初めてって、どんなことだろうと緊張する。 
 初めて一人で出かけたとき。初めて野宿をしたとき。初めてクエストに出かけたとき…… 
 うまくいくかどうか心配で、やめといた方がいいんじゃないかって不安で。でも、いざやってみると、辛いときも苦しいときもあるけれど、とっても楽しくて。 
 何より、やり遂げたー! っていう達成感って、他の何にも変えられないんだよね。 
 だから、この日も。わたしは、とてもとても緊張していた。 
 いつものみすず旅館じゃない。以前家を買ったことがあったけれど、モンスターの襲来で程なく燃えてしまって。その後、すっごく長いクエストに挑戦して、そこから無事に帰れた後、新たに建て直した家。 
 以前は二人一部屋だったけれど。今回は、一部屋が狭くかわりに部屋数が多かったから。一人一人個室を持つことにした(あ、ルーミィとシロちゃんは、わたしと同じ部屋だけどね)。 
 その中の一つ、トラップの部屋。 
 時間は夜。個室だから、もちろん、この部屋には主たる彼と、招かれたわたししかいない。 
 お互いの呼吸の音しか聞こえない、とてもとても静かな時間。 
 ただ、ベッドにじいっと腰掛けて、何を話すでもなく、時間だけが過ぎていって。 
 でも、夜が段々更けてくるにつれて、少しずつ、少しずつ、二人の間の距離は縮まっていった。 
 わたしはそれに気づいていたけれど。嫌だ、とか、怖い、とか、そんなことはちっとも思わなかったので。むしろ、自分からも少しずつ距離をつめていって。 
 肩と肩が触れ合ったとき、トラップの手が、そっとわたしの身体を抱き寄せた。 
「……俺、何か、もう我慢できねえ、っつーか」 
「うん」 
「嫌だったら……言えよ? おめえが嫌がること、したくねえからな」 
「うん……嫌じゃないよ」 
 ことん、と彼の肩に頭をもたせかけると、トラップの手が、優しくわたしの髪を撫でてくれて。 
 そのまま、わたし達は、ベッドの上に倒れこんでいた。 
  
 わたしとトラップが付き合い始めたのは、先にも書いた長い長いクエストの直後。彼の誕生日パーティーがきっかけだった。 
 5月3日。トラップの誕生日。何をあげればいいのか迷って迷って。結局、本人に聞いてみることにしたんだよね。 
「誕生日プレゼント、何が欲しい?」 
 って。 
 建てたばかりの家の、トラップの部屋。真新しい木の匂いがする部屋の中で、ごろりとベッドに横たわっていた彼は、わたしがそう言うと、音も無く上半身を起こした。 
「何でもいいのか?」 
「高いものはやめてよねー。わたしがあげられるものなら」 
 そう言うと、彼は、ニヤリと笑って言った。 
「んじゃ、おめえ」 
「……え?」 
「おめえが、欲しい」 
 最初はいつもの冗談かと思ったんだけど。何故だか、わたしを見つめる彼の目は、とってもとっても真面目に見えて。 
 わたしが答えられずにかーっ、と真っ赤になっていると、ぐいっ、と腕をひっぱられた。 
 そのまま、ぎゅうっと抱きしめられて……耳元で囁かれたのは、とっても簡潔な言葉。 
「好きだ」 
 それが、付き合うことになったきっかけだった。 
 言われて気づいたから。わたしもトラップのことが好きだって。 
 そして……今。季節は夏。 
 付き合うようになってから、変わったことといったら。 
 気がついたら、さりげなく手を握られていたり。何だかんだと、二人っきりになる機会が増えたり。 
 ふと会話が途切れたとき。沈黙が流れたときに……唇が触れ合うようになったり。 
 それはとても温かくて、居心地のいい時間だった。 
 そして。 
 付き合うようになってから、三ヶ月。八月の、暑い盛り。 
 昼間に遊んで遊んで遊びまくって、疲れきったルーミィはぐっすり眠っている。 
 だけど、わたしは何故だかなかなか寝付けなくて。窓からふうっ、と外を眺めていたら。ちょうど庭に出てきていたトラップと目が合った。 
「何、してるの?」 
 窓から身を乗り出して声をかけると、トラップは、ちょっと肩をすくめて「眠れねえ」とだけ答えてきた。 
「そっち、行ってもいい?」 
 どうせ、わたしも眠れないから。そう言うと、彼はしばらく黙った後、「外、虫がいるから。刺されるの嫌だろ? 俺の部屋に来いよ」と言われた。 
 彼の顔から、声の調子から、それがありったけの勇気を振り絞って言った言葉だとわかったから。わたしは、「うん」と素直に頷くことができた。 
 トラップが何を望んでいたか。薄々気づいてはいたんだよね。 
 だけど、わたしを怖がらせまい、と、それを必死に押し隠している彼の気持ちがとても嬉しかったから。だから、それに甘えていたんだけど…… 
 でも、もう、いいよね。そろそろ…… 
 好きだから。 
 付き合うようになって、初めてわかったから。こんなにも、こんなにもトラップのことが好きなんだ、って。 
 着ていたパジャマを脱いで、ずっと着ないで大事にしまってあった水色のキャミソールと白いミニスカートに着替える。 
 この服、マリーナがくれたんだよね。「きっと、パステルによく似合うよ」って。 
 でも、こんな薄い服一枚で歩く勇気はなかなか出なくて、ずっとしまいっぱなしにしてたんだけど。 
 今なら、いいよね? 見るのは、トラップだけだから。 
 そうっと足音を忍ばせて、向かいのトラップの部屋をノックする。 
 ドアは、すぐに開いた。わずかな隙間から腕を引かれ、滑り込むように中に入る。 
 バタン、とドアを閉めて振り向くと、すっごく緊張した顔のトラップが、黙ってわたしを見つめていた。 
  
 で、冒頭に繋がる、というわけなのだ。 
 仰向けに横たわったわたしの上に、覆いかぶさっているのはトラップ。 
 その顔は、とっても嬉しそうで辛そうな、複雑な表情をしていた。 
「その服……」 
「え?」 
「初めて見るな」 
 トラップの視線が注がれているのは、わたしのキャミソール。 
 肩紐はほとんど紐みたいなもので、胸元も大きく開いていて。見えちゃうから、ブラはつけていない。 
 ……普段絶対に着れない、と思ったのは、それも一つの理由なんだけど。 
「マリーナがくれたの」 
「……それ、普段はぜってー着るな」 
「何で? 似合わないかな」 
 もとより、トラップの前で以外着るつもりなんか無かったけれど。そんな言われ方をすると不安になってしまう。 
 ……似合わないのかな。やっぱり、こんな色気のない身体にこういう大胆な服装って、無理があった? 
 そう言うと、トラップは苦笑して「ちげえよ」と首を振った。 
「他の男に見せたくねえんだよ。おめえのそういう、色っぽい姿」 
「……へへ」 
 嬉しかった。 
 そんな風に言ってもらえてすごく嬉しかったから、わたしは素直に笑うことができた。 
 トラップも、見たことが無いような優しい笑みを浮かべて、そっとわたしの唇を塞いだ。 
 それから先は、もう無我夢中だった。 
 知識だけは、人から聞いたり本を読んだりで、色々と持ってはいたけど。いざ体験してみると、それはもう本当に未知の世界で。 
 いつもの触れるだけのキスじゃない、もっと深くて、長い、濃厚なキス。 
 唇の間から滑り込んできたトラップの舌は、とっても熱くて。わたしの口内をくすぐるようにしながら舌をからめとっていった。 
 しばらく息をすることすら忘れそうだった。それくらい、激しいキス。 
「んっ……」 
 つつっ、と唇が、頬へと移動する。 
 骨ばった大きな手が、キャミソールの中へゆっくりともぐりこんでいった。 
 下着をつけていない胸に、直に触れる手。ただあてがわれただけなのに、それだけで、わたしはびくっ、と全身を震わせていた。 
 どっ、どうすればいいんだろう…… 
 ただこうしてじっとしていればいいのか。トラップにまかせておけばいいのか。 
 でも、彼にばっかり動かせるのは悪いような気もする。けど、何をすればいいのか、よくわからない。 
 頭の中で、色んな葛藤がぐるぐる渦巻いていて。 
 そうして、やり場のなくなった手を、無駄に握ったり開いたりしていると。 
 それに気づいたのか、トラップの手が……身体を這い回っているのとは逆の手が、そっとわたしの手を握り締めてくれた。 
「安心しろって」 
「うん……?」 
「無理すんなって。おめえに、そんなこと期待してねえ……俺にまかせときゃ、いいって」 
 その言葉に、安心して力を抜くことができた。 
「ごめん……」 
「あんで謝んだよ……俺としちゃ、その方が嬉しいんだぜ?」 
 唇へのキスの後。トラップの唇は、わたしの身体のいろんなところを這い回って、そのたびに身体に微かな痕を残していった。 
 そっとキャミソールがめくりあげられる。胸から背中へ、背中からお腹へ。お腹から、腰へ。 
 色々なところを触れられた。トラップの手が触れるたび、わたしの身体は確実に熱くなっていって。 
 そうして、手が、そっと膝にかけられたとき。 
 わたしは、ぎゅっと目を閉じた。 
「……いい、か?」 
「バカ……嫌だったら言うって、言ったでしょ?」 
「わりい」 
 交わした会話は、それが最後。 
 ぐいっ、と膝を持ち上げられる。 
 太ももをゆっくりと這い登っていく指。下着の隙間から滑り込み、わたしの内部へともぐりこみ、そうしてわたしを高みへと上りつめさせてくれる、指。 
「あっ……や、やんっ……」 
 頭の中から少しずつ消えていくのは、「理性」と呼ばれるもの。 
 そうして考える力を失って、最後に残ったのは、とても口には出せないような……本能。 
「ああっ……あ、と、トラップ……」 
 色々と言いたいこともお願いしたいこともあったけれど。そのどれもが、とても言えないようなことばかりで。 
 やり場の無い思いをどうすればいいのか、涙がにじむ目を、ゆっくりと開けると。 
 トラップと、目があった。 
 彼の目は、何もかもわかってると言いたげな、とても静かな目で。 
 次の瞬間、それは証明された。 
「あっ……」 
 身体を貫く甘い痛み。 
 痛い、痛いという話ばかり聞いて。どんな激痛なのかとちょっと怯えてすらいたのだけれど。 
 いざ味わってみると、その痛みは、今まで経験したどんな痛みとも違っていた。 
 痛くはあるけど、決して苦痛とは思わない。むしろ、とても心地よい満足感に浸らせてくれる、痛み。 
 それは、トラップがとてもとても時間をかけて、慎重にわたしの身体をほぐしてくれていたからで。 
 彼の手先が器用だったことも幸いしていたのだと、後になってわかったけれど。 
 もちろん、今のわたしがそんなことに気づくはずもなく。 
 緩やかに身体の中で波打つトラップ自身。それが、わたしの身体にかきたてるような快感を与えてくれていた。 
「やあっ……あ、も、……変になっちゃいそう……あんっ……」 
「……俺もっ……」 
 緩やかだった動きが、段々と激しくなって行った。 
 ジッと耐えているのが辛くて、わたしはトラップの背中にすがりついた。そうでもしなければ、襲ってくる快感の波に、溺れてしまいそうな自分がいたから。 
「……ああっ!」 
 すうっ、と頭の中がクリアになっていった。 
 目の前が真っ白になって、色んなものがぱーんと弾けて。 
 ぐっ、と腕に力をこめたとき。身体の中で、トラップの動きが止まったのが、わかった。 
  
 初体験、がこんなに素敵なものになっていいんだろうか。 
 同じベッドで眠りながら、わたしはつぶやいていた。 
 こんなに幸せで、こんなに何もかもうまくいっていいのかな? 
 そう言うと、トラップは「ばあか。いいに決まってんだろ」と言って、ぎゅっとわたしを抱きしめてくれた。 
 本当は、部屋に戻らなくちゃいけない、とわかっていた。 
 朝起きて、わたしが部屋にいなかったら、きっとルーミィが心配する。 
 でも、もう少しだけ。 
 もう少しだけ、トラップと一緒にいたい…… 
 その腕のぬくもりに包まれて、わたしが口の中でつぶやくと。 
 「……俺も」っていう声が聞こえたような気がしたのは、気のせいかな? 
 だけど、それを確かめる暇も無く。 
 わたしは、すうっ、と忍び寄る睡魔に、身を委ねていた。 
  
 こんなに素敵で幸せでうまくいっていいんだろうか? 
 ……いいわけなかった。それが、わたし達らしいところ、というか。 
 翌朝、そんな暖かい余韻なんか吹き飛ばすようなとんでもない事態が、わたし達を待ち受けていたのだから。 
  
 ふぎゃああああ…… 
 目が覚めたのは……何て言うのかな? そんな、猫の鳴き声みたいな、聞きなれない声のせいだった。 
 ふぎゃああああ…… 
「ん……」 
 何だろう? すぐ耳元で聞こえる。結構大きな声。この声って…… 
 ふぎゃああああ…… 
「んん?」 
 ぱちん、と目を開ける。 
 見慣れたものと見慣れないものが、同時に目にとびこんできた。 
 一瞬にして頭が冴え渡る。眠気なんか、どこかに吹き飛んでしまっていた。 
 ……えと……? 
 きょろきょろとまわりを見回す。 
 トラップの部屋、だった。少なくともわたしの部屋じゃない。大して広くもない中に、寝ているベッドと、小さなテーブルとタンスがあるだけの部屋。 
 わたしの目の前で大口開けて眠りこけているのは、サラサラの赤毛が印象的な、端正な顔立ちの男の人。 
 トラップ。これはいい。 
 そして。 
 わたしとトラップの、ちょうど間にすっぽり挟まるようにして、小さな小さな人影があった。 
 泣いていた。その人影は、全身を震わせるようにして、顔をくしゃくしゃにして、大声で泣いていた。 
 ふぎゃああああ…… 
 赤ちゃん……だった。 
 そう、赤ちゃん。ルーミィよりももっとさらに小さな、多分生まれて半年そこそこ? の赤ちゃん。 
 見たこともないその子は、そこにいるのが当然のように、自己主張を繰り返して……つまりは、泣いていた。 
「…………」 
 ええっと。待って。ちょっと待って。落ち着いて、落ち着いて。 
 何なの、この子は……昨夜は、こんな子いなかった。いたら、気づくはずだもん。 
 ええっと…… 
 ふぎゃああああ…… 
「ああ、よしよしよし」 
 考え込んでいる間にも、その赤ちゃんは容赦なく泣き続けていて。 
 その、あんまりにも切ない……何かを求めるような泣き声に、わたしは思わず、その子を抱き上げていた。 
 すると。 
 ぴたり、と音がしそうな程唐突に、泣き声が止まった。 
 わたしが抱き上げた途端、その子は、小さな顔の割には随分とぱっちり開いた目で、じいっとわたしを見つめて、そしてきゃっきゃと笑い始めた。 
 かっ……可愛いっ…… 
 きゅうんっ、と胸を締め付けられるような感覚。こっ、これはもしや母性本能……? って、そんなこと言ってる場合じゃなくて! 
「と、トラップ! 起きて、起きて起きて起きてっ!!」 
「ん〜〜……」 
 部屋中に響く泣き声の中でもめげずに寝ていたトラップを、慌てて揺り起こす。 
「起きて、トラップ! ほら、そこに宝箱がっ!!」 
「なにいっ!? どこだっ!!」 
 がばっ!! 
 わたしの必殺目覚まし文句に、即座にがばっ、と身を起こすトラップ。 
 きょろきょろとまわりを見回して、ぼけーっとした目でわたしを見つめて。 
「あんだよ、また騙したのかあ……?」 
 昨夜の記憶がよみがえったのか、寝起きの彼にしては妙に幸せそうな笑顔でつぶやいたけど。 
 その視線が、わたしの腕の中の赤ちゃんに注がれて、ぴっきーんと凍りついた。 
「……パステル……」 
「トラップ! 見て、この子……」 
「おめえ、いつの間に子供なんか生んだんだ?」 
 スパーン!! 
 わかりやすいボケをかますトラップの頭をはたき倒す。 
 今はそんな冗談言ってる場合じゃないんだってば!! 
「バカッ! 何言ってるのよ。それより、見て、この子!!」 
「いや、見てるけどな……おめえ、一体どこから連れてきた?」 
「連れてきたんじゃないの! 朝起きたら、ベッドに寝てたのよっ!!」 
「はあ? おめえなあ……赤ん坊が、いきなり降ってくるわけねえだろ? 夢でも見たんじゃねえ?」 
「夢でも何でもこの子がここにいるのは現実でしょ!?」 
 そう言うと、トラップは、じいっ、とわたしと赤ちゃんの間で視線を往復させて、かしかしと頭をかいてついでにほっぺたをつねっていた。 
「……夢、じゃねえようだな」 
「だから、そう言ってるじゃない」 
 わたしとトラップの動揺なんかいざ知らず。 
 赤ちゃんは、きゃいきゃいと笑いながら、わたしとトラップの髪をつかんでは幸せそうに笑っている。 
 トラップがひょい、と赤ちゃんを抱き上げた。それでも、その子は泣き出しもせず、むしろ嬉しそうに満面の笑みを浮かべていて。 
「……どーいうことだ?」 
「こ、こっちが聞きたいわよー!!?」 
 ああ、もう、わけがわからないっ!! 
 わたしとトラップが途方に暮れていたときだった。 
 ドンドン!! 
 突然ノックの音が響いたかと思うと、返事をする暇もなく、がちゃんとドアが開いた。 
 そこから顔を覗かせたのは、黒髪の美形ファイター。パーティーのリーダーでもある、クレイ。 
「ああ、パステル。やっぱりここにいたのか。あのなあ、ルーミィが『ぱーるぅがいない』って泣いてるんだけど。気持ちはわかるけどちょっとは……」 
 そんなことを言いながら、クレイは、わたしと、トラップと、そして間にいる赤ちゃんを見て、見事に表情を凍りつかせた。 
「あ、クレイ。ルーミィが何だって?」 
「パステル……」 
「ん?」 
「いつの間に子供なんか生んだんだ?」 
 ばこーん!! 
 わたしが投げつけた枕は、クレイの顔面に見事に命中した。 
 まったくう!! つ、つい昨夜初体験を済ませたばかりのわたしが、いきなり子供なんか生めるわけないでしょー!? 
  
「違うっ、違うぞ!? 俺は知らん。知らんと言ったら知らん!」 
 猪鹿亭のテーブルで。クレイ達の冷たい視線に、トラップが必死に言い訳をしていた。 
 トラップの腕の中で、ぐっすりと眠っている赤ちゃん。 
 さっきは慌てててじっくり見ている余裕もなかったんだけど。 
 色白な肌に、さらさらの赤い髪。 
 着ている産着は、オレンジ色の派手な色合い。ちなみに女の子みたいだった。 
 身元がわかるようなものは、何も持ってない。 
 赤毛。この一点で、皆の疑惑が一斉にトラップに向いたことは言うまでもない。 
「本当か、トラップ……? 本当に、身に覚えはないのか?」 
「ねえよ!! 大体なあ、どう見たってこいつ、生まれて一年経ってねえだろ!? 俺はずっとおめえらと一緒にいただろーが!!」 
 クレイの言葉に、トラップが必死に言い返す。 
 ようするに、「トラップが一夜の過ちで妊娠させちゃった女性が生んだ子供じゃないか?」っていうのが、皆の考えだったりするんだけど。 
 わたしに生んだ覚えが無い以上、誰か他の女性が生んだとしか思えないわけで。そうすると相手がどこかに必ずいるはずで。 
 ま、まさか……ねえ…… 
「ぱ、パステル!? おめえまでそういう目で俺を見るかよ!? 俺は知らんからな! 断じて俺の子じゃねえ!!」 
「その割には、やけにトラップに懐いてますね」 
 お茶を飲みながらしみじみと言ったのはキットン。 
「普通に考えたら、あなたよりもクレイの方が余程子供に好かれそうなんですが」 
「ああ!? 何が言いてえんだおめえは!」 
「いえ、別に」 
 トラップの物凄い視線に、キットンは、ばっと目をそらしたけれど。 
 そう……なんだよね。 
 朝、クレイが顔を出したとき。てんやわんやの末、クレイが赤ちゃんを抱き上げようとしたら。 
 トラップやわたしに抱かれているときはにこにこ笑っていた赤ちゃんが、突然火がついたように泣き出したんだよね。 
 そのくせ、驚いたクレイが慌ててトラップに返すと、ぴたり、と泣き止んだりして。 
 ……怪しいっ…… 
 どうしても、疑いの目になってしまう。そんなわたしを見て、トラップは何だか随分不機嫌そうな顔になったけれど。 
 だってねえ……そもそも、あなたみたいな見事な赤毛って、珍しいと思うんだけど? それだけで、もう何というか…… 
「あ、目を覚ましたみたいですよ」 
 キットンの言葉に、皆の視線が一斉にトラップの腕の中に集まる。 
 さっきまですやすやと眠っていた赤ちゃん。それが、今はぱっちりと目を開けていて。 
 そして。 
「ふぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」 
 火がついたように、泣き出した。 
 猪鹿亭中の視線が、一気に集まる。 
「わっ! な、何だ突然っ!」 
「トラップ、お前一体何をしたんだ!?」 
「何もしてねえよ!!」 
 おたおたと慌てるトラップとクレイ。その脇で、ルーミィがのん気に「赤ちゃん、泣いてるのかあ?」なんて言いながら、じーっと顔を覗きこんでる光景は、姉妹みたいで微笑ましいと言えば微笑ましい。 
 って、そんなこと言ってる場合じゃなくて! 
「お腹が空いてるのかなあ?」 
「そうなのか!? よしパステル! 母乳やれ!」 
「出るわけないでしょー!?」 
 ぼかっ!! 
 下品なボケをかますトラップを張り倒して、その腕から赤ちゃんを受け取る。 
 だけど、朝はあっさり泣き止んでくれたのに、今は全然効果が無くて…… 
「ど、どうしようっ……」 
 おろおろしていると、厨房から、リタが顔を覗かせた。 
「ミルクでよければ、あるけど?」 
「……お願い」 
「はいはい。それにしてもねえ、トラップ、パステル。あんた達、いつの間に子持ちになったの?」 
「だから、違うんだってばー!!」 
 この調子だと、どんどん誤解が広まっていきそう。 
 ううう。一体、一体この子の親はどこにいるのー!? 
  
 リタやルタが使っていた、という哺乳瓶を借りて、ミルクを飲ませてみると、赤ちゃんはどうにか泣き止んでくれた。 
 それでも、やっぱりわたしかトラップ以外の人が触ろうとすると、泣き出してしまう。 
「人見知りが激しいようですねえ。……本当に覚えが無いんですか、パステル?」 
「無いってば!」 
 しつこく疑ってくる、キットン始めとする他のメンバー達。 
 ……まあ、疑惑の目が集まるのも、仕方が無いと思う。 
 目を覚まして、ぱっちりと開かれた大きな瞳。 
 その色は……はしばみ色だった。 
 それを指摘されたとき、皆の視線が一斉にわたしに集まったけど……ほ、本当に知らないってば!! 
「赤毛で目の色がはしばみ色ですか……そしてトラップかパステル以外の人間が触ろうとすると泣き出す……ここまで揃っても、お二人は知らない、と」 
「知らねえもんは知らねえんだからしょうがねえだろ!?」 
「トラップ。俺達は別に怒ったりしないから、正直に言え」 
「だあらっ……おめえなあ! そもそもたったの一日やそこらで赤ん坊ができるかよ!?」 
 トラップの正論に、皆は「だってなあ」「だってねえ」とどこまでも疑惑的。 
 わたし達の大声に怯えたのか、赤ちゃんは、何だかまた泣き出しそうな表情でトラップの腕にしがみついている。 
「赤ちゃん、かわいいおう」 
「かわいいデシ」 
 何もわかってないルーミィとシロちゃんののん気な声が、とても羨ましい。 
 一体、どうすればいいんだろう? 
「まあ、ですねえ。本当にトラップとパステルの子じゃないというのなら」 
「本当なんだってば」 
「まあそうなんだとしたら、どこかに親がいるはずですから。しかるべきところに届け出た方がいいと思うんですがねえ」 
 キットンの言葉はもっともだったけれど。 
 その前に、一つ問題があった。 
 どこかに親がいたとして……どうして、みすず旅館のトラップの部屋に置いていったのか? 
「お前、全然気づかなかったのか? 部屋に誰かが入ってきたこと」 
「全然。俺、寝てたし」 
 クレイの質問に首を振るトラップ。 
 確かにねえ。わたしも全然気づかなかった。一体、いつの間に……? そして、どうして? 
「ふええ……」 
 思考が中断されたのは、ぐずり始めた赤ちゃんの声。 
「今度は、おむつじゃない? ルタが使ってたのが、どっかにあると思うけど……捜してきてあげようか?」 
 面白そうにわたし達を見ているリタに、「お願い」と声をかける。 
「はいはい。それにしてもねえ。まさかトラップとパステルの子供を見れる日が来るなんて」 
「だーかーらー、違うんだってばー!!」 
 笑いながら奥にひっこんでいくリタにかけた声は、空しく響き渡った。 
 だ、誰か……誰かこの状況を説明して――!! 
  
 おむつなんか、取り替えたことない。 
 そう言うと、トラップが渋々ながらやってくれた。 
 意外なことに、トラップの家って大所帯だったから。こういう子守も、何度かやらされたことがあるんですって。 
 その慣れた手つきに、みんなの疑惑の目がさらに集中したんだけど。 
 まあ、それはともかく。 
「赤ちゃんってのは、ところ構わず泣き出すからなあ」 
 というクレイの意見によって、わたしとトラップは、現在のんびりと散歩をしていた。もっと正確に言えば、「泣かれたら迷惑だから」と追い出されたんだけど。 
 家に戻ろうか、とも思ったんだよね。だけど、キットンが薬草の実験するんで集中したい、と言い出してねえ……ううっ。みんな冷たい…… 
 クレイとノルはバイト。本当の赤ちゃんがいる以上、ルーミィのことにまで手が回らないから、彼女達は家に置いてきた。 
 で、トラップと二人。行く当てもなくうろうろしてるんだけど。 
 「ついでに、この子の親探しでもしてきたらどうだ?」って言われたので、道行く人に色々尋ねてみたのに、誰もこんな赤ちゃん見たこと無い、って言うんだよね。 
 一体、この子はどこから来たんだろう? 
「それにしてもなあ。こいつの親、今何してんだろうなあ」 
 きゃいきゃいと髪にじゃれつく赤ちゃんを見下ろして、トラップはしみじみと言った。 
「心配じゃねえのかねえ。自分のガキを他人に預けて」 
「ガキって、あのねえ……」 
「名前がわかんねえんだからしゃあねえだろ? ったく。せめて迷子札でもつけててくれりゃあなあ」 
 そうなんだよねえ…… 
 色々困ることはあるけど。何が一番困るって、手がかりになりそうなものを何にも持ってないことなんだよね。 
 産着はどうやら手作りみたいなんだけど。名前の縫い取りがあるわけでもないし。もちろん住所も何にも書いてないし。 
「名前、名前ねえ。呼び名が無いと不便だよね。わたし達で適当につけちゃおうか?」 
「いいのかよ、んなことして」 
「だって、いつまでも赤ちゃん赤ちゃんって呼んでるわけにもいかないじゃない」 
 にこにこ笑う赤ちゃんの顔を見ていると、何だろう……こう、胸がほわーんとあったかくなってきた。 
 すっごく愛しい……っていうのかな? はっ、も、もしや、情が移り始めてる!? 
 だ、駄目駄目パステル。この子は他の家の子供で、いつかは別れなきゃいけないんだからっ! 
 ……で、でも。呼び名が無いと不便なのは本当だし。うん。今だけだもん。仮の名前をつけるくらいは、いいよね? 
「ねえ、どんな名前がいいと思う?」 
「さあ。別に何でもいいんじゃねえの。どうせこいつ、自分の名前なんかわかってねえだろうし」 
 返って来たのは気の無い返事。 
 ふーんだ、いいもんね。わたしが勝手に決めちゃうから。 
 頭の中に、色んな名前が浮かぶ。あ、何かいいなあ……昔、おままごととかで、人形に向かって好きな名前つけてたこととかを思い出しちゃう。 
 そういえば、ダイナとかともよく話してたんだよね。「将来結婚して子供生んだら、こんな名前つけるんだー!」とか。 
 この子は女の子。もし、この子がわたしの子供だったとしたら。つけたい名前は…… 
「ステラ……うん。ステラってどう?」 
「……おめえ、それってもしかして」 
 トラップの顔がひきつるのがわかった。へへ、やっぱばれた? 
 トラップ。本名、ステア・ブーツ。 
 だってねえ。自分の子供に親の名前をもじってつけるのって、何だかすごく王道って気がしない? 
「いいじゃない。自分が将来子供生むとしたら、どんな名前つけるか……って、考えたことない?」 
「ねえよ、んなの! ……っと、待てよ。ってこたあ」 
 トラップの顔に、すんごく意地悪そうな笑みが浮かんだ。 
「将来、おめえは俺の子供を生みたいと……そう考えてると思って、いいのか?」 
「…………」 
 しまった。墓穴掘っちゃったかも…… 
  
 赤ちゃん改めステラを抱っこして。 
 わたしとトラップが辿り付いたのは、よくルーミィと遊びにくる公園だった。 
 大きな公園でね。中央には池もあるんだ。このほとりでお昼寝するのが、また気持ちいいんだよね。 
 って、なごんでる場合じゃないんだけど。 
 いくら尋ねても「知らない」っていう返事が来るのに疲れて、わたしとトラップは座り込んだ。 
 ああー、足が疲れた……赤ちゃんを抱っこするのって、意外と重労働なんだね。世の中のお母さんを尊敬してしまう。 
「幸せそうな顔してんなあ……」 
 またまた眠ってしまったステラの顔を見つめて、トラップはぽつん、とつぶやいた。 
 その目は、何だか随分と優しい。 
「……もしかして、父親としての愛情が芽生えたとか?」 
「おめえなあ……知らねえっつってんだろ」 
「だって。こうして見るとさ。ステラって、何だかトラップに似てるような気がするもん」 
 いや、これは本当に。 
 髪の色が似てるのは散々言ったんだけど。何て言うのかなあ……顔立ちじゃなくて、雰囲気? それが、何となーくトラップとかぶるんだよね。本当に何となくだけど。 
「おめえなあ……んなこと、よく平気な顔で言えるなあ?」 
「? 平気って?」 
「だって、おめえ自分で生んだ覚えはねえんだろ?」 
「だから、そう言ってるじゃない」 
「ってこたあ、さ」 
 そう言って、トラップはわたしの顔を覗きこんできた。 
「ステラが俺の娘だったとして。おめえ、自分で俺が他の女に子供生ませた、って言ってんだぜ? 平気なのか?」 
「…………」 
 ちょっと考える。トラップが、他の女の人と、その…… 
「……嫌」 
「よろしい。これに懲りたら二度と言うなよ?」 
「……ごめん」 
 うう、そうだね。よく考えたら、わたし、何気なくひどいこと言ってたかも。 
 しょぼん、とうなだれると、ポン、と頭に手が乗せられた。 
「安心しろよ」 
「え?」 
「おめえが、初めての女だから」 
「…………」 
 言われた意味を理解して、頭にボンッ、と血が上ってしまう。 
 な、な、な、なーにを言い出すのよこんな真昼間に!? 
「とととトラップー!?」 
「あんだよ。身の潔白を訴えただけだっつーの」 
「だ、だからってっ……」 
 わたしがぶんぶんと手を振り回して抗議しようとしたときだった。 
「可愛らしいお嬢さんですね」 
 後ろから声をかけられて、ハッ、と二人で同時に振り向く。 
 そこには、長い黒髪を背中までたらした女の人が、優しそうな微笑を浮かべていた。 
 多分、20代の前半くらい、かな? わたし達よりちょっと年上みたい。 
 そして、彼女の腕の中には、ちょうどステラと同じくらいの赤ちゃんが、抱っこされていた。 
「あ、あの……」 
「随分お若いんですね。この年頃の子は、よく泣くから。大変でしょう?」 
「え? ええ、まあ」 
 女の人は、にこにこしながらわたしの隣に腰掛けた。 
 彼女の腕の中の赤ちゃんが、ステラを見て、興味深そうに「あーうー」と手を伸ばしている。 
 その気配を感じたのか、トラップの腕の中で、ステラもぱっちり目を開いた。 
「あら、ごめんなさい。起こしちゃったみたい」 
「あ、ああー、いいですよ。気にしないでください! あの、あなたの子供さんは、男の子ですか?」 
「そうよ。シオンって言うの。あなたの方は……」 
「あ、女の子ですっ! す、ステラって言うんです」 
 成り行きで、何となく会話を交わしてしまう。 
 トラップは、何だか照れくさそうにそっぽを向いていたけど……どうせ、彼女が美人だから照れてるんだろうけどね……こ、これはチャンスじゃない? 
 同じ年頃の赤ちゃんを持つお母さん。何しろわたしは子供を生んだこともないし弟や妹がいたわけでもないから。おむつの替え方も知らなかったし、ミルクの作り方とか、食事とかお風呂の入れ方とか、なーんにも知らないことだらけなんだよね。 
 この際だもん。色々聞いちゃおう! 将来の役に立つと思うし! 
 そうしてすっかり打ち解けて、わたしが聞きだしたところによると。 
 彼女の名前はシルビアさん。シルバーリーブの隣の村に住んでいて、今日は用事でエベリンに行く途中、ついでに立ち寄ったんですって。 
「明日には、また乗合馬車に乗らなきゃいけないの。赤ちゃんを連れていると、旅も楽じゃないから困っちゃって」 
「ああー、そうでしょうねえ……」 
 そんな感じでつい話しこんでしまった。 
 年上の女の人と話す機会なんて、そうは無いからね。ついつい夢中になっちゃって。時間を忘れてしまった。 
 そうして、気がついたら、夕方になってしまっていた。 
「いけない、そろそろ戻らなくちゃ。主人がきっと待ちくたびれてるわ」 
 それに気づいて、シルビアさんが立ち上がった。 
 赤ちゃん同士で仲良くなったステラとシオンちゃんが、急に引き離されて不満そうな声をあげる。 
「もっと話していたかったけど。ごめんなさいね、もう行かなくちゃ。機会があったら、また会いましょう」 
「ええ、ぜひ!」 
 ほんのちょっと話しただけだけど。シルビアさんはとてもいい人だった。 
 結婚して、子供がいるからかな? すっごく考え方とかが大人で、わたしも随分「へえー」と感心させられてしまった。 
 わたしの初心者丸出しの質問に、嫌な顔一つせずに色々答えてくれたしね。 
 もっとも、その間相手にもされなかったトラップは、ふてくされて眠ってしまっていたけど。 
「今日は、本当に色々教えてくれてありがとうございました」 
「いいえ。最初は誰だってそんなものよ。子育てって言うけど。子育てを通して、親の方こそ色々育ててもらってるのよ? 一日一日、母親として成長していくのがわかるもの。だから、パステル。がんばってね」 
「はいっ!」 
 うわあっ、すっごくいい言葉。これは絶対覚えておかなくちゃ。 
 そうして、将来本当に自分の子供ができたとき……その子が大きくなったら、話してあげるんだ! 
 わたしが成長できたのは、あなたのおかげよって。 
 そんなことを考えてにこにこ笑っていたら、シルビアさんは、すっごく暖かな笑みを浮かべて言った。 
「じゃあね。ステラちゃんも、バイバイ。よかったわね、優しそうなお父さんとお母さんで」 
「…………」 
「旦那様にも、よろしく言っておいてくれる? パステルを独占しちゃってごめんなさいね、って」 
「……は、はい……」 
 それだけ言うと、シルビアさんは去っていった。 
 だ、旦那様……お父さんとお母さん…… 
 や、しょ、しょうがないけどね。そりゃあ、わたしはまだ17だけど。でも、ステラくらいの赤ちゃんがいても、ちっとも不思議ではない年でもあるし。 
 トラップだって18だし。年頃だし。わたし達と赤ちゃんがいたら、そう見られるのは……仕方ないよね? 
 ……あれ、何だろ。何だか、顔がにやけてしまう。 
 う、嬉しい、って思ってる? もしかして。 
「……おい」 
 びくりっ!! 
 背後から響いた不機嫌そうな声に、弾かれたように振り向く。 
 視線の先では、顔をしかめたトラップが、上半身を起こしていた。 
「気い済んだか? そろそろ戻らねえか。もう遅いし」 
「え? う、うん。そうだね」 
 戻る……って家にだよね。 
 ……ちょっと、残念かも? もう少しだけ、三人……わたしと、トラップとステラの三人で、いたかったかも? 
 そんなことを考えながら、わたし達は家路についたのだった。 
  
 食事って言っても、ステラの年頃だと、ミルクと流動食が主になってしまう。 
 何ヶ月なのか、見た目だけじゃわたしには正確にはわからないんだけど。ペースト状にしたおかゆ(おもゆって言うのかな?)に、ダシだけ取って具を取り出した野菜スープを冷ましたものを試しに作ってみると、おいしそうに食べてくれた。 
 お風呂の入れ方は、人肌くらいのお湯に、耳に水が入らないように気をつけて優しく入れてあげること。 
 シルビアさんに教えてもらったことは、どれもとっても役に立った。 
 あ、赤ちゃんをお風呂に入れるときってね、お父さんが入れてあげたほうがいいんですって。 
 手が大きいから、片手で耳を塞ぐことができるし。腕力があるから、抱っこするときも安定してるしね。 
 昼間散々歩いて疲れたみたいだったから、お風呂はクレイに頼もうかな、とも思ったんだけど。 
 意外なことに、「俺がやる」と、トラップが自ら言い出した。 
 まあ、どうせクレイが抱っこしようとしてもステラは泣いちゃうから。どっちにしろトラップに頼んだことになったとは思うんだけど……それにしても意外。 
「やっぱり」 
「やっぱりなあ……」 
 なーんてひそひそ言ってるクレイ達をぎろっとにらみつける目はすっごく怖かったけど。でも、ステラを見る目は、意外なくらいに優しい目で。 
「……トラップって、いいお父さんになれそうだよね」 
 そう言うと、ぐしゃり、と頭を撫でられた。 
「本当に大切な相手になら、なれると思うぜ?」 
 ……それって、ステラに情が移ったってこと? 
 いつもなら、こういうとき「どうせすぐ別れることになんだから。あんまりのめりこむんじゃねえぞ」とか言いそうなのに。 
 あの現実主義者なトラップも、赤ちゃんには弱かった……ってことかな? 
  
 そんなわけで、子守に明け暮れた一日は終わった。 
 ステラも、慣れない環境に疲れたのか、今はぐっすり眠っている。 
 もっとも、シルビアさんの言葉によれば、この年頃だとまだ夜泣きするかもしれないから気をつけて、とのことだったけど。 
 ……で。 
「ルーミィ。俺と一緒に寝ようか」 
 そう言って、クレイがルーミィを自分の部屋に引き取っていって。 
 わたしは今夜も、トラップの部屋で寝ることになった。 
 ……いえ、別にいいんですけどね。ちょっと嬉しかったりするし…… 
「トラップとパステルにしか、懐かないからなあ、この子……」 
 何度か抱き上げようとしてはそのたびに泣かれて、すっかり諦めた様子のクレイいわく。 
「パステル一人に世話をさせるのはかわいそうだし、トラップにまかせたら泣いてるのに気づかず寝てそうだし。親が見つかるまで、二人で面倒みてやれよ」 
 とのことだった。 
 納得。特に、トラップにまかせたら気づかずに寝てそうってあたりが特に。 
 というわけで、狭いベッドに、わたしとトラップ、間にステラ、と無理やり三人で寝ることにした。 
 最初はね、わたしが床に寝ようか? って言ったんだよ。 
 一応トラップの部屋だし。ちなみに何でわたしの部屋を使わないのかって言うと、ステラの親が、トラップの部屋に彼女を置いて行った以上、引き取りに来るときもこの部屋に来るんじゃないか、と見越してのことだったんだけど。 
 そう言うと、「俺、寝相悪いからな。ステラを蹴落とすかもしんねえ」なんて物騒な返事が返って来たので。 
 仕方なく、わたしとトラップの間にステラを入れて、床に落ちたりしないようにガードすることにしたんだ。 
 せ、狭い……それに暑い。 
 それでも、どうにかこうにか眠りにつこうとしたんだけど…… 
「はあ。早く、お父さんとお母さんが見つかると、いいね」 
 明かりを消した部屋の中。 
 寝苦しくて目が覚めてしまったわたしが、すやすやと眠っているステラにぽつんと話しかけると。 
「……やっぱ、嫌か?」 
 返事がきて、びっくりしてしまった。 
 いやいや、もちろんステラがしゃべったんじゃないよ? この声は…… 
「起きてたの? トラップ」 
「……まーな」 
 暗闇で、表情は見えないけど。 
 ぼそぼそとつぶやく声は、何だか残念そうというか…… 
「嫌、って?」 
 そう聞き返すと、しばらく沈黙した後、トラップは言った。 
「俺、ガキなんか嫌いだって思ってたんだけどな。ぎゃあぎゃあうるせえし。言うことわけわかんねえし。こっちの言うことなんか聞きゃあしねえし」 
「うん……?」 
「でも。今日、ステラの面倒みてて……何つーか。こういうのも、いいかもな、って思っちまったっつーか……」 
「……うん……?」 
 狭いところで寝るのにも段々と慣れてきたのか。 
 トラップの話を聞いているうちに、とろとろと眠気が押し寄せてきた。 
「おめえと……ステラと、三人で歩いてて……親子に間違われて……でも、それも何かいいな、って思ったっつーか」 
「…………」 
「なあ、本当に……親に、ならねえ?」 
 遠くに聞こえた、トラップの声。 
 これは……夢、じゃなくて。本当に言われたこと、なのかな? 
 あのトラップが、そんなこと言うなんて……まさか、ね…… 
 何とか、目を開けて確かめようとしたんだけど。 
 一気に襲ってきた眠気に耐えることができず。 
 耳元で盛大なため息がつかれるのを聞いた。それを最後に、わたしの意識は闇に沈んでいって…… 
  
 次に目が覚めたのは、ドアが開く微かな音だった。 
 目が覚めた、って言っても。頭の中は半分以上眠っていて。 
 後になって、それはひょっとしたら夢だったんじゃないかと思ってしまうような。そんな頼りない記憶。 
 隣でぐっすり眠っているステラとトラップ。夜泣きも今のところは無いみたいで、ちょっと安心してたんだけど…… 
 ぎいっ、と微かにドアが開く音。ひたひた、と、ベッドの傍に歩み寄る足音。 
 ……誰、だろう…… 
 ぼーっとそんなことを考えるけど。目を開けるのも億劫。昼間の疲れもあったせいかな。昨夜も、寝るの遅かったし…… 
「よく寝てんなー」 
「当たり前でしょ? 今何時だと思ってるのよ。ほら、早く。起きちゃうじゃない」 
「わーってるって」 
 手が伸ばされる。わたしの隣に寝ていた小さな人影が、ゆっくりと抱き上げられる気配。 
「しっかし、こうして見るとこの頃の俺達って若いよなあ」 
「たった数年じゃない。今だって十分若いわよっ」 
「いんや。この頃のおめえはもうちっと可愛げがあった気がする」 
「な、何言ってるのよー! しっつれいね!」 
 うるさい、なあ…… 
 何となく、聞き覚えのある声。ちょっと深みのある、年上の男女の……声。 
 誰、だろう…… 
「ほらあ、早く帰ろう」 
「ったく。おめえなあ、こんなことになったのは誰のせいだと思ってんだ? おめえがステラに変なもん飲ませたのが原因なんだぜ?」 
「だ、だって! あれはキットンが悪いのよっ! 誰だって間違えると思わない? 哺乳瓶に白い飲み物が入ってたら、ミルクだと思うわよ普通!」 
「何か瓶貸してくれって言われて哺乳瓶差し出すのもどうかと思うぜえ? んで、自分で貸したことをコロッと忘れてんだし」 
「だだだだって! 手元にそれしかなかったんだもんっ……」 
 言い合いは続く。 
 でも、喧嘩してるようでいて……この二人が、お互いをすっごく信頼しあってるのは、よくわかった。 
 だって、声が、口調が、とっても暖かいんだもん。 
 ……いいなあ。こういう関係って…… 
「しっかし、タイムスリップできる薬、とはね。キットンお手製わけのわからん薬シリーズにも、段々拍車がかかってきたな」 
「だって、実際にできてるじゃない……まさか、自分の顔を見忘れたわけじゃないでしょ?」 
「覚えてるって。だあら、薬が成功したのは認めてる。っつってもなあ。来てどーすんだよ? 戻れるのはたかが数年だろ? できたところで何の役に立つんだか」 
「夢が無いなあ、もう。それは、これから改良を加えていくんじゃない? ……ほら、いつまでもこんなところで言い合いしてないで、早く帰ろう。元の世界に戻れる薬、ちゃんと持ってきたよね?」 
「へっ、おめえと一緒にすんなよなあ」 
 ……目、開けなきゃ。 
 どういうことなのか、聞かなきゃ…… 
 ねえ、どういうこと? 
 あなた達は……まさか、まさか…… 
「それにしても。朝起きてステラがいなくなってたら、こいつらびっくりするだろうなあ」 
「置手紙でも残していこうか?」 
「っつっても、何て書くんだよ。事情話したって、信じるか? 俺だからわかるけどな。絶対こいつは信じないぜ」 
「あなたは現実主義者だもんねえ……」 
 さらさらっ、と、ペンが走る音がした。そうして、枕元に、何かがかさり、と置かれた。 
「んじゃ、帰るか。眠いしな」 
「早く休もう。クレイ達も心配してると思うし」 
「だな」 
 足音が、遠ざかっていく。 
 ……待って。待って、まだ行かないで。 
 今、起きるから。待って…… 
「ま、激励くらいはしといてやるか。おめえらも頑張れよ……素直になれよ、トラップ」 
「もー、何言ってるんだか」 
 がちゃり、とドアが開く音。そうして、人の気配が、完全に消える。 
 その直前に聞こえたのは…… 
  
「行こう、ステア」 
 
 朝、目が覚めたとき。 
 隣に、既にステラの姿は無かった。 
 ……昨夜のあれは……一体、何だったんだろう? 
 あれは……夢? ……それとも…… 
 手をついて起き上がる。がさり、という音が、耳に届いた。 
 ……え? 
 枕元に置かれたのは、一枚の手紙。 
 ……夢、じゃない……? 
 慌てて手紙を広げる。そこに書かれていたのは…… 
「と、トラップ! 起きて、起きて起きて起きてー!!」 
「……ん〜〜……」 
「起きてってば! ほら、そこに宝箱がっ!!」 
「何っ!?」 
 進歩なくわたしの嘘に騙されて飛び起きるトラップの前に、手紙をつきつける。 
「な、何だっ……?」 
「ステラの両親が、迎えに来たみたいで……」 
「……帰っちまった、のか?」 
「うん」 
 そう言うと、トラップは不機嫌そうに顔をしかめた。 
「あんだよ。挨拶くらい、してけよな」 
「あの、それでね。これ、手紙が……」 
「手紙?」 
 枕元に置いてあった手紙を差し出す。それを読んで……トラップが考えたことは、一体何なんだろう。 
 わからなかった。彼は、とても複雑な表情で、何度も何度も手紙を読み返して。 
 そうして、ポン、とわたしの頭に手を乗せた。 
「……まあ、縁がありゃあ、いずれまた会えるだろ」 
「そうだね……」 
 縁が、あれば。 
 きっと、それはある。後は……素直に言えるかどうか。 
 好きだ、って気持ちを伝えるのにも、随分と勇気が必要だった。 
 だけど、好きだ、と言えたのだから。これも、きっと言える気がする。 
「ねえ、トラップ」 
「なあ、パステル」 
 振り向いたのは、同時だった。 
『結婚しようか?』 
 
 ――トラップ、そしてパステルへ。 
 ステラの面倒をみてくれて、どうもありがとう。 
 ……頑張ってね。 
 幸せになれるから。絶対に幸せになれるって保証してあげるから。 
 だから、頑張れ。過去のわたし。 
 

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