「何だ、トラップ。そんなところで何してるんだ?」  
 みすず旅館のいつもの部屋で。  
 ぼんやりと窓を開けてそこによりかかっていると。下からそんな声がとんできた。  
 ちょうどそのとき、ざあっ、と風が吹いて。いつもと違って下ろしていた髪がかき乱された。  
 視界を一瞬遮る、赤。  
 ……鬱陶しい……  
 髪をかきあげて見下ろせば、ちょうど玄関から出たところらしいクレイが、俺を見上げていた。  
「別に……何もすることが無くて暇なんだよ」  
「お前、バイトは?」  
「今日は休み」  
 俺がそう言うと。クレイは「そうか。俺は今からバイトだから。夕食までには戻ってくるよ」とだけ言って、背を向けた。  
「頑張れよ」  
 おざなりに言葉をかけると、振り向かず、手だけ振ってきた。遠ざかるその背中を、見るともなしに目で追って。  
 その姿が見えなくなったところで、視線を戻した。  
 窓枠に寄りかかってはいたが。俺が見てたのは空じゃねえ。  
 もう一度風。さっきより強い。  
 ばさばさと乱れる髪を、意味もなく指で梳く。  
 今日は、もしかしたら天気が荒れるかもな……閉めるか。  
 窓枠についていた片手を動かして、後ろ手で窓を閉める。  
 そのときだった。  
「んっ……ふっ……んんっ……」  
 手以外動かしたつもりはなかったが。どうやら、わずかに身体が揺れていたらしい。  
 切なげな声が、漏れてきた。  
 無表情を取り繕って、見下ろす。視線と視線が、ぶつかった。  
 真下から俺を見上げているパステル。その目は涙で潤んでいる。  
 
「……どーした? 動きが止まってんぜ」  
「とらっ……」  
 せきこむように言葉を漏らす。その後ろ頭をつかんで、ぐいっ、と力をこめる。  
 瞬間、唇から「ごほっ」と苦しそうな息が漏れた。  
 パステルの口の中で。俺のモノが、一気に膨らみを取り戻すのがわかった。  
「んっ……んんっ……ふっ……」  
「ほれ……早く動け。あんだ? やり方がわかんねえのか? そんな下手な舌使いじゃなあ、いつまで経っても俺をイかせることなんざできねえぜ?」  
 唇から漏れる酷薄な笑み。それを見て、いつも明るく輝いているパステルの目が、どんどん光を失っていく。  
 彼女の後ろ手を縛り上げているのは、さっきまで俺の髪をまとめていたはずのリボン。  
 えらく古くなって少しすりきれていたりもするが。その戒めは、パステル程度の力では、到底解けそうもねえ。  
 わざとらしくくつろいだ表情を見せつけ、体勢を整える。わずかに腰を引き上げて、窓枠に腰掛けるような形を取る。  
 膝立ちを強いられていたパステルの顔が、ますます苦痛に歪んだ。  
 顎が上がる。いっそ吐き出してしまいたいんだろうに、俺が頭をつかんでいるから、それも叶わない。  
 膝が浮いた。どう考えても長く保っているのは無理な姿勢。  
 こぼれる涙が頬を伝って、俺の足に落ちた。その冷たさも、俺の心を冷ますには足りねえ……  
「んっ……んぐっ……」  
「苦しいか? そうだろうなあ……俺はもっと苦しかった」  
 俺の言葉を聞いて、パステルの目に浮かぶのは疑問。  
 何が苦しいのか。自分が一体何をしたのか。どうしてこんな目に合わなければならないのか。  
 それがわからなくて、答えを求めている、そんな目。  
 ……おめえがそうやって気づかねえから。  
 無意識のうちに俺を傷つけるから。  
 だからこうしてやりたくなったんじゃねえか……こんな風に、無理やり傷つけて、憎しみでおめえを縛り付けてやりたくなったんじゃねえか……!!  
 
「いつまでこうしてるつもりだ?」  
「…………」  
 俺が答えるつもりが無いことを悟ったのか。パステルは、諦めたように目を伏せて、おそるおそる舌を動かし始めた。  
 初めてだ、っつーことがよくわかる。いかにも不器用な、遠慮がちな舌使い。  
 けれど、相手がパステルだというだけで。羞恥に頬を染めて必死に俺に奉仕しているその姿だけで、何度果てようと何度でも勢いを取り戻す……そんなことが確信できた。  
 生暖かいパステルの口内を存分に堪能する。まとわりつく粘液は、唾液なのか。それとも俺自身が放ったブツなのか。既にそれも定かじゃねえ。  
「んっ……んんんっ」  
 どぐんっ、と腰が震えるような衝撃が走った。  
 同時に歪む、パステルの顔。  
 ごほっ  
 唇の端から漏れる、白く濁った液体。それを確認して、ずるり、とモノを引き抜く。  
 つかんでいた頭から手を離すと、パステルの身体が崩れ落ちた。  
 胃の中身まで吐き出さんばかりにせきこんで、苦痛で身体を丸める。  
 決して小柄な方じゃねえはずだが。その身体はやけに小さく、頼りなく見えた。  
「……どんな気分だ?」  
 胸に走る痛みを忘れようと声を放つ。  
「好きでもねえ男のモノの味は、どうだ?」  
「…………」  
 見上げるパステルの目に、まだ俺の望む憎しみは……宿っていない。  
「どう……して……」  
 こほっ、と息を漏らすたび、溢れる液体。  
 頬を、顎を、首筋を汚す白。パステルみてえな女には一番似合わない汚れ。  
 けれど。そのアンバランスさが、かえって男の欲情をそそっていることに……きっとこいつは、一生気づかねえ。  
「どう、して? どうして……こんな……」  
「どうして? そうだな……」  
 くいっ、と顎をつかみあげる。汚れが自分の手にこびりついて、顔をしかめそうになったが……まあ、それは我慢すべきだろう。俺のだし。  
 
「綺麗なものを見ると汚したくなる。俺はガキだから。どうしようもないガキだから……ただそれだけのこった」  
「……どういう、意味……?」  
 ここまで言っても、わからねえのか。こんなに単純なことなのに。  
 けど。説明なんか……してやらねえ。  
 へたりこむパステルの脇の下に腕を差し入れて、無理やり立ち上がらせる。  
 さっきまで俺がもたれかかっていた場所に。体勢を入れ替えるような形で、パステルの身体を押し付ける。  
「やっ……」  
 窓ガラスに身体を押し付けられて、その口から悲鳴が漏れた。  
 さっきと同じに。後ろ頭をつかんで、ぐいっ、と力をこめる。  
 違うのは。額に触れるのは冷たいガラスで、俺は背後に立っているということ。  
「おめえばっかりに奉仕させちゃ、わりいからな」  
「…………」  
「今度は俺が奉仕してやるよ。ああ、大声出すなよ? 聞こえるかもしんねえし……まあ、部屋鍵かけてねえからな。誰が入ってくっかわかんねえんだけど」  
「なっ……やっ……!」  
 さすがにそれは気づいてなかったらしい。そう言いはなった瞬間、パステルの抵抗が大きくなった。  
 必死に身体をよじっているが。そもそも腕を背中で拘束されて、満足に動けるわけがねえ。  
 こいつ程度の動きで、俺から逃れられるわけがねえんだ……わかれよ、それくらい。  
 おめえは俺から逃れられねえんだ。これからも、この先も、ずっと。  
「抵抗してもいいぜ……終わるのが遅くなるだけだ。大人しくしてりゃあ、すぐに終わる。ま、どっちを選ぼうと、それはおめえの自由だけどな……長く楽しみてえのか、それとも?」  
 耳元で残酷な宣告をしてやる。おめえを逃がすつもりはねえという、意思表示。  
 ガラスに映るパステルの顔に、色濃く絶望が広がった。  
 片手で頭を抱え込んだまま、もう片方の手でスカートをまくりあげる。  
 初めて触れるその部分は、萎えた俺の勢いを取り戻すに十分な暖かさを、保っていた。 
 
「……好きなんだよ」  
 ぼそり、とつぶやいたとき。パステルの反応は、俺が予想したどんな反応とも違う態度を見せた。  
「…………そうなんだ」  
 表情もほとんど変わってねえ。いつも無駄にくるくると感情を表に出すあいつらしかぬ無表情。  
 本気にされてねえのかと思った。「ありがとう、嬉しい」なんて反応が来る……それは都合のいい妄想だとわかっていた。  
 あるいは、「ごめん、そんな風には見れない」と言われることも覚悟していた。  
 それが多分一番ありえるだろうな、と自虐的に考えていた。あいつにとって、俺は多分ただの仲間で、それ以上でも以下でもなくて……でも、それでも。  
 俺はそんな風には見れない。だから。気をつけろ、と。  
 そういう警告の意味をこめての、告白だった。  
 あるいは、あの鈍感なパステルなら。「好き? そうなんだ。で、誰のこと? わたし、応援するよ」……と、間抜けな反応を返すんじゃねえか。それは一番考えたくない反応だったが。あいつならそれもありうるか、などと思ってもいたが。  
 これは予想外だった。まるで他人事のような態度。自分には関係無い、と言わんばかりの表情。勝手に言葉の続きを付け足すとしたら、「それがどうしたの?」とでも言いたそうな顔。  
 あいつらしくねえ……いつも無意味に派手な反応を返してきて、それが面白くてついつい構っちまう。思えばそれがあいつに惚れたきっかけでもあったのに。何なんだよ。この顔は。  
「好きなんだよ。……おめえのことが」  
 もう一度同じ言葉を繰り返す。最後に一言付け加えたのは、念のため。確認のため。  
 わかってんのか? これは他人事じゃねえ……おめえに、他の誰でもねえおめえだけに言ってんだぜ。  
「聞こえてんのか?」  
「聞こえてるよ」  
 そう言って、パステルは「ふうん」とつぶやいた。  
「……付き合おうか?」  
「ああ?」  
「トラップと付き合おうか? わたし」  
「……あに言ってんだ?」  
 
 それは全くパステルらしかぬ反応。  
 普段ガキくさいあいつとは思えない、えらく大人びた……男遊びに慣れきった女が、必死にすがる年下のガキに向けるような笑顔。「仕方が無いわね、そこまで言うのなら、少しくらいは相手してあげるわよ」……そう言いたげな、疲れた笑み。  
「おめえ、それ本気か?」  
「トラップこそ何言ってるの……?」  
 パステルの頬が少しひきつってるように見えるのは、多分、俺の気のせいじゃねえよな。  
「付き合って欲しいから、『好きだ』って言ったんじゃないの?」  
「付き合うって意味がわかってんのか、おめえ」  
「……彼氏彼女の関係になる。そういうことじゃ、無いの?」  
「…………」  
 正解だ。確かにその通りだ。  
 できればそうなりたいと望んでいた。おめえを自分のものだと、胸を張って言いたいと。そう思って告白した。  
 けど、受け入れてもらえねえのならそれはそれで仕方が無いと思っていた。どう反応しようと構わなかった。おめえがおめえでさえあれば。  
 こんなおめえを見るくらいなら。  
「違わねえ」  
「……いいよ。わたし、トラップの彼女になっても、いいよ」  
「本気で言ってんのか?」  
 嘘ついてどうするの、というつぶやきは、唇だけで。  
 言葉にならなかったのは、俺が強引にその声を止めたから。自分の唇で、せき止めたから。  
 キスの経験が、こいつにあったのか無かったのか。それはわからねえが。  
 荒々しくその唇を貪って、桜色が薔薇色に変わるほどに強く強く吸い上げて。  
 抵抗らしい抵抗は無いものの、さりとて積極的に求められるわけでもねえ。ひどく一方的なキスを交わした。  
 それが、俺とパステルの関係の始まり。  
 
 付き合い始めたその瞬間から、パステルは変わった。  
 具体的に何がどう、というわけじゃねえ。クレイやルーミィや、他の連中に向ける態度は変わらない。  
 他の連中がいるときは、俺に対する態度も変わらない。  
 全く以前と変わらない、ただパーティーの一仲間に対する態度を崩さない。  
 あいつはいつからあんなに嘘がうまくなったのか。何を言っても感情が表に出るから。「おめえの嘘なんざすぐにわかる」と……いつだって、俺は自信満々に言い切れたのに。  
 こいつは本当にパステルなのか。  
 腕の中で、白い肌が蠢く。  
 予告も無く部屋に押し入って、付き合い始めたあのときよりもさらに乱暴に唇を奪って。  
 そのままベッドに押し倒しても、あいつは抵抗をしなかった。  
 あいつは変わった。俺と二人きりでいるとき、あいつはやけに大人な態度を見せる。  
 俺が見たかった屈託無い笑みを浮かべることはもう無い。男の相手をすることだけにしか生きがいを見出せない年増女のような、疲れた笑みをわずかに見せるだけ。  
「……痛くねえのか」  
「痛いよ」  
「初めてなんだろ?」  
「見ればわかるでしょ……?」  
 ああ、すぐにわかったさ。  
 貫いた瞬間、秘所から溢れ出たのは鮮血。  
 何よりも鮮やかな赤が、白を犯して広がった。  
 この恋愛に関して恐ろしいくらいにお子様だった女のこと。経験なんざあるわけねえとわかっていたのに。  
 それでも、その血を見たとき、一瞬でも意外だと思ってしまったのは、付き合い始めてからのあいつの態度が、とてもそんな風には見えなかったから。  
 意外に思うと同時に安堵していた。まさか、パステルを汚した男が俺以外にいるんじゃねえか、と。密かに恐れていた事態にはならなかったことを、心から安堵した。  
 それでも。  
「……痛いなら、ちっとは悲鳴あげるとか……すればいいだろ」  
「あげて欲しい? なら……あげるけど」  
「…………」  
「大声出したら、誰か、来るかもしれないじゃない……」  
 そっと目を伏せて、パステルはうつろな声を漏らした。  
「早くしてよ。トラップの好きにして、いいよ。わたしは、トラップの彼女なんだから」  
「…………」  
 
 彼女。彼女……ね。  
 遠慮なく動いた。処女を抱くときは、前戯に嫌というほど時間をかけて。  
 欲望に任せて突っ走るな。それは相手に苦痛しか与えねえから。本当に好きな女なら、壊れ物を扱うように大切にしてやれ……誰に言われたんだったかな。兄貴か、それとも親父か?  
 誰でもいい。パステルを手に入れるまで、俺はその言葉をずっと覚えていた。そして今でも覚えている。  
 けれど。  
 一方的に動くだけ動いて、欲望を放つ。その間、パステルは唇を噛み締めて、一言も声を漏らさなかった。  
 感じているのか、痛いのか。それすらもわからねえ。まるで人形を抱いたような空しさだけが残る。  
 本当に好きな相手だと思った。だから告白した。  
 けれど。  
 今ここに、俺があれほど好きだった女は、いねえ。  
「……どうだった」  
「どうって?」  
「良かったか。嬉しかったか。……痛かったか、辛かったか」  
「…………」  
 どんな反応でも良かった。以前のおめえなら、率直に、ストレートに、自分の感情をぶつけてきたはずなのに。  
「恋人同士って、こんなこと、するんだね」  
「…………」  
「もう……服着て、いい?」  
「……ああ」  
 まるで他人事のような、反応。  
 違う。  
 おめえは本当にパステルなのか。  
 好きだ、と言ったことを後悔したことはねえ。俺はおめえが好きで……自分だけのものにしたくて。  
 そして今、確かにおめえは俺のものになってるんだよな? そのはず……だよな?  
 ……いや。  
 違う。きっと、違う。  
 
 さっさと服を着て、立ち上がるパステル。  
 その足はわずかにふらついていた。強がって見せても、やっぱ相当痛かったんだろうな、と……何となくそんなことを悟っていた。  
 それなら、どうして俺を頼らねえんだ。痛いのなら、苦しいのなら……どうしてそう素直に言わねえんだ?  
 おめえは俺を見てねえ。おめえが見てるのは……一体誰なんだ?  
 外に出るパステルを追ったのは、不安に駆られて。それ以上の意味なんざ無かった。  
 一体何を期待したのか。あいつの何を見たかったのか。  
「パステル。どうしたんだ?」  
「クレイ……」  
 わずかに遅れて部屋を飛び出したとき。鍛えられた耳にとびこんできたのは、微かな会話。  
「どうしたんだ? 何だか……疲れてるみたいだけど」  
 優しい言葉。  
 さすがはクレイだな、と、自虐的な思いが胸を過ぎる。  
 あいつにしかできねえ技だ……俺には逆立ちしたって、あんな優しい言葉を吐くことはできねえ。  
 それをあいつがどれだけ求めているかを知っていたからこそ。クレイ以上に優しくしてやれねえ以上、俺にできるのは奴とは違う方法であいつを愛してやることだけだと。  
 そう、思っていた。  
 わかってくれているはずだと思っていた。勝手に思い込んでいた。それは、俺の恐ろしく身勝手な願望。  
「……うん、疲れてる」  
「大丈夫か?」  
「あんまり大丈夫じゃないかもしれない……何だか、色んなこと考えすぎちゃって。わたし、どうすればいいのかなあ……」  
「……? よくわからないけど。悩みがあるなら聞くよ。何があったんだ?」  
 会話をそれ以上聞く勇気は出なかった。  
 階段に踏み出しかけた足をひっこめて、きびすを返す。  
 部屋に戻って枕に顔を埋める。わけもなくわめき散らしたくなった。  
 クレイには頼るんだな。  
 他の男には、いつものおめえでいるんだな。  
 ちょっとしたことでくよくよ思い悩んで、すぐに他人を頼って……そんなおめえのままで、いるんだな。  
 俺の前でのおめえは……一体、誰なんだ?  
 
 身を起こして、自分の両手を見つめる。  
 この手の中に入れたと思ったんだ。  
 俺だけのものに……他の男の手には入らない場所に閉じ込めたと思ったんだ。  
 けれど、それは俺の思い込みでしかなかった。  
 あいつは最初から、俺のものになんざなっちゃいなかった。あいつが見ていたのは俺じゃなかった。  
 ……じゃあ、何であのとき、あんなことを言ったんだ?  
 理性が放つ疑問を無視する。  
 そんな答えなんざ知らねえ。俺はパステルじゃねえ。パステルが何を考えてるかなんて、俺にはわからねえ。  
 あいつのことなら何でも知ってると思ってた。けれど、それは思い込みでしかなかった。手に入れた、と思い込んだのと同じように。  
 腕の中で大人びた笑みを向けたパステル。  
 子供を諭すように、「しょうがないなあ」と言いたげな顔を見せたパステル。  
 あいつと二人でいると、自分がどうしようもねえガキに見えてくる。  
 パステルのことを散々ガキくさい、と馬鹿にしてきたのに。本当にガキだったのは自分の方で、いつの間にかパステルは手の届かないところに行っちまったんだと、そんな風に思えて仕方がねえ……  
 俺は。  
 告白することで、付き合うことで……そしてその身体を汚すことで、あいつが自分だけのものになると思っていた。  
 けれど。  
 いくら抱いても、あいつはいつまでも綺麗なまま。透明な笑みを浮かべたまま。俺の色に染まることは無い、真っ白なまま……  
 ……なら。  
 それくらい、なら。  
   
「……別れるか」  
 付き合い始めてからどれくらいの月日が経ったのか。  
 えらく短いような、えらく長いような……自分でもよくわからねえ、そんな頃。  
 いつものように二人っきりになって、けれどいつもと違うのは、部屋に入った第一声が、そんな台詞だったこと。  
 バタン、とドアを閉める。わざと鍵はかけなかった。  
 密かに期待したのかもしれねえ。誰かが入ってくるのを、誰かが止めてくれるのを。  
 
「別れるか、俺達」  
「…………」  
 机の前に座っていたパステルが、ゆっくりと振り向いた。  
 その表情には、驚きのようなものは何一つ含まれてねえ。  
「……そう」  
「…………」  
 無言で歩み寄る。机の横、ちょうど窓の真正面に当たる位置にもたれかかって、座ったままのあいつを見下ろす。  
 開いた窓から流れてきた風が、わずかに髪を乱した。  
「返事は?」  
「トラップがそうしたいのなら、いいよ」  
 まるで他人事のよう。付き合い始めたときも、抱いたときも見せた、変わらない表情。  
「それだけか?」  
「他に何を言って欲しいの?」  
 間髪入れずに返ってくる答え。俺の顔をじいっと見上げる視線は、どこまでも真っ直ぐで。濁りのようなものは一切見えねえ。  
 俺の視線はこれほどまでに濁っているのに。  
「トラップがそうしたいんでしょう? だったらそう言うしかないじゃない」  
「……何とも思わねえのか?」  
「何を?」  
「嫌だ、とか。どうして、とか。思わねえのか、聞かねえのか?」  
「何言ってるの」  
 漏れる笑みは、多分苦笑。  
「わたしが何を言ったって、トラップは自分の考えを変えるような人じゃないじゃない」  
「…………」  
「いつだってそうだったじゃない。わたしが何をどう言ったって聞かないじゃない……だから何も聞かないよ。今まで彼女でいさせてくれて、ありがとう」  
「…………」  
 
 心のどこかで。  
 何かが、外れた。  
 ……それが付き合った理由なのか。  
 おめえは俺を好きだったわけじゃねえのか。ただ、俺の気持ちを拒否するのが面倒だったから。どうせ拒否したところで、俺が諦めるような性格でもねえとわかっていたから。  
 だから……受け入れたのか。  
 好きでもないのに。愛していたわけでもないのに。  
 いつから、おめえは……そんな女に、なったんだ?  
 もう一度風が吹いた。さっきよりも強く。  
 縛っていたリボンが煽られて、髪が余計に乱れた。  
 手を伸ばす。力をこめた瞬間、しゅるり、と音がして、解けるリボン。  
 次の瞬間。  
「やっ……!」  
 両手首を拘束する。後ろ手にねじりあげる。  
「やっ……痛い、痛いってば! トラップ……何、何するの、よっ……!!」  
 片手だけで手首を縛り上げる。どん、と突き放すと、がくん、と膝がくず折れた。  
「トラップ……?」  
 ぐいっ、とその後頭部を捕らえる。怯えた視線が、突き刺さった。  
「…………」  
 言いたいことはいくらでも頭に渦巻いていたが。どれも言葉にすることはできなかった。  
 あるのはただ。  
 最後の最後まで俺のものになろうとしねえこいつを、どうすればいいのか、と。  
 どうすれば、その全てを俺の色の染めて、汚しきってやることができるのかと。  
 そんな歪んだ愛情の暴走。  
 
「……ルーミィがいるな」  
 パステルの顔の両脇に伸びる俺の腕。ガラスにつかれた手。  
 その間で唇を噛み締めて、襲いくる感情の奔流に耐えているあいつの顔。  
 ガラスに映るそれを見ながら、俺はわざと、その向こうに焦点を当てていた。  
 庭でシロと戯れているルーミィ。俺とパステルが窓からそれを見ていることに気づいてねえ。何が楽しいのか無邪気な笑みを浮かべて、庭を走り回っている。  
「手でも振ってみっか?」  
「……や、だっ……」  
「安心しろよ。ルーミィにわかるわけねえだろ? ……俺達が何やってるかなんて」  
 背後から繋がったそのままの状態で、耳元に囁きかける。  
 小刻みに腰を揺らす。すぐにイっちまうのはもったいねえから、わざと大きくは動かねえ。  
 イかねえ程度に、萎えねえ程度に。そんな微妙な動き。  
「っ……やっ……だ……こんなのっ……」  
「……辛いか?」  
「…………」  
「動いて欲しいのか。イかせて欲しいのか?」  
「…………」  
「……やめて欲しいのか?」  
「…………」  
 どう聞いても、パステルは答えない。  
 ただ、頬を伝う涙の量が、多くなっただけ。  
 膝までずりおろされた下着が、脚をばたつかせることで床に落ちた。わずかな衣擦れの音。  
 わざとそれを踏みにじる。もっとも、パステルはそれを気にかける余裕はねえようだったが。  
 別れる、と言ったのは最後の砦みてえなもんだった。  
 そう言えば、あいつの本音が見えるんじゃねえかと。  
 あのパステルが、好きでもねえ男に黙って抱かれるはずがねえ……どんな態度を取っていようと、心のどこかでは俺を好きでいてくれるはずだと。  
 
 そう思いたかった。別れる、と言えば。嫌だと言ってくれるんじゃねえか、涙を流してすがってくれるんじゃねえか、それを期待した。  
 本気で別れるつもりなんか無かった。それができねえことは、俺が一番よく知っていた。  
 どんな風に変わろうと、どんな冷たい態度を取られようと。これほどまでに育っちまったこいつへの思いは、どうやったって踏み潰せねえことは……嫌というほどわかっていたから。  
 ガラスについていた片手をそっと外して、腕ごとパステルのウェストに回す。  
 力をこめて持ち上げる。思った以上に細い腰、軽い身体。  
「ひっ……いっ……んんっ……」  
 俺が動くんじゃなく、パステルの身体を動かすことで刺激を与えてやる。  
 それは多分、受身でいるよりダイレクトな刺激が伝わるはずだった。  
 声が漏れる。必死に我慢しようとしているんだろうが。さすがに耐え切れなかったらしい。  
「ひあっ……んっ……」  
 腕を乱暴に上下させる。声から漏れるのはあえぎ声か、表情に走るのは快楽か。  
 わからねえ。俺には何もわからねえ。今おめえが何を考えているのか……俺には、さっぱりわからねえ……  
「……もうっ……」  
「…………」  
「我慢できねえんだよ……俺はガキだからな。おめえと違ってガキだから。欲しいものが自分のものにならねえのなら。力づくでも手に入れてやりたくなる。手に入らないのなら……」  
 他の誰かのものになるくらいなら……  
「壊してやりたく、なる……」  
「…………」  
 予告もなく腰を動かした。それまでの小刻みな動きから、一転して大きな律動へ。  
 その変化に耐えられなかったのか。「……くはっ……」と、小さな苦痛の声が響いた。  
 痛いのか、苦しいのか? ……けどな。  
 俺はもっと痛かったんだ。苦しかったんだ。  
 自分がどれだけ汚れてるか、どれだけガキか。  
 おめえと付き合っている間、そんなことばかり思い知らされて……愛されてるなんて実感はちっともわかなくて……ずっと、ずっと、辛かったんだ……!  
 
 どぐんっ!  
 爆発する。パステルの中で、俺の欲望が、本音が。  
 …………  
 全身が脱力するような、喪失感。腕に力が入らなくなる。  
 ずるり、と膝が崩れ落ちた。同時に、支えを失って、パステルの身体も、へたりこんだ。  
 ずるずると二人で床に座り込む。部屋の中に立ちこめるのは、荒い息の音だけ。  
「……どうして……」  
「……んあ?」  
 漏れるのは、泣き声。  
「どうして……こんなこと、するの?」  
「…………」  
「別れる、って言ったのは……トラップ、じゃ……」  
「…………」  
「どうしてっ……」  
 ぐっ、と床の上で手を握り締める。  
 どうして。どうしてか。  
「何度も何度も言ったじゃねえか……」  
「…………」  
「俺はガキだからな」  
「…………」  
「おめえと違って、ガキだからなっ……」  
 強すぎる独占欲が、全ての原因。  
 相手をがんじがらめに縛り付けてやりたかった。けれど何で縛りつけようとしても、おめえはそこからするりと抜け出してしまう。  
 そして。  
 最後に残されたのが、憎しみという名の鎖だけだった。  
 
 ただそれだけのことなのに。俺が求めているのは、例え憎悪に染まった目であっても。  
 俺だけを見てくれること。ただそれだけだったのに。  
 いつまで経ってもおめえは俺を見ようとしねえ。それが耐えられなかった。  
 そんな単純なことに、おめえはどうして……気がつかねえんだ……?  
「パステル」  
「…………」  
「俺を憎めよ」  
 涙で曇った目が、俺を見つめている。  
 けれど。どうして……どうしてっ……  
 ここまでしても、こいつの目は……汚れねえ?  
 どうして、そんなまっすぐな目で、俺を見るんだ……?  
「憎めよ。俺を憎め。一生忘れねえと言えよ。嫌いだ、大嫌いだってそう言えよ! 俺はっ……俺は、なあっ……」  
 例えどんな感情でも構わない。ただ、俺が望むことは。  
「俺は、おめえにとって特別な男でいてえんだよ……ただの仲間じゃねえ、特別な対象として……見られてえんだ……愛してくれねえのなら。せめて、憎んでくれよっ……」  
「…………」  
 細い肩をつかむ。目を覗きこむ。  
 期待した。何を言っているんだ、と。そんなエゴイズムのためにこんなことをしたのか、と。  
 そう言って罵られて、平手の一つもとんでくることを期待した。  
 けれど。  
 次の瞬間、パステルの顔に浮かんだのは。付き合い始めたときと同じ……俺が予想もしなかった表情。  
 笑顔、だった。  
「……パステル?」  
「トラップは」  
 何度も何度も噛み締めたせいか。  
 少し赤く腫れた唇から漏れてきたのは、どこまでも透明な、言葉。  
 
「トラップは、束縛されるのが嫌いだって思ってた……」  
「…………?」  
「いつだって、トラップは自由でいたいんだって、そう思ってた。親衛隊の女の子達ができたときとか……適当にナンパしていたときとか。トラップ、いつも顔では笑っていたけど……相手が本気になったら逃げたよね?  
 いつも言ってたよね。パーティーなんて、いつかは絶対解散するもんだ。いつまでも一緒にいれるなんて、そんな甘いこと考えるなって……」  
「…………」  
「縛られるのが嫌いなんだって思ってた……仲間だから、家族だから、恋人だから……そんな特別な関係だから、こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけないって、決め付けられるのが……嫌なんだって。そう、思ってた……」  
「…………」  
 ああ、そうだ。確かにそうかもしれない。  
 言われて初めて気づく。確かに以前の俺はそうだった。  
 いつだって俺は俺だと思ってた。やりたいようにやる。他人の指図なんか受けねえ。俺は俺のやりたいように動く……  
 けれど。今は……  
「だから……わたしは……」  
 笑顔のまま、涙を流す。ひどく矛盾した表情。  
「トラップを縛りたくなかった。だから……自分を殺してた。嬉しくても、悲しくても、痛くても……トラップの邪魔にならないようにしようって……そう、思ってた」  
「…………」  
「鬱陶しいって思われたくなかった……嫌われたく、なかった……みっともなくすがりついて、迷惑かけたく、なかった……だから、わたし、はっ……」  
「……それは」  
 そう、だったのか? それが……おめえの本音?  
 俺のために? あの冷たい態度は。他人事のような態度は。  
 全て……俺のために? 嫌になったらいつだって逃げ出せばいい。好きなようにすればいい。拘束なんかしない、と……その、意思表示……?  
 自分の考えを、押し殺してまで……俺の、こと、を……  
「だけど、それは間違ってたの? わたし……トラップを傷つけないようにして……逆に、傷つけてた? ねえ……トラップ。わたし、あなたに……すごく、酷いこと……してたの?」  
 自然に頬に手が伸びた。涙の痕が残る、赤い頬。  
 触れたそこは、熱かった。  
「だったら、謝るからっ……あやま、るから……」  
 つぶやき続ける唇を、そっと塞ぐ。  
 
 それは、今までの荒々しいキスとは違う。  
 汚すためにした、強引なキスとは違う。  
 汚れた俺を綺麗にしてもらうための、そんな……相手を求める、キス。  
「……違う」  
「…………」  
「束縛されんのが嫌いなんじゃねえ……他の奴らじゃあ、俺を束縛することなんか、できねえんだ。そいつがどれだけ望んだって。俺を完全に束縛することなんか、たった一人にしかできやしねえ」  
「……どう、して?」  
「決まってんだろ?」  
 おめえは、俺を誰だと思ってる……  
「俺は、優秀な盗賊だからな……」  
「…………」  
「俺を束縛できんのは、本当に価値のあるお宝だけだ」  
「…………」  
「おめえ、だけだ……」  
「……わたし?」  
「ああ」  
 俺はおめえを自分だけのものにしたい。  
 そして、おめえにも、同じように思っていて欲しい。  
「俺を縛ってくれ」  
 いくらでも縛ってくれ。おめえが望むように。  
 そうすることで、俺もおめえを縛り付けることができるのなら。いくらでも、束縛してくれ。  
「おめえの鎖で、がんじがらめに縛ってくれよ……もう二度と、おめえから離れられないように……」  
 両腕で細い身体を抱きしめる。  
 どれだけ力をこめても俺のものにならなかったパステルが。  
 今初めて、俺だけのものになったんだと……そう、確信するために。  
   
 ――もう一生、おめえを離さない――おめえから離れない――  
 
 

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