「うーん……」 
 わたしの前には、二枚のチケットがある。 
 コーベニアにある一流ホテルの宿泊券、豪華お食事つきのペアチケット。 
「ううーん……」 
 普通に考えたら、わたし達の経済状況では絶対に泊まれないような豪華ホテル。一度泊まってみたい、 
と思うし、海の幸をふんだんに使った自慢の料理! にもすごくすごく心惹かれる。 
「うーん、うーん……」 
「パステル、さっきからどうしたんだ?」 
「あ、クレイ……」 
 わたしがうなっていると、ひょい、と顔を覗かせてきたのは、我がパーティーのリーダー、クレイ。 
「うん。ちょっと困っちゃって……」 
「どうしたんだ? 俺でよかったら相談に乗るけど」 
 うう、ありがとうね、クレイ。 
 わたしがこんなチケットを手に入れたのは、本当にただの偶然だった。 
  
「おめでとうっ! 大当たり〜」 
「えええ!?」 
 時間をほんのちょっと戻して、今日の昼過ぎのこと。 
 わたしは、ちょっとした買い物に出かけていた。 
 珍しいことに、この日一緒に行ってくれたのはトラップ。 
「おめえ一人だと、まーた迷子になりそうだしなー」 
「しっつれいね! いくら何でも、シルバーリーブでは……」 
 迷わない、と言い切れないのが、わたしの悲しいところだった。 
 いつもなら、こういうときはクレイが行ってくれるんだけど。わたしが出かける前に、ルーミィとシ 
ロちゃんを連れて散歩に出かけてたんだよね。 
 ノルとキットンは、裏で宿のおかみさんに頼まれて大工仕事をしてたし。 
 結構買うものもたくさんあるし。断られることを覚悟してトラップに頼んでみたら、意外や意外、 
あっさりとOKしてくれた、というわけなんだけど。 
 とにかく、そんなわけで、わたしとトラップは二人で買い物をしていた。 
 そうしたら、行く先々で、「くじびき補助券」をもらえたんだよね。 
「今日はね、シルバーリーブができて、ちょうど100周年になる日なんだよ」 
 雑貨屋のおばさんがにこにこしながら話してくれたところによると、今日はシルバーリーブ全体をあ 
げて色々なイベントを計画していて、その一つがくじびきなんだそうな。 
 もらった補助券をぜーんぶ合わせたら、ちょうど一回引けるだけたまったので、まあ「タオルでも当 
たればいいかな?」って思いながら引きにいってみると。 
 ななななーんと! 一等の豪華コーベニアペア宿泊券を手に入れてしまった! というわけなのだった。 
「へー。おめえにしては、上出来じゃん」 
 とは、トラップの言葉だけど。 
 うーん、でもねえ…… 
 はああ、とため息。 
「あんだよ。嬉しくねえのか?」 
「ううん、そりゃ、嬉しいけど。でも、ペアでしょ?」 
 これが、パーティー全員分なら、もう迷わず大喜びしたと思うけど…… 
「二人分だけもらっても、ねえ」 
 そう言うと、何故だかトラップはとっても不機嫌そうな顔で「けっ」とか言いながら一人でさっさと 
帰っちゃったんだけど。 
 とにかく、わたしが困っているのはそういうことで…… 
 で、冒頭につながる、ということなのだ。 
  
「ねえ、クレイ。どうしよう。こんな豪華ホテル、後四人分の宿泊料なんて絶対出せないと思うし…… 
もったいないけど、誰かにあげちゃうか……換金してこようかなあ」 
「パステル……それは、ちょっと」 
 わたしの意見に、クレイは苦笑いを浮かべて言った。 
「いいじゃないか。くじをひいたのはパステルなんだろ? パステルは、行きたくないの?」 
「ううん、そりゃ、行きたいけど」 
 そりゃあ、本音を言わせてもらえばすっごくすっごく行きたい。 
 コーベニアだから、海で泳ぐこともできるし。一流ホテルのベッドなんて、きっとすっごく寝心地が 
いいだろうし。 
 だけど、わたし……と一緒に行く誰か? だけ、そんな贅沢しちゃっていいのかなあ、って気分にもなる。 
「第一、一緒に行く相手がねえ。これ、期間が限定されちゃってるから。みんな忙しいだろうし」 
 そう。もう一つの問題として、この宿泊券、いつでも使える! ってわけじゃないみたいで。 
 使えるのは、限定一日。どうやら、この日にコーベニアで何かイベントがあるみたいで、正確に言え 
ばイベント宿泊券なんだよね。 
 どんなイベントか詳しくは書いてないけど、それにもすっごく興味がある。 
 だけどねえ……この日程、結構差し迫ってて…… 
 わたしは多分大丈夫。原稿も受けてないし、今のところ何とかなると思うけど…… 
「クレイはこの日どう?」 
「どれどれ……? あー、俺は駄目だな。バイトがある。もっとも、俺とパステルが出かけたら、後が 
怖いから無理だろうけど」 
「ああ、それは確かに」 
 考えただけで恐ろしい! 帰ってきたときには、財布の中が空っぽになってるんじゃないだろうか? 
 トラップを止められるのは、わたしかクレイしかいないもんね。 
「うーん……」 
「でも、行きたいんだろ?」 
「うん……」 
 行きたくなかったら、こんなに悩んでない。 
 そう言うと、クレイは笑って言った。 
「ルーミィとシロとで行って来たら? シロなら、券がなくても泊まれるんじゃないかな」 
「え……うん、でも、いいの?」 
「いいっていいって」 
 そう言って、クレイは優しく肩を叩いてくれた。 
「パステルだって、いつもいつも原稿に追われて大変みたいだし。たまには羽を伸ばしてきたらいいよ」 
 ううっ、ありがとう。ありがとうね、クレイ! 
 よーし! ルーミィとシロちゃんとわたしだけで出かけられるなんて、滅多に無い機会だもんね。 
 ぱーっと遊ぶぞお! 
  
 夕食のとき、その話をすると、ルーミィもシロちゃんも大喜びしてくれた。 
 ノルもキットンも、にこにこして「よかったですねえ」「楽しんでおいで」って言ってくれたしね。 
 ただ一人、トラップだけが「頼りねえ組み合わせだな。迷うなよ」なーんて可愛くないこと言ってたけど。 
 その表情が、相変わらず不機嫌だったのは……何でなんだろ? 
 ああ、もしかして、買い物に付き合ってもらったのに、お礼を言わなかったからかな? 
 だけど、あれはトラップが一人でさっさと帰っちゃうから言いそびれただけだし…… 
 うーん。わかんない……けど、まあいっか。 
 コーベニアで何かお土産でも買ってきたら、きっと機嫌も直してもらえるでしょう! 
 ふふっ、海かあ。水着の用意、しなくちゃね! 
  
 そうして数日間、わたしはわくわくしながらその日を待っていたんだけど。 
 事情が突然変わったのは、出発前日のことだった。 
「ルーミィ、明日は朝早いから、そろそろ寝ようね」 
 夕食の後、わたしはそう声をかけたんだけど。 
 何故か、いつもの元気な返事は、返ってこなかった。 
「ルーミィ?」 
「ぱーるぅ……なんか、暑いおう……」 
「え?」 
 いつもの猪鹿亭で。隣の席に座っていたルーミィは、真っ赤な顔をして言った。 
「ルーミィ!?」 
 いつもはぱっちり開いたブルーアイが、何だかとろんとしている。 
 つやつやほっぺが、りんごみたいに真っ赤。 
 ま、まさか!? 
「どうした?」 
「ルーミィ、熱があるみたい!」 
 その小さな額に手をあててみると、すっごく熱い。 
 嘘、こんなになるまで気づかなかったなんて…… 
「ルーミィ! ルーミィ大丈夫!?」 
「あーパステル、ちょっとどいてください」 
 わたしがほとんどパニックになっていると、キットンがわたしを押しのけてルーミィを抱き上げた。 
 口の中を覗いたり、額に手を当てたりしてふんふんと頷いていたんだけど、もうその間、わたしは気 
が気じゃなくって! 
「キットン! ルーミィは、ルーミィは大丈夫!?」 
「ああー安心してください。ただの風邪ですよ。子供は熱が上がりやすいですからね。私の薬を飲んで 
2〜3日安静にしていれば、すぐに良くなるでしょう」 
 そう言って、キットンはぎゃっはっはと笑った。 
 もー! 何がおかしいのよっ! 
「ごめんね、ルーミィ、気づかなくて。すぐに宿に戻ろうね!」 
 そうして、わたし達は慌ててみすず旅館に戻って。 
 キットン特製の薬を飲ませたり氷水を用意したりと大騒ぎだったんだけど。どうにかこうにか、熱も 
少し下がって、おとなしく寝付いてくれた。 
「ルーミィしゃん、大丈夫デシか?」 
 そう言って、シロちゃんが枕元で診ててくれることになったんだけど。 
 はーっ、と一息ついたところで、わたしは重大なことを思い出した。 
 つまり……明日のコーベニア行きを、どうするか。 
「チケットは、明日しか使えないんですよね?」 
 男部屋の方に集まって相談すると、真っ先に口を開いたのはキットンだった。 
「うん。何だか、この日にイベントがあるみたいで……使えるのは一日だけなの」 
「そうですか。ルーミィは、無理でしょうねえ。熱が下がったとしても、数日は安静にした方がいいで 
しょうし」 
「当たり前よ! わたしだって……ルーミィの看病しなきゃいけないし」 
 すごく、すごく残念だけど。しょうがないよね、ルーミィの方が大事だもん。 
「だから……残念だけど、チケットは諦める。それとも、誰か使う?」 
 そう言うと、部屋にいたクレイ、トラップ、キットンは、そろって目を見合わせた。 
「行って来たらいいよ、パステル」 
 そう言ったのは、クレイだった。 
「そうですよ。くじを当てたのはパステルなんでしょう? この機会を除いたら、我々がこんな一流ホ 
テルに泊まれることなんてまず無いと思いますよ」 
 きっぱりとそう言い切ったのはキットン。ううう、その通りだと思うけどね。ちょっと情けない…… 
「だって、ルーミィが……」 
「数日くらい、私が診てますよ。どうせ私は薬草の実験がしたかったので、宿にずっといますし」 
「でも……これ、ペアチケットだし」 
 一人で使っちゃいけない、ってことはないんだろうけど。 
 そもそも、一人で行ったって寂しいだけだし…… 
 すると、クレイが、ただ一人黙りこくっていたトラップの方を振り向いた。 
「トラップ。お前は、今バイトしてなかったよな?」 
「あ? あ、ああ」 
 その言葉に頷くトラップ。 
 何だろ? 何だかちょっとうろたえてるような…… 
「じゃあ、お前とパステルで行ってこいよ。お前なら、パステルが道に迷ってもすぐに見つけられるだろ?」 
「ど、どーして迷うことが前提になってるのっ!?」 
 あんまりな言われようにわたしが声をあげると、男三人は一斉に「だって、パステルだし」なーんて 
言ってきた。 
 くっ、悔しいっ……もっと悔しいのはそれを否定できないところだけどっ…… 
 それにしても。 
「俺があ?」 
「よく考えたら、パステルと買い物に行ったのお前だろ? お前にだってチケットの権利はあるんじゃ 
ないのか?」 
 その言葉に、わたしは何だか目からうろこが落ちた気分。 
 あ、そーだね。言われてみれば、そうだ。 
 もしかして、トラップが不機嫌だったのってそれ? わたしがすっかり自分だけのものみたいに考え 
てたから? 
 うわっ、悪いことしちゃったなあ。後で謝ろう。 
「どうだ?」 
 クレイの言葉に、トラップはちらっとわたしを見てきたけど。 
 まあ、そうだね。確かに、ルーミィと行くよりは、トラップの方が安心できる。 
 それに、クレイはバイトだし。キットンは薬草の実験が〜なんて言ってていまいち不安だから、ノル 
にルーミィの世話を頼みたいし。 
 そう考えたら、トラップしかいないよね。 
「行こうか?」 
 そう言うと、トラップはちょっとだけ黙った後、「しゃーねえな。行ってやるよ」なーんて相変わら 
ずの素直じゃない言い方でOKしてくれた。 
 ふーんだ。見逃さなかったもんね。その顔がすんごく嬉しそうだったの。 
 コーベニアに行きたかったのかな? そりゃそうだよね。すっごく楽しそうだもん。 
「じゃあ……ごめんね、クレイ、キットン。後のことは、よろしくね。お土産買ってくるから」 
 そう言うと、二人は快く頷いてくれた。 
 ごめんねー、ルーミィ。 
 またいつか、絶対に行こうね! 
 そのときは、こんな一流ホテルには泊まれないだろうけど…… 
  
 乗り合い馬車に揺られること数日。 
 コーベニアの街は、相変わらずにぎやかだった。 
「うわっ……いい天気ー!!」 
 コーベニアはすっかり夏。海はすっごく綺麗だったし、通りを並ぶお店では、冷たいジュースや果物 
がたくさん売られていた。 
「トラップ、海! 泳ぎに行こっ!」 
「おめえ、浮かれてんなあ……」 
 そう言い返してきたのは、今回の連れ、トラップ。 
 よく考えたら、二人だけで一泊旅行なんて初めてかもしれない。 
 うっ、そう考えたら、ちょっと緊張…… 
 ちらっ、とその姿に目をやると、トラップはぼけーっ、と海を眺めていた。 
 その視線が追っているのは…… 
 ……コーベニアに行きたかったのって、まさかこれが見たかったから、じゃないでしょうね? 
 きわどい水着を身に着けて砂浜できゃあきゃあ遊んでいる綺麗な女の人達。悔しいけれど、皆さんす 
っごく美人でスタイルもいい。 
 ……何だろ。何かすっごく悔しくなってきた。 
「トラップ! ほらー、もう行くよ!」 
「わあった、わあった」 
 ぐいっ、と腕をひっぱると、彼はいかにも仕方なさそうに視線をそらしたけれど。その表情はすんご 
く嬉しそう。 
 ……別にいいもんね。トラップが何を見てようと、わたしには関係ないもん。 
「えっと、まずはホテルに行こう! そこで着替えてから海に行って、その後、イベントを楽しんで 
……そういえば、イベントって何かなあ」 
「さあ。夜になりゃわかるだろ? んじゃ、行くか」 
 ひょいっ、とわたしの鞄を持ち上げて、トラップは歩き出した。 
 ……およよ? 珍しく優しいじゃん。 
「雨でも降るんじゃないかなあ……」 
「ああ? どーいう意味だよ。勘違いすんなよ? おめえに財布もたせたら、またすられそうだからな」 
 きーっ! な、何よその言い方っ! 
 た、確かにエベリンで一回そういうことがあったけどっ…… 
「し、しっつれいね! そんなことないもん!」 
「ああ? んじゃー、ホテルまで一人で行けるか?」 
 言われてぐっ、と詰まってしまう。 
 そんなわたしを見て、トラップはへらへら笑いながら一人でさっさか歩いていってしまった。 
 ま、待ってよー!! 
  
 一流ホテル、の名にふさわしく。たどり着いたのはすんごく豪華で大きな建物だった。 
 案内された部屋も、眺めはいいし、ベッドはふかふかだし、広いし。 
 もう最高! だったんだけど…… 
「ひ、一部屋!?」 
「はい。このチケットは、ツイン一部屋の宿泊券になりますので」 
 ボーイさんが案内してくれたのは、ベッドが二つならんだ部屋。 
 つまり……わたしとトラップは、同室? 
「ま、そりゃーな。常識で考えりゃそうだろ。ペア宿泊券なんだから」 
 なんて言って、トラップは驚いた様子も無かったんだけど。 
 うーっ、そ、そりゃそうだけど。別に、トラップと同じ部屋で寝るなんて珍しくもないけど。 
 二人だけ……なんだよ? 今日は。 
 な、何だろう。何だか……ドキドキする。 
「では、ご用があったらお呼びください」 
 なんて言いながら、ボーイさんは部屋を出て行って、わたしとトラップ二人だけになる。 
 そうすると、そのドキドキはますます大きくなって…… 
「パステル? おめえ、何か顔赤いぞ」 
 どきんっ!! 
 突然顔を覗き込まれて、心臓が痛いくらいにはねた。 
「まさか、ここまで来てルーミィの風邪がうつった、とか言わねえだろうな?」 
「そ、それはないっ、大丈夫。平気、平気 
「そっか。ならいーけど。泳ぎに行くんじゃねえの?」 
「行く! 行くわよもちろんっ!」 
 ふ、深く考えるのはやめよう。たった一日だし。 
 そうそう。せっかく来たんだもん。楽しまなくちゃ! 
「じゃ、着替えるから部屋出てって」 
「……ったく。誰も見ねえっつーの。そんなどこが胸だか背中だかわかんねえ身体なんか」 
 失礼なことをのたまうトラップに枕を投げつける。 
 そ、そりゃあ、あんたがさっき見とれてた女の人達ほど、綺麗でもスタイル良くもないですけどねえ!? 
 そんなこと、トラップには関係ないでしょ!! 
  
 海なんて滅多に来れないところ。 
 以前コーベニアに来たときだって、目的はクエストだから、のんびり泳いでる暇なんて無かった。 
 だからこそ、今日はゆっくり楽しむぞー! 
「うわーっ! 綺麗っ! 風が気持ちいいっ!」 
 心地よい潮風の中、うーんとのびをすると、すっごい開放感に包まれた。 
 あー、ルーミィも連れてきてあげたかったなあ。 
「おめえ、泳げるんだろうな? 頼むから海の中で迷うなよ」 
「お、泳げるわよっ! しっつれいねー!」 
 確かに、得意な方とは言えないけど…… 
 わたしが着てるのは、この日のためにちょっと奮発して買った(もっとも、古着だけどね)、ワンピ 
ースタイプの水着。 
 色はヒマワリ色で、派手にならない程度にさりげなく飾られたフリルがすっごく可愛いんだ! 
 トラップは、トランクスタイプというのか。やや大きめの緑の水着姿。 
 当たり前だけど、上半身は裸で……見たことないわけじゃないけど、こういう格好すると、細身に見 
えて筋肉はしっかりついてることがわかる。 
 ……不覚にも一瞬見とれてしまった。ええい、何考えてるのよわたしってば! 相手はトラップなの 
よ、トラップ! 
「うわっ、冷たいっ!」 
 照れ隠しにだーっ、と水辺につっこんでいって、思わず悲鳴をあげる。 
 コーベニアは夏の気候だったけど、海の水はちょっと冷ため。まあ、シルバーリーブでは秋だったも 
んね。当たり前なんだけど。 
「ほらー! トラップも早く早く!」 
「へえへえ。んなはしゃぐなよなあ。ガキかおめえは」 
 何よー! いいじゃない、楽しいんだからっ! 
 そんなこんなで、わたしとトラップは海をたーっぷり堪能することにした。 
 海ってね、何でだろう? すごく泳ぎやすい。 
 危ないからあんまり深いところまでは行けないんだけど、ただぷかぷか浮いてるだけでも、何だかす 
ごーくほわんとした気分になれて。本当にいい気持ちなんだ! 
 ふう。本当に……ルーミィに見せてあげたかったなあ…… 
 そうしてしばらく泳いでいたときのことだった。 
「ねえ、あなた一人?」 
 かけられた声にふっと振り向くと、到着したときにも見た、きわどい水着のとっても綺麗な女の人達 
が数人、にこにこしながら話しかけていた。 
 わたしじゃなくて、その傍を泳いでいたトラップに。 
「いんや。一応連れがいるけど」 
「あら、可愛い。妹さん?」 
 トラップがわたしを指差すと、女の人達は笑みを崩さず……ただし、目に冷たい光を浮かべてわたし 
を見てきた。 
 こっ、これはもしや逆ナンパ……という奴!? 
 実は、気づいてはいたんだけどね。さっきから、色んな女の人達がトラップにちらちら目をやってたの。 
 まあねえ……こうして見ると、トラップはやっぱりかっこいいもんね。スタイルいいし、顔立ちも端正だし。 
「いんや、違うけどな。まー子守っつー点では似たようなもんかな」 
「まあ、大変。じゃあ、あたし達のお誘いなんてお邪魔だったかしら?」 
 そんなわたしのことなんか無視して、皆さんの会話は続く。 
 こっ、子守ってあーたねえ!? 
 思わず文句を言いたくなったけど。トラップのすっごく意地悪そうな微笑と、女の人達の何だかすっ 
ごくバカにしたような目に、むかむかと腹が立ってきた。 
 大体、女の人達だって、わたしがトラップの妹だ、なんて本気で思ってはいなかったと思うんだよね。 
 だって全然似てないじゃない。髪の色も目の色も違うし。 
 その表情は雄弁に、「こんなお子様よりあたし達の方がいい女よ?」みたいなオーラを漂わせていて 
……そして確かにそれはそうだと思えるだけに……余計に悔しかった。 
 ふんだ、いいもんね、別に。トラップなんかにお守りしてもらわなくたって。 
 彼だって、綺麗な女の人と遊べる方が楽しいでしょうよ! 
「いいわよ、トラップ。せっかく誘ってもらったんだから、遊んできたら?」 
 わたしがそう言うと、トラップはぽかんとして、女の人達は「ほらー! 彼女もああ言ってることだ 
し!」なんて言いながら、彼の腕をぐいぐいとひっぱっている。 
 ……勝手にすればいいんだから! 海からホテルまではすぐそこだし、いくらわたしでも一人で帰れる。 
「じゃあね。あんまり遅くならないようにね」 
「お、おい、パステル!」 
 後ろからトラップのすごーく焦ったような声が聞こえてきたけど。 
 ふん、知らないもんね! 
 背後を振り返らないようにして、わたしは泳ぎ始めた。 
  
 あんなに腹が立ったのは、何でかなあ、と思う。 
 ちょっとむきになっていたかも? とも思う。 
 でも、むかむかしてきたんだから……しょうがない。 
 ぷかぷかと背泳ぎの形で(浮いてるだけだけど)空を見上げながら、わたしはぼんやりとそんなこと 
を考えていた。 
 そういえば、ホテルの部屋でだってそう。何だか、二人だけ、ってことを妙に意識してしまっていた。 
 ……変だよねえ。ああ、もしかしたら、本当にルーミィの風邪がうつったのかも? 
 それで胸がドキドキしてるのを、勘違いしてるだけなのかも? 
 そうだよね。そうに決まってる。 
 そうとわかったら、ちょっと気が楽になってきた。 
 ざぶん、と一度水中に沈んで、ゆっくりと泳ぎ始める。 
 気が付けば、流れに身をまかせてるうちに随分岸から離れちゃってたもんね。 
 これ以上遠くに行っちゃうとちょっと怖い。もう足もつかなくなってるし。 
 早く戻ろう、とわたしが水をかきはじめたときだった。 
 ぐいっ 
「きゃっ!?」 
 さばんっ!! 
 突然何かに足をひっぱられて、わたしの身体は水中に沈んだ。 
 息ができなくて、頭の中が真っ白になる。 
 な、何!? 何なのっ!? 
 めちゃくちゃに手足を振り回したけど、足にからみついた何か……違う、これ、人の手!? とにか 
く、つかんできた何かは全然離れる気配もなく。 
 そのまま、わたしはすごいスピードで水中をひっぱられた。 
 くっ、苦しいっ!!? 
 とっさのことに水を思いっきり飲み込んでしまう。その塩辛さが喉にしみて、涙が溢れてきた。 
 息が……続かないっ!? 
 段々気が遠くなってきた。見上げると、空がやけに遠く見える。 
 このまま……死んじゃうの? 
 苦しくて痛くて、もう何も考えられなくて。ただそんなことをぼんやりと思う。 
 そう思った瞬間頭をよぎったのは、「嫌だ」「もっと生きたい」という思い。 
 だけど、もう身体に力が入らなかった。 
 トラップ…… 
 ……助けてっ!! 
 最後に思ったのは、その一言だった。 
  
 ……ざばあっ!! 
 意識が完全に沈む寸前だった。 
 突然、身体に誰かの腕がまわったかと思うと、わたしはすごい勢いでひきあげられていた。 
「……げほっ!! うっ、ううっ……」 
「おい! 息をしろ、息!!」 
 ばんばんと、乱暴に頬を叩かれる。 
 痛いっ……もっと、優しく…… 
 文句を言おうとして、口の中にもう水が入ってこないことに気づいて、大きく息を吸い込む。 
 潮の匂いのする空気が、とても美味しかった。 
 ……助かった!? 
「うっ、ごほごほっ……と、とらっぷ……」 
「おい、何かあったんか!?」 
 わたしを抱きかかえているのは、見慣れた赤毛の盗賊、トラップ。 
 何で……ここにっ……? 
「とらっぷ……」 
「あんだよ」 
「さ、さっきの人達は……?」 
 ぜいぜいと苦しい息の下で言うと、トラップの顔が一気に変わった。 
 心配そうな表情から、不機嫌な表情へと。 
「おめえ……こんなときに何つまんねえこと言ってやがる。それより、言うことはねえのかよ、何か」 
「え……? あ、あ、……りがとう」 
 涙と鼻水が止まらなくて、うまく言葉にならない。 
 声を振り絞って言うと、「けっ、わかりゃいいんだよ」と言いながら、トラップはゆっくりと泳ぎ始めた。 
 助けに……来てくれた? 
 わたしが、何かにひっぱられたことに……溺れかけてたことに、気づいてくれたの? 
 何で……見てた? わたしのことを見てたの? 
 まさか。ただの偶然に、決まってるよね…… 
「ちっ、やけに遠くまで来たな……おい、あっこで一回休むぞ」 
 トラップの言葉に、ちょっとだけ冷静になって周りを見回す。 
 そしてぞっとした。 
 だってだって……いつの間にか、岸がもうかすんで見えないようなところに来てたのよ!? 
 こ、こんなところまでひきずられたのっ!? 
 トラップが指差しているのは、一見小さな島? と思うような大きな岩だった。 
 海の中から突き出すようにして出ているその岩は、何だかおあつらえ向きに中が洞窟のように空洞に 
なっていて、水面よりちょっと上に穴が開いている。 
 そこからよじ登ると、中には水もなく、陽が遮られているせいかひんやりと涼しかった。 
「何……ここ……」 
「天然の洞窟だろー? こんなとこまで泳ぎに来る奴は滅多にいねえだろうからな。もしかしたら、俺 
らが最初の発見者かもしれねえな」 
 そんなことを言いながら、トラップは壁にもたれかかった。 
 その息は、かなり荒い。 
 ああ、そうだよね。トラップだって疲れてるはずだよ。わたしを追ってここまで自力で泳いできてく 
れたんだろうから…… 
「んで、何があったんだ?」 
 二回目の質問には、素直に答えることができた。 
 もっとも、わたしにもよくわからない、としか言いようがないんだけど。 
「泳いでたら……何かに足をつかまれて、ひっぱられたの。気が付いたら……」 
「足?」 
 ふっとトラップの視線が、下に下がった。そして、顔が強張った。 
 その視線を追って……わたしも息を呑んだ。 
 だってだって! ちょうどつかまれた……と思った部分に、真っ赤な手の痕がべっとりとこびりつい 
てたのよ!? 
「や、やだやだっ! 何これっ!? とって、とってとってとってー!!」 
「お、落ち着けって!!」 
 慌ててがしがしっと手でこすったけど。何がついてるのか、それは全然落ちなくて…… 
 気持ち悪い。まさか……血!? 
「や、やだっ……何よ、何なのよこれえ……」 
「…………」 
 もうほとんど半泣きなわたしには構わず、トラップは、厳しい目でわたしの足首を見つめている。 
 何か、得体の知れないモンスターでもいるのかも? そう思うと心底ぞっとした。 
 海中に危険なモンスターがいるかもしれない……それって、うかつに海の中に入れないじゃない!? 
も、戻れないっ!? 
「トラップ……」 
「……キットンの奴がいりゃあな。何なのかわかったかもしんねえけど」 
 そう言いながら、トラップはわたしの足首をつかんだりさすったりしてたけど、やがて頷いた。 
「痣じゃねえか? 多分、すげえ力でつかまれて、内出血してるんじゃねえか……モンスターじゃねえ 
だろ。手の形にばっちり残ってるし。誰かの性質の悪いいたずら……じゃねえかな」 
「い、いたずらって」 
 まさか。 
 一瞬疑惑の目でトラップを見てしまって、ぽかりと殴られた。 
 じょ、冗談だってば…… 
「いくら俺でもなあ! こんな性質の悪いいたずらするかよ!? おめえ、相当危ないとこだったんだぞ!?」 
「ご、ごめんってば」 
 確かにね。トラップって意地は悪いけど、こんな洒落にならないいたずらをするような人じゃないもん。 
それくらいの分別はあるはず。 
 だとしたら、一体……? 
 うーん、と二人で頭を抱えたときだった。 
 ふっと、トラップが顔を上げた。 
「どうしたの?」 
「……奥から、何か聞こえた」 
「え?」 
 奥。この洞窟の……奥? 
 さっきも言ったけど、この岩はかなり大きくて、洞窟もかなり奥行きがありそうだった。 
 ただ、その奥は真っ暗で、ポタカンも無いから光が届く入り口付近にずっと座ってたんだけど…… 
「トラップ……?」 
「……行ってみっか」 
「嘘ー!?」 
 や、やめとこうよ。もしかしたら本当にモンスターか何かかもしれないじゃない? 
 そう言うと、「いたずらした犯人かもな」と言い返されたけど。 
 それはそれで……あんな洒落にならないいたずらをするような人だよ? もしかしたら、海賊かもし 
れないじゃない!? 
「ばあか。海賊だったら普通船で移動するだろ? とにかく、海に変なもんがいるとしたら、おちおち 
潜れねえだろうが。俺達は冒険者じゃねえの?」 
「うっ……そりゃ、そうだけど」 
「ほれ。そうとわかったら、行くぞ」 
 そう言って、強引にわたしの手をつかんでずんずんと奥に向かって歩き始める。 
 だっ、だけどっ…… 
 わたし達っ……今、武器も持ってないんだよー!? 
  
 洞窟の奥に行くにしたがって、どんどん光が届かなくなり、しまいには傍にいるはずのトラップの顔 
すら見えなくなってしまった。 
 それが不安でたまらなくて、思わずぎゅっと腕にすがってしまう。 
 真の闇……って、きっとこういうことを言うんだと思う。本当に、1メートルどころか1センチ先だ 
って見えないんじゃないかっていうくらいの、闇。 
「足元……気ぃつけろよ」 
 耳元で囁かれるトラップの声も、心なしか緊張してるみたいだった。 
 ねえ……やっぱり、引き返さない? 
 何度も何度もそう言おうとして、そのたびに、「冒険者だろ?」って言葉が耳をよぎって口をつぐむ。 
 そんなことを、何回繰り返しただろう? 
 不意に、目の前に、光が見えたのは…… 
「トラップっ!?」 
 その光にぼんやりと照らされる顔を見て、思わず安堵してしまう。 
 腕につかまっていたから。いるはずだ、とわかってはいたんだけど。 
 それでも、顔を見るまでは不安だった。……よかったあ。 
 それにしても、この光、何? ヒカリゴケ……? 
「トラップ……」 
「何か……ある」 
 ごくん、と息を呑む音が聞こえた。 
 トラップの視線の先にあったもの。それは……何だろう? 
 丸い石だった。本当に綺麗な、丸い石。それが、いくつもいくつも積み上げられていている。そんな 
石の集まり。 
 光を発しているのは、その石みたいだった。一つ一つがぼんやりと光っていて、それが集まって結構 
な明るさになっている。 
「何……これ?」 
 それに手を伸ばしたのは、光が欲しい、という純粋な欲求。 
 いかにも意味ありげなそれらに不用意に手を出したのは、我ながらうかつだった、としか言いようがない。 
 だけど、それは全て後になって思ったことで、そのときのわたしは、まるで何かにひっぱられるかの 
ように、石に手を伸ばしていて…… 
「おい。触らねえほうがいいんじゃねえ?」 
 トラップの警告は遅かった。そう言われたときには、わたしはもう、がしっ、と石をつかんでいて…… 
 その瞬間、襲ってきた気持ちは……一体何なんだろう? 
「うっ……」 
「おい、パステル……おい、どうした?」 
 トラップの声が、やけに遠くに聞こえる。 
 彼の手が、わたしの手から石を奪い取るのがわかったけれど…… 
 だ、駄目。それに触っちゃ…… 
 触れた瞬間、トラップの目から、意思が飛んだのがわかった。わたしと、全く同じ感覚に襲われたんだと思う。 
 何かが……頭の中に入り込んできた。 
 すごく、すごく強い、誰かの思い。 
 目の前がぼやけてきて、それなのに、トラップの姿だけはやけにはっきり見えた。 
 身体が……熱いっ…… 
 変だった。何も考えられなかった。わたしがそれまで考えていたこととか、気持ちとか、とにかくそ 
ういったものが全部どこかに追いやられてしまって。 
 最後に残ったのは、とても、とても純粋な……強い欲求。 
 トラップが……欲しいっ…… 
 肩をつかまれた。迫ってきたのは、やけにぎらついた、明るい茶色の瞳。 
 それはいつものトラップの目じゃなかった。絶対に違った。それでも、目の前にいるのはトラップに 
は違いなくて…… 
 唇を塞がれた。口内にもぐりこんできたのは、熱い舌…… 
 わたしはそれをちっとも嫌だと思えなくて、むしろ積極的に求めてさえいた。 
 しばらくものも言わず、お互いをむさぼりあうようにキスを交わす。 
 背中に、硬い感触があたった。 
 押し倒されたんだ、ということに気づくまでに、しばらくかかった。 
「やっ……」 
 ぐいっ、と水着の肩紐が、乱暴に外された。むき出しにされた胸に、トラップの唇が吸い付いてくる 
のがわかった。 
 ああ……何……何、だろう……この感覚…… 
 気持ち、いいっ…… 
「あっ……あ、やあんっ……」 
 舌が身体を這い回る。ずるりと水着が、お腹のあたりまで引きずりおろされた。 
「あっ……」 
 ぐっ、と彼の背中に手をまわす。しなやかな筋肉が、躍動しているのがわかった。 
 ぎゅうっ、と力をこめる。 
 もっとトラップを感じていたかった。もっと、彼が……欲しかった。 
 トラップの手つきは性急で、それでいて痛いとかそういうことは全然なかった。 
 肩や首筋に赤い痣を残しながら、唇が全身をはいまわり、同時に手が、わたしの脚を割り開いた。 
 水着を脱がせる時間も惜しい。 
 耳元で囁かれたのは、そんなような意味のこと。 
 細い指先が、水着をかきわけるようにして、わたしの中にもぐりこんできた。 
「やあああっ!!」 
 びくんっ、と背筋がのけぞった。 
 自分でもわかった。そこは、既にトラップを受け入れる準備が整っていて……水着を汚すくらいに、 
中から何かがあふれ出ているって。 
 ぐちゅっ、ぐじゅっ……と、指が動くたびに、ひどく恥ずかしい音が響き渡った。 
 それが余計にわたしの心を煽る。早く来て欲しい、本気でそう思った。 
「入れて……」 
 口をついて出たのは、自分でも意味がよくわからない言葉。 
「早く、入れて、トラップ……あなたが、欲しいっ……」 
「パステルっ……」 
 水着の隙間から、無理やり何かがこじいれられるのがわかった。 
 貫く瞬間に、鋭い痛みが走るのもわかった。 
 だけど、その痛みは痛みじゃない。それは、後に走る快感を煽るだけのもの。 
「ああああああああああああ!!」 
 びりびりっ、と全身を走った快感に、わたしは悲鳴のようなあえぎ声を漏らしていた。 
 もう、何も考えられない。 
 ただ、あなただけが……欲しいっ…… 
 激しい動きに、身体が振り回された。岩に背中がこすれて、微かな痛みが走る。 
 それも気にならなかった。ただわたしとトラップは、言葉もなくその行為に没頭し続けていた。 
 より深く彼を受け入れたその瞬間、わたしは目の前が真っ白にはじけとぶような錯覚に襲われたけれど。 
 それでも、彼の首に腕をまわし、その唇をふさいでいたのは……最後の悪あがきのようなもの、だっ 
たかもしれない。 
  
 コロン…… 
 小さな音に、ハッと我に返った。 
 同時に、トラップの目に、意思の光が戻ってきた。 
 中途半端に繋がった状態。わたしの腕はトラップの首にかじりついていて、トラップの……その、ソ 
レは、わたしの…… 
「……あっ……」 
 瞬時に、羞恥で顔が赤く染まるのがわかった。 
 なっ……何だったの……? 
 今のは、今までのは……一体何だったの!? 
「あっ、あっ、あ……」 
「…………」 
 気まずそうな顔をして、トラップはわたしから視線をそらした。ついで、身体を離す。 
 微かに響いた音は、積み上げられた石が崩れた音なんだ、と。そんなどうでもいいことに気づいていた。 
「あのっ……」 
 慌てて水着を直す。何か言おうとしたけれど、言葉にならなかった。 
 嫌じゃなかった。確かにあのとき、わたしはトラップを求めていた。 
 それは、すごく……すごく不思議な感覚だった。自分の考えであって、自分の考えじゃないような、 
そんな感覚。 
 無理やりじゃなかった。だから怒るのは筋違いだ。 
 だからこそ、どう反応すればいいのか、わからなかった。 
「わたしっ……」 
「……帰るぞ」 
「え?」 
 ぶっきらぼうな彼の言葉に、思わず視線をあげる。 
 その表情は、不機嫌そうだったけど。でも、全くいつものトラップだった。 
「トラップ……」 
「帰るぞ。日が暮れるし……夜にやるっつーイベントも、見たいんだろ」 
 そう言って、腕をぐいっとひっぱられる。 
 ……トラップ…… 
 何で、そんな……何も無かったみたいな顔ができるの? 
 あなたにとって、あれは……そんな程度のこと、なの? 
 涙があふれそうになったけれど、でも、必死に我慢した。 
 あれは夢だったんだ、そう思おう。 
 わたしもトラップもちょっとおかしかった。普段のわたし達じゃなかった。 
 あれはきっと、この幻想的な雰囲気が作り出した夢なんだ。忘れるのが、一番いいんだ…… 
 そう自分に言い聞かせて、わたしはトラップの後をついていった。 
  
 わたし一人では、到底岸まで泳ぎ切れそうもなかったから。 
 結局、半分くらいはトラップにひっぱっていってもらったんだけど。 
 幸いなことに、昼間にわたしをひきずりこんだ謎の人影は、現れなかった。何事もなく岸について 
ホッとしたときには、もう空は夕焼けに染まっていた。 
 浜辺にあんなにたくさんいた人影も、今はまばらになっている。 
「一回ホテルに戻って……んで、飯食ったら出かけるか?」 
「うん……」 
 トラップの口調も、表情も、いつもと全く変わらなかったけれど。 
 わたしはそんな風には思い切れなくて、やっぱり声が強張るのがわかった。 
 トラップがそれに気づいてないはずはないと思うんだけど、彼はそれに何を言うでもなく、ずんずん 
とわたしの腕をひっぱって歩いていく。 
 ホテルに行って、交代でシャワーを浴びて着替えて。それから二人で食事を食べに行く。 
 宿泊券には、お食事券もついてたからね。 
 料理はすっごく美味しかった。もう絶対この後食べる機会は無いんじゃない? っていうくらい、 
豪華なお料理。きっと、ルーミィがいたらさぞ喜んだことだろう。 
 だけど、そんな料理も、この気まずい雰囲気の中ではあまり味わう余裕も無い。 
 いつもは人一倍騒がしいトラップも何だか黙りがちだし、わたしも何を言えばいいのかわからない。 
 忘れよう、忘れようと考えるほど、余計に思い出してしまう。 
 ううっ……一体、何だったんだろう、あれは。 
 あの丸い石……おかしくなったのは、あれを触ってからだよね? 
 あれは、一体何だったんだろう…… 
「いかがでしょう。ご満足いただけましたか?」 
 突然背後から話しかけられて、はっと顔をあげる。 
 振り向くと、そこに立っていたのは、給仕をしてくれたボーイさんだった。 
「は、はい。とっても美味しかったです」 
「そうですか。お客様は、この後のイベントに参加されますか?」 
「は、はい」 
 反射的に返事をして、そして気づく。 
 イベントって……結局、何なんだろう? 
「あの、どんなイベントなんですか?」 
「ええ。コーベニアの名物でしてね。参加されるお客様、全員で船に乗って、灯篭と呼ばれるものを海 
に流しに行くんです。花火も上がりますし、簡単なお料理やお酒も用意されますよ」 
「うわあ、楽しそう!」 
 想像するだけでわくわくしてきた。「灯篭」っていうのが何かは、よくわからないけど。 
「楽しそうだね、トラップ!」 
「……そだな」 
 そう言って微笑んだトラップは、本当に、いつものトラップだった。 
「楽しもうな」 
 こんな会話を、ずっと続けていきたい。 
 だから、あれは……無かったことにしよう。 
 トラップの笑顔を見て、わたしは心から、そう思った。 
  
 ところが。 
 わたし達は重大なことを忘れていた。 
「ちょっと……トラップ、大丈夫……?」 
「…………」 
 声をかけるけど、うずくまっているトラップからの返事は無い。 
 どーん、どーんと空で派手な華が咲いている中。 
 わたし達二十人くらいのお客さんを乗せた船は、ゆっくりと海を漂っていた。 
 船っていっても、大きなボートみたいなものなんだけどね。だけど、夜の海は静かで、それと対照的 
に賑やかな空が、何だかすごく不思議な雰囲気。 
 ボートの真ん中では、サービスで飲み物やおつまみが振る舞われていて。普段のトラップなら、目を 
輝かせそうなものなんだけど。 
「ねえ……横になった方が、いいんじゃない?」 
「……うっせえ……」 
 真っ青になったトラップが、かすれる声でつぶやく。 
 そうなのよねえ……随分昔のことだから、わたしはすっかり忘れてたんだけど。 
 トラップって、すごく船酔いする体質だったんだよね。以前のクエストで船に乗ったときも、一人だ 
け酔っちゃって大変だったし。 
 背中をさすってあげてるんだけど、そんなの気休めにもならないみたいで。 
 はああ。まあ、いいんだけどね。余計なこと気にしなくてもよくなったし。 
 諦めて、うーんと伸びをしながら立ち上がる。 
 手の中には、船に乗る前に渡された、「灯篭」がある。 
 小さな小さな船の形をしていて、中ではローソクが小さな炎を灯している。 
 まわりを紙で覆われているから、ぼうっ、と微かな明かりしか漏れてこないけど。それが、とっても 
幻想的だった。 
 ある程度まで船を進めて、そこで一斉にこの灯篭を流すんですって。どうやら、海では水難事故がつ 
きものだから、亡くなった人達の魂を鎮めるために、この炎で道しるべを作ってあげるんだ、とか何とか。 
 すごく素敵なイベントだよね。色んな人が、この一年で亡くなった人達のことを思って、みんなで 
「早く安らかに眠れますように」って、祈るんだよ。 
 海は楽しいけれど、怖いところ。気をつけなくちゃいけない。昼間みたいなこともあるし…… 
 ……そういえば。 
 ふと思い出す。 
 そういえば、結局わたしの足をつかんだのは……一体、何だったんだろう? 
 そんなことを考えていたときだった。 
 ゆらり、と、それまで座り込んでいたトラップが立ち上がった。 
「トラップ? 大丈夫なの?」 
「……何か、聞こえる……」 
「え?」 
 すごく小さな声だったけど、トラップは、確かにそうつぶやいた。 
 彼の視線の先にあるもの。 
 あれは…… 
 船が進む先。そこにあったのは、昼間、わたし達が休んだ……洞窟のある岩。 
 それをじいっと凝視して、トラップはつぶやいた。 
「何か、聞こえる」 
 船が、岩の傍を通り過ぎる。 
 そのときだった。 
 ぐいっ 
「……え?」 
 突然肩をつかまれた。一瞬トラップか、と思ったけれど。彼の両手は、船の縁に置かれていて…… 
「あっ……」 
「パステル?」 
 上半身が揺らいだ。 
 何かが、わたしの肩をつかんでいる。その何かがいるのは…… 
 海!? 
「きゃああああああああああああああああああああああ!!?」 
「パステルっ!!!」 
 どっぼーん!! 
 悲鳴しかあげられなかった。その瞬間には、わたしの身体は、海中にひきずりこまれていた。 
 視界が闇に染まる。昼と違って、服を着ていたから余計だった。 
 水に濡れた服が身体にまとわりついて、あっという間に自由を奪われる。 
 ……何!? 一体……何なのっ!? 
 昼間と全く同じだった。ただ違うのは、つかまれているのが足じゃなく腕だということだけ。 
 水中を凄い勢いでひきずられる。 
 何でっ…… 
 一体、これはっ……何なの……? 
 ぐんっ 
 ウエストに誰かの腕がまわった。 
 ううん、誰か……なんて言わなくても、わかってる。 
 わたしをいつも助けてくれるのは、この人しかいないっ…… 
 ざばっ!! 
 水面に顔が出た。せきこみながら、息を吸い込む。 
「トラップっ……」 
「何なんだ……この海は、一体何なんだよ!?」 
 わたし達が落ちたことに、気づいているのかいないのか。 
 船は、随分遠くに見える。かなり水中をひきずられた、と思ったんだけど。でも、顔をあげてみれば、 
目の前にはあのときの岩の洞窟があって、そんなに距離は移動してないようだった。 
 そして、わたしの腰をしっかりつかまえているのは……トラップ。 
 船酔いが残っているのか、その顔色は真っ青だったけれど。それでも、わたしのことを助けてくれた。 
「トラップっ……」 
 がしっ、とその首にしがみつくと、優しく背中を撫でられた。 
 怖かった。そして、今も怖い。 
 この海には何かがいる。絶対に、何かがいる。 
 一体…… 
「あそこだ……」 
「え?」 
「あそこに、何かがいるんだ」 
 そう言って、トラップはわたしを捕まえたまま泳ぎ出した。 
 目的地は……あの、岩の洞窟。 
 嫌だ、と思った。逃げたいと思った。怖かった。 
 それでも、行かなくちゃいけないと思った。 
 同じ事を、繰り返させてはいけない……そう、思った。 
  
 夜のせいで、余計に暗い洞窟の中。 
 息を呑んで歩き出す。何も言葉は出なかった。 
 明らかに……変だった。昼間でも涼しかった洞窟だけど、今は、肌寒いくらいの冷気が漂っていて。 
 何かが、いる。そう確信できた。 
「この声……聞こえるか……」 
 トラップの声が震えているのは、寒いからなのか、それとも怖いからなのか。 
「声……」 
「昼間も、さっきも……俺が聞いたのは……」 
 その頃には、もうわたしの耳にも届いていた。 
 奥の方から響いてくる、すすり泣きの……声。 
「トラップ……」 
 ころん、ころん…… 
 声をかけようとしたとき。奥から、小さな音が響いてきた。 
 ころん、ころん…… 
「きゃあ!?」 
 思わずトラップの腕にしがみついてしまった。 
 中から、小さな光が転がってきていた。 
 微かな音を立てて、ころんころん、と……あの、光る石が、転がってきていた。 
「何……」 
 一つ、二つ、三つ…… 
 ころころと転がってきた石は、わたし達の足をかすめて、次々と海に向かって落ちていった。 
 あの石が、いくつ積んであったか、正確には覚えていないけれど。 
 7つまで数えたところで、音は静かになった。 
 ……全部? あれで、全部…… 
「パステルっ!」 
 がしっ 
 突然肩をつかまれた。振り仰げば、物凄く焦った、トラップの顔。 
 じりっ、と彼の足が後退を始めた。だけど、わたしの足は、縫いつけられたかのようにその場から動 
けなかった。 
 目の前に、漂っているもの。 
 石が転がってきた方向から漂ってくる、白い煙。 
 ううん、煙じゃない。あれは…… 
 ぼんやりと、人の形を取っている。二人分の人影。それが、徐々にわたし達に迫ってくる。 
(……やっと) 
(やっと、仲間が来てくれた) 
(一緒に行こう) 
(永遠に、君を愛する……) 
 頭の中で響いたのは、そんな声。 
 その瞬間…… 
 煙が、一斉にわたし達に押し寄せてきた。トラップはわたしをひきずって逃げようとしたみたいだったけれど。 
 けれど、いくら彼の足が速くても……きっと間に合わなかった。 
 その瞬間、煙は、わたし達の身体を包み込んでいた。 
  
 そのとき、侵食されたのは、あのときと……昼間と同じ感覚。 
 ただ違うのは、あのときと違って……頭の中で、声が響き渡っていること。 
(一緒に、行こう) 
(もう、寂しいのは、嫌) 
(愛していたのに) 
(みんなだけが幸せなんて、ずるい) 
 嫌…… 
 わたしの意思に関係なく、足が動き出す。 
 トラップは、壁にしがみついて、頭を抱えていた。きっと彼の中でも、同じような声が響いているに違いない。 
 嫌…… 
 ゆっくりと歩き出す。向かう先は、海。 
 黒々とした水面が、わたしの眼前に迫る。 
 こんな夜中、こんな岸辺から離れた場所。 
 落ちたら、きっとわたしは助からない。 
 それがわかっていたのに、足を止められなかった。 
 嫌…… 
 死にたくない。 
 ……助けてっ…… 
「パステルっ!!」 
 がばっ 
 海に向かって踏み出そうとした足が、止まった。 
 背後から、痛いくらいに抱きしめてくるのは……トラップ。 
「トラップ……」 
「バカ、行くな! あんなもんにひきずられてどうする!? おめえ、それでも冒険者かっ……」 
 その声は苦しそうだった。彼は必死に戦っているんだと。身体を支配しようとするその声に、必死で 
あがなっているんだと……それでいながらわたしのことまで気遣っていてくれてるんだと、わかった。 
「トラップ……」 
「行くな……死ぬな! おい、おめえらっ……」 
 トラップの行った「おめえら」とは、きっとわたし達にもぐりこんできた、あの白い人影のことなんだろう。 
 聞こえているかどうかもわからないのに、トラップは叫んでいた。 
「バカ野郎、他人を巻き添えにしてそれで満足するような甘ったれた奴らが……幸せになんざなれるは 
ずはねえだろう!? こんなとこにくすぶってて、それでおめえらは満足なのかよっ!!」 
 踏み出そうとする足が、空ぶった。 
 頭の中に響く声。 
 それと同時に、色んな光景が流れてきた。 
 愛し合っていた二人。 
 けれど、色々な事情があって、引き裂かれた二人。 
 別れるくらいなら、いっそ……と海に身を投げて、でも、それを二人は後悔していた。 
 もっと、生きていたかった。もっと、愛し合いたかった。 
 流された遺体が打ち上げられたのは、この洞窟。 
 誰にも見つからず、ひっそりと朽ち果てて……成仏することもできずに、こんなところに縛り付けられて。 
 それが辛くて辛くて、悲しくて。傍にいるのに触れることもできないお互いの身体が恨めしくて。 
 そして…… 
「俺達は生きる! おめえらなんかに連れ去られてたまっか……こんなつまんねことで、パステルを失 
ってたまるか! 負けねえからな。おめえらになんか負けねえからな!!」 
 ずるり、と身体がひきずられた。 
 海に向かってではなく、洞窟の中に向かって。 
「認めればよかったんだ。自分がとっとと死んだって認めて、さっさと成仏しちまえば、生まれ変われ 
たかもしれねえだろ!? 自分を哀れんで勝手にいじけて勝手にこんなとこにくすぶって、自分で自分 
を不幸にしてそれに気づかねえような奴に……負けて、たまっかよ!!」 
 どさっ!! 
 その瞬間、わたしの身体は後ろに引き倒された。 
 ごろごろと地面を転がって、そして……気づいた。 
 身体を支配する力が、消えていたことを。 
「トラップ……」 
「…………」 
 トラップの顔には、脂汗がびっしりと浮いていて、ぜいぜいと息を切らしていて…… 
 それでも、もう、あの嫌な冷気も、無理やり連れて行こうとする力も感じなかった。 
 助かったんだ、とそう実感した瞬間、わたしはトラップの身体にすがりついて、大声で泣いていた。 
  
 あの石は、多分二人の魂の欠片みたいなものだったんじゃないか、というのが、トラップの見解だった。 
 すいすいと泳ぎながら、彼が自分の頭に響いた光景を説明してくれたところによると。 
 洞窟に打ち上げられて、やがて身体は朽ち果ててしまって、それでも動けなくなった魂。 
 やがて、どうして自分たちだけこんな目に合わなきゃいけないのか、と悔しくなって。誰かを巻き添 
えにしてやろうとして。 
 その恨みの思いが集まって固まったのが、あの石じゃないか、ということだった。 
 石が転げ落ちていったのは、きっと他のみんなが流した灯篭……亡くなった人達の成仏を祈られた、 
あの炎に引き寄せられたのか、そのせいで余計に力が強くなったんじゃないか、とか。 
 色々考えたけれど、推測の域を出ないから、途中で考えるのをやめてしまった。 
「執念っつーのはこええよなあ」 
 とは、トラップの言葉だったけれど。 
 わたしは、それに返事をすることもできなかった。疲れ果ててしまって。 
 トラップも、多分相当に疲れていたはずなんだけど。あの洞窟で一泊する度胸はさすがになくて、二 
人でぜいぜい言いながら岸まで泳いで行った。 
 そのときには、もう花火も終わっていて……というよりイベントそのものが終わっていて。夜はすっ 
かり更けていた。 
 ううっ……結局、ほとんど楽しめなかった。 
 はああ、とため息をつく。 
 海に落ちたとき、灯篭もどこかに流しちゃったしね。 
 ぐったり疲れてホテルに戻る。海に落ちたせいでどろどろに汚れた身体を、お風呂で洗う。 
 うーっ、つ、疲れた。もう、寝よう…… 
 どさっ、とベッドに横になる。わたしと入れ替わりにトラップがお風呂に入っていく音が聞こえたけ 
れど。ドアが閉まる音がする頃には、わたしはすっかり眠りに落ちていた…… 
  
 何で目が覚めたのか、後になっても不思議で仕方がなかった。 
 すごくすごく疲れていて、絶対朝まで起きないだろうと思ったのに。 
 それなのに。気が付いたら起きていた。 
 ふっと目を開ける。すぐ目の前に、誰かの気配を感じて。 
「……トラップ……?」 
 じいっ、とわたしを見つめているのは、トラップだった。 
 ……何で…… 
 何で、同じベッドに……寝てるの……? 
 眠気の覚めきらない頭で、そんなことを考える。 
 骨ばった手が、ぎゅっとわたしの肩をつかんだ。そのまま、ぐいっと抱き寄せられる。 
 気が付いたときには、わたしは、トラップに抱きしめられていた。 
「トラップ……?」 
 だけど、不思議なことに。嫌だ、とはちっとも思わなかった。 
「あんとき……」 
 ぼそぼそと、囁き声が耳に届く。 
「あんとき、おめえを抱いたのは……あの二人に操られていたから。そう自分に言い訳してたんだけどよ……」 
「…………」 
 そう、だった。 
 あのとき……昼間、初めて洞窟に行ったとき。 
 あれは、あの二人が……身体を手に入れて、もう一度愛し合いたいと思った二人の願望が、わたし達 
の身体を奪ってさせたこと、だと思う。 
 だけど、口には出さなかったけれど。 
 わたしは…… 
「だけど……違うかんな」 
「……え?」 
「俺は、あいつらには負けねえ……そう証明しただろ?」 
 言われて、こっくりと頷く。 
 確かに、トラップは負けなかった。意思が強いのか、どうなのか……わたしはあっさりと海に引きず 
りこまれそうになったのに、トラップは、それを必死に押しとどめてくれた。 
 ……えと……? 
 段々と、眠気がどこかにとんでいくのがわかった。 
「負けねえから。嫌だったら、抵抗できた。できたはずなんだよ。できなかったのは……」 
 じいっ、と、明るい茶色の瞳が……トラップの瞳が、わたしを見つめて言った。 
「おめえを抱きたいと、思ってたから」 
「…………」 
 それって…… 
「トラップ……?」 
「おめえは、嫌か?」 
 聞かれた言葉に、首を振る。 
 わかっていたから。わたしも、あのとき……わたしは、トラップほどには、「嫌だったら抵抗できた!」 
とは言い切れないけど。 
 でも、少なくとも……相手がトラップでよかった、と。密かに喜んでいたのは、事実だったから。 
「好きだっつったら……迷惑か?」 
 もう一度首を振る。 
 そんなわけがない。だって。 
 その言葉に、わたしは……こんなにも、嬉しいと思っているんだから。 
 ふうっ、と顔が迫ってきた。 
 欲望にまかせてのキスとは違う、本当に優しい……心から愛しいと、そんな気持ちが伝わってくるキ 
スが、わたしの頭をじいん、としびれさせて。 
 シャツの下にもぐりこんでくる手も、首筋に感じる熱い感触も、そのどれもこれもが、とても…… 
とても、気持ちよかった。 
  
 一泊旅行は終わった。 
 乗合馬車に乗る前に、みんなのためのお土産をいっぱいに買い込んで。 
 そうしてホテルを引き払ったときに感じたのは、ちょっぴり残念だな、という思い。 
「もっと、いたかったなあ……」 
「お? それって」 
 ぐいっ、と肩に手がまわされた。 
 そのまま、ぎゅっ、と抱き寄せられる。 
「もっと俺と二人っきりでいたかった、ってことか?」 
 ちらり、と見上げれば、すんごく嬉しそうな顔をしたトラップ。 
 荷物を肩に担ぐような格好で、じーっとわたしを見下ろしていて。 
「そうだよ」 
 にっこり笑って言うと、その顔が、面白いくらい一瞬で真っ赤に染まった。 
 へへへ、照れてる照れてるー。 
 いっつもトラップに言われっぱなしだもん。たまには、わたしが言い負かしてみたいもんね。 
「早く帰ろう! みんな、きっと待っててくれてるだろうから」 
「お、おう」 
 そう言うと、トラップはいかにも仕方無さそうに頷いた。 
 しょうがないじゃない。大体、わたし達には、そんな贅沢をする余裕なんか一切無いんだから。 
 シルバーリーブに戻ったら、きっと、もう二人っきりになる機会なんて、滅多になくなるだろうけど。 
「ねえ、トラップ」 
「あんだよ」 
「いっぱいお土産話ができて、よかったね」 
 えへへ、と笑うと、トラップはぴっ、と片眉をあげて、わたしの顔を覗きこんだ。 
「幽霊話とか灯篭流しとか、か?」 
「トラップがナンパされたりとか、綺麗なお姉さんに見とれてたり、とか?」 
 そう言うと、彼は露骨に顔をしかめて、「あれはなあ」とか「おめえがちっとでも焼きもち焼いてく 
れりゃいいかと思って」とか、ぶつぶつ言ってたけど。 
 わかってるって。トラップの考えそうなことだよね。 
 素直に思いを伝えられない気持ちは、よくわかるけど。 
 だって、わたしも言えないもん。一種勢いが無いと、なかなか素直に「好き」っていうのは難しい。 
 だから、これがわたしなりの返事。 
「後ね、一番のお土産話」 
「あんだよ?」 
「わたし達、恋人同士になりましたよー、って!」 
 そう言って振り向くと。 
 トラップは、髪と同じ色に顔を染めて……それでも、見たこともないような満面の笑みを浮かべて、 
抱き寄せる腕に力をこめた。  

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