高島邸のエントランスをくぐり、扉を開け放つとタズサはほっと一息つける。  
生暖かい空気から逃れるように扉を閉ざすと、そこには4畳ほどの下足場がある。  
高島邸が如何に洋風の外観であっても、ここは日本。  
玄関でスリッパに履き替えるたびにそのことを実感するのだった。  
 
「ただいまー、瞳さんご飯なーに?  
もうおなかペコペコ」  
 
「お帰りなさい、今日はフレッシュなイベリコ豚が入ったからソテーにしてシーフードのパエリアを添えようと思っているのだけど…困ったわねえ。  
まだ五時前よ、七時くらいまで待ってくれないかしら」  
 
温かさと艶やかさを漂わせる笑みを浮かべる瞳さんをみるとタズサの鼓動が乱される。  
こと美しさというものに関しては絶対の自信があるタズサだが、瞳さんのような大人の色気というものは生憎と持ち合わせていない。  
私もああなれる日が来るのだろうか、微かな不安が呼び起こされるが首の動きとともに振り払う。  
何を云ってるの桜野タズサ、貴方はワールドチャンピオン、不可能を可能にした女よ。  
私にできないことなんてないんだから。  
 
「どうしたの、バブルヘッドの真似かしら?  
タズサちゃんのバブルヘッドが出るのなら一箱予約するから、早めに知らせてね」  
 
おっとりとした声で現実に引き戻される。  
 
突発性タズサ症候群かと疑われる前に笑みを浮かべて瞳さんに向き直ると、オルガとダブって見えるのは気のせいかしら?  
 
「そうねえ、腕利きの美女の手を借りられるなら六時頃にできるかも知れないけど」  
 
ちらりとタズサを見遣る瞳の眼差しは獲物を前にした肉食獣のソレを思わせる。  
否も応もなく頷くタズサの背中に瞳さんの声が浴びせられる。  
ちゃんと手を洗って着替えなさい、って私は子供じゃないのよ?  
 
玄関を乱暴に閉める音に続いてどたどたと落ち着くのない音。  
 
「ただいまー、瞳さんごはんなーに?げ、姉貴が台所に。  
今日は外で食べてきたから夕飯はいらない」  
 
瞳さんとの二人だけの時間に終止符を打つ生意気な声。  
云うまでもない、妹のヨーコだ。  
 
「お姉様、でしょ。  
今日の前菜は100億ドルのカルパッチョよ、コンソメのジュレと鱶鰭のサラダを新鮮な真鯛の刺身で包んだ逸品なんだから残したら承知しないわよ」  
 
「どうせ瞳さんが下ごしらえしたのを盛り付けただけでしょ?  
タズサお姉様の学業成績は家庭科も含めて存じておりますから」  
 
まあ当ってはいるんだけど、私よりも料理のできないヨーコに云われる筋合いはない、そうでしょ?  
はあ、ピートがいたときに家庭科のテストなんてなかったしなあ。  
そういえばピートは料理できたのかしら。  
 
「そうそう、昨日お姉様に電話があったんだっけ。  
携帯にかけても繋がらなかったから家にかけてきたみたい」  
 
英語だからよく分からないんだけど、と付け加える。  
桜野の系譜はとぎれていないみたい。  
 
「いいのよ、どうせCMの打ち合わせか何かでしょ?  
必要なら堂島さんから連絡が入るだろうし。  
名前は憶えてる?」  
 
「ああ、アンドレア・ベンジーニっていってたわ。  
男の人みたいな名前だけど、声は女の人みたいだったし。  
ひょっとして…ゲイバーでも通ってるの?」  
 
「ヨーコそれを早く言いなさい。瞳さん、私のパスポート何処だっけ」  
 
二人が呼び止める間も無くタズサは用意を整えてタクシーに飛び乗る。  
ああ、あの後取材とか祝賀会で碌に会わないまま帰国してしまったのよね。  
アンドレアは怒ってるかしら、埋め合わせをしなくちゃ。  
ああ、早く電話をしないと。  
 
本日ローマ行きの便はございません、と告げられたのは成田のアリタリア航空のカウンターでの出来事だった。  
 
 
 
「あっつーい、ヨーロッパの夏はカラッとして過ごしやすいなんて言ったのは誰かしら」  
 
空港から直通の電車に乗り、テルミニ駅のホームに降り立つとサングラスとキャップを確認する。  
心持浅くなっていたキャップを深く被りなおす、これなら私がプリンセス・タズサだって気付かれることはない。あーあ、出かけるたびに変装しなきゃいけないなんて美少女稼業も楽じゃないわ。  
ミラノ中央駅と並び立つイタリア最大級の駅だというのにホームはがたがた、線路脇からは雑草が伸び放題。良くも悪くもこれがイタリアというお国柄。  
 
 
「イタリアへようこそ、タズサ」  
 
地下道を通りロータリーに出た刹那、柔らかい声とともに真横から衝撃を受ける。  
軽くよろめきそうになるのを堪えて顔を向けると、鼻に白いハットが触れる。  
ハットに隠された紅茶色の髪が覗き、艶のある髪からは淡いオレンジの香りが漂ってくる。シャンプーは何を使ってるのかしら。じゃなくて、  
 
「ガブリー、近い近い!」  
 
そう、横から飛びつくように抱きついてきたのはアンドレア・ベンジーニことガブリエラ・パピィ・ポッゾ。スケート界big3の一角であり、世界一の人気者。そして私の…  
私の何?ライヴァル?仲間?友人?それとも…ま、とりあえずは私の好きなガブリー、それでいいでしょ。  
そんな彼女に抱きつかれて悪い気はしない、どころかちょっとうれしい。とあれ、ここは公衆の面前。  
未練を振り切るようにガブリーを押しのけて距離をとろうとするのだが  
 
「あん、久しぶりだっていうのにタズサは私にハグされるのは嫌なの?」  
 
グラス越しに潤んだ瞳で見つめられると気恥ずかしさも倍増。  
 
「嫌とかそういうのじゃないけど、ほら人目があるでしょ」  
 
「あらこっちじゃこれが普通よ。  
郷に入ってはなんとやら、よ」  
 
絶対に嘘、それにさっきから右腕にあたるこの感触は…白人は大きいってホントね。  
 
暫くガブリーのなすがままにされ、漸く向き合う。  
 
「クイーン・タズサ、僭越ながら本日は私アンドレア・ベンジーニがエスコートさせていただきます」  
 
帽子をとって騎士風の挨拶をこなすガブリー。  
白麻で仕立てたストレートのパンツとジャケットにシャツは白地に水色のライン、襟や手元は水色を配色したもの。タイはせずにピンホールで襟を止めるといういでたち。勿論グラスは欠かせない。  
 
「あれ、プリンセスじゃなくて?」  
 
「ウイーンで戴冠式を済ませたでしょ?取り合えずホテルに荷物を置きましょう」  
 
自分の荷物も抱えているというのに私のキャリーをひったくり、客待ちをしているタクシーを捕まえる。  
さ、ローマの休日と行きましょうか。スクーターの二人乗りはできないけど。  
 
「アンドレアはいつローマに?」  
 
タクシーは狭く入り組んだローマの道を縫うように進んでいく。なるほど、ホテルの送迎車じゃ時間を取るというのも頷けるというもの。  
 
「今朝よ、昨日の昼間に今から飛行機に乗るって言う慌てものがいるんだもの。  
日本人てみんなそんなにせっかちなの?」  
 
昨夜アリタリア航空のローマ便に乗り損ねた私は、フィンランド航空に飛び乗りヘルシンキ経由でローマに乗り込んだ。とりあえずヨーロッパの玄関口であるヘルシンキに行けば何とかなる、そう思っていた通り。  
 
「まさか。キョウコをみれば分かるでしょ。  
でもアンドレアも相当の慌てんぼね、顔も見ずに抱きついた相手が私じゃなかったらどうするの?」  
 
そう、変装用のグラスとキャップをしているのに、ロータリーに出たとたん抱きついてくるなんて。  
 
「大丈夫よ」  
 
「なにがよ。テルミニでおりる日本人なんて幾らでもいるんだから、気をつけなさい」  
 
「大丈夫なのよ、タズサを見間違える筈ないわ。  
例えどんな貴方が格好をしていてもアンドレアは貴方だって分かるもの」  
 
 
 

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