人は生きている限り夢を見続ける。  
 それは起きている時も、眠っている時も。  
 
 そんな通念は僕においてもまったく変わらない。  
 寝ても、覚めても、僕は淡い輪郭のような夢を見続けている。  
 
 あいつが完全にいなくなった、春の日から。  
 
 
 ――白の夢の岸辺――  
 
 
 吸血鬼が学園中を席巻するという、どこの三文小説にも出てこないようなフザけた  
事態がようやくの決着をみて、僕は自室で一人今日の授業の復習をしていた。  
 この学園じゃ自学自習に励む生徒など一割もいればいい方だ。それはよくも悪くも  
ここの学生が一様にEMP能力などという常軌を逸した力を有していて、学校の制度が  
ユルい、ユルくせざるを得ないという原因に拠っている。  
 僕はシャーペンを置いて回転式の椅子に寄りかかると、窓から晩秋の夜陰を見上げ  
た。ここからじゃ月は見えない。外の景色はそれだけで外気温がある程度まで低下し  
ているだろうことを伺わせる。  
 静かな夜だった。  
 この学園に来て足掛け六年。これまでにここまで静逸とした時間を持つことがあっ  
たろうかと僕は回想し、するたびにまとわりつく半透明の浮遊する影を頭から振り払  
う。まずなかったと言っていい。たびたびあるようならそもそもこんな疑問に至った  
りしないだろう。  
 僕の部屋には現在形で望まぬ同居人がいるが、今はどこかに行っているらしい。  
 まったくもって「どこかに行っているらしい」という表現しかできないのはあいつ  
の挙動を端的に表した一節と呼べる。長身、白衣、哄笑、無意味な自信。考えるだけ  
で偏頭痛を起こしそうになる特徴の数々。僕は首を振って余計な想像を前頭前野から  
追い払う。  
 僕はいつまでこの学園に駐留するのだろう。若菜のEMP能力が消失するまでか?  
真琴は他の理由があるようなことを仄めかしていたが、僕自身には何の特徴も変哲も  
ないというのは未だ揺るがぬ確信だ。  
 しかし、例えどんな時間稼ぎをしようとも、皆いつかは一様にこの学園を出て行く。  
が、それは何もEMPに限られたことではない。どこの学校であっても、入学すればい  
つか卒業の日がやって来る。ただ儀礼ばった式典がここにはなくて、個人個人で入出  
のタイミングが異なるだけの話である。  
 そうやって無意味な自己逗留をしているうちに、時計の短針がわずかばかり進んで  
夜が更ける。  
 僕に超能力のような力はまったくないが、今日もまたある予感が胸中を満たすのを  
感じる。  
 こういう日には夢を見る。僕を六年間錯迷させていた、あいつの夢を。  
 やがて梯子を上って床についた僕は、うとうとと追想の海に漕ぎだすのだった。  
 
 
 空は青く、僕は幼く、季節も若かった。  
 庭先に咲き誇る草花が陽光を受けて淡い色を放つ。その周囲を白や黄色、水色の蝶  
が舞う。……ここは僕の生まれ育った土地だ。  
「お兄ちゃん!」  
 背後から声がかかった。  
 瞬間的にはどちらの声だか解らない。振り向いてその立ち姿を認め、ようやく僕は  
二人のうちのどちらが発した声であったかを知る。  
「若菜」  
「早く早く! ちこくしちゃうよー!」  
 桃色のリボンが軒先を遊舞するアゲハチョウより軽やかに浮揚した。  
「今行く。春奈にも言っておいてくれ」  
「すぐにだよー。んっと、三十びょう以内」  
「わかったよ」  
 
 僕が言うと双子の一人はドアを閉めて出て行った。とんとんと階段を下りて行く音  
が遠ざかる。  
 ここは実家の二階にある僕の自室だ。現役五年目になるランドセルと学習机が、春  
先の風を受け流している。鼻を利かせても匂いがしないのは、僕がとっくにこの部屋  
に住み慣れてしまったことの証だ。開け放たれた窓から吹き込む微風が、僕の首筋を  
通って行った。  
 記憶にあるまま、僕はドアを開けて階下へと向かう。  
「わ!」  
「ん」  
 危うくぶつかりそうになったのは、もう一人の妹――。  
「春奈」  
「あぶないよー。きゅうに飛び出さないで」  
「ごめんな」  
 僕が軽く頭を下げると、  
「二人とも早く! はーやくー!」  
「うん!」「おう」  
 若菜の呼び声に僕と春奈は玄関へ赴いた。  
 靴を履いて、晴天の下へと繰り出す。三人一緒に。  
 
 
「わははー! がんばれお兄ちゃーん!」  
「もっと速くー!」  
「わ! ばか! あんまり揺らすなよ!」  
 自転車の三人乗りは僕らの名物とも定番とも言えた。  
 当時の僕の体躯に余るママチャリで、ギリギリ届くペダルを回す。片足踏み込むご  
とに左右へ傾ぐのが何とも危なっかしい。  
 僕たちの町ははっきり言ってしまえば田舎で、ビルなんてそんなにないし、コンビ  
ニに至っては数軒、それも中心部にしかない。この辺りのような郊外では特に、自然  
と田畑によるのどかなサラウンドを嫌というほど堪能できる。  
 うっかりしていると村に降格してしまいそうだと思いもするが、目下のところ僕は  
妹二人を乗せた自転車を倒さないように必死である。  
「ゆらゆらー」「おんぼろー」  
 春奈若菜が風に乗せて歌うようにユニゾンする。まばらな人目がちらほらと集まる  
気配を感じつつも、前方を注視するので精一杯だ。  
 道行く人は大抵が物心ついたときからの知り合いで、だから今日も微笑ましげに僕  
たちの曲芸を見送ってくれているはずだけど、さすがにそろそろ羞恥を覚える頃合い  
でもある。  
「あーモンシロチョウ!」  
「モンキチョウ!」  
「タンポポ!」  
「さーくら!」  
 僕が首を振らずとも、四つの目が勝手に周囲にある動植物たちの現在位置を教えて  
くれる。頼んでもないのに。  
「叫んでもいいけどじっとしててくれよ! 危ないんだからな!」  
 精一杯声を張り上げて、そうこうしているうちにようやく駅までたどり着いた。  
 
 
 JRという大動脈から枝分かれした毛細血管の末端のようにして、かろうじて延びて  
いる私鉄の終着駅。それが家の最寄だった。マイナーかつローカルな路線を走る電車  
はたったの二両だし、ドアは押しボタン式の手動、本数は通勤時でも一時間に三本。  
逃したら余裕で遅刻できる。  
「ほらきっぷだ」  
「はーい」「わーい」  
 同声二部合唱で春奈若菜は仲良く返事した。まるで遠足に行くような風情だ。  
 後背に山々の稜線が見える。今日はずっと向こうまで晴れの予報が出ているはずだ。  
 春奈と若菜がきゃいきゃいじゃれているのを見やりつつ、間もなくやって来た電車  
に僕らは乗った。  
 
 五分ほどして、ホームというより大型のコンクリートブロックと呼んでも差し支え  
ないような駅舎から、今にも壊頽しそうなくらいにくたびれた電車が滑り出す。  
「大人しくしてろよ」  
「わかってるよー」「ぶーぶー」  
 車内には僕らを含めても両手で数え切れるほどの乗客しかいない。けど最低限のマ  
ナーは守るべきと、当時の正義感が主張していた。  
 僕は窓から吹いてくる風を心地よく浴びつつ、外を流れて行く景色を見ていた。数  
駅ごとに町が街、街が都市へと移りかわっていく。  
 ……ふと僕は重要なことを思い出した。一様に並んで窓からの景色を眺めている双  
子に僕はこう囁く。  
「<あれ>はぜったいに使っちゃダメだからな」  
 忠告すると、二人は小作りな顔をまるで同期したかのようにこちらへ向け、左右対  
称に首を傾げたのち、  
「「なんで?」」  
 僕は側頭部を抑えて溜息を吐く。  
「普通の人はあんなの見たらびっくりするだけだからだよ。魂が抜けちゃうかもしれ  
ない」  
 魂ってのは例え話だけど。  
「ふーん」「へー」  
 今ひとつ納得してないような気がする。……けどまぁ、  
「とにかく、<ばりあー>は使っちゃダメだからな」  
「「はーい」」  
 返事だけはいいんだけどな。いっつも。  
 
 
 電車を乗り換える頃には人工的な風景が視野の大半を占めていて、僕らのいた町は  
異国だったんじゃないかというくらいには錯謬を与える。大して路線が混交していな  
くとも、小学生である身に妹二人連れの電車乗り換えはけっこうな大儀だ。  
 あちこちに興味津々な目を向けては無軌道衛星みたいに漂い出す春奈と若菜を何と  
か繋ぎとめつつ、無事乗換えを終える。電車が進むごとにみるみる都会へ近付いて行  
くのに興味と不安を半々で感じつつ、やがて目的の駅に到着する。  
 使い慣れない腕時計に目を落とすと、時間は午前十時。発表会の開始は十一時から  
だから、徒歩で会館に着く時間を考慮しても十分間に合う。  
 
 そう、今日は春奈と若菜のピアノの発表会だ。  
 だから僕も春奈も若菜も、おめかしと呼んで差し支えのないくらいにはよそ行きの  
格好をしている。ネクタイなんて初めて着けた。出掛けに時間がかかったのも、僕が  
三人分の慣れない着替えに奮戦していたからだ。  
 この日、両親は運悪く仕事が重なってしまっていた。最後の最後まで、何とか都  
合をつけんと上司なり店長なりに往生際悪く掛け合っていたようだけど、結局叶わ  
ず今日に至り、結果僕だけが二人を見送って見届けて見守ることになってしまった。  
「お兄ちゃん、どっちに行くのー?」  
 春奈が袖を引っ張った。若菜はきょろきょろと見慣れぬ街並みに好奇の目線を配っ  
ている。  
「待ってろ。今調べてるから」  
 招待状にあった市民会館への地図を判読すべく、僕は紙片を睨んでいた。  
「るるるららん♪」  
 春奈が今日演奏する曲を歌って、鍵盤を滑る手つきをしているのが視界の端に映っ  
た。若菜が右手で指揮者の真似事をしている。  
 ばあちゃんちなら行き慣れてるから何とでもなるけれど、未踏の地となると勝手が  
解らず、地図を持っていても咄嗟には進むべき方角が解らない。……こっちは南口だ  
から、これがあの道路で。  
 
「道をお探しですか?」  
 
 ふとかけられた声に、僕は顔を上げた。  
 
 ……知らない女の人だった。  
「ふふ。可愛らしいですね」  
 彼女は僕の両側でリハーサルもどきをしている双子を均等に見て、  
「道をお探しですか?」  
 もう一度同じ台詞を告げた。口の端が微笑の形にカーブする。  
「えっと、市民会館へはどう行けば……?」  
 半ば自然に僕はそう質問していた。すると彼女は縁の広い帽子の縁を手で押さえて、  
「わたしも同じ場所へ向かうところでしたから。よろしければご一緒しますが?」  
 と言って、たおやかな所作と不思議な存在感を随伴して歩み出した。  
 何となく、そのまま見送ってしまいそうに僕は佇立してしまっていた。  
「……お兄ちゃん?」  
 我に返ると若菜がぽわんとした目線で僕を窺っていた。  
「ん? あぁ。あの人が案内してくれるってさ。ついて行こう」  
 今さらながら何一つ不信感を覚えなかったのはなぜだろう。女性だからか、嫌な気  
配がしなかったからか、それとも僕が無垢だったからか。はたまたその全部か。  
 バスターミナルとなっている駅前ロータリーから若葉の芽吹く並木通りへ至る。歩  
道に沿って僕と春奈若菜は、まるで親戚の姉に先導される従兄弟のようにして道を進  
んでいった。瀟洒な邸宅の並ぶ通りは、ここが閑静で高級な街路であることを示して  
いたが、当時の僕はそんなことに感慨を覚えているほど余裕を持っていなかったはず  
だ。なにせ知らない土地だし、二人の妹を無事目的地まで送り届けるという使命感で、  
心の余白のほとんどが埋め尽くされていたから。  
 念のため地図も確認しながらほとんど一本道の行路を抜けると、この市街の中枢と  
思しき大通りに差し掛かった。市役所やら郵便局やら農協やらファミレスやらコンビ  
ニやらが連綿と並んでいて、車の往来と人通りの多さから活気が伝わってくる。  
 信号を渡ると道は左へ延び、大通りに沿ってなおも行程が続く。中心部だけあって  
歩道は広く、モダンな舗装が端から端まで整備されている。  
「到着したのです」  
 先頭の彼女が振り仰いだ先。三階建ての年季の入った白塗り建造物が鎮座していた。  
スーツ姿で髪型を固めた男性やら、真珠のネックレスにイヤリングとワンピースで白  
に統一した女性やら、僕と春奈若菜のマイナーチェンジのような格好をした少年少女  
やらが入口に吸い込まれていく。  
「あ……。ありがとうございます」  
 僕は礼を言ってお辞儀した。女性はくすっと笑うと、  
「いいえ。これくらいは何でもありません。果たされるべき役目というものです」  
 すると女性は僕たち三人を均等に見つめてから首を傾げ、  
「演奏なさるのは皆さんでしょうか?」  
「いえ、僕は見に来ただけで。出るのはこの二人……おいあんまり離れるなよ!」  
 僕は連れ立って隣の消防署に向かおうとしていた双子の襟元をつかんで引っ張り戻  
した。  
「わー」「くすぐったいよー、きゃはは」  
 すると女性は微笑をたたえて、  
「ふふ、本当に可愛い妹さんたちですね」  
「せわが焼けます。ヤケドしそうなくらいに」  
 女性はしばし若菜と春奈を茫洋と眺めていたが、   
「それでは。演奏、楽しみにしています」  
 そう言うと黙礼して入口へ向かった。僕は少しの間、彼女の後ろ姿を呆然と見送っ  
ていた。  
「お兄ちゃん」「あたしたちも入ろーよー」  
「……ん? あぁそうだな。とりあえず間に合ってよかった」  
 胸を撫で下ろした僕は、双子と一緒に入口へ向かう。  
 春奈若菜とともに前方へ顔を向ける頃、女性の姿はもうどこかに消えていた。  
 
 
 ホールは二百名程度が入れる大きさで、いかにも市民会館といったスケールだった。  
想像との落差がないでもないけど、あんまり大きくても僕が緊張しそうだからこれで  
丁度いい。  
 僕と同い年くらいの連中はほとんどが発表側にまわるため、客席に座っているのは  
授業参観の出張版のような父母に加え、祖父母や縁戚の人がほとんどだった。  
 端っこに座った僕は、照明の落ちる舞台にただ一つ置かれたグランドピアノを眺め  
た。煌々とした光を返す黒く大きな楽器は、奏者の出番を今や遅しと待ちわびている  
ように思えた。  
 家にはアップライトピアノがあるものの、母親が嫁入り道具のひとつとして持って  
きた年代物で、調律の具合もあんまりよくないから聴いていてさほど心地よくなれな  
いのが問題点だった。端の鍵盤なんか僕が聴いても解るくらいに音痴だ。  
 僕は館内を見渡した。さっきの女性がどこかに座っていないかと注視してみたもの  
の、少なくともここから眺望できる範囲に彼女はいなかった。二階席にいるのだろう  
か。あそこはピアノ教師の関係者一同の指定席だったと思うけど。  
 正面に視線を戻した僕は、しかしまだ彼女のことを考えていた。別に色恋めいた感  
情があるわけじゃなく、背格好や年齢が判然としなかったからだ。いくら僕が小学生  
でも、大人であるか否か、身の丈がどれほどかくらいは見れば解る。それなのに、彼  
女は思い出そうとすればするほど、その記憶が霞をつかむようにまばらに解けて消え  
てしまう。  
 僕が十一歳なりの思案に暮れていると、ホール全体の照明が落ちてステージだけが  
明るさを残す形となった。一度幕が下りると、スポットライトが向かって左端に照射  
された。舞台袖からスタンドマイクに向かって歩いてきたのは、春奈や若菜が日頃師  
事している先生だった。薄紫色のロングドレスに身を包み、アクセント程度にネック  
レスを着けている。  
 彼女の短い挨拶と礼ののち、緞帳が上がって最初の発表者がステージ脇からしずし  
ずと歩いてきた。  
 
 
 十名ほどの発表が終わり、一度やってきた眠気が何とか覚めてくる頃、春奈が私立  
学校の制服のような発表用衣装でとことこと歩いて来た。  
 僕は間にあった休憩中に席を中央前方に移していた。それは他ならぬ春奈若菜が自  
信を持って演奏に臨めるようにとの当時の僕なりの思いつきだった。  
 その甲斐あってか、中央に出てきた春奈は二秒ほどキョロキョロした後に僕を見つ  
けて手を振り、  
「あ、お兄ちゃん!」  
「ばか……! しーっ」  
 声まで出して周囲の苦笑を買ってしまったのは恥ずかしかったけれど、見つからず  
に不安な表情をされるよりかはマシだろう。  
 春奈は水色のリボンを揺らせてぴょこっと礼をすると、もう一度僕ににへっと笑い  
かけてから椅子に座り、間もなく演奏を開始した。淀みない清流のような旋律が、す  
っと耳から入ってくる。もちろん未熟なところはあるし、何より鍵盤を叩く力が足り  
ないから、心なしかこじんまりとした楽曲に聴こえてしまうけど、それ以上に春奈  
は音楽を真っすぐに楽しんでいた。見ているだけでもそれがよく解った。楽器とひ  
とつになっているように、音符の上を歌いながら散歩するように、軽快に春奈は課  
題曲を奏でていった。  
 目をつむった横顔に、どこまでも穏やかな笑顔が浮かんでいた。  
 そして僕は、この笑顔がいつまでも失われなければいいと、静かに願った。  
 
 
 ついつい拍手しすぎて手がじんじんしたものの、続けて若菜の演奏だから根をあげ  
てもいられない。観客の人々が一瞬ざわついたのは、今引っ込んだ人物がもう一度出  
てきたように見えたからに違いない。僕だって何も知らなかったら同様の反応を見せ  
ていたかもしれない。  
 
 春奈から聞いていたのか、若菜はすぐさま僕を見つけて手を振った後で、ホール全  
体へ向き直ってぴょこりとお辞儀をした。桃色のリボンがふわりとなびく。  
 館内に響くアナウンスが告げる名前を聞いて聴衆も納得したらしい。やがて静寂が  
戻ってくる。そうして誰もが静まった頃、若菜も演奏を始めるのだった。春奈とは違  
って、どこか物憂げな雰囲気のあるゆるやかな曲だ。  
 
 双子のピアノ演奏に、僕はほとんど違いを見出すことができないでいた。  
 例えば自室にいる時間。  
 下の階から鍵盤が弦を震わせる音が聴こえてくると、僕は当てずっぽうで検討をつ  
けて、しばらくその音色に耳を傾けている。やがて練習とも戯れとも呼べる演奏が終  
わると、僕は階段を下りて答えを確認する。  
「春奈だったのか」  
 すると水色のリボンはくるりと振り返ってへへっと笑い、  
「ぶー」  
 もう一度正面を向くと襟足を片手でかき上げて、まっさらなうなじを僕に示す。  
「はずれ」  
 クスクス笑うと、別の方向から同じ声が聞こえてくる。  
「あたしがわかな」  
 そう言って今度は桃色のリボンをつけた妹がキッチンから出てきて、同じ所作で首  
の後ろを見せる。そっちには小さな黒子があった。  
「紛らわしいからリボン取りかえるなって言ってるじゃないか。まったくお前たちは」  
 そう言う僕に姉妹はけらけらと笑ってリボンを解き、交換してまた元通りにした。  
 春奈と若菜にとっては、どっちのリボンをつけていようがいまいが関係ないだろう、  
と僕は思うのだった。相手は自分であり自分は相手なのだ。たまたま二人の形となっ  
てこの世に生を受けたに過ぎない。  
 
 ――。  
 
 若菜の演奏がつまづいた。  
 音階を順に上がって行く箇所で指が転んでしまい、驚いた若菜は思わず両手の動き  
を止めてしまったのだ。途端に緊張を伴った静謐に満たされる会館。  
「…………」  
 猫のように両手を半開きにし、ぱちりと不安げな瞬きをして若菜はこちらを見た。  
(が・ん・ば・れ)  
 僕は大仰な口の動きとガッツポーズのジェスチャーで若菜に意思伝達を図る。  
 大丈夫、お前ならきっと最後まで演奏できるさ。  
 
 <ばりやー>は絶対使っちゃダメだ。  
 確かにそう言ったし、そもそもあんな奇妙な力、僕にはないけれど。  
 それでも、僕にだって声に出さずに意思を伝えることくらいならできる。  
 
 そう信じている。  
 
 なおも若菜は唇をきゅっと結んで、情緒不安定気味に首を横向ける。  
 すると若菜はある方向を見つめて視線を固定させた。  
 見ると舞台袖に春奈の姿があって、僕と同じポージングで若菜を励ましていた。  
(が・ん・ば・れ)  
 それから数秒のうちに、若菜は笑顔を取り戻していった。  
 若菜はもう一度だけ僕を見て頷くと、演奏を再開した。  
 今度は一度も途切れることなく。  
 
 
「えへへー」「ふふふー」  
 帰り道、僕は二人の妹に両手を塞がれていた。  
 
「放せったら。こら、若菜、春奈」  
 言うだけ無駄というものだった。笑顔の姉妹はきゃいきゃいと、まるで僕を軸にバ  
ランスを取るヤジロベーみたいにして両端に付随する錘と化していた。  
 わずかに花びらを残す桜並木の大通りに沿って僕たちは歩いている。  
 最後に先生が掉尾を飾る演奏をして、生徒全員が集まって記念撮影したところで発  
表会は無事に終了した。春奈と若菜は丁度先生の両脇に西洋人形みたいにしてちょこ  
んと腰掛けたが、溶けかけのチョコレートみたいな甘ったるい笑いかたは写真写り用  
の表情とは言いがたかった。言うだけ無駄なんだけど。  
「お兄ちゃんありがと」  
 若菜はそう言って無邪気に笑った。さっきの不安もどこへやらだ。  
「わかった。わかったからまず手を放せったら。人が見てるだろ。春奈、お前もだ」  
 僕が何か言うほど、二人は磁力を増すマグネット状態になった。  
 若菜が笑顔を取り戻したのは何よりだけれど、人通りの多い街中で妹二人にくっつ  
かれる兄というのはいくら何でも恥ずかしすぎる。  
 何とか引き剥がせないものかと奮起しつつも上手く行かない。仕方なく衆目を浴び  
ながら帰りの道をゆっくり歩く僕たちだった。  
「お兄ちゃん、きょうのご飯は何だろう?」  
 春奈がぽわぽわしつつ呟いた。僕は半ば憮然としかけながら、  
「さぁな。けど僕はカレーが食べたい気分だよ」  
 今のこの状況は溶かした砂糖をそのまま飲んでいるような気分だったから。  
「あたしね、はんばーぐがいいな」  
「あたしもー。はんばーぐー」  
 春奈に若菜が賛同した。二人してけらけら笑って、なおのこと僕の両腕の自由が利  
かなくなる。思わず息を吐いた僕も、同じように笑っていたと思う。  
 ハンバーグか。……それもいいな。  
 十分以上の時間をかけて、ようやく駅へ至る通りとの交差点までやって来た。  
 眼前の信号は丁度赤になったところだった。通行量の多いこの道ではしばらく待た  
ないといけないかな、と僕は思っていた。  
 ひらひらと桜が最後の花弁をまばらに落としていて、道行く人の何人かはその様  
子を見て囁きあっているようだった。散り際ではあるものの、なぜだかとても幸福  
な気持ちに僕の胸は満たされていた。  
 そういう風にして、僕の意識は今のこの場所ではなく他に向いていた。  
 だから、その直後に起きた出来事がどうして、どうやって発生したのか、今でもち  
ゃんと説明することができない。  
 桜を見上げていた僕の眼前を水色の蝶々が舞って、間もなく声が聞こえた。  
「はるなっ!」  
 脊髄反射のように僕は正面を向いた。  
「…………!」  
 生まれてからこれまで、最も見慣れた少女の後ろ姿があった。  
 ゆっくりと、まるで早春の小川を一歩、一歩と歩くようにして彼女は前へ進んでい  
った。どういうわけか、車の流れが一時的に止んでいた。  
 僕が叫んだのと、それが起こったのと、全身が総毛立つのが同時だった。  
 
「春奈っ!!!」  
 
 信号は赤のままだった。  
 まるでフェードインしたかのように、大型の車体が視界に入ってきた。  
 
 水色のリボンをつけた僕の妹は、次の瞬間、あっさりとトラックに撥ねられた。  
 
 
 
 
 
 
 
 
「は……る、な……」  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 すべてのものが真っ白になった。  
 あらゆるものがゆっくりになった。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 春奈は風に乗るかのように、ふわりと宙へ浮いた。  
 その光景は、この世で最も現実味を欠いた出来事に思われた。  
 
 真っ白に包まれた世界の中で、春奈だけがそこにいた。  
 何もかもが吹き飛んで消え去ったかのように、無限の時間が続いていた。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 彼女の身体は、程なくアスファルトに叩きつけられた。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「春奈ぁあああああああああああっ!!!」  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そこから何があったのか。直後の記憶は混迷している。  
 断片的に浮かび上がる、救急車のサイレン、赤いランプの明滅。誰かの怒号と悲鳴、  
騒然となった春先の大通り。せわしく行き交う警察官。それから僕の肩をつかんだ誰  
か。何か言っていたけど解るはずもない。  
 
 たぶんそこにいた人たちは言葉を発していたと思う。  
 けれど、僕はそれを何一つ理解できなかった。  
 そもそも、誰かが何かを言うことに意味などなかった。  
 
 
「はるな……春奈……、はる、な……」  
 僕はうわ言のように妹の名前を呼び続けていた。  
 しかしそれに答える無邪気な笑みと爛漫な姿は、もうどこにもなかった。  
 
 
 気がつけば僕は病院のベッドの上にいた。  
 印象的な紺碧の空間。そよぎもしない、冷たいカーテン。  
 窓を月光が照らしているのにちっとも明るくない。  
 
 凛とした空気が室内に満ちている。  
 それは僕をも貫いて果てしない沈黙をこの場に固着させている。  
 
「お兄ちゃん……」  
 すぐに抱きついてきたのは――、  
「は、るな……?」  
 彼女は泣きじゃくっていた。  
 どれだけ泣いても涙が足りず、どれだけ抑えても制動がつかず、いつしか枯れ果て  
て真っ赤になった顔で、さらなる哀惜の念に押しつぶされる寸前の表情。  
「お兄ちゃん……うえぇぇ、あた……ひぐ、うぇっ、あたしは……うぇ、わかなだよ」  
「わ……かな?」  
 僕は顔を上げた。母親と父親もそこにいた。  
 
 二人とも沈痛な面持ちで、僕の手元に視線を落としている。  
 何も言わないのはたぶん、どちらもこみ上げてくる痛切に耐えているからだ。  
 でも僕には解らなかった。  
 すべての感覚が全身から消失してしまっていた。  
「はるなは……?」  
 僕の言葉に、誰も返事をしてくれなかった。  
 
 春奈は、どこに行った?  
 
 
 等間隔に並ぶ常夜灯の光が、幻のように僕の目の前を過ぎ去っていった。  
 車の窓から見る夜の風景は、みな現実味を欠いた別世界の出来事のように思えた。  
 
 僕は自失したまま、ずっと、ずうっとそれを眺めていた。  
 そうしていつまでも春奈を探していた。  
 あの笑顔を探していた。  
 なのに見つからなかった。  
 どれだけ目を凝らそうと、過ぎて行くのは輪郭のない光点だけだった。  
 あとはすべてが闇だった。  
 もしかしたらすべてが。  
 
 
 気がつけば僕は自宅に帰ってきていた。  
 両手足の感覚がない。春なのにどうしようもなく寒い。  
 
 ふとあることに気がついた。  
 僕はこれまでずっと泣き続けていた。  
 抑えても抑えても口が震えて、堪えても堪えても涙が止まらない。  
 
 そして僕はもうひとつの発見をした。  
 目の前に、見慣れない、細長い函があった。  
 
 
 僕はすぐ先にあるその器に、少しずつ歩み寄る。  
 見てはいけないものなのに、身体が言うことを聞かない。  
 
 近付いちゃだめだ。  
 
 嫌だ。見たくない。  
 やめろ。頼むからやめてくれ。  
 
 
「はる……な……」  
 
 
 
 木製の函に入れられた彼女の身体は、永遠の時を閉じこめたように動かなかった。  
 いつか笑っていたはずのその顔は、驚くほど美しかった。  
 事故にあったはずなのに、傷の一つも見られなかった。  
 
 なのに、もう二度と動かない。  
 僕の手を引いていた、片方の大切な錘は、もう二度と戻ってはこない。  
 
 
 僕は立ち尽くして、その姿をずっと見ていた。  
 いつまでもいつまでも。  
 いつまで経っても流れる涙を、止めることすらできず。  
 
 目の前にいる春奈を止めることすらできず。  
 
 
 
 
 
「春奈……はるなぁあああぁぁ……」  
 
 僕は泣き続けた。一晩中泣き続けた。  
 たぶんそこで、僕は一生分の涙を使い果たしたのだろう。  
 
 
 
 
 
 
 
 春名は、死んだ。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そこで夢が終わる。  
 そうして目が覚めた僕は、どんな感情も抱いていない。  
 
 一滴の涙もない。  
 あるのは乾いた朝と、何の音色も聞こえない心だけだ。  
 
 
 僕は梯子を降りると背伸びをし、首を回して部屋の窓を開けた。  
「…………寒い」  
 冬が一段と近くまでやって来ている。  
 山間の朝は、それを何より鋭敏に察知して、住まうものに言外の示唆をする。  
 
 僕が春奈の幽霊に逢うのは、涙を使い果たした翌日の話だ。  
 以来六年間、僕は一度も泣いたことがない。  
 
 幸いというべきか、その後に訪れたのはまるで喜劇を判にして押したようなバタバ  
タした毎日だった。辛気のつけ入る隙間は、つい半年前まで一分も存在しなかった。  
 
 
 半年前――。  
 
 あの時の春奈の言葉を、僕は今でも覚えている。  
 どんな芝居のどんな台詞よりもはっきりと、胸に焼きつけている。  
 たぶん一生忘れないのだろう。  
 
 
 そして、春奈の言葉を記憶している限り、僕は若菜を守り続ける。  
 それが残されたものの使命だと思うからだ。  
 
 春奈への返答だと思うからだ。  
 
 
 
 僕は身だしなみと着替えをひとしきり終えると、下のベッドでいぎたなく眠る仰臥  
姿を叩き起こすべくスリッパを構えた。  
 
「……起きろ間抜け。朝だぞ」  
 
 
 
 (了)  
 
 

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