灯の消えたスナックを出ると、夕方から続く小雨はすっかり大降りになっていた。
傘を持ってこなかったことを思い出し、妙は軒下で小さくため息をつく。
濡れて帰るべきか、苦しい財布の紐を解いてでもタクシーで帰るべきか。
そう考えているとき、傘をさした人影が通りを歩いてくるのに気付いた。
傘に隠れて顔は判らないが、長身の男だ。洋装の黒い制服をまとい、腰に刀を帯びている。
妙の姿を認め近付いてくるのを見て、ああいつものあの男だ、と悟った。
「またいらしてたんですか近藤さん。もうお店は閉まりましたよ」
そう男に声をかける。あくまでも言葉は柔らかく、けれど口調はきっぱりと。
暗に店以外で相手をする気はないと伝えたかったのだが、言ってみてからあの単細胞男に
含みのある言い回しでは通用しないだろうと思った。
「…つーかウザいんですけど帰ってくれます?あまりしつこいと警察呼びますよ?」
今度は突き放すように言ったが、男は妙の言葉など気にも留めず歩み寄ってくる。
口でだめなら拳で、と身構える妙。
正面まで来て立ち止まり、男はようやく言葉を発した。
「俺が警察だよ」
そう言って差し出される、傘の下から現れた顔を見て、妙は戸惑った。
「あら、あなた…」
仏頂面に銜え煙草。どこかで見た顔、としばし考えてから、あの男の部下で真選組副長の
土方だと思い至った。
「…どういうつもり?ストーカーの部下はやっぱりストーカーということかしら」
「勘弁してくれ、そんな趣味はねェ。俺はあの人の代理で来た」
「代理?」
短くなった煙草を踏み消し、不機嫌そうな顔のまま土方は頷いた。
「ああ。最近このあたりで夜になると引ったくりが多発しててね、アンタの身を心配した
近藤さんから護衛を言いつかった」
面倒臭そうに言って、傘に入るよう促す。冗談じゃない、と妙は思った。
「護衛される筋合いはないわ。大体どうしてあなたに頼むのよ」
「あの人もああ見えて忙しい身なんだよ。お上の命令でしばらく江戸を離れるそうでな。
『トシィィ!俺がいない間にお妙さんに何かがあったらと思うと不安で不安で夜も眠れない!
どうか影となり日なたとなってお妙さんの身を守ってくれ、頼んだぞォォォ!!』だそうだ」
土方は表情一つ変えずに近藤の口調を真似る。似ていたかどうかは別として、あの暑苦しい
顔を思い出させられ、妙はうんざりした気分になった。
「あきれた。それであなたは馬鹿正直に従って私を付け回すつもりなの?」
「バカバカしいのは認めるが奴は俺らの大将だ。あそこまで熱心に頼まれちゃ断るわけには
いかねェんだよ」
「まぁ任務に忠実ですこと」
皮肉を言われ、土方は顔をしかめる。そうだよ俺は仕事熱心なんだ、どっかのミントンバカや
頭は空なくせに腕ばかり立つ腹黒と違ってな。
「とにかく近藤さんが戻るまでアンタに何かあってもらっちゃ俺が困る。しばらくの間護衛に
付かせてもらうぞ」
「断るわ。ストーカーがいない時くらいゆっくりさせてちょうだい」
妙は即答する。しかしその時一陣の冷たい風が吹き、みるみるうちにに雨足が強まった。
「傘、持ってないんだろ?」
そう言った土方の顔を見、差し出された傘を見て、妙は口を尖らせた。
「弱味に付け込むのね」
「大袈裟だなオイ。いいから入っていけ」
躊躇した後、渋々ながら傘に入る妙を見届けると、土方は無言で歩き出す。
女の足に歩幅を合わせてくれているのに気付き、悪い人ではないのだろう思った妙だが、
それでもやっぱり、
「腹が立つわ」
小さく呟いた言葉は、雨音にかき消され土方の耳には届かなかった。
雨の中、街灯がぽつりぽつりと灯るのみの仄暗い夜道を、美しい女と相傘で歩く。
本来ならば男としては喜ぶべきシチュエーションなのだが、土方は不機嫌だった。
隣の女、見た目こそ清潔な色気の漂う凛とした美女ではあるが、花見の席で本性を見て以来、
近藤がそこまで懸想する気が知れない。
なのにこんな雨の中、片方の肩を濡らしながら傘をかかげ、嫌味を言う女に付いて歩いている
自分は一体なんなのだろう。
いくら近藤の頼みとはいえ、理不尽な役目を引き受けてしまったことが今更ながら悔やまれる。
苛立ちを誤魔化そうと半ば無意識に懐から煙草を取り出し、ライターを探っていると、妙が
感情のこもらない声で言った。
「私の半径50メートル以内で吸ったら殺すわよ」
「………。煙草は嫌いか」
静かな凄みに圧され、銜えた煙草を口から離す。妙は ええ大嫌いよ、とにべもなく答えた。
「仕事中は仕方ないけど、隣で吸われるのは我慢ならないわ。服にも髪にも臭いが染み付いて
取れなくなるんですもの」
「俺は禁煙を強要されるのが我慢ならないんだが」
「吸いたければ私についてこなければいい話じゃないの」
今度は土方が舌打ちをする番だった。
見るからに苛々と、しかし素直に煙草を懐にしまう土方を見て、妙は少しだけおかしくなった。
「そんなに吸いたくなるもの?只の煙たい葉っぱじゃないの」
「煙たい葉っぱじゃねェ、生活必需品だ。」
「わからないわ。あんなのちっとも美味しくないのに。」
「俺は無いと苛々するんだよ」
「口寂しいんならいいものをあげましょうか」
バッグから透明なセロファンに包まれたカラフルな飴を取り出し、目の前に差し出す。
「そんなかわいらしいモンで満足できるかよ」
土方は呆れ顔で首を振った。
「そう?美味しいのに」
そう言って妙はひときわ真っ赤な玉を選び、包みを解いて口にした。
単純でどこか安心をもたらす甘みが、ゆっくりと溶けて広がっていく。
一連の動作を何気なく見ていた土方は、そのかたちの良い唇に思わず見とれた。
薄く紅を引いた、瑞々しい果実を思わせる柔らかそうな唇。
その芸術的な造型を割っておもちゃの宝石のような色の飴が侵入し、内側からちろりと一瞬
なまめかしく濡れた舌がのぞく。
我に返ると、妙はにこにこと邪心のない笑顔で土方の顔を見上げていた。
「欲しいんでしょ?」
「ふざけんな」
心のうちを見透かされた気がして、土方は即座に否定する。そうしてから、己の本心に気付き
動揺した。……見透かされた気?俺は今、この女を欲していたのか?
「うそ。だって物欲しそうな顔で見てたわ、飴。」
飴か。妙の言葉に土方はほんの少し落胆する自分を認めつつも安堵した。
「…そうだな。一つ貰えるか」
「ええ。」
頭を冷やすべきだと思った。確かに隣の女は美しい。けれど凶暴で女らしさの欠片もない本性を
自分は知っているではないか。
大体、敬愛すべき上司が盲目に惚れ込んでいる女だ。彼に信頼され護衛を任された自分が、女の
色香に惑わされるようなことがあってどうする。
邪念を払い、妙に向き直る。
妙は先程と変わらぬ笑顔を浮かべたままだった。
艶やかな唇が、ゆっくりと開く。
「はい、ああん」
「………!?」
心持ち顎を突き出し、軽く開いた唇の隙間からのぞく赤い舌。
その上に少し小さくなった宝石のような粒が、唾液に溶けて光っていた。
冗談はよせ、と言いたかった。しかし土方の目は、濡れた唇の内で光る飴から離せずにいた。
立ち止まったまま、しばし静寂の時が流れる。
妙は どうしたの?とでもいいたげに、目だけで微笑みながら首を傾げる。
その拍子に首筋につけた香水がふわりと香った。
なぜか白い花を思い起こさせる香りだった。鼻腔を、脳髄を、痺れさせるように甘い。
気付いたときには、土方は妙の唇を貪っていた。
頭の内側でかすかに自責の念が芽生える。だがそれは口の中に流れ込んできた甘ったるい味に
よってかき消された。
「……ふぅ…んんっ」
妙は少し苦しそうな声を漏らしながらも、抵抗しなかった。
柔らかな唇を割り舌を侵入させる。暖かく、そしてひどく甘い。そのどこかにあるはずの
甘みの源を見つけるべく、土方は乱暴に口の中を舌で侵す。
妨害するかのように、妙はそこへ自分の舌を絡めた。
妙の味覚を、煙草の苦味が支配していく。
どのくらいの時間、その攻防を続けていただろうか。
ほんの小さな塊になった飴玉をついに土方の舌が絡め取り、ようやく二人の唇は離れた。
見つめ合う互いの息は上がっている。
土方は少し冷静さを取り戻した頭で、何と言うべきかと悩んだ。
衝動的な行為を謝るのも、男好きとなじるのも、この場にはそぐわない気がする。
まだ女の味が残る口の中で、奪い取った飴がゆっくりと溶けていく。
このまだるっこしい甘みの菓子は好きではない。
ガリ、と鈍い音を立てて奥歯で噛み砕くと、妙が咎めるような声をあげた。
「だめじゃないの、飴は最後まで楽しむものよ」
そして角に見える道場を指し、
「雨があがるまで寄ってらっしゃい」とこともなげに言う。
只の善意か、それとも挑発か。
その判断のつかぬまま、土方は頷いていた。
「…ああ。」
『恒道館道場』と書かれた門を抜けると、屋敷は灯もなく静まり返っていた。
建物こそ古びているが、ぴんと張った空気はまぎれもなく『道場』のもので、
土方は昔を思い出しふと懐かしい気分になった。
「剣術道場か」
「ええ。今となっては形だけのね」
自嘲的に答える妙。その意味するところは、今の江戸では想像に難くない。
この女も意外と苦労してきたのかもしれないな、と思った。
「どうぞ」
玄関の引き戸を開け、妙は土方を招いた。
傘を閉じ、促されるままに中に入る。家の中は真っ暗で人の気配はまるで無かった。
「家族は」
「弟だけよ。今は銀さんたちと宇宙旅行中」
「…………。」
ますます女の真意が計りかねた。
「少しそこで待っていて」
と言い残し、足早に奥へと消えて行く。
その後ろ姿を土方は釈然としない気持ちで見送った。
程なくして戻ってきた妙は、タオルを手にしていた。
「ああ、すまねェ」
傘からはみ出して肩も髪もびしょ濡れだった。礼を言って受け取ろうと手を
伸ばすと、妙はそれをかわして横に立つ。そして爪先立ちで土方の頭をタオルで
覆い、濡れた髪を拭きはじめた。
オイ、とあげた抗議の声は無視される。視界を遮られ、ぼやけた暗闇の中でひそやかに
笑う妙の声だけが耳に残った。
しばらくされるがままになっていた土方だが、髪をくしゃくしゃに乱され、たまらず
タオルを奪い取った。
「ったく、犬じゃねーんだぞ」
「あら、ちがうの?」
小首を傾げ、いかにも驚いたかのような素振りで妙は問う。土方は乱された髪を
直しながら、冗談めかした問いに「当たり前だろーが」と答える。
「だって」
微笑を浮かべたまま、細い指で土方を指した。
「幕府の犬。近藤さんの、忠犬。思わせぶりな女に付いて来る、涎を垂らした雄犬。」
「…………てめェ!!」
瞬間、相手が女だということも忘れ、胸倉を掴んで詰め寄っていた。背中から壁に
ぶつけられ妙は少し顔を歪めたが、見上げる瞳は揺らぐことはなかった。
「訂正しろ」
「そうね男の人のお仕事に口出しするものじゃなかったわ、ごめんなさい」
「そこじゃねェよ」
ダン、と空いた方の手で壁を殴る。
それでも妙は平然と、まとわりつくような視線で土方を見つめた。
「違わないでしょう?」
静かな声。土方は心の中で唇を噛んだ。
…畜生どうして俺が怯んでるんだ。人を斬ることに何のためらいも感じないこの俺が、
どうしてこんな女に圧されているんだ。
先程から湧き起こる乾きつくような欲求は、常用しているニコチンが切れたからであり
決して目の前の女に欲情しているわけじゃない。
動揺を打ち消そうと強く睨み返す。壁に押し付けられるような体勢のまま、妙は
雨に冷えた手を土方の頬に当てた。
「犯してごらんなさいよ」
挑発的な言葉の中に少し焦れたような震えがあったことに、土方は気付かなかった。
ただ身体の内側が訴える、乾きの正体を見まいとした。
妙の手が頬をなぞり首筋へ、そして制服の襟にかかる。
上着を脱がそうとする手を押しとどめ、土方は喉の奥に張り詰めていた息を吐き出した。
――――チクショウ。
そしてついに渇望するものを認めてしまった己への憤りをぶつけるかのように、乱暴に
妙を押し倒した。
力任せに固い床に組み敷かれ、妙は思わず小さく呻いた。
しかしその口は即座に唇で塞がれる。
口腔を舌でかき回すような強引な口づけは、妙に呼吸をする隙さえ与えなかった。
「………んっ……くっ…」
息苦しくなり、無意識のうちに首を振る。しかし被いかぶさられているうえに手を
押さえつけられた体勢では、逃れることはできなかった。
酸素を求めもがきながら遠くなりそうな意識の中で、妙は奇妙な喜びを感じている
自分を認めた。
ああ私はこの男にこうされたかったのだ。あの人の最も信頼する部下に、欲情され
葛藤の末押し倒され陵辱されたかったのだ。
痺れるように苦い舌が、口の中をくまなく蹂躙する。煙草の味それ自体は嫌悪感を
催すのに、この男の舌は全く不快ではなく、むしろもっとその味で自分を染めて欲しい
とすら感じる。
息苦しさに思考を奪われ、本能のみでそれを吸った。
流れ込む唾液をむせ返りそうになりながら嚥下すると、ようやく男の唇が離れる。
「っはあ、はっ、はぁ……」
苦しさから解放され、咳き込むように荒い息をつく妙。唇の端から一筋、飲みきれ
なかった唾液がこぼれ落ちる。
その様子を見下ろす土方の表情は冷たかった。
妙の呼吸が整うのを待たずに、土方は着物の胸に手をかける。
襟元を掴み襦袢もろともこじ開けると、かたちの良い胸があらわになった。
仰向けの姿勢でもほとんど流れずに上を向いた胸は、標準よりもだいぶ小ぶりで
手の中にすっぽりと収まってしまう。
しかし柔らかくて張りがあり揉み応え十分で、土方はその感触をしばし楽しんだ。
そうしてから突然、乳房を握り潰さんばかりに手に力を込めた。
「……痛いわ」
妙が抗議すると、土方は顔を上げにやりと笑う。
「綺麗なものを見ると、わけもなく汚したくなる。そう思わんか」
「歪んでるのね」
ぎりぎりと手に力が入る。妙は痛みに顔をしかめた。
「でも私は、汚れたりしないわ…っ」
上ずった声でそう言うと、乳房を握る土方の手が緩んだ。
手をのけると、白い肌に指の跡が赤く残っていた。自らが付けた跡なのにそれはひどく
痛々しく目に写り、土方は血の色に染まった部分へと口を運んだ。片方の胸は優しく
揉みしだきながら。
柔らかな膨らみを、唇でついばむようにくちづける。舌を平たくして肌に這わせる。
濡れた舌先でくすぐるように撫でる。
心地良いような、もどかしいような感覚に熱い息を吐きながら、妙は声に出さずに
唇だけで呟いた。
――――汚れたりしない、だって私は綺麗なものではないもの。