医者になったことを後悔したことはなかった。
両親とも医者だから、お前もなれ――ガキの頃からそう言われてきて、実際に医者になれるだけの能力があった。
俺が医者になった動機はそんな程度のものだったが、なってみれば、まあやりがいのある仕事で、退屈する暇はなかった。
後悔したことはねえ。そのかわり、「医者になって良かった」と思えるほどの出来事も無く。言われるままに外科医として腕を振るって、幼馴染で内科医のクレイや、看護婦のマリーナ。親しい連中と適当に楽しくやりながら、日々を過ごす。
そんな日常に、まあまあ満足しきっていた。
だからこそ、あの日のことは強烈な思い出として残っている。
医者になんかなるんじゃなかったという後悔と、なってよかったという喜び。
その二つを同時に味わうことになった、あの日には……
「トラップ! 急患だ、すぐ来てくれ!!」
独身寮にかかってきた電話の声は、焦りまくったクレイのもの。
そういやあ、奴は今日、当直だったよな……
眠気の覚めきってねえ頭で、ぼんやり考える。
「聞いてるか!? すぐ来てくれ、早く!!」
「わあったわあった」
がちゃん、と電話を切ったときには、もうパジャマを脱ぎ捨てていた。
服の上から白衣を羽織って、車に乗り込む。寮から病院まで、五分とかからねえ距離だ。
休日がこんな風に潰されることは珍しいことじゃねえ。それは医者という職業柄、仕方ねえことだ。
それはわかっていたが、寝ているところを叩き起こされるのは……いまだに慣れねえ。
病院につくと、マリーナが入り口で待ち構えていた。
「事故か?」
挨拶も抜きで聞く。マリーナも慣れたもんで、余計なことを一切言わずに事情だけ告げる。
会話を始めたときには、既に歩き出していた。
「自動車事故。頭を強打していて、意識不明。自発呼吸無し。患者は三人。手術が必要なのは二人、一人は軽症よ。クレイが診ているわ」
「わかった」
手術着に着替えて、部屋に乗り込む。
だが……一目見てわかった。
助からねえって。
あらゆる数値が絶望的な数を示していて、ベッドに横たえられた二人……どうやら、夫婦らしい……は、もう神様でもねえ限り手のほどこしようがねえって。
それでも、やれることはやった。打てる手は全部打った。
だが、結局、患者の心臓が再び動くことはなく……俺は、手を止めるしかなかった。
「2時43分……ご臨終です」
時計を読み上げるマリーナの声が、空しく響く。
珍しいこっちゃねえ。医者だって万能じゃねえんだ。これまでにも、手術の甲斐なく死んでいく患者はいくらでも診てきた。
それでも……やっぱり、慣れねえな。
「家族はいねえのか?」
手術室を出てすぐ、マリーナに問いかける。
気が重いが、結果を家族に伝えるのは執刀医の役目だからな……夜中で、他の外科医が捕まらなかったのを、不運と言うしかねえ。
「言ったでしょ? 軽症の患者が一人いるって……娘さんよ。多分、今はクレイが話し相手になってると思うわ」
「家族旅行の最中の事故か?」
「ええ。高速道路で渋滞に巻き込まれてこんな時間に。運転手……お父さんだけど……が眠気に負けての事故。よくあることよ。……いい? トラップ。絶対に、余計なこと言わないでよ」
「わあってるよ」
きつい目つきでにらんでくるマリーナに、適当に手を振って答える。
どうも俺は、いらねえことをべらべらと喋る悪癖があるらしく……これまで、患者との間に起こした揉め事の数は両手両足を使っても数えきれねえ。
一度なんざ手術の前日に「他の病院に移るザマス!!」とか騒ぎたてられたこともあったしな。
だが、今回ばかりは……さすがに、な。
両親を突然の事故で失った娘。相当ナーバスになってるだろう。
……面倒くせえ……
「ここよ。わたしは、まだやることがあるから」
「ああ、すまねえな」
マリーナに手を振って、部屋をノックする。
診察室。すぐに、中からクレイの声が返ってきた。
「開いてるよ」
「失礼……俺だ」
「トラップか……」
俺の声の調子で、大体結果を察したんだろう。クレイのため息が、聞こえてきた。
しきりのカーテンを開ける。見慣れた白衣のクレイと、その前に座っている、手足に包帯を巻いた金髪の女……
カーテンを開いた瞬間、女が振り向いた。はしばみ色の目に涙をいっぱいにためて、すがるように俺を見てくる。
その瞬間、感じた罪悪感は……一体何だったのか。
「先生、お父さんは? お母さんは!?」
がしっ、と白衣を握り締めてくる女の手首をつかむ。
言わねえわけにはいかねえ。それはわかってたが……後の展開がわかるから、ためらわずにはいられなかった。
俺らしくねえ。どんだけ相手が傷つこうと泣き喚こうと、事実は事実だと冷静に告げる、それが俺だったのに。
「……わりい。助けられなかった」
そうつぶやいた瞬間。
女の表情が、消えた。
ストン、と音がしそうなほど綺麗に表情が落ち、人形のような無表情になる。
クレイが痛ましそうな目で女を見ているが……女は、それに全く気づいてねえようだった。
ずるっ、と身体から力が抜ける。俺が手を離したら、多分そのまま崩れ落ちるんじゃねえか。
「トラップ……」
「クレイ、どっか開いてるベッド、あるか?」
「用意させるよ」
俺の言葉に、クレイが内線電話に手を伸ばした。
クレイの親は、この病院の病院長だ。奴が言えば、大抵の無理は通る。
病院のベッドは常に満杯の状態だが、この日も、クレイの一言で即座に個室が用意された。
そこに女を運び込む。いつもなら、手術が終わった後は泥のように眠りこけるのが常だが……
何故だか、この日に限って、俺はこいつの傍にいてやりてえ、そう思った。
パステル・G・キング。
目を覚ましたのは30分後。女は、白い天井を見つめて、そう名乗った。
両親が死んだことを、わかってんのか、わかってねえのか。
それは、俺にも判断がつかなかった。精神科は俺の領分じゃねえしな。
「おめえ、何があったか覚えてっか?」
そう聞くと、パステルは微かに頷いた。
「わたしは、寝てたの。車の後ろの席で……そうしたら、大きな音がして、車がひっくり返って……後は、わからない……」
「おめえの親は、死んだぜ」
我ながらもうちっと優しい言い方はできねえものか、と思わなくもねえが。
こういう言い方しかできねえ性分だから、仕方ねえ。
だが、そう告げても、パステルの表情は動かなかった。
「先生……」
「……何だ?」
「あなたが、わたしのお父さんとお母さんを……殺したの?」
ずばり、と言われたことに、俺はしばらく反応できなかった。
手術の失敗をするたび、身内の人間から「あんたが殺したんだ」とわめかれること。
それは、医者になった以上、避けて通れねえ道だ……外科部長のキットンあたりは、いつもそう言っていたが。
いざ言われると、反応に困る。
「……助けられなかったのは事実だな」
「先生じゃなかったら、助けられた?」
「んなことわかんねえよ。誰も助けられなかったかもしれねえし、もしかしたら助けられる奴もいたかもな」
仮定の話しには意味がねえ。だから慰めも言い訳もしねえ。
俺がそう言うと、パステルは身を起こした。
そして……そのまま、俺の胸倉につかみかかってきた。
「っ……どうして……」
「…………」
「どうして助けてくれなかったの! お父さんとお母さんが、一体何をしたっていうの! 返して……返してよ、お父さん……お母さんっ……!!」
わあああああああああああっ……
胸元にすがりつくようにして、パステルは、子供のように泣きじゃくった。
ゆっくりとその背中を撫でてやる。いつもだったら、こんなのは俺の役目じゃねえと、クレイあたりに押し付けるところだが……
泣きたいだけ泣かせてやる。激情を吐き出す相手が欲しいってことくらい、俺にもわかる。
その相手に俺を選んでくれたことを、何故か素直に嬉しいと思えたから。
だから、今だけでも、思う存分泣け。
そう耳元で囁いてやると、パステルは身を震わせて……そして、そのまま長いこと泣き続けた。
夜が明けるまで、俺はパステルの背中を撫で続けた。
助けられなかったことに関する後悔と、だがそのおかげでパステルに出会えたという喜び。
間違いなく、その日は、俺にとって特別な一日となった。
パステル本人の怪我は入院するほどのもんでもなく、程なく、両親の遺体と一緒に帰っていった。
多分、二度と会うこたあねえだろう。そう思うと、寂しいと思ったが。
いかんせん、医者ってのは自由になる時間が圧倒的に少ねえ。自分から会いに行くこともできず、結局時間だけが流れて行った。
今どうしてるんだろうと気にしねえ日は無い。だが、確実にその時間は短くなっていく。
こうして月日が経つにつれ、忘れていく。それを寂しく思ったところでどうしようもできねえ。
そうして、諦めていたときのことだった。
俺が、「医者になってよかった」と心から喜べる日が、来たのは……
「あっちいなあ……」
事故から半年ほど経ったある日。
俺は、ナースステーションでばたばたとうちわを使って、マリーナからにらまれていた。
「トラップ、あんた何でこんなところにいるのよ」
「ああ? あっちは男ばっかでむさくるしいからだよ」
「あのねえ! ここはナースステーションなの!! ドクターは自分の部屋に戻ってよ。第一もうすぐ診療時間でしょ!」
「ったく冷てえなあ」
実のところ、俺は……いや、俺だけじゃなくクレイもだが、ナースにはなかなか人気がある。
ここに顔を出すと、やれ飲み物だやれ菓子だと随分な歓待を受けるから入り浸ってんだが……マリーナがいると、その歓待も半分以下に減っちまう。
ったく。今度はこいつがいねえ時間に来るか。
不承不承腰を上げたときだった。
「あのー……」
ドキン
廊下に面した窓から響く声。
聞いたのはすげえ前のことなのに、はっきりとそれが誰の声なのかわかる自分に驚く。
思わず振り向いた。予想通りの顔がそこにあるのを見ても、まだ信じられねえ。
「あら? あなたは、確か……」
マリーナも覚えていたらしい。驚きを隠せねえ顔で、相手の顔を見つめている。
「あの、先日は……どうもお世話になりました。あれから、色々考えて……こちらの病院で、事務をやらせてもらうことになりました。パステル・G・キングです。よろしく」
その笑顔を太陽のようだ、と表現していたことを知ったら、マリーナやクレイあたりは吹き出すだろうな。
けど、本当にそう思ったんだから……しゃあねえだろ。
「あ……先生」
俺の顔を認めて、パステルが真っ赤になってうつむいた。
「あの、あの……この前は、すごく失礼なことを言っちゃって、ごめんなさい。先生は、一生懸命助けてくれようとしたんですよね?」
「あ、ああ……」
「ごめんなさい。それと……ありがとう、先生。あの日、先生のおかげで、両親の死を受け止めることができました。だから、わたしも、働こうっていう気になれたんです。本当に、ありがとう」
「……そっか。よかったな」
そうか。俺のしたことは、余計なことにならずにすんだんだな。
そう思うと……何か、胸が熱くなってきやがった。
何なんだよ、この気持ちは。俺は……
「先生、あの……」
「トラップ」
「え?」
「俺の名前はトラップ。先生、なんて呼ばなくてもいいぜ? 敬語もいらねえ。そのかわり、俺も……」
じーっと相手の目を見つめて、微笑んでやる。
後になってマリーナから、「あんたでもあんな表情ができるのね」と妙に感心された顔で。
「パステル、って呼んでいいか?」
俺の言葉に、パステルは満面の笑みで頷いた。
「もちろん! これからもよろしくね、トラップ!」
それが、俺とパステルの再会だった。
「よっ」
「ちょっとトラップ! また来たの!? 診察は?」
「今は休憩時間。なあ、茶かなんか出ねえの?」
「もうっ! わたしは仕事中なんだってば。邪魔しないでよっ」
それからは、病院に来るのが何か楽しみになった。
暇があったら事務室に入り浸って、よくパステルに邪険にされたが。
いつからだろうな? 俺が来る時間帯になると、いつもパステルが茶と菓子を準備しているようになったのは。
事務員はもちろんパステル一人じゃねえが、俺が来ると他の事務員にはかったように用事ができるようになったのは。
「トラップ、最近やけに楽しそうだよな?」
「ああ? そうか?」
「ああ。何だか、すごく生き生きして見える」
脳に麻酔を打ってんじゃねえかと思うくらい鈍い幼馴染にすらこう言われるほど、俺の態度は傍目にはばればれだったらしい。
気づいてねえのは当の本人だけどきたもんだ。ま、変に聡い女よりは、まだいいけどな。
「はっきり言えばいいんじゃない?」
マリーナと二人きりになると、よく言われた言葉。
そのたびに、「ああ? 何を言えってんだよ」なんて照れ隠しを言ってたが、心の中では「言われなくてもわかってるよ」とぶつくさつぶやいていた。
だけどなあ。話すようになってわかったが、パステルは、クレイとためを張れるくれえの鈍い女で……俺の気持ちになんか、これっぽっちも気づいてなくて。
そして痛いことに、俺のことをそういう対象として一切見てねえんだよな……
時期を間違えたら、今の関係すら壊れるかもしれねえだろ?
そう自分に言い聞かせて、俺はなかなか、本音を口に出せなかった。
本当はただ勇気が出なかっただけだ。それを認めたくなかっただけだ。
そのことを、後になって死ぬほど後悔することになるなんて……今の俺に、わかるはずもなかったから。
初めて出会ってから二年近く。パステルが病院に勤めるようになってから一年半。
関係がどうにかこうにか一歩前進したのは、こんだけの時間が流れてからだった。
いや全く。自分の我慢強さに拍手を送りたくなる。
その日、物凄く珍しいことだが、俺とパステルの帰宅時間が重なった。
「送ってってやろうか?」
そう言うと、パステルは嬉しそうに頷いた。
ちなみに、俺は相変わらずの独身寮住まいだが、パステルは小さなアパートで一人暮らしをしている。
最初は寮に住む予定だったらしいが、部屋が空いてなかったから、らしい。まあ、俺にとっちゃ幸運だったんだけどな。
車で20分くらいかかるパステルの部屋。ここを訪れるのは、初めてじゃねえが……
「送ってくれるのは嬉しいけど、いいの? トラップの家、大分離れてるじゃない」
「こっちに用があるからついでだよ、ついで」
「なーんだ、そうだったの?」
……信じるなよ。毎回毎回同じ言い訳によくひっかかるな、おめえも。
「乗るのか? 乗らねえのか?」
「わわ、乗る乗る。ありがとうっ!」
そういって助手席に滑り込んできたパステルの服から、微かに花の匂いが漂ってきて、ドキン、と心臓がはねるのがわかった。
待て待て、焦るな、俺。落ち着いて、落ち着いて。
この一年半、ずーっと見てきた。今じゃ事務室には俺専用の椅子すら用意される始末で、顔を出しても嫌そうな顔を見せつつ、口元が笑ってるのが丸分かりという様子。
嫌われてるはずがねえ。大丈夫、うまくいくはずだ。
20分間のドライブの間、俺はずっとぶつぶつつぶやき続けていた。
おかげで、パステルから物凄く不審な目を向けられてしまったが……
全くなあ。おめえがもうちっと鋭かったら、俺もこんな苦労しなくても済んだんだぜ?
「あがってく?」
家についたとき、パステルは無邪気な笑顔で言った。
他意が無いことは、長い付き合いでよくわかってる。こいつはただ、ついでとは言え結構な距離を送ってくれた俺に対して純粋に感謝し、茶のいっぱいでもご馳走しようか、とそんなことしか考えてねえ。
つまり、俺を男だと認識してねえってことだが。
……してくれねえならさせるまでだ。
「あ、ごめん。用事があるんだっけ?」
「いんや。まだちっと時間があるし。茶でも出してくれよ。あ、そーだな。この前食った羊羹。あれうまかった。残ってたらまた出してくれ」
「もー、図々しいんだから」
他愛も無い会話を交わしながら、部屋に入る。
……こっからが、勝負。
ガチャン、と部屋の鍵をかけたのを確認して、どかっとちゃぶだいの前に腰掛ける。
荷物だけ置いて、パステルは即座に台所へと向かっていったが……
「おい」
「ん? 何?」
「茶は後でいいや。ちっとこっちに来てくんねえ?」
「え?」
ひょいひょいと手招きすると、パステルは、いぶかしげな顔をしつつ俺の前に座った。
有無を言わせず、その身体を抱きしめる。
「――――なっ……!?」
この鈍い女は、何を言っても通じねえかもしれねえ。
「好きだ」と言ったら「何を?」と聞き返すような女だ。
だから、実力行使でわからせる。長々と悩んで出した結論。
「ちょ、ちょっと、トラップ!?」
ぐっ
文句は受けつけねえ。開きかけたパステルの唇を、自分のそれで強引に塞ぐ。
さすがに何をされてるのかわかったんだろう。パステルの顔が、真っ赤に染まった。
「と、ゆーのが俺の気持ちだったりすんだけど」
ぱっと唇を解放してやると。
くたくたっ、とパステルの身体から力が抜けた。
茫然自失、という言葉がこれほどぴったり当てはまるのも珍しいんじゃねえだろうか? 潤んだ瞳で、じーっと俺を見つめている。
だが、俺の目はごまかせねえ。
茫然としている。驚いている。信じられねえ、という様子も見える。
が……嫌がっては、いねえ。
「どうだ?」
「ど、どうだ……って……い、いきなりで、そんなっ……」
漏れる言葉が、どこまでももどかしい。
「まさか、わかんねえ、とは言わねえよな?」
「…………」
「俺は、おめえのことが……」
好きだ、と言うかわりに、もう一度唇を塞ぐ。触れるだけじゃねえ、もっと深い……大人のキス。
からみあう舌と交じり合う唾液。その隙間から、甘い吐息が漏れる。
振り上げられた手首をつかんでやると、それ以上の抵抗はしてこなかった。
もっとも……勢いでそのまま押し倒そうとしたら、さすがに悲鳴をあげられたが。
「やだっ……やだやだやだっ!」
「うおっ! ば、バカバカ、やめろって!!」
「バカーっ! エッチ、最低! 出てってー!!」
ぶん、とうなりをあげて飛んできたカバンに、さすがに背筋が寒くなる。
そのまま、追い出されるようにして(というか追い出されて)、外に出た。
……ま、まあ。最後がちっとまずったけど。
一応、前進した……よな? まさかあれだけされて気づかねえ、なんてことはねえよな?
それだけでよしとしよう、と自分に言い聞かせて、この日はひとまず退散することにした。
ちなみに、それから一週間ばかり、口をきいてもらえなくなった。事務室に顔を出すと、ばっと顔を背けられる始末だ。
謝り倒して機嫌を取りまくって、どうにかこうにか付き合いをOKしてもらえるのにどれだけ苦労したか……まあ、改めて言うまい。
付き合うようになるまで二年かかった。キスをするまでにも二年。
初めて抱いたのは、付き合ってからさらに数ヵ月後。
婚約したのは、抱いたその日。
それはどれも俺からの誘いで、パステルの方から俺を求めてきたことは一度も無かった。
キスをするのも、抱くのも。好きだというのも、プロポーズをするのも、全て俺から。
パステルは、そのたびに顔を赤らめて、そして素直に受け入れる。
そういう性格の女に参っちまったんだから仕方ねえ。
物足りねえ、と思わなくもねえが。これだけ時間をかけて口説き落とした女だ。それだけの価値があると認めた女だ。
贅沢は言わねえ。パステルが幸せそうな笑みを向けてくれる。それだけで十分じゃねえか?
そう自分に言い聞かせていた。
独身寮を出て、パステルと二人で暮らすようになって。
「式まで後半年だね」
と笑うパステルに、「ああ、そうだな」とひねりのねえ返事をする。
そんな何気ない日常が、現実とは思えねえくらいに幸せだった。
医者という職業柄、休みを気軽に取るわけにはいかねえ。式の日が随分先になったのも、それが理由だ。
何しろ、列席者も大半が病院関係者になるからな。そっちの都合もある。
だけど……後になって思う。
例え寂しい式になっても、とっととやっときゃよかったって。
俺とパステル、二人がいりゃあ、それで十分だったんだから。
いや、それを言うなら……
何で、俺はもっと早くに勇気をだせなかったんだろう。
二年という長い時間を無駄にしたことを、どれだけ悔やんでも。
過ぎたときは、戻らねえ。
それは、結婚式が4ヶ月後に迫った、ある日のことだった……
「あんだよ、おめえ、もう食わねえの?」
出勤前。俺の勤務時間はかなりまちまちだから、一緒に飯を食えるのは貴重な機会だ。
パステルはドジでおっちょこちょいだが、料理はうまい。おかげで俺の食生活は、かなり充実したものになってたが。
その朝。パステルは、いつもの半分くらいの量を食べたところで、箸を置いた。
「ん……あんまり食欲ない。トラップ、食べる?」
「風邪かあ?」
ひょい、と身を乗り出して、額と額をくっつける。
ぼんっ、と真っ赤になるパステルに笑いかけて……首をかしげる。
ちっと微熱があるかもしれねえ。けど、よくわかんねえ。
俺は外科が専門だからな。風邪とか、そっち方面は管轄外だ。
「念のためにクレイに診てもらえよ。あいつなら、言えばすぐ診てくれんだろ」
「いいわよ、患者さんに悪いじゃない。大したことないって」
にこっ、と笑ってみせるパステルの顔は、いつもと全く変わらなかったから。
だから、俺もそれ以上は言わなかった。
いつものように二人で出勤して、別れて。
その日は当直だったから、帰ったのは翌朝。パステルとは入れ違いになった。
一緒にいれる日の方が珍しい。そんなことは言い訳にもならねえ。
仮にも医者だってのに。過去に戻れるなら、多分俺は自分を殴りつけていた。
食欲が無い、とパステルが言い出してから、一週間後。
事務員の一人であるリタが、俺のところに飛んできた。
「トラップ、トラップトラップ! 大変よ!」
「あんだよ、どうした?」
カルテを整理しているところだったから、俺は振り返りもせずに言った。
が、次の瞬間。整理の終わったカルテは床にぶちまけられることになった。
「パステルが倒れたのよ! お願い、すぐ来て!!」
ガタンッ!!
椅子が倒れるのも構わず、俺は外に飛び出していた。
最近胃が痛い。
リタの話では、パステルはしょっちゅうそう言っていたそうだ。
医者と一緒に暮らしてるんだから診てもらえば? と何度となく薦めたのに。
「トラップは忙しいから。トラップを待ってる患者さんに悪いから。大したことないよ、大丈夫」
そう言って、胃薬を飲んで、耐えていたらしい。
それも、口に出すようになる随分前から、耐えてたんじゃないか……それが、クレイの言葉だった。
診せられたレントゲン。見間違いじゃねえかと何度も見直したが……これだけはっきりうつってるものを見間違えるほど、俺の目は腐ってねえ。
別の人間のカルテじゃねえか、とも思ったが……撮ったばかりの写真を取り違えるほど、クレイの腕は鈍ってねえ。
パステルのレントゲン写真。その胃の半分近くを覆う、不吉な影。
外科医として、嫌というほど診てきた。
だが……まさか、パステルのレントゲンに……こんなもんが、うつってるなんてっ……
「お前……一緒に暮らしてて、こんなになるまで……気づかなかったのか?」
青ざめたクレイの言葉に返事ができねえ。そのままうなだれる。
内科のクレイにとっては専門じゃねえ病気だ。だが、専門じゃなくたって……その怖さは、嫌というほど知っているだろう。
スキルス性胃がん。
がんの中でも、恐ろしく進行が早い。それも、若い奴ほど。
パステルのレントゲンを診た、冷静な外科医としての俺が、脳の中で告げている。
もうリンパの方に転移もしている。手術しても苦しめるだけで、まず完治は不可能。
これだけ進行しちまってたら、余命は……持って、三ヶ月、といったところ……
三ヶ月。
自分ではじき出した数値に、眩暈がする。
三ヶ月で、パステルが……死ぬ?
あんなに元気に笑ってたのに。あんなに明るかったのに。
何で……気づかなかった? もっと早くに気づいていればっ……
一週間前、食欲が無い、と笑っていたパステルを思い出す。
言われてみれば……あいつは最近、急に痩せてきていた。
「ドレスを着るためにダイエットをしてる」
そう言ったパステルに、「痩せるより先に胸に肉をつけろよなあ」と返したのは、いつだった?
俺は、どこまでっ……間抜けなんだ……
「トラップ……」
専門知識はなくたって、パステルの余命がそう長くはねえことは見ればわかったんだろう。クレイの声も震えている。
「知らせるのか?」
問われる言葉に首を振る。
告知の問題は、俺達医者にとっていつだって悩みの種だ。
教えて様々な治療に取り組むべきか、教えずに、希望の芽を育てるべきか。
だが、パステルは……多分、もう何をしても、本人の体力が持たねえ。そこまで進行しちまってる。
できるのは、せいぜい痛みを軽減してやることくらい……知らせたところでメリットはねえだろう。
けど……どうすれば、いい?
「トラップ」
クレイの目は真剣だった。レントゲン写真を、まとめて俺に押し付ける。
「告知するも、しないも、お前の自由だ。お前と、パステル本人で決めるしかない。……俺にできることがあったら言ってくれ。何だってしてやるから」
「……さんきゅ」
そう答える俺の声は、自分でも驚くくらい、震えていた。
「……トラップ」
麻酔が切れて、目を覚ましたとき。
俺が枕元に座っているのを見て、パステルは嬉しそうに微笑んだ。
「ごめん、心配かけちゃって」
「ばあか、無理しすぎなんだよ、おめえは。胃潰瘍だとさ。調子わりいならもっと早く言えっつーの」
「……だって、トラップ、忙しそうだったじゃない。邪魔しちゃいけないと思って」
布団にもぐりこんでつぶやくパステルの頭を小突く。
「何つまんねえ遠慮してんだよ。こうやって後で倒れられる方がよっぽど迷惑だっつーの」
「……ごめんなさい……」
「ま、しばらく入院すりゃあ、すぐよくなるだろうってことだから。大人しくしてろよ」
「……わかった…」
俺の言葉に、パステルは素直に頷いて目を閉じた。
鎮痛剤の効果かもしんねえ。……相当にきつい奴、使ってるからな。
音を立てないように、こっそり病室から出る。……俺にも仕事がある。パステルにつきっきりってわけにはいかねえ。
診察室に向かいながら、自問自答する。
俺は、普通に振る舞えたか?
何か、おかしな態度をとらなかったか? いつもの俺でいられたか?
……パステルに知られちゃいけねえ。後三ヶ月で自分が死ぬなんて言われて……あいつがそれに耐えられるかどうか。
ただでさえ、無理をしすぎたせいで体調は限界まで来てんだ。
……絶対に、知られちゃいけねえ。俺にしてやれることは、もう希望を与えてやることだけなんだから。
診察室のドアを開ける。すぐに患者が来るだろう。
どかっ、と椅子に腰掛ける。途中まで整理してあったカルテは、綺麗に並べてあった。リタか、それとも他の誰かがやってくれたんだろうか……
一番上に書かれた名前は、パステル・G・キング。
無力感だけが募ってきて、机につっぷした。
……何のために医者になったんだよ、俺は。
大切な女一人助けてやれなくて……何が医者だ……
「トラップ……患者さん、呼んでもいい?」
ドアの外から聞こえるマリーナの言葉に、俺は力なく返事をした。
抗がん剤は、使わねえことに決めた。
今更使ってみたところで、パステルの体力を削るだけで、大した意味はねえ。
外科部長キットンと長々と話し合った後、そういう結論に達した。
第一、抗がん剤を使うと、恐ろしい副作用に苦しむ羽目になる。
髪が抜ける、ってのが一般的なイメージかもしれねえが、他にも、止まらねえ吐き気だとか、割れそうな頭痛だとか、まあその症状は人それぞれなんだが。
あいつが苦しむ姿を見たくねえ。
俺がそうつぶやくと、キットンは反対しなかった。
「本当は、私情が入るから身内を主治医にはしないんですけどね」
うなだれる俺を黙って見つめて、キットンは言った。
「もう、我々にできることはそうは無いでしょうから……パステルのことは、あなたにまかせますよ、トラップ」
ふざけるな、俺達が諦めてどうする。何か手はあるだろう。
そう言いたかった。俺が医者じゃなかったら、そうやってつかみかかったかもしれねえ。
だけど、俺は医者だった。それも、がんに関しては専門である外科医。
今までいくらでも見てきた。助かる見込みもねえのに、わずかな希望にすがって、無理な手術をして、きつい薬を使って……身体がボロボロになるまで苦しんで、そうして死んでいった患者を。
せめて、もっと初期に見つけていたら……
立ち上がる。パステルの病室に向かうために。
残されたわずかな時間を、一緒にいてやるために。
日に日に体力が落ちていくのは、本人が一番よくわかってただろう。
倒れてから一ヶ月。目に見えて痩せて来たパステルを、俺は正視できなかった。
「ねー、トラップ」
「あんだよ」
枕元でカルテをチェックする。部屋に仕事を持ち込む俺の姿を、あいつがどう捉えているのかはわからねえ。
薄々は気づいてんじゃねえかと思う。ただの胃潰瘍なんかじゃねえってことに。
だが、それを聞いてはこねえ。俺を信用してるからなのか、聞くのが怖いからなのか、それはわからねえけど。
「ねえ、わたし……いつ退院できるの?」
……動揺をうまく隠せたかどうか、正直自信はなかった。
「もうちっと……かな。あんでだ?」
「だって……結婚式の準備」
……そうか。忘れてた。
不安そうな目を向けてくるパステルに微笑み返しながら、俺の頭の中で、めまぐるしく計算が働く。
多分、もうちょいしたら、パステルはベッドから起き上がることすらできなくなるだろう。
退院なんかとてもじゃねえけど無理だ。……けど……
逆に言えば、今なら……まだ、何とか外出は可能だ。
車椅子を使えば……
結婚式を挙げてやるとしたら、今しかねえ。
頭の中を、予定されてる手術スケジュールが流れていくが……それは、多分クレイのコネを使えば何とかなる。
本当は、こんなわがままを通すなんてもってのほかなんだが……
「パステル、ウェディングドレス、着てえか?」
「え? そりゃあ、もちろん。だけど……」
だけど、似合わないかもね。わたし、こんなになっちゃったから。
そう寂しそうにつぶやいて、やせ細った自分の腕を見るパステルを……俺は、抱きしめてやることしかできなかった。
「あに言ってんだ。似合うに決まってんじゃねーか。準備は俺にまかせとけ。おめえは心配することねえよ」
そう言うと、パステルは、嬉しそうに笑った。
それは、本当に小さな声だったが。
「クレイ、頼みがある。一生のお願いだ。これを聞いてくれたら、俺はこの後無休で働いても構わねえ」
ばん、と内科病棟に飛び込み、挨拶も抜きに詰め寄る。
クレイは、しばらく唖然としていたが……俺の話を聞いて、頷いた。
「バカだな、何が一生のお願いだ! こんなときくらい手を貸してやれなくて……親友なんて名乗れるわけないだろ!?」
そう言い返すクレイの目には、涙が浮かんでいた。
それから後は、文字通り、嵐のような忙しさだった。
もともと予約していた式場に事情を話すと、係りの人間は即座に予定を変更してくれた。
式は一週間後。病院の連中も、俺とパステルのことは知ってる。パステルの命が、そう長くはねえってことも。
結婚式を挙げてえと言うと、皆は、揃って協力を申し出た。
あのキットンですら、「何でしたら手術の予定、私が代わってもいいですよ」なんつったくらいだからな。
急なことだから、列席者は大分減るが……それは、仕方ねえ。
離れて暮らす俺の両親に事情を告げると、「何でもっと早くに知らせて来ない」と怒鳴られた。
俺の両親も医者だ。スケジュールはびっしりつまってるはずだが……どんな無理を押し通したのか、式の三日前には、こっちにとんできた。
正直、反対されるんじゃねえかと思った。
俺は一人息子だから、当然のように跡継ぎになるものと思われていた。
結婚相手も、多分できれば大病院の院長の娘とか、そういう相手を望まれていたはずだ。
だが、医者でも看護婦でもねえパステルを連れていったとき、両親は文句一つ言わず歓迎してくれた。
そして……今も。
パステルの命はそう長くはねえと告げても、両親は黙っていた。
「反対しねえのか? どうせ死ぬのに、結婚してどうするって……言わねえのか?」
そう聞くと。思いっきり顔をひっぱたかれた。
「何てことを言うんだい! 人間はね、誰だっていずれ死ぬんだよ。パステルの場合はそれがちょっとばかり早まった、ただそれだけだよ! もしお前が『すぐに死ぬから婚約は解消する』なんて言い出してたら、親子の縁を切ってたところだからね!!」
涙を浮かべて怒鳴る母ちゃんに、俺は……心から、感謝した。
「おい、パステル」
「あ、トラップ……え? きゃああああ!?」
悲鳴をあげるパステルを、有無を言わせず抱き上げる。
式当日。俺は、準備していた車椅子にパステルを乗せると、そのまま車に強制連行した。
「ちょっと……ちょっとちょっとトラップ! どこに行くのよ!?」
「いいところだよ」
「いいところって……」
驚かせてやりたかった、そんな意図があったわけじゃねえ。
事前に知らせたら、おめえが察するかもしれねえ。
自分の命が、長くねえってことを。
だから、ギリギリまで黙っていた。余計な気をもまねえように。ただでさえ少ねえ体力を、消費しねえように。
式場についたとき、パステルは、信じられない、という目で俺を見てきた。
「トラップ……?」
「おら、行け! ただでさえちっと色気に足りねえんだ。化けてこい!」
「ななな何ですって!?」
がらがらがらっ
それ以上文句を言う暇を与えず、プロのメイク担当者に車椅子を押し付ける。
事情を知っていたのか、相手は驚くことなく、即座に控え室へとパステルを連れていった。
係りの人間がやってくる。トマスとかいう人の良さそうなその男は、車椅子のパステルを見て、柔らかな笑みを浮かべた。
「お綺麗なお嫁さんですね」
「ああ。俺にとっちゃ、世界一の嫁さんだ」
余計な慰めを言わず、予定だけを告げてくる。そんなトマスの態度が、嬉しかった。
ヴァージンロードの先にいたパステルは、綺麗だった。
パステルに両親はいねえから、俺の親父が代理を務めている。
車椅子を使わせるって案もあったが、それはパステル自身が拒絶したらしい。
ふらつく足取りで、それでもしっかり床を踏みしめて、ゆっくりこっちに歩いてくる。
痩せて顔色が悪かった肌は、化粧で見事にごまかされていた。
詰め物でもしてごまかしたのか、ウェディングドレスも、ぴったりだった。
つまりは……すげえ、綺麗だった。
「トラップ……」
「バカ、泣くな。化粧が落ちるだろーが」
「だって……だって……」
親父の手を離れ、俺の手にすがりつく。
「だって、こんなに幸せでいいの? わたし……色んな人にいっぱい迷惑かけてるのに。それなのに……」
「余計なこと考えるなって」
「だって……」
「ほれ、神父が困ってるだろうが。前向け、前」
ぐいっ、と肩をつかむと、苦笑を浮かべた神父が、長々と言葉を連ね始めた。
式場全体から、失笑が漏れる。パステルの顔が真っ赤に染まった。
「永遠に愛することを、誓いますか?」
「誓います」
永遠に愛する。こいつを、ずっと。
神を相手に嘘をつくような度胸はねえ。俺は、心から頷いていた。
式が終わった後、本当は病院にとって帰るつもりだった。
そこまでパステルの体力は持たねえだろうと思っていた。
だが……
「泊まってったらどうだ?」
無理してスケジュールを空けてきたクレイが、そっと囁いた。
「新婚旅行も行けないんだ。せめて……」
「……いいのか?」
「いいわけないだろう。医者としての意見は、な」
パステルの方に目をやる。マリーナやリタに囲まれて、幸せそうに微笑んでいるその姿を見て、クレイは言い切った。
「けど、俺個人の意見としては……パステルの望みを叶えてやりたい。病院に戻るか、お前と一緒に一晩過ごすか。どっちかを選べって言われたら……答えは決まってるだろう?」
その言葉で、踏ん切りがついた。
トマスを捕まえて話すと、すぐにでも一室用意する、とのことだった。
ばたばたと走っていくトマスを見送った後、クレイに視線を戻す。
「……さんきゅ」
「何言ってんだ。そもそもお前は外科医だろう? それも優秀な。お前さえいれば、滅多なことは無いだろうさ」
言われて思い出す。
……ああ、そうか。そういや、俺も医者だったな。
忘れてたぜ。パステルを救えねえことがわかったとき、自分の無力さを思い知ったときから。
部屋の鍵が渡された。
多分、これが……俺とパステル、二人きりで過ごす、最後の夜になる。
すげえ嫌な予感だが……俺の予感は、当たるんだよな。
「トラップ……ありがとう」
ホテルでも最高級のスイートルーム。
部屋に戻った途端、パステルは俺にしがみついて、泣きじゃくった。
「本当は、もう駄目かと思ったの。結婚式、できないんじゃないかって……ねえ、トラップ。わたし、本当は……」
言いかけるパステルの唇を塞ぐ。かさかさに乾いた唇。それを強引に押し開いて、深く、深くくちづける。
「……トラップ……」
「ばあか、何変なこと考えてんだ。俺が待ちきれなかったんだよ。おめえと早く結婚式を挙げたかった。それ以上の意味なんかねえっつーの」
我ながら下手な嘘だった。それでも、俺はそう言うしかなかった。
俺の言葉を聞いて、パステルは……微笑を浮かべて、抱きつく腕に力をこめた。
すっかり細くなった腕に、せいいっぱいの力をこめて、そしてつぶやいた。
「ねえ、トラップ……」
「あんだ?」
「ねえ。わたしを……その……」
うつむくパステルの顔が、真っ赤に染まっている。
……どーしたんだ?
「何だよ。言いたいことがあるんならはっきり言えよなあ」
「う、うん……」
「おめえの頼みなら、何でも聞いてやんぜ? 大事な奥さんだからな」
そう言うと。パステルは、意を決したように顔をあげた。
俺の目をまっすぐに見て……そして、つぶやいた。
「ねえ、わたしと……して、くれる? トラップ」
「……は?」
一瞬、言われた意味がわからなくて返事に困る。
して……くれる? だと……? それは……
「だから、その……わ……」
まじまじと見つめると、パステルは、さらに真っ赤になって、言った。
「わたしを……抱いて。トラップ……」
「…………」
好きだ、と言ったのも。プロポーズをしたのも。
キスをするのも、抱くのも。
いつだって、誘うのは俺からだった。パステルから俺を求めたことは、一度も無かった。
初めて……パステルが、自分から、言った。「抱いて欲しい」と。
医者としての冷静な俺がつぶやいている。
やめておけ。ただでさえ体力が落ちているのに、これ以上身体を痛めつけるつもりか。
わかってる。んなこたあ、十分にわかってるんだ。
けどっ……
「パステル……」
けど、どうして止められる?
目を見て、はっきりわかった。
パステルは、悟ってるんだと。自分の命がそう長くはねえことを、わかってるんだと。
多分……これが最後になることを、自分が一番、わかってるんだと。
寿命が縮まるのを覚悟で、俺に抱かれようとしている……そんなパステルを、どうして止められるってんだ。
再び唇を重ねると、パステルの方から、俺を求めてきた。
栄養が足りてねえせえか、乾いた唇。それでも、暖かかった。
ゆっくりとベッドに押し倒す。すっかりやせ細った身体を包むのは、簡素なワンピース。
背中に手をまわしてファスナーを引き下ろすと、すっかり細くなった首から肩のラインが、あらわになった。
「……ごめんね、トラップ……」
「あにがだよ……」
「色気の無い身体で」
「……ばあか。何言ってんだ」
泣かせるようなこと、言うんじゃねえ。
同じ台詞、俺が言ったら怒ったくせに。……いつものおめえでいてくれよ。
抱きしめたら折れそうな身体を、注意深く撫でていく。
大体、以前の俺は、優しくしてやろうと思っても、はやる気持ちを抑えきれなくて、荒っぽく扱うことが多かった。
そのたびに、パステルは泣きそうな顔をして、「痛い」とつぶやいていた。
だけど、今は……今だけは。痛みじゃねえ、快感を。
生涯忘れられなくなるような、素晴らしい思い出を与えてやりてえ。
痛みを軽減するために鎮痛剤を打ってるから、多分感覚は普段より鈍ってると思う。
だからと言って乱暴な愛撫は、後で痛みを残す。
それはひどく難しかったが、俺が手を動かすたび、パステルは、息をあらげて、あえぎ声を漏らしてくれた。
演技ができるほど器用な性格じゃねえことは知ってる。感じてくれている。
そう思うだけで、俺は十分に満足だったが。
ぐっと脚を開かせる。俺を受け入れてくれる場所に指をあてがうと、ぬるりという感触が返ってきた。
そっと唇を近づけると、パステルは反射的に脚を閉じようとしたみてえだが……
ふっと微笑みかけると、照れくさそうに笑って、そのまま動きを止めた。
ゆっくりと舌をさしいれる。甘い味。えぐるようにかきまわすと、パステルの声が大きくなった。
……もう、いいか……?
目で問いかけると、軽い頷きが返ってくる。
「パステル……」
耳元で囁き、抱きしめる。
パステルの腕が、おずおずと背中にまわってくる。
貫くときの抵抗は、全くなかった。
たっぷり時間をかけて愛撫し、ゆっくり動いて。
すぐにでもイっちまいそうな自分を制するのにどれほど苦労したか、まあおそらくパステルはわかっちゃいねえんだろうが。
パステルの中で果てたとき、つぶやかれたのは……俺が、ずっと待ち望んでいた言葉。
「愛してる」
「……俺も。おめえだけを、ずっと愛してる」
そう言うと、パステルは心から幸せそうに笑った。
「わたし、幸せだよ。トラップがいれば、何もいらなかった。本当に……幸せ。今まで、ありがとう」
そして、目を閉じた。
「……パステル?」
「…………」
「パステル?」
いくら声をかけても、返事は、なかった。
あいつが使っていた病室のベッド。その枕元に手紙が置いてあるのを見つけたのは、マリーナだった。
ベッドを片付けてたら、見つけたの。そう言うマリーナの目は、真っ赤だった。
手紙の宛名は、「トラップへ」とだけ書かれている。
……何だ?
封を開けてみる。中には、見慣れたあいつの字が躍っていた。
トラップへ。
ありがとう。わたし、わかってるから。
トラップ、わたしのことをいつも鈍い鈍いって言ってたけど。
そんなことないよって、言いたかった。わたし、わかってたんだからね?
きっと、この手紙をトラップが見る頃、わたしはもういないだろうって。
わたし、今まで本当に幸せだった。
トラップさえいてくれれば幸せだったから、わたし、頼みたいことなんて何も無かった。
わがままなんか言いたくなかったし、言う必要もなかった。だって、わたしが求めることは、全部トラップがしてくれたから。
だけど、ね。最後に、一つだけ、お願いがあるんだ。
結婚の約束は、無かったことにしてください。
この前、聞いたよね。「結婚式の準備は?」って。
そうしたら、トラップ、当たり前のように、「準備は俺にまかせとけ」って、言ってくれたよね。
わたしと結婚してくれるんだ、って。その気持ち、変わってないんだって、それがわかっただけで十分だから。
わたし、トラップの重荷になりたくないから。
トラップには、幸せになって欲しいから。
だから、わたしのことは忘れて。わたしには、今までの思い出だけで十分だから。
立派なお医者さんになって、いっぱい患者さんを救ってあげて。トラップに助けてもらって、幸せになれた患者さんを、わたしはいっぱい知ってるから。
色んな人を幸せにしてあげて。わたしを幸せにしてくれたように。
ありがとう。
あなたに会えて、本当に、よかった。
パステル
――ぐしゃっ
思わず手紙を握りつぶす。
……何で、あいつはっ……
こんなに、どこまでも……鈍いんだよっ……
「忘れるわけ、ねえだろうが」
俺の指にはまっているのは、マリッジリング。
あいつの指にもはめて……そして、そのまま一度も抜かなかった、おそろいの指輪。
「忘れるわけねえだろう? 俺の嫁になる女は、おめえ一人しかいねえよ……パステル」
あのまま、病室に戻って来れたら。
そうしたら、この手紙は、捨てられたのかもしれねえ。
もっと違う内容になったのかもしれねえ。
……仮定の話に、意味なんかねえけどな。
あいつが何を考えていたのか……わかるのは、あいつだけだから。
「トラップ。患者さん、呼んでもいい?」
「……ああ、頼む」
外から響くマリーナの声に答えて、立ち上がった。
……本当は、医者をやめようかと思ってた。
大切な女一人救えなくて、医者なんかやってる意味はねえんじゃねえかって、そう本気で思った。
けど。
手紙のしわを丁寧に伸ばして、たたむ。
この手紙、いつまでも持ってるからな。
おめえが俺にくれた、最初で最後の手紙だから……
診察室のドアがノックされる。
俺は、外科医の顔に戻って、振り返った。
「どうぞ。……今日は、どうされましたか?」