もう、何もかもが嫌になっちゃった。 
 通っている学校の屋上。普段は立ち入り禁止な場所。 
 その柵にもたれかかるようにして、わたしはつぶやいていた。 
 何で、わたしばっかりこんな目に合うんだろう。 
 わたしが、一体何をしたっていうの? 
 言っても仕方がないことだとはわかっているけど、言わずにはいられなかった。 
 たった一日で起きたこと。 
 昨日一日。あれから、まだ一日しか経ってないなんて……信じられない。 
 柵にもたれかかると、ぎいっ、と嫌な音がした。 
  
 わたしの通っている学校には、とっても素敵な先輩がいる。 
 クレイ・S・アンダーソン先輩。 
 現在わたしより一つ上の三年生で、さらさらの黒髪とモデルみたいな長身、そのへんの芸能人顔負けの整った顔。 
 文武両道、って言うのかな? 成績優秀で剣道部の主将をつとめていて、すっごく立派な家柄を持っていて……と、何もかもに恵まれた人。 
 さらにすごいのは、それだけ何もかも持っているのに、本人にそれを鼻にかけるところが全然無いっていうところ。 
 いつだって誰にだって優しくて、男子にも女子にも先生にも、誰からも人望がある、そんな人。 
 好き、だった。 
 最初は、素敵な人だなあ、って影から見守っているだけで十分だったんだけど。 
 そのうち、先輩の顔を見るだけで、すっごくすっごく幸せな気分になれて。 
 胸がほんわかあったかくなるっていうか……とにかく、特別な思いを抱くようになった。 
 好きなんだ、と思った。だから、告白しようと思った。 
 別に、付き合って欲しいなんて大それたことは考えてない。ただ、わたしみたいなこれといって取り得の無い女の子のことなんか、先輩は存在も知らないだろうから。 
 わたしっていう子がいるってことを、知って欲しかった。 
 でも、面と向かって告白する度胸なんかなかったから。だから、ラブレターを渡すことにしたんだ。 
 わたしは国語が得意で、文章を書くのが好きだったから。 
 だから、夜中までかかって何回も何回も書き直して、必死に書いたラブレター。 
 朝、それを先輩の下駄箱に入れたとき、すっごくすっごく心臓がドキドキして、慌ててその場を離れた。 
 返事なんか来ないかもしれないけど……でも、それはそれで仕方が無いって思った。 
 先輩はあんなに素敵な人だから。もう彼女がいたってちっともおかしくない。 
 ただ、思いを伝えられただけで満足。そう自分に言い聞かせて、それでも、ほんのちょっとだけ、いい返事が来るのを期待してしまう自分がいた。 
 いいよね? 期待するだけなら、夢を見るだけなら自由だよね? 
 そんなことを考えて、その日の授業は何にも手につかなかった。 
 ……けど。 
 現実は、夢みたいにはいかなかった。 
 断られることも、返事が来ないことも覚悟していた。 
 でも、実際は……もっと、もっと残酷だった。 
 わたしの下駄箱の中に入っている、紙切れ。 
 びりびりに引き裂かれた封筒と便箋。 
 一目見てわかった。忘れるわけがない……昨夜、嫌っていうくらい何度も何度もチェックしたから。 
 わたしが書いた、ラブレター…… 
 ぽつん、と涙が零れ落ちるのがわかった。 
 迷惑かもしれない、とは思った。 
 だけど……あんなに一生懸命書いたのに。この仕打ちはないって思った。 
 わたしは、先輩のことをとっても優しい人だと思っていた。だけど、影から見ているだけで、実際にしゃべったことはなかった。 
 勝手な幻想だったんだ、と思い知った。 
 わたしが先輩に押し付けていたのは勝手な幻想で、先輩だってやっぱり人間なんだから……嫌な気分になることだってあって。 
 迷惑なラブレター。あんなに素敵な先輩だもん。それこそ、これまでに何十通と受け取っているに違いない。 
 ただ、存在を知って欲しかっただけなのに。 
 あんなに、一生懸命書いたのに。 
 悔しくて、みじめで、わたしは、ただ感情にまかせて泣くことしかできなかった。 
  
 それだけでも、十分に傷ついていた。 
 初恋だったから。ラブレターを書くのも初めてだったけど、もちろん、振られるのも初めてで。 
 こんなに、こんなに辛いものだとは思わなかった。 
 そうしてとぼとぼと家路についたわたしを待ち受けていたのは、突然の両親の訃報だった。 
「えっ……?」 
「ですから……先生と奥様は、事故で……」 
 電話越しに聞こえる、お父さんの助手だったジョシュアの声が、とっても遠くに聞こえた。 
 わたしのお父さんとお母さんが……死んだ。 
 自動車事故。二人とも即死。 
 そんな言葉が、ずらずらと耳に入ってくるけど……何も考えることができなかった。 
 何で。 
 何で、わたしばっかりこんな目に合うの? 
 わたしが……一体何をしたっていうの? 
「お嬢さん? パステルお嬢さん!?」 
 ジョシュアのとてもとても焦った声が、耳に届いたけれど。 
 わたしはもう、返事をしよう、という気にもなれなかった。 
  
 お葬式とお通夜。それらは、全てジョシュアがとりしきってくれることになった。 
 わたしには、そういう事務的なことはさっぱりわからなかったから。 
 だから彼はとても忙しそうで、わたしに構っている暇なんか全然無いみたいだった。 
 だから……彼の目を盗んで、お葬式の会場をそっと抜け出すのは、とても簡単なことだった。 
 学校の屋上。以前、立ち入り禁止のはずなのに、実は鍵が壊れていて簡単に開くことを知った。 
 ここに来た理由は……何なんだろう? 
 自分でも、よくわからなかった。 
 柵にもたれかかる。地面が、とても、とても遠くに見えた。 
 ……お父さんとお母さんに、会えるかもしれない。 
 ふとそんな考えすら浮かぶ。 
 もし、ここからとびおりたら……きっと助からないだろう。 
 そうすれば、この嫌な現実を忘れられるかもしれない。また、あの優しい両親と一緒に……暮らせるかもしれない。 
 そう思い付いたとき、何だか、それはとっても素敵な考えのように思えてきた。 
 そっと柵に体重をかける。ぐっ、と身を乗り出そうとして…… 
「やめとけよ」 
 不意に耳元で囁かれた声に、わたしはそのままバランスを崩しそうになった。 
「きゃあああああ!!?」 
「やめとけよ。死んだって、何もいいことなんかねえぜ?」 
 ぐらり、と前のめりに柵を越えそうになった身体。 
 その動きが止まったのは、わたしの腕をがっしりとつかんでいる、力強い手のせい。 
 ……えっ!? 
 ばっ、と振り向く。足から力が抜けて、ずるずるとその場にへたりこんだ。 
 目の前に立っていたのは、男の子だった。 
 燃えるような赤い髪が印象的な、男の子。 
 端正な顔立ちに意地悪そうな笑みをはりつかせ、細く引き締まった身体を制服で包んで、立っていた。 
 ……いつの間にっ…… 
 全然気づかなかった。いつから、そこにいたんだろう? 
「ここ……立ち入り禁止のはずでしょ?」 
「あんただって、入ってんじゃん」 
「そうだけど……」 
 かっこ悪いところを見られた。その気恥ずかしさも手伝って、わたしは、そんなどうでもいいことを言っていた。 
 ぷいっ、と顔をそらす。冷たいコンクリートに座り込んでいると、ぞくぞくと全身に震えが走った。 
 しばらく、沈黙だけが流れる。早くどこかに行ってくれないか、と思ったけれど。彼は立ち去る気はないみたいだった。 
 ただ、じーっとわたしを見下ろして。そして。 
「……あんたさあ、俺に何か言うことはねえの?」 
「……え?」 
 突然かけられた言葉の意味が、わからない。 
 視線を戻す。意外なくらい近くに、彼の明るい茶色の瞳が迫ってきていた。 
「なっ……」 
「あんたさ」 
 がしっ、と肩をつかまれる。 
 細い身体の割には、意外と大きな手。意外な力強さ。そんなことに気づいて、ちょっと鼓動が早くなるのがわかった。 
「な、何?」 
「あんたさ、人が助けてやったのに、礼の一つもねえの?」 
「あ……」 
 助けてやった。 
 その言葉に、さっきの出来事を思い出す。 
 柵を乗り越えようとしたわたし。それを止めてくれた彼。 
 ……わたし、何を考えていたんだろう…… 
 視線を柵の向こうにやって、改めて、その地面の遠さにぞっとする。 
 何を考えていたんだろう。死んだら、両親に会えるかも、なんて。 
 今更怖くなった。だけど、それを認めるのが悔しかったから、ぎゅっと唇をかんで、うつむいた。 
「助けてくれなんて、誰も言ってないじゃない」 
「…………」 
「放っておいて。わたしは……死にたかったんだから」 
「……そっ」 
 かけられた言葉は、素っ気無かった。 
 ふっ、と身体が離れる。男の子は、わたしから数歩後ずさって、くいっ、と顎を柵の方に向けた。 
「そりゃあ、お節介なことをしちまったようで……んじゃ、遠慮なくどうぞ」 
「……え?」 
「とびおりろ、っつってんだよ」 
 男の子の目は、冷たかった。 
「もう止めねえよ。見ててやるから、とびおりろって」 
「なっ……」 
 つうっ、と背中を汗がつたうのがわかった。 
 じいっ、と視線を感じる。引っ込みがつかなくなって、わたしはよろよろと立ち上がった。 
 ぐっ、と柵にしがみつく。遠い遠い地面。叩きつけられたときの痛みなんて、一瞬かもしれない。 
 でも、一瞬とはいえ……すごく、すごく痛いだろうな。 
 そんな余計なことばっかり考えてしまう。 
 ぎゅっと目を閉じる。見られているとわかったら、気ばっかりが焦ってしまって……ますます勇気が遠のいていくのがわかった。 
 ……情けないっ。 
 自分の中途半端な考えを思い知らされて、閉じた目から涙がこぼれた。 
 情けない、情けないっ…… 
 そうして、柵に体重を預けて背中を震わせていると。 
 ふと、暖かい感触が、肩にまわってきた。 
「無理すんなっつーの」 
「…………」 
 肩を抱かれている、ということに気づいたのは、少し経ってからだった。 
「死んだってなあ、何もいいことなんかねえぜ? ちっと落ち着けって。勢いだけでとびおりたって、不幸になるだけだぜ?」 
「……何で、そんなことわかるの?」 
「さあ、何でだろうな」 
 へらへらと笑いながら、男の子は言った。 
「一体何があったんだ?」 
「…………」 
「話してみたら、楽になるかもしれねえぜ? ま、無理に聞くつもりは、ねえけどよ」 
「…………」 
 初対面の男の子に、話すようなことじゃないと思う。 
 だけど、気がついたとき。 
 わたしは、男の子の胸にすがりつくようにして、大声で泣きながら……それまでに起きたことを、全部、全部話してしまっていた。 
 何で話そうって気になったのかはわからない。だけど、彼の目が、ひどく真面目で。本当にわたしのことを心配してくれているのがわかって……そうと気づいたとき、話したい、と思った。 
 わたしの長い上に要領をえない話を、男の子は辛抱強く聞いてくれた。 
 そして。 
 何もかも話し終わった後も、彼は特別な慰めの言葉は、何も言わなかった。 
 ただ、優しくわたしを見つめて、そしてポン、と肩を叩いただけ。 
「お疲れさん。気がすむまで、泣けよ」 
 素っ気無いくらい短い言葉なのに。 
 それは、何だかひどく胸に染みる言葉で……わたしは、言われた通り、わんわんと大声で泣き続けた。 
 辛かった、悲しかった、寂しかった。 
 だけど、それを慰めてくれる人は誰もいなかったから。一人で抱え込むしかなかった。 
 今、初対面の男の子が、それを受け止めてくれて。 
 それでようやく、わたしは、ほんの少しだけ、胸にたまった重圧を取り除くことができたのだ。 
  
 随分長いこと泣いていたような気がするけど、実際には、そんなに長い時間じゃなかったのかもしれない。 
 我に返ったのは、ポケットで鳴り響く携帯の着信音を聞いたときだった。 
「あ……」 
 ぱっ、と顔をあげる。間近に見える男の子の顔。 
 その胸に、ついさっきまですがりついていたんだと。そんなことを今更実感して、急に気恥ずかしくなる。 
「ご、ごめん、ちょっと」 
 口の中でぼそぼそとつぶやいて、携帯を取り上げる。 
 画面に出ている名前は、ジョシュアのものだった。 
 ……いっけない。 
「もしもし?」 
『お嬢さん!? 一体今、どこにいるんですか!!?』 
「あ、ごめん……ちょっと、一人になりたくて」 
『すぐに戻ってきてください! こっちは大騒ぎになってるんですよ!?』 
「ごめん、本当にごめん……わかった。もう戻るから」 
 ピッ、と通話を終える。 
 さっきまでは、もう戻るつもりなんか無かったのに。 
 ジョシュアの、すごくすごーく心配そうな声を聞いたら、帰らなくちゃ、と思えた。 
 わたしを心から心配してくれているのが、よくわかったから。一人じゃないって、わかったから。 
「ごめん、もう行くね」 
 そう声をかけると、男の子はしばらく何も言わなかったけれど。やがて、「ああ」と小さくつぶやいた。 
 その顔は、何だか少し寂しそうだった。 
「色々、ありがとう。……ねえ、あなた、うちの学校の生徒だよね。何年何組?」 
「…………」 
 わたしの言葉に、男の子は答えない。 
 ただ、すごく皮肉っぽい笑顔をはりつかせて、くいっ、と屋上の出入り口を指し示した。 
「早く行かねえと、やばいんじゃねえの?」 
「あ……うん、そうだけど」 
「行けよ」 
 ……何なんだろう。わたし、何か悪いこと……聞いた? 
 だけど、男の子の雰囲気は頑なで、教えてくれそうになかったから。だから、わたしは黙って、立ち上がった。 
 実際に、時計を見たら、もうとっくに葬儀が始まっている時間で、一秒でも早く戻らなくちゃいけなかったし。 
 たたっ、と走り出す。でも、一つだけ。どうしても知りたいことがあったから、出入り口をくぐる寸前、一度振り返って叫んだ。 
「わたしの名前、パステルっていうの。ねえ、あなたの名前は?」 
 そう言うと、男の子は口元だけで微笑んで、言った。 
「トラップ」 
 トラップ。それが、彼の名前。 
 それが、わたしと彼の、最初の出会いだった。 
  
 考えてみれば、トラップの言う通りだったな、と思う。 
 一時の激情に駆られて、死のうなんて考えて。 
 でも、こうして落ち着いて現実を見てみれば、こんなにも素敵なことはたくさんあるのに。 
 そう、例えば。 
 葬儀が終わって、忌引が終わって、学校に顔を出したとき。 
 心配そうな顔をした同級生達は、それでも、下手な慰めなんか何の慰めにもなりはしない、とわかっていたのか。 
 わたしにいつも通りの態度を取ってくれた。 
 それは別に大したことじゃないのかもしれないけれど、それでも、わたしは嬉しかった。 
「大変ねえ」 
「寂しいでしょう?」 
 そんなありきたりの慰めの言葉は、聞き飽きていたから。 
 
 ふと気が向いて、昼休みに屋上に上る。 
 特に目的はなかった……はず。 
 だけど、ドアを開けたとき、無意識に目で探してしまったのは、鮮やかな赤。 
「いないのかなあ……」 
「誰、捜してんの?」 
「きゃあっ!?」 
 不意に背後からささやかれて、弾かれたように振り向く。 
 そこに立っていたのは、まぎれもなく、わたしが捜していた赤。 
「トラップ……」 
「よっ。やあっと学校に来る気になったのかよ?」 
 あのときと同じく、気配もなくわたしの後ろにたたずんでいた彼は、ニヤニヤ笑いながらわたしの顔を覗きこんできた。 
「んで? おめえは、何しにここに来たんだ? まーたとびおりにきたとか?」 
「まさかっ!」 
 今度は、即答できた。 
 ぼろぼろに傷ついた後だったからかもしれないけれど。トラップの優しさ、ジョシュアの優しさ、クラスメートの優しさ。 
 それらがとても心に染みて、嬉しくて嬉しくて、そしてもっとこの思いを味わいたい、と思えたから。 
「お礼を言いにきたの」 
「あん?」 
「あのとき、助けてくれてありがとう」 
 そう言うと、トラップはちょっと呆気に取られたみたいだったけれど。 
 耳まで真っ赤に染めて、ぷいっ、と視線をそらした。 
「おせえんだよ、ばあか」 
「ごめんね」 
 本当に、ありがとう。あなたのおかげで、わたしはわたしを気遣ってくれる色んな人の存在に気づくことができた。 
  
 それから、昼休みが終わるまで、わたしとトラップはだらだらとどうでもいいことをしゃべり続けた。 
 クラスメートのことだったり、先生の噂話だったり。 
 トラップと会話をするのは楽しかった。こんなに昼休みを短く感じたのは、初めてかもしれない。 
「ねえ、トラップは、いつもここにいるの?」 
 そう言うと、彼は「ああ」と頷いた。 
「授業なんて、かったりいし。別に出なくたって困りゃしねえじゃん?」 
 何て言い草だろう、と思った。それじゃあ、学校に来てる意味が無いじゃない。 
 でも、トラップがそう言うと、何となくそんな風に思えてくるから不思議だ。 
「そっ。留年しても知らないから」 
「しねえしねえ。それはぜってー無い」 
「どうしてそんなに自信満々なのよ」 
「俺だからな」 
 その言葉の意味はよくわからなかったけれど。 
 そう言いきるトラップの顔は、本当にそう信じてるみたいだったから、それ以上お説教じみたことを言うのもバカらしくなった。 
「じゃ、わたしはもう授業行かなくちゃいけないから」 
「おう」 
 短い挨拶。そうして、出入り口に歩き出すのはわたしだけ。あのときと同じ。 
 そして、今回も。どうしても言いたいことがあったから、わたしは一度だけ振り向いた。 
「ねえ、また、ここに来てもいい?」 
 そう言うと、トラップはちょっとだけ嬉しそうな顔をして、「ああ」と頷いた。 
 屋上に来れば、トラップに会える。 
 そうわかったら、何だか学校に来るのがとても楽しみになった。 
  
「嘘。本当に……いいの?」 
「はい」 
 わたしの言葉に、ジョシュアは大きく頷いた。 
 49日が終わって。色んなごたごたに整理がついて。 
 両親の遺産なんかを正式に相続して、とりあえず当面の生活費には困らないことがわかって安心していたけれど、でも、それだって一生持つわけじゃないし。 
 これからどうしようか……そう悩んでいたとき、ジョシュアが言ってくれた。 
「僕が、パステルお嬢さんと一緒に暮らします」 
 そう聞いたとき、耳を疑ってしまった。 
 だって、ジョシュアはあくまでもわたしのお父さんの助手で。お父さんが死んだ今、わたしには何の義理も無いはずなのに。 
「だって……ジョシュア、あなたは」 
「僕は、先生には大変お世話になりました。パステルお嬢さんのことだって、こんなに小さいときからお世話してきたんです」 
 ジョシュアの言葉は熱かった。本気で言ってくれてるんだということが、よくわかった。 
「お嬢さんのことが心配なんです。いつか、お嬢さんをまかせても大丈夫だ、という人が現れるか……一人にしても大丈夫だ、と思えるまで、僕がお嬢さんのお世話をしますから。いえ、させてください!」 
 ……何で。 
 何で、こんなにわたしのことに必死になってくれてるんだろう。 
 こんなにもわたしのことを考えてくれている人がいることに、わたしは何で気づかなかったんだろう? 
「ありがとう……」 
 一人で広い家にいると、どうしようもなく寂しかった。 
 友達を呼んだりしてみたけれど、そんなのは所詮一時的なこと。 
 でも、これからは一人じゃない。 
「ありがとう、ジョシュア」 
 また、トラップに報告することができた。 
 あなたがわたしを助けてくれたおかげで、またわたしは一つ、今まで気づかなかったものに気づくことができた。 
 そう考えただけで、とても……とても、幸せな気分になれた。 
  
「そりゃ、良かったな」 
 最近では、昼休みに屋上に上って、トラップと話すのが日課のようになっていた。 
 ジョシュアが一緒に暮らしてくれることになった、と報告すると、彼は何だかちょっと不機嫌そうだったけど、わたしにはその理由がわからない。 
「ねえ、本当に、生きてるといいことがいっぱいあるよね。トラップのおかげだよ。本当に、本当にありがとう」 
「けっ。礼なんか聞き飽きたっつーの」 
 そう言って、ごろりと床に寝転がるトラップは、やっぱりいつもよりも不機嫌そうに見える。 
 ……どうしたんだろう? 
「ねえ、トラップ。わたし、何かした?」 
「……あんで」 
「だって、不機嫌そうに見えるから……」 
 そう言うと、トラップは音もなく上半身を起こした。 
 その顔は、何だか妙に赤い。 
「トラップ?」 
「……その、ジョシュアって奴……」 
「うん?」 
 トラップは、ぷいっ、と視線をそらして言った。 
「男、だよな?」 
 ……は? 
「そうだけど?」 
「おめえと、一緒に暮らすって?」 
「う、うん?」 
 そうだけど……それが、どうしたんだろう? 
 どうして、そんなことが気になるの? 
「それが、どうかした?」 
「……何でもねえよっ」 
 視線をそらしたまま、彼は再びごろりと横になった。 
 ……何でもないようには見えないんですけど。 
「ねえ、どうしたの?」 
「……おめえ、無防備だよなあ」 
「はあ?」 
 寝転んだまま、トラップは、鋭い視線でわたしをにらんだ。 
 妙に真面目で、熱い視線。それに射抜かれて、一瞬ドキリとする。 
「無防備って?」 
「赤の他人の男が、一緒に暮らしたいって言ってきて……それで、何の危機感も抱かねえわけ?」 
「……はあ?」 
 そこまで言われたら、さすがにわたしも彼が何を言いたいのかわかった。 
 そして、瞬時に頭に血が上る。 
 なっ、何言ってるのよ! 
「ば、バカっ、何考えてるのよ、もう最低っ!」 
「…………」 
「ジョシュアはね、わたしがずっと小さい頃から面倒みてきてくれたのよ? お父さんみたいな人なんだから。どうしてそんなこと思いつくのよっ!」 
 ジョシュアの思いを汚されたような気がして、わたしがばっ、とトラップに背を向けると。 
 背後から伸びてきた腕が、ぐいっ、とわたしの首にまわされた。 
「きゃっ!」 
「……わり」 
 聞こえてきたのは、小さな謝罪の声。 
 ぼすん、と頭にあたる、妙に硬くてそのくせ暖かい感触は……トラップの、胸? 
「なっ……」 
「わりい。つまんねえこと言っちまって」 
「……わ、わかればいいのよ。わかればっ!」 
 そんな風に謝られたら、許すしかない。 
 それに……何でだろう? 
 何だか……確かに、言われたときは腹が立ったけど。そうして謝られて、よーくよーく考えてみると。 
 腹が立ったけど。ちょっとだけ……嬉しかったかも? 
「ねえ、トラップ」 
「あんだよ」 
「……あのね。よかったら、今度……」 
 今度、家に遊びに来ない? ジョシュアに、あなたを紹介したい。 
 そう言おうかと思ったけれど。 
 その言葉は、昼休み終了を告げるチャイムの音で、かき消された。 
「あんだって?」 
「……何でもない」 
 いいか、また今度で。 
 タイミングを逃したせいか、急に気恥ずかしくなって、わたしはスカートを払って立ち上がった。 
「じゃあ、また明日ね」 
「おう」 
 いつもと同じように、屋上から出て行くのはわたしだけ。 
 わたしが立ち上がった後、トラップは、ごろりと床の上に寝転がっていた。 
 ねえ、トラップ。 
 あなたは……わたしがいなくなった後、いつも何をやっているの? 
  
 もっとトラップのことが知りたいと思った。 
 昼休みの短い時間が待ち遠しくて仕方がなかった。 
 初めて出会ったときは、少し冷たい印象を抱いて。でも、冷たくみせかけて、実はとても優しい人だとわかって。 
 この気持ちは、何なんだろう? 
 恋、なのかな。 
 でも、わたしが好きなのは、クレイ先輩みたいな人。 
 トラップは確かにかっこいいけれど、ぶっきらぼうだし、何を考えているのかよくわからないところもあるし。それに、そもそもわたしはトラップのことを何も知らない。 
 彼が何年何組の生徒……ううん。そもそも本当にうちの学校の生徒なのか。フルネームは何なのか、どこに住んでいるのか、何も知らない。 
 知っているのは、顔と、トラップという名前と、屋上に行けば会えるっていうことだけ。 
 こんなに何も知らないのに、好きになるはずなんか無い。 
 そう思っていたけれど、それでも…… 
 会えば会うほど、トラップに惹かれていくのがわかった。 
 その顔をもっと見ていたいと思った。話をしたい、と思った。もっと長く一緒にいたい、と思った。 
 だけど、わたしが行けるのは、昼休みの間だけ。 
 以前、ふと思いついて放課後に屋上に行こうとしたことがあったけれど。屋上に向かう階段の近くには、色んな部の部室があって、人で溢れていたから。 
 立ち入り禁止、と書かれた場所に堂々と上っていくのは、気がひけた。 
 ……しょうがないよね。 
 昼休みの短い時間をめいっぱい楽しみながら、わたしは自分に言い聞かせていた。 
 トラップのことを色々聞こうとしても、彼はいつもはぐらかしてしまう。 
 何か聞かれたくない事情があるのかもしれない。しつこく聞いたら嫌われるかもしれない。 
 そう思ったら、それ以上質問を繰り返すこともできなかった。 
 仕方ないよね。短い時間でも……こうして、学校に行けば毎日会えるんだから。 
 それで、満足しないと。 
  
 そして…… 
  
 それは、ある日の放課後のことだった。 
「あなた、パステル・G・キングよね?」 
 突然教室にやってきたのは、三年生の先輩達だった。 
「はい、そうですけど……」 
 見覚えのない人達だった。何の用なんだろう? 
 わたしが答えると、彼女達は「ちょっと、こっちに来てくれない?」とわたしを教室から引っ張り出した。 
 連れてこられたのは、校舎の裏。滅多に人通りの無い場所で、わたしは壁に叩きつけられていた。 
「あのっ……」 
「この子がっ!? 何よ、全然普通じゃない」 
「その程度の顔で、クレイ様にラブレターなんて図々しいのよっ!」 
「あ……」 
 ラブレター、と聞いて思い出す。あの日のみじめな記憶。 
 もう半ば忘れかけていたけれど。それでも、思い出すと胸が痛くなる。 
 少しでも存在を知ってもらいたいと、夜中までかかって必死に文字を連ねた夜の記憶。下駄箱に入れるときの、心臓が破れそうなくらいドキドキした記憶。 
 そして…… 
 まさか、と思った。そう思ったとき、今まで胸にたまっていたもやもやが、すーっ、と晴れていくのがわかった。 
「じゃ、じゃあ、あれ、破ったのは……」 
「はん、あたし達よ。あんたの手紙なんか、クレイ様にとっては迷惑なだけなの!」 
「親切に目に触れる前に処分してあげたのよ? ありがたく思いなさいね」 
 そう言って、きゃははと笑う先輩達。 
 それは随分と勝手な言い草で、わたしは怒ってもいい場面だったと思うけど。 
 嬉しかった。 
 クレイ先輩じゃなかった。ラブレターを破ったのは、わたしの気持ちを踏みにじったのは先輩じゃなかったんだ。 
 そうとわかっただけで、わたしは満足だった。 
「何よ、にやにやしちゃって気持ち悪い」 
「わかった? わかったら、二度とクレイ様に近づくんじゃないわよっ!」 
 先輩達が詰め寄ってくる。そのときだった。 
「君達、そこで何してるんだ?」 
「……え?」 
 突然響いた、よく通る声。その声に、その場に居合わせた人達が、一斉に振り向いた。 
 もちろん、わたしも。 
 そして、その先に立っていたのは…… 
「くっ、クレイ様っ!?」 
 先輩達の悲鳴のような声が、妙に耳についた。 
 そこに立っていたのは、クレイ・S・アンダーソン先輩。 
 わたしがずうっと好きだ、と思っていた人。彼は、美麗な眉をしかめて、わたしと、先輩達を見渡した。 
「クレイ様、いつからそこに!?」 
「……悪いけど、最初からずっと聞いてた。彼女が、教えてくれてね」 
 そう言って、クレイが指し示したのは…… 
 り、リタ!? 
 クレイの後ろに隠れるようにしてひらひらと手を振っているのは、クラスメートのリタだった。わたしの、一番仲のいい友達でもある。 
 そっか。わたしが先輩達に連れて行かれたのを、心配してくれて…… 
「君達……俺に来た手紙を勝手に破くなんて、それは、いくら何でも失礼じゃないか?」 
 そう言うと、先輩達は一斉に青ざめて、「だって」とか「それは」とか口の中でぼそぼそとつぶやいたけれど。 
 だけど、さすがにそれ以上言い訳のしようがないみたいだった。わたしとリタを交互ににらみつけて、「覚えてなさいよ!」とか言いながら、その場を走り去ってしまう。 
 ……助かった、のかな? 
「君、大丈夫?」 
「……あ、はい」 
 そんなわたしに、先輩は、優しく声をかけてくれた。 
「悪かったね。どうやら、君に随分失礼なことをしてしまったみたいで」 
「い、いいええ! 気にしないでください。クレイ先輩のせいじゃ、ないですから」 
 クレイ先輩は、優しかった。 
 わたしが思っていた通りの人だった。わたしの勝手な思い込みじゃなかったんだ。 
 そう思うと、心にひっかかっていたわだかまりが、すーっと溶けていった。 
 そして、同時に気づいた。わたしの、本当の気持ちに。 
「それで、手紙って、一体何が書いてあったのかな? 俺に、何か用事でも?」 
 クレイ先輩の言葉に、後ろから、リタが声を出さずにエールを送ってきた。 
 告白する、絶好のチャンスだと……多分、彼女はそう言いたいんだろう。 
 確かに、今は邪魔をする人は誰もいない。 
 けど…… 
「いえ、もういいんです」 
「え?」 
「もう、いいんです。ごめんなさい、先輩。気を使わせちゃって」 
「いや、それは別に構わないけど。いいの?」 
「はい。ありがとうございました」 
 ぺこり、と頭を下げると、クレイ先輩は首を傾げていたけれど。やがて、「それじゃあ。また何か言われたら、遠慮なく言えよ」と言って、去っていった。 
 残されたのは、わたしとリタだけ。 
「ちょっと、パステル! どうして言わなかったのよ!」 
 クレイ先輩の姿が見えなくなった後、リタはわたしに詰め寄ってきた。 
 彼女は、わたしが一年の頃から先輩のことを「いいなあ」って言っていたのを知ってるから。わたしの態度に納得いかないみたいだった。 
 無理も無い。実際、ちょっと前のわたしだったら、舞い上がっていたかもしれない。 
 でも…… 
「いいんだ、もう」 
「パステル?」 
「わたしね、多分、クレイ先輩のこと、本当に好きなわけじゃなかったと思うから」 
「……え?」 
 きっと、そうだ。 
 クレイ先輩は本当に欠けているところが無い人で、素敵な人だと思う。 
 でも、わたしはそれに憧れていただけ。手紙を破かれた、と思ったとき。わたしはみじめで悔しかったけれど。そのとき抱いた感情は、自分の勝手な理想が崩れてしまったことに対する嘆きだった。 
 例えどんな欠点があるとわかっても、それでも好きだと言える。 
 それが本当に好きな相手なんだと思う。わたしにとってのクレイ先輩は、そうじゃなかったから。 
「パステル?」 
「ありがとうね、リタ。本当にありがとう。わたし、やっと自分の気持ちに気づくことができた」 
 わたしがそう言って微笑むと、リタはにんまりと微笑んで、 
「さては、他に好きな人ができたでしょう?」 
 と言ってきた。 
「ばれちゃった?」 
 どうして、わかるんだろう。わたしの態度って、そんなにわかりやすいかなあ。 
 そう聞くと、「パステルの場合は、表情を見てれば八割くらい考えてることがわかっちゃうわよ」と言われてしまった。 
 そ、そうなんだ……ちょっとショック。 
「で、どんな人?」 
 リタの追求を、笑ってかわす。 
 まだ、言わない。 
 この思いを大事にしたいから。それに……あまりトラップのことを、人に言いたくなかった。 
 彼と二人っきりになれる時間を、大事にしたかったから。 
  
 自分の気持ちを自覚したとき、わたしは、すぐにでもトラップに会いたい、と思った。 
 だけど、屋上に出入りする階段の前は、相変わらず人通りが多い。 
 明日まで待てば? と理性は告げていたけれど。どうしても、どうしても今日中に伝えたかった。 
 ……そういえば、わたし、彼の携帯の番号さえも知らないんだ。 
 持ってるかどうかはわからないけれど。聞こうとさえ思わなかった。 
 どうせ、聞いても教えてくれないんじゃないか、と思ったから。 
 うーっ、いいもん。部活が終わるまで、待ってよう! 
 そう考えて、わたしは教室でじっと待つことにした。 
 そんな時間までトラップが屋上にいるの? なんて疑問も浮かんだけど。彼のことだから……きっと、いるような気がした。 
 根拠なんか何も無いけれど。屋上にさえいけば、いつだって彼に会えるような気がした。 
 そうして、西日が差し込む教室で、わたしは人通りが耐えるのをじーっとじーっと待ち続けて…… 
 
 気がついたら、寝てしまっていた。 
  
 ……嘘っ!? 
 目を開けたとき、既に教室の中が真っ暗になっているのに気づいて、がばっと身を起こす。 
 時計を見ると、もう夜の9時近かった。 
 嘘、嘘嘘! 寝ちゃった!? 
 あわわわわ、どうしようっ。 
 当たり前だけど、学校の中はシーンと静まりかえっていた。 
 携帯を取り出してみると、中はジョシュアからの着信履歴で埋まっていた。 
 うわあっ……マナーモードにしてたから気づかなかった…… 
 とりあえず、「リタと一緒に夕食を食べてから帰る」なんて嘘の連絡を入れておく。ごめんね、ジョシュア。心配かけちゃって…… 
 ……で、どうしよう。 
 真っ暗な教室を出て、屋上に上る階段の前で。わたしは悩んでいた。 
 どうせ、いるわけないと思う。もうこんな時間だし、普通の生徒なら、もう帰っちゃってるだろう。 
 だけど……見るだけなら。ちょっと見て、いなかったら、諦めて帰るから! 
 そう自分に言い訳して、そっと階段を上る。 
 真っ暗な階段は、ちょっと怖かった。通いなれた屋上に通じるドアを、ぎいっ、と開ける。 
 月の光がさえざえとあたりを照らしている。遮るものが何もない屋上。 
 夜風がちょっと寒かったけれど、我慢できないほどじゃない。 
 でも……やっぱり、そこに人の気配は、感じられなかった。 
「……いない、か。そうだよね。当たり前だよね、こんな時間だし」 
 ううっ、わたしって、どうしてこう間抜けなんだろう。 
 しょうがないや。明日、また出直そう…… 
 そう考えて、くるりと入り口の方を振り向いたときだった。 
 突然、脇から伸びてきた腕が、ぐっ、とわたしの二の腕をつかんだ。 
「きゃあっ!!?」 
「……やっぱ、おめえかよ……」 
 響いた声は、わたしが……すごく、すごく聞きたかった声。 
 振り向く。ドアの影から、気配もなくすっと現れる人影。 
 夜の闇の中でもすごく目立つ赤い髪。 
 どうしてこんな時間にここにいるの? なんて疑問は浮かばなかった。何だか、それが当然のことのような気がしたから。 
 トラップ。 
「トラップ……」 
「おめえ、こんな時間にこんなとこで……あにしてんだ?」 
 トラップの顔は、呆気にとられているみたいだった。 
 そうだよね。そりゃあ驚くよね……でも、どうしても。 
「あなたに会いたかった」 
「……あ?」 
「あのね、トラップ。わたしねっ……」 
 いざ言おうとすると、喉が強張って、なかなか声が出なかった。 
 だけど、言わなくちゃ。この一言を言うために、わたしはずっと待ってたんだから。 
 そんなわたしの様子を見て、トラップの目が、すっと細められた。 
 すごく、すごく優しい表情。そして…… 
 ぐっ 
 腕を引き寄せられた。あっと思ったときには、わたしはもう、彼に抱きしめられていた。 
「トラップ……」 
「言うな。俺に言わせろ」 
「え?」 
 ぎゅうっ、と腕に力がこもる。 
「初めて見たときから気になってたんだ。あの日、屋上におめえが来た日。あのときな、俺、本当は……」 
「……うん?」 
「……本当は、おめえを……」 
「何……?」 
 トラップは、何かを言おうとしているみたいだった。でも、何も言葉は出てこないようだった。 
 そして、かわりに。 
 彼の唇が、優しく、わたしの唇の上におりてきた。 
 ファーストキス……だった。 
 予告もなく奪われて、一瞬ぽかんとしてしまうけれど。それでも、怒ろうという気にはなれなくて…… 
「トラップ……?」 
「……好きだ」 
 囁かれたのは、甘い言葉。 
「好きだ……おめえのことが……」 
「トラップ……」 
 先に、言われちゃった。 
 わたし、わたしも……トラップのことが…… 
 すぐにも返事をしようとしたときだった。 
 不意に、トラップが顔を強張らせた。 
 そして、わたしを抱きしめたまま、入り口のドアの影にひきずりこんだ。 
「な……」 
 声をあげようとした途端、大きな手が、わたしの口を塞ぐ。 
 んー!? 何、何ー!? 
 わたしがあたふたとしていると、かつん、かつんという足音が、階段から響いてきた。 
 ……あ? 
 がちゃん、とドアが開く。そこから顔を出したのは、学校の宿直の先生。 
 み、見回りっ…… 
 ドアの影で、必死に身を縮こめる。 
 先生は、幸いなことにわたし達に気づいてないようで。軽く屋上を見回すと、それだけであっさりと帰っていった。 
 た、助かったあ…… 
 ほうっ、とため息をついて、顔をあげて。 
 そして、どきりとした。 
 今の格好。わたしは、壁に押し付けられていて。すぐ目の前には、トラップの身体が…… 
「トラップ……」 
 彼の目が、じーっとわたしを見下ろしていた。 
 熱い眼差し。わたしを壁に押し付けている手は、緩みそうな気配がなく…… 
 そこで、初めて。わたしは、まだ返事をしていないことに気づいた。 
「トラップ」 
「…………」 
「好きだよ」 
 さっきとはうってかわって、言葉はすんなりと出てきた。 
 彼も、わたしと同じ気持ちだと。多分そう言ってくれたから、だと思うんだけど。 
 わたしがそう言った瞬間、トラップは、ひどく辛そうに顔をゆがめた。 
 もっとも、それは一瞬のこと。すぐに、彼の手は……荒々しく、わたしを抱きすくめた。 
「トラップ……?」 
「……我慢できねえんだ」 
「え?」 
 ぐいっ、と、セーラー服がまくりあげられて、トラップの手が、背中に直に触れた。 
「きゃっ!?」 
「ずっと、こうしたいと思ってたから」 
 その手の冷たさに、一瞬悲鳴をあげたけれど。 
 でも、彼の傷ついたような目を見て……すぐに、後悔した。 
 嫌じゃない。相手がトラップなら構わない。 
 もちろん、わたしは全くの初めてで……怖い、という気持ちが、無いわけじゃないけれど。 
「いいよ」 
 そう言うと、トラップの顔が、少しだけほころんだ。 
「いいのか?」 
「いいよ……好きだから」 
 そうつぶやいた途端。 
 背中にまわったトラップの手は、わたしのブラのホックを探りあて、ぱちん、と外してしまっていた。 
 ……うわっ。 
 涼しい風があたって、ぶるっ、と身震いする。 
 それに気づいたのか。トラップの腕は、ますます強くわたしを抱きしめていた。 
 ……安心、できる。 
 その腕に包まれて、心からそう思った。 
 トラップにまかせておけば、きっと…… 
 冷たい壁が背中にあたる。 
 胸の上までまくりあげられたセーラー服。耳元に直接触れる熱い吐息。 
 再び唇が重ねられた。今度は、さっきとは違う。触れるだけじゃない、もっと長くて、熱くて、深い……キス。 
「んっ……」 
 トラップの手が、わたしの胸に触れた。 
 最初は遠慮がちに。だけど、わたしがそれを拒否しなかったからか。やがて、その動きはどんどん激しくなっていく。 
「あっ……」 
 つん、と胸の先端部分とつままれて、びくん、と身体が震えた。 
 やあっ……な、何だろう。この感じは…… 
 ぞくぞくするっ…… 
「やっ……あ、ああっ……」 
「……感じやすいみてえだな、おめえ……」 
「ああっ……」 
 びくんっ 
 唇で胸をついばまれ、ぞくり、と背筋が震えた。 
 軽く触れたり、離れたり。胸に触れるとても温かくて、柔らかい感触。 
「やあっ……」 
 月の光が強くなって、あまり暗い、って感じがしなくなった。 
 見られていると思うと、余計に羞恥心が煽られた。 
「やっ、あ……あ、あんまり見ないでっ……」 
「……あんで?」 
「だってっ……あ、あんまり大きくないしっ……」 
 そう言うと、「ぷっ」とトラップは吹き出して、そして耳元で囁いた。 
「んなの、知ってるっつーの」 
「ひゃあっ!?」 
 耳たぶをなめられて、思わず悲鳴が漏れる。 
 じんわりと、身体が熱くなっていくのがわかった。 
 やっ……何だろう。 
 何か……何か、溢れてきそうっ…… 
「安心しろって」 
「何が……やあっ!」 
 ぐいっ、と右の太ももを持ち上げられた。その下に、トラップの膝が割り込んでくる。 
「あ……」 
 バランスを取ることが難しくなって、思わずトラップの首にしがみついた。けれど、彼はそれに迷惑そうな表情も見せず、むしろ嬉しそうな顔をして言った。 
「その方が、俺はいい」 
「何で……」 
「他の男が、おめえに興味示すくれえなら……俺だけのものになっててくれるなら、胸なんざなくたっていい」 
「なっ……」 
 びくりっ 
 太ももをなで上げられて、また震えが走った。 
 もう寒さは感じない。むしろ、ちょっと暑いとさえ思った。 
 けれど、震えは止まらない。 
「トラップ……」 
「怖がるなよ」 
 肩に顔を埋めるようにして、トラップは言った。 
「怖がるんじゃねえよ。俺にまかせとけ……」 
「あ……」 
 その言葉は、ひどく安心できた。彼にまかせておけば大丈夫だと、本気で思えた。 
 太ももを這い上がる指が、遠慮なく、わたしの内部へと侵入していった。 
 ひどく乱暴なようでいて、優しくて。性急なようでいて、緩慢で。 
 とても複雑な動き。そのたびに響く淫靡な音が、やけに大きく聞こえた。 
「や、は、恥ずかしいっ……」 
「だいじょーぶ。俺以外に、聞いてる奴なんざいねえよ」 
「だって……」 
 あなたに聞かれるのが、恥ずかしい。 
 自分が、こんなに淫らな人間だなんて……知らなかったから。 
 それは、さすがに言葉にできなかったけれど。 
 トラップの手が、唇が触れるたび、わたしの中で、確実に何かのたがが外れていった。 
 もっと……と、決して言葉にできない欲求が、頭の中をうずまいていった。 
 どれだけ時間が経ったのかわからない。気がつけば、わたしの太ももは何やらべたべたに汚れていて…… 
「あ……」 
「そろそろ……いいか?」 
「ん……」 
 囁かれた言葉に、曖昧に頷く。 
 いいかどうかなんてわからない。あなたに、全てをまかせる。 
 ぎゅっ、と首にまわした腕に力をこめると、トラップの手が、わたしの太ももを抱えあげた。 
 かなり辛い体勢だけど……それでも、いいと思った。 
 それで、トラップと一つになれるなら。 
 繋がったときの衝撃は、思ったよりも小さかった。 
  
「あっ……」 
 じんわり、と痛みが忍び寄ってきた。 
 激痛というのとは違う。じわじわと、後になって効いてくる、そんな痛み。 
「ああっ……」 
 ぎゅっ、と唇をかみしめる。 
 トラップにすがりついていなければ、きっとそのまま崩れ落ちていた。そんな気だるさと、妙な満足感が、身体を振るわせた。 
「やっ……」 
「……大丈夫か?」 
「え……?」 
「痛くねえか?」 
 気遣ってくれてるんだ、とわかった。 
 本当は痛かった。体勢的にわたしの体重がかかるから、余計に。 
 それでも、首を振ることができた。トラップに、心配かけたくなかったから。 
「大丈夫……」 
 そうつぶやくと、彼は静かに笑って、腰を揺らし始めた。 
「あっ……ひゃっ、ああっ……」 
 がくん、と首がのけぞった。 
 びりびりと電流のように走り抜ける快感に、全身の力が抜けた。 
「ああ、やあっ……あああああああっ!!」 
 もう、何も考えられない。 
 トラップ、あなたのことしかっ…… 
 彼の動きが止まるまで。わたしは、あえぎ声のような、悲鳴のような……自分でもよくわからない声を、漏らし続けていた。 
  
「もう……帰らなくちゃ」 
 全てが終わったその後で。服を直して時計を見ると、もう十時を過ぎていた。 
「ジョシュアが、心配するから……」 
「…………」 
 トラップは、じいっとわたしを見つめていた。その顔に浮かぶのは、満足そうな表情。そして…… 
 ……寂寥感……? 
 寂しそうだった。わたしを見つめる彼の目は、とても優しそうだったけれど。同時に、とても寂しそうだった。 
 ……どうして……トラップ……? 
「ねえ……」 
「パステル」 
 わたしの言葉を遮って、トラップは、強い口調で言った。 
「もっと、早くに会いたかった」 
「……え?」 
「おめえに、もっと早くに会いたかった。そうすりゃ、俺は……」 
「……トラップ……?」 
 何を言ってるんだろう、と思った。 
 トラップは、何を言ってるんだろう? これじゃあ、まるで…… 
「トラップ……?」 
 そっと手を伸ばしたけれど。彼は、その手を優しく振り払った。 
「早く帰った方がいいぜ」 
「…………」 
「待っててくれる奴が、いるんだろ?」 
「……うん……」 
 それは、その通りだった。きっと、ジョシュアは死ぬほど心配しているだろうから。 
 名残惜しかったけれど……仕方ない。 
 そっと立ち上がる。トラップは、それを黙って見つめていた。 
「ねえ……」 
「ん?」 
「明日も、また来るから」 
「…………」 
「また、会えるよね?」 
 そう言うと、トラップはゆっくりと微笑んだ。 
 今までだって優しい表情をしてくれたことはあったけれど。今日見たその笑顔は……今までで、一番暖かい笑顔だった。 
「パステル」 
「……え?」 
 ぐいっ、と腕をつかまれた。 
 あっ、と思ったときには、唇をふさがれていた。 
 そして。 
 ぱっ、とわたしの手を離すと、彼の姿は、入り口の外へと、消えていった。 
「……トラップ……?」 
 初めて、だった。 
 彼が屋上の外へ出るのを見たのは、初めてだった。 
「トラップ!?」 
 ひどく不吉な予感がした。慌ててその後を追ったけれど、もうどこにも、彼の姿は見えなかった。 
「トラップ……?」 
 明日も、また来るから。 
 また、会えるよね? 
 自分で言った台詞が、妙に空々しく周囲に響いたような気がした。 
  
 翌日の昼休み。 
 わたしは、震える足で、屋上の階段を上っていた。 
 まさか、と思う。 
 彼はいるに違いない。いないわけが、ない。 
 そう信じて、屋上のドアを開けたのに。 
 いつもいつもわたしを出迎えてくれた、あの明るい赤毛を見つけることは、できなかった。 
「……トラップ……」 
 自然と、涙が溢れてきた。 
 もう彼には会えないのだと、何となく悟ったから。 
「どうして……どうしてっ……?」 
 泣き声が風に乗って流れて行った。 
 答えてくれる人は、誰もいない。そのまま、わたしが一人でしゃくりあげていたときだった。 
 入り口の方から、足音が響いてきた。 
 ……あ? 
 微かな期待が忍び寄る。がちゃり、とドアノブが回る。 
「トラップ!!」 
 思わず名前を呼んでいた。けれど。 
 そこに現れた人影は、わたしが待ち望んでいた彼ではなかった。 
「あ……」 
「あなた、そこで何してるの?」 
「マリーナ先生……」 
 立っていたのは、前髪だけをピンクに染めた金髪がとてもチャーミングな、保健室のマリーナ先生。 
 美人でグラマーで、よく男子が騒いでいるけど。それもわかるなあって思わず頷いてしまうような、魅力的な先生。 
「あの、わたし……」 
「あなた、二年生よね?」 
「は、はい」 
 マリーナ先生は、強い目で、わたしを見据えていた。 
 今更、気づく。そういえば、屋上は立ち入り禁止なんだ、って。 
 ……怒られるっ…… 
 一瞬そう思ったけれど。先生は、何も言わなかった。 
 ただ、じっとわたしを見つめて。そして言った。 
「トラップ、って言った?」 
「……え?」 
「あなた、わたしが来たとき……トラップ、って言った?」 
「! は、はい!」 
 先生は……彼を、知ってる? 
 ああ、そうだ。ここの学校の生徒なら……あんなに目立つ彼の外見だもの。誰かが知ってても、おかしくない。 
 授業には全然出てないみたいだったから、クラスメートでも知らないかもしれないけど。でも、先生なら…… 
「マリーナ先生。彼は……トラップは、どこにいるんですか? どこに……行ったんですか?」 
「…………」 
「あ。ごめんなさい。わたし、二年A組のパステル・G・キングって言います。あの……」 
「……トラップは、もういないわよ」 
「え?」 
 マリーナ先生が、ゆっくりと歩み寄ってくる。 
 わたしの隣に立って、柵にもたれかかるようにして、先生は言った。 
「あいつは、もういないわ」 
「先生……?」 
「あなた……パステル? あなたは、どうして彼を知ってるの?」 
「は、はい。わたし、実は……」 
 直感的にわかった。 
 マリーナ先生は、多分わたしをとがめたりしない。立ち入り禁止の屋上に出入りしていたこと。そのきっかけが自殺を試みようとしたことだったということ。それを聞いても、怒ったりしないって。 
 そう確信したとき、わたしはしゃべっていた。この数ヶ月の間、わたしが経験したこと全てを。 
 ただ、その、さすがに……初体験だけは、端折ったけれど。 
「それで、わたしは……彼のことが、好きだと、そう告白するつもりで、夜に屋上に向かって。トラップも、わたしを好きだと言ってくれて。それなのに、彼は、『また会える?』って聞いても、答えてくれなかったんです。そのまま、屋上を出ていっちゃって……今日来てみたら、いなくって。先生、あいつは、どこに……」 
「パステル」 
 次の瞬間。 
 わたしは、何故か……マリーナ先生に、抱きしめられていた。 
「……せ、先生……?」 
「パステル、ありがとう」 
「……え?」 
「あいつの目を、覚まさせてくれて……ありがとう」 
「え……?」 
 ど、どういう……こと? 
 わたしがそうつぶやくと。マリーナ先生は、綺麗な目に涙をいっぱいに浮かべて、すっと柵の向こうを指差した。 
「あいつは……あそこにいるわ」 
「……え?」 
 くるり、と振り向く。だけど、先生の指の先にあるのは、空だけだった。 
 ……それって……? 
「パステル。どうして屋上が立ち入り禁止になっているのか、知ってる?」 
「……え?」 
 唐突な質問に、わたしは答えることができなかった。 
 どうしてそんな質問をされるのかもわからなかったし、答えも知らなかった。 
 屋上が立ち入り禁止な理由。普通に考えれば…… 
「危険だから、ですか?」 
「ええ。とても……とても危険な場所だったのよ。あなたが来るまでは」 
「……え?」 
「パステル。ここはね」 
 マリーナ先生は、ごくんと息を呑んで、言った。 
「十年前に……ここの屋上から、一人の生徒がとびおりたのよ」 
「……え……?」 
「その生徒は即死だった。誰も彼の自殺の正確な理由は知らなかったし、多分受験ノイローゼか何かだろうとして、処理されてしまった。……でも、それ以来、この校舎の屋上から飛び降りる生徒が続出したのよ。何故だかわからない。そのうち、かろうじて命を取り留めた生徒が言ったわ。『屋上に行ったら、ある一人の生徒に会った。彼と話しているうちに、何故かとびおりた方がいいような気がした』……その話を聞いて、即座に屋上は立ち入り禁止にされたわ」 
「せ、先生……」 
 その話を聞いて、わたしの胸をよぎったのは、まさか、という思い。 
 まさか……まさか……? 
「屋上には、自殺した生徒の幽霊が出る。彼に会った人は、彼と同じ場所へ連れていかれる……それが、立ち入り禁止の理由。だけど、パステル。あなたは彼を目覚めさせてくれた。そんな行為は間違っていると……生きているっていうのがどんなに素晴らしいことなのか、教えてあげてくれた」 
「先生っ!」 
 悲鳴のような声が漏れた。マリーナ先生は、わたしの視線をまっすぐに受け止めて、答えた。 
「トラップよ」 
「…………」 
「十年前にここからとびおりた生徒。それが、トラップなのよ。彼は、もう……死んでいるの」 
「…………」 
 ぐらり、と眩暈がした。 
 どうして。どうして…… 
 あのとき、彼が言いかけた言葉。 
『……本当は、おめえを……』 
 同じ場所に連れて行こうとした。そう言おうとしたのだろうか、彼は。 
 だけど、思いとどまった。わたしが、彼に教えてあげたから? 生きていて楽しいことがいっぱいあるって、そう言ったから? だから、彼は…… 
「わたしのせいなのよ」 
「え?」 
 不意につぶやかれた言葉に、振り返る。 
 マリーナ先生の頬をつたっているのは、涙。 
「わたしが、あいつを振ったから」 
「……マリーナ先生?」 
「トラップはね、わたしの幼馴染だったのよ」 
「……え?」 
 先生は、淡々と続けた。その目は、既にわたしを見ていない。 
「ずうっと小さい頃から友達だった。十年前のあのとき、あいつは……家のこととか、受験のこととか、色んなことにうまくいってなくて、ずうっとイライラしてて……そのとき、あいつに言われたのよ。『好きだ』って。でもね」 
 一度言葉を切ってから、先生は空を見上げた。まるで、トラップがそこにいるかのように。 
「でもね、わたしにはわかったわ。それは、あいつの本心じゃないって。あいつは、ただちょっと疲れていただけなのよ。そこに、たまたまわたしがいただけ。あいつは自分の気持ちを勘違いしていた。わたしがあいつのことを何でも知っていて、何でも話せる楽な相手だったから。それを好きっていう気持ちなんだって勘違いしていた。だから断ったの。『そんなつもりはない』って。わたしにも無かったし、トラップにも本当は無いんでしょう? って。そういうつもりだった」 
「…………」 
 それは、何だかわたしのことを聞いてるみたいだった。 
 クレイ先輩への憧れを、「好きだ」と勘違いしていたわたしのことのようだ、と。 
「その翌日、あいつは屋上からとびおりたわ。……ずっと後悔してたわよ。何で、わたしはもっとあいつの話をしっかり聞いてやらなかったんだろう、って。あいつのことが好きだった。恋愛感情じゃなかったけれど、幼馴染としては、大好きだったのに。わたしは、あいつを救ってやれなかった」 
 柵をつかむマリーナ先生の手が、震えていた。 
「だけど、きっとあいつも後悔してたんでしょうね。死んだことを。こんな場所に縛り付けられて、色んな人を巻き添えにして……でも、あいつはやっと目を覚ましてくれた。屋上の呪縛から逃れて……きっと、成仏できたんだと思う」 
 先生の視線を追って、空を見上げた。 
 トラップ。 
 あなたは……本当に、そこにいるの……? 
「先生……」 
「あなたのおかげよ、パステル」 
 マリーナ先生の言葉は、静かだった。 
「あなたが、あいつに本当の恋を教えてあげたから。生きる楽しさを教えてあげたから。それが、あいつの迷いと呪縛を断ち切ったのよ。……本当に。本当に……ありがとうっ……」 
「先生……」 
 お礼を言うのはわたしの方だった。 
 トラップに助けてもらった。いっぱいいっぱい、色んなことを教えてもらった。 
 いっぱいの経験と、素敵な思い出をくれた。何より…… 
 本当の恋の楽しさを、教えてもらった。 
「トラップ……」 
 あなたを好きになったことを……ううん、今でも好きなことを、決して後悔しない。 
 もっと早くに生まれて、もっと早くにあなたと出会いたかった。心から、そう思う。 
「トラップ!」 
 空に向かって叫んだ。その声が、彼に届くように祈って。 
「大好きだから……あなたのこと、大好きだから! ずっと、ずーっと……忘れないから!」 
 風が、すうっとわたしの髪を撫でて通り過ぎた。 
 溢れ出した涙をさらっていったその風は、まるで、トラップの手のようだった。 
 

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