「暇やったらそこで座って話しでもせんか?」  
そう言うとブーはバス停の傍らにあったベンチを指差した。  
バスを待ってる人はおらん。  
時間も時間なのだろう。  
人並みもまばらで知り合いが歩いてる様子もない。  
それが不幸中の幸いなんかも分からん。  
ブーと一緒にいるとこを松高生に見られたら  
困るからや。  
私とブーはただの同級生で幼馴染………  
それが一番ええに決まっとる。  
──そう決まっとるんや──  
「えっ…う…うん………」  
断ろうにも断る理由がない。  
別に塾に通ってる訳でもないし  
ヒメみたいに家に帰って  
母親代わりをやってる訳でもない。  
断りたくても理由がないんや。  
「ほらっ、ぼーっとせんと早う座れや」  
──もう逃げられない──  
私はブーに言われるままベンチに腰を下ろした。  
小さなベンチは私とブーが腰掛けるだけで  
いっぱいいっぱいで──  
隣に座るブーの体温が妙に心地ええと思った。  
中田三郎とは違う  
優しい温もり…  
それは私の冷え切った体と心を温めさせるには十分やった。  
──許されんのやったらずっとこうしてブーと一緒におりたい──  
そんな馬鹿な考えが頭に浮かんだ自分が恨めしかった。  
「ちょっとお前に聞きたい事があるんやけどな」  
「な、なによ」  
眼を逸らさずにじっと私を見つめて  
ブーはそう切り出した。  
その狂おしいまでに痛い視線に思わず声が上擦ってしまうのが分かった。  
何もかもブーには見透かされてるのかも知れんな…  
ブーには分からないはずなのに  
絶対知らないはずなのに  
私はブーに責められてる様な気持ちになった。  
 
ブーの眼を見るんが怖い。  
何もかも知られるんが怖い。  
中田三郎にあんな酷い事をされて…  
最初は嫌で嫌でたまらなかったはずの行為を  
受け入れて待ち望んでさえいる自分を  
知られるんが怖い。  
「なんで、俺を避けとるんだ?」  
「えっ…そ、そんな事………」  
──ある訳ないやろ?ブーの勘違いや──  
その一言が出てこんかった。  
「言いたくないんか?」  
「………………」  
答えられない。  
そんなのブーの勘違いや。  
そう言えば済むだけの話やなのに…  
言葉につまってしまう自分がおる。  
「矢野の時みたいな事なんか?」  
「ち、違う!!!」  
叫ぶ様にそう言葉を発した私を  
ブーがけげんそうに見つめてきた。  
──矢野の時みたいな事やないんやったら──  
──なんで、俺を避けるんだ?──  
──避ける理由はなんや?──  
そうブーの眼が私に言った。  
でも、ブーがそう思うんも無理はないかも知れん。  
今までそれ以外でブーを避けた事なんてなかったのだから…  
些細な事で喧嘩をしても次の日にはもうお互い口を聞いていて  
仲直りをしていた。  
どっちが先に謝るとかそういう事やなくて  
気がついたらいつもの『二人』やった。  
その期間が長かったのはリーの時だけやったから  
そういう風に受け止めてしまうんも無理はないし  
ブーを責める気にもなれなかった。  
「言いたくないんやったらそれでええ」  
「えっ…?」  
ブーの口から出た意外な言葉に私は目を見開いた。  
──それ?どういう意味なん?──  
「ただな………」  
「ただ…?」  
私はブーの真意が分からんかった。  
ブーが何を考えているか  
検討もつかんかった。  
言葉の意味を知りたくて一字一句聞き逃しやしまいとばかりに  
私はブーの言葉に耳を傾けた。  
 
「お前…最近、元気なかったやろ?何や知らんけど…お前が元気ないと  
俺までおかしくなるって言うか…調子が狂うって言うかやの…なんや、その…  
何て言ったらええのか分からんけど…と、とりあえずやな!!!篠村お前は──」  
ブーは大きく息を吸い込むとゆっくりとそれを吐き出した。  
緊張してるんやろか?  
「お前は…何?」  
「とりあえず、笑っとけや!!!」  
「はっ…な、何言って──」  
「笑っとけ、お前には笑顔の方が似合う。女みたいにめそめそすんなや」  
そう言うとブーは顔をくしゃくしゃにして笑った。  
あぁ…いつものブーや。  
ブーは変わっていなかった。  
ブーはずっと、この先もずっと私のそばでこうして  
笑顔でいてくれて…いや、笑顔を見せてくれるんやろか?  
「なっ…私だって女の子や!!!ブーのアホ!!!!!!!」  
いつもと変わらないブーの優しさが嬉しくて  
笑顔が嬉しくて…つい、憎まれ口を叩いてしまう。  
それが本気でないんは私とブーがよう知っとる。  
リーもヒメもダッコもイモッチも中田三郎にも  
もちろん、コーチや先生やおとうちゃん達にも分からない。  
私達だけの『秘密』  
「そうや!!それや!!!それでこそ篠村や!!!それが、女子ボート部キャプテンの篠村悦子や!!!」  
ブーは声高々に言い切ると悪戯ぽい笑みを浮かべて  
「ちょっと褒めすぎたかも知れんな」と呟いた。  
「ブー………」  
今の一言で私が機嫌を損ねたと思ったんやろう。  
ブーは慌てて顔の前で手を合わせとった。  
「わっ、す、すまん。今のは冗談や──」  
「ブー、ありがと………」  
私はそんなブーを気に留めもせず  
ブーの方に体を寄せると頬に軽くキスをした。  
ほんの一瞬の些細な行為。  
「なっ…お、お、お、お前………」  
「じゃぁねーブーまた明日〜」  
「あっ…こ、こら、待てや─しのむ………」  
固まってるブーをよそに私は颯爽と自転車に乗ると  
その場を後にした。  
 
 
 
ブーと二人でいたところを誰かに見られたとは知らずに──  
 
 
 
「う〜ん…やっぱ、一人でうろついてもおもろないなぁ…」  
三郎はつまらなそうにあくびをすると軽くため息をついた。  
悦子と別れてから三郎は一人で時間を潰してはみたものの  
内容は散々であった。  
三郎みたいな美形を女達がほおっておく筈もなく  
三郎がちょっと歩くだけで女達はざわめいては  
三郎を見てひそひそと話を始めた。  
いつもの事であった。  
学校でも外でも三郎が一歩外に出れば  
女達は熱い眼差しを彼に向けた。  
その願いが彼に届く事はなかった。  
稀に誘いに乗る事もなくはなかったが  
それは極めて低かった。  
事に悦子と知り合ってからと言うものは  
余計にその視線を嫌った。  
三郎は分かっていた彼女達が自分に熱い視線を向ける理由が  
己の容姿にあると言う事を  
それは決して三郎自身にはいってない事を  
彼女達が自分の容姿しか評価していない事を  
教師達もそうだった。  
優秀でスポーツ万能な三郎を彼等は賞賛した。  
だが、三郎にとってそれはちっとも嬉しい事ではなかった。  
いつからだろうか──  
彼が中田三郎と言う役を演じるのが苦痛になったのは  
最初の頃、三郎はそれが楽しくて仕方がなかった。  
期待に応えようと必死に中田三郎を演じ続けた。  
成績も優秀でスポーツ万能で容姿端麗な中田三郎を  
彼は演じていた。  
それが壊れたきっかけは小百合との別れだった。  
小百合は三郎にとって友人でもあり恋人でもあった。  
小さな頃からいつも三郎の隣には三郎がいた。  
小百合は五つ下の三郎を自分の弟の様に可愛がった。  
「なんや、私のお姉ちゃん言うよりも三郎のお姉ちゃんみたいやんか」  
時折、ちえみがそうすねる事もあったが  
その度に小百合は「三郎君もあんたみたいにお姉ちゃんが欲しいんよ」  
そう言ってはちえみをなだめた。  
ちえみは薄々気づいてはいた。  
 
二人の間にある感情が兄弟のそれではないと言う事を  
ちえみがそれを口に出す事はなかった。  
ちえみにとって三郎は同級生であり姉の大事な人で  
小百合は大好きなお姉ちゃんでもあり憧れの存在でもあった。  
それが二人の幸せなら、私が我慢する事で二人が幸せになるのなら…  
羨望と嫉妬の混じった複雑な思い。  
姉に対して恋心に似た思いをちえみは抱いていたのだ。  
だが──  
ちえみの願いも空しく二人の別れは突然やってきた。  
姉の受験がきっかけだった。  
受験を理由に二人の仲は引き裂かれた。  
理由が受験だけではない明らかだった。  
何かにつけては二人の仲を両親達は引き裂こうとしていた。  
五つ下の彼氏に  
五つ上の彼女  
親達が快くそれを受け入れるはずもなかった。  
しかし、引き裂こうにも何か理由を付けなくてはならない。  
さゆりの受験はもってこいの材料だった。  
「私達ももう潮時かもしれんね………」  
そう悲しそうにうつむく小百合に三郎は何も言えなかった。  
引き止めても無駄だと三郎は感じていた。  
小百合の答えはもう決まっていたのだから──  
話せば話すだけ傷口は広がっていく。  
なら、いっそ、綺麗な別れ方をしよう。  
それが、納得のいかないものだとしても  
きっと、きっと、いつか─  
一緒にいられる日が来る──  
言葉には出さなくとも二人はそう思っていた。  
 
「私の事なんか忘れてあんたは幸せになるんよ」  
小百合はそう最後に言い残すと三郎の前から  
姿を消した。  
三郎はあえて小百合を引き止めなかった。  
彼女の考えを尊重したかったからだ。  
大好きな彼女の選んだ答えを大切にしたかったから  
三郎は己の気持ちを抑えて小百合が立ち去るのを  
ただ、ただ、立ち尽くして見ていた。  
「嫌な事思いだしてしまったのう………」  
タメ息混じりに呟く三郎の横顔には苦痛が浮かんでいた。  
忘れていたい。思い出したくない過去。  
あの時の自分の選択は正しかったのか  
無理にでも小百合を引き止めるべきだったのか  
今も昔も三郎に答えは出てこない。  
浮かんでくるのは、頭に浮かんでくるのは  
小百合の悲しそうな横顔。  
「あの時俺達は素直になるべきやったんやろうな………」  
小百合に再会してからは思いだす事も思い返る事もなかった過去。  
これから先、思い出す事もないだろうと彼は思っていた。  
もう、小百合を離さないと決めたのだから  
悦子には浩之がいる。  
反発しあってはいるが心の中でお互いを固く信頼しあっている  
二人の仲を引き裂くのは耐えられなかったのだ。  
彼等にそんな思いなど三郎はして欲しくなかったのだ。  
自分と小百合の様な思いを  
浩之と悦子にだけは絶対に──  
そう心に誓った。  
 
そのの考えがゆらいだきっかけは多恵子の告白だった。  
 
──悦ねぇはあんたの事が好きだったんよ──  
──私はあんたが羨ましいわ──  
──好きよ、はっきり言うて大好きや…悦ねぇが大好きや──  
 
誓いが破られた瞬間だった。  
 
「しょうもないな………んっ?あれは──」  
いつもなら見向きもせず黙って通り過ぎてしまうはずのバス停。  
自転車通学の三郎には関係のない存在だった。  
今日もこれからもずっと関係のないはずだった。  
うっすらと視界に悦子と浩之らしき人物が映るまでは──  
「まさかな、こんなとこにおるわけ──」  
『ない』そう言い切りたかった。  
だが──三郎は嫌な胸騒ぎを覚えた。  
それが、悦子にとって不幸な選択であった。  
気のせいやろう…そう思いつつも三郎は  
自転車を道の脇に止めると視線をバス停へと映した。  
疑心は真実へと変わった。  
そこには浩之の頬にキスをする悦子の姿があった。  
三郎は反射的に奥歯を噛み締めた。  
悦子にキスされた浩之はと言うと驚きのあまり  
どうしていいのか分からないのであろう。  
瞬きすらするのを忘れて悦子を見つめていた。  
悦子はそんな浩之を気にする事もなく  
浩之と三郎の視界から消えていった。  
浩之は何も手につかない様子でぼっーと天を仰いでいたが  
しばらくして、正気に戻ったのだろう。  
家路へと急ぐ様にその場を離れた。  
幸い、浩之も悦子も三郎には気づいていないらしい。  
それは二人にとっても分からないが  
三郎にとっては好都合だった。  
「悦ねぇを虐めるにはもってこいのネタやな………」  
三郎の顔には被虐の色が見え隠れしていた。  
三郎は自転車のハンドルを握り締めると  
浩之の去って行った方を見つめ  
「二人とも覚悟しとけよ」  
そう噛み締める様に言い放つ三郎の心は被虐心で満ちていた。  
もう後に戻る事は出来ない──  
前みたいに心の底から彼等と笑い合い語り合う事もないだろう。  
一瞬、三郎の顔に迷いが見えた。  
彼等の顔と小百合の悲しそうな顔が重なったからだ。  
「小百合…許せよ………」  
三郎はそう搾り出すように言葉を発すると  
被虐に満ちた顔に戻っていった。  
 
──もう後戻りは出来ない──  
 
「ねぇ…なんで、今日は中田君が一緒じゃないのよぉ?」  
法子は隣に座ってる悦子をからかう様にこづく。  
悦子はそれに答える事なくもくもくと箸をすすめる。  
「悦子、中田君と喧嘩でもしたん?」  
「喧嘩はよくないよ。えっちゃん」  
黙ってる悦子がもどかしいのだろう。  
母親や祖母までも三郎の事を聞いてくる。  
だが、悦子は答えようとしない。  
答えるどころか、味噌汁をすすり始めた。  
そんなやりとりに業を煮やしたのだろうか幸雄が口を開いた。  
「悦子…そう言えばさっき、中田君から電話があったぞ」  
味噌汁をすする手が止まった。  
「明日、七時半に部室で待ってるそうだ」  
幸雄はそう言い終えると何もなかったかの様に  
おかずに手をつけはじめた。  
隣ではしゃいでいる姉達を尻目に悦子は黙って味噌汁を飲み干した。  
 

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