「会長、この資料ここのファイルと一緒にしときますね」
「はい、分りました」
その翌日の生徒会室。予算委員会に向けた資料作りが溜まっていたため、
冬休みになっても、幸宏たちは学校を訪れていた。
「会長〜、合唱部の見学終わりました〜」
「あ、お疲れ様です」
一見いつもと何も変わらないように見える。
つつがなく業務は遂行され、何事もないスムーズな生徒会室。
だがしかし、
「はい、神庭君」
「みみみ、御神楽さん、どうしたの!?」
「これ、読み終わったら判子を押して頂戴」
「う、うん。分ったよ」
唯一人、幸宏の様子だけはおかしかった。全ての行動がおかしいという訳ではなく、
ただある特定の人物と接したときのみ、行動に異常が発生するのだ。
原因はもちろんはっきりとしていて、
『……………………………ん』
昨日の夜の事故だった。
御神楽の顔を見るとどうしても昨日の光景が、至近距離で見た御神楽の表情が、
そして何よりもあの柔らかい唇の感触が思い出されてしまうのだ。
思い返す度に顔は紅潮し、鼓動は高鳴る。
あの事故の後も、そして今日も、御神楽に大した動揺は見られなかった。
『ごめんなさい神庭君、怪我はなかった?』
これが直後のセリフ。こう言う御神楽は、幸宏とは違い冷静だった。
『え、あ、うん、その、うん、ぼっ、僕はだだだ大丈夫だよ。あの、そのっ、何て言うかえ〜と…………ごめん』
『いえ、別に気にしなくていいのよ。事故なんだから』
事故だったからと割り切れるほど幸宏は大人でなく、御神楽を送り終わっても自宅に辿り着いても、
胸の動悸は収まってくれなかった。
幸宏は資料を読むふりをしながら、御神楽のほうに視線を向けた。御神楽はノートパソコンのキーボードを軽やかに叩いていた。
落ち着いた表情でブラインドタッチをこなす御神楽は、いかにも仕事ができる女といった感じで様になっていた。
あんな綺麗な女の子と、キスしたんだよなあ。
そう思うと改めて顔が赤くなってしまった。あれは幸宏にとっての初めての、そう所謂ファーストキスというやつだった。
御神楽はどうなんだろうか?そんな疑問が頭をよぎった。
あの落ち着きようからして、やっぱり初めてとかではなかったのだろうか。それなら誰と、誰と御神楽は………。
「………………………何考えてんだか」
一つ溜息をついてから、幸宏は資料に目線を戻した。
そんなこと自分には関係ないじゃないか。昨日もちゃんと思ったじゃないか、
御神楽と自分では釣り合わないと、分不相応だと。
もう一度御神楽に視線を向けた。うん、完璧だ。
だから彼女と自分では、きっと無理。
そう、納得させる。
「ん?」
と、御神楽と視線がぶつかる。幸宏の顔が一気に赤くなる。
「どうしたの神庭君、何か用?」
「い、い、いや、別に何でもないよ!!」
「………そう」
それだけ言うと大した詮索もせずに、御神楽はまた仕事に戻った。
幸宏はホッと一息ついたが、なぜか周りの御神楽派役員の、というか周りの役員全員の視線が痛かった。
とにかく頭を冷やそう、幸宏はそう思って「自販機で飲み物でも買ってくる」と言い残し生徒会室を出た。
暖房の効いていた室内とは違い、廊下に出ると冷たい空気が刺さってきた。
身体が一度、ぶるっと震える。休み中の部室アパートに人影はなく、グラウンドから運動部の元気な掛け声だけが遠く響いていた。
昨日のレースもあったので階段部の活動は今日は休み。
これで生徒会の仕事もなければ昨日の疲れをゆっくり癒せるのだけれど、などと考えても仕方がない。
「僕が言い出したことなんだからね……」
そうこれは幸宏が言い出したことなのだ。
一月の予算委員会までに各部活動の活動実態を調査して、公約通りそのサポートを強化する。
そのために他の役員たちも、御神楽も、こうして冬休みになっても学校に来てくれているのだ。
だから気合を入れなくては。自分の頬を両手でパチンと叩き幸宏は目の前の階段を勢いよく駆け降りた。
今日は生徒も少ないだろうから、六階建ての部室アパートを一番下まで一気に駆け下りてやろう。
二段飛ばしで快調に前半を飛ばし、外側から内側へと踊り場へ切り込み左足を軸にターン。
「――――――――――!!!」
と階段を上ってくる人影が目に入り、幸宏は咄嗟に進路を大きくアウトコースへ変更。
衝突は避けられたものの、幸宏は少しバランスを崩す。
「すみませんでした!!」
とは言えいつもの台詞を言うくらいの余裕はあって、転倒もせずに幸宏は五階に辿り着いた。
ふう、助かった。
もう一度しっかり謝罪をするため、幸宏はいったん足を止めて後ろを振り返る。
「スゴイね神庭君、流石階段部!!」
そう幸宏に賛美の言葉を贈るのは聞きなれた声、そのシルエットはスレンダーな体付きに短めのポニーテール。
「あ、三島さん」
三島真琴が幸宏に向って、いつもと同じ明るい笑みを浮かべていた。
三島は幸宏の方に向かって階段を降りてきた。
「やっほー神庭君」
「今日はどうしたの、三島さん?」
「ん〜、ちょっとね。神庭君こそ、そんなに急いでどこ行くの?」
「のどが渇いたから自販機にでも行こうかと思ってさ」
御神楽から逃げるために生徒会室を出た、なんてそんなことは言えなかった。
「そうなんだ!! 私も一緒に行っていい?」
「え? まあ別に構わないけど」
「うん、ありがとっ」
そこから幸宏は三島と並んで、他愛のない話をしながら階段を下りた。
三島も今日は部活で、ついさっき終わったばかりらしい。冗談を交えながら三島と会話をしていると、
彼女の明るさによって、幸宏はなんだか元気になれたような気がした。
自販機コーナーに辿り着いて幸宏は冷たい缶コーヒーを、三島は炭酸ジュースを購入し、ベンチに腰かけてそれらを飲み始めた。
さすがに飲みながら会話を続けることはできないので、少しの沈黙が生まれた。
まだ昼間とはいえ、十二月の空気は冷たかった。だが幸宏は自分の頭をクリアにするため、冷たく苦い缶コーヒーを飲み続ける。
「……あのさ、神庭君」
「ん、どうしたの?」
黙ってジュースを飲み続けていた三島がおもむろに口を開いた。
その口調には何故かいつものような快活さはなく、何となく躊躇いがちなものだった。
「明日ってさ…………神庭君、暇?」
「え、明日?」
「うん、明日」
今日が十二月二十三日、ということは明日は当然十二月二十四日。世間が浮かれるクリスマスイヴ。
こんな日にどうして三島は自分なんかを誘うんだろう。幸宏の頭の中に疑問が浮かび上がる。
「ナギナギと井筒君と神庭君と私で、また映画でも見に行こうかと思ってるんだけどさ」
三島は早口でそう付け加えた。
「あー………」
それを聞いた途端、一気に疑問は解消された。なるほど、またあの二人の付き添いか。
「ダメ、かな?」
こちらの顔色を窺うように、三島は上目遣いで尋ねてきた。そんなにあの二人の恋を応援したいのか。
「井筒は、何て言ってるの?」
「井筒君は来てくれるって!!」
最近の態度で何となく分かり始めたが、井筒もどうやら凪原を受け入れ始めているらしい。
凪原の真っ直ぐな想いが井筒の心を動かしたのかもしれないな、なんてそんなことを幸宏は思った。
それならまあ、二人の恋を応援するのもそんなに悪いことじゃないんだろう。
明日は生徒会の仕事も休みにしてあるし。
「そっか、それじゃあ僕も行くよ」
「ホント!!??」
「嘘ついたって仕方がないでしょ?」
「やったー!! ありがとう神庭君!!」
三島はベンチから飛び上がって喜んだ。三島は本当に友達思いなんだな、と幸宏はそう思った。
「それじゃあ、明日の待ち合わせだけど十時に……」
と、三島が嬉しそうに言い始めた時、
「神庭君、こんなところにいたの?」
「み、御神楽さん!?」
そう言いながら、十メートルほど先から御神楽がやってきた。
「全く、仕事をしている役員たちを放っておいて一人だけこんな所で休憩してるなんて」
「ご、ごめん御神楽さん。もうすぐ戻るよ!!」
御神楽の声も、視線も、幸宏に冷たく突き刺さって来る。
「あらマコト、こんにちは。どうしたの、こんな所で?」
「なんでもないよ、別に。御神楽さんには関係ないことだから」
「…………………………………………………」
「…………………………………………………」
御神楽と三島、二人の視線が無言で交差する。
ただ無言で、お互い相手の目をじっと見つめる。
その緊張感につられて、幸宏もついつい黙り込んでしまった。
「行くわよ、神庭君」
御神楽が幸宏の腕を掴んで無理やり引っ張っていく。
「あ、う、うん。三島さん、明日は」
「十時に駅前に集合だからねっ、神庭君!!」
「わ、分ったよ。それじゃあまた明日!!」
「またね〜」
三島と話している間も、御神楽は容赦なく幸宏の腕を引っ張っていく。
しばらく無言で引っ張られたまま歩いたところで、ようやく御神楽が口を開いた。
「マコトと何の話をしてたの?」
「え? 別にそんな大したことじゃ……」
「いいから、言いなさい」
御神楽のその目には有無を言わせぬ迫力があった。
「いや、その本当に大したことじゃなくて。ただ明日、三島さんと井筒と凪原さんと遊びに行こうって、誘われただけだよ」
「ふ〜ん、それで?」
「それで、って?」
「それで、行くの?」
「ああ、まあ……特に予定もないし」
幸宏がそう肯定すると御神楽は「ふ〜ん、そう、へ〜」と、わざとらしい返事を繰り返した。
「ど、どうしたの、御神楽さん?」
「いえ、別に。ただ神庭君は私たちが仕事をしている間に、ちゃっかり女の子とデートの約束なんかをしてたんだなあって思って」
「うっ………」
御神楽の言葉はチクチクと幸宏に突き刺さってきた。痛いところを突かれて幸宏は言葉に詰まる。
「ご、ごめん。でもデートとかじゃなくってさ」
「そう、デートじゃないの」
「あ、当り前だよ。井筒と凪原さんはアレかもしれないけど、僕と三島さんはただの友達だし」
幸宏がそう言うと御神楽の視線が少し弱まった気がした。それを見て幸宏は安心して息をついた。
彼女に責められるのは、何より精神的に辛い。
「それなら神庭君」
御神楽が悪戯っぽく笑う。
「な、何?」
その笑みを見ると、幸宏の鼓動は訳もなく高鳴ってしまう。
理由は分からなくても、昨日の夜から幸宏の中で何かが変わっていたのは確かだった。
「明日、私も参加して構わないかしら?」
御神楽の口から出てきたのは、意外すぎる提案だった。