好きだ、と自覚したところで。 
 どうしようもできねえんだから……仕方ねえだろう? 
 はあっ、とため息が漏れる。 
 いつものみすず旅館のいつものあいつの部屋。 
 「この部屋の方が日あたりがいい」と言い訳をして毎日のように昼寝に訪れて。 
 最初のうちこそ文句を言っていたものの、諦めたのか。今となっちゃあ、すっかり放置状態。 
 目の前には、あいつの背中が見える。 
 長い蜂蜜色の髪が不規則に波打っていて、それを目で追っているうちに背後から抱きしめてやりたい、という衝動に狩られたが。 
 例えそんなことをしたところで、あの鈍感女のこった。「邪魔しないでよ!」とか何とか言われて不機嫌そうな顔をされて、そのくせ俺の気持ちになんかちっとも気づかねえ。気づこうともしねえ。 
 はあ。空しい…… 
 俺が一体、何のために毎日のように部屋に訪れてると思ってんだ? 
 多分そう聞いたら、こいつのこった。「こっちのベッドの方が日あたりがいいからでしょ?」と、俺が使った言い訳をそっくりそのまま返すに違いねえ。 
 ちげえよ。ここに来ればおめえを見ていられるから。 
 俺はおめえのことが好きだから。 
 いっそそうぶちまけてやりてえ、と思ったことも何度となくあるが、そのたびに自制してきた。 
 どうせ、言ったところで。冗談に取られて流されるのが落ちだ。 
 本気にされたところで、受け入れてくれなきゃ告白する意味がねえ。 
 気まずくなるくらいなら、今のままの方がいい。 
 ようするに、俺は度胸がねえだけなんだ。関係を壊す度胸がねえ。断られるのが怖い。だからこそ、今の関係からもっと先に進みたい、とそう思っているくせに。一歩踏み出そうとすることができねえ。 
 ああ、情けねえ。 
 はああっ、とまたため息をついて、上半身を起こす。 
「トラップ」 
 どきんっ 
 突然声をかけられて、俺は動揺を悟られねえよう聞こえねえ振りをした。 
「トラップ」 
「……あんだ?」 
 息を整える。その間にかけられた二回目の呼びかけには、どうにか返事をすることができた。 
「あ、起きてたんだ? ねえ、いいかげんに準備した方がいいよ」 
「……おめえはどうなんだよ」 
 準備、と言われて、一瞬何のことかと思うが。 
 ああ、と思い出した。……そういやあ、明日からクエストに出かける予定だった。 
 あんまりにもこいつの態度が普段と変わりねえもんで。この部屋で過ごすまったりとした空気の居心地が良すぎて、すっかり忘れていたが。 
「だから、わたしもやっと原稿が上がったから、準備しなくちゃいけないから」 
 そんなことを言いながら振り向いたあいつの、パステルの顔は、少し疲れているようだった。 
 寝不足なのかもしれねえ。クエストが近いっていうのに原稿の依頼を引き受けちまって、随分無理したみてえだからな。 
 何でそれを知ってるのか、と言えば。それだけ、原稿が忙しくて部屋にこもりっきりなパステル。その姿を見るためだけに、この部屋に入り浸ってたからだが。 
「お疲れ」 
 そう言うと、パステルは不気味なものでも見るような目で俺を見て、「熱でもあるんじゃないの?」なんて言ってきやがった。 
 失礼な奴だな。俺がおめえの心配しちゃわりいかよ? 
 たまに素直になってみりゃあ……これだ。 
「ばあか。お疲れって声かけたのはなあ、おめえにじゃねえよ。健気におめえの体重支え続けたその椅子に言ってんだ。ここ数日休む暇もなかったろうからな」 
「な、なあんですってええ!?」 
「けっけっけ。怒ったあ? パステルちゃん」 
「もー最低っ! ほらっ、わたしだって準備があるし原稿も届けなきゃいけないし忙しいの!」 
 相当疲れているせいなのか、どうなのか。あいつの機嫌はいつもより悪いように見えた。 
 そんな顔を見ていると、「無理すんな」と抱きしめてやりたくなる。けど、それができねえから……じゃあどうするのかと言えば、からかってやりたくなる。 
 悪循環だ……そう心の中でつぶやいていると、パステルは机の上に散らばった原稿をまとめて、俺をきっとにらみつけてきた。 
「早く部屋に戻ったら? あんまりクレイの手をわずらわせちゃ駄目だよ」 
 ………… 
 クレイ、ね。 
「いっつもトラップの尻拭いばっかりさせられて、クレイは大変なんだから」 
 俺の前で、その名を呼ぶな。 
 一瞬、そう言ってやりてえ衝動に狩られる。 
 幼馴染のクレイ。女が惚れる要素を全て持ち合わせて、ガキの頃から俺が「いいな」と思った女を自覚もなく片っ端から奪っていってくれた男。 
 決して面白くはなかったが、「まあしゃあねえ」で諦められる程度の思いしか抱いたことはなかった。けど、こいつは……パステルだけは。 
 パステルだけは、クレイにやりたくねえ。初対面のときから、俺とクレイを完全に同一視してくれた女は、こいつだけだから。 
「ほら、わたし出かけるから。昼寝はそれくらいにして出てって!」 
 ふくれっつらをするあいつの脇をすりぬける。 
 いっつもこうだ。素直になってみせても、あいつはそれを素直に喜ばねえし、そして俺はすぐにそれを冗談にしちまう。 
 照れくさいから。 
 全く。こんなこったから……いつまで経っても関係が進展しねえんだろうなあ。 
 がちゃん、と部屋のドアを開ける。 
 明日っからクエストだ。しばらくは、のんびりパステルの姿を見ている暇もなくなる。 
 もっとも、方向音痴のマッパーを育成する、という名目で、手を触れる機会は、いつもよりもずっと多いかもしんねえけどな。 
  
 訪れたクエストは、ちょっとした搭の攻略。 
 魔法の搭、と呼ばれるそこは、数十年前まである魔法使いが暮らしていて、様々な実験を繰り返していた搭らしい。 
 ところが、実験の最中不慮の事故で魔法使い本人が死亡。しかけられた魔法の罠やモンスター、実験途中だった様々なものが手付かずのまま放置されて、今にいたる、と。 
 マジックアイテムの類は、ほんのちょっとしたもんでもかなり高く売れる。俺達の目的は、魔法使いが残したと思われるそれらのアイテムを一つでも多く回収していくこと。 
 ただ、それはなかなか容易なこっちゃなかったが。 
「おい、トラップ! 解除できたか!?」 
「もーちょいっ……後ちっとこらえてくれっ!」 
「わ、わかった!!」 
 搭の二階に向かう螺旋階段。 
 そのど真ん中で、俺達は戦闘の真っ最中だった。 
 さすがは魔法使いの搭といったところか。ドア一つ開けるにもいちいち凝った罠が仕掛けられたりしていて、そのたびに解除にてこずらされた。 
 ある意味運が悪いのは、それらの罠が俺のレベルでどうにか解除できる程度の代物だった、ってとこだ。 
 俺にお手上げな罠ばっかだったら、諦めて引き返そう、って気にもなれた。 
 だけど、罠そのものは、魔法がかけられて少しばかり厄介なタイプとは言え、決して解除は不可能じゃなかったし、現れるモンスターも、キットンの知識とクレイの剣とノルの怪力、それにルーミィの魔法で、どうにかこうにか撃退できるレベルだった。 
 ぎりぎりでクリアが可能。それは、ひょっとしたらクリア不可能なほど難しいクエストより性質が悪いかもしれねえ。 
 がちゃんっ 
「おし、解除できたぞっ!」 
「わかった……ノル! 一旦引くぞ!} 
「了解」 
 ノルの腕が、階段前で足をばたつかせるモンスター(詳しくはわかんねえが、多分通常モンスターに何らかの魔法がかけられて改造されてんじゃねえかと思う)をつかみあげて、思いっきり遠くの方へと投げ捨てた。 
 もちろん、それくらいでくたばるような柔なモンスターじゃねえ。地面に叩きつけられて怒り狂ったのか、そのモンスターは、きいきいとおたけびをあげながら再びこっちに迫ってきて…… 
 もっとも、そのときには、既に俺達は全員、階段の途中にあった隠し扉の中に消えていた。 
「あーっ……ったく、心臓に悪い搭だぜ」 
 がちんっ、と扉の前にくさびを打ち込んで、外からはドアが開かねえように固定する。 
 偶然に見つけた隠し扉。それはどうやら書庫らしく、部屋は壁一面本棚になっていて、かびくさい匂いが鼻についた。 
「わあ、すごーい! この本、すっごく古くてもう本屋さんじゃ手に入らないんだよね。読んでみたいなあ」 
 本を見渡して目を輝かせているパステルの頭をはたき倒す。 
 全く、状況がわかってんのかねえ、こいつは。 
「もー痛いじゃない! 何するのよトラップ!」 
「ぶわーか! 何するのよ、じゃねえ! おめえ今の状況わかってんのか?」 
「く、クエスト中でしょ? わかってるわよ!!」 
 ぷうっ、とほっぺたを膨らませて、パステルは手に取った本を棚に戻した。 
 俺達冒険者には、本みてえな余分な荷物を持ち歩く余裕はねえ。小説家の卵であるこいつには、それが色々不満なようだが。 
「いーやわかってねえ! どこに何が仕掛けられてるかわかんねえんだぞ。俺が調べるまでその辺のもんに迂闊に触るんじゃねえよ!」 
 そう言うと、パステルははっ、と息を呑んで、素直に頭を下げた。 
「ご、ごめん」 
 ……こいつのすげえところは、こうやって自分の非を素直に認められるとこだよな。 
 俺にはぜってーできねえことだから……それが、羨ましい。 
「まあまあ、何も無かったんだからいいじゃないか。どうだ、トラップ。ここには、何か手を触れたらまずいようなものはあるか?」 
「んー……ちっと待ってな」 
 クレイの言葉に、部屋中を簡単にチェックする。 
 幸いなことに、この書庫の中には、特に罠らしいものは見つからなかった。 
「ま、多分大丈夫じゃねえ?」 
「よし、じゃあしばらく休憩しよう。どうやら、二階も三階も同じような様子みたいだしな」 
 クレイがそう言うと、他のメンバーは思い思いに腰を下ろし始めた。 
 この搭、入ったときからそうだったが、かなり神経を使うタイプのダンジョンだ。いたるところに罠がしかけられてるし、思いもよらねえところから敵が出現したりする。 
 相当疲れてたんだろう。パステルとルーミィ、それにシロは、壁に背中を預けて、そのままうつらうつらし始めた。 
 ……おいおい。 
「このまま先に進んでも、大丈夫ですかねえ」 
 そのとき、キットンが、本棚の本を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。 
「どういう意味だ?」 
「いえね。ありがちなパターンとしては、こういう搭って上に行けば行くほどモンスターも罠レベルも上がっていくんじゃないかと思うんですよね」 
「ああ」 
 確かにな。それは言えるかもしんねえ。 
 全部が全部そう、とは言いきれねえが。そういうタイプの……奥に行けば行くほどモンスターレベルが上がっていくダンジョンっていうのは、RPGのお約束みてえなもんだ。 
「するとですねえ、一階がぎりぎり突破レベルの我々がこれ以上先に進むと、行くことも戻ることもできなくなる可能性が出てくると思うんですが」 
「うーん……」 
 俺とキットン、それにノルの視線が、クレイに集中する。 
 選択肢は三つある。 
 一つは、休憩の後先に進む。 
 二つは、この部屋を拠点にして一階を徹底的に調べてまわる。もしかしたら、一階にだって何かアイテムの類は隠してあるかもしれねえしな。 
 三つ目は……撤退するか。 
 まあ、三つ目はありえねえな。まだ来たばっかだから、精神的なもんはともかく、薬草の類にも体力にも余裕があるし。……いや、パステルはどうも例外みてえだが。 
「どーするよクレイ?」 
「……そうだな。トラップ、罠は大体解除できるよな?」 
「そうだなー。あの程度の罠なら、何とかなるな。魔法がかけられてっけど、自動的にリセットがかかるようなタイプでもねえから、一度外したら後は安心だしな」 
「そうか……」 
 クレイはしばらく考え込んだ後、きっぱりと言った。 
「先に進むか。罠を一度外してしまえば、モンスターの方は逃げることだってできるんだから。戻れなくなるってことはないだろう」 
「ほー、クレイにしちゃ珍しい判断」 
 いつもいつも神経質なくれえ慎重なクレイにしては、本当に珍しい。そうつぶやくと、クレイは情けない顔でつぶやいた。 
「いいかげんにまとまった金額を手に入れないと、別の意味で俺達が全滅しかねないからな……」 
 ……納得。 
 いつもいつも、「金がねえ」とぴいぴい言ってるパーティー会計担当の顔をちらりと見やる。 
 季節は秋で、冬に入りゃもうクエストに出ることもねえだろうから、このクエストが下手したら今年最後のクエストになるかもしんねえ。 
 それを考えたら、確かにちっと無理をしてでもマジックアイテムをわんさか手に入れてえところだろう。 
 ちなみに、一階では特に成果らしいものはなかった。ここの主は、大事なものは奥に隠しておくという人間としてありがちなタイプだったらしい。 
 その意見に納得したのは俺だけじゃねえらしく、キットンもノルも深く頷いている。 
「そうですねえ。全く貧乏ってのは辛いものです。ぎゃっはっはっはっは」 
 何がおかしいのか爆笑しながら、キットンが立ち上がった。 
 そのまま、壁にもたれたそのとき。 
「おやあ?」 
 きらん 
 普段ぼさぼさの髪に隠れて滅多に見えねえキットンの細い目が、光った。 
「どーした?」 
「いえ。ここ、ちょっと変だな、と思いまして」 
「変?」 
 くるり、とキットンが振り向いた先にあるのは本棚。 
 何の変哲もねえように見えるが…… 
「ほら、ここ。ここだけ、本がやけに出っ張ってるんですよ」 
「……んあ? 大型の本なんじゃねえの?」 
 キットンが指差したのは、本棚の一番下の部分。 
 確かに、そこだけ他の棚に比べて、本が出っ張っているが……それだけ大判の本なんだ、と考えれば、別に不自然なようには見えねえ。 
 だが、キットンにはそうは見えなかったらしく。 
「いえいえ。この背表紙の様子から見ると……よっ。あああああああああああああああああ!!」 
 ぐいっ、と本を引き出す。その瞬間、搭のてっぺんまで響きそうな盛大な声をあげた。 
 俺とクレイ、ノルは一瞬耳を塞ぎ、その声に寝ていたパステル達がびくり、と目を開けた。 
「な、何? 何か出たの?」 
「これ! これ、これ見てください!」 
 きょろきょろと周りを見回すパステルを無視して、キットンは興奮した様子でぐいっと一冊の本をつきつけてきた。 
 本……じゃねえ。ノート? 
 キットンが手にしていたのは、分厚いノートのようだった。表紙には手書きの文字が書かれている。 
「ええっと……メモ?」 
 完結な一文に、クレイが眉をひそめる。 
 ……何だあ、このノート? 
「本棚の奥に隠してあったんですよ! そ、それもですねえ。これはどうやら……」 
 キットンの手が、すげえ早さでページをめくり始める。そして、大きく頷いた。 
「やっぱり! このノートは、この搭の見取り図ですよ!!」 
「な、何だとっ!?」 
 聞き捨てならねえ言葉に、全員がキットンの傍に詰め寄る。 
 広げられたノートの中には、マップのようなものが書かれていて、いたるところに細かい字でびっしりと書き込みがされていた。 
「これ、一階の見取り図だな。おいパステル、おめえのマップ貸してみろよ」 
「あ……うん。はい、これ」 
 パステルが差し出してきたマップと、キットンが広げているマップを見比べる。 
 パステルの方は少々怪しい部分が山のようにあるが、それでもその二つは、大体の部分で一致した。 
 びっしりと書かれている文字は、仕掛けられている罠、その解除方法、モンスターの出現場所とそのレベル、弱点など。まさに至れり尽くせりな内容だった。 
 しかも。 
「アイテムの隠し場所まで書いてあるな」 
 ぱらぱらとノートをめくって、クレイが感心したようにつぶやいた。 
 そう。このノート一冊があれば、搭のどこに何があるか全てわかる。まさに、今の俺達にとってはもっとも価値あるお宝と言えた。 
「お手柄じゃないかキットン!」 
「げへげへ。いえいえ、それほどでも」 
 確かに。あのキットンにしちゃあ、珍しい。いつもいつも、俺達には価値が理解できん薬草だキノコだにばかり目を輝かせてるからな。 
 とにかく、これで俄然元気を取り戻した俺達は、搭の先へと進むことにした。 
 これでこのクエストは成功したも同然だ、と、そう誰もが考えていたんだが…… 
 甘かった。 
 俺達は甘すぎた。どこに何があるかわかってたって、それとレベルが見合うかどうか、それはまた別問題だ。 
 それは、二階、三階を突破して、四階に突入したときの出来事だった…… 
  
 二階、三階でいくつかの小さなアイテムをゲットできた。大して目新しいアイテムじゃねえが、売り払えば生活の足しには十分になる。 
 ノートによれば、四階、五階と進むにつれて、もっとレアなアイテムが出現するらしい。 
 俺達が意気揚々と廊下を歩いていたときのことだった。 
「おいパステル。この廊下は、何か罠とかモンスターが出現するとか書いてあるか?」 
「ええっと、ええっとちょっと待ってね」 
 ノートをチェックしているのはパステル。マッパーだからな。マップチェックはあいつの役目だ。 
 ぐるり、と円を書くように走っている廊下。右側には窓があり外が見える。左側には、ぽつん、ぽつんとドアが並んでいる。 
「えっと……ここ。この部屋には、アラームっていう罠が仕掛けられているみたい」 
 すぐ真横のドアを指差して、パステルは頼りない視線を周囲に向けた。 
「それで……この、もう一つ先の部屋には、アイテムが一つあるみたい。アイテムのまわりにはガーディアンっていうモンスターが配置してあって、弱点は冷気だって」 
「よし。それなら、ルーミィの出番だな。ルーミィ、コールドの準備をしておけよ」 
「わかったおう!」 
 パステルの言葉に、クレイとルーミィが元気な声をあげる。 
 やれやれ、どこに何があるかわかってるってだけで、こんだけ楽になるもんなんだな。 
「パステル。こっちのドアは?」 
 ノルが、既に通り過ぎたドアを指差すと、パステルはうーん、と眉をひそめて、言った。 
「そこは、空き部屋で。罠もモンスターも無いけど、アイテムも無いって書いてある」 
「んじゃあ、行く必要はねえな。うし、アイテムの部屋に行くぞ」 
 剣を構えたクレイを戦闘にして、アイテムがある、という部屋のドアの前へ移動する。 
 一応簡単なチェックをしてみたが、別にドアには何の罠も仕掛けられてなかった。鍵はかかっていたが、そんなもんは俺の手にかかりゃあ、一分足らずで開けられる。 
「よっ……こうして……おし、開いたぜ」 
 がちゃんっ、と鍵を解除した、そのときだった。 
 うーっ、うーっ、うーっ、うーっ…… 
 突然、非常に不吉なアラーム音が、部屋の中から響き渡った。 
「…………」 
 シーン、とその場が静まり返る。 
 その視線が、一斉にパステルのところに集まった。 
「おい」 
「あ、あれ? ええっと……ええっと……」 
 おろおろとドアとマップを見比べて首を傾げるパステル。 
 おい、まさか…… 
「貸せっ!」 
 その手からノートを奪い取り、視線を走らせる。 
 ……このバカ!! 
「やべっ、アラームトラップが発動しやがった!! 一分以内に退去しねえと、モンスターが来るぞ!!」 
「な、何っ!? だって、アラームトラップは……」 
「このバカが、部屋一つ分見間違えたんだよっ!!」 
 べしっ、と蜂蜜色の頭をはたき倒す。パステルは、今にも泣き出しそうな顔で、「ご、ごめん」と小さくつぶやいた。 
 全く……どこまでボーッとしてんだよこいつは!? 
 睨んだところで、一度発動した罠が解除できるわけじゃねえ。アラームで引き寄せられるモンスターは、結構な高レベルモンスターらしい。 
 俺達は、迷わず退去を選択して…… 
「きゃあああああっ!?」 
 パステルの悲鳴に、全員が足を止めた。 
 ……挟みうちか!? 
 廊下の先から、モンスターが押し寄せてくる気配。 
 同時に、俺達が来た方向……階段からもモンスターが来る気配。 
 やべっ、洒落になんねえぞ、こりゃ!! 
「どーするクレイ!?」 
「数が多すぎるな……隠れてやり過ごそう!!」 
 クレイの言葉に、全員が一も二もなく頷いた。 
 ぐずぐず迷っている暇はねえ。ばんっと目の前のドアを開ける。 
 部屋に飛び込むと同時、廊下が一気に騒がしくなった。内側からドアの鍵をかけて、どうにかこうにか一息つく。 
「ほ、本当にごめんね……」 
 パステルが、しょんぼりとつぶやいた。床に座りこんで、かなり情けねえ顔をしている。 
「全くなあ……おめえって奴は」 
「待て、待てってトラップ」 
 俺がいつもの悪態をつこうとしたとき、クレイが口を挟んできた。 
「パステル、大丈夫か? 大分疲れてるみたいじゃないか」 
「……え?」 
 クレイの言葉に、パステルが顔を上げる。 
 その目は充血していて、寝不足、というのが一目でうかがえた。 
 ……そんなこと、俺はとっくに気づいてたけどな。気づいてたが…… 
「あんまり寝てないんじゃないのか……? 疲れてるときは無理せずに言えよ」 
「う、うん……」 
「けっ、甘いなあ、おめえは」 
 気づいてはいたが。優しく慰めるクレイと、それに素直に頷くパステルを見ていると、猛烈に腹が立ってきた。 
 クエストに出る、なんてのは急に決まったことでも何でもねえ。睡眠をしっかりとるなんてのは、冒険者やってる以上常識みてえなもんだ。 
 原稿は片付けてたはずだ。こいつが何で寝不足なのかは知らねえが……何にしろ、それで疲れが残ったってそんなのは自業自得ってもんだ。 
「疲れてるときは、誰だって注意力が散漫になるもんだろ? そんなきつい言い方しなくたっていいじゃないか」 
「だあら、それが甘えっつってんだ。こいつが寝不足になったのは誰のせいでもねえ、こいつの責任だろ? それでパーティー全員を危険にさらしてんだ。びしっと言ってやるのが当然だろうが」 
「……だから、お前の言い方には思いやりがないんだよ」 
 はあっ、とため息をついて、クレイは言った。 
「誰にだって失敗はある。トラップ、お前だって失敗したことはあるだろう? どうしてお前、パステルにそう厳しいんだ?」 
「…………」 
 一瞬、答えにつまった。 
 パステルにばっかり厳しい理由。それは…… 
 ……照れ隠しと焼きもちだ、なんて……言えるわけねえだろ!? 
 俺だってできれば優しくしてやりてえ。だけど、そんなのは俺の柄じゃねえし、いつだって優しい言葉をかけるのはクレイの役目だ。俺の言葉にはいちいち反抗するパステルも、クレイの言葉なら素直に聞きやがる。 
 それが気にくわねえから、クレイになら素直に甘えてみせるあいつの姿が腹が立つから……そんなの、言えるわけねえだろっ!? 
「ば、ばあか! 甘えさせたってろくなことがねえだろ? こいつの方向音痴のせいで、俺達が今までどんだけ危ねえ目にあってきたと思ってる!?」 
 びしっ、とパステルを指差して言うと、今にも泣きそうな顔をされてしまった。 
 ……勘弁してくれ。頼むから泣くな。 
「おめえらが甘やかすから、こいつはいつまで経っても進歩しねえんだぞ!? いつまでも俺達が一緒にいてやれるわけじゃねえんだ。厳しい? 俺が、何か間違ったことをこいつに言ったことがあったかよ!?」 
 それも、ある意味では本音には違いなかった。甘やかしたくはねえ。できる限り自分の力で何とかできるようになって欲しい、自立して欲しい。それも間違いなく俺の本音だ。 
 優しくしたくないわけじゃねえ。だけど、クレイがいるから……それができねえ。 
 そんな、俺の気持ちが……おめえらにわかってたまるかよ! 
 俺とクレイの言い争いに、キットン、ノル、ルーミィとシロはおろおろして、パステルはぎゅっと唇をかみしめてうつむいた。 
 どうしようもなく重たい沈黙が流れる。それを最初に破ったのは、キットンだった。 
「あの……今日は、もう遅いですから」 
 視線が、一斉に集まる。それにちょっと身を引きつつ、キットンは必死に言った。 
「この部屋は、何も無い部屋、でしたよね。……今日は、ここで休んではどうでしょう?」 
 窓の外は、確かにもう暗かった。 
 一瞬クレイと目が合ったが、あいつもそれ以上何も言うことはなかったらしい。 
 結局、俺達はそのまま、そこで休むことにした。 
 ……甘かったのは、何でそのとき、俺達はもう一度ノートをよくチェックしなかったのか、ということ。 
 罠もなければアイテムもない、何も無い部屋。 
 どうしてそう思ったのか。そう言ったのが誰だったのか。そんなことをすっかり忘れて、俺達は思い思いに、床に腰を下ろした。 
  
 部屋は割と広かった。床には絨毯がしきつめられている。 
 壁にはベッドが二つ。部屋の真ん中にはテーブルとソファが二つ。 
 かなり夜も更けていたし疲れてもいた。俺達は、食事の後、早々に眠ることにした。 
 一番奥のベッドにパステルとルーミィとシロ、隣のベッドにクレイとキットン、俺とノルがソファを一つずつ占領する。 
 明かりが消えて、真っ暗になった部屋の中。全員すぐに寝入ったらしく、部屋には寝息だけが響いていたが。 
 俺はなかなか寝付けなかった。 
 寝息だけが、やけに目立つ部屋の中。 
 押し殺したように響く泣き声が、いやに耳について離れなかったから。 
 その原因が俺の言葉にあるとわかるだけに……何も声がかけられなくて。 
 そんな自分が、情けなかったから。 
 夜は随分長かった。 
  
 翌朝。 
 眠れねえ、と思っていたが。どうやら、いつの間にか浅い眠りについていたらしい。 
「おい、トラップ。起きろ、起きろってば!!」 
 乱暴に揺さぶられて、ぼんやりと目を開ける。 
 寝不足特有の鈍い頭痛。目がちかちかして、頭がぼんやりする。 
 ……昨日のあいつも、こんな状態だったんだろうな。 
 何となく、そんなことを思う。 
 眠りたくたって、眠れねえことだってある。何か悩みがあったとか……あいつの心の中なんて、俺達にはわかりゃしねえんだから。 
 ……ちっと、きつく言い過ぎたかな。 
 今更しても仕方のねえ後悔がわきあがる。……俺らしくねえ。 
 ぶんぶんと頭を振って、その考えを振り払う。 
 もう終わったことだ。悔やんだって仕方がねえ。今日もこの後搭の攻略なんだ。忘れろ、忘れるんだ。 
「おおい、全員起きたかあ……キットン、おい、起きろってば」 
「ううーん……」 
 俺が目を覚ましたのを見て、次にキットンを起こしにかかっているのはクレイ。 
 ノルも俺の向かいでうーんと伸びをしている。 
 ゆっくりとソファから起き上がる。そのときだった。 
「おい、パステル、ルーミィ、起きろって……」 
「うーん、ルーミィ、お腹ぺっこぺこだおう……」 
「おいおい……ほら、起きて」 
 視線を向けると、クレイがルーミィとシロを抱き上げていた。そして、いまだ横たわったままのパステルの身体を揺さぶっている。 
 あいつが、一番遅いなんて珍しいな…… 
 そんなことを考えていたとき。 
「パステル……おい、パステル!? どうした、おい、おい!!」 
 クレイのただならぬ声に、全員の視線が一斉に集まった。 
 な、何だ!? 何が起きた!? 
「どうしたっ!?」 
「パステルの様子が、おかしいんだ」 
「おかしいって……」 
 真っ青になったクレイを押しのけて、パステルの顔を覗きこむ。 
 目を閉じて、幸せそうな顔で眠っている。眠っている……ように見えた。 
 いくら揺さぶっても、声をかけても、頬をはたいても、その表情はぴくりとも動かなかった。 
「おい、パステル、パステル!! おいっ」 
「ど、どうしたんですか!?」 
 がくがくとパステルの身体を揺さぶっていると、後ろからキットンの声がかかった。 
「キットン、こいつを見てやってくれ! 何か様子が変だ!!」 
「は、はいっ!?」 
 がばっと小脇に抱えあげてパステルの方につきつけると、キットンは目を白黒させていたが、そのうち嫌でも俺の言いたいことがわかったんだろう。その目が真剣になった。 
 パステルの腕をつかんだり顔を覗き込んだりして、ふんふんと頷いている。 
「おい、どうだ? こいつ、どうしたんだよ?」 
「ぱーるぅ、どうしたんだあ……?」 
「おい、キットン?」 
 俺、ルーミィ、クレイの声が響く中。キットンは、顔色を変えてだーっと荷物の方に走りよった。 
 つかみ出したのは、搭の詳細が記されたノート。 
「キットン?」 
「……あああああああああああああああああああああ!!!」 
 ばらばらばらっ、とすごい勢いでページをめくって、キットンは盛大な悲鳴をあげた。 
「おいっ!?」 
「ま……まずい、です」 
「まずいって、何がまずいんだよ!?」 
 俺が詰め寄ると、キットンは、真っ青になって言った。 
「罠……です」 
「罠あ? この部屋には、何も無かったんじゃねえのか?」 
「いえ……それは、この隣の部屋の話です! この部屋はっ……」 
 キットンの言葉に、全員の顔色が変わった。 
 罠もアイテムも無い、そう言ったのはパステルだった。部屋を一つずらしてマップを見ていたあいつの言葉。 
 ……昨夜もっとしっかりチェックしとけばっ…… 
「それで、パステルがかかった罠っていうのは、一体何なんだ!?」 
 クレイが詰め寄ると、キットンは、ごくりと息を呑んで言った。 
「夢に、囚われる罠です」 
「夢……?」 
「あ、あのベッドには……」 
 キットンの震える指が、パステルが寝ているベッドを指差した。 
「あのベッドには、ある魔法の罠がかけられています。あそこのベッドで寝た者は、夢の世界の住人になってしまうんです」 
「夢の世界?」 
 話が見えねえ。俺が視線で促すと、キットンは興奮した様子でしゃべりまくった。 
「文字通りです。その人の理想の世界、と言いますか……この場合はパステルなんですけど。眠った人間が理想とする世界、それを夢に見るんです。そして、その夢を現実の世界だと誤解して、そのまま永遠に目覚めなくなってしまう。それが罠の内容です。今、パステルは幸せそうな顔をしているでしょう? おそらく、彼女は今、自分が夢に描いていた世界で、幸せに暮らしているはずです」 
「…………」 
 とんでもなく重たい沈黙が流れた。 
 あいつが、夢見ている世界…… 
「何で、パステルだけなんだ? ルーミィとシロだって寝ていたんじゃないのか?」 
 クレイの言葉に、キットンはノートに目を走らせた。 
「どうやら、この罠は、魔法に対する抵抗力が鍵になっているようですね。ルーミィは魔法使いですし、シロちゃんはホワイトドラゴンですから。抵抗力が高いんでしょう。それで、罠にかからずにすんだ……ようです」 
「そんで!? あいつは、あのままだとどうなるんだよ!?」 
 続いて叫んだ俺の言葉に、キットンの重い言葉が返って来た。 
「それは……大体、想像がつくんじゃないですか? このまま目が覚めなければ、いずれ身体の方は衰弱して……死にます」 
 その答えに、頭の中で何かが切れた。 
「っ……ふ、ふざけんじゃねえぞ!? あ、あいつが死ぬだとお!?」 
「ぐえっ!!」 
 ぐいっとキットンの襟元を締め上げる。キットンを責めたって仕方がねえことはわかっていたが、そうせずにはいられなかった。 
「何かねえのか!? こんなところでこいつが死ぬわけねえだろ、こんなところでパステルを失ってたまるかよ!? おい、何か方法はねえのかよ!!」 
「トラップ、落ち着いて」 
 ぐいっ、と俺を背後からひきはがしたのは、ノルだった。 
 振り仰げば、妙に優しい目が、俺を見据えている。 
「落ち着いて、キットンの話を聞こう」 
「…………」 
 動揺。パステルが死ぬかもしれねえと聞いた瞬間、取り乱した理由。 
 それを全部見透かされたような気がして、急に決まり悪くなって、俺は目を伏せた。 
「……わりい。そんで?助け出す方法は、ねえのか?」 
「げっほげほっ。え、ええっと、ですね……」 
 俺の言葉に、キットンは、閉じてしまったノートをもう一度開いた。 
 罠の説明がされているらしき場所に目を走らせて、そして顔をあげた。 
「助け出す方法は、一つあります」 
「何だ?」 
「夢の世界に入って、迎えに行くんです」 
『はあ?』 
 俺とクレイの声がはもった。 
 夢の世界に……入る? できんのか、そんなことが!? 
「どういうこった?」 
「ええっとですね。この罠にかかるには魔力がゼロでなければいけないんですが、逆に罠にかかった人を救い出すためには、魔力がある人でないといけないようですね。罠にかかった人の隣で魔力のある人が眠ると、囚われている夢の世界へもぐりこむことができます。そこで、囚われている本人を見つけ出して、ここが夢の世界であり現実ではない、ということを認識させれば、助け出すことができるそうです」 
 その言葉に、全員の視線が複雑にからみあった。 
 俺達の中で、魔力がある人間。 
 それは三人しかいねえ。ルーミィと、キットンと……そして、俺。 
 何で俺に魔力があるのかはわからねえ。別に魔法が使えるわけでもねえ。それでも、確かに俺にはわずかだが魔力がある。 
「トラップ……」 
「……俺が行く」 
 クレイに声をかけられた瞬間、迷わず頷いた。 
 俺しかいねえと思った。いつだって、迷子になったあいつを迎えに行くのは俺の役目だった。 
 パステルを助け出せるのは、俺しかいねえ。 
「俺が、あいつを連れ戻してくる」 
 そう言うと、全員が一斉に頷いた。 
  
「トラップ、気をつけてください」 
 眠りにつく前。キットンは神妙な顔で言った。 
「一度夢の世界に入ってしまったら、もう外にいる私達ではどうすることもできません。戻ってくるためには、パステルを納得させて夢の世界を破壊してしまうしかないんです。お願いしますよ」 
「わあってるって。安心しろ」 
 正直に言えば、怖い、という気持ちがないわけじゃねえが。 
 それでも、これしか方法がねえのなら。ためらいはなかった。 
 俺が言うと、キットンは複雑な表情で俺とパステルを見比べた。 
「後、ですね」 
「あんだよ。まだ何かあるのか?」 
「はい。夢の世界では、パステルがパステルであるとは限りませんので注意してください」 
「……あんだと?」 
 聞き捨てならねえ言葉に、ぴくりと反応する。 
「どういうこった?」 
「夢の世界は、創造主の思いのままです。例えば……極端な話ですが、パステルが猫のように一生人に飼われてただ昼寝だけをして暮らしたい、と思っていたとしますよね? すると、夢の世界ではパステルが猫になっていることもありえるんです」 
「…………」 
「例えば、過去の……ご両親との幸せな生活を夢見て、13〜4歳の姿になっていることもありえますし、そればっかりは、我々にも想像がつきません。それに、ですね。これがもっとも重要なことなんですけど」 
 ごくん、と息を呑んで、キットンは言った。 
「パステルの夢の世界では、トラップ、あなたは侵入者です。もしパステルにそれと気づかれて、そしてあなたが拒絶されたら……あなたの存在を生かすも殺すも、それはパステルの思いのままなんです。どうか、くれぐれも気をつけてくださいよ?」 
「…………」 
 シーン、と重たい沈黙が流れた。 
「トラップ……」 
 クレイの不安そうな声が、やけに耳に残る。 
 ……びびって、どうする。 
 これしかねえんだ。俺が行かなきゃ、パステルは死ぬんだ。 
 パステルを助け出す。例え、こいつがそうと気づいてはいなくたって……いつだって、俺はこいつを守ってやると、そう思っていたんだ。 
 今回だって同じだ。おめえは、絶対に俺が助け出してみせる! 
「わかった」 
 返事はそれしか思いつかなかった。 
 布団をまくりあげて、パステルの隣に滑り込む。 
 伝わってくる、柔らかな身体と暖かい体温。 
 一瞬どきんと心臓がはねたが、それも一瞬のことだった。 
 目と鼻の先にある、蜂蜜色の髪の毛と、白い頬、桜色の唇。 
 そんなものを目におさめた瞬間……俺は、耐え難い睡魔に襲われて、そのまま目を閉じた。 
 どんな世界で、どんな姿をしていようと。 
 おめえを絶対に見つけ出してみせるからな……! 
  
 ぱっと目を開けたとき。 
 目の前に広がっていたのは……エベリンの街並みだった。 
「……はあ??」 
 一瞬状況がつかめなくなる。ええっと……こりゃ、どういうこった? 
 きょろきょろとまわりを見回すが、そこは確かにエベリンの街、だった。 
 ここが……あいつの夢の中の世界? 
「うおっ!?」 
 目の前を見慣れた姿が横切っていって、慌てて物陰に隠れる。 
 そんな俺の姿を見て、周囲の人間が不審そうな目を向けてきた。……どうやら、俺の姿はちゃんと実体を伴ってまわりの人間に見えているらしい。 
 そんな俺の姿に気づかず、通り過ぎていくすげえ見慣れた人影…… 
 俺達、だった。 
 クレイ、ルーミィ、キットン、ノル、シロ。その先頭を歩いているのは……パステルと、この俺。 
「だから、迷子になったんじゃないってば!」 
「へっ。あれを迷子って言わなくて何を迷子っつーんだよ。ったく、捜す方の身にもなれよなあ?」 
 聞こえてくる会話、声。そのどれもが聞きなれたあいつの声、だった。 
 ……どうやら、キットンの心配の一つは、杞憂に終わったらしい。 
 別に現実世界と何も変わらねえパステルの姿を見て、少しばかり安心する。 
 今の自分を否定してるわけじゃ……ねえみてえだな。 
 それにしても。これが、あいつの願った世界? 
 覗いている俺の存在に気づくことなく、パーティーはずんずんと歩いていく。向かっている先は…… 
「……あっちにあるのは、確か」 
 マリーナの店、だな。 
 そっと後をつける。気づかれるわけにはいかねえ。何しろ、夢の世界にもしっかり「俺」が存在してるからな。 
 生かすも殺すもパステル次第。もし、パステルがこの世界での異端者である俺に気づいたら…… 
 ぞっとしねえ考えが浮かんで、慌てて頭を振った。今はそんなこと考えてる場合じゃねえ。 
 それにしても、どうすればいい? パステルはあっさり見つかったが、このままじゃ近づけねえ…… 
 後をつけていくと、思った通り、辿り付いたのはマリーナの家だった。 
 パステルがドアをノックすると、これまた現実世界と何ら変わらねえマリーナが顔を出し、パステルに抱きついている。 
「いらっしゃい! 久しぶりねー!」 
「マリーナ、今日は呼んでくれてありがとう!」 
「ううん、いいのよ。わたしも久しぶりにあなた達と話したかったんだから。さ、入って入って!」 
 マリーナの言葉に、メンバーがぞろぞろと家の中に入っていく。 
 ……どーすりゃいいんだ? 
「うーん……」 
 夢の世界で自由に動き回るためには……ようするに、夢の中の「俺」が邪魔なんだよな。あいつと取って代わることさえできれば…… 
 古典的な方法だが、これしかねえよな。 
 家のドアに忍び寄って、ごんごんとノックする。 
「はーい?」 
「すいません。シルバーリーブからの使いなんですけど、そちらにトラップさん、来ておられますか?」 
 鼻をつまんで声色を変えてしゃべると、マリーナは特に疑いも抱かなかったらしい。 
「はい……トラップ! あんたにお客さんよ!」 
「あんだあ?」 
 ……自分の声ってのは耳で聞くと何か変な気分だ。 
 がちゃん、とドアが開く。素早くその影に身を隠し、「トラップ」が顔を覗かせたところで…… 
 ぐいっとその腕をつかんだ。素早くドアを閉める。 
 夢の世界の「俺」が、俺を見てぎょっとしたように動きを止めた。 
「おめえ……」 
 悪い、しばらく寝ててくれ。 
 自分の身体だと思うと非常に気がひけたが。 
 次の瞬間、俺の拳は、「俺」のみぞおちにめりこんでいた。 
  
 何しろ夢の世界だろうが「俺」は「俺」だ。 
 下手な縛り方したところで縄抜けなんかお手のもんだろう。盗賊縛りでぐるぐるまきにしてさるぐつわを噛まして、さらにその身体をどっかの店の裏に山と積んであった空き箱の中に押し込める。 
 ここまですりゃあ、さすがの「俺」でも抜け出すのには手間がかかるだろう。それ以前に、遠慮なく殴ったからなかなか目が覚めねえだろうけど。 
 うし。とりあえず、これで入れ替わることはできた。 
 ……後は、どうやってパステルを納得させるか、だよな。 
 考えながらマリーナの店に行く。 
 できればパステルと二人っきりで話した方がいい……よな。他の連中が後ろからごちゃごちゃ声をかけてきたら、ややこしいことになりそうだしな。 
 ドアをくぐって店の中に入ると、店番をしていたらしきマリーナが振り返った。 
 ばれるか、と一瞬冷や汗が流れたが。 
「トラップ。早かったわね、誰だったの?」 
 とんできたマリーナの声に、密かに安堵する。 
 ……ばれてねえ。俺が「この世界の」俺じゃねえことは、ばれてねえ。 
 ……よし。 
「大したこっちゃねえよ。それよか、他の奴らは?」 
「キットンとノルは奥にいるわよ。ルーミィとシロちゃんはお昼寝してるわ」 
「そっか」 
 ……って、おい。 
「パステルとクレイは?」 
「あの二人はデートじゃない?」 
 さらり、と返って来た返事に、一瞬身体が強張った。 
「……デート?」 
「多分そうじゃない? あの二人もねえ、鈍い者同士だからどうなることかと思ったんだけど。何とかうまくいってよかったわよね」 
 マリーナの声はのんびりしたもんだ。ごくごく当たり前のことを言っている、そんな口調。 
 うまく……だと? 
「そうだな……デートか。まあそうだろうな」 
 声が震えるのがわかった。 
 デートするような関係。うまく行く。 
 それは、つまり……つまり、あれか? 夢の世界では……クレイとパステルは、両思いになって、恋人同士になっている、と……そういうことか? 
 これが、パステルの望んだ世界? 
「羨ましいの?」 
 かけられた声に視線を上げると、マリーナの面白そうなものを見るような視線がとんできた。 
「わたし達もしましょうか?」 
「あに言ってんだばあか。俺はちっと休む。飯になったら起こしてくれ」 
「はいはい」 
 マリーナの傍をすり抜けて、店の奥へと行く。 
 ……これが、パステルの望んだ、世界。 
 つまり、あいつは……クレイのことが…… 
 心に穴が開いたような気分だった。 
 考えるのが面倒になって階段を上る。空き部屋の一つにもぐりこんで、俺はベッドに転がった。 
 ……わかってたこと、じゃねえか。 
 あいつが、俺のことなんかちっとも見てねえのは、わかりきってたことだ。 
 そうである以上、いずれは他に好きな男ができる……それがたまたまクレイだったってだけだ。それだけの話だ。 
 ……ショックを受けて、どうする。 
 ここは偽りの世界。ここで幸せになったって、仕方がねえ。 
 クレイだってパステルを嫌ってるわけじゃねえ。あいつは鈍いから、おめえの気持ちになんか気づいてもいねえだろうけど。 
 告白さえしちまえば、案外どうにかなるかもしれねえだろ? 
 現実を見ろよ……パステル 
 縛り上げた夢の世界の「俺」がいつ戻ってくるかわかんねえ。 
 あんまりのんびりしてる暇はねえ。 
 それはわかってはいたが……俺は、動く気になれなかった。 
  
 がちゃんっ 
 階下から響いてきたドアの開く音に、俺はとびおきた。 
 気がついたら寝ちまっていたらしい。目をやると、窓の外は暗くなりかけていた。 
 ……まさか、「俺」が帰ってきたのか!? 
 一瞬そう思ったが、響いてきた「ただいまー」という声は、よく通る女の……パステルの声だった。 
 その後に、「悪い、遅くなった」と言ってるのは、クレイ。 
 ……デートから帰ってきたのか。 
 そっと部屋を出る。 
 こんな夢の世界……早く壊してやるのが一番だ。 
 それは、俺の醜い嫉妬心がそう思わせてるのかもしれねえ。だけど、何にしろ……あんまりのんびりしてるわけにはいかねえのも、事実だ。 
 時間が経てば経つほど、現実世界のパステルの身体、そして俺の身体は衰弱していく。早く戻らねえとやべえんだ。 
 そう自分に言い聞かせて、俺は階段の方へと歩いていった。 
 上から見下ろすと、パステルとクレイが楽しそうにしゃべりながらソファに腰掛けているのが目に入った。 
 っ……落ち着け。あれは、夢の世界のクレイだ。パステルが作り出した都合のいい幻想なんだ。 
 現実の光景じゃ、ねえ。 
「おい、パステル」 
 声をかけると、パステルがふっと目を上げた。 
 からみあう視線と視線。 
「トラップ。何?」 
「ちょっと、こっちに来てくんねえ?」 
「え? 何か用?」 
「ああ。ちっとな」 
 俺の言葉に、パステルは「ちょっとごめんね」とクレイに声をかけてから、階段を上ってきた。 
 ……おめえの目を覚ましてやる。こんな偽りの幸せに浸ってる場合じゃねえんだ。 
 ぐいっ、と手を引くと、「きゃあ!?」という小さな悲鳴が響いた。有無を言わさず、その身体をさっきまで俺が寝ていた部屋に引きずり込む。 
「ちょっと、トラップ! 一体何の用なの!?」 
「……あー、ええと、な」 
 バタン、とドアを閉めて振り返る。パステルは、腰に手を当てて、えらく不満そうな目でにらんできた。 
 ……何を言えばいいんだ? 
 ここは夢の世界で現実じゃねえ。そう言い放ってやるのが一番なんだろうが。 
 それを、素直に受け入れるかどうか。 
「ええと……く、クレイとのデートは、楽しかったか?」 
 そう聞くと、パステルの頬が真っ赤に染まった。 
「な、何でそんなこと聞くの?」 
「いやっ……え、ええとな……」 
 否定しねえってことは、デートしてたのは間違いねえのか。 
「あのな……おめえ、何か変だと思わねえ?」 
「……何が?」 
「何がって……」 
「トラップ、どうかした? 何か様子が変だけど……」 
 パステルの目が、段々と不審の色に染まっていく。 
 ……この夢を作り出したのはパステル。逆に言えば、パステルの思い通りの言動をする奴しか存在しねえ。 
 パステルにわからねえことはないはずだ。……そのあたりをつくか? いっそ不審な態度を取り続けて、俺が現実世界から迎えにきたってことを…… 
「……夢みてえだと思わねえか?」 
「え?」 
 口をついて出たのは、事実をずばりと告げる、それでいて不自然には聞こえないように気を使った、そんな言葉。 
「夢?」 
「クレイと恋人同士になれたなんて、夢みてえだと思わねえ?」 
「……どういう意味よ」 
 声に不機嫌そうな色が混じる。……怒らせたか? 
「だってよ、おめえみてえな特別美人でもなけりゃスタイルがいいわけでもねえ女が、クレイみてえな色男をつかまえただなんて、普通ありえねえだろ?」 
「なっ、何よっ、その言い方っ!!」 
 ……怒らせたか。まあ無理もねえけど。 
 俺の言葉に、パステルの顔が真っ赤に染まった。握り締めた拳がぶるぶると震えている。 
「そ、そりゃあ、わたしはマリーナみたいに美人でもないしグラマーでもないけどっ……何よ。そんなこと言うためにわざわざ呼び出したの?」 
「いや……」 
「何よ。そういうトラップの方こそ、夢みたいな気分なんじゃない?」 
「……は?」 
 唐突にとんできたのは、そんな言葉。 
 ……意味がわからねえぞ? どういうことだ? 
「俺が?」 
「だって、トラップの方こそ。マリーナと恋人同士になれて、夢みたいな気分なんじゃない? ずっと好きだったんでしょ? 良かったじゃない」 
「……はあ!?」 
 な、何だそりゃ。俺と……マリーナ!? 何でそんな話が出てくるんだ!? 
「お、おめえ、あに言って……」 
「そりゃ、夢みたいに幸せだなあって思うよ」 
 俺の言葉を遮って、パステルは微笑んだ。心から幸せそうな顔で。 
「クレイみたいな素敵な恋人ができるなんて、夢みたいって思うよ。だけど、それはお互い様じゃない? マリーナって、あんなに美人でスタイルが良くて、その上すっごくいい子なんだもん。トラップだって、夢みたいって思わない?」 
「あ……ああ」 
 返す言葉が見つからねえ。 
 パステルの理想の世界。それは、パステルとクレイが恋人同士で……俺とマリーナが恋人同士。 
 そういう世界……なのか? 
 一瞬沈黙が流れた。パステルのまっすぐな目が、俺を見つめている。 
 そのときだった。 
「パステルートラップ! 夕食の準備、できたわよ!」 
 階下から響く、マリーナの声に、パステルの表情が動いた。 
「あ、ご飯だって。行こう」 
「……ああ」 
 どうすりゃいいんだ。 
 夢みたいに幸せだ、とあんな顔で微笑まれて。 
 どうして、「俺はこの世界を壊しに来た」なんて言える……? 
 現実世界で、クレイとパステルが恋人同士になることは……ありえるかもしれねえけど。 
 俺とマリーナが恋人同士なんてまずありえねえな。マリーナが惚れてるのはクレイだろうし。俺が惚れてるのは…… 
「トラップ?」 
「……今行く」 
 パステルの声に、俺は重い腰を上げた。 
  
 飯を食った後。 
 そっと家を抜け出して夢の世界の「俺」の様子を見に行くと、まだ縄と格闘していた。 
 ……結び目を手の届かねえ場所にしといて正解だったな。 
 そのみぞおちにもう一度拳を落として、しっかりと縛りなおす。 
 悪いな、俺。許してくれ。どうせおめえは偽りの存在なんだ。 
 ちょっと頭を下げて、家へと戻る。 
 どうやら、皆は部屋に引き上げたらしい。台所では、パステルとマリーナの二人が、皿を洗っていた。 
 ……どうすりゃ、いいんだ。 
 何て声をかければいい? どうすれば、パステルを目を覚まさせることができるんだ? 
「あら、トラップ。どこかに出かけてたの?」 
 ふっ、とマリーナの視線がこっちを向いた。つられて、パステルも振り向く。 
 その目をまっすぐに見れなくて、俺は返事もしねえで階段を上った。 
 ……どうすりゃ、いい? 
 空き部屋のベッド。普段マリーナの家に泊めてもらうときは、居間あたりで雑魚寝をしてるときが多いんだが……今日はとてもじゃねえけどそんな気になれねえ。 
 冷静になれ、とどれだけつぶやいても。頭の中がぐちゃぐちゃになってわけがわからなくなる。 
 どうすればいいのか。 
 パステルの幸せそうな顔を見ると、一瞬とはいえ、この世界を壊すことにためらいを覚えた。 
 あいつのあんな表情、現実世界では、見たこともなかった。 
 ……壊すしかねえって、わかってるのに。 
 ベッドに転がって、そんなことを延々と考え続ける。 
 それが中断されたのは、遠慮がちに響くノックの音のせいだった。 
「……あんだ?」 
「やっぱり、ここにいたのね」 
 顔を覗かせたのは、マリーナだった。 
 その姿は、既に寝巻き姿になっている。 
「何か用か?」 
「まっ、ご挨拶ねえ。それが久しぶりに顔を合わせた恋人に言う台詞?」 
 びしっ 
 言われた言葉に一瞬背中が強張った。 
 恋人。俺と、マリーナが。 
 ……白状すれば、ずっとずーっとガキの頃……パステルに会うずっと前は、確かにマリーナのことを好きだ、と思っていた時期があった。 
 もっとも、あいつはガキの頃からクレイのことしか見てなかったから、それを表に出すような真似はしなかったが。 
 だけど、パステルと出会って。その「好き」は、何て言うのか……本気じゃねえと思った。 
 マリーナを好きだ、と思っていたのは、友達に対する好き、あるいは妹に対する好き、そんなもんだとわかった。 
 ……それなのに。今更っ…… 
「マリーナ」 
「多分、ね。クレイとパステルも、今頃……」 
 そう言いながら、マリーナはベッドに滑り込んできた。 
 胸が、俺の腕に触れた。それに気づき、一瞬身を引こうとしたが、マリーナに腕をつかまれた。 
「マリーナ……」 
「せっかく来てくれたのに、今日はろくに話もできなかったじゃない?」 
 微笑むマリーナの顔は、えらく色っぽかった。 
 ずっとガキの頃から知っていたのに、気づかなかった。こいつが、いつの間にか立派な「女」になってたことに。 
「マリーナ、おめえ……」 
 すっ、とマリーナの手が伸びてきた。シャツのボタンが外され、隙間から胸元へ滑り込んでくる。 
「っ……おめえ……」 
「滅多に、会えないんだもの……」 
 囁き声が、耳に届く。 
 ぐっ、とマリーナの身体がのしかかってきた。そのまま、どん、と倒れこむ。 
 ズボンのファスナーがひきおろされ、マリーナの細い指が、俺のナニをつかみ出した。 
「つっ……ちょ、ちょっと待てっ!!」 
「あら、どうしたの? ……いつも、やってることじゃない」 
 いつも!? 
 パステルの中では……俺とマリーナは、そういう関係に思われてるのかっ……? 
 すっ、とマリーナの手が動いた。巧みな指の動きに、一瞬にして反応する自分自身が恨めしい。 
 目の前で、するりと衣擦れの音が響いた。俺の目にとびこんでくるのは、すこぶる魅力的なマリーナの裸。 
「おい……」 
「本当は、わたし……あんたに、一緒に暮らして欲しいって、思ってるのよ……?」 
 ぐいっ、と腕を捕まれた。俺の手を、自分の胸に押し付けるようにして、マリーナは言った。 
「わたしなら、母さんとうまくやっていく自信もあるし……ねえ、ドーマに、一緒に帰ってくれるつもりは……まだない?」 
「…………っ」 
 返事どころじゃねえ。 
 目の前で揺れるマリーナの胸。反応しきったナニ。 
 マリーナの唇が俺の唇に吸い付いてきた。もぐりこんできた舌が、俺の舌をからめとる。 
 ……やべえ。これは……やべえっ…… 
 弾けそうな理性を必死に繋ぎとめる。 
 ……違う。俺が、俺が惚れてるのは……おめえじゃ、ねえっ! 
 ぐっ、とマリーナの手首をつかみあげる。 
 きょとんとしたマリーナの目が、痛かった。 
 ……ここで本音を告げるのは、えらく危険なことかもしれねえ。 
 創造主の思うままに行動しなけりゃ、侵入者と気づかれて排除される。すげえ危険な行動。 
 ……それでもっ…… 
 裏切れねえ。俺は自分の気持ちを……パステルを裏切ることができねえっ! 
「わりいな、マリーナ」 
「トラップ……?」 
「わりい。おめえを抱くことは、できねえ」 
「トラップ、何言って……」 
 表情を変えるマリーナの目を真っ直ぐに見つめる。 
 おめえが嫌いなんじゃねえ。だけど、俺は…… 
 そのときだった。 
 どぐん、と、心臓がはねた。 
 マリーナの目。俺の拒絶に、心底不安そうな……傷ついたような目をして、じっと見つめてくる、目。 
 ……この、目は…… 
「おめえ……」 
「え?」 
 それは直感だった。 
 何の根拠もねえ。俺の都合のいい願望そのままの考え。 
 間違っていたら取り返しのつかねえ結果になる。それでも…… 
 俺は、言わずにはいられなかった。 
「おめえが、好きだ」 
「……トラップ?」 
 それが、俺の本音だ。 
 そして、恐らくは……おめえが望んでいる、言葉。 
「おめえのことが好きだ、パステル」 
 そう言った瞬間。 
 マリーナの身体が、強張った。 
  
「何、言ってるの?」 
 答えるマリーナの声は、震えていた。 
「あんた、いくら何でも酷いわよ? 恋人に対して、他の女の名前を呼びかけるなんて」 
「…………」 
「パステル……って。彼女には、クレイっていう立派な恋人がいるじゃない。トラップ、何言って……」 
「パステル」 
 呼びかける。 
 根拠なんか何もねえ。だけど、直感的にわかったんだよ。 
 おめえの目を見たときに。マリーナの顔をしていても、目だけは……あのときのおめえと同じだった。 
 俺が冷たい言葉を吐くたびに、いつも向けてきた目。親に捨てられた子供のような、寂しそうな、すがりつくような目。 
 細い手首をつかんで、強引に抱き寄せた。抱きしめると、ぬくもりが確かに返って来る。 
「間違えるわけが、ねえんだ」 
 耳元で囁きかけると、マリーナの身体が、震えた。 
「間違えるわけがねえ、俺がおめえを間違えるわけがねえんだ、パステル」 
「……だからっ……トラップ、あんた何言ってるの!?」 
 腕の中で、白い身体が身もだえする。 
「いくらわたしでも……怒るわよ?」 
「ああ、いくらでも怒れ。おめえの気持ちをわかってやれなくて悪かった。いくらでも怒ればいい。だあら……帰ろう」 
 もがく身体を力いっぱい抱きしめる。 
 気づかなかった。 
 おめえは、俺のことなんざ見てもいねえと思っていた。 
 俺の都合のいい考えかもしれねえ。ただの勘違いかもしれねえ。 
 それでもっ……俺はそう思いたい。 
 おめえも、俺のことが…… 
「いつもおめえはマリーナを羨ましいって言ってたな。美人でスタイルが良くて頭が良くて性格もいい。欠けたところが何もねえ完璧な女だって、そう言ってたな?」 
「…………」 
「そうだな。マリーナには確かにすげえ山のように長所がある。だけど……それは、おめえだって同じだ」 
「トラップ?」 
「同じなんだ、パステル。おめえにだって数えきれねえくらい長所がある。おめえはこんな愛され方がいいのか? マリーナの姿で俺に愛されることが、おめえの望みなのか!?」 
「…………」 
 ぽつん、とシャツが濡れた。 
 ふと視線を横に向ければ、肩に押し付けられたマリーナの目から、涙が……こぼれていた。 
「トラップ……」 
「俺が……俺が好きなのはな、別に美人でもねえし幼児体型だし、ドジだし方向音痴だし、そうやって俺達に迷惑ばっかりかけて……それでもっ……」 
 パステルの理想の世界。 
 俺がいつも言っていた言葉。女は、美人で、ナイスバディが一番だと。 
 それを真に受けて、作り出された世界。 
 ……そんな世界は偽りだと教えてやる。 
 現実に戻れば、もっと、もっと幸せになれると教えてやる。 
「それでも、おめえと一緒にいるとあったかい気分になれた。どんだけ落ち込んだってすぐに立ち直って、素直で、一生懸命なおめえを見るのが好きだ。おめえの笑顔が好きだ。俺が好きなのは……飾らねえおめえ自身なんだパステル。目を覚ませ! これは夢だ。夢の世界……偽りの世界。おめえはマリーナじゃねえ。おめえはパステルなんだ、パステル!!」 
 そう叫んだ瞬間。 
 びしっ 
 目の前の光景に、亀裂が入った。 
 抱きしめているマリーナの身体が、腰掛けているベッドが、目の前の壁が、色んなところにびしっ、びしっと亀裂が入っていった。 
 ……壊れるっ……!? 
 その瞬間。 
 夢の世界は、崩壊した。 
  
 俺が目を開けるのと、パステルが目を開けるのは同時だった。 
 すぐ目と鼻の先にお互いの顔がある。そうと気づいた途端、パステルの顔が真っ赤に染まった。 
「と、トラップ!? な、な、何でっ……」 
 がばっ、と身を起こすパステルに、「ぱーるぅ!」とルーミィがとびついた。 
 ……戻って、来れたか。 
 ゆっくりと身を起こす。 
 わけがわからねえ、という顔をするパステル。心底ホッとした様子のクレイ達。 
「……俺、どれくらい寝てた?」 
「半日くらいですかねえ」 
 そう答えて、キットンは頭を下げた。 
「お疲れ様です。……よく無事に戻って来れましたね。私、半分以上諦めてたんですけど」 
「あんだとお!?」 
 てめえっ、それは俺とパステルが死ぬと思ってたってことか!? 
 ぐいっと胸元をつかみあげると、「あぎゃぎゃっ! 冗談ですってば!!」とわめき出されたが。 
 言っていい冗談と悪い冗談があるだろ!? 俺がどれだけ苦労したと思ってやがるっ!! 
「……ねえ、どういうことなの?」 
 さっぱり状況がわかってねえらしいパステルが、きょとんとして言った。 
「何かあったの?」 
「…………」 
 くるり、と振り向くと、パステルとまともに視線がぶつかった。 
 夢の内容を覚えているのか、いねえのか。 
 覚えていたとしたって、どうせただの夢だと思ってるんだろうが…… 
「おはよ」 
「……? お、おはよう」 
「いい夢、見れたか?」 
 そう言うと、パステルはわずかに頬を赤らめて、「うん。すっごく、幸せな夢を見れた!」と、満面の笑みを浮かべて言った。 
  
 さすがにそれ以上搭の攻略を続ける気にはなれず。 
 まあ、当面の生活に困らねえ程度のアイテムは手に入れることができた、っつーこともあって。俺達は、早々に搭を脱出した。 
 夢の世界に囚われていたということは、パステルには話してねえ。 
 俺が、話さないでくれと頼んだ。話せば、自分の理想を俺に知られたと……パステルが、傷つくだろうと思ったから。 
 ……何も知らねえ振りをしてやる。おめえの気持ちに気づかねえ振りをしてやる。 
 それから…… 
  
「おい。パステル、今いいか?」 
「え?」 
 魔法の搭攻略から一週間。 
 クレイをうまく言いくるめてルーミィとシロを連れ出させた。今、部屋の中には、パステルしかいねえ。 
 返事も聞かずに部屋に滑り込む。原稿を書いていたらしいが、机の上の紙は真っ白なままだった。 
「トラップ、何か用?」 
「好きだ」 
 間髪置かず言った言葉に、パステルの身体が、見事に固まった。 
「トラップ……?」 
「好きだ。おめえのことが、好きだ」 
「やっ……ちょ、ちょっと、からかうのは、やめてよ?」 
「からかってねえ。冗談なんかじゃねえ」 
 ずかずかと歩み寄り、強引にその身体を抱き寄せる。 
 ふわっと、太陽の光のような匂いがした。 
「と、トラップ……?」 
「ずっとおめえのことだけを見てたんだ。クレイがおめえに優しくするたび、すげえ嫉妬して、おめえに冷たいことばっか言ってたけど。本当は俺も優しくしてやりたかった。そんなのは俺の柄じゃねえ。影でおめえを守ってやれればそれでいいと思ってた。……でも」 
 わかった。おめえがどうしようもなく鈍感で、自分が俺に嫌われてるとさえ思い込んで……そんなおめえには、はっきり言ってやった方がいいんだと。 
「いつも素直で真っ直ぐな、着飾らねえおめえのことが、好きなんだ」 
 そう言うと。 
 パステルの目から、涙が溢れ出た。 
「……それ、本気にして、いいの?」 
「本気だっつってんだろ?」 
「……夢、じゃないよね?」 
「ああ」 
 これは夢じゃねえ。 
 これが現実。おめえが望んだ偽りの理想の世界とは違う。いつだって最高の……現実だ。 
「トラップは、マリーナが好きなんだと思ってた」 
「何だ、そりゃ」 
「だって、マリーナには特別優しいじゃない? でも、マリーナはクレイが好きみたいで……トラップとマリーナが幸せになって欲しい、って思ってた。どうしてマリーナじゃなくてトラップの幸せを願うのかわからなかった」 
「…………」 
「そう思ったときわかったの。わたしはトラップのことが好きなんだって。だけど、マリーナにはどうしたって敵わないだろうからって諦めてた。傍にはクレイみたいな素敵な人だっている。別にトラップじゃなくてもいいじゃないって言い聞かせて……諦めようとしてたのに……諦めきれなくて辛かった」 
 顔をあげたパステルの顔は、涙でぐちゃぐちゃだったけど……それでも、笑っていた。 
「夜も眠れないくらい悩んでたんだよ?」 
「そっか。……悪かったな、早く言ってやれなくて」 
「ううん」 
 ことん、と俺の胸に頭をもたせかけて、パステルはつぶやいた。 
「お互い様だよ。わたしも、勇気が出なかったから」 
「……俺もだ」 
 そっと背中をなでる。ふっとパステルが顔を上げて、視線がぶつかった。 
 自然に唇が重なった。まるで、そうすることが当たり前だ、というように。 
「好きだよ」 
「好きだ」 
 同時に出た言葉。やっと素直に言えた言葉。 
 部屋の中で、俺達は、いつまでも抱き合っていた。  

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