とある休日。  
幸宏は参考書を買う為に書店に出かけていた。目的のものを購入し、さてこのまま帰るのもどうかな………  
と、地元商店街をふらふらしていると、見覚えのある紺のレクサスが止まっているのに気づいた。  
あれ、もしかして………と、後部座席の方に目を向けるといきなり扉が開き、天ヶ崎いずみが車から飛び出してくる。  
「あ、いずみ先輩……って、え!?」  
やけに真剣な顔のいずみが駆け寄ってきたと思ったら、腕にしがみつかれてしまった。  
「な、何ですか!? いきなり!」  
「しっ! ……いいから話を合わせて!!」  
言いながらいずみは身体を寄せてくるものだから、案外ボリュームのある胸に腕が埋もれてしまう。  
柔らかな腕を包む感触と、いずみから漂うなんともいえない香りがむず痒い。  
何が起きているのかわからず戸惑っていると、今度はレクサスから西園寺さんが飛び出してきた。  
「お嬢様! 車にお戻りください!! 」  
「いやよ! 絶対に行かないから!!」  
「お嬢様!!」  
じりじりと近づいてくる西園寺さんから逃げるように、腕を組んだまま幸宏の背中にしがみつくいずみ。  
………あの……なんか、僕の肘関節がすごい方向に曲げられようとしているんですが………  
幸宏は軋むような痛みに脂汗を流しながら、いずみを横目で眺めた。  
いずみは幸宏の苦痛にまるで気づいていないようで、厳しい目付きで西園寺さんを睨みつけている。  
「言ったでしょ、私には恋人がいるの! だからお見合いなんて絶対に行かないんだから!!」  
「え!?」  
いずみ先輩に恋人が!? 全然気づかなかった。  
半ば叫ぶようないずみの言葉に、負けじと西園寺さんが言い返す。  
「またそんな事を言って! だいたい美冬様は女性です!!  
『そんなものは恋人とは認めん!』と会長様だっておっしゃってたじゃないですか!!」  
「さ、西園寺さん、何を言ってるのよ!? 美冬は関係ないでしょ!」  
「え? 違うんですか? 毎晩お嬢様の寝室から  
『……み、美冬…美冬!』と聞こえてくるので、その、てっきり……」  
「………いずみ先輩……美冬姉さんと?」  
そうか、だから美冬姉さんは男である僕にあんなに冷たいのか………  
二人ともそっちの人なのか………。  
「ち、違うわよ! なんで神……ゆ、幸宏までそんな目で見るのよ!  
 わ…わたしの……彼氏なのに!!」  
「「ええぇぇッ!?」」  
思わず上げた奇声が西園寺さんとハモってしまった。  
 
「う、嘘です! こんな貧祖な庶民がお嬢様の……私のお嬢様の恋人であるはずがありません!」  
動揺を声に滲ませながら西園寺さんが叫んだ。貧祖って……何てこと言うんだこの人!?  
「ほ、本当よ! 本当なんだから! 確かに幸宏は馬鹿で、貧祖で天然で捨てられた犬みたいに見えるけど……  
それでも幸宏は私の恋人なの!! お父様にも伝えて頂戴」  
いずみ先輩……西園寺さんより酷いこと言ってませんか?  
それでも、なんとなく状況が見えてきた。  
いずみ先輩はお見合いが嫌で、それを断る口実として僕に恋人役をさせたいらしい。  
話を合わせて。と言ったのは、たぶんこのことだろう。  
このまま知らないフリも出来るけど、いずみ先輩のためだ。  
ここは一つ、日頃お世話になってるお礼も含めて協力した方がいいのかもしれない。  
それにそろそろ、僕の肘も限界だし、野次馬の視線も痛いので落ち着いてほしい。  
まあ、いずみ先輩ぐらいの美人が、西園寺さんほどのスーツ美女と叫びあっているのだから、  
人目を惹かない方がおかしいんだけど。  
「………本当にいいんですね? 会長様に恋人のことをお伝えしても」  
「………そ、それは………」  
「かまいません」  
言い淀むいずみの代わりに幸宏が答えた。  
たとえ嘘の恋人とはいえ、あまり情けないところばかり見せるわけにもいかない。  
はッとした顔で二人が幸宏を見つめる。  
………何でだろ、貧疎な庶民がこんなことを言うのはそんなに意外だったのかな?  
「いずみ先輩の意思を無視してお見合いだなんて……そんなこと見過ごすわけにわいきません」  
「神庭君………」  
先ほどまでの呼び捨てを忘れていずみが呟いた。なんだかポーッと頬が赤く染まっている。  
あれ、案外ポイント高かったかのかも、今の台詞。  
「本気ですか………」  
なんだか殺気まで混じった低い声で西園寺さんが呟く。  
反射的に頭を下げて誤りそうになった幸宏だが、いずみが関節を極めているのでろくに身動きが取れない。  
結果として、ばっちり西園寺さんの方を向いたまま幸宏は言葉を紡いだ。  
「……も、もちろんです。いずみ先輩は渡せません。」  
「………」  
「………」  
「………わかりました」  
その言葉と共に、西園寺さんから人を視線で射殺できそうなほどの殺気が消える。  
よかった、西園寺さんもわかってくれたみたいだ。  
 
「………神庭幸宏、あなたは今から天馬グループの敵です」  
 
「えええぇぇぇっ!?」  
殺気が消えた代わりに、西園寺さんが浮かべたのは哀れみの表情だった。  
「バカな子……天馬グループに刃向かうなんて……」  
「ちょ、ちょっと待ってください! どうしてそんなことに!?」  
「西園寺さん、幸宏君を甘く見ない方がいいですよ」  
「いずみ先輩も煽るようなこと言わないで!!」  
「ふ……その少年がどんな声で鳴くのか啼くのか今から愉しみですよ」  
「いいわ、そこまで言うなら幸宏君にどこまで大きな悲鳴を上げさせることができるか、じっくりと見せてもらうわ」  
 やめて! 僕の命を粗末にしないで!!  
 
「………ひとまず、会長様にご報告いたします」  
そんな言葉を残して西園寺さんが去って行った。  
いずみは幸宏にしがみついたまま、  
「まったく、西園寺さんも強情だから……」  
などと、頬を膨らませている。  
よくわからないけど、あんな危ない運転手を令嬢に付けているなんて、天馬グループってどういう企業なんだろう。  
それよりも、この展開は何だ? まさか、一介の高校生を拷問にかけるなんてただの脅しだよね?  
「……あの…いずみ先輩……」  
「ごめんね幸宏君、まさかこんなことになるなんて……」  
「西園寺さんが言ってた『天馬グループの敵』って………」  
「………本当に……ごめんなさい……」  
「えっ!? そこで深刻そうな顔しないでくださいよ! 怖いじゃないですか!」  
「……冗談よ、神庭君は安心して」  
「ですよね、子供相手に脅迫なんて、本気なわけ……」  
「……何かあっても、美冬は一生養ってあげるから」  
「ちょっと待ってください。明らかにそれおかしいですよね?」  
「だって、天馬に睨まれて生き残ってる人なんて誰もいないし………」  
「なんて事に巻き込んでくれたんですか!?」  
「幸宏君だって美冬を巻き込みたくないでしょ?」  
「美冬姉さんは関係ないじゃないですか!」  
幸宏が叫ぶと、ゾクッと背筋に冷たいものが走った。  
視線だ。それも殺気を孕んだ視線だ。  
西園寺さんとは比べ物にならない威圧感を感じる。  
思わず、辺りに視線を廻らすと、視界の端に揺れるものがあった。  
あれは………美冬姉さんのツインテールだ。  
人込みの中に突っ立って、凄まじい眼でこちらを睨んでいる。………でも何で?  
なんだかわからないが美冬姉さんが怒っている。  
このままじゃ天馬グループどころか、身内にすら敵を抱えることになりそうだ。  
少し状況を整理してみよう。幸宏は無言のまま考えた。  
 
美冬姉さんが殺意に満ちた獣の様な眼で僕を睨んでいる。  
西園寺さんの話じゃ、美冬姉さんといずみ先輩はあっち側の趣味で恋人同士らしい。  
そのいずみ先輩が僕の腕を取って、まるで恋人同士みたいに密着している。  
その上「美冬姉さんは関係ないじゃないですか!」なんて話している。  
もしかすると、美冬姉さんは僕がいずみ先輩を口説いていると思っているのかも知れない。  
そっちの趣味の女性が、自分の恋人を異性に口説かれる姿を見たらどんな感想を抱くだろう?  
美冬姉さんは殺意に満ちた獣の様な眼で僕を睨んでいる………  
 
………そうか、今日は僕の命日になるのか………  
 
「幸宏君どうしたの?」  
いずみ先輩は不思議なものでも見るような目で顔を近づけてきた。  
もともと近くにあった顔を、ほんの数センチで密着しそうなほど近づけてくる。  
その間、幸宏は身動き一つすることも出来なかった。  
蛇に睨まれたカエルのように、美冬姉さんの視線に竦んでいたのだ。  
無防備ないずみ先輩との距離が縮まるたびに、美冬姉さんの視線がますます険しくなる。  
やめて、いずみ先輩。これ以上僕の命を危機に晒さないで………  
これはもう、万が一の為に何か言い残した方がいいのかな………  
「いずみ先輩……美冬姉さんとお幸せに………」  
「そのつもりだけど。本当にどうしたの幸宏君?」  
「ところで、下の名前で呼ぶのいつまで続ける気ですか?」  
「何言ってるの? それくらい、恋人なら当たり前じゃない」  
頬を染めつつ、いづみが絡めた腕を開放してくれた。  
ありえない方向に曲げられ続けた関節がどうなっているのか不安だったけど指は意思どおりに動いているようだ。  
ひとまず安心………と、思う間も無く、美冬姉さんが近づいてきた。  
よりにもよって、いずみ先輩の口から異性を恋人と呼ぶ声を聞かされたのだ………って、あれ?  
それって当たり前の事のような気もするけど………とにかく、好きな人が別の人を恋人なんて言っているのだ。  
可哀相に、きつい目付きはそのままに、ボロボロと大粒の涙を流して泣いている。  
小刻みに震える肩が痛々しくて、幸宏は殺意を向けられているというのに、胸が苦しくなった。  
ひどいよ、いずみ先輩。わざとじゃないにしたって、お見合いが嫌だったからって、  
いくらなんでも、自分を想ってくれてる人の前で、他の人と恋人のフリをしているところを見せつけるなんて!  
………でも、いずみ先輩は美冬姉さんに気づいていなかったんだ。見られてしまったものは仕方ない。  
ここは、美冬姉さんの誤解が大きくなる前に、ちゃんと教えてあげないと!  
「美冬姉さん!」  
思わず声が大きくなってしまったかもしれない。  
いずみ先輩が、僕を突き飛ばすような勢いで飛び退いた。  
「み、みみみ、美冬!?」  
想像もしていなかったであろう美冬の登場に、一番動揺しているのはいずみ先輩かもしれない。  
この驚きっぷりの前には、実際に突き飛ばされて、顔面を看板にぶつけた僕の痛みなんて些細なことだろう。  
現に、いずみ先輩は僕が真横で鼻血を流しているのに、まるで気づいていない。  
いずみ先輩はあたふたと取り乱しているだけだ。このままじゃ益々誤解されてしまう。  
そうだ、ここは僕がはっきりと言ってあげないと!  
「美冬姉さん! 誤解です。誤解なんです!!」  
「………」  
「芝居なんです! 判るでしょ? まさか、いずみ先輩が僕の恋人なんてことがあるわけ………ゴフッ!?」  
僕の脇腹にいずみ先輩の右ストレートが炸裂した。  
「幸宏君。それ、どういう意味かしら?」  
「どういうって………」  
そうか、折角の芝居を台無しにするようなことを言うもんだから怒られたのか……  
でも、いずみ先輩の一撃は、たとえ嘘でも恋人への突っ込みにしては過激すぎやしないだろうか?  
 
「美冬姉さんの誤解を解かないと……」  
「……え!? あっ……そ、そうね。そうよね? 私ったら勘違いしたみたい」  
いずみ先輩のはにかんだ笑顔は素敵ですけど、虫も殺せなそうなあどけない笑顔で、  
どうしてこんな酷いことが出来るんだろうこの人。  
いや、今はそんな場合じゃない。  
美冬姉さんの誤解を解かないと、心休まらない我が家が、更に殺伐とした場所になってしまう。  
脇腹の痛みを堪えながら、幸宏は言葉を続けた。  
「美冬姉さん聞いてください!」  
僕の思いが伝わったのか、美冬姉さんは真剣な眼差しでこちらを睨みつけてくる。  
 
………やっぱり恐い……  
ここは美冬姉さんたちの趣味も理解した上で発言しないと、誤解を広げてしまう恐れがある。  
それに、美冬姉さんやいずみ先輩の邪魔をする気が無い意思を伝えておかないと………  
幸宏は覚悟を決めると美冬の瞳を見つめ返した。  
「僕は、美冬姉さん達みたいに、同性を愛することを否定したりしません。  
 確かに僕は同性より女性が好きですけど、  
 でも、まさか恋人同士である、先輩や従姉を恋人にしようなんて気は決して………ゴフッ!?」  
僕の脇腹に美冬姉さんの右ストレートがめり込む。  
「幸宏……わたし、そんな趣味じゃないよ……」  
ああ、そうなんですか……僕はてっきり………美冬姉さんも、いずみ先輩と同じご趣味かと………  
幸宏は薄れゆく意識の中でそんなことを考えていた。  
 
 ― ― ―  
 
「み、美冬。誤解なの、神庭君が言ったとおりお芝居なのよ。  
 ちょっと神庭君に協力してもらっただけ」  
「………いずみ、嬉しそうにしてた」  
「だって………私だって、男の人とお付き合いするのはじめてだし、ちょっとくらい………  
 で、でも、神庭君よ? 美冬だって神庭君が天然なのは解ってるでしょ?」  
「だから、油断できないわ」  
「それに言っちゃ悪いけど、神庭君て………すこし、馬鹿じゃない?」  
「………うん」  
「安心して。私がそんな天然馬鹿に騙されて好きになるなんて、そんな事あるわけが………」  
「………」  
「あるわけ………」  
「………いずみ?」  
「ち、違うの。誤解しないで」  
「もしかして、幸宏の事………」  
「あ、神庭君泡吐いてる。早くなんとかしないとっ!」  
「誤魔化さないで……」  
 
 
こうして、天然で馬鹿な幸宏を巡る騒動。  
通称『天馬騒動』は幕を開けた。  
気絶してた幸宏には、二人の女神の間でそんなやり取りがあったことなど、知る由も無かった。  
 
 
………つづく(かも?)  
 

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