「新ちゃん・・・ねぇ新ちゃん」  
時は丑三つ時。普通の人々が皆寝静まっている真夜中に  
いきなり名前を呼ばれても起きないのは無理からぬことだった。  
次いで体をがさごそ揺らされたが、志村新八はまだ寝ぼけていた。  
「ふぁ・・・だからうちは新聞とかそういうのは結構なんで・・・」  
「起きろっつってんだろこのやろー!!」  
いきなり顔面を襲い掛かった鉄拳に、新八は否が応にも覚醒した。  
「ぶごぁっ!痛いですよもう!なんなんですか姉上ぇ」  
新八は頬をさすりながら真夜中にこのような暴挙に出た女を見た。  
水商売特有の派手な着物と髪型で、志村お妙は新八を睨みつけている。  
赤く上気した肌と据わった目つきを見れば泥酔しているのは明らかだった。  
厚めの化粧の上からでもはっきりとわかる眼下の隈が、母譲りの端正な顔立ちをやつれさせている。  
あくびをして無意識の動作で眼鏡を探した新八は、突如自分の膝の上に倒れこんだ姉に驚いた。  
「・・・・ふろ」  
「え、何ですか。くぐもっててよく聞こえないんですが」  
「お風呂入れて。今すぐ」  
「あー風呂ね。わかりました」  
もう慣れっこになっているのか新八は割合素直に立ち上がる。  
志村家の家計は大半は妙が勤めるキャバクラの収入によってまかなわれているので、  
万事屋などという得体の知れない仕事に薄給で従事している新八は姉のどんな命令にも従わざるを得なかった。  
 
「姉上ー、もういいですよー風呂」  
新八は自分の布団の上に転がってる姉に声をかけた。  
すると目の前にぬっと両手が突き出される。  
「なんですかそれ。うらめしや?」  
「ちげーわよボケ。おんぶして」  
「その二本の足はなんのためについてるんですか・・・っていだっいだだだ!」  
「言うことを聞かない弟を卍固めするためよ」  
そんな元気があるなら十分歩けるだろあれこんなん前にもなかったっけかなどと思いながら  
新八はよっこらせと妙をしょいこんだ。  
 
 
「じゃあ僕はもう寝ますよ。明日はお通ちゃんのサードシングルが出るからCD屋まわらないといけない・・・  
ってもう今度は何ですか。用事はいっぺんに頼んでくださいよ」  
着物の袖を掴んだ手に振り向きざま抗議の声をあげた新八は  
どこか思いつめているような妙の眼差しと出会って驚いた  
「一緒にお風呂入らない?」  
 
妙は傍らでぶつぶつと般若心経を唱えている弟に声をかけた。  
「・・・ねえ新ちゃん」  
「・・・何ですか」  
昔はよく一緒に風呂に入ったものだが  
たいして大きいわけでもない風呂桶に成長した二人の身体は手狭だ。  
なし崩し的に風呂に入ることとなった新八は  
ここに至って一度も妙の方に目を向けていなかった。  
(入浴剤をはっておいて良かった・・・)  
白濁した湯は健全な青少年である新八の  
臨戦態勢となっている下半身を隠すのに一役買ってくれていた。  
そんなことには気付いていないかのような明るい口調で妙は話す。  
「最近お店でね、すごく気前がいいお客さんがついてくれるようになってね。  
・・・少し父上様に似てる方なんだけど」  
妙が告げた客の名は幕府の大物だった。  
新八も名前を聞いたことがある。  
「道場を復興したいっていう私の話にとても同情してくれて、  
資金を援助してくれるって言うのよ」  
ここで新八ははっとしたように妙を見た。  
長女の妙が、廃れてしまった道場と亡き父に対してひどく責任を感じているのを  
新八は誰よりもよく知っている。  
一度はそのために身売りまでしかけたほどだ。  
「姉上・・・」  
静まりかえった外から、微かに鈴虫の音が聞こえる。  
廃刀令によって武士の存在意義が消失し、  
父と門下生が去り道場と借金だけが残された姉弟二人にとって  
かつて門下生を多く抱え賑やかだったこの屋敷はあまりにも広過ぎた。  
「でもね、そのためには条件があって・・・」  
「・・・・・・・」  
痛ましげな面持ちで新八は沈黙する。  
その先は言われるまでもなかった。  
妙を妾にするつもりなのだろう。  
夜の世界では腐るほど転がっているありがちな話だ。  
そういえば、と新八は思い返す。  
妙のストーカーである近藤勲も妙の店に通いつめていたが  
金と権力に物を言わせて妙を口説こうとはしていなかった。  
単細胞のあの男の場合、単に思いつかなかっただけなのかもしれないが  
 
「姉上、そんなことまさか承諾なんか・・・」  
くすりと妙が微笑む。  
「そのまさかよ。新ちゃんのやっすい給料と今の私の稼ぎじゃらちがあかないでしょ。  
こんな好機もうないかもしれないじゃない」  
けど、と妙は天気の話でもするような調子で付け足す。  
「あんなおっさんに処女あげるくらいならその辺の奴にでもやろうかと思って」  
流石に新八もここまで言われたら気付かないわけにはいかない。  
「その辺の奴にもほどがあるでしょ・・・」  
新八お約束のツッコミも精彩を欠いていた。  
新八はごくりと固唾を飲む。  
視力の悪い新八でもこの至近距離なら妙の裸体がいやでも目に入る。  
「だから新ちゃん、私を・・・」  
抱いて。  
新八を見つめる妙の真摯な眼差しは  
完全に酔いが醒めていることを示していた。  
覚悟を決めた女の相貌は、  
常日頃の凶暴な姉とは別人のように儚く見えた。  
「姉上・・・」  
抱きしめたい。自然にそう思い、  
新八は吸い寄せられるように腕をのばした。  
 
妙の肩に触れる直前になって  
新八は浴槽のふちをガシリと掴む。  
そのままおもむろに湯船から上がり壁の前で立ち止まった。  
「・・・?」  
体を海老反りにのけぞらせて準備OK。  
3、2、1  
 
 
ドオオオォォォン  
 
 
凄まじい衝突音が風呂場に鳴り響いた。  
一瞬遅れて天井からパラパラと木屑が降ってくる。  
「・・・・し、新ちゃん!?」  
放射状にヒビの入った壁に首までめり込ませた新八は、  
血まみれの頭をゆっくりと引っこ抜いた。  
「・・・・・・もうろくしたスケベじじいに言い寄られたときの対処法を教えてあげますよ。姉上。」  
壁の方を向いたまま新八は続けた。  
「鼻フックで背負い投げしてやればいいんです」  
そう言い残すと風呂場を出てろくに体も拭かず服を着始める。  
「新ちゃん・・・」  
服を着終えた新八は最後に眼鏡をかけた。  
 
次第に妙にむらむらと怒りがこみあげてくる。  
どれだけの覚悟をもって自分が弟を誘惑したと思っているのか。  
「もうっ、道場とたかが穴とどっちが大事なのよ!」  
「姉です」  
新八は妙をまっすぐ見つめきっぱりと断言した。  
その迷いのない口調に妙は拍子抜けする。  
他人に振り回されてばかりだったあの子が  
いつの間にこんなに大きくなったのだろう。  
「姉上もとっとと上がったらどうですか。湯冷めしますよ」  
すたすたと自室へ戻る新八に、妙は小さく声をかけた。  
「新ちゃん」  
新八の足が止まる。  
妙は万感の想いを込めて一言告げた。  
ありがとう。  
新八は振り向かずに小さくうなずき、再び歩き出した。  
 

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