もう、やめる。
みすず旅館のいつものわたしの部屋で。
わたしは机につっぷして、ただつぶやき続けていた。
部屋には今のところわたし一人。ルーミィとシロちゃんは、クレイが散歩に連れていってくれた。
そうしてと、わたしが頼んだから。「一人にして欲しい」と。
机の上に乗っているのは、わたしの冒険者カード。
これを初めて手にしたときは、すごくすごく嬉しくて。興奮して夜眠れなくて。
冒険に出るのが楽しみで楽しみで仕方なくて……そして、実際に楽しかった。
楽しかった。みんなと一緒にクエストに出るのが。怖いこともきついことも辛いこともいっぱいあったけれど、それでも……楽しかった。
だけど。
だけど、もうやめる。
ぼろぼろと涙がこぼれた。カードの上に、ぽつん、ぽつんと水滴が落ちる。
もうやめる。こんな、こんな思いをするくらいなら。
わたしの頭に浮かぶのは、パーティーの仲間の一人の姿。
赤毛頭で、意地悪そうな表情を浮かべていて、ひょろっとした体格で……一見へらへらしてるように見えて、いざというときは凄く頼りになる。
口が悪いトラブルメーカーで、迷惑かけられたことも何回もあるけど、助けてもらったことだって数え切れないくらいあった。わたしは、彼を頼りにしていたし、尊敬もしていた。
……だけど。
あんな人だとは、思わなかった。
「うっ……ううっ……」
悔しさと、悲しさと、痛みと、蔑みと。
色んな色んな嫌な感情が吹き出してきて、わたしの心を覆った。
「大嫌い……あんな奴、大嫌い。もう、顔も見たくないっ……」
壁に叩き付けた冒険者カードが、軽い音をたてて、床に落ちた。
それはちょっとしたクエストでの出来事。
別に難しいクエストじゃなかった。モンスターも罠も、どれもこれもがわたし達のレベルにちょうどいいくらいの難易度で。特別危ない目に合うこともなく、目的を達成して、それで終われるはず……だった。
そこで、わたし一人が道に迷ってみんなとはぐれてしまったのは、油断してボーッとしていたせい。
気がついたら一人になってしまっていて、焦ってめちゃくちゃに歩きまくって、そして余計に道に迷ってしまったのも、よくあるといえばよくあること。
そんなわたしを、悪態をつきながらトラップが見つけ出してくれたのも、それこそいつもの風景だった。
いつもと違ったのは、そこから先。
「ごめんなさい……」
「けっ。わりいと思ってんならなあ! せめてはぐれねえようについてくる、っつーことくらいはできるようになれってんだ!」
トラップはかなり、かなーり怒っているみたいだったけど、それも無理は無い。
後でわかったんだけど、わたしがはぐれてから実に数時間以上が経過していて、その間、彼はずっと走り回ってわたしを捜していてくれたらしい。
けれど、そのときのわたしは、
「謝ってるのに。わたしだってはぐれたくてはぐれたわけじゃないのに。怖かったのに。もうちょっと優しい言葉をかけてくれたっていいじゃない」
実際に口に出したわけじゃないけど。心の中で、そんなことばっかり考えていた。
多分わたしも、自覚はしていなかったけど相当疲れていて、ナーバスになっていて。それが、わたしとトラップの歯車が狂った原因。
だから……だと思う。
だから、いつもなら気がつくようなことも、このときは、見過ごしてしまっていた。
トラップの後をついて、どうにかみんなと合流しようとしている最中のこと。
このダンジョン、そんなに高レベルじゃないけれど、結構色んなところに罠がしかけてあった。
もちろん、トラップはそれらの罠をほとんど解除していってくれたんだけど。
彼がたまたま見過ごしたのは、わたしと歩幅が違うせいだろう。
とある落とし穴。トラップが気づかずひょい、とまたいでいった罠を、わたしはもろに踏んづけていた。
――ガコンッ
「きゃああああああああああああ!!?」
かぱりっ、と突然割れる地面。
悲鳴にトラップが振り向くのが見えたけれど。
そのときにはもう、わたしの身体は落とし穴の中に落下していた。
――どすんっ
「痛いっ……」
「おいっ。大丈夫かー!?」
上の方から、トラップの心配そうな声が聞こえてくる。
ああ、彼でも心配してくれることがあるんだな、なんて、そんな不信感に溢れた考えが浮かんだのはもちろん内緒、だけど。
とにかく、落とし穴そのものは大して深くもなかった。ちょっと打ったお尻が痛かったけど、ただそれだけ。
だけど……
「痛いっ……」
だけど、落ちたときに変な風に手をついてしまったらしく。動かそうとすると、ずきん、と右手首が痛んだ。
うああ……手首が、真っ赤になってる……ま、まさか、骨は折れてないよね……?
「パステル? おい、どーした?」
すとんっ
そのとき、トラップが、華麗に上から飛び降りてきた。
わたしがなかなか声をあげないのを心配して、見に来てくれたらしい。そのことについては、素直に感謝したいんだけど。
結果的に、これが大失敗だった。
「ごめん……腕、痛めたみたい……」
「ああ!? ったく。ドジな奴だな、おめえは」
わたしの手首を見て、トラップはしばらくかしかしと頭をかいていたけど。
やがて、くるりとわたしに背を向けた。
「ほれ、おぶされ」
「……? えと?」
「だあら、俺がおぶって上まで引き上げてやっから、おぶされって言ってんだよ!」
「え? トラップが!?」
わたしが思いっきり意外そうな顔をすると、トラップはものすごい目つきでにらみつけてきた。
「喧嘩売ってんのかおめえ。嫌ならいいんだぜ? 一人で上がれよ」
「ああ! ご、ごめん、ごめん! ありがとう、本当にありがとう!」
この手首でロープを上れって言うのは、辛い……というか無理。
わたしは慌ててトラップに頭を下げて、その背中におぶさった。
トラップは、フック付きロープを取り出して、ひゅん! と上に向かって投げた。
と、そのとき。
――ガシャンッ!!
……え?
突然、周囲が闇に包まれた。
投げたはずのフックは、何にひっかかることもなく、ぼとっと地面に落ちてくる。
……ええと?
上を見上げる。
さっきまで開いていたはずの落とし穴。その……ふた、と言えばいいのかな? それが、今は閉まっていて……
「えええええええ!!?」
「うわっ、やべえっ……こういうタイプの罠かよ!?」
わたしの悲鳴と、トラップのうろたえた声がかぶさった。
ど、ど、どういうこと!?
本当に目と鼻の先も見えない真っ暗闇の中、わたしがおろおろしていると、ぼうっ、と小さな明かりが浮かび上がった。
トラップがポタカンを照らしてくれたんだ、ということに、わたしはしばらく気づかなかった。
「トラップ……どうなってるの?」
「だあら、あの罠……一定時間が過ぎると、勝手にふたが閉まるようになってんだよ。多分、下からじゃどーにもできねえだろうな。誰かがあの罠をまた作動させねえ限り」
「じゃ、じゃあ……?」
「……そっ」
トラップは、小さく肩をすくめて言った。
「誰かが助けに……いや、罠にひっかからねえ限り、俺達はここに閉じ込められたまんま、っつーこと」
じょ、じょ、じょーだんじゃないわよっ!!?
それを聞いたとき、わたしはすっごく焦ってしまったんだけど。
トラップに言わせれば、そんなに心配することはない、ってことだった。
ここに降りてくるとき、邪魔になるから、と、彼は盗賊七つ道具以外の荷物は置いてきたらしい。
いつまでも戻って来なければ、クレイ達がいずれ探しに来るはず。そのとき、自分の荷物を見つければ、この近くで何かがあったことはわかるだろうから、と。
「踏めば勝手に作動する罠だからな。クレイの野郎ならひっかかるんじゃねえ? あいつの運の悪さは折り紙つきだからな」
そう言って、トラップはのん気に笑っていたけど。
ど、どーしてこの状況でこんなに余裕があるのよこの男は!?
はああ、とため息をつく。
季節は秋。ダンジョンの中はちょっと寒いし、それに歩きづめですっごく疲れていたし、お腹も空いていた。
トラップは荷物を上に置いてきてしまったから、手元にあるのはわたしのリュックだけ。
食料だってそんなに無いし……ううっ。早く助けが来ないと、これは、結構まずい状況なんじゃないの……?
「おめえなあ。何でそー悲観的なんだよ。それでも冒険者かあ? もうちっと堂々としてろっつの」
「だ、だって……」
あんたが無駄に堂々としすぎなのよ!
と言い返したかったけれど。
そもそもわたしが道に迷ったのが悪いんだし、罠を作動させたのもわたし。
この状況にトラップを思いっきり巻き込んでしまったのはわたしなわけで……そんな大きなことを言えるはずもなく。
「ごめん……」
できたことは、力なく謝ることだけだった。
わたしって……ドジだし、力は無いし、方向音痴だし……
何の役にも立たないのに迷惑ばっかりかけて……こんなことで、本当に冒険者なんて、やってていいのかな……
「本当に、ごめん……」
そう言って頭を下げると、トラップはちょっと呆気に取られたみたいだったけれど。
やがて、気まずそうに目をそむけて言った。
「悪いと思ってんなら、毛布貸せ」
「え?」
「……さみいんだよ。だあら、毛布、半分貸せ」
ああ、なるほど。
ばさり、と荷物から毛布を取り出して広げる。
多分、夜になったせいかな? 気温はますます下がったみたいで、吐いた息が白い。
クレイ達がいつ探しに来てくれるかわからないし、体力を温存するためにも、身体を冷やすのはよくないよね。
「はい、半分どうぞ」
そう言ってわたしが毛布を広げると、トラップが「狭い」と文句を言いながらもぐりこんできた。
狭いのは仕方ないじゃない! わたしだって寒いんだし。
そう頬を膨らますと、「おめえがもうちっと痩せればいいんだよ」なーんて可愛くない返事が返って来た。
まったくう! 失礼な。わたしはそんなに太ってないもん!!
随分な言われように、わたしはかなり腹が立ったけど。
そう言って怒ると、
「やーっと、いつものおめえに戻ったか」
トラップは、そんなわたしを見て、二ッ、と微笑んだ。
……ああ。
もしかして、トラップ……わたしが落ち込んでるのに気づいて。それで、元気付けようと?
そんな軽口の応酬をしているうちに、さっき一瞬頭を過ぎった暗い考えが、段々と消えていくのがわかって、わたしはほんのちょっぴり、彼に感謝した。
まあ、本当にちょっぴりだけどね。
同じ元気付けるにしたって、もっと他に方法はなかったの? 全く。
だけど。
感謝なんかしなきゃ良かった。あんなこと、されるとわかっていたら。
絶対感謝なんか、しなかったのに。
まわりの気温はかなり低いみたいだったけれど。トラップと一緒にくるまっていると、毛布の中は暖かかった。
それに、さっきも言ったように、わたしもかなり疲れていたしね。
気がついたら、わたしはトラップの身体にもたれかかって、うとうととしていた。
……それから、どれくらい経ったんだろう。
ふと目が覚めたのは、肩を、痛いくらいにつかまれたとき。
「……トラップ……?」
眠気が覚めないぼんやりした頭で、目を開ける。
ぴったりと密着した身体。これは仕方が無い。毛布が一枚しかなかったんだから。
そして。
わたしの目と鼻の先にあるのは、怖いくらいに真面目な顔をした、トラップの顔。
「……トラップ……?」
もう一度名前を呼んだけど、返事はなかった。
そのかわり。
次の瞬間、わたしは、冷たい地面に押し倒されていた。
「……え?」
どんっ!!
背中が硬い地面に押し付けられる。両肩を抑えこんでいるのは、トラップの手。
「と、トラップ……?」
ようやく、目が覚めてくる。徐々に、徐々に自分の状況がわかって……
えと、何? これは……
な、何が……
「トラップ、一体な……きゃあああああああああああああああああ!!?」
ぐいっ
いつの間にか。
多分、寝てる間じゃないか、と思うんだけど。いつの間にか、わたしの身体はアーマーを脱がされていて、セーターとスカートだけの姿になっていた。
そして。
トラップの手が、いきなりわたしのセーターをまくりあげた!
「やっ……ちょ、ちょっと、トラップ! 何、一体何……」
「…………」
目の前のトラップの顔は、ちょっと苦しそうで。
まるで何かを我慢しているみたいな顔で……でも、手は全然止まってくれなかった。
「いやああああああああああああああ!!? な、何するのよ、やめて、やめっ……」
脚の間に、無理やりトラップの脚が割り込んできた。
まくりあげられたセーターの下でブラがずらされて、トラップの手が、乱暴に胸をつかんでくる。
「いっ……」
痛い。痛いっ……何なの? 何で、こんなことにっ……?
「痛いっ……やだっ、やめて……やめてってば!!」
「…………」
すっ、と唇が胸によせられて、びくりっ、と背中が震えた。
こんな感覚は初めてだった。
トラップの唇が、わたしの胸をついばんで……踊るようにうごめく舌の感触に、頭がくらくらしてきた。
「やあっ……や、やめっ……」
「……パステルッ……」
そのとき、初めて、トラップが口を開いた。
つぶやかれたのはわたしの名前。そのまま、彼はうわごとのようにわたしを繰り返し呼んで……
「いやあっ!!?」
がしっ
トラップの左手が、わたしの太ももをつかんだ。
そのまま、その指が、徐々に上の方へと這い上がっていって……
「やだっ……やだ、やだやだやだっ! やだっ……」
言えたのは、ただそれだけ。
何が何だかわからない。どうして突然こんなことになったのか。
何でこんなことをされるのか。
だけど、理由はわからなくても。何をされようとしているのかは、大体わかった。
それは、まだまだ知りたくなかったこと。
指が、下着に触れた。
薄い布越しに伝わる、トラップの指の感触。
ほんのわずかに、指が動く。もうそれだけで、わたしは全身がびりびり言うような感覚に身もだえして……
「いっ……いやああああああああああ!!」
ぶんっ!!
無我夢中で振り回した手が、たまたま、トラップの拘束を逃れた。
そのまま、その手を彼の頬に振り下ろそうとして……
がしっ
だけど、わたしの動きなんて、トラップにはお見通しだった。
頬に当たる寸前、手首は、トラップの手にがっしりとつかまれていた。
視線と視線がぶつかった。つかまれる手の痛みと、無理やり開かされている太ももの痛み。
そして、ショックで。わたしの目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
その涙を見た瞬間。
トラップの顔に走った表情は……何なんだろう?
一瞬だったけれど。彼は、物凄く気まずそうな顔をして……
そして、ぱっ、とわたしから身を離した。
……え?
唐突に身体から重みが消える。一瞬、あれは夢だったんじゃないだろうか、と思ってしまうくらいに、本当に突然のこと。
だけど、むき出しにされた胸や、まくりあげられたスカートは、それが確かに現実のことだった、と示していて……
「…………!!」
慌てて起き上がる。セーターとスカートを直して……自分の身体を抱きしめて。
トラップの視線から、少しでも隠れようとして。わたしは、毛布を頭から被った。
……何で。
今のは、一体何……?
何で、こんなこと……
「……だあら」
突然響いた声に、びくっ、と全身が震えた。
トラップの声、だった。
全然いつもと変わらない。声も、口調も、全くいつものトラップで。
「だあら、おめえは冒険者としての自覚が足りねえっつーの」
「……え?」
言われた意味がわからなくて。わたしは、思わず毛布から顔を覗かせた。
何を……言ってるの?
そんなわたしから視線をそらして、トラップはまくしたてるように言った。
「だあら、俺が教えてやったっつーかなあ。冒険者になった以上、常に周囲に注意してろっつーか……おめえ無防備すぎんだよ。ちっとは自覚を持てっつーの! それに、わあっただろ。おめえみてえな幼児体型で引っ込むところが出て出るとこが引っ込んでるような女でもな! 飢えてる男にとっちゃ女っつーだけでもう十分っつうか……」
……何。
何、言ってるの、トラップ。
そんな……理由?
あなたが、あんなことをしたのは……そんな理由だって、言うの?
「あのなっ、少しは俺に感謝しろよ? ここまで親切に冒険者のノウハウ教えてくれる奴なんざ、予備校にだっていねえぜ? だあら、これに懲りたら少しは警戒心を持てっつーか、もう少し状況とまわりを見て……」
「最低っ!!」
長々と続きそうな、トラップの言葉。
わたしはそれを、ただの一言で遮った。
ただの一言で十分だった。それ以上言うことなんか、何も無かった。
「最低……」
「…………」
涙で濡れた目で、トラップをにらむ。彼は、その視線をまともに受け止めようとはしなかったけれど……それでも、さすがにそれ以上は、何も言わなかった。
最低。最低だ、こいつ。
そんな、そんなことでっ……そりゃあ、そりゃあいつも気軽にナンパしてるあんたにとって、こんな行為、何でもないことなのかもしれない。
だけど、わたしはっ……本当に、すごく、すごく怖くてっ……
何が、冒険者のノウハウよ。
こんなことまでされなきゃ、冒険者になれないのなら。
それならっ……わたしは……
クレイ達がトラップのリュックを見つけて、さらに罠を作動させてくれたのは、それから2〜3時間後のことだった。
けれど、わたしとトラップは、その間、一言も口をきかなかった。
「何があったんだ? パステル……」
「何でもない……」
見つけられたとき。尋常じゃないわたしとトラップの様子を見て、クレイはすごく心配してくれたけど。
「トラップに、何か言われたのか? 何でもないわけないだろ。一体どうしたんだよ……」
「何でもない。本当に……何でもないのっ……」
言えるわけがなかった。
言ったら、きっとクレイのことだから。凄く凄く心配して、悩んで……同情してくれるだろう。
そんなのは嫌だったから。第一、誰にも知られたくなかったから。
だから、わたしはどんなに聞かれても「何も無かった」と言い続けて。
ただ、一つだけ。みすず旅館に戻ったとき、一つだけ頼んだ。
「一人にして欲しい」
って。
そして、クレイはそれを快く了承してくれた。
部屋で一人きりになって。そこで、わたしは、思う存分に悩んで、怒って、泣くことが、できた。
それから、夜が終わって朝が来て、昼が過ぎて……今にいたる、というわけなのだった。
クレイとルーミィとシロちゃんがさっきも言ったように散歩に出かけて。
キットンは多分隣の部屋で実験でもしてるんだろう。
ノルは、旅館の裏で何か大工仕事をしているみたいだった。
トラップが何をやっているのかは知らない。知ろうとも思わない。
結局、わたしが一人になりたがっていることを聞いても、トラップは何を言ってくるでもなかった。謝るわけでもなく、部屋を訪ねてくるわけでもなく。
訪ねてきたところで、わたしが話を聞いたかどうかは別問題だけれど。
それでも、わかった。きっと、彼はあれをちっとも悪いことだなんて思ってなくて、本当にただ冗談半分にやったことで……そんな軽い出来事だったんだ、って。
だからこそ、わたしは余計に許すことができなかった。
冒険者としての心構えを教えてやった、とトラップは言った。
わたしが無防備で、油断していたのが悪い、と言った。
そんなに、わたしが冒険者に向いてないって言うのなら……
がたんっ、と音を立てて立ち上がる。
ジョシュアに手紙を書こう、と思った。近いうちにガイナに帰る、と言えば、きっと彼は何も言わず、わたしを迎えてくれるはず。
荷物をまとめよう。クレイやキットンやノルには悪いと思う。ルーミィは……一緒に来て、と言えば、一緒に来てくれるような気がする。
嫌、と言われたら仕方が無いけど、でも、できれば、連れていきたい。
ガイナに。
そう考えたときだった。
不意に、部屋にノックの音が響いた。
ドキン、と心臓がはねる。だけど、すぐに一瞬頭に浮かんだ考えを振り払った。
あいつのはずがない。あいつが、ノックなんてするはずがないもん。
「はーい?」
「パステル、ちょっといい?」
部屋から響いたのは、みすず旅館のおかみさんの声だった。
「はい? な、何でしょう?」
慌てて涙で汚れた顔を拭う。大丈夫だよね? 気づかれないよね?
ガチャン、とドアを開けると、おかみさんはにこにこしながら階下を指し示した。
「下にね、お客さんが来てるよ」
「え? お客さん??」
「そう。ぜひパステルに会いたい、ってね」
おかみさんの顔はすっごく嬉しそうで、「パステルにもあんな人がいたんだねえ」なーんて言いながら脇腹を小突かれたんだけど。
……誰だろう?
言われるまま階段を降りていく。その「お客さん」は、宿の入り口で待っていてくれているらしい。
そうして、階段を降りきって。そこで現れた予想外の人影に、わたしは目がまん丸になった。
「――ギア!!」
「……久しぶり、パステル」
黒髪、長身、無駄な贅肉の無い鍛えられた身体。鋭く整った顔立ち。
そこに立っていたのは、まぎれもなくギア・リンゼイ……以前とあるクエストで、わたし達パーティーがとってもお世話になったファイターだった。
しばらく、言葉も出なかった。
「どうしてここに?」とか「一人?」とか「今何してるの?」とか。
聞きたいことはいっぱいあるはずなのに。
「ひ、久しぶりっ」
ようやく口をついて出たのは、そんなどうでもいいような挨拶で……
「本当に、久しぶり、パステル。ずっと、会いたかったよ」
そう言ってにっこり笑うギアの顔は、以前とちっとも変わっていなかった。
タイミングが、いくら何でも良すぎると思った。いや、悪すぎる、なのかな?
こんなときでなければ、わたしはきっと、慌てて部屋にとってかえしてみんなを呼んで、わいわいと大騒ぎしたと思うんだけど。
クレイ達が出かけているのはわかっていたし、男部屋にはトラップがいるかもしれない……そう思うと、二階に上がろう、という気はなくなってしまって。
「外、出ようか? ここじゃ、ゆっくり話せないでしょう?」
そう言うと、ギアは微笑んで頷いた。
入り口から外へ……と言っても、どこに行く、なんていう当てがあるわけでもなく。
猪鹿亭に行こうか、とも思ったんだけど。リタに見られたらきっと色々聞かれるだろうと思うと、それもためらわれた。
結局、わたしとギアは、みすず旅館のすぐそこ……入り口付近にある大きな木の根元に、腰掛けた。
ギア・リンゼイ……以前、わたしにプロポーズしてくれた人。
キスキン王国でのごたごたに巻き込まれたとき。王女の身代わりをつとめたわたしをずっと守ってくれて、そして一緒にならないか、と言ってくれた人。
そのときわたしは、色々あって……そう言えば、あのときもトラップとうまくいってなかったのが原因だったような気がするけど……冒険者をやめようか、パーティーを抜けようかどうしようか、悩んでいた。
あのときは随分悩んだ。ギアの顔を見ると胸がドキドキして、好きだと言ってもらえて本当に嬉しくて。
ちょうど冒険者をやめようと思っていたときだったから、本当にギアについていこうか……真面目に悩んだ。
けど、結局。
自分の気持ちはよくわからなかったけれど。ギアに対する気持ちは、恋愛感情ではないような気がして。そうして、トラップとのわだかまりも何とか無くなって。
そうなったとき、わたしはやっぱり冒険者でいたい、と思ったから。結局そのプロポーズは断ってしまった。
そうして、ギアとお別れして、彼はダンシング・シミターという剣士と旅に出たはずなんだけど……
「そう言えば、ギアは、一人? ダンシング・シミターは……」
「あいつとは、今は別行動。二週間後に、エベリンで落ち合うことになってる」
そう言って、ギアはわたしの目を見て言った。
「近くまで来たから、パステルに会いたくなって……俺が、そう頼んだんだ」
ドキンッ!!
その言葉に、心臓が激しく高鳴った。
優しくて、かっこよくて、大人で……今まで出会ったどんな男の人よりも、素敵な人。
何もかも違う。そう……トラップとは、何もかも正反対な人。
な、何だろう? あのとき、この気持ちは恋愛感情なんかじゃない、と割り切ったはずなのに。
何で、今も……こんなに胸がドキドキするの?
「パステル……」
そんなわたしを見て、ギアは心配そうに眉をひそめた。
「何か、あったか?」
「……え?」
「何かあったのか? 元気が無いみたいだけど」
……何でわかるんだろう。
隠してるつもりなのに。いつも通りに振る舞ってるつもりなのに。
何で……
「な、何でも……」
「もしかして」
そこで、ギアはちょっと声を落として言った。
「あいつと……トラップと、何かあったのか?」
ドッキンッ!!
ただでさえ痛いくらいにはねていた心臓が、それこそ止まりそうになった。
な、何で……
何で、わかるのっ!?
わたしがどう返事をしようかとおたおたしているのを、ギアはただ黙って見つめて。
そして……優しく、腕を引き寄せた。
ぼすん、と、その広くて硬い胸に頬があたる。
うわっ……
抱きしめられている、とわかって。全身の血が、一気に脳に集まったみたいだった。
「ぎ、ギア……」
「言いたくないなら、無理して言わなくてもいいよ。だけど……パステルが、何だか傷ついているような気がして、ね」
ぎゅうっ、と腕に力がこめられる。
このままだと、心臓の音がギアに聞こえるんじゃないか……そんな気さえ、してしまう。
「あの……」
「パステル」
耳元で囁かれたのは、とても甘くて……真剣な声。
「こんなことを、言うつもりはなかった。ただ、顔を見て、それで満足して帰るつもりだったのに」
「……え?」
「君は幸せにやってるものだと思ってた。冒険者を続けて行きたいと言ったとき、君はとても生き生きとしていて……だから、俺は諦めたんだ。諦めたつもりだったのに」
「ギア……?」
「今日会って、驚いたよ。あのときと同じ……いや、あのときよりずっとひどい。笑顔が曇っていて、何かにぼろぼろに傷ついてることがすぐにわかった」
「…………」
そう言えば。
以前ギアに出会ったときも、トラップがらみのごたごたで、わたしが傷ついて悩んでいるときだった。
どうして、彼に出会うとき……わたしはいつも、こうなんだろう……
あのときと、同じ。いや、あのときよりもずっとひどい……
その通りだよ、ギア。
言葉に出せないけれど、胸の中で頷く。
その通りだよ。今となっては、あのときトラップがあんなに怒っていたのは、わたしのためを思ってのこと……だとわかる。
けど、今回は……
「パステル」
そんなことを考えて、ただされるがままになっていると。
ギアは、そっと言った。
あくまでも真面目な口調で。
「もう一度、言ってもいいか?」
「……え?」
「君と一緒に行っても……君について行ってもいいか?」
「…………………え?」
それは……あのときと、同じ台詞だった。
つまり、ギアは……
「あの……それって……」
「今回のことは、俺の勘だよ。君がまた、パーティーを抜けようかどうしようか悩んでるんじゃないか……そう思ったから、聞いてるんだ」
その微笑は、とてもとても魅力的だった。
「もう一度、プロポーズさせてくれ……あのときから、俺の気持ちは変わってないよ、パステル」
頭がくらくらした。
すぐにでも頷いてしまいそうな自分に気づいて。
だけど。反射的に返事をしそうになって、慌てて踏みとどまる。
プロポーズ。それは、こんなに簡単に返事をしていいものじゃない。
ちゃんと、みんなに言って……それから、返事をしないと。
……つまり、わたしは受けるつもりになってるんだ。
頭のどこかで、冷静な自分がつぶやいていた。
いいんじゃないかな。どうせ、パーティーを抜けるつもりになって……トラップの顔なんか、もう二度と見たくないと思っていたから。
ギアは、一度プロポーズを断ったのに、それでもわたしを好きだと言ってくれて……
いいんじゃないかな。ギアはこんなに素敵な人だ。トラップなんかとは全然違う。おまけに、彼はわたしの行きたいところへついていってくれると言う。
ガイナに帰ると言えばガイナに来てくれるだろうし、もしもっと他のどこかへ行きたいと言えば、どこへでも……例えば、またわたしが冒険に出たくなったとしても。ためらわずについてきてくれて、そしてわたしを守ってくれるだろう。
それなら……いいんじゃないかな。断る理由は、無いような気がする。
「ごめん。こんな重要なこと、簡単に返事はできないよね」
ギアは、わたしの表情を読んだのか、笑顔を崩すことなく続けてくれた。
「俺は、近くに宿をとるから。後数日は、ここに滞在するつもりだ。返事は、それまで待つよ」
「うん……宿って、どこ? よかったら、みすず旅館にしない? 空き部屋、あると思うし」
そう誘ったけれど。それに、ギアは首を振った。
「やめておくよ。多分、俺が泊まると余計ないざこざが起きると思うしね。嫌な気分になる奴がいるだろうから」
……え? 誰のことだろう、それって。
だけど、それを聞く前に、ギアは立ち上がっていた。
「じゃあ、俺はそろそろ行くよ。パステルも、一人でゆっくり考えたいみたいだしね」
「…………」
何でだろう。
何で、ギアはこんなにわたしの考えていることがよくわかるんだろう?
「じゃあ」
そう言って。彼は去っていってしまった。
一人その場に残されて、部屋に戻ろうか、と思い立ち上がる。
何気なく視線をあげて……そして、顔が強張った。
……いつから……
視線の先にあるのは、窓。
わたしが使っている部屋と、隣の男部屋の窓。
その、男部屋の窓から、じいっとこっちを見下ろしているのは、トラップだった。
……見られてた?
そう思うと、何故だか、ひどく気まずい思いがしたけれど。
……何でわたしがそんなこと思わなくちゃいけないのよ!
吸い寄せられた視線を無理やりひきはがして、入り口へと向かう。
トラップも、彼にしては珍しく、別に何も言ってはこず……
部屋に戻っても、それは変わらなかった。
ぼすん、とベッドに寝転がって、枕に顔を埋める。
もう知らないんだから。あんな奴なんか知らない。
わたしは、ギアと一緒に行く……冒険者なんか、やめる。
トラップの顔なんか、見たくないから……
「わたしっ……ギアと結婚することにしたから」
そう言うと、猪鹿亭のにぎやかなテーブルは、水を打ったように静まり返った。
夕食の時間。本当なら、時間をずらして一人で来るつもりだったけれど。
この報告をするためだけに、わたしはみんなについて行った。
ほかほかとおいしそうな湯気を立てる食事の前で。
クレイも、キットンも、ノルも、見事に顔が固まっていた。
ルーミィとシロちゃんは、「結婚」の意味がよくわかっていないのか、きょとんとしていたけれど。
そして。
トラップは、予想していたのか……彼の耳の良さを考えれば、あのときの会話が聞こえていたのかもしれない……ただ一人、もくもくと食事を続けていた。
「ぱ、パステル……どうしたんだ? 突然」
「今日、みすず旅館にギアが訪ねてきてくれたの」
強張った声を出すクレイに、淡々と告げる。
……ごめんね。
本当は、クレイ達とは……別れたくなかったけれど。
でも、今回ばっかりは……とても、我慢できなかったから。
「だから、パーティーを抜けることになるの……ごめんね、本当に、突然で」
ぺこり、と頭を下げると。男三人は、困ったように視線をかわしあっていた。
そして。
その視線が一斉に、黙って食事をしているトラップに注がれる。
「……あんだよ」
さすがにそれに気づいたのか、トラップの手が止まった。
「引き止めないのか?」
「あんで引き止めなきゃなんねえんだ」
クレイの言葉に、トラップは冷たく言った。
「こいつが自分で決めたことだろ? 何で俺達がとやかく言わなきゃなんねえんだ」
「だって、お前っ……」
クレイは何か言いたそうだったけれど。
その前に、わたしが立ち上がっていた。
ガタンッ、と派手な音がして、椅子が倒れる。
みんなの視線が、一斉に集まった。
「……ごめんね。さよなら」
他に言うことなんか、何も無い。
トラップにとって、わたしの存在なんてそんな程度のものだと……わかったから。
あれだけのことをしておいて。謝るでもなく、冗談で済ませて。
わたしがどれだけ泣いていても、慰めの言葉一つかけるでもなく。
こうして、わたしがパーティーを出ていくと言っても、引きとめすらしない。
彼にとってのわたしなんて、そんな程度の存在なんだと、よくわかったから。
走り出す。ギアの泊まっている宿屋は、知っていた。
すぐに返事に行こう。もう、迷うことなんか何も無い。
猪鹿亭をとびだすわたしを、追いかけてくる人は、誰もいなかった。
ギアに返事をすると、彼はとても喜んで、「ダンシング・シミターにも言わなきゃいけないから、一度エベリンまで一緒に来て欲しい」と言われた。
もちろん、断る理由は無い。それに、エベリンに行くなら、マリーナにも挨拶ができるし。
「荷物をまとめる都合もあるだろうから、3日後にみすず旅館に迎えに行くよ」
そう言って、ギアはぎゅっとわたしを抱きしめてくれた。
ルーミィとシロちゃんについても、もしわたしが連れていきたいなら……と、彼は快くOKしてくれた。
彼女達がわたしと一緒に来るかどうか。それは、聞いてみないとわからないけど。
……クレイ、キットン、ノル。彼ら三人には、本当に申し訳ないことをした、と思うけど。
これで、いい。
みすず旅館に戻る道すがら、わたしは自分に言い聞かせていた。
これが、一番いいんだ。そのはずなんだから。
そうして、宿の前まで戻ってきて。
ぴたり、と足が止まった。
もう大分遅い時間。普通なら、みんな部屋に戻ってしまっている時間なのに。
その入り口の前に、一人の人影が、たたずんでいたから。
部屋に戻るためには、どうしたって通らなきゃならない入り口。
……トラップ。
彼は、腕組みをして、じいっとわたしをにらみつけている。
その顔はひどく不機嫌そうだった。
……何で、こんなところにいるのよ。
そう言おうかとも思ったけれど。口をきく気にもなれなかった。
ただ、黙って、その脇を通り抜けようとして……そして、ぐっ、と腕をつかまれる。
……痛っ……
その力の強さに、わたしは思わず顔をしかめた。同時に、あのときの記憶が……嫌だと言ったのに、無理やり肩を押さえ込まれて身動きが取れなくなったときの記憶がよみがえってきて、背筋がぞっとした。
……まさかっ。あのときとは違う。声をあげれば誰かがすぐにとんでくる。心配することなんか……
「離してよ」
キッとにらみつけたけど、トラップはちっとも動じず。腕をつかむ手も、全然緩めてくれそうな気配はなかった。
「痛いから、離して」
「……何か俺に言いたいことがあんじゃねえの」
「…………」
言いたいこと。
山のようにあった。最低、とは言ったけれど。酷い、とか、冗談でよくあんなことができるね、とか。
わたしのことをどう思ってるの? とか。
だけど、そのどれもが、もう今更答えを聞いたって仕方が無いことだったから。わたしはただ唇をかみしめて、首を振った。
「そんなの、無い」
「嘘つけ。じゃあ、何でいきなり結婚なんつー言葉が出るんだよ」
「…………」
「おめえさ。ヤケになってるだけだろ? もうちっと落ち着けよ。そんな気持ちでプロポーズOKされたって、ギアの野郎だっていい迷惑なんじゃねえ?」
「っ……!!」
何で。
何で、そんなこと言うのよ……猪鹿亭では、あんなにっ……
「トラップには関係ないでしょ?」
「関係あるだろ」
「ないわよ……ない。あんたなんか何の関係も無い。どうして今更そんなこと言うの? わたしが決めたことなんだから、とやかく言うことはないって……そう言ったのはトラップじゃない!」
そう叫ぶと、彼は気まずそうに顔をしかめた。
どうせ。
どうせ、クレイに何か言われたんだと思う。わたしとトラップが気まずくなっていたのは、みんなが知っていた。原因はトラップに違いないと踏んで、どうにかわたしを説得しろと言われた……どうせこんなところだと思う。
トラップの意思じゃない。そう思うと、余計に腹が立った。
「わたしは、ギアのことが好きだから、結婚する。それじゃ、いけない? それで、何かトラップに不都合があるの?」
「……ある」
「はあ? 何で……」
がしっ!!
その後は続かなかった。
腕をつかんでいたトラップの手。それが、今度は肩をつかんできた。
遠慮も何もない。全力でつかまれていることがよくわかる。
指が食い込んで、骨が悲鳴をあげそうになる、そんな力。
「痛いっ……」
「……おめえが幸せになるんなら、俺だって何も言わねえよ」
じいっと目を覗きこまれる。
あのときの目と同じだった。ひどく真面目な、真摯な目。
「だあら、あんときだって……諦めようとしたんだ。けど、今回は話が違うだろ!?」
「どう違うって言うのよ!」
諦める、という言葉は、何だか不自然なような気もしたけれど。
深く考えることもせず、わたしは叫び返していた。
トラップの気持ちがわからない。何を考えているのか、さっぱりわからない。
一体、彼はわたしにどうして欲しいのか。
「どう違うの? ギアはあんなにいい人だもん。絶対、わたしを幸せにしてくれる。何が、どう違うって言うの!?」
「おめえはっ……自分の気持ちに、気づいてねえのかよ!?」
きーん、と耳が鳴りそうな大声が、炸裂した。
こんな大声を出したら、絶対二階に聞こえていると思うんだけど。
でも、その階段からは、誰も降りてくる気配が無かった。
「……何よ。自分の気持ちって、何よ。わたしの気持ちが、トラップにはわかるって言うの!?」
「わかる!」
即答された。
意外な答えに、一瞬ぽかんとしてしまう。
……何で? 何で、そんな風に言い切れるの?
わかってる? そんなはずない。わかってるなら……
「嘘……つかないでよ。わかってるなら、何で……」
「ああそうだ。何もかもわかるわけじゃねえ。俺はおめえじゃねえからな。それは当たり前だ。けど、今回のことがっ……ギアと結婚するっつーのが、おめえの本当の望みじゃねえのは、わかる!」
「な、何でそんなこと言い切れるのよ!?」
腹が立った。
わけのわからないことを言い切るトラップに。そして、その言葉に動揺を覚えるわたしに。
何で? 何で……動揺、してるの?
ぎくり、とした。本当の望みじゃない、と言われて。
じゃあ……
「じゃあ、わたしの本当の望みって……一体何? トラップには、それがわかってるって言うの?」
「…………」
返事は無かった。
トラップは、ただ、辛そうな顔で、わたしを見つめているだけで。
でも、その視線が。わたしの目をじっと見つめたまま、ちっともそらされない視線が。
心の奥まで見透かしているようで、ひどく気まずい沈黙を与えた。
「いいかげんなこと、言わないで」
「…………」
「トラップは、いつもそうだよ。いいかげんで、適当なことばっかり言って……遊び半分で、冗談半分でわたしを傷つけて、それでいて言い訳ばっかりして!!」
耐えられなかった。
言いたいことは山のようにあった。だけど、どれも今更言っても仕方のないことだと思ったから、黙っていようと思った。
それが……爆発した。
いつの間にか、肩から手は外されていたけれど。今度は、わたしがつかみかかっていた。
トラップの胸元をつかみあげて、わたしはまくしたてていた。
「あんたなんか大っ嫌い。トラップなんか大嫌い! あなたにとっては冗談半分でやったことだろうけど、わたしはっ……本当に怖くて、ショックだったんだから。何がっ……冒険者としての自覚が足りない、よ! 自覚が足りないから、わたしが悪いからあんなことされても黙って笑ってろって言うの!?」
「…………」
「簡単に言わないで。わたしはあなたとは違う。適当に女の子と遊んでるあなたとは違う! あんなことをされて黙ってなかったことにできるほど、わたしはっ……軽い女の子じゃない」
「……だあら」
トラップは、されるがままだった。
がくがくと胸元を揺さぶる手を振り払おうともせず、静かに言った。
「それが、本音だろ」
「……え?」
「俺の顔なんざ見たくねえ。それがおめえの本音。そこにたまたまギアが現れた……ようは、そーいうこったろ?」
「…………!!」
ばっ、と手を離す。
言い返せなかった。
何一つ、反論が浮かばなかった。そんな自分に、自分が一番驚いた。
トラップは、それ以上何も言わない。ただ、じいっとわたしを見下ろしていて……
その視線に耐えられなくて、わたしは駆け出した。今度は、引き止められなかった。
……違う。
違う。そんなはずはない。
結婚したいと思った。その気持ちに、何一つ偽りは無い。
トラップの言葉なんか、全部でたらめなんだから。口先だけで適当なことを言ってるだけなんだから。
そのはず……なんだから。
3日後。
クレイ、ノル、キットンが見送ってくれる中。わたしは、みすず旅館の入り口に立っていた。
ルーミィとシロちゃん、それにトラップは、まだ眠っている。
結局。あの夜以来、わたしはトラップとは話していない。顔すらろくにあわせていない。荷物をまとめるのが忙しいからと言って、ほとんど部屋にこもりっきりだったから。
……会いたくなかったから、別にいいんだけど。
ルーミィとシロちゃんに関しては、随分迷った。
わたしと一緒に来るか、冒険者を続けるか。
それは、ルーミィにはまだ決めかねることだろうから……とりあえずは、クレイ達と一緒に行く、ということになった。
そして、もしどうしてもわたしと一緒にいたい、ってことになったら、そのときはガイナに送り届ける、と約束してくれた。
……わたしがいなくなる、と聞いて、ルーミィは随分泣いていたけれど。わたしと一緒にいったら、それはそれでやっぱり別れは経験する。
……ごめんね、ルーミィ。
眠っているのは、好都合だった。きっと、顔を見たら泣いてしまうだろうから。
別れたくないって、思うだろうから。
クレイ達の顔を順番に見て、わたしは頭を下げた。
「本当に、勝手なことばっかり言って、ごめんね」
「……いや」
クレイ達は、諦めたように首を振った。
「パステルが決めたことだからね」
「大変残念ですけれど。一生のお別れ、というわけではないですし」
「また会おう」
それぞれがそう言って、わたしの手を握ってくれた。
……本当に、楽しかった。
みんな、いい人ばっかりだった。
あんなことがなければ、きっと……
「パステル、彼が来たよ」
クレイの言葉に振り向くと。ギアが、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
いつもと変わらない姿。ほとんど荷物が無いのも一緒。
彼は、じいっとわたしを見つめた後、クレイ達に軽く手をあげた。
「久しぶりだな」
「……その節は、お世話になりました」
クレイが礼儀正しく頭を下げようとするのを、ギアは遮った。
「堅苦しい挨拶はいい。……俺は、もしかしたら君たちにひどいことをしているのかもしれないな」
「…………」
その言葉に、わたしを除く四人の視線が複雑にからみあった。
うう……何だろう。
雰囲気が、とても……重い。
「パステルを、よろしくお願いします」
遮る手を無視して、クレイは再び大きく頭を下げた。
「言われるまでもない。一生守っていくと、約束しよう」
そっと、ギアの手が、わたしの肩にまわった。
ああ、これで、本当にお別れなんだ……
何だか、目頭が熱くなってきた。
……と、そのとき。
バンッ!!
突然響いた音に、全員の視線が、集まった。
音を立てて開いたのは、みすず旅館の入り口。
そして、そこに立っていたのは……
「トラップ!?」
真っ先に声をあげたのは、クレイだった。
トラップは、そんなみんなの視線を無視して、ずかずかと歩いてきた。
その目がにらんでいるのは……ギア?
「トラップ……」
何を言おうとしたのかわからないけれど。
彼の全身から、ただならぬ雰囲気が漂っているのを見て、反射的に声をあげていた。
ギアはギアで、そんなトラップの視線を、まっこうから受け止めていて……
そして。
「えっ!?」
ぐいっ、と肩をつかまれた。
トラップの手が、強引にわたしの肩をつかんで引き寄せた。
力比べなら絶対ギアの方が上だと思うけど。予想外の出来事だったのか、ギアの手は、あっさりとわたしの肩から離れ……
「!!!!!!!!????」
ぴきーんと、その場の……トラップを除く全員の動きが、止まった。
なっ、なっ、なっ……
ふさがれた唇と、ぼやけて見えるくらいに間近にあるトラップの瞳、痛いくらいに抱きしめている腕。
とっさに、何をされているのかわからなかった。
だけど、そのうち嫌でもわかる。こっ、これは……
ぐいっ、と口の中に、暖かいものがねじこまれた。無理やり舌をからめとられて、痛みすら感じる。
「んっ……んん――っ!!?」
じたばたともがいたけれど、トラップの腕は強く強くわたしを抱きしめていて、振りほどけそうにもなく。
あんまりにも突然の出来事に、誰も何も言わず……時間だけが、流れていった。
「……ぷはっ!!」
やっとトラップが解放してくれたのは、それから数分後のこと。
い、息がっ……
解放されて初めて、呼吸することすら忘れていたことに気づいた。
大きく息を吸い込んで、きっと視線をあげる。
なっ、何をっ……この期に及んで、一体何をっ!!?
「トラップ!! あんた……」
「ギア」
わたしの言葉を無視して、トラップはギアをにらみつけた。
ギアは、その強い視線にもひるむことなく、じっとトラップを見つめている。
「こいつはやらねえ」
「……はあ!?」
いきなりの言葉に、わたしは目が点になってしまったけれど。
後ろで、クレイ達が「やれやれ」「間に合わないかとひやひやしました」なーんて言っているのが聞こえて、頭がパニックになってしまう。
なっ、何!? どーいうことなの、これは!!?
「パステルは、お前のものなのか? トラップ」
「今はそうじゃねえけどな」
静かに聞き返すギアに、トラップははっきりと言い切った。
「けどなっ、いずれ絶対俺のもんにしてみせる。俺はなあっ……」
ぎろりっ、と視線がこちらを向いた。思わずクレイの後ろに隠れてしまう。それくらい、強い視線。
そんなわたしを見て、トラップの表情が強張ったけれど。それでも、彼はきっぱりと言い切った。
「俺はなあ、パステルのことがずっとずっとずーっと好きだったんだ! ギア、おめえなんかよりも、ずーっと前からな! だあら渡さねえ。今は俺のもんじゃなくても、いつか絶対こいつは俺のもんにしてみせる!」
……思考がとぶ、というのは、きっとこういうときのことを言うんだと思う。
なっ、なっ、なっ……
「……それは、パステルも了解しているのか?」
「いいや」
「だったら、それをお前が決め付けるのは筋違いじゃないのか? パステルの意思は、どうなる?」
「へっ。だったら、聞いてみようじゃねえの」
妙に自信たっぷりな態度で言い放って、トラップはずかずかとこっちに歩み寄ってきた。
思わずクレイの服をぎゅーっと握り締めてしまったけれど。クレイは、そんなわたしの肩を抱いて、ひょいっ、とトラップに差し出した。
うっ、裏切り者ー!
「おいっ」
「ひっ」
ぐいっ、と腕をひっぱられて、思わず喉の奥で悲鳴が漏れる。
そんなわたしの態度は意に介さず、トラップは言った。
「おめえは、どっちを選ぶ?」
「どっち、って……」
「俺かギアか、どっちかを選べって言われたら、どっちを選ぶか、って聞いてんだ!」
「なっ……」
そ、そんなの。
返事をするまでもっ……
「言っとくがなあ!」
口を開きかけた途端、トラップは、それを遮るようにして叫んだ。
「冗談半分なんかじゃ、なかった」
「……え?」
「あのときおめえを抱こうとしたのは冗談なんかじゃなかった。ずっと好きだった。ずっとそうしたいと思ってて、おめえの寝顔見てたら我慢できなくなった」
「え……」
抱こうとした、という言葉に、クレイ達およびギアの顔に何とも形容しがたい表情が走ったのに気づいたけど。
言い訳する気にすら、ならなかった。
え、え、え……?
「冗談半分で、あんなことができるほど、俺だって軽い男じゃねえ。あんなことした相手はおめえだけだ。おめえが初めての女だ」
「だったらっ……何で、あんなこと、言ったのよ」
「おめえの迷惑になると思ったからだよ!!」
返事は即座に返って来た。
「俺の思いを告げたら、おめえの迷惑になると思った。あんな辛そうな顔されたら、そう思うしかなかった。欲望に負けてつっぱしって、おめえを泣かせた自分も許せなかった。だあら言えなかった。ずっと言わねえでおこうと思った。けどな!」
強い視線に射すくめられて、びくり、と震えが走った。
「それでおめえを失うことになるんなら、恥も外聞も見得もプライドも捨ててやる。それでおめえを取り戻せるんなら何度だって言ってやる。……好きだ。それで、おめえの返事は?」
トラップの顔は、大真面目で。
冗談でも何でもない、ということは、よーくわかった。認めざるをえなかった。
で、でもっ……
突然のことに、頭がパニックになっていた。
だって、だってどう言えばいいの?
トラップの言葉を聞いて。冗談じゃなかった。真面目だった。冗談にしたのはわたしのためを思ってのことだった。
それを知って、ふっと心が軽くなっている自分に気づいたから。
喜んでいる。トラップの言葉を、嬉しいと思っている自分がいる。
だ、だけどっ……だけど、今更っ……
そのときだった。
つかつかと、ギアがトラップに歩み寄っていった。
言葉は何も無い。その表情は、どこまでも無表情。
そのまま、彼はトラップの肩をつかんで。そして……
ガツンッ!!
拳を固めて、思いっきりその頬を殴りつけた。
トラップなら、受け止めるなり、避けるなりするのはたやすいことのはずなのに。彼は、そうはしなかった。
細いトラップの身体が一瞬振り回されたかのように見えた。それくらい、本気の……一撃。
「ギア!?」
思わず駆け寄ろうとしたけれど、クレイに腕をつかまれて止められてしまった。
ゆらり、とトラップが立ち上がる。その頬は、見事なまでに真っ青。
「パステルを泣かせた、その礼だ」
「随分と丁重な礼で」
ギアの言葉に、トラップはニヤリ、と笑ってみせた。
唇の端から流れてるのは……血?
だけど、彼はそれを拭おうともせず、言った。
「もう泣かせねえよ」
「当たり前だ。……パステル」
「は、はいっ!?」
急に声をかけられて、わたしがあたふたと返事をすると。
ギアは、ゆっくりと微笑を浮かべて、言った。
「俺のことなら、気にしなくてもいい」
「……へ?」
「大体、こうなることは予想していた。君の心にいるのが誰なのかは、気づいていたつもりだよ」
「え???」
わ、わたしの心? 誰、それ……?
思わず聞こうかとも思ったけど、さすがに思いとどまる。
じっくり考えれば、答えは案外簡単に出るような気もしたから。
「俺は、君の幸せだけを願っている。彼はやっと素直になったんだ。君も、少し素直になってみるといい……そうすれば、きっと全てはうまくいくだろうから」
「あの……」
ええと、それって。
それって、つまり……?
わたしが何を言うよりも早く。
ギアは、小さく手を振って、わたし達に背中を向けた。
段々と遠くなっていく背中。振り返ろうともしない。
つまり……
「わたし……もしかして、振られた?」
そう言うと、何故だか、クレイ達は「だああああああ」なんて言いながら頭を抱えて地面に座り込んだ。
な、何で!? だって、そういうことじゃないの?
ギアが行っちゃったってことは……結婚の話は、なかったことにしよう、ってことだよね?
ええと……
「パステル」
ぽん、とわたしの肩を叩いて、クレイは言った。
「もっと、ギアの言葉と、行動の意味をよく考えた方がいいよ」
「……へ?」
「トラップとギアが、少しばかり気の毒になりましたよ……」
「パステル。俺もちょっと、あんまりだと思う」
「へ? ええ?」
クレイ、キットン、ノルが口々に言う台詞の意味が、ちっともわからなくて。
えと、えと? ど、どういうことなの?
だけど、それに答えてくれる人は誰もいなかった。
クレイ達は、三人顔を見合わせて、それぞれの部屋へと戻ってしまって……
「ええっと……」
わたしは、どうすればいいんだろう……
ぼんやりと考えていると、後ろから、ぽん、と肩を叩かれた。
振り向くと、そこにただ一人残っていたのは……トラップ。
見事に腫れあがった頬が、何だかとっても痛々しい。
「トラップ……」
「焦るこたあ、ねーよ」
そう言って、彼は笑った。
全く、いつも通りの笑みで。
「おめえが鈍いことは、俺がよーくよーく知ってるからな」
「に、鈍いって……」
いや、鈍いかもしれない。クレイ達はみんなわかってるのに、当事者のわたしだけが、よくわかってないんだもん。鈍いって言われても、仕方ないよね。
はあっ、とため息をつくと、くいっ、と肩を引き寄せられた。
一気に身体が密着して……何だろう? 心臓が、一気にはねるのがわかった。
「トラップ……?」
「ごめん」
「え?」
「ごめん。焦ってごめん。おめえの気持ちを無視して、ごめん。謝るのが遅くなって、ごめん」
「あ、あの……」
意外だった。
トラップが、こんなに素直に謝る光景なんて、初めて見たかもしれない。
そうして、わたしがちょっとぼんやりしていると。
彼は、真っ赤になってつぶやいた。
「……許してくれっか?」
「え? あ、うん……」
反射的に頷く。
最初から、そうしてくれれば。
あのとき、変にごまかさずに素直に謝ってくれていれば……わたしだって……
「意地を張って、ごめん」
そう言うと。
トラップは、随分と優しい笑みを浮かべて、自分の頬を指差した。
「で。俺としちゃあ、できればこの怪我の手当てをして欲しいんだけど?」
「え? あ、ああ。そうだよね。痛そうだもんね……待ってて、キットンに、薬……」
「いや」
歩き出そうとしたところを、引き止められる。
トラップの目は、いつものいたずらっこみたいな光を浮かべていて。そして言った。
「キスしてくんねえ?」
「……はあ?」
「多分、俺にとっちゃ、おめえのキスが一番の薬になると思う」
「…………」
思い出される、さっきの絶叫告白。
……わたしは。
わたしの気持ちは、どうなんだろう?
まだよくわからない。すごく、頭の中がぐちゃぐちゃで。
そんなこと考えたこともなかったけれど。ううん、考えるのを避けていた、という方が、近いかも……?
だけど、とりあえず確かなこと。それは……
すっ、と唇を寄せる。トラップの頬は、随分と熱かった。
「……効いた?」
「ああ、すっげえよく効いた」
満面の笑みを浮かべるトラップに、わたしは言った。
「もうちょっとだけ、待っててね。多分、答えはすぐに出ると思うから」
色んな気持ちが嬉しかった。抱こうとしたのもキスしたのも、本気で好きだから、と言われたら、そんなに嫌じゃない、と思えた。
そして、今。わたしの方からキスをするのも、ちっとも嫌じゃなかった。
まだ、はっきりとはわからないけど。きっと、わたしは……
「待ってる」
トラップは、大きく頷いた。
「今までだって、ずーっと待ってたかんな。別に、後ちょっとくらい待ったって、俺の気持ちは変わりゃしねえよ」
「……ありがと」
とりあえず、いつものわたし達に戻れた。
それだけで、よしとしよう。
それより先に進むのは、もうちょっとだけ、後になってからでいい。
トラップと肩を並べて。わたしは、みすず旅館の入り口をくぐった。