トラパス バレンタインな二人編  
 
「あっちゃあ、入れすぎちゃったかなあ」  
 みすず旅館の台所。普段はおかみさんが使うその場所を借りて、わたしは格闘の真っ最中だった。  
 あ、格闘って言っても、別に喧嘩してるわけじゃなくてね。  
 わたしの前にあるのはボウル。その中に入っているのは、真っ白などろっとした液体。  
 その脇にあるオーブンからは、香ばしい香りが漂ってくる。  
 今日は2月14日、バレンタインデー。女の子から特別な人や大切な人に、チョコレートを贈る日。  
 というわけで、わたしもご多分に漏れず、パーティーのみんなにあげるためにチョコを作っている最中だったりする。  
 いつもなら、普通にチョコレートを溶かして固めただけとか、チョコクッキーとかチョコケーキとか、そんなごくごく普通のチョコ菓子を作って配るところなんだけど。  
 今年は、ちょっと変わったものに挑戦してみようと思ったんだ。リタが教えてくれた、すっごく美味しいお菓子!  
 チョコレートクッキーの生地を棒状に焼いて、その上からホワイトチョコで作ったガナッシュでコーティングするお菓子なんだけど。試しに食べさせてもらったら、それがすっごく美味しくてね。  
 見た目も。茶色のクッキー生地の上から真っ白なガナッシュ生地って凄く綺麗だったし。ようし、これしかない! って思っちゃったんだよねえ。  
 というわけで、朝からチョコレートと格闘してたんだけど……これがまた、なかなか難しくて。  
「うーん……これじゃあうまく固まらない、かなあ……」  
 ぐるぐるとボウルの中身を泡だて器でかき混ぜて、ぺろりとひとなめ。  
 
 味は悪くない。ガナッシュっていうのは、チョコレートと生クリームを混ぜて、固めたとき普通のチョコレートより柔らかくなるようにした状態のことを言うんだけど。  
 聞けばわかるように、作り方そのものはすっごく簡単。ボウルの中に水が入らないように、それだけのことさえ気をつければ、失敗するようなものじゃない……と思う。作り方を聞いたとき、少なくともわたしはそう思った。  
 けど、お菓子作りって……初めて作るものは特にそうだけど……聞くとやるとじゃ大違い。  
「うーん……」  
 クッキー生地は多分もうすぐ焼きあがる。こっちは、前にも何度か作った生地で、焼くとき形を変えただけだから。多分失敗することはないと思う。  
 けどねえ、ガナッシュが……これは、生クリームを入れすぎたのかな?  
 何ていうか、すっごくゆるゆるで。水ほどさらさらじゃないけど。これ冷やしても本当に固まるの? って不安になるくらい、チョコ特有のとろとろした感じが消えている。  
 生クリームを入れすぎたのかなあ……でも、あんまり固いとコーティングしにくいんだよね。  
 うーん……チョコレート、増やした方がいいのかな? でも、もうあんまり残ってないし……  
 少なくなった材料に目をやって、わたしがこのまま作業を続行すべきか中断すべきか悩んでたときだった。  
「パステル。あにやってんだ?」  
「きゃあ!?」  
 突然背後から声をかけられて。全然気配に気づいてなかったものだから、わたしは飛び上がりそうなほど驚いてしまった。  
「と、トラップ!?」  
「あんだ? この甘ったるい匂い」  
 台所に入ってきた瞬間、顔をしかめているのは……トラップ。パーティーメンバーの一人。  
 その手には、山のように包みが抱えられていて……  
「何って……チョコレート、作ってるのよ。今日、バレンタインデーでしょ?」  
「んあ? そーだっけ?」  
「何白々しいこと言ってるのよ」  
 わたしが言うと、トラップは「ばれたか? 鋭いじゃん、パステルちゃーん」なんて言って、どさっ、とテーブルの上に包みを投げ出した。  
 
 まあ想像通り。とっても可愛いラッピングがされたそれらのお菓子には、例外なく熱いメッセージがこめられたカードがついていて……  
 わたし達もこのシルバーリーブじゃ随分有名になったもんね。で、クレイとトラップには親衛隊なるものまでできて。彼らが道を歩くと、必ず女の子の群れができてるもんねえ。  
 多分このチョコも、彼女達にもらったんだろうなあ。……もてもてで羨ましいこと。  
 胸中に渦巻くのは、そんな意地悪な言葉。もっとも、口には出さないけどね。そんなこと言ったら、またうるさそうだし。  
「誰だって見ればわかるって。わたし忙しいから、用が無いのなら出てってくれる?」  
「随分な言い草だな、おめえ。で? うまくできそうなのかよ」  
「うっ……」  
 ニヤニヤ意地悪な笑みを浮かべるトラップの視線は、まっすぐわたしの手の中のボウルに注がれている。  
 ……ま、まだ失敗したって決まったわけじゃないもん。何よ、その目は。  
「そ、それはできてのお楽しみ」  
「ほー。ちゃんと食えるもんが仕上がるんだろうな?」  
「嫌ならトラップは食べなきゃいいでしょ!? どうせ、わたしがあげなくったっていっぱいもらったみたいだし」  
 そう言うと、トラップはちょっと目を細めて、「あんだよ、その言い草」とつぶやいた。  
 やばい、怒らせちゃった?  
 一瞬不安になったけど……けど、あ、謝る必要は無いよね。だって……失礼なこと言ったのは、トラップだし。  
「だからっ……そ、そんなに不安なら、無理してもらってくれなくてもいいって、そう言ってるの! ほら、もう忙しいんだから邪魔しないで!」  
 そのとき、いいタイミングで「チーン」とオーブンが鳴った。  
 クッキーが焼きあがったんだ……な、ナイスタイミング。  
 気まずい空気を振り払おうとして、わたしがオーブンの方に向かったときだった。  
「待てって」  
「きゃあ!?」  
 ぐっ、と腕を捕まれた。予想も何もしてなかったから、簡単にバランスを崩してしまう。  
 そして……  
「っきゃああああ!?」  
「うわっ!?」  
 どばっ!!  
 がくんっ、とトラップの方によろめいた瞬間。わたしの手から、ボウルが宙を舞った。  
 もちろん、そのまま空中で静止、なんて器用な技を使ってくれるはずもなく。ボウルの中身はそのまま、わたし達の頭上に降り注いで……  
 
「……せ、せっかく作ったのに……」  
 ぽたぽた、と前髪や顎から滴り落ちる、ガナッシュ生地。  
 大分時間が経って冷めかけてたからね。幸い火傷はしなかったけど……  
 ううーもう! 何でこんなことになるわけえ……? そ、それもこれも……  
「トラップ! 一体何……」  
「…………」  
 抗議の声は、トラップの表情を見て止まってしまった。  
 彼の目は、まっすぐにわたしの方に向いている。やけに真剣で、熱い視線が注がれる。  
「な……何、よ……」  
「…………」  
 いたたまれなくなって、ごまかす意味をこめてぐいっ、と頬を拭う。  
 すっかり冷めているのに固まりきってない、どろっとした白濁色の液体がこびりついた。  
 うーわー……こ、これ落ちるかな? お風呂入らないと駄目かなあ……  
 自分がどれだけ情けない状態になってるかを想像して、泣きたくなったときだった。  
 ぐっ!  
 二の腕をつかむトラップの手に、力がこもった。  
 痛いくらいに。  
「痛っ……トラップ、何?」  
「……おめえ……」  
「え?」  
「今の、おめえ……」  
「……だから、何?」  
 トラップの表情が、変わった。  
 何というか。妙に頬が紅潮してる、っていうか……  
「今のわたしが……何?」  
「…………」  
 そう言うと。トラップはしばらく黙り込んでいたけれど。  
 やがて、ボソリと、  
「チョコ、くれるよな?」  
 と、つぶやいた。  
 ……は?  
 
「俺にも、チョコ……くれるよな?」  
「え? そ、そりゃあ……」  
 も、もしかしてさっきの言葉、本気にしてる? あ、あれは……その、売り言葉に買い言葉っていうか……  
「そりゃ、欲しいっていうのなら、あげるけど」  
「欲しい。すげえ欲しい。今すぐに」  
「……はあ??」  
 一瞬何のことか、とぽかんとしていると。  
 トラップの顔が、迫ってきた。  
「え?」  
 ぺろり  
 そのまま、頬を伝うガナッシュ生地をなめとられて。一気にぼんっ! と顔が真っ赤に染まるのがわかった。  
「と、トラップ!? 一体何……」  
「……くれるって、そう言ったろ?」  
「はあ……?」  
「チョコくれるって、言ったじゃねえか。だあら、もらうことにしたんだよ」  
「も、もらうって……きゃああ!?」  
 ぐいっ!!  
 両肩を押された。意外なくらい強い力。逆らおうにも逆らえない、そんな力で。  
 気がついたとき、わたしの身体は、床に押し倒されていた。  
   
「ちょっ……トラップ! 一体、何……」  
「何って、チョコをいただいてんだよ」  
「なっ……ひゃんっ!?」  
 ぺろり  
 次になめとられたのは、耳。  
 つつっ、と頬のラインを辿って顎、首筋へと降りていく、トラップの舌。それを感じて、わたしは、ぞくぞくと背筋を悪寒のようなものが走る感覚に捕らわれた。  
 やっ……な、何っ……何、この、感じっ……  
「ひっ……やっ、ああっ……」  
「……甘い」  
 ぺろり、と鎖骨のあたりのチョコをなめとって。ぼそりとつぶやくと……トラップは、セーターに手をかけた。  
 
「残したら、悪いよな?」  
「ひっ……」  
「全部もらっても、いいよな?」  
「ひっ、ちょっ……きゃああああ!?」  
 ぐいっ!  
 まくりあげられるセーターと下着。上半身をむきだしにされて、視線が注がれているのを感じて、羞恥に全身が染まりそうになったけれど。  
 どれだけ手足をばたつかせても。逃げられそうな気配は、全く無かった。  
 な……何、してるのよ、トラップ……  
「じょ、冗談にしちゃ……性質が、悪いんじゃない?」  
「…………」  
 精一杯軽く装って放った言葉は、あっさりと無視された。  
 かわりに走ったのは、胸元を這い回る生暖かい感触。  
 びくり、びくりと背筋がのけぞった。火照りみたいなものが身体の奥からわきあがってきて、思わず身もだえしてしまう。  
「や、だ……あ、んんんっ……」  
「……どんな菓子、作るつもりだったんだよ」  
「え……?」  
 ぐいっ!  
 膝の間に、トラップの脚が割り込んできた。  
 スカートの下に手が差し入れられる。太ももを這い登るのは、今まで感じたことのない、とても不思議な……  
「普通のチョコじゃねえな、これ……何混ぜたんだ?」  
「……な、生クリーム……」  
「ふーん。ホワイトチョコだよな、これ。どんな菓子になる予定だったんだよ」  
「な、何でそんなっ……ひっ、ああああ!?」  
 するり  
 下着の間に指が入り込んできて、あっさりとそれを脱がされてしまう。  
 ひやり、と冷たい空気が触れて。身体の内部からわきあがる熱とぶつかって、全身を強い電流みたいな刺激が走り抜けるのがわかった。  
「やっ……」  
「ん〜〜こんなとこまで……いやあ、全部食うのはなかなか大変そうだなあ……」  
 わたしの様子をまじまじと見つめて、トラップが浮かべたのは、とても意地悪な笑み。  
 すくいとられる。  
 太ももを伝っていくとろりとしたものを、なめとられる。  
 びくんっ、と身体が震えた。何だかむずむずするっていうか……今、わたしを襲っているのは、そういう形容しがたい感覚で……  
 
「で? どんなもの、作る予定だったんだ……?」  
「く……クッキー……」  
「んー?」  
「クッキーを、棒みたいな形に焼いて……それに、白いチョコで……コーティングする……」  
「へー。うまそうじゃん……あー。けど」  
 そう言って、ちらりとそらされた視線の先にあるのは、何だか焦げ臭い煙を放つオーブン。  
 焼けた後、すぐに扉を開けなかったから。予熱で、クッキーが焦げちゃった……?  
 妙に冷静にそんなことを分析してしまう。そして、それはトラップにもわかったらしい。  
「けど。失敗したみてえだなあ。クッキー、焦げてんじゃねえ?」  
「だ、誰のせいだと……!」  
「あー怒るな怒るな。かわりのもんはくれてやるから」  
「っ……!!」  
 トラップの手が伸びたのは、自分のズボンの、ウェスト。  
 ま、さか……  
「や……やだやだ! やめて、やだってば!」  
「かわりやるっつってんだろ? おめえのソコで……コーティングしてくれよ。俺の棒  
「な、何言って……」  
「暴れるなっつーの……おめえがわりいんだからな」  
 がしっ、とわたしの両手首を片手で押さえ込んで。  
 耳元で囁かれたのは、わけのわからない言葉。  
「惚れた女にあんな扇情的な格好見せられて。黙って引き下がるなんて、できるわけ、ねえじゃん?」  
「……え?」  
 惚れた……女?  
 それって……誰……  
 疑問は、声に出せなかった。  
 全身を貫く激痛に、理性とか、そういったものは、何もかも吹き飛んでしまったから……  
 
 
「うまかった。ごちそうさん」  
 そう言ってわたしの身体を解放したトラップの顔は、それはそれは満足そうで。  
 でも、わたしはそれに答えることができなかった。  
 下半身がずきずきと痛い。それが、嫌が応でも、今何が起きたかを伝えてくれて……  
「……ひどい、よ」  
「ん?」  
「ひどいっ……な、何で……何で、こんなことっ……」  
「何でって」  
 わたしの顔を覗きこんで。トラップは、不思議そうにつぶやいた。  
「俺、言わなかったか? 惚れた女、って」  
「…………」  
「おめえのことが好きだから。だからこんなことした……わかんねえか?」  
「わ、わかんねえか、って……」  
 惚れた? トラップがわたしのことを……好き?  
 わけが、わからない。どうして、そんな……急に……  
「わかんないよ! 何で……」  
「言っとくけどなあ、誘惑したのは、おめえだかんな」  
「……はあ?」  
 ゆ、誘惑……? って。  
「だ、誰がいつそんなことしたのよ!」  
「わかんねえかあ? ……まあなあ。わかるようなら、俺もこんな苦労せずにすんだんだろうけどなあ……」  
 そう言って、トラップは深々とため息をつくと、立ち上がった。  
「ま……じっくり考えてくれればいいや。おめえは俺をどう思ってんだよ? 好きなのか、嫌いなのか? 嫌いだっつーのならいくらでも謝ってやる。土下座でも何でもしてやる。けど、少しでも好きだ、っつー気持ちがあるのなら……」  
 そう言って。  
 トラップは、何だか、ひどく切ない目で、わたしを見つめた。  
「少しでも、俺を男して好きだっつー気持ちがあるんなら。頼むから……ちっとは、真剣に考えてくれよ。……じゃあな」  
 散々好き勝手なことを言って、トラップの姿は、台所の外に消えた。来るときあれだけたくさん抱えていた包みは、全部テーブルの上に投げ出されたまま。  
 後に残されたのは、わたしだけ。  
 
 ぺたん、と床に座り込む。色んなことがありすぎて、とてもじゃないけど、考えが追いつかなかった。  
 トラップのことが、好きか、嫌いか?  
 男の人として、好きか、どうか?  
 ……そんなの、わかんないよ。  
 泣きたくなった。どうしてこんなことになるのか。誘惑って一体何のことなのか。  
 トラップの言葉は何もかもが謎に満ちていて。何を考えればいいのか、ちっともわからなかった。  
 わかんないよ。そんなこと急に言われたって……  
 ……ずるいよ。あんな、切ない顔されちゃったら……  
 嫌いになりたくても……なれないじゃないっ……!  
 消えない痛みと床の冷たさに震えながら。  
 わたしは、いつまでも、その場に座り込んでいた。  
 
 
完結。  

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