「終わっちゃったね」  
 
斜めに傾いた陽光が赤く染める、校舎の屋上。  
その校舎に隣接する体育館を見下ろしながら、さくらは後ろに立つ平井へと声をかけた。  
 
「終わっちゃいましたね」  
 
平井も体育館を見下ろしながら、同じ口調でさくらへと言葉を返す。  
先程まで、自分達が芝居をしていたその体育館。  
 
――本当に終わっちゃったんだな。  
 
心の中で、平井はもう一度呟く。  
入学してきた時は、まさかそこで自分が芝居をするとは思ってもいなかった。  
いや、終わった今でも信じられない。  
目立つ事があれだけ苦手だった自分が、大勢の人の前で芝居をしたなんて。  
あれだけ気にしていたトラウマも、もうなんとも無い。  
 
――そう、それは全てこの人のおかげ。  
 
いつの間にか平井の視線は、目の前に立つ小柄な先輩へと向いていた。  
さくらは体育館を見下ろしたまま、動く気配が無い。  
その視線が悲しい色を帯びているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。  
 
「きゃっ!」  
 
突然、夕方特有の湿り気を帯びた風が吹き、さくらの髪が空へと舞った。  
綺麗な黒髪が赤い陽光に照らされたさくらの姿はとても神秘的で、平井は思わず息を呑む。  
髪を片手で抑えようと身をよじったさくらは、そんな平井の視線に気付いた。  
 
「ん、どうしたの、平井くん?」  
「い、いえ、なんでもないです!」  
 
さくら先輩に見とれてました、とは言えるはずも無く、平井は慌てて視線を外す。  
明らかにおかしい平井の反応を見て、訝しげに首をかしげるさくらだったが、ふとある可能性に思い至る。  
 
「……ははーん、さては私に見とれてた?」  
「そ、そんな事は……」  
 
先ほどまでのもの悲しい表情とはうって変わり、意地悪そうな笑みを平井へと向けるさくら。  
実際その通りなのだが、勿論これも言えるはずは無く、平井は言葉を濁してごまかす。  
 
「そ、それより、いきなり何なんですか? こんな所に呼び出して」  
 
話題を変えるために、平井はふと疑問に思っていた事を口にする。  
それは、自分がここにいる理由。  
公演が終わった後、真面目な顔をしたさくらに、ここに来て欲しいと呼び出されたのだ。  
芝居の途中で台詞を忘れた事に対するダメ出しかと思い、急いで着替えて来てみると、  
そこには制服姿のさくらが夕焼けをバックに体育館を見つめていたというわけだ。  
 
「んー、まあ、今日の芝居の事なんだけど……」  
 
さくらの台詞に、やっぱりか、と身構える平井。  
だが。  
 
「お疲れ様。初めての舞台にしては凄くよかったよ」  
「へ?」  
 
予想していたものとは違う台詞の続きに、平井は思わず間抜けな返事をしてしまう。  
 
「へ? って何よ。平井くんが豆鉄砲食らったような顔して」  
「いや、豆鉄砲よりも意外なもの食らったような気がして……」  
「何よ、私が褒めるのはそんなに以外なの?」  
「い、いえ、てっきり台詞ど忘れした事を怒られるのかと……」  
「あー、あれね」  
 
さくらはふむふむと頷きながら、  
 
「台詞忘れるなんて、よくあるわよ。大事なのはその後のフォローができるかどうか。  
 その点、平井くんは初心者なのによくできた方よ。  
 まあ、もっと早くフォローできていたら完璧だったんだけどね」  
 
と、苦笑交じりで言葉を返す。  
 
「……すいません」  
「謝らなくていいって。私は褒めてるんだから」  
「でも……」  
 
素直に謝る平井。  
さくらはそう言うが、芝居の流れを止めてしまった事は本当に申し訳ないと思っていた。  
なんとかアドリブでフォローしたものの、本当にあれでよかったのかははだはだ疑問だった。  
演劇部として最初で最後の舞台。  
大成功で終わらせたかったのは、なによりもさくらの方だっただろう。  
 
「ほらほら、そんな暗い顔しない。さっきまでの堂々としていた平井くんはどこいったの?  
 あんな集団監視の中で愛の告白までしたくせに」  
「ちょっと待て」  
「まさかあんな所で告白するなんて……平井くんたら、大胆なのね♪」  
「……気持ち悪い演技しないで下さい」  
 
顔を赤らめて身をくねらせるさくらを、うさんくさげに見つめる平井。  
 
――そういえば、こういう人だった。  
 
いい女は演技が上手いと言うが、さくらのそれは筋金入りだ。  
ところどころ捻くれてる筋金だから、なお性質が悪い。  
 
――これさえなければ、可愛い人なのに。  
 
「それで、オレをここに呼び出した理由ってのはからかう為なんですか?」  
「そうだといったら?」  
「実家に帰らせてもらいます」  
「あなたの実家、すぐそこじゃん」  
「ええ、おかげで家族にまで『ブルマ好きなの?』と聞かれる始末です。本当にありがとうございました」  
「えへへ、そう言われると照れるね」  
「褒めてない!」  
 
――ああ、もう本当にこの人は。  
 
大げさにため息をつく平井。  
しかし、このやり取りも今日までだと思うと、少し寂しい気もするから不思議だ。  
 
「あはは、まあそんなに怒らないで。ここに呼び出したのはお礼する為なんだから」  
 
そんな平井を楽しそうに見つめながら、さくらはすっと姿勢を正す。  
 
「お礼?」  
「そう、私のわがままに付き合ってくれたお礼」  
 
そう言うが早いか。  
さくらは音も立てずに平井との間合いを詰めると、  
 
「えい」  
 
平井の唇に自分の唇を無遠慮に押し付けた。  
 
「……」  
「……」  
 
柔らかい唇の感触と、その温かさ。  
髪から漂う清涼なリンスの香りと、身体から立ち上るデオドラントと汗の混ざった甘い匂い。  
さくらが唇を離した後も、平井の思考はしばらく止まったままだった。  
 
「……」  
「……もしもーし?」  
「……おおう」  
「第一声がそれかい」  
 
目が点になったまま、呆然とつぶやく平井。  
そして突っ込むさくら。  
 
「え、ちょ、な、なんですかこれ。いきなりキ、キ、キ……」  
「はいはい、たかがキス位でキョドらない」  
「そ、そんな事言っても……」  
 
唇を押さえてうろたえる平井と、腰に手を当てながらそれを見ているさくら。  
男女の立場が逆なような気もするが、当の平井はそれどころじゃなかった。  
 
「は、初めてだったのに……」  
「私だって初めてよ。いいじゃない、減るもんじゃないし」  
「じょ、女性はもっと慎ましく、おしとやかにですね……」  
「で、私の唇はどうだった?」  
「柔らかくて温かくてもう最高……って、何言わせるんですか!」  
「やーい、平井くんのむっつりスケベー」  
 
けらけらと笑うさくら。  
だが心なしか赤く染まった顔を見るに、さくらも初めてというのは本当のようだ。  
 
「ほら、平井くんキスシーン入れて欲しいって熱望してたじゃない」  
「言ってないし、熱望もしてません!」  
「本当に?」  
「……」  
「……分かりやすいね、君」  
 
無言で目を逸らす平井に、さくらは冷たい視線を送る。  
だが次の瞬間には微かな笑みを浮かべ、平井の横顔を愛しそうに見つめながら、言葉を続ける。  
 
「……これでも、ちょっとは気にしてるんだよ。  
 いきなり入部させて、無理矢理付き合わせた挙句、廃部でしょ。  
 本当、平井くんには悪い事したなー、って」  
 
微笑のまま、あっけらかんと言うさくら。  
彼女の言っている事は本心だろう。  
だが、その態度は演技だと平井は気付いていた。  
 
『やだなあたし……ホント、バカで……』  
 
部室で一人泣いていたさくら。  
今もよく見ると、さくらの目にはうっすらと涙が浮かんでいる。  
だがそんなものは無いかのように、さくらの演技は続いていく。  
 
「でも、私の我侭も今日でおしまい。よかったね、平井くん。  
 明日からは普通の高校生活が送れるよ」  
「さくら先輩……」  
「この二ヶ月間、君には迷惑だった思うけど……私は楽しかったよ……本当に楽しかった。  
 ……でもね、楽しい舞台には、必ず終りがあるんだよ。  
 ……だから……これが私の最後の台詞」  
 
そしてさくらは平井へと背を向けた。  
これでフィナーレだとでも言うように、ゆっくりと、優雅な動作で、夕焼けの空へと向き直る。  
 
「……ありがとう、平井くん」  
 
沈み行く太陽を見つめ、さくらはポツリと呟いた。  
先ほどまで赤く染まっていた空は、すでに半分ほどが夜の闇に彩られていた。  
赤から黒へといたるグラデーションのそれは、まるで幕引のカーテンの様。  
その中にひっそりと佇む薄蒼の月明かりを照明として、さくらの舞台は幕を閉じようとしていた。  
だが。  
 
――忘れてますよ、先輩。  
 
そう。  
観客が帰らない限り、舞台が終わる事は無いのだ。  
 
「っ!」  
 
背中を向けていたさくらを、平井は後ろから優しく抱きしめる。  
びくりと震えたさくらの背中が予想以上に小さい事に驚きながらも、壊れ物を扱うかのようにそっと腕を回す。  
目の前には、夜空に融けるかの様な、さらさらの黒髪。  
まるで、昔見た恋愛映画の1シーンみたいだ、と平井は思う。  
だが、胸元をくすぐる髪の感触とそこから漂うリンスの香りが、これが現実だと告げていた。  
 
「演技する必要はありませんよ」  
 
緊張から、声が震えているのが分かった。  
やっぱり自分には演技は向いてないな、と苦笑しながらも、平井は言葉を続ける。  
 
「オレの前では演技しなくてもいいんです」  
「え、演技なんて……」  
「二ヶ月も一緒にいたんですよ。さくら先輩の演技はもう飽きるほど見ているんです。  
 ……先輩、演技する時、小指の先をピンと伸ばすんです。知ってました?」  
 
はっ、と自分の指先を見つめるさくら。  
その行動が、平井の言葉を肯定したという事に気付かぬままに。  
 
「大体、先輩は一つ勘違いをしています。  
 さっき悪い事をした、って言いましたよね。平井くんには迷惑をかけた、と。  
 まったくその通りです。なんて人だと思いましたよ……最初はね」  
 
くすり、と平井は苦笑を漏らす。  
 
「最初は絶対に無理だと思っていました。  
 オレが芝居なんて出来るわけがない。そんな目立つ事できるわけがないって。  
 だけど……結局、オレは今、ここにいるわけで」  
 
ここにいる、という台詞の部分で、平井は腕に力を込めた。  
さくらはいやがる様子も無く、平井にされるまま、じっとしている。  
これはこのままでいいって事だよな、と平井は自分を納得させつつ、言葉を続ける。  
 
「芝居中に言ったアドリブですけど……咄嗟に言った事とはいえ、あれは偽らざる本心です。  
 楽しかった……本当に楽しかったんです。  
 今まで知らない世界が、そこにはあったから。  
 ……そして嬉しかった。  
 今まで忘れていた世界が、そこにはあったから」  
 
そして平井は少しだけ間を取る。  
さくらは無言。平井の腕の中で、彼の言葉に耳を傾けている。  
 
「あなたと練習できて楽しかった。あなたと練習できて嬉しかった。  
 あなたと芝居ができて楽しかった。あなたと芝居ができて嬉しかった。  
 あなたと話せて楽しかった。あなたと話せて嬉しかった。  
 あなたの側にいれて楽しかった。あなたの側にいれて嬉しかった。  
 だって、オレは――」  
 
それは今まで隠していた、想い。  
校門で最初に会った時から持ち続けていた、想い。  
一緒にいるうちに少しずつ育んできた、想い。  
そして、自分が本当に伝えたかった、想い。  
 
「――さくら先輩の事が好きだから」  
 
平井の腕の中で、さくらの背中が震えた。  
それを押さえ込むかのように、平井は腕に力を入れてさくらを抱きしめる。  
 
「だから、演技する必要なんて無いんです。  
 寂しいのなら呼んでください。すぐに駆けつけますから。  
 辛いのなら言ってください。側にいますから。  
 悲しいのなら泣いてください。胸くらい貸しますから」  
 
気付くと、先ほどまであった茜色の空は地平線の隅に追いやられていた。  
空は夜の闇へと染められて、その中でひっそりと輝く月と星たち。  
舞台の幕は落ちていた。  
だけど――  
 
「本当に……いいの?」  
 
今まで平井の腕の中で動かなかったさくらが、動いた。  
首だけを平井の顔へと向けて、小さな声で呟く。  
 
「本当に……演技しなくていいの?」  
 
目に浮かんだ涙を隠そうともせず、さくらは平井を見上げて呟く。  
 
「勿論です」  
 
平井はそんなさくらの頭を優しく撫でる。  
さくらはくすぐったそうに身をよじり、平井の腕の中で身体の向きを変えた。  
平井へと向き直り、その背中におずおずと手を回す。  
 
「うっ……うぅ……ぐすっ……」  
 
平井の胸に顔を埋めるさくら。そこから微かに聞こえてくる嗚咽。  
やがて、嗚咽は言葉となり、さくらの想いとなって現れる。  
 
「いやだ……いやだよ……もっと演劇したいよ……もっと舞台に立ちたいよ……  
 もっと練習して、もっと芝居して、もっと話して、もっと一緒にいたいよ……」  
 
――だって、私は――  
 
最初に会った時は、彼で大丈夫か、と不安だった。  
他の人のように逃げてしまうんじゃないか、と不安だった。  
だけど、彼は最後まで付き合ってくれた。そして今、私の側にいてくれる。  
……昔から芝居の練習をするのは楽しかった。  
でも、いつからだろう。  
芝居の練習よりも、平井くんに会えるのが嬉しいと感じるようになったのは。  
 
――そう、私も――  
 
そして、さくらは顔を上げた。  
涙に濡れた目で平井の顔を見つめ、演技ではない、さくら自身の言葉で、想いを返す。  
 
「私も平井くんの事が好きなんだもん……」  
 
月明かりの中、二人の唇がそっと重なる。  
先ほどの様な触れるだけのキスではなく、お互いの想いを伝え合うように、しっかりと唇を重ね合わせる。  
空は夜の闇へと染められて、その中でひっそりと輝く月と星たち。  
舞台の幕は落ちていた。  
だけど――二人にはもう関係の無い事だった。  
観客も、照明もいらない。  
二人だけの物語がこれから始まるのだから――  
 
 
Happy End? No, Happiness is Never End.  
 
 

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