逆さまに映る空を見ながら、どれぐらい時間が過ぎたのだろうかとぼんやり考えていると、身体の上に圧し掛かっていた沖田が小さく呻き声を洩らした。  
 どうしたのか、と聞くと、平素よりも大分力のない声が返ってきた。  
「背中が痛ェ・・・」  
「リウマチかヨ。若いくせに情けねーナ」  
「誰のせいだと思ってんでィ」  
 改めて沖田の顔を見ると、明らかに責めている眼でこちらを睨んでいくる。  
え、私?何もしてないアルヨ。  
弁明すると、身体の脇に落ちていた左手を掴まれて、目の前に差し出された。  
 自分の手を間近に見せられても、なんら感慨を覚えるわけでもなく、訝しげな目線を沖田に送る。すると沖田は顎をしゃくって神楽の白い指先を指し示した。そこでようやく合点がいった。  
 小さな爪にうっすらと、血がこびりついていた。「真っ最中」に必死になって何かにしがみついていた記憶があるのだが、どうやらそれは目の前の奴の生身の身体だったらしい。  
 
「人の背中バリバリ引っ掻きやがって」  
「ウルセーナ。やめろって言ったのに聞かなかったおまえのせいアルヨ。自業自得ネ」  
「あの程度で音をあげるテメーが悪いんだろィ。ヤラシーねィ、旦那に言ってやろーっと」  
「ちょっ・・・やめろヨ!殺すぞ!」  
 相変わらずのどこまで冗談なのかわからない口調だったが、神楽は本気で焦った。冗談半分の戯言も時に本気で実行するのが、沖田という人物である。  
 銀時に自分のやっていることを面白おかしく喋られでもしたら、明日からどんな顔をしてあの万屋一家で暮らせばいいというのか。  
 冷や汗をかいて慌てる神楽を、沖田は冷めた眼差しで見ていたが、やがて起こしていた頭を神楽の顔のすぐ脇にぽて、と落とし、「言わねーよ」とどうでもよさそうな声で言った。  
 
「あー、背中痛い・・・・」  
 チャイナ娘に傷物にされたー、もうお婿にいけないー、とぶつぶつ呟いていたが、神楽は無視して沖田の下から抜け出した。こいつの戯言に付き合っていたらきりがない。いい加減に帰ろう、と身を起こしかけたが、ふと宵闇に白く映える沖田の背が目に止まった。  
 う、と言葉に詰まった。  
痛い痛いと騒ぐだけのことはある。本当に痛そうだった。  
 色素の薄い肌のあちこちが、蚯蚓腫れで暗くてもわかるほど赤く腫れ上がっている。内出血でくっきりと赤い線が浮かび上がっている箇所もあるし、皮膚が破れたところは血が滲んでいた。  
 特に肩甲骨の辺りはまだ出血が止まっていない傷跡が何本も走っていて、ひどい有様だった。しばらく服を着るだけでひりひりと痛むに違いない。  
 自分の手に目を落とした。新八がうるさく言うから、爪はきちんと手入れして短く切りそろえている。それでも人間の皮膚を破って、血を流させるのは生来持つ夜兎の力のせいだった。  
 指先をちろり、と舐める。金気臭い血の味が、舌をぴりと刺激した。  
 
 神楽は沖田の背に覆いかぶさるように身を屈めた。うつぶせに寝転ぶ身体の片側に手をついて身を支え、もう一方の手をそろりと赤く腫れた皮膚に這わせた。  
「・・・何やってんでィ、チャイナ」  
「いいから、ちょっと黙っとけ」  
 指で軽く押さえると、それだけでじわ、と新たな血が滲み出してきた。その血が膨れて赤い玉となり、自らの重みに従って流れ出す直前、神楽は顔を寄せて舌を差し出し、傷ごと血を舐めとった。  
 突然の予期せぬ刺激に沖田の身体が波打った。身を起こしかけるのは押し止め、今度は内出血で赤く染まった皮膚の線をそっと舌を這わせる。  
「っ・・・・・、おいチャイナ」  
「こんなもん、舐めときゃ治るアル」  
「どこまで野生にかえってんだ、このマウンテンゴリラ・・っ、ちっとは・・・・・文明ってもんに理解を示せ・・・・っ」  
 減らず口を叩く沖田だが、少し乱暴に傷口を舐めると痛みに身体を強張らせた。  
神楽は一向に行為をやめる気配はなく、沖田は言うだけ無駄だと悟ったのか、再び顔を地べたに伏せた。  
 
 神楽は下のほうから首にかけて順番に、丁寧に傷口を舐めていった。沖田の血は最初に舐めたときと同じく金属の匂いがし、汗が混じっているせいか少し塩辛かった。  
 普段なら生理的嫌悪感を感じてもいい筈なのに、やめる気にはなれなかった。正体を失くしている間の行為とはいえ、ひどい傷をつけてしまったという罪悪感と、相手を労わる気持ちはもちろんある。しかしそれ以上に舌を刺激する血の味は、脳を痺れさせるほど甘く感じられた。  
 一滴舐めるごとに、理性が磨耗していく。自分が必死の思いで築き上げてきた力の抑制がぼろぼろと剥がれ、奥底に潜ませていた本能に火がつくのがわかった。  
いや、もっとずっと前から気づいていた。こいつに触れられたときの意識の高ぶりは快楽から得られるものだけではなく、戦闘中に感じる高揚感と同じ熱さで理性を麻痺させていたこと。  
 自分の本能は戦闘行為に深く根ざしていて、沖田の前で自分を曝け出すほどにそれを否定することはできなかった。血の味で目覚める、夜兎の本性。こんな形でも思い知らされる。  
 
 いつのまにか神楽の舌は本来の目標をはずれ、傷のない沖田の首筋を這っていた。沖田もそれに気づいているのだろうが、じっとされるがままになっている。神楽は自分が手なづけられた卑しい獣になってしまったような気がして、悔しくなって無理やり顔を上げた。  
 
 気配を感じた沖田がわずかに頭を傾けてこちらを見上げてきた。  
「どうしたんでィ。興奮してるみたいだからほっといたのに、もう気が済んだのかィ?」  
 余裕綽々の笑みを浮かべる沖田に、神楽は悔し紛れに吐き捨てた。  
「おまえの血、味変アル。媚薬でも混ざってんじゃねーカ、この絶倫ヤロー」  
「それを舐めて興奮してたのは、どこのどいつだ。この淫乱」  
 ま、俺の血が媚薬だってんなら・・・と、沖田はうつぶせていた身体を起こしざまに神楽の腕を引っ張り、地面に再び倒れこみながら唇を神楽のものに押し当てた。そしてにたりと笑って言う。  
「俺にも味合わせてくだせェ」  
「んぅっ・・・・!」  
 半開きになっていた口の奥に舌を差し込み、神楽の舌を絡めとって味わうかのような深い口付けを何度も繰り返す。息苦しさに抵抗していた神楽の力が抜けるまで、いや神楽が自分から求めるようになっても尚、吐息まで奪うような口付けをやめない。  
 
 つくづくこいつは嫌な奴だ、と神楽は思った。  
 大切なもの、大切な場所を二度と失わないために、戦いを求める本能を押さえ込んできたというのに、この江戸という町に来て、銀時や新八と出会ってそれができるようになると信じていたのに、こいつはあっさりとその努力を無に帰そうとするのだ。  
 こいつの前では戦闘への欲求を抑えることも、血に沸き立つ心を鎮めることもできない。戦り合えば互角の腕前を見せ付けて自分を煽り、今はこんな形で性欲と紙一重の本能を引きずり出そうとする。  
 銀ちゃんが聞いたらきっと悲しむ。パピーが知ったら約束と違うと怒る。  
 それでも断ち切る気になれないのは、ただの甘えでしかないのだろうか?  
 
「・・・・・っ」  
「はっ・・・」  
 唇を離したときには、お互いすっかり息が切れていた。見下ろすと、沖田の感情の読み取りづらい色素の薄い瞳に、自分の姿が映っていた。  
 なんとなく見ていられなくなって、神楽は沖田の上に身を沈めた。その身体を、骨ばった腕が抱き寄せる。お返しと同意の意味を込めて、神楽は沖田の首筋を軽く噛んだ。  
「今度は背中引っ掻くなィ」  
 かすかに笑いを含んだ声で耳元で囁かれ、むかついた神楽は力を込めて首筋に歯をつきたてた。  
 滲んだ血は、やはり少し甘い味がした。  
 
 
(完)  
 

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