりこんでしまっている男と壁の破片が舞い落ちる様。  
そして晴れやかな笑みを浮かべているというのに金剛力士像顔負けのオーラを纏い、鬼神のような気迫をも発している、  
阿音と人気を二分するホステス・志村妙が拳をぼきりばきりと鳴らしている光景だった。  
 
「お……お妙……?」  
信じられず、目を見張る阿音やその他の者達を尻目に妙は既に失神寸前の客に微笑みながら語りかける。  
「お客さん駄目でしょう?唇はね、女の子がイブだった頃の名残なのよ。」  
「なんで急に聖書ォ?!」  
「因みに男のほうは勿論アダムの名残よ。」  
「聞いてねーよ!!つか名残も何もそのまんまだよ!」  
妙が言葉を口にすると普段通り元気に突っ込みを入れてくる阿音に、投げ飛ばした客に目もくれず妙は笑みを湛えたまま問いかけた。  
「大丈夫?阿音ちゃん。」  
「っ……え、ええ……大丈夫に決まってんでしょ。」  
優しげな声色で聞かれ、阿音はばつが悪くなりやや吊り上った切れ長の瞳を逸らして答えた。  
そう、と安心したように答える妙に借りを作ってしまったことに阿音はどういったら良いのかも分からず黙り込み、  
逆に当の妙は何を考えているのか分からないものの菩薩ような笑顔を見せるだけであった。  
 
 
日付はとっくに変わり、今日の仕事は終わりだ。  
誰かと談笑している内に朝日でも昇るだろうという時刻、漸く歌舞伎町は一時の静けさを帯び始める。  
そしてスナックの中からは客もホステスも帰り始め、先ほどまで酒を飲んで騒ぎ立てていたのが嘘のように空虚さがスペースを陣取っている。  
阿音は普段と違い、もやもやとした釈然とし得ぬ気持ちを抱えて店を後にして外を歩き始めている所だった。  
――あの女に助けられるなんて……一生の不覚よ。大丈夫じゃないわよ、お得意様減っちゃうじゃない。  
口だって別に減るもんじゃないのよ、後で洗えば良いっつーのよ。ホント、わけの分からない女……何考えてんだか――  
「別に大したことは考えてないわ。」  
「いやいや、絶対胸に一物あるわよ奴は。まな板でも。……ん?奴?」  
当たり前のようにすんなりと自分の心の声に返ってきた言葉につい返答してしまった阿音が遅蒔きながら違和感を覚え、  
冷や汗をかきながらバッと振り返るとそこには常と変わらない微笑を見せている妙が佇んでいた。  
「ちょっとォォォ!!アンタなに後ろから人の心の声盗み聞きしてんの?!」  
「だって阿音ちゃん全部声に出てたもの。まな板って何かしら?」  
「……失礼。まな板はただのまな板よ。」  
 ふん、と鼻先で息を落として皮肉げな言葉を返した阿音を一度静かに見つめてから、妙は続ける。  
「本当に大した事は考えてないわ、阿音ちゃんがいくらお客相手だからって口吸いされそうになってるの見て腹が立っただけ。」  
「口吸いって表現なんか古ィーよ!大体なんでアンタが腹立てる必要があんのよ。  
本当に訳が分からないわ。大体あれよ、誰も助けてなんて頼んでないのに。キス位で唇が減るわけじゃあるまいし、迷惑だっつーの。  
こっちは本気で苦しい生活してんだから客減らすような真似しないでくれないかしら。  
アンタが何かされたってんなら勝手にすれば良いけど私のことは放っておいて。」  
 阿音は、不本意とはいえ助けられたというのに我ながら憎々しい口を利くものだ、  
と呆れたが一旦言い出せば止まらない。  
わざわざ冷静にならなくとも自分の言葉が如何に酷いか理解は出来ているが、それでも最後まで言い切ってしまった。  
 
「……。」  
一刻の間、肩にのしかかるような沈黙が幕のように落ちる。それをたおやか且つ静かに破ったのは妙だった。  
「阿音ちゃん、そんなに私が嫌いかしら?」  
「……は?」  
「嫌いなの?って聞いてるの。」  
何を言っているのだこの女は、と阿音は疑念を隠せない懐疑の眼差しを妙にぶつける。  
それでも視線の先の顔からは既に笑みはなく真面目と思える表情があり、一瞬阿音は面食らったが、また直ぐに思い直した。  
――……いやいやいや、あの時だってこんな顔してたわよ。勝負降りるとかぬかした時だって。騙されないわよ……――  
「……嫌いに決まってるでしょ、なんでアンタみたいな腹黒い女に他の子が寄っていくのかも皆目見当がつかないわ。」  
「私は口が悪くて強欲で超現実主義者で損得勘定ばかりで巫女萌えを利用しまくってるあざとい阿音ちゃんが嫌いじゃないけど。」  
「オイィ!一言どころが熟語つきすぎてどれが一番言いたい事なのか最早わかんねーだろーがよォ!!」  
 妙の長い台詞に声を荒げて突っ込む阿音に構わず、妙は一息置いて続けた。  
「あのね、こーんなに性格が悪い阿音ちゃんを嫌いになれないのはね。本当に頑張り屋さんだってことも知ってるからよ。  
あの時私が言った事、今更弁護する訳じゃないけど半分は本当だったのよ。」  
ありありと思い浮かぶ、二人が自分の首を賭けて戦うことが決まった夜、妙にまんまと懐柔されかけた際の台詞。  
一時阿音は絆されてしまったが、今考えてみれば忌まわしい記憶に違いなかった。だから、阿音の態度から棘は消えようとしない。  
「別に根に持っちゃいないわよ、お互いの生活かかってたんだから。」  
「そうね。阿音ちゃんのそういう実はサッパリした所も知ってるわ。」  
 阿音の言葉を妙は一笑しながらすんなりと受け取る。その態度は逆に彼女の苛立ちを増した。  
「ああもう!なんなのよアンタ、何が言いたいの?助けてくれて有難うとでも言って欲しかったの?そうならそうって言いなさいよ、言ったって減るもんじゃないし言ってやるわよ。」  
 
「違うわ。」  
 一つ、凛として妙の否定の言葉が響いた。阿音の怒声の勢いをその一言で相殺し、妙はす、と相手に歩み寄り二人の間にあった距離を埋めた。  
「もっと自分を大切にしなさいな。貴女は良くても、私は良くないの。」  
 妙はまっすぐに阿音のすっかり当惑しきった顔を正視しながら、その頬に片手を添える。  
「頑張っている貴女を肯定して、認めている人間が居るんだから。自分を安売りしちゃ駄目。」  
「…何、言って……。」  
 惑いの表情で言葉に詰まる阿音だったが、気がつけば怒りも消えて、ただ唖然としている自分が居る。  
妙の言葉は湖面に一つだけ滴り落ちる雫のように阿音の心に入り、広がる波紋のようにゆっくりと浸透していくようだった。  
 
表の顔と裏の顔を使い分け、徹底して自分をフルに売り込み客から金を得る自分。  
なりふり構わない自分。  
それでも全ては努力なのだ。  
だが殆ど養っている状況の妹でさえ、勿論彼女なりのポリシーがあるといえばあるとはいえ認めてはくれない。  
誰も理解などしてくれてはいないと、思っていた。淋しいと思ったつもりはなかったのに、何故か言い返す言の葉も出ない。  
「知ってるから、店ではライバルでも、阿音ちゃんのこと嫌いにはなれないわ。」  
 妙はそう続けると、動かずに少しだけ俯いた阿音に顔を寄せた。  
「……え?」  
胸の奥が熱くなるような、そんな気持ちを覚えたのはどれ位ぶりだろう。  
そう感慨に浸っている阿音だったが、眼前間近に妙の瞳が見えると何が起きたのかも分からず間の抜けた声をあげ、そしてそのまま機械がゆっくりと停止するように彼女は硬直してしまった。  
唇にふわりと柔らかく温かいものが重ねられ、そのまま辺りの音が完全に途絶えたかのようにその空間は当事者にとってのみ無音の世界と化した。  
 
「……、……。」  
 実質的には数秒間、という程度の時間だった筈だがそれでも阿音にとってはそれは何分間にも及んだ出来事であるように思えた。  
紛れもない、妙の唇が自分のそれから漸く離れてまた少しの間をおいて阿音は遅蒔きながら何がおきたのかを理解した。  
「あッ……あああアンタ何してっ……!」  
「あ、言い忘れたけど一人よがりで自分の領域に入ってこられると滅法打たれ弱い所は好きよ。」  
「だから何よそれ!ちょっと妙!」  
「じゃあ、また明日お店でね。」  
 完全に自分のペースを崩すことなく笑顔で、沢山の疑問だけを土産に自分の帰路を目指しその場を速やかに後にした妙を阿音は呼び止めたが無駄だった。  
 
「………なんなのあの尼ァァァ!!!!」  
 思わず絶叫し、人通りが減ったとはいえ特別少ない訳でもない通行人に目を向けられるが、それすら構っていられない。  
阿音は自分の口唇に触れ、つい先刻の事件を思い返す。  
 
――……何あれ?え?なんで?――  
 混乱の只中で、阿音は自分の胸から高らかに早鐘を打つ心音を聞いた。  
それが更に彼女を深淵へと誘う。  
何故自分が高揚しなければならないのか。胸が高鳴っているのはどうして?と。  
 
疑問と当惑を抱え、悶々とした気持ちで阿音は家路を辿る。  
自分の顔が、これまでになく紅潮した女らしい生きた表情をしていることには気付く事なく。  
 
 
 
        完  
 

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