草木もねむる丑三つ時。
全てが寝静まった町を、青白い月光に照らされた一つの影が飛ぶように我家へと急いでいた。文字通り、家々の瓦屋根を飛び渡りながら。
やがて、懐かしい忍者屋敷までたどりついた影は、すたりと縁側に飛び降りると、その血のように赤い忍者装束の頭巾を剥いだ。
ぼうぼうに乱れ伸びた髪が現れる。子供の頃からの習慣で、一応は頭頂部でくくっているものの、その紐はぼろぼろに擦りきれ、今にもちぎれてしまいそうだ。
青年の名は霧隠虎太郎。400年も続く忍者の系譜・霧隠家の新しい当主である。
髪も顔も服も薄汚れているが、その顔は輝いている。
ひさびさの我家だ。
もちろん、忍者の修行に終わりは無い。だが、一段落ついたすがすがしさに、大切な妻と再会する嬉しさ。自然に頬がゆるむ。
だが、隠し戸から屋敷にしのびこみ、寝室の襖に手をかけたとき、その笑顔は凍りついた。
中から聞こえてくる、寝息。
ひとつではない。
妻以外に、誰かがいる。
虎太郎の全身は硬直した。それこそ、指の先から、結ったマゲの先まで。
体は動かない中で、聴覚をつかさどる神経だけがピンとはりつめる。
一つは、間違いなく、聞きなれた妻の寝息だ。
だが、その他にもう一つ。
父ではない。
母でもない。
姉でも…ない。
……誰だ?
今回の修行に出た日の、妻の質問が脳裏によみがえる。
「ねえ、いつ帰ってくるの?」
適当に「すぐさ」と答えると、妻は苦笑いした。
あれには、裏があったというのか。
妻は若く、美しい。
変わった写真を撮るためならどこにだっていくという、活動的な面もある。
かと思うと、ふたりだけの時には急にしおらしくなり、そのきれいな瞳をささいなことにうるませるという、情緒的な面もあわせもつ。
この一見相反する性格の魅力にとらわれてしまうのは、きっと自分だけではないはずだ。
だが、まさか妻が自分以外の男となんて…
しかし、否定しようにも、現に今、二つの寝息がなかよく聞こえてくるではないか。
虎太郎は自分に言い聞かせる。この襖を開けろ、と。開けて、事実を確かめるしかないと。
だが、体は動かない。
気づけば、修行で鍛えた末に炎にかざしても熱さを感じなくなった両手から、汗が滝のように噴きだしていた。外は涼しい、いやむしろ寒いくらいなのに。
そう、寒い。いや、寒いというか、透明の巨大なゼリーに包まれたように、全ての感覚がなくなっていった。
何も聞こえない。
何も見えない。
何もできない。
ただ、重苦しい。
…そう、息もできない……
ふいに、ザッと襖があいた。
けだるそうな妻が出てきた。
突っ立っている虎太郎をみて、あっ、と小さく息をのんだ。
寝巻きの浴衣はゆるんで、白い乳房がのぞいていた。
虎太郎はそれを見て、かっと頭に血がのぼった。
「おい、千夏! だ、だれなんだ、奴は!?」
寝室の奥の暗闇を指差して、妻にくってかかる。
千夏は悪びれた様子もなく、浴衣を整えた。
「待たせる方が悪いわ。なによ、9ヶ月も。すぐ帰るって、約束してくれたのに。」
ついでに髪をかきあげた。
その栗色の髪も、なまめかしく乱れているように、虎太郎の眼には見えた。
「ち、ちなつ……」
「とにかく、会ってよ。」
ぎゅっと、有無をいわせぬ力で虎太郎の手をとり、寝室の奥へと引き入れる。
「ま、待てよ千夏。心の準備ってもんが…」
「あんたの息子。」
「へっ?」
「ほらほら〜。パパのお帰りよ〜。…あんたも挨拶しなさい。ただし、そっとね、そっと。起きない位に。寝かしつけるの、大変なのよ。誰かさんに似て元気一杯だから。」
妻の布団の隣で、おくるみに包まれた小さな赤ん坊が、すやすやと寝息をたてていた。
「あ…そ、そうなのか。そうだったのか。ハハハ。アハハハ。いやあ、俺はてっきり…アハッ、アハハ。……やあ、はじめまして、おまえのとうちゃんだ。それにしても、ちっこいなあ。大福3つ分も無いんじゃないか? でも、大福みたいにやわらかそ〜だ。どれどれ試してみ…」
その後、若き忍者が妻に烈火のごとく叱られたのは、言うまでもない。
また、その声で赤子が目を覚まし、夫婦二人であたふたすることになるのも、言うまでもない。
<終わり>