マラソン大会の日、由希は風邪で倒れた。
何かをうったいかけるようなあの目。苦しそうなあの表情。
(―――お前はそんなんじゃないだろ!?俺が目標にしてきた奴は、こんなに弱い奴じゃない!!そうだろ!?)
由希のその表情は、いつか本家で逢った、傷だらけの女の子を思い出させた。
あれは師匠の言付けで、紫呉に会いに行く途中。
普段は近寄りもしない、あの憎き慊人の部屋の前にいた、
いっそ殺してくれというような虚ろな瞳で、まだ幼かった夾を魅了してやまなかった綺麗な子・・・。
・・・夾の初恋の人・・・。
大嫌いなクソ由希に、よりにもよって初恋の人の面影を見てしまった。
そのことが余計夾を腹立たせた。
潑春によって自室に運ばれた由希。
透はもちろん紫呉さえも寝静まってしまったその日の夜半、昼間のことで寝付けなかった夾は、
台所で夜食でも作ろうと思ってふと、由希の部屋のドアの前で立ち止まった。
聞き耳を立ててみると、苦しそうなうわ言が聞こえる。
「ごめ・・なさい・・・ごめんなさい・・・もう・・・しないから・・・あき・・と・・・」
最後の言葉にギョッとした夾は思わずドアを開けた。
・・・そこにはかつて出会ったあの女の子が横たわっていた。
やはりあの時の女の子はあのクソ由希だったのだ!!
「嘘・・・だろ・・・?マジかよ・・・」
突然のことにショックを受けつつ、夾は寝ている由希の側にゆっくりと歩み寄った。
さっき、勢いよくドアを開けてしまったにもかかわらず、悪い夢から目覚めることのない由希。
その額につたう冷や汗、そしてそれに張り付く色素の薄い髪、赤らんだ頬―――。
綺麗な顔をゆがめて苦しむ由希―――それらのすべてが美しく、そしてどこか色っぽかった。
夾は額に手をあて、そして知らず知らずのうちに由希に口付けた。
「―――っ!!」
何よりもびっくりしたのは唇を奪われたほうでなく、奪った夾本人だった。
そして、驚くと同時に由希から勢いよく体をそらした。
だがそれで由希が目覚めてしまったようだ。
夢からまだ覚めきっていないのか、虚ろな目で夾をじっと見ている。
「あ、その〜〜、何でもねーよ!!ただ偶々通りがかって、クソ由希がちょっと気になっただけだ!
俺はもう寝るからな!じゃーな!!」
後ろめたさを隠すようにペラペラと言い訳を口走り、慌ててその場を去ろうとしたのだが、自分の服の袖が由希につかまれていることに気づいた。
「何だよクソ鼠!!戦ろうってか!?」
夾は力いっぱい由希を睨んだが、由希は虚ろな目のままで夾に助けを求めるようにつぶやいた。
「い・・や・・・行かないで・・・僕だけ置いてどこかへ行かないで・・・っ!」
寝汗をかいたほてった顔で、涙ぐんだ瞳で夾を見つめてくる由希を見ながら、
夾は自分の理性が飛ぶのをまるで他人事のように感じていた――――。
ネズミは元来、ネコによって食されるもの―――。
その日由希は夾によって屠られた。
ネコが毛づくろいをするように全身を舐められ、小さくてそれ故目立たなかった乳房をキツく掴まれ―――。
「何故女だってことを黙ってたんだ?
っていうかそもそもどうして、女だってのに女の透に抱きつかれて変身したんだ!?」
一夜の情事の後、気だるさの残るベッドの上で、夾は由希に問うた。
由希は軽く微笑し、「前に言っただろ?十二支のネズミは特別なんだ」と事も無げに答えた。
「それじゃ分かんねぇよっ!!」
「じゃあ分かるように説明しようか?俺は・・・両性具有なんだ・・・」
「どういうことだよ」
「だから・・・男でも女でもあるんだ。不思議なことにね」
「どうしてネズミがそうなんだよ!!ミミズやカタツムリじゃあるまいしっ!」
そう問う夾に、由希は自嘲気味に笑って・・・言った。
「そんな事は俺の方が聞きたい。月によって、男になったり女になったり・・・。
とにかくそのせいで、その・・・慊人の怒りを買ってしまって・・・。
あの人は基本的に女の人が嫌いみたいなんだ。その矛先が、両方の性を持つ僕に向かった・・・。」
由希は告白しながら、はだけた服からのぞく自分の胸元の傷跡を焦点の定まらない目で眺めた。
由希の視線に気づいた夾はその傷跡に本日何度目かの口付けをした。
「俺は君が好きだったよ。だけどネズミはネコを騙したのだから、好きになる資格なんてないと思ってた。
今夜は・・・いきなりでびっくりしたけど・・・嬉しかった。
怖い夢に囚われていた僕を救い出してくれて・・・ありがとう。そして今まで馬鹿にしてて悪かった。
そうでもしないと・・・どうしようもなく好きになってしまう自分が怖かったんだ・・・」
「・・・あらたまって礼を言われるようなことした覚えはねーよ。
むしろ・・・謝っても許してもらえないようなことをしたのは俺の方だ・・・。ごめんな由希・・・。
そして俺も・・・十年前のあの時から・・・慊人の部屋ん前で初めて逢った時から好きだった・・・。
透を好きになろうとしたこともあったけど・・・やっぱりお前が好きみたいだ。」
「嬉しいな・・・俺も一時期無理に本田さんを好きになろうとしたけど、やっぱり駄目だった。
夾が・・・大好きだよ」
朝日が立ち昇り日がカーテンの隙間から差し込んでくる中、二人はもう一度、
はじめは何か一つの儀式のようにぎこちなく、
そして次第にお互いの存在を確かめるかのように深く、口付けを交わした。
二人の確執は、十二支ゆえの因縁の結末は、こうして結ばれた。
急に仲良くなってまわりに変に思われないようにいつも通り振舞ってはいたが、
透はともかく紫呉には、どうやらすべてお見通しだったようである。
夾はそこが面白くなかったが、由希があまり気にとめていないので、気づかないふりをした。
はたから見れば我が家の紅一点であるはずの透は、
一度に二人の男から恋愛対象として見てもらえなくなって落ち込んでると思いきや、
どうやらそれ以前からあのはとりに惹かれているようで、心配には及ばなかった。
自分の想いを消すために、一度はその存在を利用しようとしてしまった透への罪滅ぼしに、
そして紫呉や慊人の魔の手から透を逃れさせるために、
この二人の恋を取り持ってあげようと夾と由希は思った。