気が付いたら、あいつのことしか見えなくなっていた。 
 誰よりも厳しくて、現実主義者で、優しい言葉なんか滅多にかけてくれない。 
 だけど、心の奥底では、実は誰よりもみんなのことを考えているんじゃないか。 
 ふとそんなことを考えたとき、あいつの行動一つ一つが、全部そんな……優しさを隠した行動のように思えてきて。 
 そう考えたら、それまでちょっと厳しいな、と思っていた口の悪いところなんかも、全部照れ隠しみたいに思えてきて。 
 それから、わたしは彼のことを悪く言えなくなった。 
 その顔を見れば真っ赤になってしまう。何も言えなくなってしまう。文句も、悪口も、何も。 
 この気持ちを何と言うのか。わかってはいるけれど……認めたくは、ない。 
  
 ずっとあいつを思っていた。 
 ガキの頃から同じ家で暮らしてきて、一緒にいることの方が自然だと思っていた。 
 だから意識したことなんかなかった。けど、冒険者になって、初めてあいつの姿を見ない日、っていうのを経験して。 
 何気ねえ瞬間に目であいつの姿を探しちまってるのに気づいて、俺は悟った。 
 そうか。俺はあいつのことがずっと好きだったんだな。 
 何年離れても忘れられねえくらいに……再会した瞬間、「さらって逃げてえ」と本気で思ったくらいに。 
 ……違うか。 
 好き「だった」じゃねえ。今でも「好き」なんだ。 
 けど、この気持ちが実るか、実らねえか。 
 俺は、その答えを知っている。 
  
 幼馴染なんて好きになるもんじゃない。 
 最近、つくづくそう思う。 
 同じ家で暮らしていたあいつの友達だった。それが、わたしが彼と知り合ったきっかけ。 
 いちいち自分を偽らなければ何もできなかったわたしとは違う。 
 愚かなくらいに他人に優しくて、そのためなら自分はどうなっても構わないと、本気でそう思える人。 
 わたしが彼を好きになるなんて、身分違いもいいところだから。一緒にいられるだけで満足しようと思っていたのに。 
 彼は、あっさりとわたしから離れて行ってしまった。いずれそうなるとはわかっていたけれど、それでも、その日はあまりにも突然にやって来た。 
 鈍い彼は、きっとわたしの気持ちになんか気づいていない。 
 数年経って再会したとき、彼の傍に同い年くらいの女の子がいるのを見て、わたしがどれだけ悲しかったか……きっと、何も気づいてはいない。 
  
 パーティーの仲間なんて、家族と一緒だと思っていた。 
 彼女を見るたび守ってあげたいと思うのは、妹と同じように思っているからだ、と。 
 だから、俺は誰からも鈍い鈍いと言われるんだろうな。 
 自分で自分の気持ちに気づくまでに何年かかったか。それを考えると、その言葉を否定できなくなる。 
 泣き虫で寂しがりやで、優しくておひとよしで。 
 彼女は俺が今までに見たことのないタイプの女性だった。脆そうに見えて芯は強い、強そうに見えて心は弱い、そんな女性は初めてだった。 
 何も知らない彼女を守ってあげなきゃ、と最初のうちは思っていた。そのうち、それは守りたい、という気持ちになった。 
 そうか。俺はきっと彼女のことが…… 
 そうと気づいたとき、「家族」という言葉が使えなくなった。 
 けれど、この気持ちを表に出していいものか。 
 答えは、ノーだ。 
  
「え? マリーナが?」 
「ああ」 
 昼食を食べるために猪鹿亭にみんなで集まったとき。 
 郵便配達のバイトをしているトラップが、みんなの前に手紙を一通差し出した。 
 そこに書かれている名前は、確かにマリーナ。 
 トラップとクレイの幼馴染で、美人でスタイルも良くて性格もいいという、とっても羨ましい女の子。 
「もうすぐ俺の誕生日だろ? エベリンに来てもらうのは悪いから、今年はシルバーリーブに来るってよ」 
 そう言うトラップの顔は、すっごく嬉しそうだった。 
 季節は春。後数日で、トラップの誕生日である5月3日が訪れる、そんな日。 
 そっかあ。マリーナが、こっちに来るんだあ…… 
 そう思うと、何だか複雑な気分になる。 
 ちらり、と視線を上げれば。「腹減った」とか言いながら昼食をぱくついている、赤毛の盗賊の姿がある。 
 トラップ。パーティー唯一の現実主義者で、ひょろっとした体格に端正な顔立ち、それをぶち壊しにするような口の悪さが各種トラブルを招くという、そんな人。 
 冒険者になったばっかりの頃から、ずっとわたしを助けて、色んなことを教えてくれてきた人。 
 はあっ。 
 トラップの顔と、マリーナからの手紙を見て、ため息が漏れる。 
 わたしは多分、トラップのことが好きなんだ。 
 鈍い鈍いって言われるけど、自覚せざるをえない。だって、気がついたらトラップの姿しか目に入らなくなってるんだもん。 
 だけど、トラップは、多分…… 
 この上なく嬉しそうな顔で、リタにビールを注文する彼の姿が、どこまでも痛い。 
「パステル、どうかしたか?」 
 優しい声に振り向けば、隣に座っていたクレイが、心配そうにわたしの方を見ている。 
 いけないいけない。ついボーッとしちゃった。 
「ううん、何でもない。ね、マリーナが来るんだったら、猪鹿亭を借り切って盛大にパーティーしない?」 
「ああ、そうだな」 
 クレイの優しい笑顔を見ると、ささくれだった心が少し穏やかになった。 
 どうせ叶わない思いなら。口に出したって、今の関係を壊すだけで何もいいことがない、そんな思いなら。 
 忘れちゃうのが、一番いいんだから。 
 自分で自分に言い聞かせて、わたしは昼食を口に運んだ。 
  
 そっか、あいつがこっちに来るのか。 
 手紙を見たときは、素直に「嬉しい」と思った。 
 全くなあ。俺がまさかマリーナに惚れてたなんて。こんなことなら、何でもっとガキの頃にきっちり自覚しとかなかったんだろうな? 
 今となっちゃ、滅多に会う機会もねえっていうのに。まあ、それはそれで、飽きるってことがねえからいいことなのかもしんねえけどな。 
 ガキの頃から孤児っつー負い目を背負って、いつも遠慮していたあいつの姿を思い出す。 
 俺達は誰もそんなこと気にしちゃいなかったのに。あいつはいつだって、自分の立場をわきまえて、度の過ぎたわがままとか、そういう汚い感情を一切表に出さねえようにしてきた。 
 あいつはそれを隠してたつもりなんだろうけどな、俺にはお見通しなんだよ。 
 それが、俺がおめえを意識した瞬間なんだからな。 
 そんな必要なんざねえ、素直な、心を開いたおめえの姿が見てえ。 
 そう思ったその瞬間から、多分俺はおめえに堕とされてたんだぜ? ま、おめえはそんなこと、ちっとも気づいちゃいねえだろうけどな。 
 ……それに。 
 ふっと目を上げれば、パステルと楽しそうにしゃべっているクレイの姿が目に入る。 
 クレイ。俺とマリーナの幼馴染。誰が見ても美形だと言える外見に、誰が聞いてもおひとよしだと答える性格。女なら誰もが惚れずにはいられねえ、そんな何もかも兼ね備えた自慢の幼馴染。 
 そうだ。俺はガキの頃からおめえを見てたんだ、マリーナ。 
 だから、おめえが誰を見てたのか。それも、俺は知っている。 
 けどな。 
 思うだけなら……自由だろう? おめえも、俺も。 
「おーいリタ、ビールお代わり!」 
 刺すような胸の痛みを振り払って、俺は大声をあげた。 
  
 乗合馬車に乗るとき、胸がドキドキするのがわかった。 
 幼馴染のあいつの誕生日。そんなのはただの口実だって、自分でもわかっていたから。 
 ぎゅっと荷物を抱きしめるようにして、硬い座席に腰を下ろす。 
 同じ家に住んでいたトラップの幼馴染。それが、わたしが彼と知り合ったきっかけ。 
 それからずっと三人で過ごしてきた。孤児で、何も持っていなかったわたしとは対照的に、彼は何でも持っていた。 
 それなのに、わたしのことを蔑んだりしなかった。いつだって暖かい目でわたしを見て、優しくしてくれた。 
 同情じゃない優しさをもらったのは初めてだから。 
 窓の外を流れていく町並み。少しずつ、彼の住む街に近づいていく。 
 それだけで、ドキドキが止められなくなった。 
 クレイ。 
 わたしはあなたのことが好き……そう言ったら、きっとあなたは困るんでしょうね。 
 苦笑しか漏れなかった。あなたは鈍い人だから。パーティーのリーダーとして、何もかもわかっているつもりなんでしょうけど、実際は何も気づいていない。 
 みんなの気持ちにも、わたしの気持ちにも、そして自分自身の気持ちにも。 
 クレイの傍にいる、太陽のような笑顔を持つ女の子の姿を思い出す。 
 パステル、わたしはあなたのことが大好きよ。 
 いるだけで周囲を暖かい気分にできる、素直に思ったことを口にできる、そんなあなたがとても羨ましい。 
 わたしがどれだけ望んでも手に入れられなかったものを、あっさりと手に入れたあなたが……そして、そのことに自分で気づいていないあなたが。 
 とても羨ましくて、そして少し妬ましい。 
 ふうっ、と壁に背中を預ける。 
 シルバーリーブはそんなに遠い街じゃない。だから、いつまでもこんなことを考えていちゃいけない。 
 気持ちを切り替えなくちゃ。早く、いつもの「わたし」に戻らないと。 
 わたしはいつだって、明るく笑っていないと。そんな「マリーナ」でなければ、きっとみんなが変に思うから。 
 わかっていたことでしょう? 実らない思いだって言うことは。あの人には立派な婚約者がいて、わたしなんかが彼の傍にいることはできないって……わかりきっていたでしょう? 
 その相手が、パステルに変わっただけ。傍にいるのがわたしじゃない、っていうことに、何のかわりも無い。 
 どれだけ言い聞かせても、婚約者、サラのときとは明らかに違う胸の痛み。 
 一体、これは……何なのかしら。 
  
「マリーナ、いらっしゃいっ!!」 
 みすず旅館の前に現われたマリーナに、パステルがとびつくようにして声をあげた。 
「パステル、ひさしぶりね!」 
「うんうん! マリーナも元気そうでよかったあ!」 
 たちまちのうちにきゃあきゃあと声をあげる女の子二人の姿が、微笑ましい。 
 俺が笑っていると、隣でトラップの奴に小突かれた。 
「あに笑ってんだークレイちゃん? ほれ、とっとと行くぞ」 
 そう言ってのんびりと玄関に歩き出すトラップの足取りは、妙に嬉しそうだ。 
 まあ、自分の誕生日を祝うために、わざわざ来てくれたんだからな。そりゃあ嬉しいだろう。 
 トラップの後に続いて、外に出る。 
 マリーナはちっともかわっていなかった。子供の頃と同じ、明るい笑顔でみんなに挨拶をしている。 
 それに答えるようにして、トラップがばんばんと彼女の肩を叩いていた。それは、昔とちっとも変わらない光景だ。 
 唯一、変わったところといえば…… 
 視線をずらす。トラップの隣に立っている、蜂蜜色の髪の毛の女の子。 
 パステル。冒険者になる前に偶然出会って、それからもう数年、ずっと一緒に暮らしてきた子。 
 彼女の視線の先にいるのが誰か、そして、その視線にこめられた感情に気づいて、息苦しいような気分になった。 
 俺は鈍い、とみんなによく言われる。確かに、後になって「え? そうだったのか?」と驚いたことは一度や二度じゃない。 
 無駄に鋭いトラップあたりからはよくからかわれるけど、こういう性格なんだから仕方が無いだろう、と開き直っている。 
 そんな俺が、彼女の思いにだけ気づいてしまったのは……それは、ある意味当たり前のことで、だけどひどく残酷だ。 
 パステルのトラップを見る目。 
 マリーナと楽しそうにしゃべっている奴の姿を見る目は、とてもとても悲しそうで。トラップはパステルのことを見ようともしないから、気づいてはいないんだろうけど。 
 ……どうして。 
 どうして、あいつなんだろう? そうパステルに聞いてみたい。 
 出会った頃から、トラップは随分パステルに厳しく当たってきたのに。泣かせたことだって何回もあるのに。そのたびに慰めていさめて間を取り持ってきたのは、俺なのに。 
 それなのに、どうしてトラップなんだろうな……? 
 胸に渦巻くどろっとした感情。 
 パステルに、そしてトラップに抱いてしまったこの感情の名前。 
 それを、俺はまだ知らない。 
「クレイっ、ねえ、マリーナの部屋って、客間でいいよね?」 
 パステルの声に、俺は慌てて頷いた。 
「ああ。それでいいんじゃないかな?」 
 トラップがマリーナの荷物を担ぎ上げた。 
 忘れよう。マリーナは、トラップの誕生日のためにここに来たんだ。 
 わざわざ来てくれた彼女に、醜い争いは見せたくない。 
 玄関のドアを開け放ちながら、俺は笑顔を取り繕った。 
  
 キスキン王国のごたごたの後、手に入れた家は程なくして燃えてしまった。 
 でも、自分たちの家を持ったときの喜びが、忘れられなかったから。 
 だから、わたし達はその後一生懸命クエストに行ったりバイトに励んだりして、そうしてやっと新しい家を手に入れたんだ。 
 今度の家は、一部屋は狭いけど部屋数がすっごく多い部屋。 
 ちょっとだけ広い部屋をわたしとルーミィとシロちゃんの部屋にして、後のメンバーは全員個室。それに客間が二つ。 
 マリーナをそのうちの一つに通すと、彼女はすっごく感心してくれた。 
「へえー。立派な家じゃない。パステル達も随分頑張ったのね」 
「えへへ。やっぱり家があると、ここが自分の居場所だ! って思えるじゃない?」 
 わたしがそう言うと、マリーナの目がちょっと曇ったような気がした。 
 どうしたのかな? 
「それにね、宿代もかからないし。以前はノルはいつも馬小屋とか納屋で寝てもらってたしね。本当に家って大事だと思うから」 
「そうね……」 
 寂しそうな目だな、と思ったのは一瞬のことで、すぐにマリーナは笑顔を見せてくれた。 
「パーティーは明日の夕方から?」 
「うん。猪鹿亭を借り切ったから。お料理もそこの台所借りる予定。ね、マリーナも手伝ってね」 
「もちろんよ! それにしても、トラップがもう19歳とはねえ……」 
 本当。月日が流れるのは早いと思う。 
 だって、わたしが初めて会ったとき、トラップって確か15歳だったんだよ? あれからもう4年、かあ…… 
 マリーナの荷物整理を手伝っていると、その中から綺麗に包まれたプレゼントが出てくる。それを見て、ふと机の中にしまってある包みを思い出した。 
 わたしはみんなにプレゼントを贈るのが好きだから。トラップにだって、もちろん用意してある。 
 でも、いまだに悩んでいるのは、メッセージカードに何を書こうか、っていうところ。 
 普通に「トラップへ」って書くのが、一番無難なんだろうけど…… 
「パステル?」 
「あ、ごめん。何でもないよ」 
 心配そうに眉をひそめているマリーナの顔は……こうして見ると、やっぱり美人だなあ、って思う。 
 胸だって大きいし。……わたしも、マリーナみたいになりたい。 
 トラップ、常々言ってるもんね。女の子は出るとこが出て、引っ込むところが引っ込む、そんな体型が一番だ、って。 
 もし、わたしがマリーナみたいに美人でスタイルも良かったら……そうしたら、トラップは少しはわたしのことを見てくれたのかな? 
 そんなことを考えていたときだった。 
 ガチャンッ 
「おい、夕飯食いに行くぞー。……あにやってんだ、おめえら?」 
「と、トラップー!?」 
 突然、考えていた当の本人が姿を現して、わたしは思いっきりうろたえてしまった。 
 あ、あわわわわわ、落ち着いて、落ち着かなきゃ!! 
 わたしが慌てふためいていると、マリーナが腰に手を当てて立ち上がった。 
「トラップ? 女の子の部屋に入るときは、ノックくらいするのが礼儀じゃないの? 全く、あんたのそういうところ、ちっとも変わってないんだから」 
「はあ? 俺とおめえの仲だろ? 今更遠慮するようなことがあんのかよ?」 
「そういう問題じゃないのっ!」 
 ズキンッ 
 二人の会話を聞いた瞬間、胸を刺されたような気分になった。 
 俺と、おめえの仲…… 
 ああ、そうだよね。わかってたことだもん。トラップとマリーナは、ずっと小さい頃から一緒に暮らしてきて。その頃から、トラップは…… 
 今更、傷ついたって……しょうがないでしょう? 
「おい、パステル。おめえ、あにぐずぐずしてんだよ」 
 頭上から降ってきた言葉に、生返事をして立ち上がった。 
 自分の気持ちを隠すのが、こんなに辛いなんて……知らなかった。 
  
 いつものメンバーにマリーナが加わっただけだっつーのに。 
 それだけで、何で食事がこんなに賑やかに感じるんだろうな? 
「ルーミィ! こぼしちゃ駄目だってばー!」 
「ぱーるぅ、こえ、こえ美味しいよー!」 
 向かいの席で騒いでいるパステルとルーミィ。その光景を隣で微笑ましそうに見ているマリーナ。 
 どうしたって視線がそっちに向いちまう。俺の誕生日が終わったら、後二日か三日もしたら、またこいつはエベリンに戻っていって、そして当分会えないんだろう。 
 そう思うと、何だかすげえもったいねえ、という気分になる。 
 テーブルの上に並べられた料理が、どんどんと消えていく中、俺はやり場のねえ思いに振り回されていた。 
 この思いをぶちまけてえ。いっそ、さらっていってやりてえ。 
 マリーナは俺のことを幼馴染とか兄貴とか、そんな風にしか見てねえんだろうな。家族扱い。そりゃあ、一緒に暮らしてたんだから、そうなるのも無理はねえ。 
 俺だって男なんだよ。おめえとは血のつながりなんか何もねえ……男。 
 なのに、おめえは…… 
 マリーナの視線は、パステルとルーミィに向いているようだが。 
 本当は違う。当の本人だって気づいてるかどうかは怪しいもんだが、俺にはわかる。 
 あいつが見ているのは、その向こうにいるクレイだ。 
 ガキの頃から、おめえはそうだったもんな……クレイのことだけを一途に見てきたもんな。 
 ふっ、とクレイに目を向ける。 
 あの鈍感野郎め。おめえはちっとも変わってねえ。自分に向けられる好意にここまで鈍感な奴なんて初めて見たぜ。 
 ぐいっとビールをあおる。 
 クレイなら仕方ねえか、とも思う。あいつは掛値なしにいい奴だし、マリーナを絶対に幸せにするだろうから。 
 あいつに取られるんなら……まだ、諦めもつく。 
 そのときだった。 
「あーっ!!」 
 ガチャンッ 
 盛大な悲鳴とともに、ルーミィが皿をひっくり返した。中身のスープが、パステルの膝の上にぶちまけられる。 
「ああーもうっ……」 
「うっ……ぱ、ぱーるぅ……ごめんだおう……」 
 今にも泣きそうなルーミィに、パステルが苦笑を浮かべて頭をなでていた。 
「いいのよいいのよ。気にしないで」 
「パステル、大丈夫か? 怪我、しなかったか?」 
 身を乗り出してきたのは、隣に座っていたクレイ。 
 ハンカチを取り出して、パステルの膝を拭いてやっている。 
 よく見かける、いつもの光景だった。だから俺は、すぐに興味もなくなって目をそらそうとしたんだが…… 
 一瞬、身体が強張った。 
 その光景を見るマリーナの目が、すげえ寂しそうだったから。 
 あいつが、あれだけ素直に感情を出すのは珍しい。それくらいに……強い思い? 
 視線を辿る。 
「いいってば、クレイ。ありがとう」 
「いや、でも……っ……! ご、ごめんっ!!」 
 笑顔でハンカチを受け取るパステルと、ようやく自分がかなり際どい場所を触っていたことに気づいて真っ赤になったクレイ。 
 クレイのその目はすげえ優しかった。いや、あいつが優しいのなんかいつものことだが、パステルを見る目は……何だか、違うように思えた。 
 真っ赤になって、視線をそらそうとして、それでいてそらせない。 
 あいつのあの目が何なのか、俺は知っている。 
 多分、それは俺がマリーナを見る目と、同じだから。 
 マリーナ。 
 視線を戻すと、マリーナはもう何でもないような顔をして、ルーミィを抱き上げていた。 
 ……おめえは気づいているんだろうな、クレイの思いに。 
 俺がおめえの思いに気づいたのと同じように。 
 それなのに……諦めきれねえんだな? 
 ……どうして、クレイなんだよ。 
 明日は誕生日だっつーのに。 
 やけに暗い気分になるのを、止めることができなかった。 
  
 居場所。 
 パステルの言葉が忘れられない。今夜は眠れないかもしれない。 
 通された客間で、わたしはため息をついた。 
 窓の外はもう暗い。きっと、みんなもう眠っているんだろう。 
 そっとベッドから身を起こす。 
 ここは客間。わたしの居場所は、ここには無い。 
 それはわかっているのに、どうしてもここにいたいと思ってしまう。 
 ……きっと。もしわたしが「パーティーに入りたい」と言えば……みんなは喜んで迎えいれてくれるんじゃないだろうか。 
 それは、わたしの都合のいい考えだけど。あの優しいみんなだもの。無下に断ったりは、しないと思う。 
 だけど、そうしたらきっと、わたしはもっともっと痛い思いをすることになる。 
 夕食のときの光景を思い出して、壁にもたれかかった。 
 クレイがパステルのことをずっと見ていたのには気づいていた。 
 久しぶりに再会したその瞬間から、もうクレイの心の中にわたしが入り込むような隙間はどこにも無いんだって……悟っていた。 
 パステル。 
 どうして、あなたなの……? 
 そう思ってしまう理由を、わたしは知っている。 
 彼女が、わたしと同じように何も持っていなかったから。 
 パステルもわたしと同じ。両親を失って、どこにも居場所がなくなって、そうしてクレイ達と出会うことで初めて居場所を手に入れた女の子。 
 わたしととてもよく似た境遇。それなのに、わたしは手に入れられなかったクレイの心を、どうしてあなたはあっさりと手に入れることができるの? 
 どうして……似たような境遇なのに、そんなに素直で、明るくていられるの? 
 こんなことを考えてしまう自分がとても嫌だった。きっとパステルなら…… 
 そのときだった。 
 どんどん 
 荒っぽいノックの音が、響いた。 
「……はい?」 
 こんな時間に、誰? 
 ノックをするような人。パステル……もしかして、クレイ? 
 淡い期待がこみあげる。だけど、わたしの予想は外れた。それは、とても珍しいことだったから、少なからず驚いた。 
「トラップ? 何か用?」 
「…………」 
 トラップは答えずに、バタンとドアを閉めて部屋の中に入ってきた。 
 ……やけに、真面目な表情をするようになったのね? 
 ずっと小さい頃から一緒に暮らしてきた幼馴染で、兄貴みたいな人。 
 子供の頃は、勉強だって運動だって何でもわたしの方ができたから。随分トラップはむくれていたけれど。 
 今、わたしの目の前に立っているトラップは、ずっと背も高くなっていて。きっともう、わたしじゃ敵わないだろうって思える、立派な冒険者だった。 
「トラップ?」 
「……泣いてたのかよ」 
 ボソリ、とつぶやかれた言葉に、思わず手を頬に当てた。 
 泣いていたつもりなんか無かった。わたしは強い女の子だってみんなが思ってる。その期待を裏切らないためにも、人前では泣かないようにしてきた。 
 だけど、頬は確かに湿っていて…… 
「わたしだって、泣きたいときくらいあるわよ?」 
 見られた、という気恥ずかしさも手伝って、わたしはわざと明るく言った。 
 トラップに今更気取って見せても仕方がない。きっとこいつは、わたしの考えなんか全部お見通しなんだろうから。 
 そう思っていても、止めることができなかった。 
「それよりトラップ、何か用? こんな時間にレディの部屋にやってくるなんて、ちょっと無作法じゃない? あんたに礼儀なんか期待してないけど」 
 わたしがベッドから立ち上がった瞬間。 
 不意に伸びてきた両腕が、わたしの身体を捉えた。 
「……トラップ……?」 
「やめとけよ」 
 ぎゅっ、と腕に力がこめられた。 
 抱きしめられてる……? わたしが、トラップに? 
 それは何だかありえないことのように思えて、何をどうすればいいのかわからなかった。 
「やめとけ。クレイなんざやめとけよ……あいつはおめえを見てねえ。おめえの良さを何もわかってねえ。それなのに、何でクレイなんだ?」 
「トラップ?」 
「俺じゃ駄目なのかよ? おめえが望むなら、俺は何でもしてやるぜ? おめえがずっと欲しがってた『居場所』って奴を、俺なら作ってやれる。俺じゃ駄目なのかよ!?」 
 ――え? 
 それは、予想外の言葉だった。 
 トラップをそんな目で見たことはなかったし、見られていた、ってことにも気づいてなかった。 
 だって、トラップは兄貴みたいなものだった。家族だと思っていた。 
 居場所が無かったわたしに、色んなものを与えてくれたブーツ一家。わたしは彼らに……もちろんトラップにも……すごく感謝している。 
 家族と同じように思っていいと言われたから、トラップのお母さんを「母さん」と呼んできた。 
 だから、トラップはわたしにとっては兄貴。そう思わないと……せっかく手に入れた家族を、また失うことになるじゃない……? 
「トラップ、離して」 
「離さねえ」 
「離して、わたし、あんたをそんな風には見れないのよ! わかってるんでしょう? わたし、わたしが好きなのはっ……」 
 その瞬間。 
 強引に唇を塞がれた。荒っぽく肩を捕まれる。痛いくらいに押し付けられる唇。 
 体重がかけられて、そのままベッドに倒れこんだ。 
「痛いっ……」 
 骨がきしむような音。思わず顔をしかめたけれど。視線を上げた瞬間、痛みなんか感じられなくなった。 
 目の前に迫っているのは、いつも傍で見ていた明るい茶色の瞳。 
 怖いくらいに真剣な眼差しでわたしを見つめる、トラップの顔。 
 「家族」が壊れる瞬間だと、何となく悟っていた。 
 トラップの手が、服のボタンにかけられる。反対の腕はがっちりとわたしを押さえ込んでいて、振り解こうとしてもびくともしなかった。 
 ……敵わない。 
 いつの間にか、こいつは「男」になっていて。もうそうなったら、「女」のわたしでは、どうしたって力じゃ敵わないんだっ…… 
 ボタンがいくつか外されて、胸元があらわになった。刺さるような視線を感じて、わたしはぎゅっと目を閉じた。 
 あてがわれる手の感触が、全身に震えのような感覚を走らせる。 
 ……駄目っ…… 
 膝の間に割り込んでくる脚。耳元に触れる荒い吐息。 
「やめて……」 
「…………」 
 トラップは聞いてないみたいだった。無言でわたしの身体をまさぐる手は、止まる気配は……無い。 
「やめて。やめて!」 
「…………」 
 唇が首筋に当てられた。微かな痛みが、肌に痕を残したのがわかった。 
 胸をつかまれて、涙が滲んできた。 
 失いたくない。 
 ブーツ一家という家族を失ったら……わたしは、次はどこに行けばいいの? 
「大嫌い!!」 
 そう思った瞬間、叫んでいた。 
 本音じゃない。トラップを嫌いになるなんて絶対にできない。だって「兄貴」なんだから。 
 だけど、叫んでいた。嘘をつくのにはなれているから。 
「大嫌い。そんなことをするあんたは大嫌いよ、トラップ……」 
「…………」 
 涙で濡れた目でじっとにらみつけると、トラップの視線が、そっとそらされた。 
 拘束が緩む。その手を無理やりに振り払って、服を直す。 
「大嫌い……」 
 きっと、この言葉はトラップの心をひどく傷つけたんだろうと思う。 
 だけど、駄目。わたしには、あんたを男として見ることができない。 
 抱かれそうになって、改めて実感してしまったから。 
 わたしが好きなのは……手を触れても許せる、そう思えるのはっ…… 
 振り返りもせずに部屋をとび出した。 
 バタンッ、という音が、やけに大きく響いた。 
  
 何だか、外が騒がしい? 
 眠ろうにも眠れなくて寝返りばかり打っていたところに、ドアが開く音が聞こえたような気がして、俺は身を起こした。 
 眠れなかった原因は、大体わかっている。 
 夕食のとき、偶然とはいえ触れてしまった、パステルのその……膝というか。腿というか。 
 そうと気づいた瞬間、心に走ったやましい思い。そのことに関する自己嫌悪が、俺から睡魔を奪っていた。 
 ……何を考えているんだ、俺は…… 
 一応、健康な年頃の男として。俺だって人並みに欲望くらい持ち合わせてはいたけど。 
 それは絶対に表には出さないようにしてきた。そうでないと、男女混合のパーティーなんて組んでいられない。 
 横で無防備なパステルの寝顔を見ると、つい触れてみたい、と思ったりする。そして、実際に触れてしまったら……きっともう止められないだろう、とわかっている。 
 パステルは、自分で気づいているのかはわからないけれど、十分に魅力的だ。 
 少なくとも俺はそれに気づいている。……君に、そう伝えてやりたい。 
 だけど…… 
 そのたびに自制してしまうのは、同時にパステルの気持ちにも気づいているから。 
 パステルが一途にトラップのことばかり見ているのを知っているから。 
 幸せになって欲しい、心からそう思う。 
 俺が好きなのは彼女の笑顔だから。悲しそうな顔なんか見たくない。 
 だけど、トラップは気づかない。変なところでは鋭いくせに、肝心な部分ではどうしようもなく鈍感で。 
 ……トラップ。 
 お前は……どうして、どうしてっ…… 
 そのときだった。 
 とんとん 
 軽く響いたノックの音に、俺は思わず立ち上がった。 
 時間はもう真夜中だ。一体、誰が……? 
「はい?」 
「クレイ……今、ちょっといいかしら……?」 
「マリーナ?」 
 がちゃん、とドアを開ける。 
 そこに立っていたのは、寝巻き姿のマリーナだった。 
 俺の顔を見た瞬間、すがるような目を向けて、部屋の中に入ってくる。 
 思わず、ドアのぶから手を離した。ぎいっ、という微かな音とともに、ドアが閉まる。 
「マリーナ……?」 
「クレイ。お願いがあるの」 
 彼女のそんな姿を見たのは初めてだった。 
 ずっと子供のときから一緒だったけれど。いつだってマリーナは明るく笑っていた。どんな辛い目に合っても、泣き言なんか絶対に言わず。そうしていつだって一人で何でもやり遂げてきた。 
 そのマリーナが。今にも壊れてしまいそうな顔で、俺にすがりついてきた。 
「どうしたんだ?」 
「クレイ、お願い」 
 ぐっと胸元をつかまれる。俺の顔を覗きこんでくるマリーナの目は、涙で濡れていた。 
「抱いて」 
「……は?」 
 言われた言葉の意味がわからない。思わず間の抜けた返事をすると、マリーナは泣き笑いの表情になって言った。 
「女が勇気を振り絞って頼んでるのに……そういうことを、言う?」 
「ま、マリーナ……?」 
「お願い。抱いて……わたし、わたしはね、クレイ」 
 詰め寄られて、俺は思わず後ずさった。 
 どん、とベッドに突き当たり、腰を落とす。そこにのしかかるようにして、マリーナの身体が迫ってきた。 
「わたしはね……ずっとあなたが好きだったのよ、クレイ?」 
「…………え?」 
 あまりにも意外な言葉に、俺はかなりの間呆けていた。 
 マリーナが……俺を? 
 ぽかんとしている間に、マリーナの腕が、首に回った。 
「やっぱり、気づいてなかったのね……いいのよ、わかってたから」 
「…………」 
「あなたにとって、わたしは妹みたいな存在だったんでしょう? わかってたわ。そして、あなたが今、誰を見ているのかも……わたしは知っている」 
「…………」 
「代理でもいい」 
 ぎゅっと腕に力がこもった。 
 豊かな胸が、腕に触れる。 
 パステルを相手に抱いてしまって、そのたびにやり場がなくなって心の奥底に押し込められていた欲望。 
 それが、再び表に出てくるのがわかった。 
 こんなのは間違ってる。そういくら言い聞かせても…… 
「代理でいい。パステルの代わりでもいいから、抱いて。一度でいい。しつこくすがったりしない……だからっ……」 
 耳元で囁かれた甘い言葉は、俺の理性をとばすのに十分過ぎた。 
「これは夢だと思って、クレイ。あなたのことが……好き」 
 その瞬間。 
 俺は、マリーナの身体を押し倒していた。 
 これは夢だと自分に言い聞かせて。 
 卑怯なことだと、こんなことは間違っていると、そう思いながらも。 
 マリーナの顔にパステルを重ねながら、俺は彼女の服に手をかけた。 
  
 今夜は、やけに騒がしい…… 
 バタンバタンとドアの開け閉めの音が響く。それに気づいて、わたしは身を起こした。 
 隣では、ルーミィとシロちゃんが凄く幸せそうな表情で眠っていた。 
 ふふっ。かーわいい。 
 ずれた布団をかけなおして、そっとベッドから下りる。 
 わたしも、普段は決して眠りの浅い方じゃないんだけど。 
 今日に限って目が覚めたのは……きっと、マリーナがいるから。 
 わたしはマリーナのことが大好きだけど。トラップと一緒にいるマリーナを見るのは……嫌。 
 彼女がいると、トラップはちっともわたしを見てくれないから。 
 今日だってそうだった。いつもは、もうちょっとわたしに向けてもらえる視線が、ずっとずっとマリーナの方ばかり見ていた。 
 いくら寂しく思ったって、わたしがそう思っていることにすら気づいてもらえない。 
 それが辛くて……寝付けなかった。 
 ……わたしって、諦めが悪いよね。 
 ため息をつきながら、そっとドアを開ける。 
 今は、廊下は静まり返っていた。……さっきから響いていたのは、一体どこの部屋のドアなんだろう? 
 何となく胸騒ぎがして、そっと部屋を滑り出る。 
 そのときだった。 
 バタンッ 
 突然、またドアが開いた。 
 ばっと振り返る。開いたのは、客間。 
 マリーナが寝ているはずの、部屋。 
 そこから出てきたのは…… 
「……トラップ……?」 
「…………」 
 わたしのつぶやきに、トラップが顔を上げた。 
 刺すような視線に、思わず後ずさる。 
 何で…… 
 何で、トラップがマリーナの部屋から出てくるの? 
 頭が混乱して、わけがわからなくなった。 
 何で、何で? 
「トラップ……」 
「…………」 
 ずかずか、とトラップがわたしの方に歩み寄ってきた。 
 その顔は、何だか物凄く傷ついているように見えた。 
 とてもとても悲しそうで、何だかヤケになっているような…… 
「トラップ、何が……」 
 ぐいっ 
 腕をつかまれた。 
 その力強さに、思わず悲鳴が漏れたけど。トラップはそんなこと、全然気にもとめず。 
 そのまま、無理やりわたしをひっぱっていった。 
「ちょっと……ちょっと、トラップ! 一体何っ……」 
 バタンッ!! 
 開けられたのは、トラップの部屋のドア。 
 長い足で蹴飛ばすようにしてドアを開けてわたしを引きずり込むと、そのままドアを閉めた。 
 がちゃりっ、と鍵をかけられる音に、一瞬背筋が寒くなる。 
「と、トラップ……?」 
「…………」 
 トラップは無言だった。何も言おうとしない。 
 そのまま、彼は、わたしの身体を押し倒した。 
「と、トラップ!? ちょっとっ……」 
「…………」 
 ぐいっ、とパジャマがひっぱられる。 
 ぶつんっ、という音とともに、ボタンがいくつか、同時に弾けとんだ。 
「トラップってばっ……」 
 視線を上げて、そしてぞっとした。 
 とても冷たい目だった。 
 トラップのわたしを見る目は、すごく、すごく冷ややかで。優しさや温かみなんかかけらも混じっていなくて。 
「トラップ……何、が……」 
「……おめえは」 
 耳元で囁かれた。吐息が直接触れて、一瞬寒気が走る。 
「おめえは、俺のことが好きか……?」 
「……え?」 
 あまりにも突然のことだった。 
 何を聞かれているのかわからない。どうして、そんなことを突然…… 
「トラップ……?」 
「ま、いいか。どうでも」 
「トラップってば!?」 
 ぐいっ 
「やっ! 痛いっ……」 
 下着の中に無理やり手がこじいれられた。 
 荒っぽくつかまれる。爪が立てられて、涙がにじんできた。 
「痛い、痛いってばっ……」 
「どーでもいい。どうせ……」 
「何がっ……」 
 ぶつぶつぶつっ!! 
 乱暴にパジャマがひっぱられて、残っていたボタンが全部弾けとんだ。 
 トラップの前にさらされた上半身。それを見ても、彼の目には何の感慨も浮かんではいないみたいだった。 
 唇が寄せられる。肌に刺すような痛みがいくつも走った。 
「あっ……やっ……」 
 するり 
 手がもぐりこんできて、ズボンが巧みに脱がされた。 
 膝を開かされる。自分がひどく恥ずかしいポーズをとらされているのがわかったけれど。それに文句を言うこともできなかった。 
 身体に触れる手は暖かい。だけど、目だけは、冷たいまま。 
 トラップは、無言でわたしの身体を蹂躙していった。手と、指と、唇と、舌で。ありとあらゆる部分を撫で回されて、そのたびにわたしは声を漏らすことを抑えられなくて…… 
「やっ、あっ……あっ、ひゃんっ……やああああっ!!」 
 ぐちゅっ、というような音が、妙に生々しく響く。 
 こじいれられた指が内部で暴れまわって、わたしは理性がとびそうになった。 
 初めて味わう感覚だった。自分でだって滅多に触れないような場所を、トラップは何の遠慮もなく撫で回し、そして…… 
 ずんっ 
 その衝撃は、予告もなく訪れた。 
「っ……い、痛いっ……痛い、痛いってばっ……!!」 
「…………」 
 わたしの言葉は、彼に届いていないようだった。 
 トラップは、どこまでも無表情のまま、腰を動かし続けた。 
 そのたびに痛みが走った。辞めて欲しい、せめてもっと優しくして欲しい。そういくら訴えても、彼の表情は何一つ変わらなかった。 
「やだっ……やだっ、トラップ、やだってばっ……!!」 
「…………っ」 
 動きが段々早くなる。トラップの表情に、歪みが走る。 
 わかった。何となくわかった。この後どうなるか。わたしにだって、それくらいの知識はある。 
「トラップっ……!!」 
「…………」 
 太ももを溢れて落ちていくのは、血? それとも…… 
 わからない。何もわからない。やがて…… 
 トラップが、動きを止めた。大きく息をついて、その身体から力を抜いた。 
 ……ああっ…… 
 やめて、って……あんなに、言ったのに…… 
「トラップ……」 
「…………」 
 ぎゅっと身体を抱きしめられた。強引に抱き起こすようにして、トラップの腕が、強く強くわたしをかき抱いた。 
 そして、言った。 
「マリーナ……」 
 残酷極まりない真実を告げる言葉、だった。 
  
 ずるっ、と欲望を放った直後の自分自身を引き抜く。 
 腕の中にいるのは、茫然とした顔のパステル。 
 ……そう、パステルだ。マリーナじゃねえ。 
 傷ついたような目が、俺の顔に突き刺さった。 
 ……何で、そんなつもりになったんだか。 
 マリーナに「大嫌い」と言われた。ショックだった。この上なくはっきりと拒絶されて、確実に心のどっかが壊れたと思った。 
 何も考えたくなくて、外に出たとき、たまたまパステルも外に出てきた。 
 ……そう、たまたま、だ。そこにいたのがパステル以外の女だったとしても。多分俺は同じような行動を取ったに違いねえ。 
 ヤケになっていた。マリーナが手に入らねえなら、他のどの女でも同じだと思った。そして実際に同じだった。 
 パステルの身体を抱きながら、俺はその顔にマリーナの顔を重ねていたから。 
 全く似てねえのに。身体だってお世辞にもグラマーとは言いがたくて、正直大して魅力も感じてなかったのに。 
 それでも、マリーナだと思い込むだけで、俺の身体はあっさりと反応していた。 
 ……俺って奴は。どこまで最低なんだよ? マリーナに受け入れてもらえねえのも……当たり前か? 
 視線をそらす。ズボンを汚しているのは、血。 
 パステルの太ももを伝い落ちているのは、赤と白の、どろっとした液体。 
 初めて、だったんだろうな。そりゃそうだろうな。 
「パステル」 
「……わたしは、マリーナじゃない」 
「あ?」 
 パステルの震える声が、耳に突き刺さった。 
「わたしはマリーナじゃない……」 
「……見りゃわかる」 
「じゃあ、何でっ……」 
「…………」 
 誰でも良かった、という本音を告げれば、こいつはどんな反応をするだろうな。 
 パステルの、俺を見る目。 
 ひどく傷ついたような怒ったような目をしていた。 
 だが、その奥にあるのは…… 
 今頃気づいた。自分は鋭い方だと思っていたが。そんな目でこいつを見たことはなかったから……意識したことはなかった。 
 そうか。こいつは、俺のことが…… 
 ……気づいたって、だからどうした? 程度の思いしかねえけどな。 
「そこにいたのが、おめえだったからだよ」 
「え……?」 
 言葉の意味がわからなかったらしいが、説明する気にもなれなかった。 
 黙って立ち上がる。さすがに、これ以上パステルの顔を見ているのは……辛かった。 
 悪いな。俺も…… 
 ……できるもんなら、おめえの思いに答えてやりたかったよ。 
 バンッ、と部屋のドアを開ける。 
 どうせ、今日は眠れそうもねえ。外に出て、頭でも冷やそう。 
 そう考えながら、外に出たとき。 
 バタンッ 
 同時に、すぐ隣の部屋のドアが、開いた。 
 ……クレイ? 
 一瞬思ったが、違った。 
 隣のクレイの部屋。そこから出てきたのは…… 
「……マリーナ」 
「…………」 
 マリーナの目は真っ赤だった。寝巻きの前ボタンをかきあわせるようにして、ジッと俺を見ている。 
 あらわになっている首筋に、明らかに俺がつけたのとは違う赤いあざが、二つ三つ見え隠れしていた。 
 言葉が出なかった。無言で、俺とマリーナは見詰め合っていた。 
  
 抱かれている間は幸せだった。 
 クレイはとても優しかった。彼らしい、遠慮がちで、情熱的な、そんな愛撫に、わたしは素直に声をあげることができた。 
 だけど…… 
 その間、わたしは一度も彼の顔を見れなかった。見てしまえば、辛い現実を思い知ってしまうから。 
 わたしの顔を見ていない。わたしを通して、別の女の子を見ている彼の顔を。 
「……マリーナ」 
 行為が終わった後、クレイはとてもとても申し訳無さそうな顔でつぶやいた。 
「俺は……」 
「いいの」 
 手早く服を着る。クレイの言いたいことなんかわかっていた。 
 わたしの気持ちを受け入れられない。きっと彼なら、そう言うだろう。 
 そして、欲望にまかせてわたしを抱いたことを死ぬほど後悔して……そして。 
 同情なんて真っ平だった。責任を取る、なんて理由で一緒になってもらっても、嬉しくなんか無い。 
「いいのよ。謝るのはわたしの方」 
「マリーナ?」 
「あなたの心の弱みにつけこんで、迫っていったわたしの方こそ、謝らないと」 
 きっと、パステルのことがなければ。 
 クレイのことだから。責任感の強い彼のことだから。パーティーの仲間に恋をするなんてとんでもないと思って、彼女に思いを告げることはないだろうと思って。 
 そうしてやり場のなくなった思いに苦しんでいることがわかって。そこにつけこんだ卑怯なわたし。 
 そう装わないと。わたしは強いんだから。ちょっとやそっとのことで落ち込んだりはしない。 
 男にすがらないと生きていけないような、そんな女じゃない。 
 寝るなんて……大したことじゃない。 
「いいのよ。クレイ……応援してるから」 
「え?」 
「パステルとのこと、応援してるから……今日は、ありがとう」 
「マリーナ……」 
 駄目、顔を見たらきっと泣いてしまう。 
 わたしは慌てて視線をそらした。そのまま、ドアの方へと足を向ける。 
「これは夢。明日になったら、忘れなきゃいけない夢。……おやすみ」 
 バタン、とドアを開ける。 
 もう見られていない。そう思うと、一気に涙が溢れ出した。 
 バカなわたし。どうして、どうして…… 
 ……どうして……素直になれないのっ…… 
 そのときだった。 
 バタンッ 
 隣のドアが、開いた。 
 そこから顔を出したのは……トラップ。 
「…………」 
「……マリーナ」 
 少し驚いたような、トラップの顔。 
 ……彼が、何をしていたのか。 
 ドアの隙間から漏れる、すすり泣きの声。その声を聞いた瞬間、わたしは、絶望感で頭がくらりとした。 
 まさか、まさかっ…… 
 問い詰めたい、と思ったけれど。それはできなかった。 
 ここで、わたしが気づいたことを知れば……一番傷つくのは、彼女なのだから。 
 わたしの視線に気づいたのか、トラップは静かにドアを閉めた。 
 ぴたり、と漏れ出る声が聞こえなくなる。 
 視線で促すと、意味がわかったらしく、トラップもわたしの後についてきた。 
 家の外に出る。夜の空気は、ひどく冷たかった。 
 わたしの心と同じように。トラップの心と同じように。 
 バタン、と玄関のドアを閉める。同時に、わたしは手を振り上げていた。 
 叩き付けたときの衝撃は思ったよりも大きく、響いた音に一瞬身をすくめたくなった。 
「あんた、最低ね」 
「そうだな」 
 避けるのは簡単だっただろうけど、トラップはあえてわたしの手を受け止めていた。 
 頬がみるみるうちに赤く染まっていく。だけど、表情はぴくりとも動かなかった。 
 その胸元をつかみあげる。 
「最低ね。パステルが一体何をしたっていうの?」 
「…………」 
「わたしに振られた腹いせ?」 
「うぬぼれんな」 
 低く笑って、トラップはわたしの手首をつかんだ。 
 ぎりっ、と食い込む指が、痛い。 
「おめえのことなんか関係ねえ。俺が抱きたかったから抱いたんだよ。おめえはパステルじゃねえ。だあら、おめえに文句を言われる筋合いなんてねえんだよ」 
「……あ、あんたって人はっ……」 
「そういうおめえこそ」 
 皮肉げな口調が、耳に刺さる。 
「クレイに抱いてもらったんだろ?」 
「…………!!」 
 ぎくり、と身体が強張った。 
 そう、こいつは鋭い。隠そうとしたって、こいつを前にしてそれに成功したことなんか、ほとんど無かった。 
「図星か?」 
「……あんたには関係ないでしょ?」 
「ああそうだ。関係ねえ。例えおめえがクレイの気持ちに気づいてて、それでもあいつの優しさを利用して迫ったとしても。俺はクレイじゃねえしパステルじゃねえからな。俺が文句を言うようなことじゃねえ」 
 ばっ、と手を離される。じいん、としびれるような痛みが、残った。 
「それは、おめえも同じだろ? 俺とパステルのことに、おめえは関係ねえ」 
「…………」 
 腹が立つくらいに正論だった。わたし自身の弱みを逆手に取った、とても卑怯な正論。 
 ……わたしのせい? 
 見込みもないのにクレイを思って、トラップを拒絶して、それがパステルを巻き込んだ? 
 ……わたしのせい、なの……? 
「……これから、どうするつもり?」 
「…………」 
「これから、あんたはパステルとどう接するつもりなの?」 
「いつもと変わらねえよ」 
 吐き捨てるように言って、トラップは背を向けた。 
「何も変わらねえ。愛のねえ行為に何の意味がある? 意味がねえなら気にする必要もねえ。俺の態度は変わらねえよ。マリーナ」 
 一度だけ振り向いて、トラップは言った。 
「おめえがクレイに対する態度を変えねえのと、同じように。なあ、俺とおめえって、よく似てると思わねえか? さすがは……」 
 遠ざかっていく足音。 
 投げかけられた言葉だけが、いやに耳に残っていた。 
「さすがは、兄妹だよな?」 
 
 マリーナが出て行った後。俺は、しばらく動くこともできなかった。 
 正直に言えば……気持ちよかった。 
 初めてだった。あんな快感を味わったのは。夢中になっていた。それは否定できない。 
 例え、抱きながらパステルのことだけを考えていたとしても。 
 ……俺って、奴はっ…… 
 自分で自分が許せない。将来は騎士を目指すつもりだったのに。何よりも人の儀を重んじなければならない、そんな立場につくつもりだったのに。 
 俺は……何をやっているんだ? 
 マリーナは初めてだった。女の子にとって、それがどんなに大事なものか。俺だって知っている。 
 ……謝らないと。 
 きっと、彼女はそんな必要は無いと言うだろうけど。それでも、俺の気がすまない。 
 謝らないと。俺は彼女にひどいことをした。 
 愛情を抱くことができないのに、身体だけを抱いた。 
 ずっと向けてくれていた思いに、気づきもしなかった。 
 慌てて服を着て立ち上がる。 
 マリーナは、部屋に戻っているんだろうか? ……それとも…… 
 考えていても仕方がない。まずは、訪ねてみよう。まさかもう寝てるなんてことは、無いだろうから。 
 ドアを開ける。もう遅い時間だから、と。なるべくそっと開けたつもりだった。 
 そのとき、バタンッ、と音がして、思わず身をすくめた。 
 ……違う? 
 自分の部屋のドアが、ぎいっ、という微かな音を立てているのを聞いて、首を傾げる。今の音は…… 
 顔を出す。開いていたのは、隣の部屋だった。 
 ……トラップの部屋? 
「おい、とらっ……」 
 ぎくりとした。 
 ドアの外から顔を覗かせたのは、パステルだったから。 
 パジャマの胸元を硬く握り締めて、全身を震わせながら、彼女はゆっくりと外に出てきた。 
 俺の存在に、気づいてもいない。茫然とした表情。あんなに感情表現豊かな彼女の表情とは思えない、無表情。 
「パステルっ!」 
 ぐいっ 
 放ってはおけなかった。ひどく傷ついたような目をしている彼女を、一人にしておけなかった。 
 俺が肩をつかむと、パステルはびくり、と身体を強張らせて振り向いた。 
 その目に俺をうつして、そして怯えたように後ずさる。 
「……っ……!!」 
 握り締められた胸元。 
 パジャマのボタンが全部なくなっているのを見て、一瞬、頭に血が上った。 
 トラップの部屋から出てきたことと重ねて考える。わずかに覗く胸元や首筋に残されたのは、白い肌にはひどく不似合いな赤くて丸い痕。 
「パステル、まさか……」 
「……聞かないで」 
 両目から涙を溢れさせて、パステルは言った。 
「お願い、聞かないで。何も言わないで……わたしにも、トラップにもっ……」 
「パステルっ!」 
「何でも無いの! 何でもないっ……わたし、わたしはっ……」 
 うつむく彼女。ぽつん、ぽつんと床に零れ落ちる涙。 
 今にも倒れそうな、そんな表情を浮かべながらも、それでも彼女は、俺の手を拒絶した。 
「わたしは気にしてない……だって、トラップのことが、好きだからっ……気にして、ないの……」 
「…………」 
 それだけ言うと、パステルは自分の部屋へとかけこんで行った。 
 そっとトラップの部屋をのぞきこむ。 
 誰もいない。トラップはどこに行ったのか。 
 部屋の中に残された、赤い染み。 
 ふと目に付いて拾い上げたのは、パステルのパジャマについていたボタン。 
 何が起こったのかは明白で、でも俺にそれを責める資格なんかどこにも無い。 
 俺だって同じようなことをした。トラップとの違いは、相手に求められたかどうか。 
 ……いや、トラップより酷いかもしれない。相手が求めてくれたことを免罪符に抱いたのだから。 
 俺には、奴のように……嫌われることすら恐れずに自分の欲望に忠実に行動するなんて、きっと一生できないだろうから。 
 優しさじゃない。拒絶されること、憎まれることが怖いから。 
 俺は臆病だ。……優しくなんか、無い。 
 ドアを閉める。 
 そのまま自分の部屋に戻った。とても、マリーナの顔を見ていられる自信はなかったから。 
 俺にできることは、何も知らない振りをしてやること。 
 夢だと思ってくれというマリーナの言葉に、甘えること。 
 下手なことを言えば、余計に傷つけるだけだから。 
 そう自分に言い聞かせて、俺は枕に顔を埋めた。 
  
 翌日、トラップの誕生日パーティーは滞りなく行われた。 
 わたしとマリーナが腕を振るった料理はとても好評で、みんなが褒めてくれた。 
 トラップも。 
 わたしの顔を見ても、トラップは顔色一つ変えなかった。 
 プレゼントを渡したときも、「さんきゅ」と一言答えただけ。 
 ……わかっていたから。 
 大体、わかっていたから。マリーナの名前を呼ばれた瞬間に。昨夜の彼の行為が、何の意味もない行為だったってことは、わかってたから。 
 だから、気にしちゃいけないんだ…… 
「誕生日おめでとう、トラップ」 
「おう。さんきゅ」 
 メッセージカードに書いた言葉は一言だけ。 
 ――いつまでも、このままで―― 
 しつこく言えばきっと嫌われる。 
 トラップに嫌われるくらいなら…… 
 それくらいなら、このままの関係でいたい。 
 わたしが微笑みかけると、彼もいつもと全くかわらない笑みを返してくれた。 
  
 昨夜何があったかを知らねえからだろうけど。 
 ルーミィ、キットン、ノルにシロ、それにリタの能天気な顔を見ていると、苦笑すら漏れてこねえ。 
 俺とマリーナ、パステル、クレイの暗い笑顔とはえらく対照的だ。 
 もっとも、誰もそれに気づいてねえようだけどな。俺達も隠そうとしてるから、気い使ってくれてるだけかもしんねえけど。 
「誕生日おめでとう、トラップ」 
「おう。さんきゅ」 
 パステルの目は真っ赤だった。まさか、昨夜何があったのか、忘れてるなんてこたあ、ねえだろう。 
 恨まれても憎まれても仕方がねえと思ってた。けど、あいつは笑顔だった。 
 どんだけ暗くても、笑顔だった。 
 メッセージカードに書かれた言葉は、「いつまでも、このままで」 
 ……そうか。おめえは、俺の気持ちをちゃんとわかってんだな。 
 プレゼントをポケットにつっこむ。 
 わかってんだな? 俺はおめえに対して友情以上の感情なんかかけらも抱いてなくて、自分の思いが実る可能性なんかかけらも無くて、しつこく迫ったって俺に嫌われるだけだっていうのが……ちゃんと、わかってんだな? 
 心から申し訳ないと思う。好きになれるもんなら、なってやりたかった。マリーナさえいなければ、多分俺はパステルの気持ちを受け止めていた。 
 マリーナ。 
 視線をずらす。 
 マリーナは、にこにこ笑いながら、ルーミィにケーキを切り分けてやっているところだった。 
 昨夜、俺を責めるような目で見ていたあいつの姿は、どこにもねえ。 
 ……思うだけなら、自由だろう? 
 見込みなんか無くたって、好きでいるのは自由だろう? 
 パステルが俺を見ているように、おめえがクレイを見ているように。 
 俺がおめえを見るのも……自由だろう? 
「マリーナ、おめえからのプレゼントは?」 
 声をかけると、マリーナは「図々しいわね、もう!」と言いながら、綺麗に包まれたプレゼントを放り投げてきた。 
 それを空中で受け止めて、俺はいつもと同じ笑みを、あいつに向けていた。 
  
「マリーナ、おめえからのプレゼントは?」 
 そう声をかけられて振り向く。 
 手を振っているのは、いつもと全く変わらない表情の、トラップ。 
 ……あいつは、本当に昨夜のことを忘れるつもりなのね。 
 苦笑が漏れる。 
 ええそうね、トラップ。あんたの言う通りよ。わたしとあんたはよく似てるわ。 
 何で、あんたはわたしを選んだの? 美人だから? スタイルがいいから? 
 どうして妹をそんな目で見れたの? 
「図々しいわね、もう!」 
 手に持っていた包みを放り投げる。受け止めて返された笑顔は、本当にいつものトラップだった。 
 そのトラップを見つめる、パステルの目は……とても悲しそうで、それを必死に隠そうとして無理に微笑んでいる、そういう目だった。 
 パステル。 
 ……お願い、あなたはわたしみたいにならないで。 
 心からそう思う。パステルのことが大好きだから。だから、彼女にはいつまでも彼女のままでいて欲しい。 
 きっと昨夜のことは、彼女の心に深い傷を負わせたと思う。それはわたしのせい。直接傷つけたのはトラップでも、その原因となったのはまぎれもなくわたし。 
 だから……わたしがあなたにできることは、何も知らない振りをして、いつも通りにあなたに接して、心の中で謝って、そしてトラップを拒絶することだけ。 
 思うだけなら自由でしょう、パステル? あなたはずっと、その純粋な思いを貫いて欲しい。わたしは決してトラップの気持ちにこたえたりしない。いずれ……そう、いずれは。 
 いずれは、あなたの魅力に、トラップが気づく日も来ると思う。だって、あなたはとても魅力的だもの、パステル…… 
 ふっと視線をそらすと、向かいに座っていたクレイと目が合った。 
 ああ、きっと彼も、パステルのことを見ていたんだ。 
 そんなことに気づく。だって、視線の動きが、全く同じだったもの。 
 わたしが軽く微笑みかけると、クレイは困ったような笑みを浮かべて、目を伏せた。 
 ……きっと、あなたのことだから。深く深く気に病んでいるんでしょうね? 
 気にしないで、ってどれだけ言っても……忘れることはないんでしょうね。 
 わたしは、卑怯な女だわ。 
 目の前のコップを取り上げて、中身を飲み干す。 
 わたしは卑怯だわ。そうなることがわかっていて、クレイに迫ったんだから。 
 少しでも、わたしという存在を気にかけて欲しい…… 
 そう思って、クレイに抱かれたんだから。 
 そんなことしたって、パステルと同じように純粋なあなたが、わたしの方を振り向いてくれるなんて思ってはいないけど。 
 でも、少しは……わたしのことを女として、意識してくれた? 
 答えは決して返って来ないだろうけれど。わたしは心の中でつぶやいて、料理に手を伸ばした。 
  
 マリーナと目が合って、思わず顔を伏せる。 
 彼女の顔を、まともに見れなかった。謝るタイミングを逃してしまったし、謝ったって彼女は聞こうともしないだろうから、と。 
 そう思うと余計に申し訳なかった。 
 トラップが羨ましい。 
 心から、そう思う。 
 トラップの態度は、以前と全く変わらない。パステルにも、いつも通りの笑顔を見せて軽口を叩いている。 
 お前は、昨夜あんなことをしておいて。 
 パステルの心をあれほど傷つけておいて……どうして、そんなことができるんだ? 
 パステル。 
 彼女のことを思うと、胸がしめつけられるようだ。 
 笑ってはいたけれど、その笑顔は確実にどこかが変わっていた。 
 寂しそうな笑顔。傷ついた笑顔。 
 手を差し伸べてやりたい。癒せるものなら、俺が癒してやりたい。 
 それでも。 
 彼女の視線が追っているのは、トラップだった。俺ではなく。 
 ……どうして。 
 どうしてなんだ? どうして、あれほどひどい扱いを受けておきながら、そんな…… 
「クレイ」 
「え?」 
 声をかけられて振り向くと、マリーナが、静かな目を向けてつぶやいた。 
「好きになるのに、理屈なんかいらないのよ……そうじゃない?」 
「…………」 
 ああ、そうだな。その通りだ。 
 視線をそらす。パステルをいくら見たところで、彼女が俺を見ない以上、全くの無意味だと気づいたから。 
 料理に目を落とす。マリーナの言葉が、どこまでも耳に痛かった。 
 好きになるのは、理屈なんかいらない・ 
 ……そうだ。理屈通りにいってくれるようなものなら。 
 俺はパステルを諦めて、マリーナの気持ちを受け止めていた。それができないから……苦しんでいる。 
 どれだけひどい扱いを受けようとも、トラップを嫌いになれないパステルと同じように。 
 もくもくと料理を口に運んだ。とても美味しかったけれど、それを味わおうという気にはなれなかった。 
 俺にできることは、今まで通りの関係を保つことだけだ。 
 何も知らない。何も気づいていない。その振りをしてやることだけだ。 
 賑やかに響くハッピーバースディの歌が、妙に寒々しく聞こえた。 
 

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